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2019年4月26日 (金)

神の臨在をもてなす ヨハネ1:29-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.4.28

 先週のメッセージで、ビル・ジョンソン師の本を引用して、尻切れトンボのように終わった感があります。「イエス様の上におられた鳩とは何だったのだろう?」と思われたかもしれません。なお、ビル・ジョンソン師はカルフォルニアのベテルチャーチの主任牧師であり、同時に、世界に影響を与えている現代の使徒でもあります。そこで本日は、先生が書かれた『神の臨在をもてなす』という本を参考にしつつ、神の臨在とは何なのか3つのポイントで学びたいと思います。

1.神の臨在を受ける

 神の臨在というのは、キリスト教会では「神がともにおられること」と理解しています。しかし、ビル・ジョンソンが言う「神の臨在」は、「ミニストリーをするための神の力である」と定義しています。ニコデモが夜、イエス様を訪ねてこのように言いました。ヨハネ32「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」ニコデモは、イスラエルの指導者であり、パリサイ人でした。彼は、イエス様がしるし、つまり奇跡を行なっているその力の源が何であるかを知っていました。それは、神がイエス様とともにおられるからです。私たちは旧約聖書を読むと奇跡を行なった人たちの特徴は何かを知ることができます。サムソンの上に神の霊が注がれたので、あのような怪力を出すことができした。また、エリヤとエリシャの上に神の霊があったので、力あるわざを行うことができました。つまり、神がともにおられるということは、神の霊がその人の上にとどまっているということではないでしょうか?そのことはイエス様の弟子たちも同じで、上から力を着せられる必要がありました。そして、ペンテコステの日、上から聖霊が臨まれ、力を得てから世界に福音を宣べ伝えに行きました。ペテロやパウロも聖霊の力によって、死人をよみがえらせ、病を癒し奇跡を行なうことができました。

神がともにおられる、神の臨在とはどのような影響力があるのでしょうか?使徒515,16「ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。」人々は「ペテロの影でも良いから」と迫ってきました。そして、ペテロの影に触れただけで人々が癒されました。影自体に力があるというのではなく、ペテロに神がともにおられたということでしょう。言い換えると、聖霊の臨在がペテロからにじみ出て、それが人々を癒したということです。もう一箇所引用したします。使徒1911,12「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」こんどは、パウロの着ていたものです。人々が、パウロが身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行きました。パウロが直接、何かしたというのでありません。これも、神の臨在がパウロが身に着けているものにも及んでいたということです。かつて、イエス様のもとに近づいた女性と似ています。彼女は12年間も長血を患っていましたが、イエス様の衣のすそに触れただけで癒されました。イエス様はご自分から力が出て行くのを感じることができました。

 チャールズ・フィニーは、19世紀の半ばに神さまに用いられたリバイバルの器です。彼の職業は弁護士でしたが、29歳のとき神の圧倒的な臨在に触れて劇的な救いを体験しました。数年後、按手礼を受けて正式な伝道者になりました。フィニーの行く先々で人々が集まり、救われていきました。まるで天の門が開かれ、神の愛が人々の上に降り注いでいるようでした。フィニーが燃えるような説教を語っていると、しばしば聞いている人達が席から床に倒れ落ち、泣き叫びながら悔い改めて神に立ち返っていくのです。フィニーはある日、朝食の後に紡績工場へと入って行きました。糸を紡ぎ、はたを織る機械が並ぶ作用場にたくさんの女性がいましたが、特に二人の女性が目に入りました。彼女らは少し動揺したようですが、お互いに笑い合うことで感情をごまかしているようでした。フィニーは何も言わず、さらに近づいて行くと、一人はひどく震え出して糸を紡ぐことができなくなりました。3メートルしかしか離れていない場所まで近づくと、彼女たちはその場に伏して泣き出してしまいました。その瞬間、工場内にいた女性たちが全員泣き出しました。その時までクリスチャンではなかった工場長は、それが神の時であることに気づき、仕事を中断させてひとり一人をキリストに導く機会を設けてくれました。小さなリバイバルが起こり、数日間続きました。この間に、この紡績工場全体のほとんどすべての人が回心しました。

