2017年4月14日 (金)

復活の意義 Ⅰコリント15:12-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.16

 コリントの教会はキリストの十字架の贖いを受けて救われていました。しかし、キリストの復活は信じていませんでした。コリントはギリシャ哲学の影響を受けていたので、魂は肉体の牢獄の中に閉じ込められていると考えていたのでしょう。「死んだら魂が自由になるのに、なぜ、再び肉体に閉じ込められるのか、そんなのはナンセンスだ」と復活を否定していました。今日の私たちはキリストによる十字架の贖いと復活の両方を信じていると思います。でも、人はキリストの十字架の贖いを受けて救われるのに、なぜ、さらに復活が必要なのかということをお考えになったことがあるでしょうか?きょうは「復活の意義」と題して恵みを分かち合いたいと思います。

1.証拠としての復活

 私は数年前まで、キリストの十字架と復活を信じることが、救いのワンセットだと考えていました。つまり、キリストの死だけでは罪の赦ししか与えられず、プラスマイナス・ゼロの地点だと思っていました。そして、キリストの復活は私たちを義としてくださるためにあり、プラス地点に引き上げてくださるみわざだと考えていました。その根拠となるみことばは、ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」このまま読むと、「主イエス様は私たちの罪のために死に渡された」、つまり罪の赦しであるように思えます。また、「私たちが義と認められるために、よみがえらされた」と考えてしまいます。それでは、罪の赦しと義とされることが、レベル的に違うことになります。でも、そうではありません。罪の赦しと義とされることは、同じことであって、表現が違うだけなのです。でも、なぜそのように間違った解釈をしてしまうのでしょうか?それは、復活が、人が義とされる目的のためであると考えるからです。つまり、主が復活されたことによって、私たちが義とされるという考えです。しかし、それは全く違っています。本当は私たちが義とされたので、主が復活されたのです。つまり、主イエスの復活が、私たちの義認の証拠であるということです。主イエスが神の義の要求を満たされたので、神さまが彼を復活させられたのです。さきほどのローマ425英語の詳訳聖書聖書をみますとこうなります。He was raised to secure our justificationとなっています。直訳すると、「彼は私たちの義認の保証になるためによみがえらされた」となります。つまり、私たちがキリストの復活を知るとき、「神さまはキリストの十字架で満足された。私たちはこれで義とされ、救われている」と安心することができるのです。

 それではⅠコリント15章からもう一度、そのことを考えてみたいと思います。Ⅰコリント154「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」とあります。キリストは私たちの罪のために死なれたのです。アーメンです。でも、同じ章の14節と17節を見てみましょう1514「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」1517「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」14節には「復活がなければ信仰も実質のないものになる」と書かれています。17節には「信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」と書かれています。「実質のないもの」と「むなしく」は英語の聖書では両方ともemptyです。Emptyは「空虚な、無意味な、むなしい」という意味です。使徒パウロは、「キリストが復活しなかったなら、キリスト教信仰は無意味だ」と言っているのです。でも、今日の教会が、クリスチャンが、そこまで復活を重要視しているでしょうか?おそらく、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」で救いを得られると考えていると思います。伝道のときも、「キリストが私の罪のために死なれたことを信じます。アーメン」と告白してもらうでしょう。そのとき、「あなたはキリストの復活も信じなければダメですよ」とは言わないでしょう。なぜ、使徒パウロはキリストの復活にこだわったのでしょうか?テモテにも「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」(Ⅱテモテ28と勧めています。「十字架で死なれたイエス・キリストをいつも思っていなさい」とは勧めていません。なぜでしょう?なぜ、キリストの復活がそれほど重要なのでしょうか?

 昨年のイースターでも引用させていただきましたが、ウォッチマンニー著の『神の福音』という本があります。その第一巻に「十字架と復活」について書かれていました。一般的に、教会は「あなたがキリストを十字架につけたのです」と言います。それを聞いた人は「ああ、そうだったんだ。私の罪のためにキリストが十字架で死なれたのですね」と信じるでしょう。しかし、それは全く違っていて、私たちがキリストの十字架の贖いには全く参与していないということです。キリストが十字架で罪を負って裁かれたので、神さまの義に対する要求が満たされました。次に、神さまはキリストを信じる者を義とすることをお決めになられました。ですから、私たちはこのキリストを信じるとき義とされるのです。信じた人は「キリストは、私の罪のために死なれました」と言うでしょう。でも、「本当にキリストを信じて義とされるのか?神さまは私をそのようにご覧になっておられるか」という不安は残らないでしょうか?もしかしたら、死んだ後、神さまの前に立ったとき「実は、イエスを信じるだけでは十分ではなく、良いことをしなければならなかったのです。この罪の償いはまだ残っています」と言われたらどうするでしょう?もしかしたら、天国の入口までは行けたけど、地獄に突き落とされるかもしれません。ジョン・バニヤンの本に天国の入口のすぐ脇に、地獄の入口があった」と書かれています。もし、そういう心配をして暮らしているなら、コリントの教会のように「あなたがたの信仰はむなしく、今もなお自分の罪の中にいる」ことになります。でも、そうじゃありません。復活は神さまがあなたを義と認めたことの証拠であります。何かの負債のために、お金を支払った場合、受領書をいただきます。キリストは私たちの罪の代価を全部支払って下さいました。キリストを信じるあなたは義とされるのです。だから、神さまはキリストをよみがえらせて、受領書を発行したのです。復活は、私たちへの神の受領書です。それは、その支払が十分であると認めるものです。あなたは今、ポケットに受領書を持っています。これから先、あなたが罪を犯したとしても、受領書を持っていれば安心です。キリストの贖いは十分であったので、裁かれる必要はないのです。だから、パウロはテモテに「死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」と言ったのです。イースターの日は、特別にそのことを覚える日であります。あなたはキリストを信じたことにより罪赦され義と認められているのです。そのために、神さまはキリストを復活させられたのです。アーメン。

2.初穂としての復活

Ⅰコリント1519-20「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」世の中の人たちは、私たちは単なる希望を置いているだけと思っているかもしれません。しかし、キリスト教会の中にも、そういう人たちがいない訳でもありません。なぜなら、「キリスト教信仰とは精神的なものであり、心の支えだ」と思っているからです。つまり、その人にとっては救いかもしれないけど、他の人にとってはそうではないということです。そうなるとキリスト教信仰はきわめて個人的なものであり、主観的なものになります。確かに信仰というのは、そういう面があるかもしれません。でも、私たちが信じていることが虚構であり、事実とはかけはなれたものであるならどうでしょう?そうなると「私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」と言われても仕方がないでしょう。新改訳聖書では「今や」となっていますが、口語訳とリビングバイブル、英語の詳訳聖書は「しかし、事実、キリストは」となっています。どうして「事実」と書いているのでしょう?英国の聖書は「真実は」と訳しています。J.B.フィリップスはBut the glorious fact「しかし、栄光ある事実は」と訳しています。おそらく「事実」と言いたいのは、証言者があまりにも多かったからだと思います。155節に以降には、キリストの復活を見た人の名前や数が上げられています。普通、証言は2人もしくは3人で十分でした。ところが、ケパ、12弟子、500人、ヤコブ、使徒たち全部、最後にこの書物を書いたパウロであります。ということは復活は紛れもない事実であって、否定しようがないからです。つまり、私たちキリスト教信仰は、作り話や虚構ではなく、キリストが復活したという事実の上に立っているということなのです。

しかも、パウロはこのところで「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言っています。聖書では肉体が死ぬことを「眠る」と言います。私たちの魂は死んでも眠りません。ルカ16章にありますが、金持ちと貧乏人ラザロには死んでからも記憶があったことが分かります。死ぬ、つまり「肉体が眠る」ということは、いつかは目覚めるという前提があるからではないでしょうか?パウロはこのところで、「死者の復活はある」と主張しています。おそらく、パウロは旧約聖書から「死者の復活はある」ということを知っており、それが信仰の標準であると確信していたのでしょう。ところが、コリント教会の人たちは、ギリシャ哲学の影響を受けており、「死者は復活しない、肉体は一度死んだら生き返ることはない」と信じていたのです。つまり、死者の復活はキリストとは関係なく、昔から議論されていたということです。日本人は西洋の教育を受けているため、人間は死んだら消えてなくなると考えています。それは人間を生物的な物質として捉えているからです。しかし、日本人はアニミズムの国、神道の国なので、死んだ魂はどこかに行くんだと本能的に信じています。だから、人が死んだら「他界した」と言って、どこかで生きていると信じています。聖書は死んだ人の魂と死んだ人の肉体の両方を語っています。イエス様はヨハネ5章でこのように教えられました。ヨハネ528-29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」イエス様は善人も悪人もみんなよみがえると言われました。問題は、よみがえった後にいのちを得るか、さばきを受けるかの違いだということです。つまり、肉体的には一度よみがえるけれど、魂がいのちを得るか、さばきを受けるかどちらかだということです。できれば、私たちはさばきではなく、永遠のいのちを受ける方のよみがえりを得たいものです。

 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とありますが、これは正確に言うなら、クリスチャンとかクリスチャンでないとか関係ありません。キリストは眠った者、つまり肉体的に死んだ人の初穂として、死者の中からよみがえられたのです。つまり、死んだあと復活があるということが証明されたということです。コリント教会の人たちは「これはえらいことになった」と驚いたのではないでしょうか?なぜなら、ギリシャ哲学では、「肉体は悪なので、悪いことをしても魂には何の影響もない」と考えていたからです。そうではなく、肉体のことも責任があるからです。パウロは1521節からこの章の終わりまで、復活のからだがどのようなものなのか克明に記しています。これを1つ1つ解説したなら午後3時くらいまでかかるでしょう。あと10分で終わるためには、短くまとめる必要があります。パウロは「キリストにあって眠った者たち」(18節)と言っているので、キリストによって義とされ、救われている人たちの将来を言っています。簡単に言うと、この肉体では永遠の世界では生きられないということです。なぜなら、この肉体は地上のためであり、朽ちて死んでしまうからです。しかし、神さまは永遠の御国で暮らせるように、栄光の体を用意しておられます。栄光の体というのは、すなわち復活したキリストのからだです。キリストは朽ちない栄光のからだに復活したのです。そのキリストが初穂として死者の中からよみがえられました。ということは、キリストにある私たちも、キリストのようによみがえらされるということです。初穂というのは、一番、最初に熟した麦のことです。広い畑から初穂が熟したということは、その後、どんどん熟していくという保証になります。つまり、キリストの復活は私たちもいずれ復活するということの、保証なのです。キリストが復活したので、私たちも同じように復活するということです。だから、私たちが抱いている希望は単なる希望ではなく、事実に基づいた希望なのです。世の人たちには、このような希望がありません。だから、死を恐れ、死のことは隠しておきたいのです。その証拠に病院に行くと4のつく部屋はありません。昔、ある病院に行ったら、4階がありませんでした。3階のあと、5階になっていました。「そこまでやる必要はないのになー」と思いました。なぜなら、病院は必ずしも治るために入ることころではないからです。半数以上の人は病院で死ぬからです。だから、私たちは生きているうちにキリストを信じて、死の問題を解決しておく必要があります。イエス様はヨハネ11章でこのように言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ1125-26

