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2019年9月20日 (金)

近世の教会 ヨハネ黙示録3:7-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.9.22

 フィラデルフィアの教会は、17世紀から18世紀の教会を表しているのではないかと思います。宗教改革以前はカトリックの教皇と国王がうまくやっていました。ところが、宗教改革後は、国民自体が目覚め、自分たちの国を作ろうとしました。しかし、彼らはカトリックあるいはプロテスタントの信仰がありましたので、そのことで戦争になりました。「同じ神さまを信じ、神さまが創った人間同士がどうして?」と思いますが、それが罪ある人間です。

1.歴史における近世の教会

 ルターによる宗教改革の後、ヨーロッパ中を巻き込む「30年戦争」がありました。カトリックとプロテスタントの対立による最大かつ最後の宗教戦争と言われています。この戦争で約1000万人が死亡、ドイツの人口は約35%減となりました。ウェストファリア条約後、ヨーロッパの秩序は、皇帝や教皇の超国家的な権力から諸国民国家の競合関係へと移ります。キリスト教会は、北欧とドイツはツター派、オランダとスイスは改革派、イギリスは英国国教会、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、ポーランドはカトリックになります。第一に対抗改革を行ったカトリック教会についてお話ししたいと思います。1545年、トリエント公会議が開かれ、18年間にわたって継続されました。イグナティウス・ロヨラによって創設されたイエズス会が、「教皇の精鋭部隊」として教皇から正式に認可されました。1549年には、ブラジルにおけるイエズス会士による宣教が開始されました。その後、宣教はペルー、メキシコを経て、フロリダとカルフォルニアに到達します。日本にはフランシスコ・ザビエルがやって、多くの人が救いに導かれました。イエズス会の世界宣教の特徴として、適応主義と呼ばれる基本方針、つまり、宣教地の文化や言語を学び、現地の宗教的文化的状況に適応した宣教方針があげられます。イエズス会がブラジルのインディオを保護しようとしたので、ポルトガルから迫害が起こりました。ポルトガル王国は、15世紀にはヨーロッパ各国に先駆けて海外進出を行い、アフリカ西岸かインド洋を経て、東アジアへと通商を拡大しました。カトリックのラテンアメリカでの宣教活動は、ポルトガル、スペインの植民地征服と一致して行われました。しかし、インディオの奴隷化に反対したドミニコ会士はスペイン政府にその不当性を訴え続けました。海王帝国として繁栄したポルトガルとスペインの覇権も、16世紀後半には次第に衰退に向かいます。1588年、イングランドによるスペイン無敵艦隊勝利後、覇権は、オランダ、フランス、イングランドに移ります。

 次に宗教改革後のドイツのことをお話しいたします。30年戦争後、神聖ローマ帝国は消滅し、オランダやスイスが独立して現在のドイツになりました。ルターと改革派は相互に協議論争を行い、その思想が、信条・信仰告白文として表明されました。正統主義は、各教派の立場を明確に反映したものですが、いずれも宗教改革の伝統を共有しており、聖書原理と信仰義認論においては合致しています。それは、聖書が無条件に真理であり無謬であること、そして霊感されていると認識する立場でした。しかし、正統主義はあまりにも、信仰の知性主義、あるいは客観主義であったために、17世紀後半には敬虔主義が起こりました。これはプロテスタント教会の内部から生まれた信仰刷新運動であり、ルターの精神である個人の体験(内面性)と信仰の道徳的実践を強調しました。シュペイナーから始まったこの覚醒運動は、北ドイツに広まり、フランケによって拡大されました。その影響を受けたツィンツェインドルフは「モラヴィア兄弟団」を形成し、市民や農民層にも広がっていきました。フランス革命とナポレオン戦争後のドイツには、ルター派と改革派の合同教会が成立します。元来の正統主義、敬虔主義の上に、啓蒙主義が加わりました。正統主義を堅持する保守系に対し、伝統の学問的批判的再考をめざす神学が現れました。その当時は、カントやヘーゲルが活躍していましたので、彼らの哲学思想を取り入れ、聖書の歴史批評を積極的に行いました。伝統に対する自由な学問的批判を行う神学はしばしば自由主義神学と呼ばれるようになりました。この続きは、次回の「世の終わりの教会」でお話しします。

 その次はフランスです。宗教改革の進展によって、フランスにおいてもカトリックとプロテスタントの対立が激しくなり、1562年に「ユグノー戦争」と呼ばれる宗教戦争にまで発展しました。1572年、カトリックはユグノーの貴族たちを襲いました。「サン・バルテミの虐殺」と呼ばれ、犠牲者の数は1万から3万人とされます。1598年、アンリ4世がナントの勅令を発布して、ユグノー(新教徒)の自由を認めました。しかし、ブルボン家のルイ14世がカトリック教会をフランス王家にしようと、ナントの勅令を廃止しました。その後、ユグノーたちは国外へと追いやられました。しかし、ブルボン家の絶対王政もフランス革命(1789年)によって終わりを告げ、革命政府はフランスの世俗化を推進しました。1801年にナポレオンは教皇ピウス7世と政教協約を締結しました。その結果、カトリックは国家の宗教ではないものの、国民の多数の宗教で有り続けています。フランス革命は、近世ヨーロッパの政治的思想的運動である、啓蒙主義の帰結と言えるものです。啓蒙主義は、近代民主主義国家の展開において重要な移置を占めています。しかし、そこから生まれた合理主義は、伝統的なキリスト教を批判するものであり、フランスのカトリック教会にとっては、宗教改革以降の最大の脅威となりました。1789年に議会は教会財産の没収、国有化を行い、司教司祭の実質的な公務員化を断行しました。その後、ブルボン家が王政復古を計りましたが、それが失敗して、フランスは世俗主義の共和制国家となり、現在に至っています。

