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2019年8月 3日 (土)

御国における報い マタイ19:27-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.4

 教会では「人は救われたら天国に行くことができる」と言います。この世のおいては、「天国」はあまりにも安売りされているので、私は「御国」と言ったり、「神の国」と、あえて言うようにしています。ややこしくなりますが、御国(神の国)は二段階でやってきます。第一段階は御国です。ヨハネ黙示録においては「千年王国」という名称で出てきます。第二段階は新天新地です。これは御国の完成形であり、Ⅰペテロ3章と黙示録21章に出てきます。きょうは御国、つまり千年王国における報いについて学びたいと思います。報いには二種類あり、褒賞とさばきです。

1.御国における褒賞

 マタイ1927そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」「そのとき」とは、青年役員が財産を惜しんで、悲しみながら去って行った直後です。私たちは「ペテロ、報いを求めるなんて意地汚いぞ」と言いたくなります。でも、イエスさまは何と答えられたでしょうか?マタイ1928 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」イエス様は弟子たちにすばらしい約束を与えられました。このところに「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時」とありますが、いつなのでしょう?これこそ、弟子たちが待ち望んでいた御国でした。弟子たちはイエス様がローマを倒して、地上にイスラエル王国を再建して下さると信じていました。しかし、「世が改まって」と言うのは、この世が終わって、次の時代という意味です。マルコによる福音書10章では「今のこの時代」と「後の世」とはっきり分けています。ギリシャ語のアイオンは、「時代」とか「この世」「現世」という意味があります。つまりこういうことです。私たちが今、住んでいる時代がやがて終わります。その後、御国(千年王国)がやっています。さらにその後、新天新地という永遠の御国がやってきます。冒頭でも申し上げましたが、御国は二段階でやってきます。そして、ここが重要です。御国(千年王国)は行いによって報われるところです。その後に来る、新天新地は行いではなく信仰による賜物です。イエス様を信じて義と認められた人が必ず行けるところです。

 マタイ19章で言われているのは、御国(千年王国)のことです。実はマタイによる福音書で「御国」という場合、ほとんどが千年王国のことであり、新天新地ではありません。ある人たちは、「天国は平等なところだ」と誤解しています。確かにイエス様を信じたら永遠のいのちをいただき、新天新地に入ることができます。しかし、その前に来る、御国(千年王国)は平等ではありません。その人の行いによって褒賞を受けたり、さばきを受けます。また、ある者は暗闇に投げ込まれるでしょう。でも、イエス様を信じた人たちなので、地獄ではなく、やがて新天新地に入ることはできます。このことが分かると、キリストを信じるだけで救われるという「信仰義認」がよく分かります。弟子のペテロは御国における報いを期待していました。イエス様は「意地汚いぞ」とはおっしゃらず、弟子たちが受ける褒賞について語っておられます。「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」とおっしゃいました。御国の第一の特徴はイスラエルが回復するということです。エルサレムにおいて、弟子たちが12部族をさばくのです。このことはイザヤ書、エゼキエル書、ダニエル書にも預言されています。第二の特徴はすべての被造物が回復します。荒野に川が流れ、花が咲き乱れます。同時に目の見えない人が見え、耳の聞こえない人が聞こえ、足のなえた者は鹿のように飛び跳ねるでしょう。第三は報いです。きょうはこのテーマで学びますが、報いとは褒賞とさばきです。パウロはⅠコリント9章でこう言っています。Ⅰコリント924,25「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」御国は平等ではありません。「朽ちない冠」「いのちの冠」「義のかんむり」などの褒賞があります。パウロは自分が失格者にならないように、自分のからだを打ち叩いて従わせると言っています。つまり、パウロは御国において、神の栄冠を得るために努力しているのです。

 エペソ2章には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。…神の賜物です。行いによるのではありません。」書かれています。しかし、これだけを強調すると、「ああ、これで死んだら天国に行ける。あとは好きなことができる。何でも赦されているから」となります。ある意味で、信仰義認は怠け者を作ってしまいます。かといって、「信じるだけではダメなんだ、良い行いも必要だ」と言うなら、キリストの十字架の贖いを否定することになります。キリスト教の異端は、みな善行を付け加えます。彼らはとても熱心ですが、根底にあるのは「恐れ」です。なんとか天国に入ることができるように頑張っています。でも、救いは賜物ですから、行ないではありません。はっきり申し上げますが、クリスチャンは神のさばきを受けることはありません。なぜなら、キリストが私たちの代わりにさばかれたからです。そして、クリスチャンは必ず、新天新地に入ることができます。でも、行いによって御国における報いが違ってくることを忘れてはいけません。Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」「キリストのさばき」は「神の白い御座のさばき」と違って、火の池(地獄)に投げ込まれるものではありません。いかに忠実であったかどうか、さばかれるのです。私たちは「タラントのたとえ」のように「良い忠実なしもべだ」とほめられたいと思います。また、ミナのたとえでは、十ミナ儲けた人は十の町を、五ミナ儲けた人には五つの町を治めるように言われています。このように、御国では行ないによる報いがあるということを知っておく必要があります。賜物や召命は違っても、御国において、神さまの褒賞を得るために信仰生活を送りたいと思います。

