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2019年5月 3日 (金)

神の臨在を意識する 箴言3:5-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.5.5

 ビル・ジョンソン師が『神の臨在をもてなす』という本で、このように述べています。「人生において、神の臨在を意識しながら生きることほど本質的なことはない。その名はインマヌエル、神がともにおられるという名のお方である。神とともに歩む生き方を、私たちはイエスから引き継いでいる。イエスがなさったように、私たちの人生においても臨在を優先し、臨在によって、影響力と目的を与えられていかなければならない。」 

1.神の臨在に導かれる

 箴言35「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」と記されています。「心を尽くして」は、英語の詳訳聖書では、All your heart and mindとなっています。私たちの生まれつきの思いは、神さまに頼ろうとしません。とことん自分でやってみて、ダメだったら神さまに頼ろうとするところがあります。自分は頭が良い、自分には知恵があると思っている人は特にそうです。しかし、クリスチャンは「何かをするときは、祈りなさい」と勧められています。祈りはすばらしいもので、一瞬、自分の思いを断ち切り、神さまの方に向けます。そうすると、何か不思議なことが起り、「待てよ、それで良いのだろうか?」と一寸、考えるようになります。そして、思いを巡らせると、「そうじゃなくて、この方がもっと良いのではないだろうか?」とアイディアや導きをいただくことがよくあります。なぜでしょう?自分の思いを断ち切り、神さまと繋がったからです。神さまと繋がったので、神さまの方から隠されていた情報やアイディアが与えられたのです。みなさんは、そういうことはないでしょうか?私は落ち着きがない子どもで、「やす、落ち着け!」が母の遺言でした。学校でも一番、落ち着きのないのは私でした。クリスチャンになっても、交通事故を良く起こしましたが、それが原因であることは痛みを通して学びました。正直、自分には知恵があり、気転がきく方だと思っています。それがうまく行くときもありますが、先走ったために、カスを掴まされることも良くありました。そのため、今では、「待て、待て。祈って、神さまの導きを得よう!」ということが習慣化してきました。一番、下の子どもがよく忘れ物をします。「忘れ物ないか、ちゃんと調べろよ」と何度注意したでしょう。でも、「私がそうだったんだよなー」と同情心が湧いてきます。

 箴言35「主により頼め」というのは、「主を信頼しなさい」ということです。また、「あなたの行くところ、どこにおいても、主を認めよ」と書かれています。「主を信頼すること」と、「主を認めること」という2つのことが何か深いつながりがあるようです。どっちが先かと言うなら、主を信頼するという心構えが先です。その後に、主を認めることができるということです。「認める」ということばは、「知る」ということばです。ヘブライ語ではヤダーであり、「体験で知る」という意味があります。創世記41「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み」と書いてあります。この知るは、男女の深い交わりを表しています。ですから、主を知るというのは、頭の知識ではなく、単なる概念でもありません。出会いを通して知るということです。つまり、どんなときも自分の悟りにたよらず、主を信頼していきます。そうすると、主が働いてくださることを体験します。つまり、主を知り、主を認めることができるということです。これは体験してみないと分からない分野です。私もこれまで何べんも失敗をしましたが、その度ごとに「ああ、神さまに聞いて、神さまに信頼すれば良かった」と反省します。すると、時間から、焦る気持ちをおさえて、「まず、祈ろう。主から導きをいただこう。きっと道は開ける!」と一寸、休みます。一見、時間が無駄になったように思えますが、そうではありません。もっと、良い方法が与えられます。これは痛みを通して、学んだことです。私たちはどうしても、「自分がこの道の専門家だから、大丈夫。私が一番知っている」ということで、神さまに頼ろうとしません。もちろん、それでうまくいくときもあります。でも、うまくいかないときもあります。「ああ、祈って、導きを得るべきだった」というふうになります。

 ジョエル・オスティーンのお父さんは教会の土地を買おうとみんなで献金を集めました。ある土地がみつかり、教会員のみんなも「それがよい」と決断しました。お父さんは、契約の前の夜、眠れませんでした。「どうしてなんだろう」と不思議に思いました。すると、神さまから「その土地を買うのをやめなさい」と言われているような気がしました。「え、だって主よ。みんなで一致して決めたんですよ。相手方にも失礼では?」と言い返しました。でも、「やめなさい」という主の声が大きくなり、降参しました。いよいよ、その業者と会って、お断りしました。業者からも、教会員からもさんざん悪く言われました。詳しいことは忘れましたが、景気のせいで、土地の価格が急に下落したそうです。結果的に、もっと広い他の土地を前よりも安い値段で購入できたそうです。ある女性がある男性と婚約を結ぼうとしました。しかし、女性のお父さんが「その人はやめた方が良いと思うよ」と言いました。なぜなら、祈っても平安がなかったからです。でも、お譲さんは「お父さん、馬鹿なこと言わないで」と忠告を無視して結婚しました。1年もたたないうちに、その男性は不誠実な人であったことが分かったそうです。その女性は深く傷つきましたが、神さまの導きを得ることの大切さを知ったそうです。