 最後はイングランドです。ジェームズ2世は、かつて清教徒革命のためにフランスに亡命していた頃にカトリックに改宗しました。彼はカトリック教徒を重用し、これに反対していたプロテスタントの大臣を次々に罷免しました。ほとんどの議員がプロテスタントであり、カトリックの支配に対して敵意を持つイングランド議会と国王との間に対立が深まりました。議会は後継者問題が起こったとき、ジェームズ2世の娘メアリとオランダ総督ウィリアムを結婚させ、ジェームズ2世を追い出しました。これは、「名誉革命」と呼ばれる一種のクーデターです。その後、穏健な立憲君主制と寛容な国教会、そして政教分離の成立に至ります。こうした経緯において成立したイギリスの国教会は、よりカトリックに近い流れ(ハイチャーチ)とよりピューリタンに近い流れ(ロー・チャーチ)、そして近代的な立場を持つ流れ、と多様な立場を内包するものになりました。17世紀後半、キリスト教と啓蒙主義思想がしばしば敵対しつつありましたが、イギリスでは「理神論」が起こりました。理神論というのは神が世界を創造した後は、時計のごとく自然法則に従い、被造物に干渉しないという考えです。創造後の宇宙は自己発展する力を持つとされ、奇跡や預言などによる介入はあり得ないと排除しました。この考えは、フランスのヴォルテールやルソー、ドイツのレッシングやカントに影響を与えました。簡単に言うと、人間の理性がすべての尺度になり、啓示とか超自然的なものを排除するようになります。神にかわって、「自然の力」とか「自然の法則」が重んじられるようになります。18世紀前半のイギリスは、イングランドとスコットランドの合同に成功して「大ブリテン連合王国」を成立させ、さらにアイルランドを武力降服させました。長期にわたる対フランス戦争においてフランス軍を陸海に破り、海外に広大な植民地を獲得し、ここに世界的覇権を握る大英帝国の基礎を築きました。金融制度は整備され、海外発展に伴う商業の著しい進歩により、イギリスは世界一の商業国となり、ロンドンは世界貿易の中心地となりました。このような国家的飛躍の時期にもかかわらず、国民の霊的生命は衰退していました。長期間の闘争と流血のくり返された嵐の宗教改革時代は過ぎ去り、争いよりは平和を、宗教的熱心よりは温和な合理的宗教を歓迎する空気が支配しました。時代の風潮は、繁栄する社会の商業的精神に触発された物質的利益追求であったので、神の国よりもこの世への関心が集中し、人々の宗教心はいっそう冷却しました。その時、ロンドンにおいて、ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレーとジョージ・ホイットフィールドという三人の偉大な指導者の出現によって初めて、福音主義の復興は力強い、満ち溢れるような流れが生まれました。ウェスレーのメソジスト運動は巨大なものへと成長し、産業革命期の混乱・退廃したイギリス社会に一大変革をもたらしました。

 私たちは学校で世界史を学びますが、キリスト教との関係で学ぶことはないと思います。私たちは近世というと、フランス革命とか啓蒙主義を連想するかもしれません。近世は一口で言うと、ローマ・カトリック教会と独裁的な王様から脱却し、国民主体による国家を作りだそうとする時代です。しかし、彼らの根底にあるのはキリスト教であり、聖書であることは間違いありません。しかし、啓蒙主義思想によって啓示よりも、人間の理性に頼るところが多くなり、やがては聖書まで解体してしまいます。また、産業革命に入ってくると、お金や物が最優先され、霊的に退廃してきます。しかし、不思議なことに霊的復興、リバイバルも各地で起ってきます。リバイバルの火はアメリカへと渡っていきます。中部植民地やニューイングランド、ヴァージニアにリバイバルが起こりました。聖書に「心の貧しい者は幸いです」とありますが、人々が霊的に燃えるのは経済的に満たされた平和な時代よりも、霊的にも経済的にも不安定な時代なのかもしれません。なぜなら、その時こそ、神に頼るからではないでしょうか?人間の理性で神さまは分かりません。私たちが霊的に飢え渇き、貧しくなるとき、神さまは豊かに現れてくださいます。

2.フィラデルフィヤにある教会

 後半は黙示録が預言している、「フィラデルフィヤにある教会」について語りたいと思います。おそらく、神さまは国々の情勢にではなく、もっと別なことに興味がありそうです。黙示録3:7「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。フィラデルフィヤは「兄弟愛」と言う意味です。主は彼らに「だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」と言われました。主にある兄弟たちは最初、互いに争いました。ドイツ30年戦争では多くの人たちが血を流しました。フランスでもカトリックがユグノーの貴族たちを虐殺しました。イギリスでは国教会とカトリックが争いました。互いに戦って尊い人命を失ってから、やっと条約が締結され、平和が訪れました。兄弟愛とまでは言えませんが、交わりを回復していったことは確かです。戦争は悪魔のリバイバルです。何故、同じ神さまを信じているのに、あのように戦うのか信じられません。歴史を学んだ人たちが必ず躓く汚点です。でも、人間は多くの過ちを犯した後で、目が覚め、神さまに目を向けるようになります。プロテスタント教会は、カトリックから色んなきっかけで出たため、たくさんの教団教派が生まれてしまいました。教義や神学は違いますが、キリストを救い主として信じていることは変わりありません。三位一体の教理も共通して持っています。かなり不完全ではありますが、17,18世紀の教会はフィラデルフィヤ「兄弟愛」教会と言うことができるかもしれません。黙示録38「私は、あなたの行いを知っている。見よ。私はだれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」とあります。奥山実師は「世界中に福音の門戸が開かれ、世界宣教が盛んに行われた時期である』と言っています。宗教改革の後、カトリックは目が覚めたように世界宣教をしていきます。この宣教は実際には、バチカンではなく、イエズス会やフランシスコ会などの修道会が行ったのです。だいぶ遅れてから、プロテスタントもウィリアム・ケアリーによって宣教会を持つことができるようになりました。奥山師は、教会が宣教をするのではなく、使徒の働きのように「パウロの一行」である宣教会がやるべきなのですと主張しておられます。

