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2019年4月26日 (金)

神の臨在をもてなす ヨハネ1:29-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.4.28

 先週のメッセージで、ビル・ジョンソン師の本を引用して、尻切れトンボのように終わった感があります。「イエス様の上におられた鳩とは何だったのだろう?」と思われたかもしれません。なお、ビル・ジョンソン師はカルフォルニアのベテルチャーチの主任牧師であり、同時に、世界に影響を与えている現代の使徒でもあります。そこで本日は、先生が書かれた『神の臨在をもてなす』という本を参考にしつつ、神の臨在とは何なのか3つのポイントで学びたいと思います。

1.神の臨在を受ける

 神の臨在というのは、キリスト教会では「神がともにおられること」と理解しています。しかし、ビル・ジョンソンが言う「神の臨在」は、「ミニストリーをするための神の力である」と定義しています。ニコデモが夜、イエス様を訪ねてこのように言いました。ヨハネ32「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」ニコデモは、イスラエルの指導者であり、パリサイ人でした。彼は、イエス様がしるし、つまり奇跡を行なっているその力の源が何であるかを知っていました。それは、神がイエス様とともにおられるからです。私たちは旧約聖書を読むと奇跡を行なった人たちの特徴は何かを知ることができます。サムソンの上に神の霊が注がれたので、あのような怪力を出すことができした。また、エリヤとエリシャの上に神の霊があったので、力あるわざを行うことができました。つまり、神がともにおられるということは、神の霊がその人の上にとどまっているということではないでしょうか?そのことはイエス様の弟子たちも同じで、上から力を着せられる必要がありました。そして、ペンテコステの日、上から聖霊が臨まれ、力を得てから世界に福音を宣べ伝えに行きました。ペテロやパウロも聖霊の力によって、死人をよみがえらせ、病を癒し奇跡を行なうことができました。

神がともにおられる、神の臨在とはどのような影響力があるのでしょうか?使徒515,16「ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。」人々は「ペテロの影でも良いから」と迫ってきました。そして、ペテロの影に触れただけで人々が癒されました。影自体に力があるというのではなく、ペテロに神がともにおられたということでしょう。言い換えると、聖霊の臨在がペテロからにじみ出て、それが人々を癒したということです。もう一箇所引用したします。使徒1911,12「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」こんどは、パウロの着ていたものです。人々が、パウロが身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行きました。パウロが直接、何かしたというのでありません。これも、神の臨在がパウロが身に着けているものにも及んでいたということです。かつて、イエス様のもとに近づいた女性と似ています。彼女は12年間も長血を患っていましたが、イエス様の衣のすそに触れただけで癒されました。イエス様はご自分から力が出て行くのを感じることができました。

 チャールズ・フィニーは、19世紀の半ばに神さまに用いられたリバイバルの器です。彼の職業は弁護士でしたが、29歳のとき神の圧倒的な臨在に触れて劇的な救いを体験しました。数年後、按手礼を受けて正式な伝道者になりました。フィニーの行く先々で人々が集まり、救われていきました。まるで天の門が開かれ、神の愛が人々の上に降り注いでいるようでした。フィニーが燃えるような説教を語っていると、しばしば聞いている人達が席から床に倒れ落ち、泣き叫びながら悔い改めて神に立ち返っていくのです。フィニーはある日、朝食の後に紡績工場へと入って行きました。糸を紡ぎ、はたを織る機械が並ぶ作用場にたくさんの女性がいましたが、特に二人の女性が目に入りました。彼女らは少し動揺したようですが、お互いに笑い合うことで感情をごまかしているようでした。フィニーは何も言わず、さらに近づいて行くと、一人はひどく震え出して糸を紡ぐことができなくなりました。3メートルしかしか離れていない場所まで近づくと、彼女たちはその場に伏して泣き出してしまいました。その瞬間、工場内にいた女性たちが全員泣き出しました。その時までクリスチャンではなかった工場長は、それが神の時であることに気づき、仕事を中断させてひとり一人をキリストに導く機会を設けてくれました。小さなリバイバルが起こり、数日間続きました。この間に、この紡績工場全体のほとんどすべての人が回心しました。

