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2019年5月25日 (土)

~主は私の羊飼い~詩篇23篇 亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: 詩篇23篇 (新改訳2017)

 

<ダビデの賛歌。>

23:1

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

23:2

主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。

23:3

主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

23:4

たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。

あなたがともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

23:5

私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。

私の杯はあふれています。

23:6

まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。

私はいつまでも主の家に住まいます。

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本日は体調がすぐれない鈴木先生の代わりに礼拝メッセージをさせていただきます。

先週の礼拝でお伝えしたとおり、頭部の外傷による影響で再検査となったようです。

鈴木先生の完全なる癒しをお祈りください。

 

私がメッセージを担当する時は、12の小預言書を順番に語っていますが、本日はピンチヒッターということで、詩篇の23篇からメッセージを取り次がせていただきます。

 

詩篇23篇は、羊飼いである主が、羊である私たちを導き守ってくださることへの感謝と信頼に満ちた詩です。とても有名な聖句なので、暗唱聖句として覚えておられる方も多いと思います。

教会学校でも、「主の祈り」とともに「詩篇23篇」を暗唱しています。

 

海外の映画やドラマでも、重要なシーンで詩篇23篇を暗唱するという映像が見られることがあります。

大島渚監督の映画、「戦場のメリークリスマス」では、デヴィット・ボウイ扮するイギリスの陸軍少佐が、首から下を生き埋めにされるという処刑シーンで、捕虜たちが詩篇23篇の讃美歌を歌っていました。

 

本日は、この詩篇23篇をいま一度読み返して、主の臨在の中で、主のいつくしみと恵みとを味わい知る喜びを、みなさんと分かち合いたいと思います。

 

◆羊飼いである主は、

①満ち足りる心を与え、休ませてくださる。

 

この23篇の冒頭には、<ダビデの賛歌>と書かれていますので、この23篇は、ダビデ王が自らの体験を歌にしたと考えられます。どういった状況を想い起してこの詩を歌ったかについて、イメージしてみましょう。

ダビデ王の生涯は戦いの連続でした。

ダビデがあまりに多くの血を流したことから、主はダビデが神殿を建てることをゆるさず、息子ソロモンに建てさせたほどです。

 

<Ⅰ歴代22:8>

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あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建ててはならない。

わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。

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ダビデは、外国の敵だけではなく、主君であるサウル王に命を狙われたり、息子のアブシャロムに狙われたりしました。ダビデはこのふたりとは戦いたくありませんでしたので、彼らから逃げまどい隠れていました。

なぜなら、サウル王は主に油注がれた王なので、ダビデは主を恐れて主に油注がれた人には手をかけたくなかったし、アブシャロムは自分の愛する息子だったからです。

 

そのような状況で生まれたのが、詩篇23篇です。

まず、1,2節を見てみましょう。

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23:1

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

23:2

主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。

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2節は新改訳2017版の聖書では、今までの新改訳聖書とは少し聖句が変わっている箇所があります。

23:2  主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(新改訳3版)

23:2  主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。(新改訳2017)

 

新改訳2017では、「いこいの水のほとり」を「いこいのみぎわ」という言い方に変えています。

この「みぎわ」という言い方は、口語訳聖書で使われている言い回しで、日本語としてとても美しいことから採用されたようです。私もこの「みぎわ」という言い方はすごく好きです。

 

因みに、昨年新しく改定されて発行された、カトリックとプロテスタントの共同で訳された「共同訳聖書」では、「憩いの汀」と、漢字が使われています。

「礼拝に相応しい格調高く美しい日本語訳を目指した」ということですが、格調高い漢字を増やし過ぎて、聖書がさらに難解になってしまうとしたら、賛否両論ありそうですね。

 

話は戻りますが、羊飼いである主は、ダビデが敵の攻撃からやっとのことで逃れ、身も心も疲れ果てているときに、食料を与えてくださり、いこいのみぎわで休ませてくださいました。

それゆえ、ダビデは「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と、心から主を褒め称えています。

 

また、主はダビデだけではなく、主を慕い求める者たちには、同じように必要を与えてくださっています。

イスラエルの民にとって大きな出来事である、モーセの時代の荒野での40年間も、羊飼いである主は養ってくださいました。

 

<申命記8:7-10>

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8:7

あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、

8:8

小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。

8:9

そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。

8:10

あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

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主はダビデと同じように、イスラエルの民たちにも必要を与えましたが、ダビデとは大きな違いがありました。

モーセはイスラエルの民たちに、神が与えてくださった約束の地で食べて満ち足りた時、主をほめたたえなければならないと言いましたが、はたして民たちは主をほめたたえたでしょうか?

 

どうもそのようには見えません。

時代はモーセからヨシュアへ、そして士師、サムエルと流れていきましたが、民たちは、いつの時も不平不満だらけで偶像崇拝を行ない、心休まることなく戦い続け、自らの利益だけを考えて過ごしていました。

 

ダビデとの違いはここです。大切なのは、「満ち足りる心」「満足する心」です

ダビデは、毎日戦いの日々だったにも関わらず、どんな状況でも主の臨在を感じることができ、感謝し、褒め称え、詩を歌いました。ダビデは羊飼いである主によって、満ち足りる心をいただいたのです。

 

新約聖書では、ピリピの教会の人々にパウロはこのように語っています。

<ピリピ4:11-13>

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4:11

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。

4:12

私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

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パウロは弟子のテモテにもこのように語っています。

<Ⅰテモテ6:6-8>

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6:6

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

6:7

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。

6:8

衣食があれば、それで満足すべきです。

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人の欲望というものは、満足する心がない限り際限なく続きます。

心理学者マズローの「欲求5段階説」は、それをよく表しています。

①生理的欲求 (生命を維持したい)

②安全の欲求 (身の安全を守りたい)

③所属と愛の欲求 (他者と関わりたい。集団に属したい)

④承認欲求 (自分を認めたい。他者から価値を認められたい)

⑤自己実現の欲求 (能力を発揮して創造的活動をしたい)

【⑥超越的な自己実現の欲求 (至高体験を経験したい)】

 

マズローは段階が上がっていくことを良くない事だと言っているわけではありません。

人類の文化の発展には⑤や⑥は必要です。

自己実現するために、夢を追いかけたり、欲求を満たすために努力することは悪いことではありません。

 

しかし、夢や欲求が、ただの貪欲に変わってしまうとやっかいです。

なぜなら貪欲な心というのは、現状に対する不満に満ち溢れ、自分を高慢にさせ、神のように振舞ったり、偶像崇拝をしてしまったりというように、人をすっかり変えてしまうからです。

そのような姿は、神様が喜ばれる姿ではありませんし、いずれは自分自身が壊れてしまい、周りの人との関係も崩れてしまいます。

 

ですから、良い羊飼いである主に信頼しましょう。主は私たちの心に平安を与えてくださいます。

「私は乏しいことがありません。」・・・と告白できるほど、満ち足りる心を与えてくださいます。

「緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。」・・・羊が安心して草を食べるように、主は私たちに必要なものを与えてくださり、憩いのみぎわで、疲れと渇きを癒やしてくださいます。

それゆえ、主を心から褒め称えましょう。主は褒め称えられるべき御方です。

 

◆羊飼いである主は、

②たましいを生き返らせ「シューヴ」(שׁוּב)、いのちに至る道をくださる。

 

次に3節を見てみましょう。

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23:3

主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

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「たましい」という言葉は、ヘブライ語で「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)という言葉で表されています。この言葉は、前回のメッセージでも語りましたが、本来の意味は「喉」です。喉は、食べたり飲んだり、息をしたりする重要な部分です。転じて、「飢え渇きや欲望」を持った人間を表します。

 

ですから、私たちの「ネフェシュ」「たましい」は、いつも飢え渇いているのです。

例えば、<詩篇42:1>には、

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鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

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この箇所は、飢え渇いているたましいが、神を慕ってあえいでいる様子がよく表れています。

 

そして、「たましいを生き返らせ」の、「生き返らせ」に使われているヘブライ語ですが、それは「シューヴ」(שׁוּב)といいます。シューヴの本来の意味は、「神に立ち返る」「悔い改める」です。