 私は、前半の世界史と黙示録3章を照らし合わせながら、この時代は「自由」ということが3つ方面で現れているように思えました。第一は信教の自由です。4世紀から16世紀までは、ローマ・カトリックの支配のもとにありました。それは教皇を頂点としたピラミッド構造であり、それに国王の権力が加担していました。宗教改革によって、教皇と国王が分離しました。やがて、国王は名ばかりで、諸侯や国民で信仰を持つようになりました。しかし、国民はそれぞれの、力ある王様や貴族や領主が持つ宗教的な立場に従っていました。そのため、30年戦争など宗教間の醜い争いが起こりました。この世の人たちから見たら、全くの躓きです。しかし、黙示録38後半から10節「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」とあります。サタンの会衆に属する宗教的団体(教会)から、少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった人たちがいました。彼らは忍耐して主のことばを守ったのです。形では、ルター派と改革派、国教会と3つに大きく分かれました。でも、その中に純粋に信仰を守ろうとしたフィラデルフィヤ(兄弟愛の教会)がいたのです。フランスでは迫害を受けたユグノーたちです。ユグノーとは「誓約仲間」という意味です。彼らはカルヴァン派プロテスタントで、手工業者・独立自営農民・小商人に多くいました。彼らがフランスの金融業、工業、商業の担い手でした。しかし、迫害を逃れてイギリスやドイツに渡り、亡命先の経済を発展させました。もう1つはモラヴィア兄弟団です。ツィンツェインドルフ伯爵の領地に逃れてきたフス派兄弟団の群れが、ヘンフルート(主の守り)と呼ばれる共同体を形成しました。そこに、各地で迫害されていた敬虔派、アナバプテストも逃れてきました。最初は互いに権利を主張し合って問題が絶えませんでした。しかし、1727813日の聖餐式で全員が聖霊の力を経験して、モラヴィア兄弟団が発足しました。ジョン・ウェスレーは1735年アメリカのジョージアへ行く途中、モラヴィア兄弟団の敬虔主義の影響を強く受けました。なぜなら、航海中の嵐の中で平安を保ち、神を賛美する彼らに感動したからです。ジョン・ウェスレーはモラヴィア兄弟団の宣教師ペーター・ベーラーの信仰義認の説教を聞いて、信仰の確信を得ました。さらに、19世紀初頭、主はジョン・ネルソン・ダービーの下に、いわゆるブラザレンを起こされました。ブラザレン運動は、宗教改革より偉大であると言う人もいます。このように信教の自由がフィラデルフィアの教会です。

 第二は人権の自由、人権の解放です。一般国民はかつてローマ・カトリック教会の外にいました。カトリックは教皇と司教などの聖職者によって支配され、一般民衆は教会の外でした。また、十字軍の後、王様による封建主義が強固になり、土地を持たない農民がほとんどでした。イギリスでは名誉革命、ドイツでは30年戦争、そしてフランスではフランス革命が起こりました。どうなったかというと、国民主体による政治の時代がやってきました。啓蒙主義思想も手伝い、「国家とは何か、政治とは何か」ということが問われはじめました。フランスでは1789年に「人間及び市民の権利宣言」を国民議会で採択しました。フランス国旗の青・白・赤の3つの色は、自由、平等、友愛という意味があります。イングランドは1707年、スコットランドを併合して「大ブリテン王国」になりました。共通の議会を持ち一人の国王をいただく連合王国になりました。オランダは、80年の独立戦争を経て、1648年に独立しました。こう考えると、人権の自由というのはタダではもらえないということです。ヨーロッパの各国においては、血の代価、命を払って獲得したものです。「戦争はいけない」と言えばそれまでですが、人権の自由のためには、多大な犠牲が伴うことも確かです。日本はこのような歴史がないので、人権や平和のために戦うという考えがありません。民主主義も他国からあてがわれたような感じがあり、勝ち取ったという考えがありません。イギリスは19世紀には議会政治が確立しますが、それまで幾多の苦難を経なければなりませんでした。私たち日本はイギリス政府の良いとこ取りではないかと思います。黙示録3:11,12「 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。」ここに「勝利」ということばがありますが、冠を守るために戦う必要があるということを暗示しています。ここで言われている冠は人権以上ものであり、信仰を全うした者に与えられる褒賞です。

 第三は思想の自由です。宗教改革以前は、ローマ・カトリック教会が決定したことがすべての基準でした。また、聖書が自由に読めないので、いろんな迷信に縛られていました。しかし、南ヨーロッパではルネッサンス、北ヨーロッパでは宗教改革が起こりました。それは「カトリック教会」という宗教から抜け出すという自由でありました。ルネッサンスは、古代ギリシャ・ローマの文芸復興であり、初代教会の霊的財産をすべて捨てて、古代ギリシャ・ローマまで戻りました。しかし、宗教改革は聖書を土台とした信仰の回復であります。一般の人々がやっと自国のことばで聖書を読めるようになったのです。最初、自国の言葉で聖書を訳した人たちは迫害され、殺されました。このように自由に聖書を読めるのは彼らのおかげです。啓蒙主義思想は最初、信仰を合理化する考え方でありました。ルソーやモンテスキューなどの啓蒙主義は政治や科学の発展にはとても役に立ちました。ところが、調子に乗って、聖書を歴的な書物の1つに考えるようになり、啓示や霊感を否定してしまったのです。スピノザやカントが出て来て、聖書の神とは全く違った方向に行きます。理性は神さまが与えてくれたすばらしい賜物の1つです。でも、理性で神さまのことを知ろうとしたら大間違いです。たとえば、「蟻が人間とは何か?」と研究しても、人間のことがどのくらい分かるでしょう。思想や哲学の重要性は認めますが、私たちは神の被造物であり、限られた存在であることを知るべきです。もし、神さまのことを知りたいなら、神さまご自身が、私たちに開示してくれなれば分かりません。歴史的にはローマ・カトリックという宗教からは自由になりました。しかし、神さまから自由になることではありません。黙示録3:13「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と書いてあります。イエス様も地上でおられた頃、「耳のあるものは聞きなさい」と言われました。現在は御霊を通して、イエス様が私たちに語っておられます。私たちの知性は、創造主なる神さまに向けるとき、はじめてその方向が定められます。また、御霊による啓示こそが、本当の発明や発見につながるのです。なぜなら、この宇宙や自然界は、知恵者なる神さまが創られたからです。そこに一定の法則や原理があるのは、それが偶然にできたからではなく、創造主なる神が造られた証拠であります。箴言17「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」とあります。この世界は閉じられた世界ではなく、今も神さまが奇跡をもって関与してくださいます。

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2019年9月13日 (金)

