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2019年8月16日 (金)

新天新地 ヨハネ黙示録21:1-7 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.8.4

 きょうはキリスト教の救済史の完成形について学びたいと思います。建築ではパースと呼ばれる完成図とか模型があります。人々はそれを見て、「最後はこうなるんだ」と夢を抱くことができるでしょう。聖書にも、「信じた人がこのようなところで暮らすんだ」という完成形があります。それは「新しい天と新しい地」であります。このことばは、イザヤ書65章と66章にも出てきます。私たちは「死んだら天国に行く」と言いますが、天国の完成形が新天新地であります。俗にいう「天国」は、こういうところを指すのです。

1.新天新地にないもの

 ヨハネ黙示録21:4 「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」新天新地にないものは何でしょう?まず、涙です。その次は死です。悲しみ、叫び、苦しみもありません。イエス様はルカ6章で「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」とおっしゃいましたが、「やがて」がこのときです。その理由は、「以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と書いてあります。ギリシャ語では「以前のもの」とは、「第一のもの」「最初もの」という意味の言葉が用いられています。英語の詳訳聖書はformer orderとなっていますので「以前の秩序」と言う意味です。つまり、この世にあるものが、新天新地においてはないということです。私たちは現在この世に住んでいます。この世は罪と死と悪魔が支配しています。そのため、人間が生きていくうちに、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみが必ず伴います。「なぜ、こんなことが起るのですか?」と人々は叫んで生きています。善人であろうと悪人であろうと、災難が降りかかるのが、この世の常です。でも、新天新地においては、神さまは完全な秩序を与えて下さいます。新天新地では、「戸締り用心、火の用心」という掛け声は必要でありません。悪い人がいないので、鍵をかける必要は全くないからです。よく外出するとき、「車に気を付けて」「知らない人にはついて行かないように」と子どもに注意します。でも、新天新地では神のご支配が私たちを完全に守っていますので安心です。そこでは、アルソックもセコムも必要ありません。

 キリスト教の葬儀のときは、この箇所がよく引用されます。私は、最後の献花のとき、「さようなら」ではなく、「また会いましょう」と再会の約束をするのですと言います。でも、イエス様を信じていないなら再会できません。ですから、遠回しに「あなたもイエス様を信じて天国に行くなら、この人と再会できるのですよ」と勧めているのです。でも、多くの人たちは「そうできたら良いね」という、希望を持つくらいでしょう。葬儀は福音を語る最も、すばらしい機会です。なぜなら、そこにご遺体があり、いつかは自分もそこに横たわるからです。これは可能性ではなく、絶対性であります。絶対来る自らの死と対峙するのが、葬儀であります。私たちは単なる慰めではなく、聖書の絶対的な約束がこのところにあります。「なぜ、こんなことが起るのですか?」というのは、罪と死と悪魔が支配している以前の時代だったからです。新天新地が訪れる前、「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」(黙示録211)と書かれているからです。聖書で「海」は獣が上ってくる、不吉な場所として暗示されています。しかし、そういう場所もなくなるのです。

 他に、新天新地にないものは何でしょう?黙示録223-5「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」このところには、「のろわれるものは何もない」とあります。英語の詳訳聖書をみると、「のろわれた」「憎むべき」「汚らわしい」「不快な」とあります。そこには、神さまが忌み嫌われるものが存在しないということです。その根源は、悪魔でありサタンです。また、黙示録21章と22章に、新天新地に入れない人たちのリストがあります。3か所ありますが、共通してでてくるものがあります。人を殺す者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを行う者です。この4つが重い罪であり、のろわれる者になるのではないかと思います。ということは、これらの罪は他の罪よりも神さまが好まれていない重い罪だということです。世の中には、オレオレ詐欺など、人を騙す人たちがいます。ある人は何千万円も騙し取られて、返ってこないで泣いている人がたくさんいるでしょう。神さまは真実なるお方ですから、偽りを行うものが大嫌いなのです。

 また、新天新地には、夜がないばかりか、太陽も月もありません。一体これはどういうことでしょう?私たちは他の天体に移り住むのでしょうか?Ⅱペテロ312,13「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」とあります。おそらくペテロは、世の終わりの天変地異のことを語っているのでしょう。でも、千年王国において一度、地上は回復されます。しかし、新天新地は回復ではなく、新創造です。なぜなら「以前の天と、以前の地は過ぎ去り」とありますので、現在私たちが見ているような、太陽や月が存在しないかもしれません。天文学者たちは、太陽はいつか燃え尽きると言っています。その理由が記されています。黙示録2123「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」なんということでしょう?神である主と、小羊が光源になるということです。ヤコブ117「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」アーメン。私は自然界には夜が必要だと思いますが、新天新地には不必要なのかもしれません。イエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われました。これは、私たちの時代だけではなく、やがて来る、新天新地でもそうだということです。「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」のです。アーメン。