私は、神学校で「神の臨在とは、神がともにおられることだ」と習いました。しかし、それだけではないようです。神の臨在とは聖霊の力であり、人々を癒したり、解放することができるということです。旧約聖書の預言者たちも、使徒たちも、そしてイエス様も、神の臨在を運んでおられたということです。そして、神の臨在はミニストリーを行うための聖霊の力であることがわかります。イエス様が「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)」と言われたことがあります。イエスさまと同じわざ、さらに大きなわざを行うのは、私たちの上におられる聖霊です。聖霊が私たちの上にとどまったらミニストリーを行うことができます。なぜなら、聖霊が神の臨在をもたらして下さり、そこに癒しや奇跡が現れるからです。一般の神学校では神がどういうお方か、ギリシャ語やヘブル語の聖書から学ぶでしょう。しかし、どのようにしたら癒しや奇跡が起こるのかは学びもしないし、実践もしないでしょう。しかし、イエス様は弟子たちと共におられ、「このように、やってごらんなさい」と訓練しました。そして、最終的には、イエス様は父のもとから聖霊を送ってくださいました。ペンテコステの日、弟子たちの上に聖霊が降り、彼らは力を受けました。今日、私たちが神さまの働きをしたければ、聖霊を上から受ける必要があります。なぜなら、聖霊は神の臨在をもたらす神の力だからです。

2.神の臨在をもてなす

 ヨハネ1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」先週の説教の引用の部分を繰り返します。「新生したクリスチャンとして、聖霊が内側に住んでいて下さることを私たちは知っている。しかも、聖霊は私たちを見捨てて行かれることは決してないというすばらしい約束までいただいている。何と言う慰めであろうか。しかし、残念なことに、聖霊はすべての人の上にとどまられるわけではない。聖霊が内に住まわれるのは、私自身のためで、上にとどまられるのは、周りの人々に奉仕するためである。聖霊がある人の上にとどまり続けられるとしたら、その人は最高の敬意を込めて聖霊を迎えている人であると言える。聖書の中で私が好きな箇所の1つは、イエスの聖霊の場面である。聖霊が鳩のように、イエスの上にとどまられたということである。もし鳩があなたの肩にとまったとしたら、どのように振舞うだろうか?一日中、その鳩にとどまってもらいたいと願うなら、どのように歩き回るだろうか。最も一般的な答えは「注意深く」というものだろう。適切な答えだが、それで十分ではない。一歩一歩の歩みが、すべて肩の上の鳩を意識しながら踏みだされなければならない。聖霊にとどまっていただく秘訣もそこにある。働きにおける方向性と力を受けるためだけではなく、生活のすべての点で、聖霊を意識しなければならない。驚くべきことに、私たちは神の臨在を運ぶ者として召されている。」アーメン。

 私は「力を得るために、ペンテコステの日のように、聖霊を上からいただかなければならない」と力説する牧師です。どちらかと言うと、力としての聖霊を着る、聖霊の臨在を受け取るというニュアンスがあります。しかし、ビル・ジョンソンは聖霊をイエス様の上にとどまった鳩にたとえています。そして「もし鳩があなたの肩にとまったとしたら、どのように振舞うでしょう?一日中、その鳩にとどまってもらいたいと願うなら、どのように歩き回るでしょうか」とチャレンジしています。つまり、聖霊は力というよりも、ご人格を持った神さまであるということです。しかも、鳩のようにナイーブで、何かあるとパッと飛び去ってしまいます。そうすると、力としての聖霊を上からいただいたとしても、ちゃんと管理しないと、なくなってしまうということしょうか?おそらく、「神の臨在をもてなす」と言う意味は、「鳩にとどまっていただく」ことではないかと思います。私は神の力を得るためには、第一にこれ、第二にこれ、と項目を上げて方法論を語るタイプです。しかし、聖霊が鳩のようにナイーブなご人格を持っているお方だったら失礼だと思いました。聖霊が「なぜ、私と交わろうとするのですか?」と聞かれ、「はい、力を得るためです」と答えたならどうなるでしょう?「ぴゃー」と去って行くでしょう。「なぜ、神さまを礼拝し、賛美するのですか?」と聞かれ、「はい、祝福を得たいからです」と言うのと同じです。力や祝福は目的ではなく、副産物だからです。「本当に聖霊を神さまとしてあがめて、交わっているだろうか?」疑問になります。もしかしたら、自分のミニストリーが成功するように、聖霊を利用しているだけかもしれません。もちろん、聖霊の力を受けたいですが、聖霊がずっととどまっていただけたらもっと幸いです。