2.御国におけるさばき

 私たちは永遠の滅びという地獄ではなく、神の懲らしめとかさばきがあることを知らなければなりません。ヘブル12章に「主の懲らしめを軽んじてはならない」と書かれています。私たちはよその子どもは叱ったり、懲らしめたりはしません。自分の子どもは矯正のために、叱ったり、懲らしめたりします。しかし、それは滅ぼすためではなく、我が子を愛しているからです。御国におけるさばきは、火の池(地獄)とは違います。これは矯正であり、こらしめです。その期間を終えたら、千年王国に復帰することができるでしょう。たとえそうでなくても、やがて来る新天新地には入ることができます。なぜなら、その人たちは創造主なる神さまとイエス・キリストを信じたからです。ただ、その行いが罪深くて、神さまに対して不従順だったということです。ローマ・カトリック教会では、修行の場である煉獄を信じています。彼らは天国に直接入れなかった人たちが罪を浄化するための煉獄を考え出しました。しかし、それは聖書的ではありません。聖書には御国(千年王国)の時代が、矯正やこらしめのためにあることを示唆しています。残念ながら、そのことを認めない神学者や教会があるので、「示唆」というところで押さえておきます。これから、いくつか聖書箇所を取り上げながら、論証させていただきます。これからは、ウォッチマンニーが書いた『神の福音』第三巻を参考にさせていただきます。

 ルカ1245-48「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」この物語は世の終わりに帰ってくる主人を待つ、しもべ頭のたとえです。このところではっきりしなければならないことは、このしもべは確かに救われた人です。でも、神のしもべであるクリスチャンは、良いしもべにもなれば、悪いしもべにもなることができます。もし救われた人が、不幸にして、よこしまなしもべになったとすれば、彼の最後はどうなるでしょうか?46節「彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません」とあります。日本語は「不忠実な者」ですが原文からは、「不信者たちと同じめに会わせる」が正しい訳だと思います。でも、こらしめに差があることがわかります。主人の心を知りながら、用意もせず、働きもしなかったしもべは多く打たれます。しかし、知らないでいたしもべは、むち打たれる数が少しだということがわかります。また、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」。これが、クリスチャンが将来、神の御前で受ける懲らしめです。

 もう一つの例は、マタイによる福音書から取り上げたいと思います。マタイ5章から7章における、山上での主の教えは、天の御国について語っています。これらの主の教えは、人がどのようにして天の御国に入ることができるかを告げています。そして、マタイ5章から7章は、「天の御国」と「報い」ということばが何度も一緒に使われているのが非常にはっきりわかります。たくさんの教えが書かれていますが、報われるのは、この地上ではなく、御国(千年王国)であることを知らなければ、実行不可能な道徳論で終わってしまうでしょう。端的に言うなら、この教えを守ったからと言っても、この地上では割が合わないことがたくさんあるということです。でも、最終的に収支決算するところは御国(千年王国)です。そこでは良い報い(褒賞)もあれば、悪い報い(さばき)もあります。しかし、多くの場合この「さばき」は火の池(地獄)ではなく、懲らしめとしてのさばきです。もっともひどいさばきは、新天新地に入れるけれど、御国(千年王国)には入れない信者がいるということです。その典型的な例が、以下のみことばです。

マタイ721-23「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』「あなたの名によって」と3度も述べられているので、これらの人々が主に属する人、クリスチャンであることを証明します。ところが主から「私はあなたを知らない」と言われました。なぜでしょう?彼らは救われた人でなかったということではありません。確かに彼らは預言し、悪霊どもを追い出し、多くの力あるわざを行いました。でも、父のみこころで行ったのではなく、自分の栄誉のため、自分勝手に行ったのです。今でもそういう伝道者がいます。「不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われていますが、「永遠の命から去れ」と言われたのではありません。「不法をなす者」のギリシャ語の意味は、「規則に従わない、規定に服さない人」を指します。彼は悪を行なったのではなく、神の規定、神のことばに従わなかったということです。この人は永遠の命は決して失うことはないにしても、御国においてはその地位と栄誉を失うかもしれません。

 マタイ25章では、世の終わりの備えについてのたとえ話がいくつか書かれています。5人の愚かな娘は、最後に戸を閉められて「私はあなたがたを知りません」と言われました。また、1タラント預かったしもべは「外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯切りするのです」と言われました。最も小さい人にしなかった人は、永遠の刑罰に入ることになりました。もし、信仰があっても、行ないによってさばかれて火の池(地獄)に落とされるなら、信仰義認と反します。彼らはすべて神のしもべであり、信者です。でも、彼らは御国(千年王国)に入れない人たちです。時間どおり千年かどうか分かりませんが、暗闇の中では歯切りすることになるということです。私たちは厳粛な思いで御国におけるさばきがあるということを受け止める必要があります。

