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2019年6月29日 (土)

古代の教会 ヨハネ黙示録2:1-5 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.6.30

 ヨハネ黙示録2章から3章までは、アジアの7つの教会が記されています。解釈にもよりますが、この7つの教会は不思議なことに教会の歴史を比ゆ的に預言しています。教会史はとても難解ですが、ヨハネ黙示録から語るとよくわかります。今日から、使徒たちが去ったあとの教会から世の終わりの教会まで、「古代の教会」から「近代の教会」まで5回に分けて学びたいと思います。毎月の最後の週の日曜日礼拝は、教会史のテーマを1つずつ取り上げていきます。

1.エペソにある教会 

 私たちが新約聖書に「〇〇人への手紙」という表題を見ますが、すべて1世紀の教会に宛てられたものです。ローマ教会やコロサイ教会を除いて、ほとんどパウロが開拓した教会です。エペソ教会は霊的戦いを乗り越え、そこからたくさんの教会が生み出されました。エペソにある教会というのは、使徒たちが召された後の教会の総称と考えられます。使徒たちの弟子である、「使徒後教父」と呼ばれる人たちが教会を指導していました。では、第二世代の教会は、どうなっているのでしょうか?黙示録22,3「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」まず、イエス様から褒められています。その当時の教会は、一代目の使徒たちのあと、教会を巡回する使徒たちがいました。でも、教会に居座り、特権を乱用していた悪い使徒もいたのでしょう。彼らの偽りを見抜くことができました。エペソにある教会はイエス様のために「耐え忍び、疲れたことがなかった」と言われています。忍耐することはとても重要です。私も30年間、亀有にいましたが、「耐え忍び、疲れたことがなかった」と言われるかもしれません。これは自画自賛ですが、後でお叱りのことばが続きます。

 黙示録24,5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」初めの愛から離れたとは、きついお言葉です。私の場合は、「あなたは初めの情熱から離れてしまった」と言われるかもしれません。ギリシャ語の「初めの」は、「第一の」とか「最高の」という意味もあります。「あなたは最高の愛から離れてしまった」と言い換えることもできます。第一代目のクリスチャンは荒削りではありますが、イエス様への愛と情熱があふれています。しかし、自分の息子や娘、つまり二代目になると信仰的に穏やかになります。悪いことはしないけれど、第一代目のような情熱はありません。教会も開拓当時は、教会員たちがすべてをささげて伝道します。やっとのことで新会堂も建てました。人々が救われて一杯になりました。でもどうなるでしょう。形式的になり、伝統的になります。教会の規則を作ります。言い換えると守りに入り、チャレンジをしなくなります。気が付いたら、初めの愛から離れてしまっていました。そういう教会に対して、イエス様は「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」と警告しておられます。つまり、「あなたはイエス様を最高に愛する、正しい道に戻りなさい」ということです。もし、あなたがその一人なら、どこから落ちたのか思い出す必要があります。だれかから裏切られたのでしょうか?一生懸命やったのに報われなかったので躓いたのでしょうか?イエス様「悔い改めて、初めの行いをしなさい」と言われます。最初の頃のような純粋な信仰と愛と情熱の回復を求めておられます。

 その次にこのようなことが書かれています。エペソ2:67「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」ニコライ派というのは、「民を征服する」という意味があり、何かの異端であったと思われます。異端の場合はマインド・コントロールをして人々を支配します。人々に恐れや罪責感を与えて働かせます。初代教会の終わりの頃は、グノーシス派という神秘的な異端がありました。彼らは、肉体は汚れていて魂はきよいという二元論を唱えていました。「神の子のイエスが汚れた肉体を持たれるはずがない」とイエス様の受肉を否定しました。この考えで行くと、肉で行う罪は、魂には影響を与えないとなり、放縦な生活を送るようになります。神秘的な異端は、信仰と生活がばらばらになります。教祖が不品行を行うのはそのためです。私たちは神さまが憎まれるものを憎むべきであります。神さまが憎むことを、人間的な思いで良いと言ってはなりません。このように二代目の教会は、その出発点から異端と戦ってきました。地上のどんな教会でも、「良い麦と悪い麦」が同居していることを忘れてはいけません。そして、最後にすべてに解決がきます(マタイ1324-40)。報いとして、真のクリスチャンは禁じられていた「いのちの木の実」が与えられるのです。アーメン。

2.スミルナにある教会

 黙示録29,10「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。──しかしあなたは実際は富んでいる──またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」このところから、スミルナにある教会は、苦しみと貧しさの中にある、迫害下にある教会であることがわかります。スミルナはギリシャ語で「没薬」を意味します。没薬は、亡くなった人に用いますので、「苦難」を表徴しています。スミルナにある教会は1世紀後半から、313年のミラノ勅令までの約200年間です。私たちは皇帝ネロのことを知っていますが、それ以降もひどい迫害が起りました。ドミティアヌス帝は自らを「主にして神」と称し、公式の誓いを強要しました。そして、トラヤヌス帝のときから、迫害は組織的になってきました。外には迫害の嵐が吹き荒れ、内においては異端の活動が活発となりました。その頃、教会を指導したのが、「弁証家」と呼ばれる人たちです。当時の異端に対して、かなり哲学的ではありますが、信仰の基準や真理の基準を示しました。

 当時、スミルナの教会には、有名なポリュカルポスという教父がいました。彼はスミルナ教会の監督であり、紀元後155223日に殉教しました。そのスミルナの街には、大きな円形競技場がありました。ローマの扇動によって「ポリュカルポスを殺せ」という声が街に響き、彼は捕えられ、そこで火刑に処せられます。その時に、ローマの兵隊が、ポリュカルポスに「ローマ皇帝さえ拝めば助かるのだから、拝みなさい」と勧めました。しかし、彼はこのように答えました。「86年、私はキリストに仕えてきました。これまで一度として、主は私に間違った取扱いをなさったことはありません。それなのに、私を救ってくださった王を、どうして冒瀆することができしょうか?」と言って焼かれていきました。ローマ市当局は皇帝に対して「もう、これ以上、キリスト教徒を殺さないでほしい。そうでないと全市民がいなくなるから」と求めたそうです。なぜなら、彼らがキリスト教徒を殺せば殺すほど、キリスト教徒はもっと多くなるからです。そして、帝国規模の迫害は紀元後249年に即位したデキウス帝のときにやってきました。彼は、これまでの「キリスト教徒を探し出してはならない」という原則を破りました。皇帝礼拝を含め、偶像に供物を捧げ、礼拝した証明書(リベルス)の提示を求めたのです。これを公然と拒否するキリスト教徒は拷問にかけられ、棄教を求められました。

 ヨハネ黙示録はその背後の力が何であるか教えています。「見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」ローマ皇帝の背後には、悪魔が背後にいるのです。パウロはローマ13章において「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。」と言いました。しかし、ローマ皇帝は神にしか要求できないことを、人々に要求しました。ということは、「悪魔化してしまったローマには従ってはならない。抵抗しなさい」ということです。日本も戦時中、天皇礼拝や神社参拝を強要しました。しかし、日本基督教団は、信仰を守る代わりに、偶像礼拝をしたのです。隣の韓国は血を流して抵抗しました。そのため、40年後にすばらしいリバイバルが全土に起りました。私たち日本は戦争責任を軍隊のせいにしていますが、キリスト教会が骨抜きにされていたことを悔い改める必要があります。このことはドイツも同じでキリスト教会がナチスと協定を結んだために、口出しできませんでした。私たちは、死に至るまで忠実であるということがいかに困難なことなのか知りません。ある時は、いのちを投げ出さなければならないということです。

 当時のスミルナ教会はどうだったのでしょうか?『一冊でわかるキリスト教史』と言う本にこのように書かれていました。「キリスト教はローマ、アレクサンドリア、カルタゴといった都市を中心に教会形成がなされていったが、この時の迫害で多くの棄教者を出したという。カルタゴの監督キュプリアヌスはのちに「棄教者」という説教を残しており、大勢の信徒、また聖職者も教会を去って行ったことを伝えている。ただし証明書があればよく、これを様々な手段を用いて手に入れる者もいたという。なおこの迫害を実施したデキウス帝は249年に即位しましたが、2年後の251年に戦死しました。でも、それで迫害がやんだわけではありません。数年後に皇帝となったヴァレリアヌス帝は当初寛容でしたが、のちにデキウス帝と同様の迫害を実施しました。そのとき、監督、長老、執事は処罰され、元老院議員など身分のある者も資産を失い、なおキリスト者にとどまるなら斬首、強制労働、追放されたといいます。しかし、ヴァレリアヌス帝はペルシャ戦で敗れ、やっと迫害は止みました。でも、最後にディクレアティアヌス帝の迫害があり、305年に収まりました。このように、黙示録は迫害に終わりがくることを預言しています。資料によりますと、ローマ帝国におけるキリスト教徒の数は3世紀後半、つまり迫害下の50年間で、600万人もの信徒数に膨れ上がったと推定されます。クリスチャンの数が増すのは、平和な時代ではなく、むしろ困難な時代であるということを私たちは知るべきです。「あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」苦難はいつまでも続くのではなく、その終わりがあることを感謝します。主の恵みによって、死に至るまで忠実であり、いのちの冠をいただく者となりたいと思います。

3.ペルガモにある教会

 黙示録213,14「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」ペルガモと聞くと、「カモの一種かな?」と思うかもしれませんが、そうではありません。ギリシャ語で「ペルガモ」という言葉には2つの意味があります。1つは「結婚」です。結婚は結合です。この時、教会は、この世と結合するようになり、この世的な教会となりました。「ペルガモ」のもう1つの意味は、「城壁を巡らした塔」です。その当時、教会は低いものではなく、地上で高いもの、高い塔になりました。それでは、ペルガモにある教会というのはどのような時代の教会なのでしょうか?コンスタンティヌス帝は、内乱状態の中313年にキリスト教を公認しました。これを「ミラノの勅令」と言います。伝説では、「これに勝て」という声とともに十字架が天より示され、ミルヴィウス橋での戦いにマクセンティウスに勝利したといいます。すでに311年にガリエヌス帝が病床において寛容令を出しており、キリスト教は自由を得ていました。しかし、この勅令のおかげでキリスト教はローマ社会の中で安定した立場を得、その後の発展に拍車がかかることになります。コンスタンティヌス帝は公認しただけではなく、迫害で失った財産の返還、さらに様々な特権をキリスト教に認めていったからです。かくして4世紀はキリスト教にとって大きな飛躍の世紀となります。しかし、ここにとんでもない落とし穴があったということをだれが知っていたでしょうか?