3.勝利としての復活

 なぜ、復活が必要なのでしょう?キリスト教は魂の救いだけを言っていません。肉体の救いのことも言っています。言い換えると私たちの肉体が贖われることによって救いが完成するからです。私たちクリスチャンは「私は救われた、救われている」と言います。でも、それは「罪赦され、義とされている」「永遠のいのちが与えられている」という意味の救いです。しかし、私たちは、この肉体を幕屋にして暮らしているので、いろいろ問題が起こります。私たちの内なる人は日々新しいのですが、外なる人は衰えていきます(Ⅱコリント416)。だけど皆さん、私たちの本体は内なる人、魂です。外なる人である肉体は入れ物です。残念ながら、この世の人たちは、肉体のことしか考えていません。いろんな運動、サプリメント、化粧品、アンチ・エージング、いろいろ頑張っています。もちろん私たちも肉体をちゃんと管理し、健康に保つ必要があります。でも、この肉体は衰え、やがては死んでしまうのです。なぜなら、この肉体は地上のものであるからです。でも、神さまは私たちが天の御国で住める栄光のからだを用意しておられます。完全な救いとは何でしょう?それはこの肉体が贖われるとき、つまり栄光のからだに復活して、新しい天と新しい地において暮らす時であります。そこが私たちのゴールなのです。ハレルヤ!途中いろんなことがあるかもしれませんが、私たちのゴールはハッピー・エンドなのです。

 パウロがとても感動して述べています。Ⅰコリント1554-57「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」パウロはまるで死に人格があるように呼びかけています。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」このところから分かることは、死は仲間ではなく、死は敵であるということです。おそらく仏教では死をそのように捉えていないでしょう。死はだれにでも来るものであり、避けがたいもの、諦めるべきものとして捉えているのではないでしょうか?でも、死が初めからあったわけではありません。人類に死が入ったのは、アダムが罪を犯してしまったからです。本来、人間は神のかたちに造られ、永遠に生きるべき存在でした。ところが、食べてはならない木から取って食べたために、人は死ぬようになりました。アダムがすぐ死んだかというとそうではありません。霊的に死んだあと、肉体が900年も生きました。930歳まで生きました。でも、死にました。私たちは長いと思うかもしれませんけど、永遠に比べたら短い年数です。Ⅰコリント1521-22「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」アーメン。私たちキリストにある者です。私たちが復活するとき、このみことばが成就するのです。そして、そのとき死が完全に滅ぼされるのです。ですから、本当の勝利というのは、復活が起こり、死が滅ぼされる時なのです。その時、私たちの肉体は贖われ、完全に救われるのです。聖書はその実現を待っているのです。ハレルヤ!

私たちはどのような死生観を持っているでしょうか?「人間は死だらおしまいだ」という死生観でしょうか?それとも、「死は終わりではない、復活があり、勝利がある」という死生観でしょうか?実はそういう死生観を持っている人は、地上の生き方が世の人とは違ってきます。「希望はある」「報いはある」という人生で生きています。パウロは私たちをこのように励ましています。Ⅰコリント1558「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」アーメン。私たちの信仰は死んで天国に行くだけの信仰ではありません。私たちの信仰はまだ完成はされていませんが、地上に住んでいる時から効力を発しています。簡単に言うと、この地上の生活が、永遠の生活につながっているということを実体験するということです。そのために「しかし、事実、キリストは死人の中からよみがえった」となるのです。つまり、その人は死ぬべき肉体のまとっていながらも、復活を生きているということです。復活は死後にいただくものではありますが、同時に、今、復活の命をいただいているということも本当です。だから、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」とおっしゃったのです。キリストを信じる者には、聖霊によって復活のいのちが与えられていると信じます。だから、私たちは死にそうで死なない、倒れそうで倒れないのです。たとえ、病にかかるときがあっても、復活のいのちが内側から現れてくるのです。パウロは「この宝を土の器の中に入れている」と言いました。この測り知れない力というのは、私たちたちから出たものではなく、イエス様のいのちなのです。イエス様のいのちは、私たちが死に近くなればなるほど、内側から現れてくるのです。あなたも、私にも、キリストの復活のいのちが与えられています。

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2016年3月25日 (金)

キリストの復活 ローマ4:19-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.3.27

 聖書には「キリストは私たちの罪のために死なれた」と書いてあります。つまり、イエス様が十字架で罪の贖いを成し遂げてくださったのです。このお方を救い主をして信じるときに人は救われます。しかし、イエス様は十字架で死んだだけではなく、三日後に復活しました。復活は何のためにあるのでしょうか?私たちは十字架の贖いだけではなく、キリストの復活も信じなければならないのでしょうか?以前の私もそうでしたが、「キリストの復活が何のためにあるのかわからない」というクリスチャンがおられるのではないでしょうか?きょうは、「キリストの復活」と題してイースターのメッセージをお届けしたいと思います。

1.復活の意味

 先週、私たち人間ではなく、父なる神が御子イエスを十字架に付けたということを学びました。罪の贖いに関しては、私たち人間が参与する余地は全くありません。神ご自身がご自分の義を満たすために、御子イエスに罪を負わせて罰したのです。御子イエスは、人類を救うために自ら十字架に付かれ、死んで罪の代価を支払われました。御子イエスによって成し遂げられた贖いを信じる人が、「ああ、キリストは私の罪のために死なれたんだ。私の罪の身代わりだったんだ」と言うことができるのです。ここで1つ問題が生じてきます。十字架で罪を負って死なれたキリストを信じるだけで救われるとするなら、どうしてキリストの復活が必要なのでしょうか?「イエス様が私の罪のために十字架で死んでくださったことを信じます。アーメン」。それで良いのではないでしょうか?復活に関して、2つの問題が残ります。第一は、なぜ、父なる神さまは御子イエスを死人の中からよみがえらせる必要があったのでしょう。「私たちの罪を贖うために死んでくださった、それだけで十分じゃないでしょうか?」と言うことです。第二は、「私たちはキリストの十字架の贖いを信じるだけでは足りないのか?キリストの復活も信じなければ救われないのだろうか」ということです。

聖書にこのことを証明しているみことばがあります。ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」でも、このまま日本語の聖書を読むと、罪のために死なれたイエス様を信じるのは救いの半分で、よみがえられたイエス様を信じて完全に救われるような感じがします。つまり、十字架の死は私たちの罪の赦しのためであり、復活は私たちが義とされるためなのでしょうか?私は昨年のイースターまで、罪の赦しと義とは高さ的に異なると考えていました。十字架の死は罪の赦しのためであり、プラスマイナスゼロの段階です。キリストが復活されたとは、神の義が与えられること、プラスプラスの段階であると理解していました。そうなると、十字架の死だけでは救いの半分で、復活があって完全な救いとなるのでしょうか?しかし、昨年のイースターでも同じことをお話ししましたが、ローマ425はそのような意味ではないと分かりました。英語の詳訳聖書を直訳しますと、「キリストがよみがえらされたのは、私たちの義認が保障されるためである」となっています。F.Fブルースという聖書学者は、この2つの文節を義足のように分けて訳してはならないと言っています。For「ために」という前置詞は「…のおかげで」と訳すべきだと言っています。これら2つの出来事は分けることができません。復活は罪の贖いと無関係だと考えたり、またキリストの死は義認と無関係だと考えてはならないということです。F.Fブルースは結論的に「キリストは彼の人々の罪を贖うために死に渡され、彼らの義任の保障となるためによみがえらされた」と解説しています。彼の本にはguarantee、「債務履行の保障」という意味の言葉が用いられています。あとで詳しく話しますが、復活というのは「あなたの罪の贖いは完了している」という証書のようなものだということです。

その前に、私たちが知らなければならないことがあります。私たちは「イエス様は死からよみがえられた」と言いますが、本当は「よみがえらされた」のです。英語の聖書でははっきり、He is risenと受身形に書かれています。では、だれがイエス様をよみがえらせたのでしょうか?もちろん、父なる神さまです。私たちは「ああ、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださったんだ。ありがたい」と手を合わせるかもしれません。実際に、ほとんどの宗教の教祖は死んでおり、人々は死んだ教祖たちを拝んでいます。釈迦、孔子、マホメット、日蓮上人、徳川家康、その他の教祖たちは、みんな死にました。でも、キリストだけが死からよみがえりました。ペテロは使徒の働き2章でキリストの復活をこのように説明しています。使徒224「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」文脈から考えますと、「キリストには罪がない。聖者なので、墓の中で朽ち果てることはない」ということです。確かにイエス様は罪を負って十字架で死なれました。しかし、その直前「すべてが完了した」と叫ばれました。それは、ご自分の死によって罪の代価を全部支払われたという意味です。その後、イエス様は陰府に落とされ、足かけ3日、陰府にいたことになります。そして、父なる神さまは十字架の贖いを成し遂げた御子イエスをよみがえらせました。なんだか、神さまの自作自演みたいな感じがします。「何だよ、初めからよみがえらせるつもりだったのか」と反発したくなります。しかし、そうではありません。確かにイエス様は罪における死の苦しみを味わい、神さまから捨てられ地獄に叩き落とされました。イエス様は罪に定められ殺されて、神としての誇りを失いました。では、父なる神さまがどうして、御子イエス様を死からよみがえらせたのでしょう?死や墓は、罪ある人が行くところです。しかし、キリストには罪がなったので、墓の中で朽ち果てることはなかったのです。父なる神さまは、聖者キリストを、死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。でも、それだけではありません。父なる神さまは大切なことを示すためにキリストをよみがえらせたのです。復活の意味はわかりましたが、なぜ、復活がなければならないのでしょうか?パウロはこのように言っています。Ⅰコリント1514「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」

2.復活の意義

キリストの復活は何のためだったのでしょう?復活の意義について考えたいと思います。まず、ウォッチマンニーの『神の福音』から引用したいと思います。私たちは「イエスが十字架の上で死なれ、贖いのみわざを成就された」と言うことができます。しかし、神がそのようなみわざに満足しておられたことをどのように知ることができるでしょうか?主の復活は、主イエスのみわざと死に対する、神の“OK”のサインです。これは、この死が今よしとされており、人の罪の問題が解決されているという意味です。もし主が復活されなかったとしたら、たとえ贖いが成就されたとしても、私たちの心には疑いや心配があるでしょう。私たちは自分の罪から完全に贖われていることを、いつ認識するのでしょうか?それは、主イエスが復活されたのを見るときです。復活は、十字架のみわざが神によってよしとされ、受け入れられたことの証拠です。あまり良いたとえではありませんが、私がある人から多額の借金をして、全く返すことができないとします。私の貸主は蘇州にいて、私は上海にいます。一人の兄弟が貸主と大変親しく、私のために借金を免除してくれるように頼んでくると言いました。彼は蘇州にいる貸主の所に行って、ウォッチマンニーの大変さを語り、借金を帳消しにしてもらえないか頼みました。貸主は「あなたに免じて、忘れましょう。もう、返さなくてもいいです。この約束手形を彼に返してください」と言いました。貸主は続けて言いました。「私たちはお互いに何年も会っていませんね。あなたはこの蘇州にいるのだから、虎邱や寒山寺にでも旅行に行くと良いですよ。まずは、2,3日ここに泊まっていきませんか」と言いました。仮にこの兄弟が510日に蘇州に行って、その日に仕事を終えたとします。ところが彼は520日になっても上海に戻ってきません。彼は蘇州でごちそうにあずかっているのですが、私は上海でやきもきしています。彼は何か問題があったために戻って来ないのだろうか?あるいは仕事が解決していないのかもしれません。もう、10日もたっています。私は依然として、自分を負債者であると考えており、心は落ち着きません。いつ問題は処理されるのでしょうか?彼が上海に戻ってきて、はじめてその問題が解決されたことを知るのです。これが主イエスの復活です。彼は私たちのために死なれた時、罪の問題を解決されました。ところが、もし彼が死人の中から復活されなかったなら、もし彼が戻って来られなかったなら、私たちの心は不安なままです。彼は復活されなければなりません。そうしてこそ、私たちはみわざが成し遂げられたことを知るでしょう。神に感謝します。キリストの復活は、私たちの罪が完全に解決されていることを証明します。