なぜ先ほどから、ネフェシュとかシューヴとかヘブライ語を出してくるかというと、旧約聖書はヘブライ語で書かれていて、その単語には日本語では表現しきれない意味が含まれているからです。

「シューヴ」(שׁוּב)の「神に立ち返る」「悔い改める」の意味が、ここでは、「生き返らせ」になっています。

英語の聖書では、ここは“restore”(リストア) と書かれています。

“restore”は、回復する、元気を取り戻す、生き返る、復帰する、再建する、新しい力を得る、といった意味があるので、ここはやはり「悔い改め」よりも、「生き返らせる」が訳としてはしっくりきます。

 

いずれにしても、自分の力でたましいが生き返るのではなく、「主が生き返らせてくださる」という受動的なところがポイントです。私たちは、信仰によって創造主である神にすべての主権があることを知っています。

ですから、主の偉大さを恐れるとともに、受動的にすべてを受け入れて、主の大きな力強い御手の中に身を委ねることで、身も心も霊も、安心することができるのです。

 

さらに3節後半はこう続きます。

「御名のゆえに私を義の道に導かれます。」と歌われているとおり、主は私たちを、御名のゆえに「義の道」、つまり、「いのちに至る道」へと導いてくださいます。ほんとうに主への感謝にあふれます。

 

続く4節。

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23:4

たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。

あなたがともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

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人生は山あり谷ありです。「信仰をもっていたなら災いが起こらない」などというわけではありません。

聖書に出て来る信仰者たちも、実に多くの苦難に見舞われています。

私たちも、いつ災いに見舞われるかわかりません。いつ天に召されるかもわかりません。

 

しかし、たとえ人生の暗闇の中にいたとしても、主がともにおられるという祝福があります。

「主がともにおられる」というのは、主の臨在をいつの時も感じることができるという幸いです。

「主は与え、主は取られる」のですから、恐れずに主と歩めば良いのです。

 

次の聖句、「あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」と読むと、羊飼いが羊をピシーッ!とむちで叩いたり、杖でオラオラーーっと小突いたりしている図が浮かんでしまう人がいるかもしれません。

しかし「むちと杖」というのは、羊飼いが猛獣を追い払うために使ったり、迷っている羊を正しい道に導くために使った道具です。

 

聖書ではイエス様を羊飼いに例えたり、人間を羊に例えたりしますが、それは人間には羊の性質に似ているところがあるからです。羊は動物の中でも、おっとりしていて弱いし、頭も良くないし、目も悪いし、何も考えずに他の羊と同じことをしてしまいます。

例えば一匹崖から落ちると、後ろからついていった羊たちが次々と崖から落ちてしまうといった感じです。

 

だからこそ、しっかりと導いて守ってくれる羊飼いが必要なのです。

主が羊飼いであるならば、どんな苦難が起こっても、主がともにいてくださるから恐れることはありません。

愛をもって導いてくださる、主のむちと杖こそ、私たちの大きな慰めとなります。

 

次に5節を見てみましょう。

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23:5

私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。

私の杯はあふれています。

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敵が迫って来ていても、主は食卓を整えてくださるというのは、主からの特別な守りを表しています。

敵の前でも平然と食事が出来るくらい、私たちの安全を保障してくださるということです。

また、今までの聖書は「油」と書かれていましたが、新しい訳では「香油」に変わっています。

このことからも、この油そそぎは、任職の油そそぎというよりも、良い香りの香油をたっぷり注いでいただくことによって、安心や喜びが、杯いっぱいになるようにあふれるという意味になります。

 

羊飼いである主は、私たちの「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ) たましいを「シューヴ」(שׁוּב)生き返らせてくださいます。

そして、いのちに至る道をくださり、敵から守り、喜びで満たしてくださるとは、なんと幸いなことでしょうか。

 

◆羊飼いである主は

③惜しみなく、いつくしみ「トーヴ」(טוֹב)と恵み「ヘセド」(חֶסֶד)をくださる。

 

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23:6

まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。

私はいつまでも主の家に住まいます。

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「いつくしみ」と訳されている「トーヴ」(טוֹב)は、以前も出てきた言葉です。

「トーヴ」は「良い」という意味で、「トーヴアドナイ」は、「主は永遠に良い御方」を意味する言葉です。

主は私たちに、惜しみなく良いものを与えようとしておられます。

 

「恵み」と訳されている「ヘセド」(חֶסֶד)は、神の真実な姿、永遠にゆるがない愛と憐みを意味します。

トーブもヘセドも神のご性質を表すためによく使われる重要な言葉です。

「いつくしみと恵み」が追いかけて来るとは、いつくしみと恵み、主の臨在に包まれていることを意味します。

 

「私はいつまでも主の家に住まいます。」と言ったダビデはこのように願いました。

<詩篇27:4 >

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私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

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ダビデは、神との交わりの場である神の宮に行って礼拝をすることが最大の喜びでした。

彼は、主の臨在の中で主との交わりを第一とすることで、主の栄光を周りの人々に表していったのです。

 

ダビデから後の時代に、イエス様は人の手による神殿を壊されました。

そしてイエス様御自身の身体をもって神の宮を建ててくださり、私たちが自由にキリストの身体である教会に集い、主との交わりができるようにしてくださいました。(ヘブル10:19-25)

 

私たちが主の臨在の中で礼拝する時に、聖霊なる神様が確かに働いてくださいます。

羊飼いである主は、惜しみなく、いつくしみ「トーヴ」(טוֹב)と恵み「ヘセド」(חֶסֶד)をくださる御方です。

私たちもダビデのように、詩篇23篇を歌い、主の臨在があふれる宮の中で主を礼拝し、主の栄光を周りの人々に表していけるように祈っていきましょう。

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2019年5月17日 (金)

ニューエイジとの違い Ⅰヨハネ4:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.5.19

 キリスト教会では奇跡が起こるとか、神の御姿に変えられると言います。また、私たちは聖霊による啓示や導き、預言を信じています。さらには、キリストの御名による癒しや死人のよみがえりさえも信じています。しかし、1970年代から霊的な体験を強調するニューエイジが誕生しました。新約聖書の時代、グノーシスという神秘主義がありましたが、近年、東洋の宗教やオカルトと合体して、「新しい時代」ニューエイジなる偽物が登場しました。私たちはニューエイジのことをある程度知っておかないと、惑わされて、救いから漏れてしまう恐れがあります。

1.私は神ではない

ニューエイジは1970年代から今の形になったと言われています。その頃は、ウッドストックというロックのフェスティバルがありました。ヒッピーを含め40万人も集まったロックの祭典です。私も1970代のロックは大好きですが、だんだんとニューエイジぽくなっていきました。そういえば、アクエリアスという曲がありました。Age of Aquariousは「水がめ座の時代がやって来る」というニューエイジの歌です。それから、「宇宙のファンタジー」は「すべての人は、心の中に宇宙を持っている」と歌っています。ジョン・デンバーはニューエイジ・コミューン(New Age Commune、ニューエイジ村)を作り、合気道によって宇宙精神と合致することを目指し、ピラミッドのなかで瞑想を行い、将来自分が大統領になることなどを信じて生活をしたそうです。ジョージ・ハリスンが歌った、My sweet Lordは、インドのクリシュナへの信仰を歌ったものです。歌だけではなく、アニメの世界もニューエイジのものが多数あります。ある資料によると、『ぼくの地球を守って』『機動戦士ガンダム』『セーラ・ムーン』『ちびまるこちゃん』のテーマソング「おどるぽんぽこりん」がそうだと言われています。尾形守牧師は、『脳内革命』『神々の指紋』は、ニューエイジであるとはっきり言っています。