 神さまはある時にはドアを開けてくれません。なぜなら、それは危険だからです。ジョエル・オスティーンがあるときチャーター機でスタッフと一緒に旅をしました。他の人たちは、機内の壁から折り畳み式のデスクを出して、パソコンを操作していました。ジョエル・オスティーンはそれを見て、自分もデスクを出して仕事をしようと思いました。それらしきレバーがあり、引いてみました。ところがいくら引っ張ってもデスクが出ません。スタッフを呼んで、「どうして下がらないんだろう」とまた引っ張ってみました。そのとき、小さな文字が目に入りました。「緊急脱出時以外は開けないで下さい」と注意書きがありました。もし、ジョエル・オスティーンが力任せに開けていたなら、外に飛び出していました。やれやれと、冷汗をかいたそうです。神さまはあるときはドアを開けてくれません。命を失わないで、「次回はこうしよう」と学べるのは主のあわれみです。自分の悟りに頼らないで主を信頼しましょう。どんな所でも主を認めましょう。

2.神の臨在で聖められる

 ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』でこのように述べています。「天国には、神から離れた考えは存在しない。神は光であり、命であり、世界の中心である。完全な神への信頼が満ちているのが天国という場所だ。他方、この世は不信と混乱に満ちている。私たちは、自分が最も意識している世界の現実をいつも解き放つことになる。神のうちにとどまるためには、神を意識することが欠かせない」と述べていました。と言うことは、私たちは不信と混乱に満ちているこの世で生きているので、神さまを意識しないと、そっちにのみこまれてしまうということでしょうか?確かに、テレビのスイッチを入れると、だれから殺されたとか、こういう問題が起こっているとか一瞬のうちに入ってきます。コメンティターの言っていることは理屈が通っています。でも、彼らは全能の神さまが介入してくださることは全く信じていません。世の中の不条理、不合理、不平等が「ばーっ」と私たちの思いの中に入って来ます。ニュースを聞くことが悪いとは言いません。この世の状態を知ることは大切です。でも、「神はいないという」考えが、自分の思いの中に入って来て、いつの間にか信仰が失せてしまうということも確かです。ですから、私たちは世の中のニュースはほどほどに聞く必要があります。特に、民放はスキャンダルが好きなので、特番を組んでやっています。私たちは自分の思いを守る必要があります。私たちはこの世でありながらも、天国で生きることはできないのでしょうか?

 1600年代に生きていた神の人、ブラザー・ローレンスがいます。彼は修道士ではなく、修道院のコックとして働いていました。彼は『神の臨在の実践』という本で、自分の生活をこのように証しています。私は仕事を始める時、ちょうど子どもが親を信頼するような心をもって、「おお、私の神よ。あなたはいつも私と共にいらしてくださいます。今、私はあなたのご命令に従ってこれらの世の事柄に心を用いなければなりません。どうぞあなたの臨在の中に絶えずおいていただく特権をお与え下さいますようにお願いします。どうかこのために、み助けをもって私を祝福し、私のすべての働きを受け入れてくださり、私のすべての愛情を所有してください」と申し上げました。いよいよ仕事に取り掛かっても、なお、創造主と絶えず親密に語り続け、神の恵みを求め、すべての私の行為を神にささげました。私は仕事を終えてから、どのようにその責任を果たし得たか自分自身で検討してみます。もし良くできたら神のもとのとして感謝してお返しし、失敗があったら神の許しを請います。そして失望することなく、すぐ心を取り直し、一度も神から離れたことがない者のように神の臨在を思う練習を続けました。このようにして、失敗から立ち上がり、しばしば信仰と愛の行為とを新しくすることにより、以前は神について思うことが困難でしたが、今では神について考えないことの方がかえってむずかしい状態になりました。」アーメン。ブラザー・ローレンスは、彼の祈りの時間と台所で奉仕している時間には全く違いがなかったと言われています。どちらの環境の中でも、同じように神さまと交わり、神さまを意識していたのです。