 ウォッチマンニーは「自分が借金を免除された例話はあまり良くないかもしれない」と言っています。でも、その例話は復活をとても明快に説明しています。十字架の贖いで私たちの罪は完全にあがなわれました。私たちはイエス・キリストを信じると罪赦され、神からの義をいただくことができるのです。でも、私たちが本当に罪赦され、義と認められているのかどうしてわかるでしょうか?ひょっとしたら私たちが死んだのち、神さまの前に立って、「十字架の贖いだけじゃ足りなかったんだ」と言われるかもしれません。死後、良い行いとか、罪の悔い改め、あるいは償いが必要だったと言われたらどうするでしょう。本当にキリストの贖いを信じるだけで救われるのでしょうか?安心してください。そのために、父なる神さまは御子イエスを死からよみがえらせたのです。父なる神さまはキリストをよみがえらせることによって、「キリストの贖いは十分であり、あなたは義とされている」ということを証明されたのです。ですから、さきほど引用したローマ425をウォッチマンニー風に訳すとこうなります。「主イエスは、私の罪のために死に渡されました。赦しの事実は主イエスの死にあります。そして、主イエスの復活は、私たちが罪から贖われたことを知らせくれます。赦しの確信は主イエスの復活にあります。」アーメン。復活はたとえていうならば、神さまが下さった受領書であります。もう一度、まとめてお話ししたいと思います。父なる神さまが、私たちに代わって代価を払ってくださいました。ご自分の御子に罪を負わせ、裁かれました。それは私たちが頼んだわけではなく、神さまが罪に対する怒りを取り除くためであり、ご自分の義を満足させるためです。罪の贖いは父なる神さまと御子イエスだけのことであり、私たちが関与するところは全くありません。信仰による義ということが、ローマ3章に書かれています。キリストを信じた者に神の義が与えられ救われるということです。「でも、十字架における贖いが完全であり、本当に罪赦され、義とされるのだろうか?」という疑問が残ります。神さまは「大丈夫、キリストの贖いは十分であり、信じる者は義とされる」と言うことを示したかったのであります。そのために、神さまは死者の中からキリストをよみがえらせました。そのことは、私たちが信仰によって義とされ、救われることの保障であります。言い換えると、復活は受領書であります。私たちはこの受領書を握って入れば、神さまの前に立ったときも、全く恐れることはありません。復活によって、キリストの贖いが完全であることが分かっているからです。

3.復活の信仰

もう1つ問題が残っています。私たちはキリストの十字架を信じ、同時にまた、復活を信じなければならないのでしょうか?驚くべきことに、聖書に「キリストの十字架があなたの罪であると信じなさい」と命じている箇所は1つもありません。もちろん、聖書には「私たちの罪のためにです」と信じた人の証言はたくさんあります。「キリストは私たちの罪のために死なれた」というのは、信じた人たちが告白することばです。それに比べて、「あなたはキリストの復活を信じなさい」という表現は何か所もあります。ローマ109「 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」パウロはイエスを主と告白し、復活を信じるなら救われると言っています。Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロはテモテに対して、「十字架で死なれたイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とは言っていません。パウロが「私の福音」と言っているのは、死者の中からよみがえったイエス・キリストことであります。

使徒の働きを見るとわかりますが、弟子たちはキリストの十字架の死よりも、キリストの復活を宣べ伝えました。これはペテロが異邦人コルネリオに語ったことばです。使徒10:39-43「私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。…イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」ペテロはユダヤ人たちがイエス様を木にかけて殺したと言っています。異邦人のコルネリオが殺したとは言っていません。ペテロは客観的に言っているのは、神がキリストによって十字架の贖いをなされたからです。ペテロは、「しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました」と言っています。これはキリストが罪の贖いを完成したので、神さまが彼を復活させたという意味です。さらに、ペテロは「私たちはキリストの復活の証人である」と言っています。ペテロは「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」と言いました。なんと、ペテロが「信じなさい」と招いていないのに、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになりました。ペテロのメッセージはまだ途中だったのですが、人々が救われました。おそらく、コルネリオたちは、「神がキリストをよみがえらせたのだったら、信じても大丈夫だ。私たちはきっと救われる」と確信したのに違いありません。だめ押しをするかのように、彼らの上に聖霊が下りました。

ウォッチマンニーの本に、このような逸話が載っていました。ある宗派の会員で、38年間長老であり、信じてすでに50年、あるいは60年にもなる人に会ったことがあります。私は彼が主イエスを信じているかどうか尋ねると、彼は「信じます」と言いました。ところが、自分の罪が赦されたことを知っているかどうかと問うと、「はっきりしない」と言いました。そこで、イエスはあなたの救い主ですか、と問うと、「そうです」と答えました。救われたかどうか尋ねると、「わからない」と言いました。私は、主イエスが私たちの罪のために、十字架上で裁かれたことを信じるかと尋ねると、彼はすぐに「もちろん信じる。聖書がそう言っているだけではなく、私たちの詩歌もそう言っている」と答えました。私は彼に、罪から清められたかどうか、尋ねました。すると彼は、「主の十字架が自分の罪のためであることを信じるが、自分の罪が洗い去られたとはあえて言えない」と言いました。私は彼がはっきりしないのを責めることはできません。主が十字架上で死なれたことは本当です。しかし人はどのようにして、この十字架の価値を知るのでしょうか?罪の解決は十字架上で起りましたが、私たちをはっきりさせるのは復活です。主イエスを受け入れるだけで十分であるか、私に尋ねるなら、私は二句の言葉で答えましょう。私が救われているのは主の死のゆえです。しかし、私が救われていると知るのは、主の復活のゆえです。御子は十字架の上で、私たちのすべての罪の負債を支払われました。そして、御子の復活を通して、罪の負債が完全に清算されていることを、彼は私たちに知らされたのです。私たちは負債が完全に清算したことを知るのは、私が受領書を持っているからです。主は私たちに証拠と受領書を下さいました。復活はその金額を完全に支払ったという貸主である神さまからの受領書です。

もし、キリストの十字架の死しか語らなければ、それは完全な福音ではありません。その人は信じて救いを受けるかもしれません。でも、復活まで語らないと、本当に救われているのか確信が持てないでしょう?「私たちの罪のためにキリストが死なれ、私たちに保障を与えるためによみがえられた」いうことが福音なのであります。「信じた者は、罪をさばかれることはなく、罪赦され、義とされている」という受領書付きの福音であります。あなたは、受領書付きの福音を信じていらっしゃるでしょうか?パウロはテモテに言いました。Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」アーメン。年に一度、イースターの時だけ復活を信じるのではありません。だから私は、宗教的な教会行事は好きではありません。「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とはどういう意味でしょうか?一年、365日、いつも思っているということです。ある人たちはキリストの復活は、私たちが死んだあとキリストのように栄光のからだが与えられる保障なんだと言います。確かにそうですが、それは死後、御国の完成時であります。復活は私たちの死後のためにだけあるのではありません。なぜ、パウロが「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言ったのでしょう?第一に「キリストの贖いは完全であり、あなたの罪が赦され義とされているよ。あなたはもう罪の中にはいないよ」ということを理解するためです。第二は何でしょう?復活の信仰が日々の生活で役に立つのでしょうか?Ⅱコリント4:11 「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」いのちとはもちろん復活のいのちです。パウロが四方から苦しめられて、窮することはないのは、キリストの復活のいのちを持っているからです。死にそうで死なない、倒れても滅びないのはそのためです。ローマ811 「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」このことは、パウロが死んでからのことを言っているのではありません。この地上で死ぬべき体を持っている私たちが、逆転勝利できるというということです。キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方(神さま)が、御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。そうです。日々、現実の真ん中で、私たちのからだに復活のいのちが与えられるということです。だから、私たちは死にそうで死なない、倒れても滅びないのです。

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2012年4月 8日 (日)

復活の必然性     イザヤ53:10-12 

先週は受難週のメッセージで、イザヤ書53章の前半を引用しました。きょうはイザヤ書53章の後半からイースター、復活祭のメッセージを取り次ぎたいと思います。普通は福音書から、復活の朝の出来事をお話ししますが、旧訳聖書から語るのは初めてです。さきほどの、イザヤ531012を読んでみて、気づかれたでしょうか?苦難の僕が死んだままなら、ありえないことがいくつか書かれていました。たとえば、10節に「彼は末長く、子孫を見ることができる」とありました。また、12節には「彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる」と書いてありました。もし、死んだままなら、そういうことは不可能です。しかし、苦難の僕がよみがえったならば、それらのことが可能であります。イエス様もルカ21章で「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」と言われました。栄光とは復活であり、報いであります。

1.十字架の意義

 意義には、意味よりももっと深いものがあります。ふさわしい価値、値打ちみたいなものが含まれています。イエス様は何のために十字架にかかられたのでしょうか? 10節「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら…」。そして、11節後半「彼らの咎を彼がになう」。さらに、12節後半「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのとりなしをする」とあります。ここには、イエス様が十字架で死なれた、理由が記されています。第一に「罪過のためのいけにえ」とは、レビ記にあります。人が罪を犯した場合、きよい動物を祭司の前に持ってきます。祭司は動物をほふり、血を祭壇に注ぎます。いのちである血によってでしか、罪は贖われないからです。第二は「咎をになう」あるいは「罪を負う」と書いています。これもレビ記にありますが、罪を犯した人は、きよい動物の頭の上に手を置きます。手を置くという行為は、私の罪をこの動物の上に置きますという意味と、これは私の身代わりですという2重の意味があります。差し出された動物を祭司はほふった後、血を注ぎます。まさしく、イエス様は私たちの罪を負い、神さまから打たれ、命を失ったのです。正確に言うなら、イエス様ご自身が、命をささげたのであります。レビ記1章から9章まで、いろいろな犠牲が記されています。共通して言えることは、人に罪があるならば、神さまに近づくことはできません。きよい動物が殺され、血を流すことによって、人の罪が取り除かれます。そのことによって、初めて神さまに近づき、神さまを礼拝することが可能になるのです。キリストの十字架は、私たちの罪過のいけにえでした。キリストは十字架で、私たちの咎・罪を負ってくださり、神さまとの交わりを可能にしてくださったのです。

 しかし、日本人には罪の概念がありません。そのために、十字架の意味もわかりません。たとえば、「人さまに迷惑をかけてはいけない」とよく言われます。逆に言うならば、人に迷惑をかけなければ、何をしても良いことになります。そうなると、人が見ているところでは正しくふるまいますが、人が見ていないとタガがゆるむことがあります。今、幼児虐待とかドメステック・バイオレンスというのが急増しています。性的な罪、薬物中毒、詐欺事件も増えています。「我が子だから何をしても良い」「自分の体だから何をしても良い」「バレなければ良い」と思っています。裁判でも、明らかに罪を犯していているのに「私はやっていません」と無罪を主張します。確かに冤罪もあると思いますが、「そこまで、よくシラを切れるなー」と思うこともあります。日本人は、罪というものは人間との問題だと思っているからではないでしょうか?しかし、そうではありません。罪を犯すということは、神さまの御前で罪を犯していることなのです。それは、私たちを造り、私たち愛しておられる神様に背いていることになるのです。犯した罪に対しては何らかの刑罰、何らかの償いが求められますが、人だけの問題ではありません。神さまに対しても責任があるということです。だから、旧訳聖書では、罪を犯した人はきよい動物を身代わりにささげたのです。大体、「人」という漢字が問題です。金八先生が「人という字は人と人が支え合ってできている」と教えました。新渡戸稲造が最初に、「人、二人説」を提唱した人物だそうです。しかし、漢字学者によると、「人という漢字は人が一人で立っているところを横から見た姿を描いているという」ことです。それはともかく、ギリシャ語で人間はアンソーロポスと言います。これは、「上をあおぎ見て歩く」「神さまを礼拝する」という意味があるそうです。つまり、「人さまに迷惑をかけてはいけない」では、不十分で、「神さまをあおいで生活する」ということが重要なのです。また、罪を犯すということは、人との問題ではなく、何よりも、神さまとの問題だということです。