 さきほどペルガモの意味は、この世との結合であり、高い塔であると申し上げました。黙示録213「そこにはサタンの王座がある」と書いてあります。また、黙示録214「バラムの教えを奉じている人々がいる」とあり、15節には「ニコライ派の教えを奉じている人々がいる」とも書いてあります。サタン、バラム、ニコライが、まるで悪魔の三位一体のようであります。ウィットネス・リーはこのように解説しています。ペルガモにある教会には、主の目に邪悪な2つのものがありました。1つは、バラムの教えです。バラムは、神の民に淫行を犯し、偶像を礼拝させることをバラク王に教えた異邦の預言者です(民数記22章、25章)。コンスタンティヌス帝がキリスト教に入信したことは、異邦の預言者の教えと異教の教えの始まりでした。こうして、この世と結合して霊的姦淫を犯し、偶像崇拝をするようになりました。これは、主にとって邪悪でした。ペルガモのもう1つの邪悪なものとは、ニコライ派の教えでした。最初、エペソの教会ではニコライ派の働き、活動があるだけで、教えはありませんでした。しかし、第三段階の「ペルガモにある教会」になると、ニコライ派の働きは、ニコライ主義の教えとなりました。歴史の綿密な研究によって、私たちはニコライ派の教えが、聖職者・平信徒制度、階級組織、すなわち、「聖職者階級」の教えであることを知ることができます。ニコライのギリシャ語は「民を征服する」という意味です。いわゆる聖職者・階級組織は、教会の中で他の人々を征服します。

 私も「教会史」を『すずめの学校』(スパローズセミナリー)で長年教えてきました。最初の頃は、キリスト教がローマ公認の宗教になって良かったのではないかと思いました。迫害が止んだだけではなく、キリスト教がヨーロッパ全土に広がったからです。私たちの教会は、宗教改革を通過して、聖書的な教会であると思っていました。しかし、学びを続けていくうちに、国家と教会が結びついたために、初代教会が持っていたすばらしいものを失ったと言うことが分かりました。かつては、どこでも集会を持つことができました。説教する資格や免許もありませんでした。ところが、4世紀以降、国教会になってからは、礼拝は国が定める場所に集まって行い、家々で勝手に集会を持つことができなくなりました。そして、礼拝は資格をもった聖職者が導くようになりました。次第に、聖職者と一般信徒との間の区別がはっきりとなりました。本来教会は、信徒の群れだったのですが、聖職者によるピラミッド型の組織体になってきました。また、法律によって、国民であるならだれもが洗礼受けて、教会に属することが定められました。ですから、キリストを信じて新生していない人でも教会の一員でした。そのため、教会はこの世と全く区別がつかなくなりました。ニカイア公会議という「御父とキリストとの関係」を決定する重要な会議がもたれました。しかし、人々を招聘したのがコンスタンティヌス帝でした。これからも神学的な問題、あるいは異端を決める教会会議がなされましたが、国家が主導していきました。次第に、聖書よりも教会が定めたことが権威を持つようになっていきます。中世の教会ではこれらのことが確立しました。コンスタンティヌス帝が亡くなった後、皇帝になったユリアヌスは、自身キリスト教を棄て、ギリシャ・ローマの祭祀(さいし)の復興をもくろみ、キリスト教を少しずつ排除していきました。そのため、教会は異教徒の様々な風習や儀式を取り入れていくようになりました。現在、祝われているクリスマスやイースターでさえもその影響を受けています。

 ペルガモにある教会に対してどう言われているでしょうか?黙示録217「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」ここでは2つのものを与えると言われています。第一は「隠れたマナ」です。ペルガモの教会はマタイ13章の「からし種のたとえ」と一致しています。マタイ1332「それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」このたとえで「空の鳥」とは悪魔のことです。教会は大木のように、城壁を巡らした塔でしたが、そこでは、すべてのものが外面の見せかけのために人目にさらされていました。しかし、原則的に、尊いものは隠されています。この時代に、キリストは隠されたマナです。ですから、私たちは隠されて、人目にさらされないようにすることを学ばなければなりません。ペルガモの教会は、この世に妥協した結果、主イエスを失ってしまいました。教会が国家権力に守られるということは非常に危険なことなのです。勝利を得る者とは、主イエスご自身を得る者なのです。第二は「白い石」です。当時の異教徒たちは、石に文字を書いて、魔除けのために持っていたそうです。白い石とは、何も書いていないもので、そこに新しい名が書かれるのです。この「新しい」のギリシャ語は「カイノス」が使われていますが、このことばの意味は、時間的な新しさではなく、質的な新しさを現わす言葉です。ですから、この世と妥協した教会を救うのは、イエス様ご自身に立ち返るほかはないということなのです。

 きょうは、エペソにある教会、スミルナにある教会、ペルガモにある教会について学びました。これらは、初代教会の後の教会です。彼らはローマの迫害を受けても、信仰を守り通しました。多くは死に至るまで忠実でありました。その後、313年にキリスト教が公認され、国家と教会が結びついてしまいました。迫害は去りましたが、異教的なものがどんどん入り込むようになりました。今日の教会にも言えることですが、悔い改めて初めの愛に立ち返り、この世的なものを排除し、キリスト中心に生きることが必要です。イエス・キリストこそ隠れたマナであり、勝利ある御名だからです。

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2019年6月23日 (日)

イエスのミッション マタイ16:21-25 2019.6.23 亀有教会牧師鈴木靖尋

 前回は「イエスのミニストリー」と題して学びました。きょうのテーマは「イエスのミッション」です。ミッションとはどういう意味でしょうか?missionは派遣された人の使命、任務という意味です。海外宣教のことをミッションとも言うようです。ところで、mission impossibleと映画があります。主人公は絶対死なないので安心して見ていられます。では、イエス様のミッションとは何でしょう?イエス様は十字架で死ぬためにこの世に来られたのです。イエス様は弟子たちにも自分のいのちを捨て、十字架を負ってついて来るように言われました。きょうは、十字架の予告、十字架の成就、十字架の結果と3つのポイントでお話しします。

1.十字架の予告

 イエス様はご自分が十字架で死ぬということを少なくとも3回予告しておられます。その最初がマタイ16章です。このところで弟子のペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。イエス様はそのことを否定なさらず、むしろ喜ばれました。ところが、イエス様はその直後、このようにおっしゃいました。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」ペテロはそのことが納得できず「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱りつけました。ペテロが言ったことばに、サタンが関わっていたということです。そういえば、公生涯に入る直前、悪魔がイエス様を誘惑したことがあります。悪魔が提示した人類救済の道は、十字架の死をバイパスするものでした。今回も、ペテロの肉の思いを借りて、サタンが十字架の死をさけるようにということを訴えています。だから、イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」と叱りつけたのです。イエス様はこの後、少なくとも2回同じことばを弟子たちに語っています。

 では、イエス様の十字架の死は何のためだったのでしょうか?マルコ10章に、イエス様がエルサレムに上る直前にご自分が「十字架で死んで、三日の後によみがえる」とおっしゃっています。これは、三度目の予告と言えます。その予告の直後、弟子たちはだれが一番偉いか争っていました。弟子たちはイエス様の死を全く理解していないのか、意識的に理解しようとしないのか、どちらかです。なぜなら、弟子たちはイエス様がエルサレムで王様になり、ローマを倒してくれると信じていたからです。その暁には、自分たちが大臣になり、だれがイエス様の右もしくは左に座るか争っていました。その直後、イエス様がおっしゃったことばがこれです。マルコ1043-45「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」イエス様は「仕えられるためにではなく、仕えるために来られた」とおっしゃいました。その究極な仕え方とは「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」。このことから、イエス様の十字架の死は、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであったことが分かります。問題なのは「すべての人」ではなく、「多くの人のための贖いの代価」と言われたことです。もし、「すべての人のための贖いの代価」であったなら、全人類が信じなくても救われることになります。この意味はカルヴァンの限定的な贖罪という意味ではありません。ひとことでは言えませんが、イエス様を信じる人にだけ、適用されるのではないかと思います。パウロは「私たちの罪のため」と言っており、「あなたの罪のため」とか「彼らの罪のため」とは言っていません。イエス様を信じた人たちだけが、「主イエスは、私たちの罪のため死なれた」(ローマ425と言えるのです。クリスチャンは永遠の命をイエス様からいただいたということになります。

 イエス様がこの地上にお生まれになったとき、東方から博士たちが訪ねてきました。絵本なのでは3人の博士がらくだに乗って来たように書かれています。しかし、3人と言われるのは贈り物が3つだったかだということです。でも、実際はキャラバン隊のように、大勢の従者たちを連れてやってきたと考えられます。なぜなら、当時は山賊や盗賊が跋扈(ばっこ)していたからです。それはともかく、博士たちは黄金、乳香、没薬をささげました。しかし、これはとても暗示的であります。黄金は王様にふさわしいものであり、イエス様が王であるということです。乳香は大祭司が用いるものです。イエス様が大祭司であるということです。しかし、没薬は葬りの時に用いるものです。でも、生まれたばかりの子どもに、お線香を捧げる人はいません。もちろん、そういう意味でささげたのではないと思いますが、暗示的です。まるで、イエス様が死ぬためにこの世に来られたようなイメージを与えるからです。ある人が書いた絵があります。イエス様が30歳になり、最後の大工仕事を終えました。イエス様が夕日に向かって、「ああ、きょうの日が終わった」と両手を水平に上げている絵です。しかし、地面にはイエス様が十字架にかかっている影が映っていました。明日から、公生涯に入ることになり、それは十字架への道だということを暗示しています。