私は、神学校で「神の臨在とは、神がともにおられることだ」と習いました。しかし、それだけではないようです。神の臨在とは聖霊の力であり、人々を癒したり、解放することができるということです。旧約聖書の預言者たちも、使徒たちも、そしてイエス様も、神の臨在を運んでおられたということです。そして、神の臨在はミニストリーを行うための聖霊の力であることがわかります。イエス様が「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)」と言われたことがあります。イエスさまと同じわざ、さらに大きなわざを行うのは、私たちの上におられる聖霊です。聖霊が私たちの上にとどまったらミニストリーを行うことができます。なぜなら、聖霊が神の臨在をもたらして下さり、そこに癒しや奇跡が現れるからです。一般の神学校では神がどういうお方か、ギリシャ語やヘブル語の聖書から学ぶでしょう。しかし、どのようにしたら癒しや奇跡が起こるのかは学びもしないし、実践もしないでしょう。しかし、イエス様は弟子たちと共におられ、「このように、やってごらんなさい」と訓練しました。そして、最終的には、イエス様は父のもとから聖霊を送ってくださいました。ペンテコステの日、弟子たちの上に聖霊が降り、彼らは力を受けました。今日、私たちが神さまの働きをしたければ、聖霊を上から受ける必要があります。なぜなら、聖霊は神の臨在をもたらす神の力だからです。

2.神の臨在をもてなす

 ヨハネ1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」先週の説教の引用の部分を繰り返します。「新生したクリスチャンとして、聖霊が内側に住んでいて下さることを私たちは知っている。しかも、聖霊は私たちを見捨てて行かれることは決してないというすばらしい約束までいただいている。何と言う慰めであろうか。しかし、残念なことに、聖霊はすべての人の上にとどまられるわけではない。聖霊が内に住まわれるのは、私自身のためで、上にとどまられるのは、周りの人々に奉仕するためである。聖霊がある人の上にとどまり続けられるとしたら、その人は最高の敬意を込めて聖霊を迎えている人であると言える。聖書の中で私が好きな箇所の1つは、イエスの聖霊の場面である。聖霊が鳩のように、イエスの上にとどまられたということである。もし鳩があなたの肩にとまったとしたら、どのように振舞うだろうか?一日中、その鳩にとどまってもらいたいと願うなら、どのように歩き回るだろうか。最も一般的な答えは「注意深く」というものだろう。適切な答えだが、それで十分ではない。一歩一歩の歩みが、すべて肩の上の鳩を意識しながら踏みだされなければならない。聖霊にとどまっていただく秘訣もそこにある。働きにおける方向性と力を受けるためだけではなく、生活のすべての点で、聖霊を意識しなければならない。驚くべきことに、私たちは神の臨在を運ぶ者として召されている。」アーメン。

 私は「力を得るために、ペンテコステの日のように、聖霊を上からいただかなければならない」と力説する牧師です。どちらかと言うと、力としての聖霊を着る、聖霊の臨在を受け取るというニュアンスがあります。しかし、ビル・ジョンソンは聖霊をイエス様の上にとどまった鳩にたとえています。そして「もし鳩があなたの肩にとまったとしたら、どのように振舞うでしょう?一日中、その鳩にとどまってもらいたいと願うなら、どのように歩き回るでしょうか」とチャレンジしています。つまり、聖霊は力というよりも、ご人格を持った神さまであるということです。しかも、鳩のようにナイーブで、何かあるとパッと飛び去ってしまいます。そうすると、力としての聖霊を上からいただいたとしても、ちゃんと管理しないと、なくなってしまうということしょうか?おそらく、「神の臨在をもてなす」と言う意味は、「鳩にとどまっていただく」ことではないかと思います。私は神の力を得るためには、第一にこれ、第二にこれ、と項目を上げて方法論を語るタイプです。しかし、聖霊が鳩のようにナイーブなご人格を持っているお方だったら失礼だと思いました。聖霊が「なぜ、私と交わろうとするのですか?」と聞かれ、「はい、力を得るためです」と答えたならどうなるでしょう?「ぴゃー」と去って行くでしょう。「なぜ、神さまを礼拝し、賛美するのですか?」と聞かれ、「はい、祝福を得たいからです」と言うのと同じです。力や祝福は目的ではなく、副産物だからです。「本当に聖霊を神さまとしてあがめて、交わっているだろうか?」疑問になります。もしかしたら、自分のミニストリーが成功するように、聖霊を利用しているだけかもしれません。もちろん、聖霊の力を受けたいですが、聖霊がずっととどまっていただけたらもっと幸いです。