もし、私たちが神さまを恐れて生活するならば、どうなるでしょう?「結構、きゅうくつだろうなー」と思うかもしれません。クリスチャンでも、「日曜日の10時半から12時までの時間にしてもらいたい。月曜日から土曜日までは、自由にさせていただきたい」と思うのではないでしょうか?私もパソコンを毎日のように動かしています。テキストを作るとき、画像をインターネットから取り入れたりします。そのとき、ピャーっと、エッチな画像が入ってきたりします。「ラッキー」と思って、いろいろクリックするとはまってしまいます。100%大丈夫か、というとそうではありませんが、できるだけ「肉」には栄養を与えないようにしています。これは、エディ・レオ先生から教えられたことです。多くの場合、そういうものを見続けると、肉が太ります。そして、聖書を読まないで祈りもしないと、霊が非常に弱くなります。もし、目の前に誘惑が来たなら、どうなるでしょう?やせ細った霊が「やめなさい!」と忠告します。しかし、横綱のように太った肉が「これくらいなら大丈夫!」と体当たりしてきます。そうなったら、誘惑に負けてしまいます。ですから、普段から、肉にはエサを与えないで、霊を丈夫にするように工夫しなければなりません。そのためには、「私は神の御前で生きているんだ」という意識が必要です。このように神を恐れるということも重要ですが、新約における恵みも知らなければなりません。

イエス・キリストが私たちの罪を負って身代わりに死なれました。そのことによってどうなったのでしょうか?11節には「彼は多くの人を義とし」とあります。さらに、12節「彼は強者たちを分捕り物として分かちとる」とあります。後半には「そむいた人たちのためにとりなしをする」とも書いてあります。これらのことを通して分かることは何でしょう?キリストの十字架は罪の赦しだけではないということです。神さまは御子イエスの犠牲によって満足し、私たちをもう裁きの対象とは見ません。それ以上に、私たちを義とみなしてくださるのです。義とは「法的に、もう裁かれない」ということです。「強者たちを分捕り物とする」とは、私たちを捕えていたサタンや悪霊を打ち砕くということです。私たちは以前、彼らの持ち物であって、手かせ、足かせがはめられていました。しかし、イエス様が私たちを買い戻し、私たちを支配していた悪者どもを打ち破ったということです。これって、すごいことではないでしょうか?私たちはこれまで、やられっぱなしでした。しかし、イエス・キリストが彼らを打ち砕き、黙らせて下さったのです。ハレルヤ!私たちの記憶の中にたくさんのトラウマがあります。しかし、それらは幻影であり、過去の遺物であります。私たちは主の勝利を私たちの潜在意識にも告げ知らせなければなりません。では、私たちがまた罪を犯したり、罪のわだちにはまったらどうするのでしょうか?「そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。これは「これからそうする」という意味があります。なぜなら、第二番目で語りますが、この方がよみがえるからであります。イエス様はずっと、神さまの右の座で、私たちをとりなしてくださるのです。Ⅰヨハネ21-2「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」アーメン。私たちはもちろん、罪を犯さないように努力しなければなりません。しかし、それ以上に、「自分はどういうものとされているか」「私たちの敵はどうなっているのか」「私たちの救い主は今も何をなさっておられるのか」、これらのことを知ることがもっと重要です。私たちの全ての罪、咎をイエス様は十字架で負ってくださいました。今や、私たちはどういうものとされたのでしょう?神の前で義と認められ、私たちを訴える敵どもは敗北し、イエス・キリストが私たちのために今もとりなしていてくださるということです。ハレルヤ!これが信仰です。信仰とは、罪を犯した過去の自分ではなく、神さまが自分に対して何をしてくださっておられるかに目を注ぐことです。車のことを考えてみましょう。あなたはハンドルを握っており、目の前にはフロント・ガラスがあります。あなたの過去の問題は小さなルームミラーです。ルームミラーは後ろを見るために必要なものです。しかし、あなたは車を運転するとき、フロント・ガラスの向こうを見なければなりません。小さなルームミラー、そして大きなフロント・ガラスがあります。それは、過去の問題と今、主にあってどういう者とされているかということの比率です。小さなルームミラーはちらちら見て、多くの時間は、どうぞ前を向いて運転してください。

2.復活の意義

 旧訳聖書に復活のことが本当に書いてあるのでしょうか?もう一度、イザヤ書5310節をお読みいたします。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」問題は、後半です。「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」死んだままの状態では、末長く、子孫を見ることは不可能です。子孫を見るためには復活しなければなりません。リビングバイブルはこのところをはっきりと訳しています。「彼を傷つけ、悲しみで押しつぶすのは、実は神様の計画だったのです。罪が赦されるためのささげ物として、そのたましいをささげるとき、彼は多くの子孫を見ることができます。しかも彼は復活するので、神様の計画は彼の手によって陽の目を見ます。」後半は、だれが書いたのでしょう?実は英語の詳訳聖書にも確固入りですが、同じようなことが書いてありました。「時が来たら、彼は死からよみがえらされるので、霊的な子孫を見ることができるだろう」と訳しています。これは、意訳というか、補助的に付け加えられたものです。どちらにしても、やはり、苦難のしもべが復活しなければ、子孫を見ることができないということは確かです。日本人は、「草葉の陰から見ている」みたいなことを言います。しかし、それは現実的ではありません。私たちの神さまは実に、御子イエスを死者の中からよみがえらせ、報いを与えてくださったのです。

 イエス様ご自身が福音書でこのようなことを、度々おっしゃっていました。マタイ1038-39「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」イエス様は神さまのみこころを成就するために、十字架でご自分のいのちを捨てました。まさしく、ご自分が教えていたことを実行されたのです。しかし、どうなったでしょうか?自分のいのちを失ったけれど、あとで、それを得たのです。イエス様は神さまのみこころにゆだねて、死にました。しかし、そのままでは終りませんでした、父なる神さまは御子イエスをよみがえらせ、復活のいのちを与えてくださいました。イエス様ご自身が、それを試して、模範を示しされたのです。私たちは自分のいのちに執着して、なかなかいのちを捨てることができません。最後まで自分が可愛いくて、最後まで自分を守ろうとします。福島で原発事故が起きましたが、だれも責任を取ろうとしません。「あれは地震だから、津波だから、想定外だったから」と言います。でも、あとから考えると、「もっと備えておけば良かった。人災の面も多分にあったんじゃないか」と言われています。でも、だれも責任を取ろうとしません。できるだけ早く、もとの姿にもどろうとします。十字架を負って、自分のいのちを捨てるということは易しいことではありません。クリスチャンであっても、肉がありますので、しばしば迷うときがあります。でも、イエス様は自ら、死んでみて、よみがえりました。なんとすばらしい保証でしょうか。私たちに大きなチャレンジを与えてくれます。

 また、イエス様の復活が必然的であったことが、12節からもわかります。5312「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」これは、どういう意味でしょうか?当時の戦争では、敵に勝利した場合、敵が持っているものを分捕り物として得ることができました。剣や身につけている武具だけではありません。彼らの町の家畜や宝石、全ての持ち物を奪い取りました。負けた敵は殺されるか、奴隷になりました。イザヤ書はこういうことを考慮に入れて書いているものと思われます。それでは、イエス・キリストとどのような関係があるのでしょうか?エペソ人への手紙48-9「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」イエス・キリストが陰府に下られ、復活したときに「多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」ということです。おそらく、陰府の中にいた、多くの捕虜を奪回し、持ち物を奪い取ったということでしょう。では、敵とは一体だれなのでしょうか?敵とはサタンと悪霊たちであります。彼らは神から離れ、罪を犯した人間を自分の持ち物にしています。本来、神の子のものである多くの持ち物まで、横取りしている状態です。しかし、イエス・キリストが十字架の復活によって、強い者であるサタンを打ち負かし、武装を解除したのです。そして、イエス・キリストはご自分が得た分捕り物を、私たちに信仰をもって勝ち取りなさいと命じているのです。分捕り物とは何でしょう?神の国に属するすべてのものであります。たとえば、永遠の命、祝福、健康、神の子としての権威であります。

私たちは本来、神の子どもとして、父なる神さまがご用意されていた御国を受け継ぐべき存在でした。しかし、罪の中あって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の霊に従って、歩んでいました。「私は自由だ、何の問題もない!」と言っても、霊的には死んでいる状態でした。ところが、イエス・キリストが私たちを罪と悪魔の支配から奪回するために、来られたのです。使徒26章で異邦人に遣わされた使徒パウロがこのように語っています。使徒2618「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」アーメン。救いとは「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」ことであります。そして、「罪の赦しを得させ、御国を受け継がせる」ことです。つまり、私たちはキリストの十字架と復活を信じることによって、住む世界とこれからの人生が全く変わったということです。なぜなら、イエス・キリストが私たちと私たちの持ち物を奪回してくださったからです。日本基督教団の高砂教会があります。以前、聖霊刷新で、その教会の手束牧師とお交わりをさせていただいたことがあります。手束牧師は会堂建築の1つ1つに、意味を与えておられます。外壁は紫ですが、それは王なるキリストを表現している。シャンデリヤは、その教会に聖霊が降ったときのことを象徴しています。それでは、シルバーの十字架は何でしょう?高砂教会の礼拝堂の十字架は木ではなく、ステンレスの十字架です。それは、イエス・キリストがサタンの国を打ち破った勝利の十字架であるということです。「復活の十字架は、木ではなく、シルバーでなくてはならない」というのが、先生のお考えです。私はそこまでは懲りませんが、大切なところは付いていると思います。もし、クリスチャンが罪赦された罪人であるだけなら、弱いです。クリスチャンは、キリストにあって、神の国に属している王子であり、王女です。そして、キリストの御名によって、かつて私たちのものであった持ち物を、サタンから奪い取ることができるんだということです。

『王家の者として生きる』の巻末に、「王子・奴隷テスト」がありました。これは、本当に自分が、王子・王女として生きているか、あるいは奴隷のままで生きているかのテストです。

1.皮肉的な冗談を言って、人々を傷つけることがある。

2.セールや安売りで物を買うのが好きだ。

3.自分は不十分、力不足だと言う思いに葛藤することがある。

4.知らず知らずのうちに周りの人と競っている。

5.鏡で自分自身をよく見る。

6.他人と自分を比べる。

7.「負け犬」が勝つと嬉しい。

8.神は負け犬の見方だと思う。

9.金持ちや成功している人々と一緒にいるのが苦手である。

10.成功したり自分の上に権力を持っている人に対して反抗する傾向がある。

11.自分の友人に有名人がいること、また自分が励んだ功績について、他人に話したい。

12.一生懸命頑張っても功績が上がらないと落ち込む。

13.自分に与えられた賜物とは関係なく、自分の価値を正当化しようとしてボランティア活動をしたり、ある働きに携わったりしている。

14.関係のある団体やグループ、仕事場でも一番重要な人と必死に友人になろうとする。

15.ゴールに達成できないと自分は失格者だという思いから、目標を立てるのが好きではない。

 「しばしば」「大抵の場合そうだ」という人は、奴隷根性が抜けきれていない人です。私などは、口では王子だと言ってはいますが、「まだ、まだ」です。15問中、10個くらいは当っていました。ということは私の信仰は頭だけであり、心の深いところに入っていないということです。つまり、神の王子として、復活を生きていないということです。2000年前、イエス・キリストが死からよみがえりました。そのとき、私たちをも死と罪とサタンの奴隷から解放されたことを深く思いたいと思います。そして、神の王子、王女として復活の人生を歩んでいきましょう。

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2011年4月24日 (日)