2.新天新地にあるもの

 次は、新天新地にあるものを取り上げたいと思います。「ある」というと失礼ですが、神さまがともにおられます。黙示録203「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて」。「見よ」と言われていますので、今よりも、ずっと神さまが近くにおられるということでしょう。Ⅰコリント13:12 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります」と書かれています。この地上では、神さまの臨在を知ることは、とても霊的で信仰が必要です。伝道者はよく「今ここに神さまが臨んでおられます」と言います。でも、「本当かな?」と思ったりします。なぜでしょう?私たちはこの地上では、肉体の五感に頼って生きているからです。神さまは霊なので、なかなか察知できません。でも、黙示録203節には「神がともにおられる」と三度も書いてあります。「ともにあり」「ともに住み」「ともにおられる」と、あえて三度も書いてあるのは何故でしょう?ある人たちは「私は神の存在を信じています」と言います。でも、それはどこか遠くにいる神さまで、自分とは関係がありません。クリスチャンはそんな言い方はしません。「神さまは私とともにいます」と言います。「では、見せてくれ」と頼まれても、「はい、どうぞ」という訳にはいきません。でも、新天新地では、ありありと神さまがともにおられるので証明する必要はありません。「神の栄光が都を照らす」(黙示録2023と書いてありますので、霊的に鈍い人でも何も問題がないと思います。

 次にあるのは、「いのちの水の川」と「いのちの木」です。ヨハネ黙示録221-2「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」この描写は、創世記のエデンの園と非常に対照的です。エデンの園にも川が流れていました。また、園の中心には「いのちの木」がありました。アダムはいのちの木ではなく、善悪の木から取って食べたので堕落しました。その時、主なる神は「彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と、アダムとエバをエデンの園から追い出しました。しかも、ケルビムという天使が回る剣を持って、いのちの木への道を守っています。しかし、新天新地ではいのちの川と、いのちの木があります。いのちの木は一本ではなく、川の両岸にあり、「十二種の実がなり、毎月、実ができる」と書いてあります。かなり、Version up されています。エゼキエル47章にもいのちの川といのちの木のことが預言されています。そこには「その実は食物となり、その葉は薬となる」と書いてあります。この地上では、木になる果物は花が咲いて実がなるので年に1回だけです。エゼキエル書47章には「その葉は枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける」と書いてあります。アーメン。

 私はこれらの記事を読んで思ったのですが、新天新地にはとてもロマンがあると思いました。私たちは、永遠のいのちが与えられているのですから、何も食べなくても生きていけそうです。でも、霊と魂は不滅かもしれませんが、肉体はそうではありません。おそらく栄光の体なのでしょうが、いのちの木から取って食べる必要があるのではないでしょうか?また、食べるというのはただ生存するためだけではありません。食べる喜びや楽しみがあります。イエス様が地上におられたとき、よく食事をしておられました。イエス様は最後の晩餐で「私の父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日まで、もはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ2629とおっしゃいました。ということは、新天新地には飲んだり、食べたりすることがあるということではないでしょうか?「十二種の実がなり、毎月、実ができる」とあるので、毎月、その実が違うということです。エジプトから脱出したイスラエルの民は、天からのマナに食べ飽きて、不平不満をもらしました。でも、新天新地にはそういうことがありません。また、「飽きる」というのは罪の一種なので、いつも新鮮なのではないでしょうか?しかも、毎月、12種類の実がなりますので、マナとは違います。monthly月毎に、私たちは異なる実を食べます。マンゴー、パパイヤ、もも、梨、かき、りんご、アボガド、栗、バナナ、ドリア、これでもまだ10種類です。肉や魚はなくて、主食はこのいのちの木から採れる果実かもしれません。「木の葉にいやしがある」というのは、やはり私たちの肉体と関係があると思います。いのちの木で生命を維持していますが、肉体を持つゆえの問題があるのかもしれません。でも、その葉には癒す力があります。そのため、病院で治療を受ける必要もありません。この地上でも、木の葉にいやしの力があります。ハーブは植物ですが、シナモンとか月桂樹、メープルなどは樹木です。最近、マヌカハニーというのが健康にとても良いことが発見されています。これ以上、専門家でないので分かりません。

 詩篇16篇には主のもとには楽しみがあると記されています。この詩篇は、千年王国に住む私たちを預言しています。詩篇16:9-11「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」アーメン。