パウロの教会観 エペソ2:19-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.15 

 きょうは教会とは何かということを学びたいと思います。教会とは建物ではなく、私たち自身です。イエス様を信じている群れ、そのものが教会です。少し前に、教会の歴史を学びました。教会が国のものになったために、制度化していのちがなくなりました。過去、長い間、いろんな間違いを犯しましたが、聖書に立ち返るのが一番です。使徒パウロはエペソ人への手紙で、教会とは何かということを述べています。

1.神の家族

 教会とは神の家族です。神の家族において最も重要なことは互いに愛し合うことです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」「こういうわけで」と書かれていますので、そのまえに神の家族になるための理由があるということです。何故、私たちは神の家族なのでしょうか?一般に、家族というのは、同じ親から生まれた子どもたちです。教会ではクリスチャンを兄弟姉妹と呼んでいます。私が初めて教会に来たとき、週報を見てびっくりしました。〇〇兄とか、○○姉と書かれているので、「ああ、この教会は親族が集まっている教会なのかな?」と思いました。洗礼を受けた後だったと思いますが、姉妹方が私に「鈴木兄弟、二階で、昼ごはんどうですか?」と誘うのです。「気持ち悪い!」と思いました。今は、その理由が分かるので平気ですが、初めて来た人はきっと驚くと思います。なぜ、お互いが兄弟姉妹になるのでしょうか?それは、同じお父さんを持っているからです。私たちはかつて、霊的に死んでいた存在でした。しかし、キリストを信じて恵みによって救われました。言いかえると、霊的に新しく生まれたということです。すると、神さまが今度は、「天のお父様」になります。パウロは「アバ、父よ」と呼ぶ霊を与えたからだと言いました。私たちはキリストを信じ、洗礼を受けて、神の家族の仲間入りしたのです。ごめんなさい。まだ、そうでない方も会衆には含まれていますが、おおまかに言ってしまいました。

 家族で最も重要なことは、互いに愛し合うことです。それはこの世の家族でも、神の家族でも同じことです。その家庭で生まれたなら、どんな人でも家族の一員です。頭の良し悪し、何かができるとかできないとか、体の状態がどうであるかなど、全く関係ありません。無条件で、家族の一員になることができます。家族とは共通したDNAを持つ、運命共同体と言うことができます。クリスチャンはどうなのでしょう?私たちが神の家族と言うとき、やはり、何ができるとかできないとか関係がありません。しかし、どこかの教会では、「奉仕ができる若い人が良い」とか、「お金があって社会的地位のある人が良い」と思っているかもしれません。教会の牧師が、そんなこと全く思っていないというなら嘘になるでしょう。もし、教会が会社であるなら、能力のある人を望むでしょう。もし、教会が軍隊であるなら、戦力になる人を望むでしょう。でも、教会が家族ならば、その家で生まれたという一点だけです。私たちは天地を創られた全能の神さまのDNAを持っています。神の子どもですから、御国の相続者であり、リッチな存在です。

 でも、聖書にはそう書いてあっても、急に「神の家族」「兄弟姉妹」にはなれません。「互いに愛し合いましょう」と言われても無理です。なぜでしょう?多くの場合、私たちは不完全な家族の中で生まれ育ったからです。もちろん、愛のある恵まれた家庭で生まれた人もいるでしょう。お父さんが大きな声を一度も上げたことがない。お母さんは優しくて笑顔が絶えなかった。めったにはいないと思いますが、いると思います。でも、多くの場合は、無責任な父親を憎んだり、ヒステリックなお母さんを憎んだりしています。父と母が喧嘩しているのを見ると、兄弟同士も喧嘩してしまいます。「子どもに対する一番の教育は、夫婦が仲良くすることだ」と言われますが、仮面夫婦はもっとまずいですね。つまり、父や母など、家族に関する傷を持ったまま、教会に来ます。いくら聖霊によって新しく生まれても、心が全部生まれ変わるわけではありません。教会の中には、馬の合わないというか、愛せない人が一人や二人、三人、四人くらいはいるものです。何故、教会に来てまで、そういう人がいるのでしょう?実はそれは神さまの計画であり、教会は愛するところでもありますが、愛を学ぶところでもあるのです。人間関係の傷は、人間関係でしか癒すことができないことを学ぶべきであります。

 良く、教会に来て、「あの人に躓いた」「この人に躓いた」「牧師にも躓いた」とか言って、教会を去る人がいます。しかし、それはお互い様なのです。私たちは天国に行くまで、工事中なのです。罪赦され、義とされていますが、人格的にはみな未完成です。よく、工事現場の前に看板が立っています。ヘルメットを脱いだ人が「工事中、ご迷惑をおかけします」、頭を下げて謝っています。私たちは「この人すばらしいクリスチャンに違いない」と思って近づくと、目の前に大きな穴ぼこがあって転落するかもしれません。だから、どんな人でも「工事中」なのです。ですから、お互いに「工事中!」というバッチを胸につけて、交わると大丈夫です。でも、すばらしい約束もあります。「こういうわけで」の前にこのように書かれています。エペソ216,18「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。…私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」そうです。キリストの十字架が、私たちが持っている敵意を葬ってくださったのです。これはアダム以来の人を愛せない罪です。敵意は十字架によって葬り去られたのです。もう1つは、私たちは「キリストによって」、キリストを間に入れて、媒介的に愛し合うことができるのです。夫婦であっても、キリストなしで愛し合うことは不可能です。お互いの罪のとげを受け止めてくださるキリストを間にお招きする必要があります。私たちは、無媒介的に愛し合うことは不可能です。キリストを媒介して、キリストをクッションのように間に入れて、互いに愛し合うことができるのです。教会は神の家族です。能力のあるなし、身分のあるなし、教育のあるなしは関係ありません。キリストによって生まれ変わった、同じ天の父を持つ神の家族なのです。