エマオの途上の二人     ルカ24:25-32

先週の日曜日は当教会において歴史的な日でした。日本キリスト教団との被包括関係を解いて、独立した教会として歩むということを決議したからです。総会では、現住倍餐員123名のうち、39名が参加しました。そして、38名が賛成し、前に出て署名捺印されました。みなさんが1つ心となって、「新しい教会を目指すんだ」という熱意がそこに現れていました。ある人が、「日本キリスト教団というブランドをなくしても良いのですか?」と言いました。私は「ああ、そうか教団はブランドなのか、少しおしいなー。これからは無印良品か」とちょっとだけ思いました。でも、それだけ私たちは、「聖書とかしらなるキリストとに聞き従う」という、良い緊張感が与えられたのではないでしょうか?きょうは、イースター(復活祭)です。ルカ24章から「聖書とかしらなるキリストとに聞き従う」とは、どういうことなのか共に学びたいと思います。

1.共に歩まれるイエス

イエス様は日曜日の朝、墓からよみがえりました。復活のニュースを聞いたにもかかわらず、とぼとぼと西の方角に歩いている二人の弟子がいました。一人はクレオパで、もう一人は名前がわかりません。なぜ、聖書に名前が書かれていないのでしょうか?それは、あなたの名前を入れるためであります。クレオパとあなたがエマオという村に向かって歩いているんだと想像してみましょう。エマオはエルサレムの西へ11キロくらい離れています。時は午後4時か5時頃、もうすぐ日が落ちるかもしれません。彼らは夕日が落ちる西の方角に向かって歩いています。どうでしょう?朝日に向かって歩くのと、夕日に向かって歩くのと、どう違うでしょうか?朝日に向かって歩くのは希望があります。なぜなら、これから日が昇るからです。でも、夕日に向かって歩くと、だんだん日が沈んで、暗くなります。ということは、失望とか落胆を表すのではないでしょうか?まさしく、エマオの途上の二人は、失望と落胆の心の状態でありました。イエス様がよみがえったというニュースを聞いていたにもかかわらず、失望と落胆の人生を歩んでいたのです。

この世のほとんどの人は、「イエス・キリストが死んで3日目に復活した」ということを知っています。どうでしょう?信じる、信じないは関わらず、キリストは復活したということを知的に知っているのではないでしょうか?ちなみに、機械が壊れてダメになったとき何と言うでしょうか?テレビが壊れて映らない、エンジンが壊れて動かない。そういうとき、日本では何と言うでしょうか?「おしゃかになった」と言わないでしょうか?仏教の人には大変失礼ですが、「おしゃかになった」とは、もう死んだという意味です。しかし、怪我などの故障で休んでいた野球のピッチャーがマウンドに再び立つとき何と言うでしょうか?「復活した」と言うでしょう。私は牧師として、復活よりも「キリストになった」と言うべきだと思います。そうです。お釈迦様は死にましたが、キリストは死んで三日目に復活し、今も生きておられるのです。ハレルヤ!

キリストは死んで、よみがえり、今も生きておられるというのに、この二人はどうでしょうか?ルカ2415-24「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

 二人は「イエス様は死んだけれど、三日目によみがえったらしい」というニュースを聞いてはいました。しかし、暗い顔をしていたのです。なぜでしょう?それを信じていなかったからです。キリストが復活したのに、自分の人生は相変わらず希望のない人生を日没目指して歩んでいる。日没とは人生の終わり、死であります。私は57歳ですが、人生の何時頃でしょう?6時が死の日没だったら、おそらく、4時半くらいでしょう。みなさんの中には、5時50分の人もいますか?時間はともかく、この世の多くの人たちは死を目指して歩んでいます。キャンディースのスーちゃんが亡くなりました。55歳でした。私とあまり変わりありません。彼女のように4時半くらいで亡くなる人もいるのです。しかし、良い知らせがあります。まだ、復活を信じないで、日没に向かって歩いている二人の真中に、イエス様が入って来られました。不思議なことに、彼らの目がさえぎられてそのお方がイエス様だと分かりませんでした。ただの通行人の一人だと思ったのです。みなさんも道を歩いていると、同じ方向に無言のまま歩いている人がいるでしょう。その人との面識はありません。ただ、同じ方向に歩いているという感じです。突然、その人が「あなたがたは、何を話しておられるのですか?」と会話に入ってきました。二人は、イエス様が十字架でつけられ死んだこと。そして、きょうの朝、墓に行ったけど死体が見つからなかったことなどを告げました。おそらく、暗くてけげんそうな顔つきで答えたのでしょう。ここでの良い知らせは何でしょう?復活のニュースは聞いていたけど、それを信じることができず、日没の人生を歩んでいる。しかし、よみがえられたイエス様が共に歩んでくださっているということです。イエス様はご自分を信じない人の近くを今も、歩んでおられるということです。これは良いニュースではないでしょうか?

2.聖書を解き明かすイエス

 二人の間に入られたお方が、何やら語り始めました。ルカ24:25-27「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」。二人はきっと、びっくりしたことでしょう。懇切丁寧にエルサレムで起こった出来事を知らせたのに、開口一番「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」とは。「自分を何様だと思って?」とむかついたかもしれません。でも、そのお声に、不思議な権威がありました。そして、続けざまにモーセの書から、預言書、聖書全体の中で、キリストの苦しみと復活について教えてくれました。当時はまだ旧訳聖書しかありませんでした。モーセとはモーセ五書、つまり「創、出、レビ、民、申命記」です。創世記3章の女の末がへびのかしらを打ち砕くとか、出エジプト記の一才の羊を殺して、血を塗ること、レビ記の血を流さなければ罪の赦しはありえない。あるいはアブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神は生きておられるなどと語ったかもしれません。預言書といったら、イザヤ書が有名です。受難と復活のことが書かれています。聖書全体というと詩篇も含まれるでしょう。そこにも、受難と復活のことが預言されいます。

 たぶん、道すがら1時間か長くて2時間、聖書を解き明かしてくれたのかもしれません。なんとリッチな時間だったでしょう。イエス様がご自分の苦しみと復活の意味を聖書から語ってくれたのです。いやー、うらやましいですね。彼らはそのとき、どう思ったでしょう。ルカ24:32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」「心はうちに燃えていた」と書いてあります。面白い表現ですね。「心が燃えていた」というのはわかりますが、「心はうちに燃えていた」とはどういう意味でしょう?英語ではon fire、burningです。人は感動したときとか、恋に陥ったとき、心が燃えるような感じがします。二人はイエス様が聖書を解き明かしているとき、そういう感じがしたのです。イギリスのスポルジョンは青年のとき、ある教会に行こうと思いました。しかし、吹雪によって阻まれ、小さな教会に飛び込みました。そこには牧師が来れなかったのでしょうか?信徒が説教していました。それは説教というものではなく、イザヤ書のある箇所を何度も連呼していただけです。しかし、スポルジョンの心がうちに燃える経験をしました。彼は子どものころから教会に行っていたので、キリストの十字架と復活の出来事は知っていました。しかし、そのとき「ああ、キリストは私の罪を負い十字架にかかり、私が生きるために復活したのだ」ということが分かったのです。これが、スポルジョンの回心であります。ジョン・ウェスレーもロンドンの町で司会者がルターのローマ書講解を読んでいるとき、心はうちに燃える経験をしました。彼はそれから救いの福音を力強く語る説教者になりました。

 どうでしょう?みなさんは聖書のみことばを読んだとき、あるいはだれかがみことばを語ったとき、「心はうちに燃えていた」という経験をされたことがあるでしょうか?鈴木牧師の説教を聞いているとき、「心はうちに燃えていた」。アーメン。あると思います。それも良いですが、みなさんが一人でディボーションしているとき、そういう体験をなされたらもっと良いですね。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」アーメン。復活のイエス様は今、真理の御霊としてみなさんのところを訪れています。まるで家庭教師のように、あなたの傍にいて、あなたに聖書のみことばを解き明かしてくださいます。ある人たちは「自分一人で聖書を読むと、誤って解釈するかもしれない。だから、教会へ行って牧師や教師のご指導のもとで読まなければならない」と思っているかもしれません。そういう人はカトリック教徒かもしれません。プロテスタント教会にもそういう人がいたら大変不幸です。聖書はとてもわかりやすい書物です。もちろん、わかりにくいところもたくさんあります。矛盾しているでしょうか?全部、理解しようとするから壁に突き当たるのです。みなさんはアジとかサンマを食べるとき、頭から丸かじりして、尾っぽまで食べる人がいるでしょうか?ししゃもくらいなら出来るかもしれませんが、普通、骨は皿の脇にどかして、柔らかい身を食べるでしょう。聖書のみことばもそれで良いのです。しかし、そのとき、真理の御霊、復活のイエス様が「このみことばはあなたにとってこういう意味ですよ」と教えてくださいます。それは単なる解釈ではありません。あなたの人生にとって、指針となる、いのちとなることばです。あるときは励まされ、あるときは慰められ、あるときは信仰のチャレンジが与えられるでしょう。これこそが心はうちに燃える経験なのです。どうぞ、聖書を開いてイエス様に聞いてください。今もイエス様は生きておられ、あなたに聖書のみことばを解き明かしてくださいます。そして、心がうちに燃える経験を何度も何度も与えてくださいます。

3.パンを渡されるイエス

 ルカ24:29-31「それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」もう、ご一行はエマオに着いたのでしょうか?それとも途中なのでしょうか?とにかく、日が傾いたので、歩けなくなり、宿を取ることにしました。二人は強いて、その方を宿に案内し、一緒に食事をしました。その方がパンを取って祝福し、裂いて二人に渡されました。するとどうでしょう。二人の目が開かれ、その方がイエス様だと分かりました。「えー、今頃?」と私たちはびっくりします。しかし、マルコによる福音書には「イエスは別の姿でご自分を現されていたから」と書いてあります。ルカ福音書は「ふたりの目がさえぎられていて、イエス様とわからなかった」と書いてあります。しかし、イエス様がパンを裂く仕草を見て、「ああ、イエス様だ」と分かったのかもしれません。イエス様には独特なパンの裂き方があったのでしょうか?右から左に裂くとか、左から右の方へ裂くとか、それとも前後に裂くとか。そうではないと思います。イエス様と二人が交わっているときに目が開かれたのでしょう。聖餐式はホーリー・コミュニオンと言います。communionとは、親交、霊的交わりという意味です。ちなみにcommuneとは生活共同体、親しく交わる、共有するという意味があります。つまり、イエス様との食事は、イエス様と親しく交わるということです。イエス様は聖書でよく一緒に食事をしています。弟子たちとだけではなく、取税人や罪人たちとも一緒に食事をしています。ザアカイはそのとき回心しました。ペテロはそのとき、「イエス様を愛します」と告白して癒されました。

 ある人たちは、聖書のみことばで満足しています。特に、みことばを大事にする聖め派の教会はみことば体験を非常に大切にします。もちろん、それも重要ですが、三番目の体験はイエス様と親密な関係です。ある人たちはイエス様を「イエスは」「イエスは」と呼び捨てで言います。その人は道で一緒にあるいておられるイエス様でしかありません。またある人は「聖書に感動した」「聖書でイエス様のことが分かった」というレベルかもしれません。しかし、もっと深い関係があります。それは、あなたの生活すべての場に、友なるイエス様として歓迎することです。あなたは、イエス様といると楽しいでしょうか?それとも、イエス様といると堅苦しいでしょうか?私たちの関係でも、気を使っているうちは疲れます。しかし、もう気を使う必要がないくらい親しいとどうでしょうか?時間を気にしません。ことばも、表現も、態度も気にしません。それだけ親しいからです。私はテレビをみていて、「ああ、馬鹿だなー」と言います。家内は、「あなたは今、馬鹿と言ったわよ」と言います。私は「そうなんだよ、日本人は馬鹿なんだ」と改めて言います。私も日本人なのに…。私は、他の人の前ではそんなことは言いません。でも、私と一緒にご飯を食べたら、そういうことを言うかもしれません。大体、ご飯を食べているという時は、心が開いている状態です。良いものも、悪いものも心の内側から出てきます。そのため、躓く人も出てくるかもしれません。でも、逆に言えば、それほど親しい関係だということです。イエス様はあなたとそのような関係を持ちたいのです。気を使わないで何でも、話せる関係です。そうすると、あなたのイエス様に対する見方が変わります。霊的に目が開かれるからです。