 こう考えると、ニューエイジはとても身近にある惑わしの宗教です。キリスト教の信仰も、「繁栄の神学」、「積極的思考」「ホリステックな癒し」を強調し過ぎると、そちらに行く危険があります。しかし、偽物があるからと言って、本物がないわけではありません。ただし、敵は巧妙に隠れて、真の神さまから私たちを離そうとしています。結果的に、十字架の贖いを否定し、キリストの神さまから離れるということです。ニューエイジは「私たちは神の子であり、神のようになる」と言います。彼らが引用するみことばがこれです。使徒1728「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。」パウロが「私たちもまたその子孫である」とは、ギリシャの詩人からであり、聖書のみことばではありません。何故、パウロが異教的なものを借用したのか、多少疑問が残ります。私もある真理を証明するために、新聞の社説や評論家が言ったことを引用するときがあります。なぜなら、この世の中にも、一般恩寵という真理のかけらがあるからです。しかし、文脈を飛び越えて捉えられてしまうと、危険です。私たち人間は神さまの被造物であって、神さまと同等ではありません。しかし、キリストにあって「神の子(神の養子)」とされました。神に似た者として造られましたが、神ではありません。もし、ニューエイジが言うように自分が神になるなら、自分が絶対者になり、何者にも支配されない高慢な者になるでしょう。悪魔は「自分が神のようになるんだ」と堕落してしまいました。私たちは神さまの子どもですが、神さまではありません。私たちは神さまに似たものとして造られましたが、神になるわけではありません。正常な頭脳で聞いているとアーメンですが、ニューエイジに汚染されたら、このところが分からなくなります。神さまは私たちに知性や理性を与えてくださいました。これをなくすのではなく、神さまの真理と一致させるように用いるためにあります。信仰は、受動的なマインドコントロールではありません。自ら考えて、自らを真の神さまにささげるのです。

 ニューエイジはいろんな姿を変えて私たちの身近に迫っています。良く聞くのが「自己啓発セミナー」です。ウェブには「第一にアメリカ流のセラピー(心理療法)であり、第二はセールスマンをはじめとするビジネス・トレーニングでもあり、第三は、現象面では新新宗教やニューエイジとも重なり合う」と書いてありました。セミナーは「ニューエイジへの入り口」であり、セミナーなどをきっかけにチャネリングなどに参加したり、『聖なる予言』などの精神世界本を読み始めたりすることもしばしばあるようです。セミナーのトレーナーや主宰者の多くは精神世界の熱心な信奉者です。私も「私はできる」「信じれば何でもできる」というようなことも言います。しかし、それは「主にあって」です。彼らの本を読むと、似たようなことが書かれていますが、それを行って下さるキリストの名は全く登場しません。確かに、信じれば何でもできるという、可能性思考には力があります。でも、私たちには父なる神さまがおられ、御心とご計画の範囲内です。私たちは成功ではなくて私たちは栄光を求めなくてはなりません。もし、何か大きなことをしたら自分に栄光が来るのは偽物です。私たちは常に神さまに栄光を帰していくのです。神さまが私たちの支配者であり、私たちは神さまのしもべです。しもべと言っても奴隷でありません。神さまの息子、娘として喜んで仕えるのです。

2.霊は聖霊である

10年くらい前から、「スピリチャル」ということばが良く聞かれるようになりました。スピリチャルと言っても、神の霊ではなく、目に見えない霊的な力のことです。現在、スピリチャル・カウンセラーなる人たちがたくさんいます。心理学や催眠術を用いて、心を癒そうとします。しかし、催眠術はとても危険であり、無意識の状態から悪霊を招いてしまいます。また、ニューエイジがよくやるのがチャネリングです。高次の霊的存在、宇宙人、死者の霊と交信して情報を得るものです。昔から、霊媒や口寄せがありましたが、死者からの御告げを受けるというおぞましいものです。日本では恐山のイタコや沖縄のユタが知られています。レビ記20:27「男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」と書いてあります。なぜ、こういうものをしてはいけないのでしょうか?人間は生まれつき霊的な存在です。人間には霊があります。でも、それは霊である神さまと交わるためです。ヨハネ4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」私たちは霊によって、霊なる神さまを礼拝するのであります。ところが、チャネリングとか霊媒や口寄せをするとどうなるでしょう?招かれるのは、高次の霊とか、死者の霊ではありません。やってくるのは悪霊です。その人は、悪霊に扉を開けて、招いているのであって、とても危険です。では、なぜ、死者の霊が出て来て、おじいちゃんやおばあちゃんのことを知っているのでしょう?それは死んだ人にとりついていた悪霊が先祖の霊のふりをしてやってくるのです。彼らは先祖たちにとりついていたので、生前の情報を持っていると考えられます。しかし、悪魔は嘘つきであり、人々を欺くためにやってくるのです。本来はまことの神さまを礼拝して、導きを得なければなりません。もし、チャネリングとか霊媒や口寄せをするなら、まことの神さまはあてにならないので、悪霊に聞くということになります。占いもそうですが、まことの神さまを認めない、背信的行為です。

 Ⅰヨハネ41,2「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」アーメン。この手紙が書かれたのは、紀元8090年頃と言われていますが、当時、グノーシスという異端が流行っていました。これは、神話や哲学、ユダヤ教など、あらゆるものを混合した神秘主義の宗教でした。創造神よりも高い霊的存在を求め、天使を崇拝したり、いろんな儀式をしました。そうなると、非日常的になり、社会的生活をしなくなります。神秘的な体験ばかりを追い求めるからです。ヨハネは「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」と言いました。どうやって試すのでしょうか?その霊が「人となって来られたイエス・キリストを告白するかどうか」です。彼らは肉体を極端に蔑み、魂だけを尊びます。しかし、イエス・キリストは、受肉した神であり、肉体と魂、両者を大事にしました。仏教も物質やこの世のものを軽んじる傾向がありますが、これらは神さまが造られたものであることを忘れてはいけません。もちろん、物質やこの世のものはやがて消えてなくなります。でも、永遠の御国が来るまでは、それらのものは、私たちが生きるために存在するのです。私たちは霊的なものを強調しますが、バランスを取るということがとても大切です。私たちはキリストの父なる神さまと交わるのです。そのために、聖霊が私たちの霊を生かし、まことの神さまと交わることを可能にしてくださいました。エペソ1:13,14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」アーメン。

3.瞑想は父なる神と

 瞑想は私たちも行います。詩篇12「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。ヘブル語で「ハーガー」は、「口ずさむ」「思い巡らす」という意味です。東洋の宗教にも瞑想があります。しかし、彼らは自分を無にして、宇宙の霊と交わり、その霊と一体になろうとする目的でしています。彼らの神は人格のない神であり、汎神論的なものです。本来私たちは罪があるので、神さまのところには行けません。しかし、キリストによって贖われたならば罪がきよめられ、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。私たちが行う瞑想は、聖書のみことばを通して、神さまがどんなお方か知るためです。その時、神さまは私たちと交わってくださり、啓示を与え、慰めを与え、導きや知恵を与えてくださいます。でも、私たちが何かを得たいからではなく、贖いを土台とした、神さまとの交わり自体が目的なのです。結果的に、神さまからの祝福や恵みを受けることができます。残念ながら、ニューエイジの瞑想は、人格をもった創造主なる神がいません。自分が宇宙の大霊と一体になるので、自分がいなくなるか、自分がおかしくなります。ニューエイジを長くやっている人は、人格が混乱し統合失調症と同じような症状が出てきます。仏教でも瞑想があります。ある実験で、クリスチャンと仏教徒が瞑想して、両者の脳波を調べてみたそうです。クリスチャンの脳波はとても安定していますが、仏教徒の場合は時々乱れるそうです。おそらく、自分の意思や力で自分を制しているからでしょう。私たちは神さまにすべてをゆだねますので、心の中を神の平安が支配します。

 私は瞑想がとても大好きであり、瞑想によって神さまからメッセージをいただきます。瞑想は英語でmeditationであり、ラテン語でmeditatioから来たことばです。ローマ時代は「精神的および身体的な訓練・練習」全般を意味していました。しかし、キリスト教がはいると、神、イエス・キリスト、聖母マリヤなどを心の中でありありと想い浮かべることを意味するようになったようです。しかし、瞑想は仏教やヨガでもありますので、誤解されがちです。私たちは心を無にするのではなく、三位一体の神さまと交わるのです。そのときに、聖書のみことばと私たちの祈りを加えます。何かを祈るというよりも、神さまがどうおしゃっているのか聞くことが優先されます。私が説教の準備をするときは、聖書を読んで、ある程度調べたあとに行います。目をつぶり、体を伏せながら「これをどのように語ったら良いでしょうか?」と聞きます。5分から10分くらいで、概要が浮かんできます。さらに瞑想すると、大体のあらすじが完成します。それを忘れないうちに、神に書き留めるとメッセージの下書きができます。その後、パソコンに向かい、例話を入れたり、本を引用したりして完成していきます。ある牧師たちは、まず、誰かの書いた注解書を何冊も読みます。その後、どれを語るか良いところを抽出します。でも、それはだれかの借り物なので、力がありません。私は神さまからメッセージをいただいた後に、本から引用するので、力がなくなるということはありません。神さまは私たちに語ってくださいます。私たちがこの世のことで、心騒がしくしているので聞こえないのです。