 ビル・ジョンソンが『神の臨在をもてなす』でこう述べています。関係を築くことに関して、次の二つの聖句は大切なガイドラインを示している。エペソ430「神の御霊を悲しませてはいけません」。Ⅰテサロニケ519「御霊を消してはいけません」。「聖霊を悲しませない」ことは、考え、態度、行動における罪の問題に何する命令である。「悲しませる」とは、誰かに悩みを与え、悲しみと苦しみを与えることを意味する。人生の中で何かをやってしまったり、妥協を許してしまったりする時に、聖霊は痛みを覚えられるのである。これは人格に関係している。聖霊の臨在をもっと力強くお迎えしたいと願うなら、このことに細心の注意を払わなければならない。「御霊を消してならない」という表現は、関係を築き上げながら、ともに働いていくことに焦点を当てている。「消す」ということばには、流れをせき止めるという意味がある。原語にも「消す」と「止める」と言いう二つの意味が含まれている。流れを「止める」とは、ホースで庭に水を撒くとき、そのホースを折って水が流れないようにすることであり、「消す」とは神との関係の中で情熱を消してしまうことを意味する。神への情熱の火を消してしまうと、聖霊が私たちを通して流れ、周りの状況を変えていくのをとどめてしまうことになる。このみことばは神の力が働くことに関する真理を教えている。アーメン。

 私は最初『神の臨在をもてなす』という本の題名を見て、読む気がしませんでした。東京オリンピックの「お・も・て・な・し」みたいな感じがしたからです。でも、原書はHosting the Presenceですから、ホストということばが使われています。Hostは「客を主人役として接待する」「もてなす」という意味です。と言うことは、聖霊が私たちの主人なんだということです。私たちは聖霊といわれてもどんな方なのか分かりません。でも、聖霊はキリストの御霊でありますから、イエスさまのことでもあります。聖霊とイエス様は全く同じ方です。もし、聖霊でイメージがわかなければ、「ここにイエス様がおいでになられているんだ」と思っても間違いありません。神の臨在が強いところでは、輝いておられるイエス様を見ることがあるからです。私はこれまで、「一度、聖霊を受けたら、ずっと変わることがない」と思っていました。でも、聖霊が離れることがあると学びました。イエス様が鳩のような聖霊をずっとご自分の上にとどまらせていました。それが、イエス様の力の源であるならば、ぜひ、そのようでありたいと思います。私たちが行くところに、聖霊様も共に行かれたなら、ペテロやパウロ、そしてチャールズ・フィニーと同じようなことが起るかもしれません。ということは聖霊は単なる力ではなく、ご人格を持った神の臨在なんだということです。つまりは、私たちは神の臨在を運ぶ器に召されているということです。イメージとして、私たちの肩に鳩がとどまっているということです。「注意深く」というのは、十分でありません。一歩一歩の歩みが、肩の上の鳩を意識しながら踏みだされなければなりません。ミニストリーにおける方向性と力を受けるためだけではありません。生活のすべての点で、聖霊を意識しなければなりません。驚くべきことに、私たちは神の臨在を運ぶ者として召されているのです。

3.神の臨在を解放つ

神の臨在を解き放つ、それは神の力が働くように私たちが用いられるということです。ビル・ジョンソンは神の臨在を解き放つための方法を4つあげています。第一はことばです。イエス様は父なる神が言われることをそのまま話されました。第二は信仰の行いです。信仰の行いとは、内側の信仰を実演するよって外に出すことです。たとえば、脚や足首をひどく負傷した人に、走るようにと勧めることがあります。第三は預言的な行いです。イエス様は目の見えない人に、シロアムの池に行って洗うようにと言われました。第四は触れることです。手を置くことは、神がご自身の世界を解き放つ時に用いれる重要な手段の一つです。