 二人はその後、どうしたのでしょうか?宿に泊まったのでしょうか?いいえ、今来た道を引き返してエルサレムに戻ったのです。信じられますか?10キロ来た道をまた引き返したのです。彼らはエマオに何をしに来たのでしょう?エルサレムを離れることは何を意味していたのでしょう?そして、今度、エルサレムに戻るとは何を意味することなのでしょう?なぜ、イエス様はエマオの途上の二人に出会って、そんな長い時間を彼らのために費やされたのでしょうか?実は、イエス様の二人に対する計画があったからです。二人はエルサレムに戻って、11使徒に復活のイエス様と出会ったことを話したでしょう。なんと、エルサレムで再びイエス様が現れてくださいました。そして、また、ご自分が受けた苦しみとその復活を聖書から教えました。その後、イエス様はどうしても伝えたいことがありました。さきほどの二人を含めて、弟子たちに伝えたいことがありました。それは何でしょう?ルカ24:48-49「あなたがたは、これらのことの証人です。『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』」アーメン。イエス様は二人に十字架と復活の証人になってもらいたかったのです。そして、エルサレムにとどまって聖霊を受けて、力を着せられて、力ある証人になってもらいたったのです。これが使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」に続くのです。

エマオの途上に向かっていた二人の人生はどうだったでしょうか?失望と落胆の人生、夕暮れに向かう人生でした。死ぬ日を待ちながら、なんとか生き延びる人生でした。人生の目的も使命も意味もありませんでした。しかし、どうでしょう。イエス様が死んでよみがえり、今も生きておられる。それだったら、今度はその良い知らせを他の人々に知らせる必要があります。自分もその良い知らせで罪赦され、救われました。今度は、この良い知らせを他の人に知らせるという使命があります。しかし、それはたやすいことではありません。周りの人たちは無知と偏見の塊だからです。迫害を受けたり、嫌な思いをするかもしれません。だから、そのためにエルサレムにとどまり、いと高きところから力を着せられる必要があります。つまり、聖霊を受けて、聖霊に満たされる必要があるのです。ただ良い知らせを持っているぐらいだとこの世に押しつぶされてしまいます。しかし、聖霊に満たされ、聖霊の力をいただいたなら、ちょっとやそっと嫌な思いをさせられても、水をかけられても、こたえません。迫害を受ければ受けるほど、ゴム鞠がはずむように、バーンと跳ね返すのです。二人は120人の弟子の中に加えられ、2階座敷で祈りつつ、10日間待ち望みました。すると、彼らの上に、天から激しい風のように、炎のように聖霊が降ったのです。そこで、始めて二人はイエス様の十字架と復活の証人、力あるキリストの証人になることができたのです。これが、神さまの二人に対する計画であり使命だったのです。あなたは人生の夕暮れに向かって、ただ死ぬのを待ちながら生き延びる人生を過ごしたいですか?それとも、心がうちに燃える経験をし、友なるイエス様と親しい交わりを持ち、さらには聖霊をたいだいて使命をになうキリストの証人になりたいでしょうか?十字架と復活を信じ、聖霊を受けたなら、じっとしていることは不可能です。あなたもこの良い知らせを弟子たちのように、地の果にまで告げ知らせたくなるのです。

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2009年4月12日 (日)

見て、信じた       ヨハネ20:1-10

 イースターおめでとうございます。今から約2000前、父なる神は、御子イエスを死人の中からよみがえらされました。私たち人類の最大の敵は罪であり死であります。しかし、イエス・キリストは十字架で罪を贖い、私たちの身代わりに死なれました。ところが3日目に、イエス様は死を打ち破り、栄光の体に復活したのであります。人類が誕生して以来、死からよみがえられた人は一人もいません。蘇生した人はいますが、やがて年老いて死んでしまいました。でも、イエス様は蘇生ではなく、二度と死なない栄光の体へとよみがえられたのです。ハレルヤ!私たちの信仰は復活にかかっています。イエス・キリストが復活したので、聖書とイエス・キリストがおっしゃっていることは真実である、信じるに値するという根拠があるのです。でも、当時の弟子たちはイエス様の復活を最初から信じたわけではありません。2000年前の人たちも、今の私たちと同じように常識がありました。一度死んだ人がよみがえるなんていうことは信じられなかったのであります。ある弟子たちは、よみがえられたイエス様と実際に出会っても、信じることができませんでした。きょうは、「見て、信じた」と題して、聖書から共に学びたいと思います。

①見て信じた

  ペテロともう一人の弟子は、マグダラのマリヤの知らせを受けて、墓に向かいました。もう一人の弟子とは「ヨハネの福音書」を書いた、ヨハネであります。ヨハネはペテロよりも若かったゆえでしょうか、一足先に墓に着いたようです。ヨハネ20:5-8「そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」ここで、問題になるのは、ヨハネは何を見て信じたのかということです。前の章を見るとわかりますが、人々はイエス様のからだを、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料と一緒に亜麻布で巻いたようです。これはミイラにするためではなく、死体を潔めるためであり、敬意の念から出たものです。ペテロとヨハネが墓の中に入って、まず最初に見たものが、体にまかれていた亜麻布であります。大きな布だと思いますが、ある程度、たたまれて置いてありました。しかし、問題なのは顔と頭にまかれていた長い布切れであります。7節には、「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」とあります。巻かれたままとは、どういうことでしょうか?これはすっぽり抜けた状態でそのまま置かれていたということです。たとえば、指などを切ったとき、包帯をぐるぐる巻きます。でも、後ですっぽりと包帯が抜ける時があります。それと同じ状態で、顔と頭に巻かれていた布が、頭部がすっぽり抜けた状態に折り重なっていたということです。その布切れは、首から頭にかけてぐるぐる巻いたものであり、頭部がすっぽり抜けることはまず不可能です。普通だったら、ほどいて、そこに丸めて置くはずですが、そうではなかったということです。

 8節には、「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」と書いてあります。何を見て、信じたかと言いますと、イエス様がよみがえられたということを信じたということです。しかも、そのよみがえりというのは、普通の肉体ではないということです。普通の肉体ならば、頭にまかれた布をほどくしかありません。でも、復活の体というのは、そうではなく物理的な制限がないということです。ヨハネ20章の半ばを見ると分かるのですが、弟子たちがユダヤ人を恐れて戸を閉めていました。ところが、イエス様がその部屋に入って来られ、「平安があるように」と言われました。弟子たちが戸を閉じていたにもかかわらず、イエス様が「すうっと」室内に入ることができたということです。ヨハネ20:26にも同じ様なことが書かれています。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように』と言われた。」アーメン。よみがえられたイエス様の体は、戸が閉じられていても、全く、支障なく、すり抜けてと申しましょうか、入ることができるということです。これは、イエス様の体がただ生き返ったということではなく、栄光の体によみがえったということです。このように、ヨハネは、墓の中で布切れを見て、イエス様が栄光のお体によみがえられた、復活したということを信じたのであります。

②聖書から信じる

 しかし、ヨハネ福音書は「見て、信じる」だけではまだ不十分であると言っています。ヨハネ20:9「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」これは一体どういうことでしょうか?これは、聖書の啓示から復活を悟る必要があるということです。つまり、聖書を読んで信じる道が残されているということです。ルカ福音書24章には、エマオに向かう二人の弟子のことが記されています。二人は「イエスが死からよみがえられたとは、どういうことなのだろう?」と話し合ったり、論じたりしながら歩いていました。そこへ、復活のイエス様が「話し合っている、その話は何のことですか?」と入り込んできました。しかし、二人の目はさえぎられて、その方がイエス様だとは分かりませんでした。二人は「仲間の何人か墓に行ったけれど、女たちの言ったとおり、イエスのからだが見当たらないのです」と悲しい顔をしながらその人に告げました。その人は「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてのことを信じない、心の鈍い人たち」と嘆きながら、モーセおよびすべての預言書から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書かれている事柄を彼らに解き明かされました。すると、二人の心が内に燃えてきました。途中、日も傾いたので、その人に無理にお願いして宿に入りました。その人がパンを取り、祝福し、裂いて二人に渡しました。すると、彼らの目が開かれ、その人がイエス様だとわかりました。彼らは復活のイエス様が共に歩いていたのに、その方がイエス様だと分かりませんでした。そのため、イエス様は聖書全体を解き明かして、ご自分が苦しみを受けて、栄光に入ることを彼らに解き明かされたのです。

 つまり、こういうことです。実際に、肉眼で復活のイエス様を見たにも関わらず、信じない弟子たちがいたということです。つまり、本当の信仰を持つためには、聖書から信じる必要があったということです。逆に言うなら、肉眼で復活されたイエス様を見なくても、聖書の啓示を信じて、救われる道もあるということです。12弟子のひとりで、とても疑り深いトマスという弟子がいました。復活された日曜日の夜、弟子たちが一緒に集まっていました。その部屋にイエス様が入ってこられ、「平安があるように」と言われました。そのとき、弟子たちは「わぁー、イエス様だ」と信じました。残念ながら、その中にトマスはいませんでした。どこかで一人しょんぼり、ふてくされていたのでしょう。ヨハネ20:25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。そして、なんと、8日目にイエス様が再び現れて、彼らの中に立ちました。ヨハネ20:27-29それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」イエス様はトマスになんとおっしゃったでしょうか?「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」アーメン。この肉眼で復活のイエス様を見て信じる信じ方もあります。でも、もう1つ他に見ないで信じる道があるということです。そして、その方がもっと幸いであるということです。その道とは何か?それは聖書の啓示を読んで、イエス様を信じるという道であります。復活から2000年近くたちますが、私たちにとって最も有効な手段は、復活を見たという証言が記されている聖書から信じる道であります。ごく稀に、直接、復活のイエス様を見て信じる人がいます。聖書では使徒パウロが有名です。私も何名か、「私はイエス様を見た」という人を知っています。でも、それは稀です。うらやましい感じがしますが、見ないで信じる方が幸いなのです。

③見ないで信じた人たち

 ペテロの手紙には見ないで信じた人たちのことが書かれています。Ⅰペテロ1:8,9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」とんで、Ⅰペテロ1:12「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。」アーメン。ペテロが手紙を宛てた人たちは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤに散って寄留している人たちでした。彼らは直接、イエス様には出会っていません。でも、どうでしょうか?彼らは、イエス様を見たことがないのに、イエス様を愛しており、イエス様を信じていました。そして、信仰の結果である、たましいの救いを得て、喜んでいました。どうして、そんなことができたのでしょうか?聖書の啓示、キリストの福音を受けたからです。厳密に言うならば、ペテロの時代は、新約聖書は完成していませんでした。あったのは、旧訳聖書のメシヤに関する啓示と、実際に復活を見たという証言でした。でも、ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちは、直接、復活のキリストを見たわけではありません。それでも、その知らせを聞いて、信じて、救われたのです。ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちと私たちはほぼ、同じ条件であります。直接は見たわけではないけれど、旧訳聖書のメシヤに関する啓示と実際に復活を見たという証言の新約聖書があります。ポント、ガラテヤ、カパドキヤの人たちも、現代の人たちもそうですが、「キリストを見たら信じる」という人たちがいるのではないでしょうか?私もかつて「神様を見せてくれ、見たら信じる」と生意気なことを言いました。