 現代は神さまとの交わりを妨げるものが満ちています。テレビが一番の邪魔者です。一日、三時間、四時間も見ていたら、頭の中が「サスペンス」になります。その次がスマホやインターネット、ゲームです。現代はチャット、フェイスブック、SNSで多くの人たちとつながっています。頭と心が全部、人間社会の情報につながっており、まことの神さまと交わっている人はほとんどいません。現代は神さま抜きの情報が行き巡っています。ギリシャ語で人間はアンソロポスと言いますが、「上を見上げる存在」という意味があります。私たちはまことの神さま、霊なる神さまと私たちの霊で交わるべきです。神との交わりが豊かにできるように聖霊が助けてくださいます。目に見えない電波が私たちの周りを行き巡っています。私たちも霊ですから、神さまの霊でないものも入って来ます。人間の霊、悪霊、諸霊が入って来ます。私たちは霊的チューナーを用いて、まことの神さまの波長に合わせる必要があります。ヨハネ10:3-5「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」私たちはイエスさまの声に耳を傾けるべきです。

4.奇跡や癒しはキリストの御名による

 「サイキック」とか呼ばれる病の癒しがあります。彼らは手から霊的なパワーがでてくると考えています。これはオカルトの1つです。かなり前にインドにサイババという人がいました。彼は癒しや預言や不思議なことをしました。ある人たちは「あれはインチキだ」と言いますが、実際に起ったものもあるでしょう。人間には元来、ある程度の力があります。生まれつきのものもあれば、悪魔から力を得たものまであります。私たちは奇跡や癒しが起ったからといって、それが神からのものだと断定してはいけません。モーセがパロの前で奇跡を行なったとき、呪法師たちも同じようなことができました。バビロンにも、知者や呪法師や星占いがいました。しかし、ダニエルの知恵にはかないませんでした。現代においても、魔術や超能力を行う人がいてもおかしくありません。問題は、誰の力でそれを行っているかであります。使徒の働き8章にはピリポによるサマリヤのリバイバルが記されています。しかし、その町にはシモンという魔術師がいました。彼はサマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していました。そのためあらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていました。しかし、ピリポが行っている「しるしと奇跡」にはかないませんでした。シモンはお金を出して「その権威を私にもください」と願いました。ここだけではありませんが、宣教に出かけると魔術師たちとの戦いがあります。人々は聖霊の方がまさっているのを知り、キリストの救いを受け入れるというパターンがあります。

現代のキリスト教は、癒しや奇跡を行なわなくなりました。なぜなら、低級なご利益宗教と同じだと思われたくないからです。しかし、聖書においてイエス様は病人を癒しました。マルコ16章には「病人に手を置けば病人は癒される」と書かれています。現代の教会は、福音宣教ばかり強調します。しかし、イエス様は同時に、病を癒し、悪霊の追い出すように命じられておられました。福音宣教しか行わないので、神の国が今ここに来ていることを証明できません。「病気になったら、医者に行ってくださり」と言います。だから、人々は、新興宗教の癒しの方に行くのです。ビル・ジョンソンの”The Supernatural Power(超自然的力)という本から、直訳して引用させていただきます。「神さまがこの地におられることを反駁できないための証明は、主要な奇跡の働きと超自然的な生き方を直ちに提供することである。そのため、神のリアリティがどのようなものか、だれが神なのかを実演して見せることである。あなたの地上における仕事で、神の御旨の力を現したことがあるだろうか?他の人たちに、これが神であると見せたことがあるだろうか?あなたを通して、敵のわざが当惑させられることを、神に許したことがあるだろうか?ほとんどの人たちは、神がどのように振舞うか、私たちに対する神の心の内側を何かを知らない。あなたの召しと私の召しは、信者として、大きすぎて理解できないかもしれない。しかし、聖書の命令ははっきりしている。私たちの仕事は、天国の存在のリアリティを、今ここに、この時に現すことである。私たちは単に神が正しいことを信じている者たちではなく、神のみこころを提示し、人々が「おお、神はこのような方なのか」と悟るように仕向けることである。癒しと解放と回復は、緊急な問題を解決することよりも、より大事なことである。

 人々は教会が癒しを行なわないので、医者や病院に行きます。もし、それで治らなかったらどこに行くでしょう?拝み屋に行きます。手かざしをしてくれるところ、護摩焚きをしてくれるところに行くでしょう。あるいは、「サイキック」と呼ばれるニューエイジのところに行くかもしれません。不思議なことに奇跡が起こり、病が癒されます。人々はどうするでしょう?「ああ、これがまことの神さまだ」と自分をささげるでしょう。悪魔は体を癒すかわりに、魂をいただくでしょう。悪魔は最後に永遠の炎で滅ぼされる運命にありますが、一人でも多くの神の子どもたちを巻き添えにしたいのです。多くの教会は「癒しや奇跡は過去のものです」と手をつけません。その代り、新興宗教やニューエイジがそれを行って、人々を惹きつけているとしたら何と残念なことでしょう。私たちはもう一度、福音書に帰り、イエス様が弟子たちに命じたことを行なわなければなりません。ビル・ジョンソンは「神学校は神学ばかりを勉強して、どうして癒しや奇跡の実践科目がないのか」と嘆いています。イエス様はこのように命じられました。マタイ107,8「行っって、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」私たちは御国が拡大するようにキリストの御名を用いるべきです。私たちはこの地上で普通に生活しながらも、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出すという使命が与えられています。病と癒しと奇跡が日常的に起こることを期待しましょう。アーメン。

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2019年5月11日 (土)

だれかの奇跡になる ルカ10:30-37 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.5.12

 ある人が、祈りがきかれるように神さまに願っています。また、ある人が、奇跡が起こるように神さまに期待しています。しかし、神さまはあなたがその人の願いに応えるように、あなたを用いるかもしれません。また、神さまはあなたがその人の奇蹟になるように、あなたを用いるかもしれません。これは、ある意味では困っている人を助けるということです。人を助けるためには覚悟が必要ですし、リスクも伴います。きょうは「だれかの奇跡になる」と題して聖書から学びたいと思います。 

1.関わりを持つ

 人を助けるためにはある程度のリスクを覚悟しなければなりません。ある人が、川や池でおぼれている子どもを助けるために飛び込んだけれど、一緒に死んだということを聞いたことがあります。気持ちはわかりますが、人を助けるということは容易ではありません。本日のテキストでも、そのことがわかります。旅人は半殺しの状態で倒れていました。おそらく、強盗に襲われたのでしょう。そこへ2人の人が通りかかりました。一人は祭司で一人はレビ人でした。彼らは倒れている人を見たのですが、反対側を通り過ぎました。当時、神殿に仕える人は、死体に触ると汚れるので奉仕ができません。神さまの御用を優先するために、そうしたのかもしれません。あるいは、近くに強盗がまだ隠れているかもしれません。こんなところで暇取っていたら、自分が襲われるかもしれません。「関わらない方が良い」というのが結論でした。でも、これは昔の話ではありません。都会において、道ばたで倒れている人を助けるでしょうか?「酒に酔っているんじゃないの?」「普通の人じゃないみたい?」と避けるのではないでしょうか?電車などでも、だれかが殴られているのに、止めに入るというのは勇気がいります。仲裁に入ったために、刺される人もいます。とにかく、人を助けるにはリスクが伴うということです。