 私は聖め派の神学校に最初、行っていましたので、「罪の悔い改め」には今でも抵抗があります。自分でも嫌いなので、おそらく皆さんにも「罪を悔い改めるように」と勧めることは少ないと思います。でも、「全くそうしていないか?」というとそうではありません。悔い改めるとは、ギリシャ語でメタノイヤーであり「方向を変える」「思いを変える」という意味です。また、罪はギリシャ語でハマルティアであり「的はずれ」「本来の姿からずれている」という意味です。もちろん、それが「罪」であります。ただし、「罪を悔い改めよ」と人から言われると、さばかれているような気持ちになるでしょう。私たちはもともと、被害者意識があり、「私は悪くないよ」と防御してしまいます。そのため、「罪を悔い改めろ」みたいな直接的な表現を用いないで、「間違った考えや行いを正しい方に変えるように」と言い方を替えています。ドSかドMか分かりませんが、「罪を悔い改めろ」と叩かれた方が効果がある人がいるかもしれません。しかし、私たちには肉があるので、どうしても言い訳したり、抵抗してしまいます。ですから、「考えを変える」、「行ないを変える」くらいが良いのです。しかし、その時に重要なのは、神さまの臨在、神さまの促しを尊重することが大切です。つまり、人ではなく、神さまの臨在のもとに自分を置くということです。そうすれば、神さまから新しい方向に変える力と意欲が自然と与えられます。

何度も引用しますが、ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』でこのように述べています。神の臨在をおもてなしする特権にあずかっている私たちは、神を常に意識しながら生きることを人生の目標にしなければならない。この方は聖なる霊なので、私たちの人生を聖いものにするように働いてくださる。しかしまた、この方は聖い方であると同時に、「良い方」である。人々は神の聖さを求めながら、「神が良い方である」という基本的な真理を見失ってしまうことがある。私は自分の経験から、聖さを求めて訓練したり、深い悔い改めに心を感じたりすることが、実際の聖さをもたらすのに大した効果がないことを学んきました。むしろ、聖い生き方は、私をありのままで受け入れてくださる聖なる神のうちにあって喜ぶことにより、自然の結果として与えられてくる。自分自身で汗をかいて試みた努力は、私の生き方を変えるよりも、傲慢や惨めさを心に味わう結果に終わってしまう。主との歩みの中で、この原則をもう少し早く発見していれば良かったのにと思う。そうすれば、長年のフラストレーションからもっと早く抜け出せたはずだ。アーメン。私はビル・ジョンソンの本を読んで、いわゆる「聖め派」から救われた感じがしました。どちらかと言うと「自分がいかに罪深いか」罪を強調して、ひれ伏して深い悔い改めに心を向けるところがあります。そういう方法もあるかもしれませんが、「聖い生き方は、私をありのままで受け入れてくださる聖なる神のうちにあって喜ぶことにより、自然の結果として与えられてくるものなんだ」ということです。Ⅱコリント3:17,18 「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。

3.神の臨在を楽しむ

 詩篇16:8-11「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」このダビデの詩篇は、神の臨在がどんなにすばらしいか教えてくれます。この詩篇の記者は神の臨在を楽しんでいるように思えます。普通、神さまが側にいると見張られているような感じがして、緊張するかもしれません。なぜなら、「神さまが見ていない方が良いなー」と言う時もあるからです。しかし、この人は「いつも主を前に置いた」と言っています。もし、この人がダビデであったなら、ダビデは、毎日、自分の目の前に神さまを置くことを日課としていたということです。そして、ともにおられる神さまに心を向け、毎日、神さまを深く意識していたことになります。ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』という本で、このように述べています。神の臨在の人として、聖書中で最も尊敬されていたダビデがこのことを生活の習慣にしていた。ダビデの人生の実を見るとき、臨在の中で行うことが、ダビデの成功の秘訣であったと言っても言い過ぎではないだろう。…詩篇1611「あなたの御前には」は英語の聖書では「あなたの臨在の中には喜びが満ち」と訳されている。私たちの家の中にも、神の臨在をもっと意識するなら、そこにはより大きな喜びが満ちあふれてくるのである。…私たちの多くは、祈りにはたくさんの労苦が伴うことを教会で教えられて育ってきた。今でも、労苦の伴う祈りの価値を認めている。しかし、今は臨在とロマンスのライフスタイルの中から、そのような祈りに入っていくことを学んでいる。愛の関係においてこそ、すべては効果的になる。日々神の臨在を見つけることは、愛にとどまるための最も確かな方法である。