 でも、みなさん目に見える神様というのは本当の神様ではありません。それは偶像の神様です。ついこの間、長野県の善光寺で、7年に一度の御開帳というのがありました。高速道路が土日、1000円ということもあり、県外からも大ぜいの人たちが駆けつけました。6年前の御開帳のときは、2ヶ月間で、約628万人集まり、経済効果はおよそ1,035億円だったそうです。今年は、もっと大ぜい集まるんじゃないかということです。私もテレビで見ましたが、パカーット開けたら、黒い観音様でした。それを人目見ようと、長蛇の列であります。日本人は御利益宗教が本当に好きなようであります。でも、残念ですが目に見える神様は、ニセモノの神様であります。本当の神様は霊のまなこによって、信仰によって見るしかありません。神様は私たちに五感の他に、信仰という霊的な感覚を与えておられます。私たちはこの目で見えなくても、耳で聞こえなくても、手で触れなくても、今も生きておられるまことの神様を信じることができます。神様は霊ですから、私たちも霊によって神様と交わるしかないのです。でも、多くの場合、人間は生まれたときから、この霊はお休み状態です。眠っているか、死んでいるか、どちらかです。しかし、ここに神の霊、聖霊が来られるときに、霊的に目覚めて、「イエス様を信じようかなー」思うわけです。ヨハネ20:22でイエス様がこのように言われました。彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」私が思うには、この聖霊はペンテコステの人が新生する聖霊の働きではなく、神様を信じる助けとなる聖霊ではないかと思います。人はだれしも、聖霊の助けなしでは、聖書を理解できず、まことの神様も信じることができないからです。私たちは聖霊の助けによって、聖書のみことばを悟り、その中に記されている救い主、イエス・キリストを信じることができるのです。

④信じてどうなるのか?

 では、キリストを信じたらどうなるのか?ということをお話して終りたいと思います。ヨハネ20:31にそのことが書かれています。きょうのメッセージはヨハネ20章を中心にお届けしています。ハネ20:31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネは聖書が書かれた目的をはっきりここで告げています。「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためです」と言っています。では、信じてどうなるのでしょうか?「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。アーメンです。私たちの罪のために十字架におかかりになり、3日目によみがえられたイエス・キリストを信じるならば、いのちが得られるということです。ここで用いられているギリシャ語のいのちは、ゾーエーであり、神のいのち、永遠のいのちという意味です。私たちの地上のいのちには限りがあります。でも、私たちがイエス様を信じるならば、神のいのち、永遠のいのちが与えられるということです。ハレルヤ!ある人たちは、この肉体で1000歳、2000歳とずっと長生きするのが、永遠のいのちだと誤解しています。そうではありません。この肉体はこの地上のものなので、100年もたないのであります。ここで、永遠のいのちは2つの意味で語られています。1つは私たちが霊的に新しく生まれ変わることによって与えられる霊的ないのちです。パウロはこれを「内なる人」と言っています。「外なる人は衰えても、内なる人は日々、新たにされています」(Ⅱコリンと4:16)。もう1つは私たちはイエス様がよみがえられたような栄光の体が与えられるということです。これは、世の終わりイエス・キリストが再び来られるその時を待つしかありません。私たちが生きているうちに来られるかもしれないし、死んだ後かもしれません。でも、私たちの肉体は、イエス様のように栄光の体でよみがえるのです。私たちは死を乗り越える、このようなすばらしい希望を神様からいただいているのです。

 イエス様は復活の夜、戸が閉ざされていたのに、弟子たちがいた部屋にすっと入って来られました。でも、イエス様は私たちの心の部屋には勝手に入るようなことはなさいません。神様でありますから、しようと思えばできるのです。でも、しません。なぜなら、イエス様は私たちの自由意志を尊重されるからです。だれが書いたか分かりませんが、戸をたたいているイエス様の1枚の絵があります。扉には足元にはいばらがあり、ドアにはうっすらの蔦が絡まっています。これまで、一度も開けた形跡がありません。イエス様がランプをもって、ドアをたたいている絵であります。ヨハネの黙示録3:20にはこのように書いてあります。「見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼(彼女)のところにはいって、彼らとともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」この間、岡山から来られた中嶋先生が面白いことをおっしゃっていました。新説かもしれません。心のドアは内側からかける錠がついているということです。形は古いのですが、レバーをカチャっと180度倒すと、鍵がかかります。開けるためには、本人がまた、レバーをカチャっと180度倒しかありません。こういう鍵をみんな持っているんだということです。中嶋先生がおっしゃるには、「悪霊よ、主の御名によって出ろとか」命じることはできますが、心の問題は本人の承諾が得なければ、癒すことができないそうです。同じように、イエス様を信じる、つまり心にお迎えするということは、やはり本人の意思が大切なのであります。私は今から30年前、1979年4月15日のイースターの夜、イエス様を信じましたが、結構、大変でした。職場の先輩が私のアパートを訪ねてこられ、お昼の12時半から、9時半くらいまで、約9時間かかりました。クリスチャンの先輩は、ヨハネの黙示録3:20の内容をたとえ話しのように語ってくれました。私の心の部屋は6畳一間のような狭い部屋でした。その部屋の片隅に膝小僧をだいて座っている私がいました。「この世に本当に真実なものがあるのか?もし、神が本当にいるんだったら信じてみたい。」そんなふうにどこかで思っていました。教会に行って2ヶ月くらいたっていましたが、もし、イエス・キリストやらを信じたら、私自身はどうなるんだろう?私はどこかへ行っちゃうのだろうか?それは困ると思って、なかなか、うんとは言えませんでした。しかし、先輩は最後に、「信じてダメだったらそれでも良いじゃないか?どうだろう、1つ賭けて見たら」と言いました。私もあんまり長いので、根負けしたような感じになり、「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩はびっくりして、「今から大川先生のところへ行こう」と言うのですね。「いや、もう遅いから良いよ。信じたんだから」と言いました。もう、10時近くになっていましたのでそのまま床を敷いて寝ました。朝、起きたらどうでしょうか?何もかも光輝いて見えました。アパートの前に樹木が植えられていたのですが、その葉っぱの葉脈1つ1つがとっても繊細に見えました。いやー、あの晩、私は救われたんですね。

 しつこくされることも恵みであります。いつしか、TPWが来られて、ゴスペルコンサートをしたことがあります。最後にアンドレが「今晩、イエス様を信じる人は前に出てきてください!」と招きました。だれもいないと、また同じことを言います。10分、15分も続き、ようやく、一人出てくる。すると、二人目、三人目が続いて出てきます。あのしつっこさのゆえに、自分は信じられたという人がいっぱいいるのではないでしょうか?神様の愛は淡白ではありません。イエス様をあなたのために十字架に死なせるくらい熱いものです。また、神様は死なれたイエス様をよみがえらせる同じ力をもって、あなたを新たに造り変えてくださるお方です。死からよみがえられたイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得てください。

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2007年4月 8日 (日)

ここにはおられません      マルコ16:1-8

イースターおめでとうございます。クリスマスとイースターとペンテコステは、教会の三大祭りです。でも、同時にそれは牧師泣かせでもあります。教会員の方は、「また同じ話だ」と思うからです。でも、私たちは復活を頭で信じるだけではなく、体験する必要があります。ですから、十分体験できるまで語り続ける必要があります。十分体験できるときはいつかと言うと、私たちが死んだ後です。ですから、世の終わりが来るときまで、復活のメッセージを語り続けるしかないのです。ハレルヤ!ところで、墓の中にいた御使いは女性たちに2つのことを伝えました。第一は、イエス様はよみがえられたので、墓の中にはおられないということです。第二は、イエス様は先にガリラヤ行くので、そこでお会いできるということです。

1.ここにはおられません

女性たちは、イエス様をとっても愛していましたが、信仰はありませんでした。安息日が終わった土曜日の夕方、没薬や香料を買いに行きました。イエス様に塗るため、あらかじめ準備しておいたのです。そして、日曜日の早朝、それらを携えて墓に向かいました。道々、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と話しながら来ました。とろころが、墓に着くと石がすでにころがしてありました。墓の中に入ると、真っ白い衣をまとった青年が座っていました。それは、青年ではなく、御使い(天使)でした。御使いは「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」と言いました。驚くなといわれても、これほどの驚きが他にあるでしょうか?彼女らは墓を出て、そこから逃げ去りました。8節には、「すっかり震え上がって、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と書いてあります。イエス様が何度も自分がよみがえることを預言しておられたのに、こっけいであります。でも、それが真実ではないかと思います。死んだ人がよみがえる、これほど驚くべきことは、世の中にありません。アンビリーバボーというのは、もはや日本語になりつつありますが、イエス様の復活に最もぴったりであります。面白いことに、古い写本は、8節で終わりになっています。つまり、「恐ろしくて何も言わなかった」ということです。本来ならば、キリストの福音を伝えなければならないはずが、「恐ろしくて何も言わなかった。おしまい。」シャレにならないと思いませんか。

そして、別の写本は9節からのことが書かれています。ある聖書学者は、9節以降は、後から書き加えられたものであり信頼できないと言います。でも、私はそうは思いません。言い足りなかったこととか、真実を補足するということは、よくあることです。あとからマグダラのマリヤが弟子たちに知らせたようです。11節「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった」。「えー、何かの間違いでしょう?」と言いたくなります。さらに、他の二人が、弟子たちにイエス様が現れたことを告げました。でも、13節には「彼らはふたりの話も信じなかった」。14節では、イエス様は思い余って、ご自分の姿を現し、彼らの不信仰とかたくなな心を責めました。もし、これが後代の作り話ならこんな風には書かないでしょう。イエス様の復活物語が真実であったという1つの裏づけは、あの弟子たちですら信じられない出来事だったということです。もし、作り話にするならば、弟子たちの不信仰ぶりをこのように残すわけがありません。私たちはこれを見て安心します。2000年前、イエス様と3年半、一緒だった弟子たちが信じられないなら、直接、会ってもいない、私たちが簡単に信じられるわけがありません。でも、みなさん、クリスチャンであるなら、十字架と復活は絶対、信じているはずです。十字架と復活を信じていないクリスチャンはもぐりです。ここにおられるみなさんは、イエス様の十字架の死と復活が事実であったことを信じておられるでしょうか?では、あなたは見たんですか?2000年前、現場にいた女性や弟子たちが信じられないのに、我々に信じろ!と言っても無理な話でしょう。でも、信じているんですね。なぜでしょう?ある人は神学や弁証論から信じると言いますが、それは嘘です。神学や弁証論は、信仰の確信を与えるものであり、信じさせるものではありません。では、私たちはどのようにして、イエス様とイエス様の復活を信じるのでしょうか?