 もちろん、地上に生まれた人はだれでも死にます。何故、イエス様だけが特別なのでしょうか?イエス様は本来、神なので死なないお方です。そのお方がひとたび人間の肉体をおとりになりました。不死なるお方が、死ぬことを体験するということです。しかも、死というものが罪の結果、人類に入った忌まわしいものです。神の御子が人類の罪を負って、代わりに死ぬということほど不本意なことはないでしょう。ヘブル書にその目的が書かれています。ヘブル214,15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

2.十字架の成就

 イエス様は3年半の公生涯を終えて、エルサレムにおいて十字架につけられ死なれました。イエス様を十字架につけたのは、長老、祭司長、律法学者たちでした。決定的な罪は、イエス様がご自分を神としたことです。イエス様は冒瀆罪で死に渡されました。しかし、当時のユダヤはローマの支配下にあったので、罪状をカイザルに背く罪としてすり替えたのです。それで、イエス様は、当時、極悪人がかかる十字架につけられました。ある人たちは、「十の字ではなく、Tの字だったのでは」と言います。別に十の形が重要なわけではありません。ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」イエス様は木にかけられ、律法の呪いとなられたのです。それは律法ののろいから私たちを贖い出すためでした。つまり、行ないでなく、信仰によって救われるということです。ガラテヤ314「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」ある人たちは、キリスト教を「外国の宗教だ」と言います。聖書で外国は異邦の国であり、外国人は異邦人と呼ばれています。もし、聖書の舞台であるイスラエルから日本人を見たなら、日本人が外国であり「異邦人」なのです。本来、私たちは「神の選び」から漏れていた民でした。ところが、キリストの十字架の贖いによって、だれでも信仰によって救われるようになったのです。これはとてもありがたいことです。

 イエス様が十字架でいくつかのことばを発したことが福音書に記されています。注目したい箇所がこれです。マタイ2750「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」イエス様が大声で叫んだことばとは何なのでしょう?ヨハネ1930「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」私はイエス様は「完了した」と大声で叫ばれたのではないかと思います。「完了した」は英語の聖書に様々なことばで訳されており、どれもすばらしいと思います。ほとんどが"It is finished!"「終了した」と訳されています。The New English Bibleは"It is accomplished!"「成し遂げられた(成就した)」という意味です。Message Bible"It’s done…complete!"「完全になされた」であります。しかし、ギリシャ語の直訳は「完済された」です。どの訳でも構いませんが、イエス様がこの地上に来られた使命(目的)は果たし終えたということです。祭司長や律法学者、長老たちは「十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じる」(マタイ3742とイエス様をあざけりました。これこそ最後で、最大の誘惑でした。イエス様は十字架から降りるつもりだったら、降りられたのです。イエス様を十字架につけていたのは3本の釘ではなく、イエス様の意志でした。「どうしても飲まずには済まされない杯」(マタイ2642だったのです。イエス様が十字架について、「なだめの供え物」になられたので、私たちに救いがやって来たのです。

 私たちは聖画とか映画から、イエス様が十字架でもだえ苦しんでいるシーンを思い浮かべることができます。確かに、イエス様は霊的、精神的、肉体的にも極限の苦しみを受けておられたことは間違いありません。イエス様は暗闇の中で、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。まさしく、イエス様が私たちの罪を負ったゆえに、父なる神さまから捨てられた瞬間であります。Ⅱコリント521「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書かれているとおりです。しかし、この後、イエスさまは「完了した」と叫ばれて息を引き取りました。「完了した」は勝利と歓喜の叫びであったと思います。ヨハネ1934「しかし、兵士のうちの一人がイエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出てきた」と書いてあります。これは医学的に、イエス様の死因は、心臓が破裂したせいだと言われています。イエス様の心臓が罪の重荷に耐えられなかったという理由もあるかもしれません。しかし、「完了した(成し遂げた)」と叫んだとき、心臓が破裂したのではないかと思います。つまり、勝利と歓喜の中でイエス様は息絶えたのです。そのことを証明するみことばがこれです。ヘブル122後半「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」ヘブル書は「喜びのゆえに…十字架を忍ばれた」と書かれています。イエス様は「これで人類の罪の問題は解決する」と喜んでいたのです。

 私たちの救いは、完成した上に成り立っているということです。神さまはイエス様を十字架の上で死なせることによって、満足されました。もう、私たちの罪については裁かれません。「あなたが犯した罪のかわりに何かをしろ」とは要求なさいません。なぜなら、イエス様が私たちの罪の負債を全部支払ってくださったからです。まさしくイエス様は「なだめの供え物」になられたので、神さまの人類の罪に対する怒りがひっこめられたのです。もし、救われるために、行ないも必要だというなら、十字架の完全な贖いを汚すことになります。聖書に1万タラントを借金したしもべが赦される譬えが記されています。1デナリが1日分の給与にあたります。1タラントは6,000日分の給与ですから、今で言うと6,000万円です。1万タラントとはその10,000倍ですから、6000億円です。その当時の小さな国の国家予算に相当する額だと言われました。1万年働いても返せない額を赦された人が、「お礼に100万円お返しします」と言ったら「馬鹿にするな」と言われるでしょう。同じように、神さまに「救われるために、私にも良い行いをさせてください」と言ったら、「愚か者」と言われるでしょう。私たちはとうてい返すことのできない罪を、ただで赦してもらうしかないのです。しかし、赦しの背後には、イエス・キリストの多大な犠牲があったということです。もし、このことを知ったなら、申し訳なくて、また罪を犯そうなどとは考えません。

 イエス様は十字架で贖いを完了されました。私たちの救いは完了されたものの上に立っています。キリストの十字架の贖いには、足すことも、引くこともできません。私たちは十字架でなされた罪の贖いをただで受けることしかできないのです。これを聖書では恵みと言います。

3.十字架の結果

 マルコ1043-45「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」第一のポイントのところを繰り返します。このことから、イエス様の十字架の死は、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであったことが分かります。問題なのは「すべての人」ではなく、「多くの人のための贖いの代価」と言われたことです。イザヤ書53章にも同じようなことばが書かれています。イザヤ書53章は「苦しみのメシヤ預言」として知られています。イエス様の十字架の苦しみとその意味が赤裸々に預言されています。問題は最後の部分です。イザヤ5311「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」このところに、「多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう」と書かれています。何度も繰り返しますが「すべての人」ではなく、「多くの人」であります。ここから分かることは、「全ての人は救われない、万人救済説はなりたたない」ということです。かといって、カルヴァンが言う「限定的な贖罪」というもの賛成できません。カルヴァンは「キリストの十字架はすべての人を贖われたのではなく、選ばれた者だけを確実に贖われた」と言っているからです。では、神さまは全部ではなく、多くの人が救われるということを予知しておられるということでしょうか?現実的には、信じる人もいれば、信じない人もいますので、そうであるのかもしれません。

 高木慶太師は『信じるだけで救われるか』という本の中でこう述べています。「贖い」という概念を示すギリシャ語には次の三通りある。①アゴラゾー。このことばは「買う」とか「代価を払う」などの意味を持っているが、正確なニュアンスは、「奴隷市場の中で奴隷の代価を払う」である。②エクサゴラゾー。これは「アゴラゾー」に「エクス(…の外へ)」という接頭語の付いたもので、ただ単に代価を払うだけでなく、「奴隷市場から外へ連れ出す」ことも意味している。③リュトゥロオー。これは、「解放する」また「完全に自由の身とする」ことを表す。つまり、「贖い」という概念の中に、①まだ解放されていないけれども、代価を支払う。②代価を払って外へ連れ出す。③完全に自由にする。の三種類があるわけである。そして、そのうち②および③は聖書の中で、救われた者についてのみ使われている。それでは、キリストが罪の支払いをされたのは、信じる者に対してであったか、というとそうではない。先述の三種類の「贖い」のうち第一の意味で、キリストはご自分の血によってすべての人の罪の支払をしてくださったのである。そのことは「アゴラゾー」が聖書の中で未信者に関しても用いられていることがわかる(参考:Ⅱペテロ21)。しかしキリストが、すべての人の罪の代価を払われたといっても、それだけですべての人が奴隷市場から自由にされたわけでは決してない。キリストを救い主として信じ受け入れて初めて、人は救われるのであり、信じない人は、代価が払われたにもかかわらず、まだサタンの奴隷市場につながれたままなのである。キリストは、十字架上で息を引き取られるときに「完了した(テテレスタイ)と叫ばれたが、「テテレスタイ」とは商業用語で「完済した」という意味である。キリストは、十字架の上で、すべての人のために、ただ一度だけ、しかも永遠に有効な支払をされたのである。アーメン。

 ということは今現在生きている人たちは、すべての救われる可能性があるということです。すべての人が救いのcandidate候補者です。私たちは人の外見を見て、「この人は救われそうだけど、この人は無理」とか判断しがちです。しかし、自分は正しいと思っている人ほど、信じにくいということも事実です。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ913)と言われました。使徒パウロは私たちは神の国の大使、神との和解をもたらす大使だと言っています。大使として重要な考え方はこれです。Ⅱコリント5:15-17また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」私たちは最後の517節だけを見ますが、ポイントはそうではありません。「この人のためにも、キリストは死なれたんだ」とキリストの贖いを通して見るということです。そうすれば、だれでも、新しく造られた者であり、新しくなるチャンスがあるということです。