イエス様は弟子たちに聖霊と協力して働くことを学ぶ機会を与えました。イエス様が70人の弟子たちを選んで遣わされたことがあります。その時、イエス様は「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます(ルカ105-8」と言われました。このところに「平安」と書かれていまが、原文や英語からも「平和」と同じことばです。平和はヘブル語でシャロームであり、戦争や争いがないということではありません。シャロームの元の意味は「健全」「安寧」「繁栄」であり、神と人間が正しい関係にあるときにやってくるものです。イエス様が家に入ったなら、「この家に平安があるように」と言いなさいと命じられました。と言うことは、イエス様が70人を遣わされたとき、彼らに権威と力を与えたということです。このときにはまだ、聖霊が彼らの上に降っていませんでした。その前に、イエス様は弟子たちが聖霊と協力して働くことを学ばせたかったのです。そのとき、一時的ではありますが、聖霊の臨在がともにあったと考えられます。弟子たちは家に入るなり、「この家に平安があるように」と祈ったと思います。でも、不思議なことにその平安を受け止める人がいれば、その人の上にとどまります。でも、「いらない」と断られたなら、その平安は弟子たちのところに返ってきます。面白いですね。弟子たちが送った平安がその人の上にとどまったり、返ってきたりするというのですから。

 創世記8章に記されていますが、ノアは陸地が現れているかどうか調べるために、箱舟から鳩を放ちました。鳩は、その足を休める場所がなかったので、箱舟の彼のもとに返ってきました。なぜなら、水が全知の面にあったからです。ノアはなお7日待って、再び鳩を箱舟から放ちました。鳩は夕方になって、オリーブの若葉をくわえて戻ってきました。ノアは水が地から引き始めたことを知りました。次に鳩を放ったら、もう戻ってはきませんでした。聖書の中で、鳩は聖霊を象徴しています。イエス様の洗礼の場面がそのことを最もよく表しています。また、鳩は神の臨在と言うことも可能です。ところで、70人が家々をまわり、「この家に平安があるように」と祈りました。ふさわしい人にはその平安がとどまりました。まるで、鳩のような神の臨在がその人にとどまったということです。しかし、どうでしょう?「けっこうです」と断るならば、鳩のような神の臨在がもどってくるのです。つまり、70人の弟子たちは鳩のような神の臨在を解き放つ器として、イエス様から派遣されたということです。これってすごい真理ではないでしょうか?神の臨在を受け、神の臨在をもてなし、そして神の臨在を解き放つということです。これがミニストリーを行うための極意です。神の臨在は神の力ですから、このように言いかえることもできます。ミニストリーとは、神の力を受け、神の力をもてなし、そして神の力を解き放つということです。でも、大事なことは神の力は単なるエネルギーではなく、鳩のようにご人格を持った聖霊であるということです。

 イエス様は70人の弟子たちに「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい」と命じました。イエス様は弟子たちに、誰がふさわしい人かを見分けることを要求しませんでした。つまり、誰がふわさしい人かを見つけて、聖霊を解き放ったりとどめたりするための指示を、いちいち必要としてはいませんでした。人々が聖霊にどう応答するか、聖霊が人々の上にとどまるか、どれだけに注意していれば良かったのです。彼らは聖霊を受け入れるだろうか。それとも、聖霊は戻って来られるのだろうか?ふさわしいどうかは、ただ鳩にどう反応するかにかかっています。私たちはどうしても外見から、この人がふさわしいとか、ふわさしくないとか判断しがちです。しかし、神さまは人の外側ではなく、心を見ておられます。サムエルが新しい王を捜しているとき、このことがはっきり示されています。エッサイの子どもたちが順番に来たとき、人間的な観点から言うとふさわしい候補者が見つかりました。しかし、主は違うと言われました。サムエルは全員を見終えてから、まだほかに息子がいるかとエッサイに尋ねました。エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています」と答えました。ダビデは呼ばれていなかったのです。しかし、主はダビデの心を見て、この人がそれだと言われました。ですから、外見的に粗野で悪そうな人であっても、心の中は純粋で、神さまを求めている人はいるものです。誰がふさわしいかは私たちが決めるのではなく、聖霊様ご自身が決めるのです。私たちはただ、神の臨在を解き放つことが使命なのです。私も最初に教会の礼拝に来たときは、大川牧師は、粗野で悪そうな人に見えたでしょう。でも、私は礼拝説教を聞いたその日に、聖霊さまに捕えられたのです。深い飢え渇きを覚え、続けて来たいと思いました。アーメン。