2.キリストのからだ

 教会とはキリストのからだです。キリストのからだにおいてもっとも重要なことは互いに仕え合うということです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ1:23「教会はキリストのからだであり」と書かれています。エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ」とあります。端的に言いますと、教会のかしらはキリストであり、私たちひとり一人はキリストのからだです。からだはかしらの命令に従う存在です。キリストは、今は天におられます。そして、キリストのからだが地上にあります。ということは、私たちはこの地上においてキリストの命令を実行するように召されているということです。かつて、キリストはこの地上で福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、人々を教え、助け、導きました。かつて、キリストがなされたことをからだである私たちが、継続的に行うように召されているということです。レイ・ステッドマンが『伸び行く教会』という本でこう述べています。「もし受肉がイエスの地上の生涯で終わったと考えるなら、大きな誤りを犯したことになります。受肉は今もなお継続中です。イエスの生命は今もなお人々の間に現されています。もっともそれは、地上の一箇所に制約される個々の肉体を通してではなく、教会という複合の共同体を通してなのです。」つまり、私たちはキリストのからだの各器官であり、全部、合わさったものが、キリストそのものなのだということです。もし、そうであるなら、教会の存在目的と、自分がそのために何をするかが自ずと分かってくるでしょう。

 キリストのからだについてもっと詳しく述べているのがⅠコリント12章です。パウロはキリストの各器官は、御霊の賜物のことであると言っています。Ⅰコリント127「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」「おのおのに」とありますので、ひとりの例外もなく、御霊の賜物が与えられているということです。Ⅰコリント12章には、知恵のことば、知識のことば、信仰、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力と9つあげられています。これらは「現れの賜物」と言われ、奇跡的な賜物です。しかし、ローマ12章には性格的な賜物もあります。預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善の7つです。Ⅰペテロ4章には「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(10節)と書かれています。さきほどのレイ・ステッドマンが『伸び行く教会』で、興味深いことを述べています。「キリストのからだには4つの主要系統があり、それとの依存関係において、からだの各部分はそれぞれの機能を課しています。その4つとは、からだの骨組みとなる骨格および筋肉、神経系統、消化器系等、それに循環器系等です。からだの中には、生殖器系統などのように、生命そのものにとって別になくても困らないものもありますが、この4つはそうではありません。」レイ・ステッドマンが言う4つのことは次のポイントでお話しいたしますが、Ⅰコリント12後半にそのヒントが記されています。Ⅰコリント1227-28「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」神さまがからだをちゃんと動かすために、ある人たちを任命しているようです。「第一に使徒、次に預言者、次に教師」と書いてあります。残念ながら現代の教会では、第一であるべき使徒、その次の預言者がないがしろにされています。教団や牧師がキリストのからだを動かすならば、いろんな支障が出てくるのは当然です。ちなみに牧師はキリストのからだのかしら(ボス)ではありません。かしらはあくまでもキリストです。韓国で開かれた牧師セミナーで、講師が「牧師はからだのどの部分ですか?」と質問しました。しばらく沈黙が続いた後、一人の牧師が大声で「わかりました」と、手を上げました。「では、どこですか?」と聞くと、「はい、首です」と答えました。「なぜですか?」と聞くと、「はい、牧師は、かしらであるキリストを自由に回すことができる首の部分です」と答えたそうです。真実は教師・牧師はからだの主要系統のどれかにあたります。

 私たちひとり一人はキリストのからだの器官の一部です。肢体としてみるなら、手、足、目、耳、口です。医学的に見るなら、心臓、脳、肺、胃、腸、血管、骨、筋肉、神経…総合病院を連想します。宇宙工学的には、盲腸ですら無駄ではないと言われています。Ⅰコリント1221,22「そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」アーメン。体の各器官で重要なことは、からだにつながっていないと、自分の働きができないということです。からだで心臓は重要な器官ですが、もし、心臓が「俺が一番偉い。俺は誰の助けも必要としない。だから、からだから独立して働く」と言ったならどうなるでしょう。道ばたにころがっている心臓を想像してみてください。ただ、空気を送っているポンプに過ぎないでしょう。まもなく、心臓自体も死んでしまいます。パウロは「からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」(エペソ416と言っています。私たちひとり一人は組み合わされ、結び合わされる必要があるんだということです。キリストのからだは機械でもなく、この世の組織でもありません。キリストのいのちを共有する有機体です。Ⅰコリント1225,26「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」当教会では、賜物と召命に従って、たくさんの奉仕グループがあることを感謝します。もちろん、奉仕は教会内のことだけではありません。かつて、キリストがこの地上で行なっていたことを、私たちキリストのからだが、キリストの命令を受けつつ、継続拡大していきたいと思います。

3.聖霊の宮

教会とは聖霊の宮(建物)です。聖霊の宮においてもっとも重要なことは互いに建て上げ合うということです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ220-222:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」このところには、教会は建物であり、聖なる宮であると書かれています。宮というのは神殿です。かつて、主はソロモンが建てた神殿に臨在されました。その後、イエス様の内に住まわれました。その後、どうなったのでしょう?信仰者の中に、聖霊として住まわれるようになりました。しかし、個人だけではありません。Ⅰコリント316「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と複数形で書かれています。つまり、私たちみんなが、神が住まわれる神殿であるということです。でも、エペソ2章には「組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる」と書かれています。現実的に「建物が成長する」ということはありません。なぜなら、神殿は石でできているからです。でも、その石は生きています。Ⅰペテロ24,5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」ここに「生ける石」と書かれています。生ける石は英語の聖書で、living stoneです。どこかで聞いたことのあることばです。アフリカの宣教師の名前もリビング・ストーンでした。

次に重要なのは「あなたがたもともに建てられ」ということばです。Ⅰペテロ2章は「築き上げられ」ですが、英語ではbe built upとなっています。エペソ人への手紙の「ともに建てられ」は、are being built togetherとなっています。build建てるという動詞の受身形になっています。建物である教会は互いに建てられる存在だということです。しかし、ギリシャ語の「建てる」は、オイコドメオーであり、「建てる」の他に「強化する、向上させる、高める」という意味もあります。ですから、他の箇所には「徳を高める」、英語ではedify というふうに訳されています。Edifyというのは、「啓発する、教導する、強化する」という意味があります。結論的に言いますと、互いに建て上げあうということは、互いに教えたり、励ましたり、指導したりすることも含まれるということです。「徳を高める」というのは、人の良いところを発見して、それを伸ばしてあげるようなニュアンスがあります。逆に、「徳を下げる」というのは、欠点をあげつらい、人を気落ちさせてしまうというニュアンスがあります。良い指導者というのは、人の良いところをほめて、それを伸ばしてあげる人だそうです。他人にはそうかもしれませんが、子どもや身内には、結構きびしいところがあるのではないでしょうか?でも、教会は互いに励まして、徳を高め合うところだということを忘れてはいけません。