イギリスのスポルジョンが、肺炎のためまもなく死のうとしている貧しいメイドさんの家を訪問しました。部屋に入ると隙間風をふさぐためにいろんな紙が窓や壁にべたべた貼ってありました。よく見るとその中に一枚の小切手も貼ってありました。今の価値で何十億円の額が書いてありました。彼女は長い間、大金持ちの家でメイドとして忠実に働きました。そのご主人が亡くなるとき、彼女に一枚の小切手を上げたのです。しかし、メイドさんは字が読めないばかりか、小切手の意味すら分かりませんでした。もし、彼女がもう少し前に、お金に替えていたなら、豊かな生活を送ることができていたでしょう。私はこの小切手は、イエス・キリストの贖いではないかと思います。小切手の額は、奴隷市場から自由になれる代価だけはありません。私たちが神の息子、娘として何の不自由もなく暮らせる額が記されています。つまり、天国に行くだけではなく、この地上でも王子、王女として豊かに暮らせる額です。私も仕事で小切手を使ったことが何度もあります。裏書と言って、そこに会社のはんこが押してあれば、すぐその銀行に行って、現金に換えることができます。私たちにとって、裏書の名前はイエス・キリストです。小切手は十字架の贖いで成し遂げられました。しかし、持っているだけではダメです。部屋の隙間風をふさぐため小切手を貼っているとしたら何と愚かなことでしょう。キリストを信じて、奴隷市場の外へ出ましょう。そして、神さまが願っておられる完全な自由な生活を送りましょう。

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イエスのミニストリー マタイ9:35-38 2019.6.16 亀有教会牧師鈴木靖尋

 ministryは、一般に「聖職者の任務」と訳されています。しかし、これは「神さまの働き」とか「奉仕」という意味に訳すべきであります。イエス様はこの地上に来られて主に、3つのことをなされました。3つミニストリーと言うこともできます。それがマタイ9章にある、教え、福音宣教、そして病の癒しであります。イエスさまはどこへ行っても、これら3つのことをもって神さまと人々に仕えました。さらには弟子たちにも同じことをするように命じておられます。ということは、イエス様の3つミニストリーは今日の教会も負っている使命ではないかと思います。

1.教え

マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え」とあります。イエス様は最初ユダヤ人の会堂で教えました。まもなく、イエス様は人々から「ラビ」とか「預言者」と呼ばれるようになりました。しかし、当時の宗教家たちから妬みをかって、公の場で教えることができなくなりました。そのため、人々の家や野山で教えるようになりました。マタイはイエス様の教えをまとめました。それがマタイ5章から7章まで記されており、「山上の説教」と呼ばれています。おそらく、イエス様は一回であのような説教を長時間なされたのではないと思います。マルコ福音書やルカ福音書を見るとそのことがわかります。でも、マタイはイエス様がこれらの教えを山の上で語られたということにしたかったのです。なぜでしょう?イエスラエルの人たちが最も重んじていた書物はモーセ五書でした。その中で、もっとも大事にしていたのが、モーセの十戒です。モーセは十戒をどこで得たのでしょうか?シナイ山です。シナイ山で神から直接、主なる律法をいただきました。しかし、イスラエルはその律法を守ることができませんでした。イエス様の時代はとても形式的であり、律法主義に陥り、本来の目的から逸脱していました。イエス様は山の上に登り、人々に教えを垂れました。きわだった言い方は「あなた方は…と聞いています。しかし、私はあなたがたに言います」とモーセの律法を再解釈しているところです。よくみると、モーセの律法よりも、実行することが困難なくらいの崇高な教えです。たとえば、「兄弟に『ばか者』と言うだけで燃えるゲヘナに投げ込まれます。情欲を抱いて見るだけで、姦淫を犯したのと同じです」と言われています。私などいくつ命があっても足りないでしょう。

ロシア文学者トルストイは「山上の説教を小聖書と呼び、聖書は山上の説教で十分である」と言っています。さらにトルストイはこうも述べています。「すべての人間がキリストの教えを実行に移したならば、この地上に神の国が出現するだろう。私一人がそれを実行に移したならば、すべての人たちと自分のために最も良いことをしたことになるであろう。キリストの教えを実行すること無しには、救いは無いのである。キリストの教えを実行するためなら、どのような辛い目に遭わされても、どのように早死にしようとも、私は怖くない」と。トルストイは非常に純粋な人でありますが、生身の人間には実行不可能です。なぜ、マタイがモーセの律法と並べて山上の説教を書いたのでしょう。それは新しい契約における神の律法です。しかも、これは御国の律法であり、霊的に新しく生まれ変わった人が神の恵みによってできるものです。もし、これを実行しなければ救われないとしたなら、誰一人救われないでしょう?これはキリストによって救われ、神の国で生きる人が守るべき律法です。本来なら、御国が完成するときものであり、終末論的なものです。でも、イエス様は、「福音を信じて、御国に入るものはこれを守りながら生活しなさい」と勧めているのです。ですから、パウロの書簡の後半を見ると、山上の説教と同じような教えが書かれています。しかし、世の中の人は、聖書を道徳倫理の本として読むので、ますます迷路にはまってしまいます。小説『塩狩峠』の主人公の長野さんは、良きサマリヤ人のたとえの教え「あなたも行って同じようにしなさい」を実行しようとしました。給与を盗んだ同僚の隣人になろうとしました。逆に彼から「馬鹿にするな」と、恨みをかいました。長野さんは、みことばを守ることがいかに困難か知ることになりました。もし、イエス様の教えを律法として読むならば、モーセの十戒よりも実行不可能なものになり、窮地にはまるでしょう。

私たちはイエス様の教えの中心は何か、主題は何なのかを知るべきです。そうしたら、単なる教えではなく、私たちを本当に生かすいのちのことばになるでしょう。イエス様の教えの主題は「御国、神の国です」。山上の説教は、いわば御国の律法です。イエス様は弟子たちに「御名があがめられ、御国が来ますように祈れ」(マタイ69-10とおっしゃいました。また、「だから、神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらものはすべて与えられます」(マタイ633とおっしゃいました。またマタイ13章において、イエス様はたとえによって「天の御国」がどのようなものなのか教えてくださいました。私たちは天の御国に行ったことがないので、イエス様は地上でよく見かけるものを題材にして、教えてくださいました。イエス様はからし種やパン種のたとえによって、天の御国は、最初は目立たないけれど、知らない間に大きくなると言われました。さらに、天の御国を畑に隠された宝、あるいは値打ちのある真珠にたとえました。これは「天の御国に入ることが何物より、かけがえのないことである」ということです。クリスチャンは人生の半ばで、天の御国を得た存在です。一番大切なものを得たんですから、人生の目的を半分以上果たしたようなものです。地上の生活は仮住まい、この肉体も仮りの入れ物です。私たちに永遠の住まい、栄光の体は天の御国に備えられています。だから、クリスチャンはいつ死んでも良いのです。私たちは死ぬのではなく、天の御国に移り住むのです。

音楽でも、主題(テーマ)があります。聖書もそうですし、イエス様の教えもそうです。もし、主題(テーマ)を最初から知っていたなら、的外れな読み方はしなくなるでしょう。「木を見て、森を知らず」ということわざがあります。これまで多くの神学者たちが博学のゆえに、道から迷い出ました。イエス様の教えの中心は「天の御国(神の国)」です。私たちは天の御国に行ったことはありませんが、とてもあこがれています。ヘブル11:16「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

2.福音宣教

 福音とは何でしょう?英語ではgood newsです。しかし、ギリシャ語のエバンゲリオンは、戦争に勝ったという良い知らせでした。イエス様は暗闇が支配している国に、御国をもたらすためにやって来られました。そのために、イエス様は暗闇の支配者を打ち破る必要がありました。悪魔から言うなら、イエス様は侵略者invaderなのであります。福音は最初、バプテスマのヨハネが宣べ伝えました。マタイ32「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」その後、イエス様もこのように宣べ伝えました。マタイ417「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」イエス様が宣べ伝えた福音は、御国の福音でした。御国とは神の支配であります。「悔い改めなさい」とは「向きを換えよ」と言う意味です。言い換えるなら、「向きを換えて、天の御国に入りなさい」これが福音です。この福音を信じるなら人は救われるのです。私がこのように言うと、「いいえ、福音とは十字架と復活でしょう。イエス様はこのときはまだ十字架の贖いを完成していませんよ」と反論するでしょう。いいい、イエス様が十字架で死ぬ前に、人々は福音を信じて天の御国に入ることができました。マタイ2132,32イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と荒野で福音宣教を開始しました。そのとき、宗教家たちではなく、取税人や遊女たちが彼を信じました。そして、神の国に入った、つまり救いを得たということです。

 御国、神の国というのは、神の支配であります。領土はやがて目に見えるかたちでやってきます。今は、御国の招待状だけであります。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われて必要なことは何でしょう?それは服従です。なぜなら、神の国の王様は神さまです。神の国に入りたいなら、「分かりました。従います」と服従しなければなりません。こういうことを聞くと「え?服従なんて嫌です。必要なのは信仰でしょう?」と答えるかもしれません。確かに人は福音を信じて救われます。でも、信じることと服従はコインの裏表であります。神を信じるなら、神に服従すべきなのです。イエスさまがエリコの町を通過されようとしました。そのとき、取税人ザアカイが先回りして木の上に隠れていました。イエス様は上を見上げて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたのところに泊まることにしてあるから」と言われました。イエス様は身勝手です。ザアカイの都合も聞かないで、「きょうあなたの家で泊ることにしている」と告げました。もし、ザアカイが手帳を出して、「きょうは予定がふさがっています。それに急に客を連れて行くと家内に嫌な顔をされます。来週だったら大丈夫です」と言ったらどうでしょう。イエス様は来週なら、十字架にかかって死んでしまいます。今しかチャンスはありません。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエス様を迎えました(ルカ196)。あとでイエス様は「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」とおっしゃいました。では、ザアカイはいつ救われたのでしょう?ザアカイは十字架と復活の福音を信じて救われたのでしょうか?そうではありません。ザアカイは「急いで降りて来なさい」ということばを聞いて、「急いで降りて来て、そして大喜びでイエス様を迎えたとき」救われたのです。厳密に言うなら、木から降りる途中です。つまり、イエス様の命令に従ったときです。このように、人が救われるためには、イエス様のことば(福音)に従う必要があるということです。なぜなら、神の国とは神のご支配だからです。