 ビル・ジョンソンが『神の臨在をもてなす』でこう述べています。関係を築くことに関して、次の二つの聖句は大切なガイドラインを示している。エペソ430「神の御霊を悲しませてはいけません」。Ⅰテサロニケ519「御霊を消してはいけません」。「聖霊を悲しませない」ことは、考え、態度、行動における罪の問題に何する命令である。「悲しませる」とは、誰かに悩みを与え、悲しみと苦しみを与えることを意味する。人生の中で何かをやってしまったり、妥協を許してしまったりする時に、聖霊は痛みを覚えられるのである。これは人格に関係している。聖霊の臨在をもっと力強くお迎えしたいと願うなら、このことに細心の注意を払わなければならない。「御霊を消してならない」という表現は、関係を築き上げながら、ともに働いていくことに焦点を当てている。「消す」ということばには、流れをせき止めるという意味がある。原語にも「消す」と「止める」と言いう二つの意味が含まれている。流れを「止める」とは、ホースで庭に水を撒くとき、そのホースを折って水が流れないようにすることであり、「消す」とは神との関係の中で情熱を消してしまうことを意味する。神への情熱の火を消してしまうと、聖霊が私たちを通して流れ、周りの状況を変えていくのをとどめてしまうことになる。このみことばは神の力が働くことに関する真理を教えている。アーメン。

 私は最初『神の臨在をもてなす』という本の題名を見て、読む気がしませんでした。東京オリンピックの「お・も・て・な・し」みたいな感じがしたからです。でも、原書はHosting the Presenceですから、ホストということばが使われています。Hostは「客を主人役として接待する」「もてなす」という意味です。と言うことは、聖霊が私たちの主人なんだということです。私たちは聖霊といわれてもどんな方なのか分かりません。でも、聖霊はキリストの御霊でありますから、イエスさまのことでもあります。聖霊とイエス様は全く同じ方です。もし、聖霊でイメージがわかなければ、「ここにイエス様がおいでになられているんだ」と思っても間違いありません。神の臨在が強いところでは、輝いておられるイエス様を見ることがあるからです。私はこれまで、「一度、聖霊を受けたら、ずっと変わることがない」と思っていました。でも、聖霊が離れることがあると学びました。イエス様が鳩のような聖霊をずっとご自分の上にとどまらせていました。それが、イエス様の力の源であるならば、ぜひ、そのようでありたいと思います。私たちが行くところに、聖霊様も共に行かれたなら、ペテロやパウロ、そしてチャールズ・フィニーと同じようなことが起るかもしれません。ということは聖霊は単なる力ではなく、ご人格を持った神の臨在なんだということです。つまりは、私たちは神の臨在を運ぶ器に召されているということです。イメージとして、私たちの肩に鳩がとどまっているということです。「注意深く」というのは、十分でありません。一歩一歩の歩みが、肩の上の鳩を意識しながら踏みだされなければなりません。ミニストリーにおける方向性と力を受けるためだけではありません。生活のすべての点で、聖霊を意識しなければなりません。驚くべきことに、私たちは神の臨在を運ぶ者として召されているのです。

3.神の臨在を解放つ

神の臨在を解き放つ、それは神の力が働くように私たちが用いられるということです。ビル・ジョンソンは神の臨在を解き放つための方法を4つあげています。第一はことばです。イエス様は父なる神が言われることをそのまま話されました。第二は信仰の行いです。信仰の行いとは、内側の信仰を実演するよって外に出すことです。たとえば、脚や足首をひどく負傷した人に、走るようにと勧めることがあります。第三は預言的な行いです。イエス様は目の見えない人に、シロアムの池に行って洗うようにと言われました。第四は触れることです。手を置くことは、神がご自身の世界を解き放つ時に用いれる重要な手段の一つです。

イエス様は弟子たちに聖霊と協力して働くことを学ぶ機会を与えました。イエス様が70人の弟子たちを選んで遣わされたことがあります。その時、イエス様は「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます(ルカ105-8」と言われました。このところに「平安」と書かれていまが、原文や英語からも「平和」と同じことばです。平和はヘブル語でシャロームであり、戦争や争いがないということではありません。シャロームの元の意味は「健全」「安寧」「繁栄」であり、神と人間が正しい関係にあるときにやってくるものです。イエス様が家に入ったなら、「この家に平安があるように」と言いなさいと命じられました。と言うことは、イエス様が70人を遣わされたとき、彼らに権威と力を与えたということです。このときにはまだ、聖霊が彼らの上に降っていませんでした。その前に、イエス様は弟子たちが聖霊と協力して働くことを学ばせたかったのです。そのとき、一時的ではありますが、聖霊の臨在がともにあったと考えられます。弟子たちは家に入るなり、「この家に平安があるように」と祈ったと思います。でも、不思議なことにその平安を受け止める人がいれば、その人の上にとどまります。でも、「いらない」と断られたなら、その平安は弟子たちのところに返ってきます。面白いですね。弟子たちが送った平安がその人の上にとどまったり、返ってきたりするというのですから。

