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2019年9月13日 (金)

パウロの教会観 エペソ2:19-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.15 

 きょうは教会とは何かということを学びたいと思います。教会とは建物ではなく、私たち自身です。イエス様を信じている群れ、そのものが教会です。少し前に、教会の歴史を学びました。教会が国のものになったために、制度化していのちがなくなりました。過去、長い間、いろんな間違いを犯しましたが、聖書に立ち返るのが一番です。使徒パウロはエペソ人への手紙で、教会とは何かということを述べています。

1.神の家族

 教会とは神の家族です。神の家族において最も重要なことは互いに愛し合うことです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」「こういうわけで」と書かれていますので、そのまえに神の家族になるための理由があるということです。何故、私たちは神の家族なのでしょうか?一般に、家族というのは、同じ親から生まれた子どもたちです。教会ではクリスチャンを兄弟姉妹と呼んでいます。私が初めて教会に来たとき、週報を見てびっくりしました。〇〇兄とか、○○姉と書かれているので、「ああ、この教会は親族が集まっている教会なのかな?」と思いました。洗礼を受けた後だったと思いますが、姉妹方が私に「鈴木兄弟、二階で、昼ごはんどうですか?」と誘うのです。「気持ち悪い!」と思いました。今は、その理由が分かるので平気ですが、初めて来た人はきっと驚くと思います。なぜ、お互いが兄弟姉妹になるのでしょうか?それは、同じお父さんを持っているからです。私たちはかつて、霊的に死んでいた存在でした。しかし、キリストを信じて恵みによって救われました。言いかえると、霊的に新しく生まれたということです。すると、神さまが今度は、「天のお父様」になります。パウロは「アバ、父よ」と呼ぶ霊を与えたからだと言いました。私たちはキリストを信じ、洗礼を受けて、神の家族の仲間入りしたのです。ごめんなさい。まだ、そうでない方も会衆には含まれていますが、おおまかに言ってしまいました。

 家族で最も重要なことは、互いに愛し合うことです。それはこの世の家族でも、神の家族でも同じことです。その家庭で生まれたなら、どんな人でも家族の一員です。頭の良し悪し、何かができるとかできないとか、体の状態がどうであるかなど、全く関係ありません。無条件で、家族の一員になることができます。家族とは共通したDNAを持つ、運命共同体と言うことができます。クリスチャンはどうなのでしょう?私たちが神の家族と言うとき、やはり、何ができるとかできないとか関係がありません。しかし、どこかの教会では、「奉仕ができる若い人が良い」とか、「お金があって社会的地位のある人が良い」と思っているかもしれません。教会の牧師が、そんなこと全く思っていないというなら嘘になるでしょう。もし、教会が会社であるなら、能力のある人を望むでしょう。もし、教会が軍隊であるなら、戦力になる人を望むでしょう。でも、教会が家族ならば、その家で生まれたという一点だけです。私たちは天地を創られた全能の神さまのDNAを持っています。神の子どもですから、御国の相続者であり、リッチな存在です。

 でも、聖書にはそう書いてあっても、急に「神の家族」「兄弟姉妹」にはなれません。「互いに愛し合いましょう」と言われても無理です。なぜでしょう?多くの場合、私たちは不完全な家族の中で生まれ育ったからです。もちろん、愛のある恵まれた家庭で生まれた人もいるでしょう。お父さんが大きな声を一度も上げたことがない。お母さんは優しくて笑顔が絶えなかった。めったにはいないと思いますが、いると思います。でも、多くの場合は、無責任な父親を憎んだり、ヒステリックなお母さんを憎んだりしています。父と母が喧嘩しているのを見ると、兄弟同士も喧嘩してしまいます。「子どもに対する一番の教育は、夫婦が仲良くすることだ」と言われますが、仮面夫婦はもっとまずいですね。つまり、父や母など、家族に関する傷を持ったまま、教会に来ます。いくら聖霊によって新しく生まれても、心が全部生まれ変わるわけではありません。教会の中には、馬の合わないというか、愛せない人が一人や二人、三人、四人くらいはいるものです。何故、教会に来てまで、そういう人がいるのでしょう?実はそれは神さまの計画であり、教会は愛するところでもありますが、愛を学ぶところでもあるのです。人間関係の傷は、人間関係でしか癒すことができないことを学ぶべきであります。