 では、イエス様の十字架と復活は不要なのかというとそうではありません。十字架と復活以前は、神の国の門はせまくてよく分かりませんでした。マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」まるで、狭いドアから人々が神の国に入ろうとしているようであります。ところが、イエス様が十字架で贖いのわざを終了されてから、神の国の門がぐっと広く開けられたのです。それを案じするみことばがこれです。マタイ2750-52「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」アーメン。イエス・キリストの十字架の死は贖いの死でありました。キリスト以前は、大祭司が年一回、犠牲を携えて至聖所に入ることができました。しかし、キリストは一回で永遠の贖いを成し遂げてくださり、キリストの血によって大胆に恵みの座に近づくことができるようになったのです。また、十字架の死は、サタンのかしらを打ち砕きました。それによって、サタンは自分が所有していた死と陰府が敗北したために、捕えていた魂を吐き出してしまったのです。私たちの時代は完成した福音を宣べ伝えることができます。パウロもガラテヤ書で「異邦人も福音を信じるだけで救われる」と言っています。ガラテヤ1:8「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」世の終わり、いろんな異端がはびこり、「信じるだけではダメだ。行いも必要だ」と主張しています。もし、「行ないが必要だと言う」なら、イエス様の十字架と復活を否定することになります。私たちが救われるために信じる他に、一体、何ができるというのでしょう。

 福音を信じるということをもう一度確認したいと思います。福音とは御国の福音であり、神のご支配がやって来たと言うことです。私たちは方向転換をして、神のご支配を受け入れる必要があります。なぜなら、神の国の王様は神さまだからです。世の終わり、イエス・キリストが十字架と復活によって、贖いの道を完成してくださいました。ですから、私たちは私のために十字架にかかり三日目によみがえられた救い主キリストを信じるのです。キリストを信じた時から、私たちは神の国に入りました。「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ320)。アーメン。

3.病の癒しと悪霊追い出し

 イエス様のミニストリーの三分の一は、病の癒しと悪霊の追い出しでありました。しかし、今日の教会は、このことを排除し、教えと福音宣教しか行っていません。では、なぜ、イエス様はこの地上に来られて、病を癒し、悪霊追い出されたのでしょうか?ルカ1120「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」他の福音書から「神の指」とは、聖霊であることが分かります。つまり、人々から悪霊が追い出されていると言うことは、彼らの国が打ち負かされているということです。同時にそれは、神の国が来ているしるしだということです。イエス様は病の癒しばかりではなく、目の見えない人や手のなえた人を癒し、死人さえよみがえらせました。それらも同じで、神の国がこのところに来ているという証拠だったのです。本来、そういうことが起るのは、御国が完成された、千年王国のことであると信じられていました。イザヤ書354-6心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」イザヤ書は第五福音書とも呼ばれ、good newsがたくさん預言されています。その一つが世の終わりの出来事です。世の終わり、メシヤが来て、このようなことが起るということを預言しています。バプテスマのヨハネが、牢獄から「来るべき方はあなたですか?」と弟子たちを送って、イエス様に尋ねました。イエス様は「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き…だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ115,6)と言われました。病の癒しや奇跡は、来るべきメシヤのしるしであり、同時に神の国が来ていることのしるしでもありました。なぜなら、御国には病気や障害がないからです。

 イエス様はラザロの墓の前で涙しました。人類が死によって、飲みこまれているからです。でも、イエス様は「憤りを覚えた」と二度も書かれています。これは、これはイエス様が「この死を何とかしなければならない」と死に対して憤っていると言うことです。その後、イエス様は「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。そうすると、ラザロは布で巻かれたまま、墓から出てきました。これも同じで、世の終わりに起ることを、今現在、イエス様がなされたということです。つまり、イエス様が御国を持ってこられたので、死が打ち負かされたということです。つまり、病の癒し、悪霊の追い出し、障害者の回復、死人のよみがえり…これら全部は神の国がイエス様によってこの世にやって来たということのしるしだったのです。イエス様は神の国はどういうものなのか、デモンストレーションされたのです。デモンストレーションというのは、展示販売です。私はいつもスーパーマーケットの売り場の話をします。でも、テレビ・ショッピングでもやっていることに気づきました。電化製品とか、便利な器具など、視聴者の前で、実際にやっています。周りの人々が「わー」とか言ってもりたてます。「今ならこのお値段です。30分以内、オペレータを増やしてまっています。ダイヤルはこちら、お間違えないように」とか言います。デモンストレーションです。肉体の癒しを体験した人々は、「私もメシヤを信じて、神の国に入りたい」と思ったことでしょう。ただ福音を宣べ伝えただけだと、信じる人々はそんなに起こされないでしょう。なぜなら、神の国は目に見えないからです。イエス様は「ちょっとでも、神の国を見せてほしい。神の国の前味を味わせてほしい」という人々の願いに応えられたのです。

 しかし、今日の福音宣教はデモンストレーションなしのことばだけの福音宣教です。だから、救われる人が少ないのです。人々は神の国が本当に来ているかどうか分かりません。使徒パウロは自分の福音宣教のことを語っています。Ⅰコリント23,4「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」パウロはコリントに来る前にアテネに寄りました。でも、伝道はかんばしくありませんでした。なぜなら、パウロはことばだけで伝道しようとしたからです。アテネは「ああいえば、こういう」という哲学の本拠地でした。パウロはことばだけではダメだ「御霊と御力の現れ」が必要であると反省しました。残念ながら、現代の教会は「目覚ましい奇蹟やしるしは聖書が完成してからは不要になった」と言っています。それは、「現在そういうことがないので、そうなんだ」と自分たちの体験に神学を合わせているだけなのです。言い換えると、自分たちの不信仰を弁明しているだけなのです。イエス様は天にお帰りになる前、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちにお命じになれました。さらに「 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し…病人に手を置けば病人はいやされます」と保証されました。つまり、福音宣教に「病の癒しと悪霊追い出し」は付随するものだということです。ランディ・クラークは「病の癒しはおまけではなく、クリスチャンの主要なミニストリーである」と言っています。ビルジョンソンは”The supernatural power”でこう述べています。「イエスは、悪魔が働いているこの地に、神の国の力をどのようにもたらすか見せるためにミニストリーされました。私たちのミニストリーもイエスを同じことをすべきです。私たちは、神の国がもたらす奇跡から離れて、奉仕することはできないのです。」イエス様は病人を見て、「天国に行けば癒されるから我慢しなさい」とは言われませんでした。「弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」と書いてあります。イエス様からあわれみの心がほとばしり出て、癒しを行ったのです。

イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ937と言われました。「働き手」の「働き」は「行い」「わざ」「活動」と同じ意味のことばです。イエス様は3つの働き、教え、福音宣教、そして病の癒しと悪霊追い出しをされました。そのイエス様はご自分と同じことをする働き手を求めておられます。イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われました。私たちは収穫のことを心配しなくても良いのです。働き手を送ってくださるように祈れと言われています。御国の拡大のために、私たちが主の働き手になりましょう。 

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2019年6月 7日 (金)

御霊に導かれる ローマ8:9-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.6.6

 ローマ89節をそのまま読むならば、クリスチャンとは「神の御霊」がうちに住んでおられる存在です。その直後に、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言い直されています。11節の「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」というのは、聖霊です。聖霊は「神の御霊」であり、「キリストの御霊」であり、そして「御霊」です。そして、私たちの「霊」があります。新解釈聖書は「御霊」と丁寧に訳していますが、新共同訳はすべて「霊」です。だれの霊なのか分けるのが難しいのです。旧約聖書の時代は聖霊が人の内側に住むということがありませんでした。一時的に、特別な人の上に留まっていただけです。イスラエルの民は、神さまの御声を聞くために、預言者や祭司のところに行かなければならなかったのです。彼らは、神さまの代弁者になって、「主はこう言われます」と民に告げました。つまり、しかし、これだと限界があります。そのため、エゼキエル3626,27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。…私の霊をあなたがたの内に授け、私のおきてに従って歩ませ、私の定めを守り行わせる」と預言しました。つまり、人が霊的に生まれ変わり、聖霊が内に住むということです。このことを言っているのがヨハネ3章です。イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。この預言が成就したのが、ペンテコステの日です。例外的に10人の弟子は復活の夜、イエス様から聖霊を内側に受けました。ペンテコステの日120人の弟子たちは、内側からも外側からも聖霊を受けたのです。ペンテコステ以来、キリストを信じる人の内側に、聖霊が住むようになったのです。これは、最もすばらしいことです。なぜなら、神が私たちと共に住むということが実現したからです。クリスチャンの内側には聖霊がいらっしゃいますので、預言者や祭司に聞く必要はありません。確かに教師や牧師も教えるために召されていますが、真理の御霊がその人におられますので、ちゃんと教えてくれます。それなのに教会は、「牧師に指導してもらわないと、間違えてしまう」みたいなことを言います。クリスチャンは、教理的に教えられていなくても、救いに関する知識は、みことばを読むとき、聖霊がちゃんと与えてくださいます。聖書を読めば基本的なことは内側におられる聖霊が教えてくれるのです。