 でも、サマリヤ人はどうでしょうか?ルカ1033「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って…」と書いてあります。倒れている人を見て「かわいそう」という深い同情心が湧き上がりました。「かわいそう」という同情心が「リスクがどうのこうの」という恐れに打ち勝ちました。おそらく専門家は「かわいそうじゃだけじゃ、人は助けられませんよ。そういう人は燃え尽きで自滅しますよ」とアドバイスするかもしれません。でも、この人はかわいそうに思って、倒れている旅人に近寄ったのです。イエス様はあとで、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」と律法の専門家に尋ねました。彼は「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。このテキストから考えると、困っている人を助けることは、隣人になることだということが分かります。イエス様も「行って同じようにしなさい」と言われているのですから、これはどうでも良いことではありません。律法の専門家は「私の隣人とはだれでしょう」とイエス様に聞きました。この物語の最後で、イエス様は「だれが隣人になったと思いますか?」と聞き返しました。ということは、隣人というのは、「こっちが隣人になることなんだ」ということがわかります。言い換えると、関わりを持つということです。

 私はこれまでバウンダリーのお話しを何度もしてきました。バウンダリーとは境界線のことであり、人の責任と自分の責任を分けることだと言うことを学びました。また、「自分のレースを走る」というメッセージでは、「自分に依存してくる人をできるだけ避けるように」と言いました。おそらく、「なんと冷たいメッセージなんだ。愛も情けもないじゃないか?」と思われた方もいるでしょう?私はエリヤハウスという「内面の癒しのカウンセリング」を何年も勉強しました。エリヤハウスでは、「バウンダリー」とか「共依存」のテーマがありません。なぜなんだろう?と不思議に思っていました。おそらく、「関係を持たなければ癒しがないのだから、ある程度のリスクを覚悟しなさい」ということなのでしょう。

 伝道も福音を伝えないと始まりません。でも、福音を伝えると嫌がる人もいるので、友人を失う恐れも出てきます。「しつこい」とか言われるでしょう。私は25歳で洗礼を受けましたが、1年以上は職場の先輩から個人伝道を受け、最後は9時間もアパートで迫られました。私は根負けして、「じゃあ、信じるよ」とイエス様を信じました。次の朝、本当に救われていました。DL.ムーディという有名な伝道者がいます。彼はシカゴで大伝道集会を持ちました。その日は救いの招きをしないで、メッセージをして終えました。ところが、その夜、シカゴに大火災が起こり、大勢の人が亡くなりました。ムーディは、集会で決断しないまま亡くなった人が大勢いたことを知り、後悔しました。それ以来、必ず、メッセージの後は決断の時を持ったそうです。ある時、一人の男性が電車に乗っていました。隣の人が、イエス様のことを語り出しました。そして、「あなたはイエス様を信じていますか?」と聞きました。男性は英語で「それはあなたのビジネスではない(よけいなお世話)」と言いました。その人は「いいえ、これは私のビジネスです」と答えました。男性は「それじゃあ、あんたはムーディに違いない」と答えたそうです。私たちは「よけいなお世話」と言われるかもしれません。でも、イエス様を信じないその先が滅びであるなら、よけいなお世話もしなければなりません。やがて、その人が神さまの前に立ったときこう言うかもしれません。「あの友人がクリスチャンだったことは知っています。とっても親切で優しい人でした。でも、イエス様のことを1つも話してくれませんでしたよ」。

 究極の人助けはイエス様を信じて、その人が救われることです。そのためには、その人に近づき、福音を伝えなければなりません。もちろん、「その人がイエス様を信じるなら、助けます。愛します」というのは不純な動機です。でも、いろんな親切、愛の行いがありますが、最も偉大なもことは自分に福音を伝えてくれた人ではないでしょうか?何故なら、そのことによって、私は救われて、永遠の命を持つことができたからです。伝道を英語では、reach outと言います。直訳は「接触しようと努める」ということです。伝道の動機は、「その人が滅びてしまったら、かわいそうではないか」という愛であり、あわれみの心です。

2.持っているもので

 神さまご自身は全能なるお方ですが、多くの場合、私たちを祈りの答え、奇跡の器として用いたいと願っておられるようです。その場合、持っていないものではなく、今持っているものを用いるように願っておられます。私たちは福音書から、イエス様が5000人以上の人を養った奇跡を知っています。そのとき、用いられたのは子どもが持っていた5つのパンと2匹の魚でした。もちろん、イエス様は無から有を生み出すこともできましたが、あえて、子どもが差し出した5つのパンと2匹の魚を用いられました。神さまは私たちと一緒に働きたいと願っておられるようです。この物語において、サマリヤ人は自分が持っているもので彼を助けようとしたことが分かります。ルカ10:34「近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」オリーブ油とぶどう酒も、打たれた傷の治療に役立ちます。彼は自分が乗っていた家畜、おそらくロバに乗せて、宿屋に連れて行き、介抱してあげました。彼は医療の専門家ではありませんでしたが、自分ができることをしてあげました。「良きサマリヤ人の病院」というのがあることを聞いたことがあります。彼は「かわいそう」という同情心だけではなく、ちゃんと手当をしてあげました。

 人を助ける場合も、自分がないものをもって助けるとなると大変です。友人の連帯保証人になって、家族を路頭に迷わしてしまう人がいます。それはダメです。また、輸血でも、自分の血を全部あげて、自分が死ぬのはやり過ぎです。ジョエル・オスティーンのお兄さんのポールはお医者さんです。彼は医療伝道の使命があり、何度もアフリカに行ったことがあります。ある時、設備もろくに整っていない小さな病院で数週間、奉仕したことがありました。ある夜、象に踏まれて、怪我をした人が担ぎ込まれました。その人は輸血しなければならない状態でした。しかし、血液のストックがありませんでした。ポールは自分の血液を輸血してあげました。怪我人は助かりました。ポールも血をあげすぎて死にませんでした。しかし、ポールは自分が持っているものを差し上げて、彼の奇跡になることができませした。使徒の働き3章に、宮に入る人たちから施しを受けていた、生まれつき足のなえた人が登場します。彼はペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めました。ペテロは「私たちを見なさい」と言いました。男は何かもらえると思って、二人に目を注ぎました。するとペテロは「金銀は私にない」と言いました。男は一瞬、がっかりして頭を下げたでしょう。「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。ペテロはそう言いながら、彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出しました。すごいです。お金をあげても、彼が数日間、生き延びることができるでしょう。でも、根本的な解決はイエス・キリストの名にあります。私たちクリスチャン全員も持っているものがあります。それは、イエス・キリストの名であります。これほどすばらしいものはありません。なぜなら、この名を用いるならば、奇跡が起こるからです。

 2000年頃、インドネシアで開かれたセルチャーチの学びに行ったことがあります。ずっと座りっぱなしで腰が痛くなりました。私はそれまで年に1回か2回、ぎっくり腰を患っていました。夏でもゴムベルトをして腰を保護していました。その時は3日間も座りっぱなしだったので、辛くて仕方がありませんでした。セミナーの一休みに、一人の先生が近づいて来ました。名古屋の山下牧師です。「立ってください。祈ってあげましょう」と言うのです。彼は右手で腰のあたりに触り、「イエスの御名によって延びるように」と言ってくれました。その途端、痛みがすーっとなくなりました。背骨がまっすぐになったような気がしました。「どうしてそんなことができるの?」と聞いたら、「岡山の中嶋先生から教えてもらったんです」と答えました。私は日本に帰ってから、中嶋先生に連絡し、足掛け5年くらい、当教会で「癒しのセミナー」を開いていただきました。私は名古屋の山下牧師から祈って以来、腰はいたくなることはありますが、ぎっくり腰になったことはありません。一旦、ぎっくり腰になるとトイレにも行けないし、寝返りも打てません。でも、それ以来、ぎっくり腰にはなりません。名古屋の山下牧師は私の奇跡になってくださいました。私もそれから、癒しのために祈る人になりました。聖書で「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ108とあるからです。人が癒されるのを見ると、本当に楽しいです。ある時、那須の太郎さんという牧師の腰のため祈ったことがあります。松戸教会で牧師同士でバーベキューをしていたときです。祈ったら、「痛みがなくなった」と言いました。でも、よく聞くと、渓流釣りで崖から落ちて、傷は治ったけれど10年以上も痛みが腰と足にあったそうです。こっちは一瞬ですが、当人は長い間苦しんでいたのです。私も彼の奇蹟になることができました。