3.良い行ないの意義

 第一ポイントで「御国における褒賞」、第二ポイントでは「御国におけるさばき」について語りました。両者とも報いです。良い報いと悪い報いと言った方が良いのかもしれません。肝心なのは、このさばきは、訓練とかこらしめという意味であり、火の池(地獄)ではありません。前にも引用しましたが、ウォッチマンニー著『神の福音』にはこのように述べられています。今日の教会の中には、1つの大きな誤りがあります。それは、「救われることだけが唯一のことであって、救われること以外には何も存在しない」と考えることです。そして、天の御国と永遠の命を同じものと考えています。人が信じていったん救われたなら、もはや働きについては心に留める必要がないと考えます。聖書は神の部分と人の部分とを明確に区別しています。一方は神によって与えられる救いであり、もう一方は御国(千年王国)の栄光です。救いは、人の働きと全く関係がありません。だれでもいったん主イエスを信じるなら、その人は救われます。しかし、救われた後、神はただちに第二のものをこの人の前に置かれます。そして、「救い以外に、褒賞、来るべき栄光、冠、王座が彼のためにある」と彼に告げられます。神は信者たちの前に、王座、冠、栄光、褒賞を置かれます。もし人が忠実であるなら、これらのものを得るでしょう。もし忠実でなければ、これらのものを失うでしょう。ですから、私たちは、良い行いは無益であるとは言いません。しかし、救いに関する限り、良い行いは無益であると断言します。人は良い行いによって救われるのではありません。また、悪い行いのゆえに救われないのでもありません。良い行いは、褒賞と冠と栄光と王座にふさわしい事柄です。良い行いは、救いという事柄では役に立ちません。神は行いによって人を救うことをなさいません。また神は、信仰によって人に褒賞を得させるものでもありません。

 ご理解いただけたでしょうか?簡単にまとめると良い行いは救いとは関係ありません。人は信仰によって恵みによって救われるからです。でも、いったん人が救われたなら、良い行いをすべきです。なぜなら、神は良い行いに対して、褒賞と冠と栄光と王座を備えておられるからです。聖歌687番『まもなくかなたの』という賛美があります。4節は「良いことを励み、流れのそばで、お受けいたしましょう。たまのかむりを。神さまのそばのきれいなきれいな川で、みんなで集まる日のああ、なつかしや」です。私はホーリネスの神学校基礎科で学びました。その時、教会学校担当の教師が、「4節は、信仰義認に反しているので聖書的でない」と言われました。その時は何とも思いませんでしたが、新約聖書にはいくつかの冠が出てきます。そして、その冠はみんなに平等に与えられるものではありません。私は「天国というところは不平等なところなのでは?」と思っていました。問題は「天国」を新天新地という永遠の御国に捉えていたことです。これはいわゆる「天国」ではなく、御国(千年王国)のことだったのです。ウォッチマンニーがこのように言っています。「今日の問題は、人々が救いと御国とを区別しないところにあります。聖書では、救いと御国、賜物と褒賞との間に明確な区別があります。」

 最後にこの箇所を引用して、メッセージをまとめたいと思います。Ⅰコリント311-15「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」このところで、クリスチャンが何を失い、何を失わないかを、はっきりと見ることができます。人はいったん救われれば、確かに永遠に救われるでしょう。その人は恵みによって新天新地に入ることができます。しかし、その人が褒賞を得ることができるかどうかは、今日決定され得るのではありません。それは、人が主イエスの土台の上にどのように建てるかによって決まるのです。私たちが褒賞を受けるか損失を受けるかは、私たち自身の建てる働きにかかっています。もし人が金、銀、宝石、すなわち永遠の価値あるものを用いて、主イエスの土台の上に建てるなら、彼は確かに褒賞を受けるでしょう。しかし、もし彼が木、草、わらを用いて建てるなら、神のみ前で褒賞を受けることはありません。人の前では多く得ても、神のみ前では多くを得ることはできないでしょう。このことは、人が自分の褒賞を失い、また自分の働きが焼き尽くされてしまう可能性があることを、私たちに示しています。

 私たちは行いではなく、信仰によって救われました。そして、救われた後は褒賞を得るために良い行いをすべきです。神さまのためではなく自分の名誉や欲を満たすため、汚れた動機で行うかもしれません。残念ですが、そういうものは全部焼き尽くされ、御国に入ることすらできなくなるでしょう。でも、「その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」とあります。これは御国での褒賞や冠が与えられなくても、永遠のいのち、救いは失わないということです。使徒の働き5章にアナニヤとサッピラが出てきます。彼らは持ち物を売って、その代金をささげました。ところが、一部を残しておき、まるで全部をささげたかのように振舞いました。ペテロは「人ではなく、神をあざむいた」ということで二人を叱りました。アナニヤとサッピラは即、打たれて死にました。では、彼らは罪を犯したので火の池(地獄)へ行ったかというとそうではありません。彼らはさばかれたために、肉体は死にましたが、救いは失っていません。彼らは火の中をくぐるようにして助かったのです。救いは悪い行いによって失われることはありません。ただし、御国における褒賞、冠が奪われることはあります。私たちはキリストを信じたゆえに罪の問題は解決されており、賜物として新天新地に入ることができます。ただし、現在の生活がやがて来る御国(千年王国)と密接に関係していることを忘れてはいけません。黙示録210「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」命は信仰によって与えられます。命の冠を得るために忠実でありたいと思います。

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