3.新しいエルサレム

 新天新地のメイエベントは、新しいエルサレムでしょう。私たちはこのところに集まって、神さまの御顔を仰ぎながら、礼拝するのです。都の土台はきらびやかな宝石です。道路は透き通った純金です。神さまの栄光がその都を照らすなら、まぶしくて歩くことができないかもしれません。第三の新しいエルサレムにおいては、ウィットネス・リーが書いた本から、いくつか引用させていただきます。ヨハネ黙示録2110-12「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。」ウィットネス・リーはこのように解説しています。「黙示録14章と17章では、バビロンは大いなる都です。しかし、黙示録21章において、新エルサレムは「聖なる都」です。バビロンの原則は大いなることです。しかし、新エルサレムの原則は聖なることです。あなたは偉大さを選びますか、あるいは聖を選びますか?今日、多くの人は大説教者、大奉仕者、大伝道者であろうとします。偉大であればあるほど良いのです。これはバビロンの原則です。私たちは小さくあることを学ばなければなりません。小さければ小さいほど良いのです。私たちは聖となり、分離されることを学ばなければなりません。私たちは自分を大きくしたり、自己宣伝したりすべきではありません。小さくあるためには分離されることが必要です。しかし、大きくなろうとすると、多くの混合が必要になります。混合が多ければ多いほど、それはより大きくなります。背教のローマ・カトリックは大きいです。それは、ローマ・カトリックが大いなるバビロンとして、多くの物事の混合であるからです。教会と新エルサレムの原則は、それが聖なる都であって、大いなる都ではないということです。大いなる都は焼かれてしまうでしょう。しかし、聖なる都は主の満足であるでしょう。」なんと霊的なのでしょう。感服いたしました。私は亀有に赴任したとき「大いなるものになろう」としていたのですね。私にはあまり似合わないかもしれませんが、今後は、聖なるものになろうと努力いたします。アーメン。

 次に都の形を見て行きたいと思います。黙示録2115-17「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。」都は四角であると書かれていますが、正確には立方体、正六面体です。この形のもっとも古いのが神の幕屋の至聖所です。3つの寸法が等しく、長さ10キュビット、幅10キュビット、高さ10キュビットありました(出エジプト262-8)。その後、ソロモンが神殿を造りました。神殿の至聖所は、全部が幕屋の倍で、長さ20キュビット、幅20キュビット、高さ20キュビットありました(Ⅰ列王記620)。では、新エルサレムはどうでしょう?旧約の幕屋と神殿は、聖所と至聖所に分かれていました。しかし、神の幕屋としての新エルサレムは1つの区分しかありません。これは、二つの区分の間の幕がなくなったということです。新エルサレムの寸法が3つの方向で等しいということは、それがあらゆる点で完全で完璧だということです。そして、三方向の寸法は、一万二千スタディオンです。1スタディオンを185メートルとするなら、2,220キロになります。ちなみに日本は宗谷岬から沖ノ鳥島までが約2,845㎞あるそうです。私たちが思っているほど、都は大きいということです。

 最後に城壁と門と道路です。これこそクライマックスです。黙示録2118-21「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」碧玉はjasper ですが、不純な石英で、酸化鉄や緑泥石などの不純物により赤や緑色に色づいているそうです。つまりこういうことです。都は純金であって、純粋なガラスのようです。一方、壁は分離のために、都の周りに建てられています。都は純金ですが、壁は碧玉であり、都の外観を示しています。不思議なのは土台にものすごい高価な宝石が用いられているということです。なんと道路は透き通る純金でできています。私は土木建設に携わったことがありますが、構造物の土台は砂利やコンクリートで最も安価なものが使われます。道路も砂利とアスファルトです。 アスファルトはいわば石油のカスです。神さまはどうでも良いような土台や道路に宝石や金を用いるとは何と金持ちなのでしょう。    

 さまざまな土台の宝石について、ウィットネス・リーはこのように述べています。「都そのものは金です。それは、私たちの内側の神聖な性質を表徴します。神聖な性質は、私たちの共通の分け前です。主イエス様を信じさえすれば、私たちはみな神聖な性質を持ちます。第1から第12までの宝石に関しては、私たちは異なっています。ある信者たちは、救われた時に受けた金、すなわち神聖な性質を持っているだけです。彼らには、あまり内側に建て上げられた宝石がありません。宝石は内側の聖霊の働きを表徴します。宝石は、強烈な熱と高圧を経ることによって、異なる要素が化合したものです。たとえば、木は燃えて炭素になり、それから長い期間に圧力をかけられて宝石になります。私たちは燃やされて、圧力をかけられなければなりません。この言葉に驚かないでください。私たちの多くはこのような経験があります。多くの場合、主は私たちのために『オーブン』を按配します。時には、主は高温を使います。また、別の時、主は低めの温度を使います。ちょうど姉妹が何度の熱で何を焼くべきかを知っているようにです。多くの場合、主はこのようにして私たちをオーブンに入れました。私たちの周囲の親愛な人でさえ、私たちにとって高熱になることもあります。時には、自分の妻だけでは十分でありません。私たちはまた、子どもたちに「燃やして」もらう必要があります。妻が夫を「燃やす」こともあるでしょう。それから、子どもたちもまた、彼を燃やすように努力します。しかし、姉妹たちも安楽な生活を送っているわけではありません。多くの夫は彼らの妻を燃やす強烈な熱です。私たちは、燃やすことと圧力をかけることのゆえに主を賛美します。元々、私たちは木、草、わらにすぎません(Ⅰコリント312)。ですから、私たちは宝石になるために、燃やされることと圧力をかけられることが必要です。」アーメン。城壁の土台には、12種類の宝石があります。私たち各自の内側にあるキリストの経験は、さまざまです。神聖な性質は私たちすべてに共通です。色と輝きが違う城壁の土台は、私たちのキリストの経験を表徴していることを感謝します。

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