 物で人を助けることができますが、1つの励ましの言葉でも人を助けることができます。ジョエル・オスティーンの奥さん、ビクトリアが礼拝後、一人の女性に声をかけました。「魅力的なお方ですね」とたったひとことです。でも、後からわかったのですが、その女性はそのとき、人生のどん底だったそうです。なぜなら、夫が家を出てしまって以来、帰ってこなくなったからです。「自分に魅力がないからなんだわ」と責めていました。その日曜日の朝、勇気を出して、教会の礼拝に出席したのです。すると、帰りにビクトリアからひと声かけられ、そのことばが心に熱くとどまり、心が癒され、立ち上がることができたそうです。ジョンズ・ホプキン大学の初代産婦人科教授であるハワード・ケリーの体験談です。ある春の日、ケリーが徒歩旅行をしていた時、農家に立ち寄り、「冷たいわき水を1杯もらえませんか」と言って、ドアをノックしました。すると、小さな女の子が出て来て、絞りたての牛乳を渡してくれました。そんなふれあいに心和ませながら、彼はまた旅を続けました。それから数年後のことです。ひとりの女性患者が運びこまれ、ケリーが手術を担当しました。そして退院という時、彼女に請求書が渡されたのですが、そこにははっきりとこのように書かれていました。「コップ1杯の牛乳で、治療費は支払い済みです」。彼女こそ、ミルクをくれた女の子だったのです。聖書は、「最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです」(マタイ2540)書かれています。

3.限界を知る

 人を助けることは良いことですが、自分の人生の目的を果たすことを忘れてはいけません。たまに、「私は人の役に立ちたい。人のために生きたい」という人がいます。その人がお医者さんとかレスキュー隊だったらわかります。でも、私たちは神さまから与えられたassignment(割り当てられた仕事、課題)があります。ルカ10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』サマリヤ人は旅の途中でした、おそらくなすべき仕事があったのでしょう。だから、傷ついた人を宿屋に一旦預けました。そして、帰りに立ち寄る予定でした。つまり、自分の成すべきことを行い、できないことは他の人にお願いしたということです。私たちは「自分はここまでできるけれど、ここから先はできない」という範囲を知るべきです。もし、自分でできなければ、できる人にお願いしたり、専門家に任せるべきです。メシアニック・コンプレックスというのがあるそうです。困っている人を見たら、ほっとけないタイプの人です。そして、あらゆる問題を解決しなければならないと思っている人です。私が世界中の人を救ってあげなければならないとしたら、どうなるでしょう?そこまで思う人はいませんが、とにかく自分の身を削ってでも、困っている人のために尽くしている人がいます。ルカ10章のたとえは、「あなたの隣人はだれですか?」ということを教えている物語です。世の中の全部の人たちではなく、運命的に隣人になった人です。「隣人になった」、あるいは、主の導きによって「隣人にさせられた」ということかもしれません。神さまは世の中の人、全部にこのようなことをしなさいとはおっしゃっていないと思います。全世界を支配しているのは神さまです。おそらく、神さまは「あなたを通して、このことをしたい」というときに隣人を委ねてくださるのではないかと思います。

 このような出来事は、私たちは神さまから与えられた人生の途中で起ることではないかと思います。私たちは神さまから与えられたdivine destiny(神意)を全力で果たすべきです。しかし、道の途中で、私たちの助けを必要とする人と出会うことがあるということです。でも、それはおまけではなくて、神さまの導きと助けが伴うということです。なぜなら、神さまが「やりなさい」と命じておられるからです。その時は私たちのもっているもので、お助けできたら幸いです。もし、そのことがその人の奇跡になったら何と幸いでしょうか。自分としては小さなことでも、その人にとっては人生を変えるものになるかもしれないからです。何十年も前のことですが、一人の青年が肺結核で死にそうでした。片方の肺は壊死しており、彼はベッドに横たわり死を待っていました。彼はものすごい痛みの中で、神々に叫び求めました。「神さま、私を助けに来てください。」しかし、答えがありません。次に別の神さまに叫び求めましたが、答えがありません。最後に彼はやけっぱちで、「もし他に神さまがいるなら、癒してくださいとは願いません。どうか、ただ死ぬ方法を教えてください」と暗い部屋の中から叫びました。彼はひとりぼっちで、忘れ去られているように感じました。数時間後、若い女子大生が彼の家の近くを歩いていました。すると、その家から説明できないような愛が流れてきて、自分をひっぱっているように感じました。彼女はその家のドアをノックしました。すると、その家のお母さんが出てきました。彼女は「あなたは私を知らないと思いますが、何かお祈りをさせていただくことがあるのでは?」と言いました。お母さんは涙を流しながら、死の床にいる息子のことを話しました。若い女性は部屋に入り、彼のために祈りました。青年はキリストに人生を明け渡しました。長い話を短くすると、彼は癒されて、牧師になりました。彼こそは世界最大の教会の牧師、チョー・ヨンギ牧師です。若い女性がしたことは、青年のためにお祈りしたこと。そしてキリストを伝えたことです。神さまが彼女を通して、青年を救い、癒してくださったのです。ですから、人を助け、人を救ってくださるのは父なる神さまであることを知るべきです。私たちは神さまの道具なのです。

 イエス様のご生涯を見ますと、イエス様が隣人になられたということがヨハネ福音書を見るとよく分かります。イエス様は夜こっそり尋ねてきたニコデモの隣人になりました。彼は真理を求めていました。イエス様はスカルの井戸端で一人の女性の隣人になりました。イエス様はこの女性を得るためにわざわざサマリヤを通過しました。イエス様は38年間も病の床に臥せっている男性の隣人になりました。彼に「良くなりたいか?」と言ったけれど、はっきりした答えが得られませんでした。それでも彼を癒してあげました。イエス様は姦淫の場で捕えられた女性の隣人になりました。本来なら石打ちで殺されるところでしたが、彼女の罪を赦してあげました。イエス様は生まれつき盲人の隣人になりました。弟子たちはだれかの罪の因果ではないかと言いましたが、「神のみわざがこの人に現れるためです」と言われました。イエス様は死んだラザロの隣人になりました。「ラザロよ。出て来なさい」と叫んだら、布をまかれたまま出てきました。イエス様はイスカリオテ・ユダの隣人になりました。しかし、かかとを上げて外に出て行きました。ルカ福音書になりますが、犯罪人の隣人になりました。彼に対して「あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」と約束されました。

このように「よきサマリヤ人のたとえ」のサマリヤ人はイエス様のように思えてなりません。私たちは強盗ならぬ、サタンに打ちのめされて倒れていました。誰一人、私を助けてくれませんでした。しかし、そこにイエス様が来られ、ぶどう酒ならぬご自身の血を注いで、癒してくださいました。宿屋ならぬ教会に私を置いてくださいました。イエス様が罪の代価を払ってくれましたので安心です。世の終わり、イエス様は再び来られ、私を永遠の御国に迎え入れてくださいます。私たちこそ、瀕死の状態で倒れていた旅人です。イエス様が私たちを見出してくださったのです。これほどありがたいことはありません。もし、私たちがだれかのために良いことをしたのなら、イエス様が私たちにしてくださったこととは比べものになりません。ありがたいことに、イエス様は「最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです」と報いてくださいます。私たちは善いことをして天国に入るのではありません。イエス様の贖いによってだけ、天国に入ることができるのです。もし、善いことができたとしたら、それは救われたことの実であります。

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2019年5月 3日 (金)

神の臨在を意識する 箴言3:5-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.5.5

 ビル・ジョンソン師が『神の臨在をもてなす』という本で、このように述べています。「人生において、神の臨在を意識しながら生きることほど本質的なことはない。その名はインマヌエル、神がともにおられるという名のお方である。神とともに歩む生き方を、私たちはイエスから引き継いでいる。イエスがなさったように、私たちの人生においても臨在を優先し、臨在によって、影響力と目的を与えられていかなければならない。」 