 これまで、私はペンテコステのメッセージをするとき、聖霊が内側に住むことよりも、上から力を着せられて神の働きができると強調してきました。しかし、旧約聖書にはなかった、聖霊が私たちの内側に住んでくださるというすばらしいことが成就したのですから、もっと強調すべきであります。ところで、多くのクリスチャンが誤解していますが、私たちが新しくなるのは、私たちの霊であります。霊がイエス様を信じたとき、生まれ変わるのです。生まれかわるのは、肉体でもなく、また魂でもありません。霊が生まれ変わるのです。soulということばがありますが、欧米では、魂と霊の区別がはっきりしていません。特に、心理学を学んだ人はそうです。Ⅰテサロニケ523「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」人間は3つでできており、しかも、この順番が大切です。最も内側にあるのは霊です。人がキリストを信じると、霊が生まれ変わり、そこに神の御霊が臨在してくださいます。そして、神の御霊は、私たちの霊を通して私たちを導かれるのです。第二は魂です。魂は知性、感情、意志を司っています。しかし、この魂は生まれ変わりません。この魂は神に逆らい霊の言うことも聞きません。だから、ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。魂が砕かれ、変革されることによって、霊の言うことを聞くようになります。第三は肉体です。肉体は5感をもってこの世界と触れ合ってています。しかし、肉体と魂の境目に肉が宿っているので、罪を犯してしまいます。古い人は十字架につけられていますが、私たちがすべきことは自分の意思をもって肉を十字架に付けることです。パウロはローマ121「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と言いました。だれがあなたのからだをささげるのでしょうか?あなた自身がささげるのです。あなたがそれを扱わなければ、それは決して少しも扱われることはありません。私たちは天国に行くまで、私たちのからだは悪いことをしたがります。私たちが肉の中に住んでいる限り、罪の問題を持つことになります。しかし神に感謝すべきことに、悪魔を取扱い、肉を取り扱う方法や力や権威は、神のことばを通して私たちに与えられています。人間を外側からまとめていうとこうなります。①あなたがたの、からだをささげなさい。②魂に対しては、心を一新にすることによって変えられなさい。③私たちの霊はどうでしょう?神の命と性質は、あなたの霊の内にあります。その内側の人を霊によって支配者にしてください。霊の内に住んでおられる御霊に耳を傾けてください。神があなたを導かれるのは、あなたの霊を通してなのです。きょうは、神の御霊は私たちを具体的にどのように導かれるのか3つのポイントで学びたいと思います。

1.内なる証し

 箴言2027「人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す」とあります。このみことばを現代的に訳すと、「人間の霊は主のランプ、ライト」となります。神さまは私たちの霊を通して、私たちを照らし、私たちを案内してくださるという意味です。私たちは、自分のからだの感覚が言うことによって、神がどう導かれるか判断することがあります。しかし、神さまは私たちの感覚によって私たちを導かれるとはどこにも書いてありません、また、私たちは知的な視点から物事を見て、それに理屈をつけようとするところがあります。しかし、神さまが私たちの知性を通して私たちを導かれるとは、聖書のどこにも書かれていません。聖書は、人間のからだが主のともしびであるとは言っておらず、人間の知性が主のともしびであるとも言っていません。「人間の霊が主のともしびである」と聖書は言っているのです。私たちの内に住んでおられる神の御霊が、私たちの霊を通して働かれるのです。「内なる証し」とは、神の御霊が私たちの霊を生まれ変わらせたのち、神の御霊が私たちの霊に語るということです。その後、私たちの霊が魂に語るのです。言いかえると、御霊ご自身が直接、私たちの魂に語るよりも、生まれ変わった霊が私たち語りかける方がはるかに多いということです。だれが何もなくても、自分は神の子どもであると言うこと知っています。ローマ816 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」ある教会では、洗礼証明書を発行している教会もあるそうです。その人が救われているかどうか、調べる方法はとても簡単です。「あなたは救われていますか?あなたは天国に行ける自信はありますか?」と聞けば良いです。御霊ご自身が、あなたの霊とともに「あなたは神の子です。救われていますよ」と証ししてくださいます。これは「内なる証し」です。

 ケネス・ヘーゲンに、イエス様が現れてこのようなことを教えてくれたそうです。「私が私のすべての子どもたちを導く第一の方法、主要な方法は、内なる証しによってです。もし、あなたがその内なる証しに従うことを学ぶなら、私はあなたを豊かな者としましょう。私は、霊的なことと同様、経済的なことも、生活のあらゆることであなたを導きましょう。私は、私の子どもたちが豊かになることに反対ではありません。私は、彼らが貪欲になることに反対です。」ケネス・ヘーゲンは、今まで、その内なる証しに従ってきました。だれかが、「あなたは百万長者ですか?」と先生に尋ねました。「豊か」ということばの意味を正しく理解していない人々がいます。「それは十分な供給」という意味です。それは「豊かに備えがある」という意味です。ケネス・ヘーゲンは、友人の「百万長者」のことを書いていました。だれかがアイディアを持ってきて、投資をしてほしいと言う時、その人は初めは頭で考えます。イエス様が「あなたは祈るとき、自分の奥まった部屋に入りなさい」と言われました。彼はこの意味は、物事を心の中から締め出すという意味だと思っています。自分の霊が何というか聞くまで待ちます。時には断食もします。三日間待つときもあります。ほとんどの時間、自分が何をすべきかを内なる証しによって内側で知るまで、ただ待っているのです。頭が「おい、そんなことにお金をつぎ込むなんて、おまえは馬鹿じゃないか。一文なしになってしまうぞ」。けれども、自分の心はこう言います。「前進して、それに投資しなさい」。自分はそのようにするのです。そして、今まで長年の間、私は1ダイム(10セント)も損をしたことがありません。彼は言いました。「私はいつも、私の霊に耳を傾けています。私の霊がせよということを、私はします。私はその内なる証しに従っています。」アーメン。

 詩篇1828「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」主がともしびをともされるのは、外なる人としてのあなたにではなく、内なる人、内側の人に対してなのです。何度も言いますが、神があなたを導いてくださる第一の方法は、その内なる証しによってなのです。私は1987年に、当亀有教会に赴任させていただきました(昔は来てやったと思っていましたが、今は砕かれたのでこう表現しています)。2つ目の神学校が卒業真近なとき、当亀有教会の山崎長老さんから大川牧師のもとに「だれかいないか、新しい血を入れたい」とラブコールがありました。当時、亀有は日本基督教団でした。神学校では、基督教団はリベラルで信仰がないと教えられていました。家内は「あなた一人で行って」と言いました。しかし、大川牧師が「日本基督教団から招聘を受けることはまずないから行ってみろ!」と言うのです。「先生、私が不要なのですか?」と悲しくなりました。祈るとイザヤ61章のみことばが来ました。でも、それはイエス様のメシヤ預言なので、私とは程遠いことだと跳ね飛ばしました。でも、追っ払っても、またそのみことばがやってきました。ついには、降参し、二歳と五歳の子どもを連れて家内とやってきました。頭と感情では来るつもりはありませんでした。しかし、「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げる」というみことばに、私の霊が従いました。ケネス・ヘーゲンのことばです。「あなたはどんな超自然的なしるしも必要ありません。異言と解き明かしも必要ありません。あなたはどんな預言も必要ありません。あなたはあなたの内側で、何をすべきかを知っています。内なる証しは、幻などと同じくらい超自然的な導きなのです。それはあまり目を見張らせるものではありません。が、多くの人々は、目を見張らせるものを捜していて、いつもずっと存在している超自然的なものを見逃してしまっているのです。」つまり、導きを得るために、だれか預言者のところに行く必要はないということです。預言はあります。しかし、多くの場合、すでにあなたに語っていることへの確認を与えるためです。

2.内なる声

 ローマ91「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。」御霊が私たちを導かれる第二の方法は、内なる声によってです。この内なる人の声を私たちは「良心」と呼んでいます。あなたの霊には声があります。あなたの霊はあなたに語りかけます。ウィットネス・リーが『神の永遠のご計画』の中でこのように書いています。「霊は良心、交わり、直覚からなっている3つの部分あるいは機能があります。良心は容易に理解できます。私たちはだれでもこれを良く知っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とすることは、良心の別の働きです。」アーメン。でも、ここで1つの問題が生じます。「イエス様を信じていない人でも、良心があるか?」ということです。実は良心はほとんど機能していないというのが、本当です。でも、良心がないわけではありません、ヘブル1022「私たちは、心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられ」と書かれています。この世では「あなたに良心のかけらでもあるなら」と言うような言い方があります。でも、生まれ変わっていない人の良心は神の目から見たら「邪悪な良心」なのです。ですから、イエス様を信じて、霊的に新しくなるとき、良心もはじめて機能するようになるのです。もし、あなたの霊が新しくされ、神のいのちの性質を内に持っているなら、それは安全な案内役なのです。Ⅰヨハネ513「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」「持っている」というのは、現在形です。私たちは永遠の命を、今持っているのです。あなたが新しく生まれたクリスチャンなら、あなたは自分の霊の中に、今、神の命を持っているのです。あなたは自分の霊の中に、今、神の性質を持っているのです。人が自分の霊に従うことを学ぶなら、それは何とすばらしいことでしょう。Ⅰコリント216「いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

 ケネス・ヘーゲンは、ただ死を待つだけの少年でした。医学が「私にはこれ以上何もしてあげられない」と言ったとき私はどうしたでしょう?私は「もし、私に助けがあるとすれば、それは聖書の中にある」と考えました。時間があまりなかったので、新約聖書から始めることにしました。マルコ1123,24にたどり着きました。私の外側の何者かが、どこからか私の知性に言いました。「それはあなたが肉体的に、物質的に、あるいは経済的に願うものは何でも」という意味ではない。「あなたがたが霊的に願うものは何でも、という意味である。病気のいやしのことは除外されている」と言いました。私は牧師に来てもらってマルコ1124を教えてもらおうとしました。ようやく一人の説教者が来てくれました。彼は私の手をさすり、専門家のような口調で言いました。「がまんするんだよ。あと二、三日もすれば、すっかり良くなるからね」。私はその意見を受け入れて、死を予期しつつ、そこに横になっていました。それから二か月たって、私は聖書を開き、マルコ1123,24を読みました。私は言いました。「主よ、僕は、だれかに助けてもらおうとしましたが、できませんでした。僕は、あなたのおことば通りにあなたを受け入れます。あなたがこの地上におられた時、あなたはそのみことばを言われました。僕はそれを信じようと思います。あなたがそのことで嘘をつかれたのでなければ、僕はこのベッドから出られるでしょう」。私の霊が私にこう言いました。「あの節で『信仰の祈りが病人を救う』と言っていることに気づきましたか?」私は大きな声で言いました。「はい、その節でそう言っています!」その時、私の内側でこういうことばが語られました。「その祈りはだれででもできるし、あなたにもできます」ハレルヤ!私はもう九か月かかりましたが、「私は健康であると信じています」と言いました。その内なる声が言いました。「では、起き上がりなさい。健康な人々は、午前1030分には起きているべきです」。私はそれまで体が麻痺していました。それは1つの戦いでした。私は自分の体を引っ張るように動かしました。突然、私は真っ直ぐに立っていたのです。それ以来、私は今までずっと真っ直ぐになっているのです。私は私の霊に耳を傾けたのです。信仰は霊から出るのです。