①聖書から信じる。 

聖書は、いわば預言者や使徒たちの証言を集めたものです。このマルコ16章も「見たこと、聞いたこと」をそのまま載せています。彼らもはじめは信じられなかったのです。でも、よみがえられたイエス様のお姿を見ました。ある弟子はイエス様に触りました。でも、彼らさえも、聖書からイエス様がよみがえるべきことを信じなければなりませんでした。つまり、信じるとは、啓示である神のことばを受け入れることであります。マルコ16:12の「ふたり」とは、エマオの途上の二人のことです。ルカ24章に詳しく書かれています。彼ら二人は復活のイエス様と一緒に歩いていたのに、その方がだれか分かりませんでした。しかし、イエス様が聖書から自分について書いてあることを説明されました。そのとき、彼らの心が燃えました。宿屋でパンを裂くしぐさを見て、イエス様だと分かりました。また、ペテロたちも、二階座敷で集まっているとき、詩篇からイエス様がよみがえるべき理由を知ったのです。つまり、信じるとは目とか耳ではなく、霊の世界であります。神の啓示を聖霊が悟らせてくださるのです。そういう意味では、2000年前の弟子たちも、私たちも変わらない部分があります。でも、実際、見て信じるのと、見ないでどちらが幸いでしょうか。イエス様は、ヨハネ21:29で「見ずに信じる者は幸いです」と言われました。つまり、イエス様を見て信じるよりも、聖書から信じる方がランクが上なのです。皆さん、実際、手で触って、見たならば信じる必要はありません。もう、事実なんですから、信仰は不必要です。天国も、イエス様も、肉眼では見えないので、信仰が必要なのです。信じるためには聖書が必要です。独房で、聖書を読んで信じる人もいます。こういうメッセージで信じる人もいるでしょう。ラジオの電波やチラシで信じる人もいます。でも、核となるものは神のことばです。そして、神のことばに聖霊が働くことにより、人が信じることができるのです。

②イエス様から信じる

 イエス様は、ヨハネ11章で、「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。イエス様は、そのことを証明するために、死んだラザロをよみがえらせました。こんどは、自分が死んで、よみがえったのです。イエス様は、ご自分が死の向こうに行って、戻ってきました。こういう方は歴史上、一人もいません。死に勝った人などひとりもいません。どんな教祖も、聖人と言われる人も死んで、その墓があります。しかし、イエス様にはないのです。しかも、イエス様は生前、3度も自分はよみがえると預言しておられます。もし、自分がよみがえると予告しておきながら、よみがえられないとしたら、それは嘘つきになります。大体、「私が道であり、真理であり、いのちである」と言える人は、神様か気が狂っている人かどちらかです。ある人たちは、イエス・キリストを立派な道徳家だと言うでしょう。でも、自分がよみがえると言っておきながら、よみがえられなかったらどうでしょう。そんな中途半端な呼び方はできません。神様かペテン師かどちらかです。イエス様の前に「私の主、私の神」とひれ伏すか、もしくは「このペテン師!」と唾を吐くかどちらかしかないのです。でも、福音書を見ると、イエス様は愛であり真実な方でした。イエス様は山上の説教をはじめ、崇高な教えをされました。しかも、ご自分が教えられたとおりに生きた方であります。また、人々の病を癒し、さまざま奇跡を行いましたが、1つも自分のためにやっていません。与えて、与えつくし、十字架で死なれました。この方が、狂人、宗教家作りの天才、あるいはペテン師でしょうか? 人が、イエス様に出会うとき、愛と真実の前にひざまずくしかないのです。

③人々の証言によって信じる

 これは、イエス様を信じた人たちがどれほど変えられたかということです。あのおくびょうな弟子たちは、死を恐れないで、福音を宣べ伝え歩きました。また、私たちは信仰の先輩たちから証を聞いて、「神様は本当にいるのだろうか。イエス・キリストは信じるに値するのだろうか?」と探し求めます。私も29年前、職場の先輩に出会わなければ、キリストを信じなかったでしょう。私ほど、クリスチャンになりにくい人もいなかったと思います。1年半も一緒に仕事をしながら語り合い、「ああ、神がいるなら信じてみたい」と思いました。私がイエス様を受け入れたのは、1979年4月15日、イースターの夜でした。礼拝が終わって、先輩が私のアパートに訪ねてきました。お昼の12時半から、夜の9時半まで、9時間、ずーっと話してくれました。個人伝道であります。私は根負けして、「じゃ、信じるよ」と言いました。その晩、寝て、朝起きたら、空や木の葉っぱが輝いていました。新しく生まれ変わったという体験をしました。私は救われ、永遠の命が自分の中にあるなーという実感がしました。そうしたら、私も彼女や友達に話したくなりました。残念ながら、信じてはもらえませんでしたが、篤い思いはどうにもなりませんでした。今、こうやって牧師になっているのもキリストに出会ったからです。後半は、人が、どう変えられるのかということをもう少し詳しくお話したいと思います。

2.ガリラヤへ行かれます

 御使いが伝えたもう1つの言葉をお読みしたいと思います。マルコ16:7「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」ペテロをはじめ弟子たちは、すべてを捨ててイエス様に従ってきました。彼らはおそらく、このように信じていたでしょう。「まもなく、自分たちの先生が、イスラエルに御国を建ててくださる。その暁には、自分たちは王なるイエスの右か左に座らせられる。すべての労苦は報いられ、俺たちはイエス様と一緒に御国の支配者となるんだ。」ガリラヤの元漁師たちは、このような夢と希望をもって、従ってきたのです。ところが、ところがです。我らのイエス様が、十字架に磔にされ、殺されてしまいました。弟子たちは、「もうおしまいだ。先生が死んだので、御国も一緒になくなった」と思いました。「すべてをかけて従ってきたのに、あの夢と希望はどこに行ってしまったんだろう」。特にリーダー格のペテロはイエス様を三度も否みました。裏切りと失態は、拭っても拭いくれない汚点になりました。弟子たちは全く再起不能でした。しかし、イエス様はそういう弟子たちをガリラヤに呼び出し、再召命を与えたかったのです。16:7に「お弟子たちとペテロ」とあるように、ペテロは特別な存在でした。ヨハネ21章にガリラヤ湖での出来事が記されています。イエス様はペテロに、三度も「私を愛するか」と問われました。ペテロは心が苦しくなり、「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えました。ペテロは完全に癒されました。ペンテコステの日、大説教をして、1日で3000人が救われました。指導者たちに捕らえられても、全く恐れませんでした。ペテロたちは、全く別人になっていたのです。前は命がおしくて、イエス様を否みました。ところが、命を惜しまず、福音を全世界へ運ぶ器になったのです。このように、イエス様の復活の証拠の1つは、変えられた弟子にもあるのです。嘘のために命を捨てる人はいません。イエス様がよみがえられたので、弟子たちもあのように変えられたのです。

 これは私たちにも言えることですが、弟子たちのどこが、何が変えられたのでしょうか。私はイエス様の復活と大いに関係があると思います。イエス様は十字架で一度、死にました。そして死後、葬られました、葬られたということは、完全に死んだということを意味しています。人が死んで、埋葬されたならば、もう何も希望がありません。ジ・エンドであります。ところが、父なる神様は、御子イエスが罪を完全に支払ったので、もう墓にいる必要はないと思いました。使徒2:27「あなたは私の魂をハデスに捨て置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しならない」と書いてあります。聖いイエス様にはもう墓はふさわしくないのです。それで、全能なる神は、御子を死人の中からよみがえらせました。イエス様はそのとき、ただ、生き返っただけではありません。再び死ぬことがない、栄光のからだとしてよみがえられたのです。ですから、この世で言う復活とは違います。この世でも、スポーツや芸能界でも「復活」と言います。それは、長い間ブランクのあった人が、再起することであります。でも、聖書の復活は、息を吹き返すことではありません。復活とは、高次元で、異質なものに生まれ変わることです。イエス様の弟子たちは、イエス様の死と復活を体験したのです。弟子たちの夢も希望も一度、死にました。かつて、ペテロは「私は決して躓きません。死んでも、あなたを知らないなどとは言いません」と豪語しました。しかし、そんな強いペテロが死んで、弱いペテロになったのです。弱いペテロになったら、こんどは聖霊によって大胆なペテロに変身しました。他の弟子たちも同じです。かつては自分の力と知恵により頼んでいました。しかし、イエス様の十字架と復活を通過してから、自分に頼るのをやめました。うわべは同じでも、彼らを支えている力の源が別のものになったのです。それは復活の力であり、聖霊の力です。肉体が死んでから復活するのが当たり前ですが、この地上で、死と復活を体験したのです。これがクリスチャンです。使徒パウロも同じ経験をしました。Ⅱコリント1:9「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえられてくださる神により頼む者となるためでした」。ピリピ3:10「私はキリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」。つまり、パウロにとって、キリストの死の様に等しくなるような時こそ、復活の力を体験する機会となったのです。

みなさん、私たちも死んでから復活するだけではなく、この地上でも、復活の力を体験できます。それはどんなときでしょうか?自分の力に絶望し、自分の夢と希望に死ぬときです。なまじっか生きているので、復活を体験できないのです。本当に死を通過した人が、キリストの復活のいのちに生かされることを体験するのです。世の中の人も、クリスチャンも外から見ただけではわかりません。世の中の人も年を取るし、クリスチャンも年を取ります。世の中の人も病気になるし、クリスチャンも病気になります。世の中の人も何かできますし、クリスチャンだって何かできます。世の中の人も失敗するし、クリスチャンだって失敗します。では、何が違うんでしょう。その人を生かしている命が違うんです。世の中の人は肉体の命しかありません。しかし、クリスチャンは肉体の命と神の命があります。神の命は復活のいのちと言っても過言ではありません。世の中の人は肉体の命がなくなれば倒れます。しかし、クリスチャンは肉体の命がなくなれば、神の命・復活のいのちが出てきます。車でも、ガソリンと電気で走るハイブリットカーというのがあります。知らない間に、電気に切り替わる。同じように、知らない間に、神の命に切り替わる。苦しめられるけれど窮しない。途方にくれても行き詰らない。倒れても、滅びない。いつでも、イエス様のいのちが私たちの身に現れるからです。旧約聖書を見ますとアブラハムが100歳、サラが90歳のとき、子どもを生みました。体が死んだも同然であったのに、神様が彼らを生かしたのです。また、モーセは40歳の壮年のときではなく、80歳から用いられました。モーセは120歳で死にましたが、「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(申命記34:7)と書かれています。ヨシュアとカレブだけが、40年荒野を通過したのち約束の地に入ることができました。カレブはこう言っています。「今や私は、きょうでもう85歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今でも壮健です。私の今の力は、あの時と同様、戦争にも、またに日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください」(ヨシュア14:11-12)とアナク人がいる城壁のある町をあえて求めたのです。なんというチャレンジ精神でしょう。これがクリスチャンです。私たちは肉体も能力も世の人とはあまり変わりありません。でも、違うのは私たちの内には私たちを生かす、神様の命があるということです。これは、復活の命、聖霊の力と言い換えても良いでしょう。

 先週から、教会総会の準備を始めました。「教勢」と関係がある礼拝出席の統計をしてみました。なんと昨年度は、平均76名でした。ガヒーン。2003年度は85名、その次の年は83名、79名、そして76名です。デクラレーション、あきらかに減少しています。「教会は人数じゃない」と言ってきましたがやっぱりショックです。「ああ、私ももうすぐ54になるし、人生、先細りだなー」とチラッと思いました。日本の教会は、リバイバル、リバイバルと祈ってきました。でも高齢化が進み、リバイバルではなく、サバイバル、教会が生き残るかどうか問題です。この間、常磐牧師セルで、松戸の岡野先生のお話をお聞きしました。先生は1990年に教会が潰れ、教会員ゼロになりました。先生ご夫妻は死んだような状態になりました。それから悔い改め、様々なイベントではなく、生活を通して伝道することに切り替えました。単純に、みことばに生きる弟子を目指しました。今、70-80名集まっているそうです。教会堂はありませんが、公民館を借りて集会をしているそうです。本当に復活したんですね。私たちも今、人間的な知恵やノウハウとかやめて、神様の力にだけ頼りたいと思います。生活の中で、「もうだめだ」と、死の様に等しくなるような出来事が起こります。でも、それは良いことなのです。あなたはそのことで自分を頼らず、死者を生かす神様により頼む者となるからです。なまじっか、力が残っているなら、また自分に頼るでしょう。そうではなく自分に死んで、キリストの命、復活の命に源を置くのです。もちろん、キリストの復活は、私たちが死しんでから体験できるでしょう。しかし、今も、神様はキリストをよみがえらせた力で私たちを生かしたいのです。どうぞ、キリストにつながり、復活の命に生かされましょう。必ずや大逆転、大勝利が訪れることでしょう。

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