 良く、教会に来て、「あの人に躓いた」「この人に躓いた」「牧師にも躓いた」とか言って、教会を去る人がいます。しかし、それはお互い様なのです。私たちは天国に行くまで、工事中なのです。罪赦され、義とされていますが、人格的にはみな未完成です。よく、工事現場の前に看板が立っています。ヘルメットを脱いだ人が「工事中、ご迷惑をおかけします」、頭を下げて謝っています。私たちは「この人すばらしいクリスチャンに違いない」と思って近づくと、目の前に大きな穴ぼこがあって転落するかもしれません。だから、どんな人でも「工事中」なのです。ですから、お互いに「工事中!」というバッチを胸につけて、交わると大丈夫です。でも、すばらしい約束もあります。「こういうわけで」の前にこのように書かれています。エペソ216,18「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。…私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」そうです。キリストの十字架が、私たちが持っている敵意を葬ってくださったのです。これはアダム以来の人を愛せない罪です。敵意は十字架によって葬り去られたのです。もう1つは、私たちは「キリストによって」、キリストを間に入れて、媒介的に愛し合うことができるのです。夫婦であっても、キリストなしで愛し合うことは不可能です。お互いの罪のとげを受け止めてくださるキリストを間にお招きする必要があります。私たちは、無媒介的に愛し合うことは不可能です。キリストを媒介して、キリストをクッションのように間に入れて、互いに愛し合うことができるのです。教会は神の家族です。能力のあるなし、身分のあるなし、教育のあるなしは関係ありません。キリストによって生まれ変わった、同じ天の父を持つ神の家族なのです。

2.キリストのからだ

 教会とはキリストのからだです。キリストのからだにおいてもっとも重要なことは互いに仕え合うということです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ1:23「教会はキリストのからだであり」と書かれています。エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ」とあります。端的に言いますと、教会のかしらはキリストであり、私たちひとり一人はキリストのからだです。からだはかしらの命令に従う存在です。キリストは、今は天におられます。そして、キリストのからだが地上にあります。ということは、私たちはこの地上においてキリストの命令を実行するように召されているということです。かつて、キリストはこの地上で福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、人々を教え、助け、導きました。かつて、キリストがなされたことをからだである私たちが、継続的に行うように召されているということです。レイ・ステッドマンが『伸び行く教会』という本でこう述べています。「もし受肉がイエスの地上の生涯で終わったと考えるなら、大きな誤りを犯したことになります。受肉は今もなお継続中です。イエスの生命は今もなお人々の間に現されています。もっともそれは、地上の一箇所に制約される個々の肉体を通してではなく、教会という複合の共同体を通してなのです。」つまり、私たちはキリストのからだの各器官であり、全部、合わさったものが、キリストそのものなのだということです。もし、そうであるなら、教会の存在目的と、自分がそのために何をするかが自ずと分かってくるでしょう。