ところで、エペソ4章には建築を指導する人たちのことが記されています。エペソ411,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。彼ら5人は、聖徒たちを整えて、キリストのからだを建て上げるための指導者です。そのために「五職の賜物」と呼ばれています。この賜物は聖霊の賜物というよりは、キリストご自身が召してくださった賜物ということができます。ご存じだと思いますが、建築のためには専門家が必要です。昔は石をどこからか集めてきて、加工して、それを積み上げて作りました。インドネシアのエディ・レオ牧師は「5つの働きがなければ、神の家を建てることができない」と言われました。第一の働きは材料を見つけなければなりません。伝道者はどこからか石を見つけて運んでくる人です。これは伝道の働きです。また、伝道者は自分でも伝道をしますが、「あなたも互いに伝道しなさい」と勧めます。第二の働きはふぞろいな石を適当なかたちに加工する必要があります。大きなハンマーやノミをもちいて、砕いたり削ったりします。これは教師の働きです。また、教師は自分でも教えますが、「あなたも互いに教え合いなさい」と指導します。第三の働きは石を正しい場所に置くことです。石と石がきっちり合わさる必要があります。これは人々を世話をしたり、養育する牧師の働きです。牧師は自分でも牧会しますが、「あなたも互いに牧会するように」と勧めます。第四は家が設計図どおり建てられているだうかとチェックする人、コンサルタントが必要です。この人は預言者です。この人は自分でも預言しますが、「あなたも互いに預言し合いなさい」と指導します。第五は施主である神さまから設計図や工事の内訳をいただく人です。設計図とは教会の永遠の目的です。使徒は自分も永遠の目的に目をとめて進みますが、「あなたも互いに永遠の目的に目をとめて進みなさい」と指導します。

残念ながら、今日の教会では使徒と預言者が不在です。だから、教会がなすべき永遠の目的が何かを知りません。神からの設計図もそれをチェックするコンサルタントもいません。ただ、自分たちの教団や教会を大きくしようとやみくもに働いています。だから、神さまが住めるような神殿になっていないのです。神さまがお住みなられる神殿の至聖所は正六面体、立方体です。立て、横、幅、奥行きがみな同じ長さです。地域教会はいわば1個の立方体です。地域教会があわさったものが、ユニバーサル・チャーチ(普遍的教会)です。黙示録21章には、聖なるエルサレムが描かれています。都そのものが巨大な神殿になっています。都の土台も城壁も高価な宝石で飾ら得ています。都は四角で、その長さと幅も同じで、それぞれが12000スタディオンです。長さも幅も同じです。将来、私たちの教会がその中に組み込まれるのです。教会が神の家族であるというとき、私たちは互いに愛し合う存在だということです。教会がキリストのからだであるというとき、私たちは互いに仕え合う存在だということです。教会が聖霊の宮であるというとき、私たちが互いに建て上げ合う存在だということです。教会には三位一体の神さまがおられます。

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2019年9月 7日 (土)

ベテルの教会 創世記28:10-19 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.9.8

 ヤコブは父と兄をだまして、長子の権利を得ました。もう、家にいられないので、母リベカの勧めで、おじのラバンのところに出かけました。しかし、その途中で日が暮れて、ヤコブは野宿することになりました。何もない寂しい荒野で、石をまくらにして横になりました。すると、ヤコブは夢を見ました。なんと、天からはしごが降りて来て、神の御使いたちが上り下りしているではありませんか。主は「私はあなたと共にいる。あなたの子孫にこの地を与える」と約束されました。ヤコブは目がさめて「主がこの所におられるのに、私は知らなかった。ここは神の家である。ここは天の門だ」と言いました。このところに出てくる「神の家」「はしご」「天の門」の3つのことばは、キリストの教会を象徴しています。これから、1つずつを学びたいと思います。

1.神の家

 最初に考えたいのは「神の家」とは何かということです。2箇所お読みしたいと思います。創世記28:17 「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」、創世記28:19「そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。」17節に「神の家」と書かれています。家はヘブル語でバイートであり「家、場所、家族、容器」という意味です。19節でヤコブは「ベテル」と呼びました。ベテルは、「バイート」という「家」と「エル」という「神」が合わさってできたことばです。本来、その場所はルズでしたが、ヤコブが「ベテル(神の家)」と名付けたということです。しかし、神の家と言っても、一本の柱も軒下もありませんでした。そこには、主なる神とヤコブだけがいました。ヤコブは眠りからさめて「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言いました(16節)。ということは、「神の家」とは「神さまがおられる場所」という意味になります。キリスト教会では神さまがおられる場所を「神の臨在がある」と言います。これまでの話をまとめると、「神の家」とは、神がおられるところ、「神の臨在」ということになります。ビル・ジョンソンは本の中でこう述べています。「おそらく彼はその夢の意味が何のことかわからずに困惑したでしょうし、私たちの知る限り、その預言的な夢の答えは見つかりませんでした。おそらく彼は一生そのことに戸惑いを覚えたに違いありません。その答えは何百年もたってから、人となられたイエス様を通して現れました。イエス様がその預言を初めて成就されました。」アーメン。

 ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「住まわれた」の原文のギリシャ語は「天幕を張る、天幕に住む」という意味です。つまり、イエス様は人間の肉体という天幕に一時的に住んだということです。言いかえると、イエス様は肉体を持った神の家、神の住まわれるところとなったということです。このことは、創世記28章に描かれた預言の最初の成就でした。そのことを証明するみことばが、ナタナエルとの会話の中にあります。ヨハネ150,51「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」このところの描写は、ヤコブが見た天のはしごのことです。今度は、神の家であられるイエス様の上を神の御使いたちが上り下りするということです。「はしご」のことは、次のポイントで詳しくお話しいたします。イエス様が、神がおられる「神の家」であったということです。