 70人の弟子たちは、イエス様が命じられたとおりに、家々に入って「この家に平安があるように」と祈りました。すると不思議なことに素直に、その平安を受け取る人がいたのです。あとで70人が喜んで帰ってきてこう言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」(ルカ1017)。彼らは「悪霊を追い出せ」とは命じられていませんでした。ただ、「この平安があるように」と祈っただけなのです。しかし、彼らとともに聖霊がおられ、神の臨在が解き放たれ、悪霊が服従したのです。「ハレルヤ!」と弟子たちは喜びました。でも、神の働きをするのも良いけれど、もっと喜ぶべきことがあるとイエス様が言われました。「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」救いの喜びにまさるものはありません。

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2019年4月19日 (金)

復活の事実 Ⅰコリント15:12-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.4.21

イースターおめでとうございます。クリスマスは紀元後200年くらいからお祝いされたようです。しかし、イースターの場合はイエス様が復活されたその日からです。その日から、毎週日曜日に人々が集まるようになりました。そして、いつの間にか土曜日の安息日から、日曜日の礼拝に移ってしまいました。「日曜日に礼拝を守りなさい」と聖書に書かれていませんが、主の復活を祝うために日曜日に集まるようになったのです。今日も、私たちがここに集まっているのは、イエス様の復活をお祝いするためです。ハレルヤ!アーメン。

1.復活の予告

 主イエス・キリストはご自身が三日後によみえがえることを何度も予告しておられました。マタイによる福音書を読むと少なくとも四度あったことが分かります。最初は弟子のペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白した直後です。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」ペテロが「そんなことがあなたに起るはずはありません」と言うと、「下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をするものだ」と、しこたま怒られました。二度目は変貌の山から降りた時、イエス様が「人の子が死人の中からよみがえるときまで、いま見た幻をだれにも話してはならない」(マタイ179と命じました。三度目は同じマタイ17章ですが、てんかんの子どもを癒してあげた直後です。「人の子は、いま人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります」と言われました。すると、「彼らは非常に悲しんだ」(マタイ1723とあります。四度目は、最後の晩餐の席で「私は、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」と言われました。そのとき、ペテロは「たとい全部の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ2623と言いました。弟子たちはイエス様が「私は死んだ後によみがえる」とおっしゃっているのに、何度も的外れなことを言っています。つまり、弟子たちは、頭からイエス様がよみがえるはずがないと思っていたので、予告をスルーしてしまったのです。

 イエス様が、ご自分がよみがえるとおっしゃったのに、もし、よみがえられなかったのなら、どうなるでしょう?世の多くの人たちは「イエスは聖人であり、最高の道徳家である」と言うかもしれません。しかし、ご自分が三日後によみがえるとおっしゃったのに、よみがえられなかったのなら、どうなるでしょう?大嘘つきです。J.B.フイリップスは『あなたの神は小さすぎる』という本の中でこう述べています。「もし、キリストが復活しなかったなら、彼は誇大妄想狂である。…こんな男を、世界最大の教師と見なすわけにはいきません。マホメットも、仏陀も、他のいかなる大教師も、自分自身についてそんなほらを吹いたことはないからです。福音書に慣れ過ぎているため、キリストの主張の大変な重大さに気付かず、昔ながらの尊崇心から、かえって正当に評価することができなくなっている人々がたくさんいます。もしキリストが、事実、よみがえらなったら、キリストの生涯は偽りとなり、キリストは実に危険な人物となります。」つまり、私たち人間がキリストの前に立ったとき、2つに1つしかないということです。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ146と言われました。人がそのことばを聞いて、「それは良かったですね。では、さようなら」とはいかないということです。この方は神か、もしくは気が狂っているのか、2つに1つしか選べないということです。ミッションスクールで、何を教えているか分かりませんが、人がキリストの前に立ったなら、道徳家ではすまされないということです。「聖書の教えは良いですね」とか「イエスは良いお方ですね」という選択肢はありません。唾を吐いてその場を去るか、あるいは「わが神、わが主よ」とひれ伏すか2つに1つしかありません。トマスに対して他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言いました。しかし、信じようとしませんでした。彼は残酷にも「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言いました。その1週間後、イエス様が弟子たちの中に、再び現れてくださいました。イエス様はトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ2027イエス様が、あの時の会話を聞いておられたのです。トマスはびっくりして、「私の主。私の神」と告白しました。トマスが自分の指をイエス様の手の釘跡に差し入れたでしょうか?槍で刺されたイエス様の脇に差し入れたでしょうか?おそらく、そのようなことはしなかったと思います。