 キリストのからだについてもっと詳しく述べているのがⅠコリント12章です。パウロはキリストの各器官は、御霊の賜物のことであると言っています。Ⅰコリント127「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」「おのおのに」とありますので、ひとりの例外もなく、御霊の賜物が与えられているということです。Ⅰコリント12章には、知恵のことば、知識のことば、信仰、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力と9つあげられています。これらは「現れの賜物」と言われ、奇跡的な賜物です。しかし、ローマ12章には性格的な賜物もあります。預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善の7つです。Ⅰペテロ4章には「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(10節)と書かれています。さきほどのレイ・ステッドマンが『伸び行く教会』で、興味深いことを述べています。「キリストのからだには4つの主要系統があり、それとの依存関係において、からだの各部分はそれぞれの機能を課しています。その4つとは、からだの骨組みとなる骨格および筋肉、神経系統、消化器系等、それに循環器系等です。からだの中には、生殖器系統などのように、生命そのものにとって別になくても困らないものもありますが、この4つはそうではありません。」レイ・ステッドマンが言う4つのことは次のポイントでお話しいたしますが、Ⅰコリント12後半にそのヒントが記されています。Ⅰコリント1227-28「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」神さまがからだをちゃんと動かすために、ある人たちを任命しているようです。「第一に使徒、次に預言者、次に教師」と書いてあります。残念ながら現代の教会では、第一であるべき使徒、その次の預言者がないがしろにされています。教団や牧師がキリストのからだを動かすならば、いろんな支障が出てくるのは当然です。ちなみに牧師はキリストのからだのかしら(ボス)ではありません。かしらはあくまでもキリストです。韓国で開かれた牧師セミナーで、講師が「牧師はからだのどの部分ですか?」と質問しました。しばらく沈黙が続いた後、一人の牧師が大声で「わかりました」と、手を上げました。「では、どこですか?」と聞くと、「はい、首です」と答えました。「なぜですか?」と聞くと、「はい、牧師は、かしらであるキリストを自由に回すことができる首の部分です」と答えたそうです。真実は教師・牧師はからだの主要系統のどれかにあたります。

 私たちひとり一人はキリストのからだの器官の一部です。肢体としてみるなら、手、足、目、耳、口です。医学的に見るなら、心臓、脳、肺、胃、腸、血管、骨、筋肉、神経…総合病院を連想します。宇宙工学的には、盲腸ですら無駄ではないと言われています。Ⅰコリント1221,22「そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」アーメン。体の各器官で重要なことは、からだにつながっていないと、自分の働きができないということです。からだで心臓は重要な器官ですが、もし、心臓が「俺が一番偉い。俺は誰の助けも必要としない。だから、からだから独立して働く」と言ったならどうなるでしょう。道ばたにころがっている心臓を想像してみてください。ただ、空気を送っているポンプに過ぎないでしょう。まもなく、心臓自体も死んでしまいます。パウロは「からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」(エペソ416と言っています。私たちひとり一人は組み合わされ、結び合わされる必要があるんだということです。キリストのからだは機械でもなく、この世の組織でもありません。キリストのいのちを共有する有機体です。Ⅰコリント1225,26「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」当教会では、賜物と召命に従って、たくさんの奉仕グループがあることを感謝します。もちろん、奉仕は教会内のことだけではありません。かつて、キリストがこの地上で行なっていたことを、私たちキリストのからだが、キリストの命令を受けつつ、継続拡大していきたいと思います。

3.聖霊の宮

教会とは聖霊の宮(建物)です。聖霊の宮においてもっとも重要なことは互いに建て上げ合うということです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ220-222:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」このところには、教会は建物であり、聖なる宮であると書かれています。宮というのは神殿です。かつて、主はソロモンが建てた神殿に臨在されました。その後、イエス様の内に住まわれました。その後、どうなったのでしょう?信仰者の中に、聖霊として住まわれるようになりました。しかし、個人だけではありません。Ⅰコリント316「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と複数形で書かれています。つまり、私たちみんなが、神が住まわれる神殿であるということです。でも、エペソ2章には「組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる」と書かれています。現実的に「建物が成長する」ということはありません。なぜなら、神殿は石でできているからです。でも、その石は生きています。Ⅰペテロ24,5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」ここに「生ける石」と書かれています。生ける石は英語の聖書で、living stoneです。どこかで聞いたことのあることばです。アフリカの宣教師の名前もリビング・ストーンでした。