1.神の臨在に導かれる

 箴言35「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」と記されています。「心を尽くして」は、英語の詳訳聖書では、All your heart and mindとなっています。私たちの生まれつきの思いは、神さまに頼ろうとしません。とことん自分でやってみて、ダメだったら神さまに頼ろうとするところがあります。自分は頭が良い、自分には知恵があると思っている人は特にそうです。しかし、クリスチャンは「何かをするときは、祈りなさい」と勧められています。祈りはすばらしいもので、一瞬、自分の思いを断ち切り、神さまの方に向けます。そうすると、何か不思議なことが起り、「待てよ、それで良いのだろうか?」と一寸、考えるようになります。そして、思いを巡らせると、「そうじゃなくて、この方がもっと良いのではないだろうか?」とアイディアや導きをいただくことがよくあります。なぜでしょう?自分の思いを断ち切り、神さまと繋がったからです。神さまと繋がったので、神さまの方から隠されていた情報やアイディアが与えられたのです。みなさんは、そういうことはないでしょうか?私は落ち着きがない子どもで、「やす、落ち着け!」が母の遺言でした。学校でも一番、落ち着きのないのは私でした。クリスチャンになっても、交通事故を良く起こしましたが、それが原因であることは痛みを通して学びました。正直、自分には知恵があり、気転がきく方だと思っています。それがうまく行くときもありますが、先走ったために、カスを掴まされることも良くありました。そのため、今では、「待て、待て。祈って、神さまの導きを得よう!」ということが習慣化してきました。一番、下の子どもがよく忘れ物をします。「忘れ物ないか、ちゃんと調べろよ」と何度注意したでしょう。でも、「私がそうだったんだよなー」と同情心が湧いてきます。

 箴言35「主により頼め」というのは、「主を信頼しなさい」ということです。また、「あなたの行くところ、どこにおいても、主を認めよ」と書かれています。「主を信頼すること」と、「主を認めること」という2つのことが何か深いつながりがあるようです。どっちが先かと言うなら、主を信頼するという心構えが先です。その後に、主を認めることができるということです。「認める」ということばは、「知る」ということばです。ヘブライ語ではヤダーであり、「体験で知る」という意味があります。創世記41「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み」と書いてあります。この知るは、男女の深い交わりを表しています。ですから、主を知るというのは、頭の知識ではなく、単なる概念でもありません。出会いを通して知るということです。つまり、どんなときも自分の悟りにたよらず、主を信頼していきます。そうすると、主が働いてくださることを体験します。つまり、主を知り、主を認めることができるということです。これは体験してみないと分からない分野です。私もこれまで何べんも失敗をしましたが、その度ごとに「ああ、神さまに聞いて、神さまに信頼すれば良かった」と反省します。すると、時間から、焦る気持ちをおさえて、「まず、祈ろう。主から導きをいただこう。きっと道は開ける!」と一寸、休みます。一見、時間が無駄になったように思えますが、そうではありません。もっと、良い方法が与えられます。これは痛みを通して、学んだことです。私たちはどうしても、「自分がこの道の専門家だから、大丈夫。私が一番知っている」ということで、神さまに頼ろうとしません。もちろん、それでうまくいくときもあります。でも、うまくいかないときもあります。「ああ、祈って、導きを得るべきだった」というふうになります。

 ジョエル・オスティーンのお父さんは教会の土地を買おうとみんなで献金を集めました。ある土地がみつかり、教会員のみんなも「それがよい」と決断しました。お父さんは、契約の前の夜、眠れませんでした。「どうしてなんだろう」と不思議に思いました。すると、神さまから「その土地を買うのをやめなさい」と言われているような気がしました。「え、だって主よ。みんなで一致して決めたんですよ。相手方にも失礼では?」と言い返しました。でも、「やめなさい」という主の声が大きくなり、降参しました。いよいよ、その業者と会って、お断りしました。業者からも、教会員からもさんざん悪く言われました。詳しいことは忘れましたが、景気のせいで、土地の価格が急に下落したそうです。結果的に、もっと広い他の土地を前よりも安い値段で購入できたそうです。ある女性がある男性と婚約を結ぼうとしました。しかし、女性のお父さんが「その人はやめた方が良いと思うよ」と言いました。なぜなら、祈っても平安がなかったからです。でも、お譲さんは「お父さん、馬鹿なこと言わないで」と忠告を無視して結婚しました。1年もたたないうちに、その男性は不誠実な人であったことが分かったそうです。その女性は深く傷つきましたが、神さまの導きを得ることの大切さを知ったそうです。

 神さまはある時にはドアを開けてくれません。なぜなら、それは危険だからです。ジョエル・オスティーンがあるときチャーター機でスタッフと一緒に旅をしました。他の人たちは、機内の壁から折り畳み式のデスクを出して、パソコンを操作していました。ジョエル・オスティーンはそれを見て、自分もデスクを出して仕事をしようと思いました。それらしきレバーがあり、引いてみました。ところがいくら引っ張ってもデスクが出ません。スタッフを呼んで、「どうして下がらないんだろう」とまた引っ張ってみました。そのとき、小さな文字が目に入りました。「緊急脱出時以外は開けないで下さい」と注意書きがありました。もし、ジョエル・オスティーンが力任せに開けていたなら、外に飛び出していました。やれやれと、冷汗をかいたそうです。神さまはあるときはドアを開けてくれません。命を失わないで、「次回はこうしよう」と学べるのは主のあわれみです。自分の悟りに頼らないで主を信頼しましょう。どんな所でも主を認めましょう。

2.神の臨在で聖められる

 ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』でこのように述べています。「天国には、神から離れた考えは存在しない。神は光であり、命であり、世界の中心である。完全な神への信頼が満ちているのが天国という場所だ。他方、この世は不信と混乱に満ちている。私たちは、自分が最も意識している世界の現実をいつも解き放つことになる。神のうちにとどまるためには、神を意識することが欠かせない」と述べていました。と言うことは、私たちは不信と混乱に満ちているこの世で生きているので、神さまを意識しないと、そっちにのみこまれてしまうということでしょうか?確かに、テレビのスイッチを入れると、だれから殺されたとか、こういう問題が起こっているとか一瞬のうちに入ってきます。コメンティターの言っていることは理屈が通っています。でも、彼らは全能の神さまが介入してくださることは全く信じていません。世の中の不条理、不合理、不平等が「ばーっ」と私たちの思いの中に入って来ます。ニュースを聞くことが悪いとは言いません。この世の状態を知ることは大切です。でも、「神はいないという」考えが、自分の思いの中に入って来て、いつの間にか信仰が失せてしまうということも確かです。ですから、私たちは世の中のニュースはほどほどに聞く必要があります。特に、民放はスキャンダルが好きなので、特番を組んでやっています。私たちは自分の思いを守る必要があります。私たちはこの世でありながらも、天国で生きることはできないのでしょうか?

 1600年代に生きていた神の人、ブラザー・ローレンスがいます。彼は修道士ではなく、修道院のコックとして働いていました。彼は『神の臨在の実践』という本で、自分の生活をこのように証しています。私は仕事を始める時、ちょうど子どもが親を信頼するような心をもって、「おお、私の神よ。あなたはいつも私と共にいらしてくださいます。今、私はあなたのご命令に従ってこれらの世の事柄に心を用いなければなりません。どうぞあなたの臨在の中に絶えずおいていただく特権をお与え下さいますようにお願いします。どうかこのために、み助けをもって私を祝福し、私のすべての働きを受け入れてくださり、私のすべての愛情を所有してください」と申し上げました。いよいよ仕事に取り掛かっても、なお、創造主と絶えず親密に語り続け、神の恵みを求め、すべての私の行為を神にささげました。私は仕事を終えてから、どのようにその責任を果たし得たか自分自身で検討してみます。もし良くできたら神のもとのとして感謝してお返しし、失敗があったら神の許しを請います。そして失望することなく、すぐ心を取り直し、一度も神から離れたことがない者のように神の臨在を思う練習を続けました。このようにして、失敗から立ち上がり、しばしば信仰と愛の行為とを新しくすることにより、以前は神について思うことが困難でしたが、今では神について考えないことの方がかえってむずかしい状態になりました。」アーメン。ブラザー・ローレンスは、彼の祈りの時間と台所で奉仕している時間には全く違いがなかったと言われています。どちらの環境の中でも、同じように神さまと交わり、神さまを意識していたのです。