3.聖霊の声

 使徒101920「ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。『見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。』」聖霊が私たちを導かれる方法は3つあります。第一は「内なる証し」です。神の御霊が私たちの霊に直接話しかけることによって私たちを導かれます。第二は「内なる声」です。私たち自身の霊が私たちに語る、静かな声です。第三は「聖霊の声」です。聖霊があなたの内側で語られる時は、もっと威厳があります。その声があまりにもはっきり聞こえるので、耳に聞こえる声であるかのように思われることもあります。そういう時、だれが話したんだろう、と周りを見回すことさえするかもしれません。耳にはっきりと聞こえたように思われるので、だれかが後ろから何かを言ったのだろうと思うかもしれません。けれども、自分の内に語られたのだと、後で分かるのです。旧約聖書の中で、あの少年サムエルが「サムエル、サムエル」と自分の名前を聞いたことがあります。彼はエリが自分を呼んでいるのだと思いました。しかし、そうではなく、主がサムエルに語っていることを後で知りました。私も信仰生活40年たちますが、イエス様の声を聞いたのが2回あります。私が第二礼拝で証をする番だったのに、直前になって大川牧師から「第一礼拝で証した田中伝道師にしてもらうから」と言われました。私は礼拝堂の一番、後ろで座っていました。田中伝道師が証をし始めた時、「馬鹿野郎、ふざけるな!」と叫ぼうとしました。その時、イエス様の声が聞こえました。「お前はだれのために証をするのか」と。あの時、叫んでいたなら、今日の私はありません。

 ケネス・ヘーゲンは「御霊の声をみことばによって吟味する」ということを教えています。聖書は、神の御霊と神のことばは一致すると教えています。神の御霊が語られる時は、それは常にみことばと調和しているはずです。人々はさまざまな『声』を聞き、考えられるあらゆる種類の『啓示』を受けています。しかし、「私は声を聞いています」といつも主張している極端な人たちもいます。神さまが初代のクリスチャンたちを導かれたのと同様に、神さまは今日も私たちを導いておられます。ローマ814「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」ですから、私たちは神の御霊がどのように、彼らを導かれたかを知るために、使徒の働きや聖書の他の箇所を調べる必要があります。ある人たちは幻を通して導きを受けたことがありました。御使いが現れて、何をすべきかを告げることにより、導きを受けた人々もいました。しかし、そのような現象は、そういう人々の人生で毎日起ったわけではありません。ですから、そのようなことは、神さまが導かれる通常の方法ではないのです。私たちは、ほとんど毎日、天使がだれかに現れて、人々に何かを告げているかのような印象を持っています。そうではありません。神さまが私たちの霊と一緒に証しし、神がご自身のみことばで言われている通りの方法で私たちを導びこうとしておられるのです。それなのに、私たちは幻とか天使の出現とかのようなもの望んでいるために、耳を傾けないことが多くあるのです。

ケネス・ヘーゲン師がこのように勧めています。あなたの人生を夢や幻、預言の上に建て上げてはいけません。あなたの人生を、みことばの上建て上げてください。それ以外のものは、二の次にしてください。あなたが内なる証ししか持っていなくても、その内なる証しに従うことに満足してください。あなたの霊を教育し、訓練し、開発し、内なる証しがあなたにとってますます現実のものとなるようにしてください。もし、超自然的な訪れや現れを神がよしとして、それをなしてくださったなら、神にただそのことを感謝してください。あなたの霊がみことばを思い巡らし、みことばを実行し、みことばを第一にするという特権にあずかっているなら、あなたの霊は権威ある案内役なのです。…2000年前のペンテコステの日以来、キリストを信じる者の内に聖霊が住むようになりました。この聖霊はキリストの御霊であり、神の霊です。私たちは聖霊の宮であるとも言えます。すでに、大いなる導き手である聖霊が私たちの内におられるのですから、聖書を読みつつ、このお方の声に耳を傾けましょう。聖霊はあなたに他の人々には、隠されている道を教えてくれます。知恵を与え、創造力を与え、あらゆる解決を与えてくださいます。そして、キリスト様のようなきよい心を与え、柔和で愛の人にしてくださいます。私たちはもっとすばらしい神さまご自身を心の中に有していることを忘れないようにしましょう。

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2019年6月 1日 (土)

~ゼパニヤ書の喜び~     亀有教会副牧師 毛利佐保 2019/6/2

◆聖書箇所: ゼパニヤ書3章14-17節 (聖書引用:新改訳2017)

 

3:14

娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

3:15

主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。

3:16

その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。

3:17

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

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5/29水曜日に鈴木先生が入院、頭部の血腫を取り除く手術をされました。

昨日無事退院なさったということで、ほっとしました。鈴木先生の完全なる癒しをお祈りください。

術後ということですので、先週に引き続き私が礼拝メッセージを担当させていただきます。

 

今月は6/30に私がメッセージ担当する予定でしたが、本日と入れ替わる形になりましたので、12の小預言書の続きとなります。

 

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」「ナホム書」「ハバクク書」と続きました。

今日は9番目の預言書、「ゼパニヤ書」の一書説教です。

 

ゼパニヤ書は3章から成り立つ小預言書です。

1章-3章8節までは、ユダ、エルサレム、近隣諸国へのさばきの宣告について語られています。

3章後半は、異邦人を含めた回復と祝福、主の日がやって来た後の喜びについて語られています。

それまでの厳しいさばきの宣告をすべてひっくり返して、民だけではなく、主がともに喜びをもって楽しんでくださる様子が預言されています。

 

前回のハバクク書もそうでしたが、主は、どん底とも言える気の遠くなるような長い苦難の末に、驚くほどの、大いなる祝福を与えてくださるというU字型の希望を見せてくださいます。

ゼパニヤ書は、どん底から引き上げられた時の喜びが、半端なくはじけた感じで語られている書なので、今回は「ゼパニヤ書の喜び」と題しました。それではゼパニヤ書を見て行きましょう。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

①神のさばきは民を愛するがゆえ。(1-2章、3章1-8節)

 

ゼパニヤの名前の意味は、「主は隠される」です。彼はその名の通り、主からの隠されたメッセージをユダの民たちに伝えましたが、彼の預言に耳を傾ける者は少なかったようです。

 

ゼパニヤが活動した時代は、前回語ったハバククやエレミヤとほぼ同時期のヨシヤ王の時代です。

冒頭でゼパニヤは、自分の家系をわざわざ四代も遡って、自分はあの偉大なる王ヒゼキヤの子孫であると語っています。これは、ユダの民たちに、この預言が王家の血統である者が語る権威あるものだということを示したかったからだと考えられます。

 

おそらくヨシア王は、ゼパニヤ預言の影響を受けて、宗教改革を行なったのではないかと考えられます。

しかしヨシヤ王の宗教改革も虚しく、最後の善王だったヨシア王が戦死したときから、南ユダ王国は70年間のバビロン捕囚へと突き進んでいきました。

 

1章では、ユダとエルサレムのすべての住民に下された神のさばきが語られています。

ユダの罪は、1:4-6に書かれています。

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1:4

わたしは手をユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。

その場所からバアルの残りを、偶像の祭司たちの名を、その祭司らとともに断つ。

1:5

そして、屋上で天の万象を拝む者どもを、また、主に誓いを立てて礼拝しながら、

ミルコムに誓いを立てる者どもを、

1:6

主に従うことをやめた者ども、主を尋ねず求めない者どもを断ち切る。」

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ここに【ユダの罪】をピックアップしてみます。

  • バアル神崇拝(カナン人の神)
  • 天体礼拝
  • ミルコム神崇拝(アモン人の神)

※マナセ王の時代には、人身犠牲を伴う偶像崇拝を行なったという記述もあります。

 

このようにユダの民は、聖書の神以外のものを神のように崇拝しました。

それゆえ、「主に従うことをやめた者、主を尋ねず求めない者を断ち切る」と主は怒りをあらわにしました。

 

「主はねたむ神」と聖書の随所に書かれていますが、これは対人関係の「ねたみ」とは質が違います。

神はイスラエルの民を、まるで自分の妻であるかのように愛してくださっています。

ですから民は、真の神の愛に応えて、神のみを夫として愛し仕えなければなりません。

 

しかし民の偶像崇拝によって神との契約関係が破られてしまいました。

神は民を愛するがゆえにねたまれ、さばかれます。神が最も嫌われる罪は偶像崇拝です。

モーセが神から与えられた十戒には、神が何についてねたまれるかについてはっきり語られています。

 

<出エジプト20:4-6>

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20:4

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

20:5

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神

わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

20:6

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

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ユダの民はこのモーセの律法を何代にも渡って語り継ぎ、熟知していたはずです。

それなのにユダとエルサレムの住民たちは偶像崇拝の罪を犯し続けましたので罪深いです。

 

特に、ヒゼキヤ王の息子マナセ王が55年もの長きに渡って及ぼした悪影響は、民たちを罪に対して鈍感にさせました。その罪は息子アモン王に引き継がれ、その息子ヨシヤ王が宗教改革を行なっても、残念ながら回復しなかったということです。罪に鈍感になるということの恐ろしさを、私たちもここから学びましょう。

 

またゼパニヤ2章では、近隣諸国の罪とさばきについて言及しています。

「彼らはわたしの民をそしり、自分の領土のことで高ぶった。」(2:8,10)と語られている通り、近親諸国に対するさばきは、反ユダヤ主義に対するさばきでもあります。

 

神は民をねたまれ、ことごとく滅ぼすと言われます。

しかしそれは、主が民たちを愛するがゆえであり、主は完全に滅ぼし尽すことはなさいません。

このような状況にあっても、信仰をもち続け、主を慕い求める者たちには希望を与えてくださいます。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