 しかし、それだけではありません。ヨハネ14章でイエス様はこのようにおっしゃいました。ヨハネ1417「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」その方、つまり「聖霊があなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるようになる」とイエス様は約束されました。このことがペンテコステの日に成就し、イエス様を信じる者の内側に、神である聖霊が住むようになったのです。Ⅰコリント3章には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント316と書かれています。さらに、エペソ2章には「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ221,22)。私たち個人の中に住み、私たちの間に神が臨在してくださるのは、神の永遠の計画であったのです。ハレルヤ!私たちこそが神の家なのです。

 でも、ヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」(創世記2816と言いました。そのことは、私たちは「神の家」の前にいながら、それを全く知らないということがあり得るということです。神の家とは神の臨在です。私たちの間に神さまがおられる、それが教会です。ビル・ジョンソンは「私は教会の礼拝や集会において、神が一人の人物の人生をドラマチックに完全に変えてしまわれる時を見てきました。ところがその人の隣に座った人は、神が同じ部屋におられることさえも気がつかないのです。彼らは家に帰ったら何を食べようかと考えているのです。一方、1メートル離れていない所にいる別の人たちは、霊的大改革を受けているのです。しかし、同じ部屋にいながら何も気づかずにいた人たちが多くいました。彼らは夢を見る前のヤコブのようでした。神がそのところにおられるのに、それがわからなかったのです。」と言っています。私たちはこのように礼拝をささげているとき、神の臨在を体験します。「ああ、神さまが栄光のうちにいらっしゃる」ということを感じないでしょうか?複数のクリスチャンが教会という建物に集まっています。でも、教会は建物ではなく、私たち自身のことです。私たちが教会であり、神の家なのです。私たちが主をあがめているとき、当然、神さまはここに臨在してくださいます。ただ臨在されるだけではなく、私たちを祝福し、癒し、救って下さいます。

2.天のはしご

 創世記28:12 「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」もう一箇所、引用します。ヨハネ1:50-51「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」前半は、ヤコブが夢で見た天よりのはしごです。後半は、イエス様がナタナエルに語られた預言です。共通しているのは、神の御使いたちが上り下りしていることです。違うのは、創世記はヤコブがいた場所「神の家」に天からはしごが地に向けて立てられています。そして、ヨハネ1章では、はしごとは書かれていませんが、人の子であるイエス様の上に、神の御使いたちが上り下りするということです。しかも、そこには「天が開けて」ということがはっきり記されています。さて、この二つの箇所が教会の要素を象徴しているというのなら、それは、どんなことなのでしょうか?

 第一のポイントで申しあげましたが、ヤコブがいたところは神の家です。なぜなら、そこに神がおられたからです。そして、ヨハネ1章で言われている人の子は、イエス様です。イエス様は神がおられる「神の家」でした。さらに、教会は聖徒たちによって構成される「神の家」です。私たちの中に神さまが臨在してくださっているからです。問題は、御使い(天使)が上り下りするという天よりの「はしご」です。その前に、「神の御使いは何のために遣わされているのか」ということを考えたいと思います。ヘブル1:7 「また御使いについては、『神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。』と言われましたが」とあります。さらに、ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とあります。つまり、御使い(天使)は、神さまから、神の子クリスチャンに仕えるために遣わされた霊的な存在であるということです。旧約聖書では、穴に投げ込まれたダニエルがライオンに食べられないように助けてくれました。イエス様が誕生する前後は、マリヤやヨセフに現れてくださいました。マルコ1章には「御使いたちがイエスに仕えていた」と書かれています。ペテロが牢に捕えられ、明日は処刑されるというところを主の御使いが助け出してくれました。また、パウロを乗せた船が地中海で遭難したとき、御使いが現れて励ましてくれました。このように聖書には御使いの存在、御使いの働きがはっきりと記されています。しかし、残念ながら、今日の教会では、御使いのことをさっぱり言わないし、期待もしません。そのことは、あとでお話ししますが、御使いは神から私たちを助けるために遣わされた霊的存在です。でも、はっきりしなければならないのは、御使いは私たちの願いや命令はきかないということです。このところに「風」と書かれているので、自由にならないという感じがします。御使いは父なる神さまの命令だけを受けて、命令があるときはじめて、私たちのところに遣わされるのです。つまり、私たちと御使いとの間には経路がなく、父なる神さまを介してであることを忘れてはいけません。私たち人間は、御使いを拝んだり、神のように礼拝してもいけません。

 その次に問題になるのが、天よりのはしごのことです。私たちははしごを日常的にも見ることがあります。ヤコブは天からはしごが降りて来て、そこを御使いたちが上り下りしているのを見ました。それは、どういう意味でしょうか?ビル・ジョンソンは「上るとは役目を果たした御使いであり、下るといういのは神の使命を果たすため地上に降りることである」と言っています。すばらしい解釈です。ヨハネ1章で、ナタナエルにイエス様が「天から上り下りするのを、あなたは見る」と言われました。つまり、それはイエス様にあって成就されたということです。しかも、イエス様の場合は「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます」(ヨハネ151と言われました。ヤコブの見たのは夢であり、幻でした。しかし、イエス様の場合は幻ではなく、「天が開けて、御使いが上り下りする」のをはっきり見ることができるということです。では、いつから天が開けたのでしょうか?マタイ316 「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」イエス様がバプテスマを受けた直後、天が開け、神の御霊が鳩のように下って来られました。おそらく、イエス様以外に、見た人がいるのではないでしょうか?少なくとも、バプテスマのヨハネは見たのではないかと思います。だから、聖書に客観的に書いてあります。重要なのは、イエス様が公生涯を始めたときから、天が開け、神の国がこの地を侵略し始めたと考えるべきです。

神の御使いは私たちが命令しても動きません。御使いは神さまからの命令だけに従います。私たちがすべきことは神さまに祈る(願う)ことです。私たちの祈りが香のように神さまの御前に立ち上るなら、神さまから御使いに命令が下り、私たちのところに遣わされます。ビル・ジョンソンはこのように述べています。「ただし、御使いは私たちが奇跡を来なうために冒険、リスクを犯しているときでないと働きません。私たちは御使い(はしご)を暇にさせています。あまりにも安全に暮らしているので、天から下る必要を与えていないのです。神の家についてもう一つ大切なことは、それが開かれた天の下で機能するということです。つまり、悪霊の領域が打ち破られ、神の領域と地上で起っていることの間が透明になっている時です。それはヤコブの夢の中では御使いが上り下りするためのはしごとして描かれました。御使いは任務を果たすと上に昇り、超自然的な仕事をするときには、下って来るのです。しかし、残念ながら、あまりにも長い間、はしごが使われていません。私たちが超自然的な分野に足をふみ入れていないために、行ったり来たりする御使いがいないのです。それが私たちの問題です。」アーメン。