 現代の私たちは聖書に記されている弟子たちの証言を信じるしかありません。パウロのように復活の主と出会って、信じる人はまれでしょう。ほとんどの人は、聖書の記述を信じるしかありません。イエス様は「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ2029とおっしゃいました。私はこんな偉そうなことを言っていますが、キリスト様に関しては全く無知でした。キリスト教は弱い人たちが勝手に作った宗教だと思っていたからです。かつての私をはじめ、日本人のほとんどが、キリストが何を教え、何をなされたのか知りません。決断するにも、何を決断したら良いのか分からないでしょう。私は1979415日の夜、イエス様を信じました。職場の先輩が9時間も伝道して、根負けをしたからです。その年の12月ある日、賛美のテープを聞きながら、部屋に掃除機をかけていました。「私は道で、まことでいのちと主は私に語りかけた」と歌っていました。それは、聖書のことばでした。「え?イエス様が道で、まことでいのちなの?これは、大変なことだ」と思いました。私はその場に跪いて「イエス様、私をあなたの弟子にしてください。一番、小さい弟子で結構ですから」とお祈りしました。それまでは、イエス様は私の救い主で、私を助けて下さるすばらしい友だと思っていました。しかし、そうではありません。イエス様は神であり、主だと分かったのです。イエス様は予告どおり、死からよみがえられた真実な神さまだからです。

2.復活の事実

 Ⅰコリント1514,15「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。」さらに、Ⅰコリント15:19 「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」先ほど、引用したJ.B.フイリップスは、同じ本の中で、「キリスト教のあらゆる主張は、復活にかかっている」と述べています。弟子たちやパウロは十字架の死ではなく、どちらかと言うとイエス様の復活を宣べ伝えています。私たちは「十字架の贖いで人が救われるのだから、別に復活まで言わなくたって良いだろう」と思うかもしれません。使徒の働き2章にペテロの説教が記されています。対象はこの間、イエス様を十字架につけたユダヤ人たちです。ペテロは詩篇を引用しながら、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒232と言いました。その後、3000人の人たちが、罪を悔い改めて、バプテスマを受けて弟子に加えられました。このところから分かることは、十字架の死の告知だけでは、回心に至らなかったということです。十字架の死が、私たちの罪の贖いの死であることは、復活がなければ証明できないということなのでしょうか?

 これは、イースターで何度も引用しているみことばです。ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」このみことばの意味を英語の詳訳聖書が正しく教えています。後半は、and was raised to secure our justification「私たちの義の保証となるために、よみがえらされた」となっています。もう1つの訳もあります。Making our account balance and absolving us from all guilt before God 「私たちの勘定書きの帳尻を合わせ、神のみ前で無罪放免にして下さった」となっています。つまり、復活は私たちが救われること保証であり、無罪放免の勘定書きだということです。このたとえは、前も話したことがあります。ウォッチマンニーが友人のおかげで、借金を免除してもらった話です。彼の貸主に対して、その友人が有利な立場だったのでしょう。その友人は、自分たちがいる上海から、貸主の蘇州まで頼みに行ってくれました。貸主はウォッチマンニーの大変さを聞き、借金を帳消しにしてくれました。貸主は「せっかく来たのだから、蘇州の名所見物に行こう」と勧めてくれました。昔は電話などありませんので、ウォッチマンニーは、やきもちして待っていました。帳消しになった日から十日もたっていたのですが、証文を見ない限り分かりません。彼は、依然として自分を負債者と考えており、心は落ち着きません。いつ問題は処理されるのでしょうか?彼が上海に戻ってきて証文を見せてくれた時です。これが主イエスの復活です。彼は私たちのために死なれた時、罪の問題を解決されました。ところが、もし彼が死人の中から復活されなかったなら、もし彼が戻って来られなかったなら、私たちの心は不安なままです。彼は復活されなければなりません。そうしてこそ、私たちはみわざが成し遂げられたことを知るでしょう。神に感謝します。キリストの復活は、私たちの罪が完全に解決されていることを証明します。つまり、復活がないなら、宣べ伝えている福音が、本当に効力があるのかどうか分からないということです。キリストを信じたら罪赦され、救われる。その証拠は父なる神がキリストを死からよみがえらせてくださったからです。私たちの手許には、復活という神からの証文があります。