私は毎朝、聖書といくつかのディボーションの本を読んでいます。一区切りした後、椅子に伏して目をつぶります。今、学んだことに対しての応答をします。そして自分の中から出てくる思いを受け止めます。そして、神さまを仰ぎます。まるで、小旅行をしているようです。そこには、「こうしなさい」という支持もありません。神さまの愛と恵みの中に、自分がどっぷりつかっているという感じがします。20年前にやっていた「ディボーションの方法」では、観察、神さまとは、教え、適用…などノートに書いていました。しかし、それだと左脳ばかり使って、楽しくありませんでした。それよりも、ひざまずいて、べたーっと椅子に伏して目をつぶります。なんだか、目の前に主がいるような感じがします。主にだかれているような感じもします。祈りというよりも、湧き上がってくる自分の思いや感情を前に差し出します。人には言えない内容もあります。嫌なこと、嘆き、悩みも出てきます。もちろん、あとから感謝や信仰も出てきます。ビル・ジョンソンは「五分間の小旅行」と言っています。牧師室にいるとき、数分間電話を取り次がないように秘書に頼むそうです。椅子に座り、たいていは目を閉じて、このように祈ります。「神さま、私はただここに静かに座って、あなたの愛の対象になります」。ビル・ジョンソンはこう述べています。「自分の注意を私に対する神の愛に向けるとき、神への私の愛も増し加わっていく。私が神を喜び、神が私を喜んでくださる。それは終わることのない愛の祭りであり、神にある喜びは成長し続ける。神こそが究極な楽しみであり、大切にされるべき喜びである。」アーメン。

 このたび、三回にわたりビル・ジョンソンの『神の臨在をもてなす』から度々引用してメッセージしました。最初、この本を日本語で読んで「なんと軟弱な書物だろう」とほかしていました。しかし、英語のディボーションから毎日、少しずつ読みました。一番下に、お祈りが書かれています。その言葉を声を出して祈ると、ぐっと心の中に入ってくる経験をしました。日本語では「臨在」とか「愛」は、何か陳腐に聞こえてきますが、英語だと新鮮にせまってきました。もう1つは、私の場合は「主の臨在を体験するためには、第一はこれ、第二はこれ、第三はこれ」と方法論で述べてしまうところがあります。しかし、臨在を体験するとは、いわばロマンスであって、方法論ではありません。現代の人たちは分刻みで生きています。空白の時間を作らないように、スマホをいじったり、イヤホンで何かを聞いています。クリスチャンであっても、神さまに時間を与えないとしたら、臨在を体験することは不可能です。神さまとデートするのを後回しにしているのではないでしょうか?聖書が神さまのラブレターであるなら、もっと味わい深く読みたくなるでしょう。もしかしたら、神さまはもっと私たちに隠されたことを教えてあげたいと願っているかもしれません。私たちに忠告を与えたいと願っているかもしれません。肝心の私たちといえば、他のことを考え、日常のことで忙しくしています。主を仰ごうともしないし、主の御声に耳を傾けようともしないならどうでしょう?結局は、この世の法則や力で押し流されて、主の力あるわざ、奇跡、大いなる知恵、隠された出来事を受け取ることができません。現在は、天がこの地に侵略している時代です。イエス様が天の窓を開けてくださり、今、この地に神の国が力強く臨んでいる時代が来ているのです。言い換えると、神の臨在が私たちのすぐ近くにあるということです。この世でありながら、神の国が聖霊の臨在によって来ているのです。ですから、一寸でも立ち止まって、主と交わり、主の導きを得たらどうでしょうか?

本日、引用したみことばをもう一度、引用いたします。箴言35「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」Ⅱコリント3:17「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」詩篇1611「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」アーメン。私たちは主との関係を宗教にしてはいけません。宗教とは特別な時間を設けて、特別な仕方で神さまを礼拝することです。言い換えると非日常的な時間と空間を設けて神さまを礼拝することです。私たちは神さまとの関係を宗教にしてはいけません。それよりも、日常の真ん中に神さまをお招きして、プライベードな深い関係、ロマンスを持つことが重要です。私たちはどんな時も、どんな場所にも主を歓迎し、主を目の前に置いて、主の臨在を楽しんで生活しましょう。

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