②神は残りの者、散らされた者を集めてくださる。(3章9-13節)

 

ここに神のご計画があります。

神は人間の罪が増長して、パンパンに膨らんで、もうどうしようもなくなったときに、すべてを散らされることがあります。そして、神様が定められた御計画のときに、残りの者、散らされた者を再び集めてくださいます。

 

<ゼパニヤ3:9>

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3:9

そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。

彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。

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「唇を変えて清くする。」は、英語の聖書(NKJV)では a pure language (純粋な言語)と書かれています。

この「唇、言語」と訳されたヘブライ語は、「שָׂפָה(サーファー)」と言いますが、この「שָׂפָה(サーファー)」が聖書で初めて使われているのは、創世記11章1~9節の「バベルの塔」の出来事の箇所です。(11:1, 6, 7, 7, 9)

 

バベルの塔の話を要約します。人は知恵をもち、おごり高ぶり、天にも届くようなバベルの塔を築こうとしました。しかし神はそれを阻止されました。神は、それまでひとつであった言語をバラバラにして混乱させ、コミュニケーションを取れなくしました。彼らには一致がなくなり、バベルの塔や町を築くことはできませんでした。

 

ゼパニヤ3:9では、バベルの時代からバラバラになったまま現在にいたる世界中の言語を、a pure language (純粋な言語)に変えてくださり、与えてくださると語っています。「彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。」創世記11章のバベルの塔の出来事が、終末の主の日に見事に回収されていきます。

 

「言語」というと、現在使われているヘブライ語にも、神様の不思議な導きがあります。

ご存知の方もおられると思いますが、実は、旧約聖書の古典ヘブライ語は、ユダヤ人が紀元70年にローマから世界各地に散らされてから二千年近く、日常語としては使われていませんでした。

 

聖書や書籍でしか使われなくなった古典ヘブライ語は、なんと、20世紀に日常語として復活しました。

その立役者は、ロシアで暮らしていたユダヤ人の学者、エリエゼル・ベン・イェフダー(1858年 - 1922年)という人です。

彼はロシアからパレスチナに移り住み、古典ヘブライ語を現代ヘブライ語に直して日常語として使いました。

彼は、使われなくなっていた単語を文献から探し出し、現代的な概念を表す新語を編み出しました。

そして、全16巻からなる、『ヘブライ語大辞典』を編集し、彼の死後それは出版されたそうです。

 

そのようなユダヤ人たちの努力によって、現在ヘブライ語はイスラエルでは公用語として使われています。

このように、一度日常語として使われなくなってしまった古代の言語が再び復活して使われるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけだそうです。

ここには確かに神のご計画があり、イスラエルのために散らされた言語を集めてくださったと考えられます。

 

このように、聖書には隠された啓示があります。ユダヤ人の文学者に、エリック・アウエルバッハという人がいます。彼は、ホメロスのオデッセイと旧約聖書の物語の対照についてこう語りました。

 

「聖書の物語はホメロスのように数時間、読者の現実を忘れさせようとするのではなく、現実を乗り越えさせようとする。自分たちの人生はこの世界の一部であり、世界の歴史を形造る一員だと感じさせてくれる。」

 

聖書の預言通り、現実にイスラエルの民はバビロンに捕囚され、70年後にはエルサレムに帰還しました。

そして紀元70年にはローマ帝国からの迫害によって散らされました。

しかし神はすべてを滅ぼすことはなさらず、残りの者、散らされた者を集めてくださいました。

1948年にイスラエル国はついに再建され、散らされた残りの者たちが戻ってきました。

まさにこの出来事は、聖書の隠された啓示であり、世界の歴史を形造る出来事となっています。

 

主の素晴らしいところは、このような歴史上の大きな出来事だけではなく、私たちの日常の小さな出来事にも聖書のみことばを通して介入してくださることです。

主のみことばは、私たちを励まし、強くしてくださり、現実を乗り越えさせ、私たちの人生もこの世界の一部であり、私たちは世界の歴史を形造る一員だと感じさせてくださいます。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

③シオンの娘よ。喜び歌え。(3章14-20)

 

<ゼパニヤ3:14-16>

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3:14

娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

3:15

主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。

3:16

その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。

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※新改訳2017では、3:14 「喜び勝ち誇れ」が「喜び躍れ」になっています。

 

「主の日」「その日」というのは、ゼパニヤの時代においては、バビロン捕囚と帰還のことであり、歴史としてのイスラエルの回復を表しています。

しかし「主の日」が真に意味するのは、終末の時、イエス様の再臨の時、メシア王国の実現の時です。

 

「主の日」は、ギリシャ語で「καιρός(カイロス)」と言います。カイロスは、通常の時間の流れの中に突如介入される神の時を表します。終末の主の日には、さばきと祝福が同時に起こります。

そしてそれは、とんでもないほどの喜びに満ち溢れるときであると、ゼパニヤは語っています。

主の日には、イスラエルの民だけではなく、主を慕い求める異邦人もともに、喜び歌い、喜び叫び、喜び躍ります。まるで、ダビデの幕屋での礼拝の状態とも言えます。

 

ダビデは主の箱をエルサレムに運び入れるとき、妻のミカルがさげすむほど、力の限り踊って神を褒め称えました。そして、幕屋の中の至聖所に主の箱を置き、全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げました。

ダビデは、レビ人のアサフとその兄弟たちを主の箱の前で仕えさせました。

 

<Ⅰ歴代誌16:5-6>

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16:5

かしらはアサフ、彼に次ぐ者は、ゼカリヤ、エイエル、シェミラモテ、エヒエル、マティテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエル。彼らは琴や竪琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。

16:6

祭司ベナヤとヤハジエルは、ラッパを携え、常に神の契約の箱の前にいた。

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そのエキサイティングな礼拝は、ダビデがエルサレムで王になって死ぬまでの33年間、24時間絶え間なく続いたと言われています。(礼拝を司っていたレビ人たちは、大変だったろうな~と、ちょっと思います。)

 

この日本においても、ダビデの幕屋の回復を目指す「国家的ダビデの幕屋の回復」という運動があります。

その運動には私たちがよく知っているワーシップリーダーとか若い牧師が賛同して参加しています。

内容としては、活動に賛同する全国の牧師や信徒が、日本の国家規模のダビデの幕屋の回復のために、24時間祈りを繋ぎ、断食祈祷をして、賛美と祈りをもつというものです。

 

2014年~2015年にかけてとても盛りあがっていたようです。

その年は、多くの月食が起こり、日食も起こり、ユダヤの祭儀も重なったことから、「主の日」が来るのではないか、何か大きな世界的な変化が起こるのではないかと言われていました。

 

結果的には世界的な変化は起こりませんでしたが、おそらく本当に主の日が来たときは、花嫁が、待ちわびた花婿を迎えるように、ダビデの幕屋以上の素晴らしい喜びが満ち溢れることでしょう。

ずっと賛美しても、叫んでも、躍っても、祈っても全く疲れない。まさにそれは神の国の完成です。

 

その神の国の完成についてですが、「神の国は既に到来し、未だ到来せず。」とよく表現されます。

「既に到来」とは、イエス様が受肉し公生涯を歩まれ、十字架の贖いと復活を遂げられたことで既に到来したという意味です。

「未だ到来せず」は、イエス様の再臨(主の日)において神の国が完成するので、その意味では未だ到来していないということです。

 

私たちは、「既に」で、神の国の前味を味わえる祝福をいただいており、イエス様への信仰をもつことによって、永遠のいのちをいただくことができます。

そして教会を通して福音が拡大し、神の共同体として豊かな信仰生活を送ることができます。

 

しかし、世の悩み苦しみ、罪との戦い、戦争、飢餓、天変地異などからの解放はまだ得ることができません。

つまり、神の支配がすべてに及んでいないということであり、「未だ」神の国が完成していないということになります。

 

しかし主の日は必ずやって来ます。その日、私たちは喜び歌い、喜び叫び、喜び躍るのです。

それが「将来の希望」です。

イエス様は、私たちに喜びをくださるために地上に降りてきてくださいました。

なぜなら、イエス様は私たちを造られたときに、このように喜んでくださっていたからです。

 

<箴言8:27-31>

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8:27

主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、

8:28

上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、

8:29

海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、

8:30

わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。

8:31

主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

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ここでの「わたし」は、イエス様を表しています。

主とイエス様が私たち人間を主の似姿として造られたとき、イエス様は毎日喜び、楽しんでおられました。

そしてイエス様は、主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んでくださっていました。

それなのに、アダムとエバが罪を犯し、人はこの麗しい世界から出なければなりませんでした。

 

しかし、主の日が来た時に私たちは再びこの麗しい世界に集められ、戻ることができます。

その時、主もともに喜んでくださいます。ゼパニヤ3:17で語られている通りです。

 

<ゼパニヤ3:17>

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3:17

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

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そしてゼパニヤ書の最後に、主は力強いみことばで私たちを力づけてくださいます。

<ゼパニヤ3:19-20>

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3:19

見よ。わたしはそのとき、あなたを苦しめたすべての者を罰する。わたしは足を引きずる者を救い、散らされた者を集め、彼らの恥を全地で栄誉ある名に変える。

3:20

そのとき、わたしはあなたがたを連れ帰る。そのとき、わたしはあなたがたを集める。まことに、あなたがたの目の前でわたしがあなたがたを元どおりにするとき、わたしは、地のあらゆる民の間であなたがたに栄誉ある名を与える。──主は言われる。」

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主は南ユダより先に滅びてしまった北イスラエルの民を忘れてはおられません。

シオンの娘である南ユダの民とともに、散らされた残りの者を集め、祝福を与えると語られています。

異邦人である私たちは、イエス様を信じる信仰によって、その祝福に接ぎ木された者たちです。

イエス様の恵みを心から感謝し、主の日を待ち望み、この地上においても喜びの前味を味わいましょう。

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