 神の家である教会、私たちの上に天からのはしごがかけられるのを期待すべきです。私たちは神さまに「あなたのみわざがこの地になされるように」と熱く祈るべきです。祈りが香のように神のみもとに上ったなら、御使いを送って下さり、超自然的なことを行って下さるでしょう。

3.天の門

 創世記28:17「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」教会を表す3つ目の概念は「天の門」です。門はヘブル語で「シャヤル」ですが、「gate門」「entrance入口」「forum裁判や取引を行う、都市の中央にある大広場」という意味があります。聖書中「門」を指す原語は、370回以上の用例があります。外敵の侵入を防ぐ城壁のある町は、住民の出入りのために門を必要とします。その数は必ずしも多くなく、旧エリコには実質上、門は1つだけでした。防衛のため近くにやぐらが設けられ、見張りが置かれ、開く扉はしばしば「かんぬき」で補強されました。もし、「神の家」すなわち「教会」が「天の門」であるとしたなら、どういう意味になるでしょうか?教会は、この世と神の国の間に存在する、gateway出入口ということにはならないでしょうか?ビル・ジョンソンは「私たち教会が門であると言う時、神の主権の現実がすべての人間に開放される場所、神の世界がこの世界に侵入するところであることを指しているのです」と言いました。かなり前に、北朝鮮のキム書記長と韓国の大統領が国境付近で互いに合いました。両国の間に、小さな建物があり、そこが通路になっていました。そこだけが、両国を行き来できる門のような存在でした。門はとても重要なところで、そこに防備のための力が集結していることがわかります。もし、町の門が破られたなら、敵が侵入してくるからです。でも、町の門は商売とか物資の移動のために使われます。町の門がずっと閉じられたままということはないでしょう。門は開けたり、閉じたりして、人々や物や動物が行き来する出入口であります。

 イエス様がマタイ16章と18章で「門」のことを話されました。マタイ16:18 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」ここには「ハデスの門」とありますが、教会という門に対抗するものとして言われています。その後に、「つないだり、解いたりする」天の御国のかぎのことが言われています。同じようなみことばが、マタイ18章にも記されています。マタイ18:18 「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」「つなぐ」はギリシャ語で「デオウ」であり、「くくる、鎖につなぐ、縛る」という意味です。また「解く」はギリシャ語で「ルオウ」であり「解く、ほどく、釈放する」という意味です。天の御国のかぎは、私たちが考えるような棒状のものではなく、「縛ったり、ほどいたりして開け閉めをする」ということでしょう。でも、天の門の鍵の形状がどうの、こうのと言うのではありません。神の家である教会は、天の門のような、神からの権威を授かっているということです。つまり、神の国とこの地を結ぶ重要な出入口なんだということです。これを救いのこととして考えるならどうでしょう?私たち教会が「あなたの罪は赦されました」と洗礼を授けるなら、その人は救われて、天の御国に入ることができるということです。しかし、これが行き過ぎると、「破門」とか言って、カトリック教会がやった権威の乱用です。パウロはⅡコリントで「私たちは和解をもたらすキリストの使節(大使)です」と言いました。私たちは天国行きのパスポートとビザを発行できるのです。しかし、それだけではありません。天の御国をこの地にもたらすために、神の権威を行使できるということです。それは病の癒し、悪霊の追い出し、そしてサタンのわざを縛るということです。イエス様が「地獄の門も打ち勝ちません」と言われました。これは、私たちは守る側ではなく、攻撃する側だということです。地上をめぐるどんな領地、または「門」を備えた支配と権力も私たちに打ち勝つことはできないのです。私たちは前進し、勝ち続けることができるのです。そして最後には、地獄の門もそれに打ち勝つことはないとイエス様は約束されています。

 ビル・ジョンソンは『奇跡への入口』という本で興味深いことを述べています。ところで、地獄の門は正確にはどこにあるのでしょうか?悪魔はどこに力ある座を設けているのでしょう。イエス様はご自分がエルサレムで多くの苦しみを受けて殺されると弟子たちに言われました。するとペテロが、「そんなことが、あなたに起るはずはありません」とイエス様をいさめました。イエス様は振り向いて「下がれ、サタン、あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。イエス様は「ペテロ、お前は悪魔崇拝者だ」と言われませんでした。「あなたの心は人のことで満ちている」と言われたのです。忘れてならない最も大切なことは、悪魔は人間の同意によって力を得るということです。そのような心の状態が、悪魔に破壊を持ち込ませる門となるのです。「私は人間に過ぎません」と言うことは、「私は悪魔的でしかありません」と言うことと同じです。キリストを中心としないヒューマニズムは、根本的には悪魔的なのです。あなたが神である聖霊を授かった時から「私は人間に過ぎません」と主張する特権を失います。あなたはそれより遥かにすばらしいのです。私たちが敵に同意するときは、いつでも地獄の門は私たちの心の中にあります。人間中心の見方や、神を知らず、生まれながらの知恵に同意するときはいつでも敵に力を与えているのです。ですから、私たちの目標は、いつでも天の御国に同意することです。私たちの心を、神の任務についている御使いたちが自由に上り下りする天の門にするのです。私たちは天の御国の領域が、この地に自由に侵入するための入口に立つ人々になるべきです。アーメン。

 今日は、教会を象徴する3つのことを学びました。教会が「神の家である」とは、神さまが私たちのところにおられる臨在されるということです。教会が「天のはしごである」とは、私たちが神さまに祈り求めると、御使いがそのとおり働いてくれるということです。教会が「天の門である」とは、この地に御国をもたらすことの権威が、神から与えられているということです。私たちは思いを変える必要があります。イエス様を信じて、死んだら天国に行くだけではありません。この地上に、私たちを通して、御国が来るように願いつつ、生きることなのです。

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