次に重要なのは「あなたがたもともに建てられ」ということばです。Ⅰペテロ2章は「築き上げられ」ですが、英語ではbe built upとなっています。エペソ人への手紙の「ともに建てられ」は、are being built togetherとなっています。build建てるという動詞の受身形になっています。建物である教会は互いに建てられる存在だということです。しかし、ギリシャ語の「建てる」は、オイコドメオーであり、「建てる」の他に「強化する、向上させる、高める」という意味もあります。ですから、他の箇所には「徳を高める」、英語ではedify というふうに訳されています。Edifyというのは、「啓発する、教導する、強化する」という意味があります。結論的に言いますと、互いに建て上げあうということは、互いに教えたり、励ましたり、指導したりすることも含まれるということです。「徳を高める」というのは、人の良いところを発見して、それを伸ばしてあげるようなニュアンスがあります。逆に、「徳を下げる」というのは、欠点をあげつらい、人を気落ちさせてしまうというニュアンスがあります。良い指導者というのは、人の良いところをほめて、それを伸ばしてあげる人だそうです。他人にはそうかもしれませんが、子どもや身内には、結構きびしいところがあるのではないでしょうか?でも、教会は互いに励まして、徳を高め合うところだということを忘れてはいけません。

ところで、エペソ4章には建築を指導する人たちのことが記されています。エペソ411,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。彼ら5人は、聖徒たちを整えて、キリストのからだを建て上げるための指導者です。そのために「五職の賜物」と呼ばれています。この賜物は聖霊の賜物というよりは、キリストご自身が召してくださった賜物ということができます。ご存じだと思いますが、建築のためには専門家が必要です。昔は石をどこからか集めてきて、加工して、それを積み上げて作りました。インドネシアのエディ・レオ牧師は「5つの働きがなければ、神の家を建てることができない」と言われました。第一の働きは材料を見つけなければなりません。伝道者はどこからか石を見つけて運んでくる人です。これは伝道の働きです。また、伝道者は自分でも伝道をしますが、「あなたも互いに伝道しなさい」と勧めます。第二の働きはふぞろいな石を適当なかたちに加工する必要があります。大きなハンマーやノミをもちいて、砕いたり削ったりします。これは教師の働きです。また、教師は自分でも教えますが、「あなたも互いに教え合いなさい」と指導します。第三の働きは石を正しい場所に置くことです。石と石がきっちり合わさる必要があります。これは人々を世話をしたり、養育する牧師の働きです。牧師は自分でも牧会しますが、「あなたも互いに牧会するように」と勧めます。第四は家が設計図どおり建てられているだうかとチェックする人、コンサルタントが必要です。この人は預言者です。この人は自分でも預言しますが、「あなたも互いに預言し合いなさい」と指導します。第五は施主である神さまから設計図や工事の内訳をいただく人です。設計図とは教会の永遠の目的です。使徒は自分も永遠の目的に目をとめて進みますが、「あなたも互いに永遠の目的に目をとめて進みなさい」と指導します。

残念ながら、今日の教会では使徒と預言者が不在です。だから、教会がなすべき永遠の目的が何かを知りません。神からの設計図もそれをチェックするコンサルタントもいません。ただ、自分たちの教団や教会を大きくしようとやみくもに働いています。だから、神さまが住めるような神殿になっていないのです。神さまがお住みなられる神殿の至聖所は正六面体、立方体です。立て、横、幅、奥行きがみな同じ長さです。地域教会はいわば1個の立方体です。地域教会があわさったものが、ユニバーサル・チャーチ(普遍的教会)です。黙示録21章には、聖なるエルサレムが描かれています。都そのものが巨大な神殿になっています。都の土台も城壁も高価な宝石で飾ら得ています。都は四角で、その長さと幅も同じで、それぞれが12000スタディオンです。長さも幅も同じです。将来、私たちの教会がその中に組み込まれるのです。教会が神の家族であるというとき、私たちは互いに愛し合う存在だということです。教会がキリストのからだであるというとき、私たちは互いに仕え合う存在だということです。教会が聖霊の宮であるというとき、私たちが互いに建て上げ合う存在だということです。教会には三位一体の神さまがおられます。

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