 創世記8章に記されていますが、ノアは陸地が現れているかどうか調べるために、箱舟から鳩を放ちました。鳩は、その足を休める場所がなかったので、箱舟の彼のもとに返ってきました。なぜなら、水が全知の面にあったからです。ノアはなお7日待って、再び鳩を箱舟から放ちました。鳩は夕方になって、オリーブの若葉をくわえて戻ってきました。ノアは水が地から引き始めたことを知りました。次に鳩を放ったら、もう戻ってはきませんでした。聖書の中で、鳩は聖霊を象徴しています。イエス様の洗礼の場面がそのことを最もよく表しています。また、鳩は神の臨在と言うことも可能です。ところで、70人が家々をまわり、「この家に平安があるように」と祈りました。ふさわしい人にはその平安がとどまりました。まるで、鳩のような神の臨在がその人にとどまったということです。しかし、どうでしょう?「けっこうです」と断るならば、鳩のような神の臨在がもどってくるのです。つまり、70人の弟子たちは鳩のような神の臨在を解き放つ器として、イエス様から派遣されたということです。これってすごい真理ではないでしょうか?神の臨在を受け、神の臨在をもてなし、そして神の臨在を解き放つということです。これがミニストリーを行うための極意です。神の臨在は神の力ですから、このように言いかえることもできます。ミニストリーとは、神の力を受け、神の力をもてなし、そして神の力を解き放つということです。でも、大事なことは神の力は単なるエネルギーではなく、鳩のようにご人格を持った聖霊であるということです。

 イエス様は70人の弟子たちに「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい」と命じました。イエス様は弟子たちに、誰がふさわしい人かを見分けることを要求しませんでした。つまり、誰がふわさしい人かを見つけて、聖霊を解き放ったりとどめたりするための指示を、いちいち必要としてはいませんでした。人々が聖霊にどう応答するか、聖霊が人々の上にとどまるか、どれだけに注意していれば良かったのです。彼らは聖霊を受け入れるだろうか。それとも、聖霊は戻って来られるのだろうか?ふさわしいどうかは、ただ鳩にどう反応するかにかかっています。私たちはどうしても外見から、この人がふさわしいとか、ふわさしくないとか判断しがちです。しかし、神さまは人の外側ではなく、心を見ておられます。サムエルが新しい王を捜しているとき、このことがはっきり示されています。エッサイの子どもたちが順番に来たとき、人間的な観点から言うとふさわしい候補者が見つかりました。しかし、主は違うと言われました。サムエルは全員を見終えてから、まだほかに息子がいるかとエッサイに尋ねました。エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています」と答えました。ダビデは呼ばれていなかったのです。しかし、主はダビデの心を見て、この人がそれだと言われました。ですから、外見的に粗野で悪そうな人であっても、心の中は純粋で、神さまを求めている人はいるものです。誰がふさわしいかは私たちが決めるのではなく、聖霊様ご自身が決めるのです。私たちはただ、神の臨在を解き放つことが使命なのです。私も最初に教会の礼拝に来たときは、大川牧師は、粗野で悪そうな人に見えたでしょう。でも、私は礼拝説教を聞いたその日に、聖霊さまに捕えられたのです。深い飢え渇きを覚え、続けて来たいと思いました。アーメン。

 70人の弟子たちは、イエス様が命じられたとおりに、家々に入って「この家に平安があるように」と祈りました。すると不思議なことに素直に、その平安を受け取る人がいたのです。あとで70人が喜んで帰ってきてこう言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」(ルカ1017)。彼らは「悪霊を追い出せ」とは命じられていませんでした。ただ、「この平安があるように」と祈っただけなのです。しかし、彼らとともに聖霊がおられ、神の臨在が解き放たれ、悪霊が服従したのです。「ハレルヤ!」と弟子たちは喜びました。でも、神の働きをするのも良いけれど、もっと喜ぶべきことがあるとイエス様が言われました。「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」救いの喜びにまさるものはありません。

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