 私は聖め派の神学校に最初、行っていましたので、「罪の悔い改め」には今でも抵抗があります。自分でも嫌いなので、おそらく皆さんにも「罪を悔い改めるように」と勧めることは少ないと思います。でも、「全くそうしていないか?」というとそうではありません。悔い改めるとは、ギリシャ語でメタノイヤーであり「方向を変える」「思いを変える」という意味です。また、罪はギリシャ語でハマルティアであり「的はずれ」「本来の姿からずれている」という意味です。もちろん、それが「罪」であります。ただし、「罪を悔い改めよ」と人から言われると、さばかれているような気持ちになるでしょう。私たちはもともと、被害者意識があり、「私は悪くないよ」と防御してしまいます。そのため、「罪を悔い改めろ」みたいな直接的な表現を用いないで、「間違った考えや行いを正しい方に変えるように」と言い方を替えています。ドSかドMか分かりませんが、「罪を悔い改めろ」と叩かれた方が効果がある人がいるかもしれません。しかし、私たちには肉があるので、どうしても言い訳したり、抵抗してしまいます。ですから、「考えを変える」、「行ないを変える」くらいが良いのです。しかし、その時に重要なのは、神さまの臨在、神さまの促しを尊重することが大切です。つまり、人ではなく、神さまの臨在のもとに自分を置くということです。そうすれば、神さまから新しい方向に変える力と意欲が自然と与えられます。

何度も引用しますが、ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』でこのように述べています。神の臨在をおもてなしする特権にあずかっている私たちは、神を常に意識しながら生きることを人生の目標にしなければならない。この方は聖なる霊なので、私たちの人生を聖いものにするように働いてくださる。しかしまた、この方は聖い方であると同時に、「良い方」である。人々は神の聖さを求めながら、「神が良い方である」という基本的な真理を見失ってしまうことがある。私は自分の経験から、聖さを求めて訓練したり、深い悔い改めに心を感じたりすることが、実際の聖さをもたらすのに大した効果がないことを学んきました。むしろ、聖い生き方は、私をありのままで受け入れてくださる聖なる神のうちにあって喜ぶことにより、自然の結果として与えられてくる。自分自身で汗をかいて試みた努力は、私の生き方を変えるよりも、傲慢や惨めさを心に味わう結果に終わってしまう。主との歩みの中で、この原則をもう少し早く発見していれば良かったのにと思う。そうすれば、長年のフラストレーションからもっと早く抜け出せたはずだ。アーメン。私はビル・ジョンソンの本を読んで、いわゆる「聖め派」から救われた感じがしました。どちらかと言うと「自分がいかに罪深いか」罪を強調して、ひれ伏して深い悔い改めに心を向けるところがあります。そういう方法もあるかもしれませんが、「聖い生き方は、私をありのままで受け入れてくださる聖なる神のうちにあって喜ぶことにより、自然の結果として与えられてくるものなんだ」ということです。Ⅱコリント3:17,18 「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。

3.神の臨在を楽しむ

 詩篇16:8-11「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」このダビデの詩篇は、神の臨在がどんなにすばらしいか教えてくれます。この詩篇の記者は神の臨在を楽しんでいるように思えます。普通、神さまが側にいると見張られているような感じがして、緊張するかもしれません。なぜなら、「神さまが見ていない方が良いなー」と言う時もあるからです。しかし、この人は「いつも主を前に置いた」と言っています。もし、この人がダビデであったなら、ダビデは、毎日、自分の目の前に神さまを置くことを日課としていたということです。そして、ともにおられる神さまに心を向け、毎日、神さまを深く意識していたことになります。ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』という本で、このように述べています。神の臨在の人として、聖書中で最も尊敬されていたダビデがこのことを生活の習慣にしていた。ダビデの人生の実を見るとき、臨在の中で行うことが、ダビデの成功の秘訣であったと言っても言い過ぎではないだろう。…詩篇1611「あなたの御前には」は英語の聖書では「あなたの臨在の中には喜びが満ち」と訳されている。私たちの家の中にも、神の臨在をもっと意識するなら、そこにはより大きな喜びが満ちあふれてくるのである。…私たちの多くは、祈りにはたくさんの労苦が伴うことを教会で教えられて育ってきた。今でも、労苦の伴う祈りの価値を認めている。しかし、今は臨在とロマンスのライフスタイルの中から、そのような祈りに入っていくことを学んでいる。愛の関係においてこそ、すべては効果的になる。日々神の臨在を見つけることは、愛にとどまるための最も確かな方法である。

私は毎朝、聖書といくつかのディボーションの本を読んでいます。一区切りした後、椅子に伏して目をつぶります。今、学んだことに対しての応答をします。そして自分の中から出てくる思いを受け止めます。そして、神さまを仰ぎます。まるで、小旅行をしているようです。そこには、「こうしなさい」という支持もありません。神さまの愛と恵みの中に、自分がどっぷりつかっているという感じがします。20年前にやっていた「ディボーションの方法」では、観察、神さまとは、教え、適用…などノートに書いていました。しかし、それだと左脳ばかり使って、楽しくありませんでした。それよりも、ひざまずいて、べたーっと椅子に伏して目をつぶります。なんだか、目の前に主がいるような感じがします。主にだかれているような感じもします。祈りというよりも、湧き上がってくる自分の思いや感情を前に差し出します。人には言えない内容もあります。嫌なこと、嘆き、悩みも出てきます。もちろん、あとから感謝や信仰も出てきます。ビル・ジョンソンは「五分間の小旅行」と言っています。牧師室にいるとき、数分間電話を取り次がないように秘書に頼むそうです。椅子に座り、たいていは目を閉じて、このように祈ります。「神さま、私はただここに静かに座って、あなたの愛の対象になります」。ビル・ジョンソンはこう述べています。「自分の注意を私に対する神の愛に向けるとき、神への私の愛も増し加わっていく。私が神を喜び、神が私を喜んでくださる。それは終わることのない愛の祭りであり、神にある喜びは成長し続ける。神こそが究極な楽しみであり、大切にされるべき喜びである。」アーメン。

 このたび、三回にわたりビル・ジョンソンの『神の臨在をもてなす』から度々引用してメッセージしました。最初、この本を日本語で読んで「なんと軟弱な書物だろう」とほかしていました。しかし、英語のディボーションから毎日、少しずつ読みました。一番下に、お祈りが書かれています。その言葉を声を出して祈ると、ぐっと心の中に入ってくる経験をしました。日本語では「臨在」とか「愛」は、何か陳腐に聞こえてきますが、英語だと新鮮にせまってきました。もう1つは、私の場合は「主の臨在を体験するためには、第一はこれ、第二はこれ、第三はこれ」と方法論で述べてしまうところがあります。しかし、臨在を体験するとは、いわばロマンスであって、方法論ではありません。現代の人たちは分刻みで生きています。空白の時間を作らないように、スマホをいじったり、イヤホンで何かを聞いています。クリスチャンであっても、神さまに時間を与えないとしたら、臨在を体験することは不可能です。神さまとデートするのを後回しにしているのではないでしょうか?聖書が神さまのラブレターであるなら、もっと味わい深く読みたくなるでしょう。もしかしたら、神さまはもっと私たちに隠されたことを教えてあげたいと願っているかもしれません。私たちに忠告を与えたいと願っているかもしれません。肝心の私たちといえば、他のことを考え、日常のことで忙しくしています。主を仰ごうともしないし、主の御声に耳を傾けようともしないならどうでしょう?結局は、この世の法則や力で押し流されて、主の力あるわざ、奇跡、大いなる知恵、隠された出来事を受け取ることができません。現在は、天がこの地に侵略している時代です。イエス様が天の窓を開けてくださり、今、この地に神の国が力強く臨んでいる時代が来ているのです。言い換えると、神の臨在が私たちのすぐ近くにあるということです。この世でありながら、神の国が聖霊の臨在によって来ているのです。ですから、一寸でも立ち止まって、主と交わり、主の導きを得たらどうでしょうか?

本日、引用したみことばをもう一度、引用いたします。箴言35「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」Ⅱコリント3:17「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」詩篇1611「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」アーメン。私たちは主との関係を宗教にしてはいけません。宗教とは特別な時間を設けて、特別な仕方で神さまを礼拝することです。言い換えると非日常的な時間と空間を設けて神さまを礼拝することです。私たちは神さまとの関係を宗教にしてはいけません。それよりも、日常の真ん中に神さまをお招きして、プライベードな深い関係、ロマンスを持つことが重要です。私たちはどんな時も、どんな場所にも主を歓迎し、主を目の前に置いて、主の臨在を楽しんで生活しましょう。

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