 パウロはテモテに言いました。Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロは、ガラテヤの教会の人たちに十字架につけられたイエス・キリストをプラカードしました。しかし、それだけではありません。アグリッパ王の前で「神が死者をよみがえらせたということを、あなたがたは、なぜ信じがたいとされるのでしょうか」(使徒268と主張しています。つまり、パウロが宣べ伝えた福音は「完成した福音」であるということです。まことに奇異な表現ですが、人間が全く手を加える必要がない福音です。父なる神が、人類の罪を赦すために御子を十字架の死に渡しました。そして、父なる神が、御子イエスが十字架で罪を全部支払ったことを証明するために、彼を死からよみがえらせてくださったのです。私たちはイエス様の十字架を仰ぎ、「キリストは私の罪のために死なれたんだ。ありがとうございます」と感謝を述べます。そして、私たちが、イエス様が死からよみがえられたことを知ると、「救いは完成しているんだ、私は義と認められているんだ」と分かります。どこが違うのでしょうか?前者は「もう罪を犯さないようにしよう」と考えます。後者は「義とされているような生き方をしよう」となります。チョーヨンギ牧師が、人が銭湯のたとえを話されたことがあります。人が銭湯に行くと体を洗います。お湯から上がると、古い下着を再び着ません。上着もバサバサとあおいで、ほこりを落とします。何故でしょう?自分はきれいになったという自覚があるからです。そうです。クリスチャンは「罪赦されただけではなく、神さまから義と見なされている。それだったら、正しい道を歩もう」となります。本来、罪の赦しも義認も同じ救いを表現していることばです。しかし、パウロは「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言いました。なぜなら、自分は死ではなく、神のいのちの中に入って入ることが分かるからです。私は親として、子どもが「ごめんなさい」「ごめんなさい」とうなだれて言うのを見たくありません。ある牧師たちは「私たちは神の前では罪人であり、日々、罪を悔い改める必要がある」と言います。だから、日曜日はいかに会衆が罪深いかをメッセージし、会衆は涙を流して、一週間分の罪を悔い改めます。しかし、それは間違いです。罪の問題はキリストの十字架によってすでに解決されているのです。むしろ、父なる神さまは「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とおっしゃっているのです。なぜなら、すでに私たちは義と認められているからです。

 

3.復活がないなら

 コリント1532,33「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」ここで言われている「友だち」というのは、復活を信じない人たちで、「生きているうちが花だから、好き勝手に生きようぜ」という悪い友だちです。コリントの教会は、この世よりもひどい罪や放縦に満ちていました。彼らには信仰があったのですが、肉体の復活を信じていませんでした。なぜなら、ギリシャ哲学の影響を受けて「肉体がしている悪は、魂の救いには影響しない」と考えていました。でも、それは見当違いであり、世俗的なパン種でした。パウロは「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」と注意しました。それは、イエス様が言われた「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と同じであります。サドカイ人たちの教えは世俗的であり、この世のことしか考えていません。もし、彼らの教えを受け入れるなら、「死後の世界はないので、地上で幸せに暮らせればそれで良い」ということになります。イエス様は彼らに「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」(マタイ2229と言われました。「思い違い」のギリシャ語はプラナウであり「迷う、惑わされる、考え違いをする」という意味です。J.B.フイリップスはYou are very wide of the mark、「あなたは大きく的からはずれている」「見当違いをしている」と訳しています。そもそもの原因は、彼らが聖書も神の力も知らないからです。神さまを礼拝して、宗教的な生活を送っているかもしれません。しかし、「聖書も神の力も知らない」なら、見当違いをしていることになります。

私は21年前と2年前にも、このような証を語っていました。私の説教原稿は「いのちのことば」というホームページに載っています。私もかつては見当違いをしていました。車を乗り回し、格好をつけ、綺麗な女性を追い掛けていました。「今が楽しければ良い、死んだらおしまいさ」と考えていたのです。仕事はメシの種で、他の時間は自分の好きなことを一生懸命やれば良いという人生哲学でした。しかし、「永遠というのがあるなら、そこに命をかけられるのになー」と心のどこかで追い求めていました。「宗教は弱い人間が勝手に造ったものだ」と言っていた、この私が25才に回心しました。するとどうでしょう。時間がもったいなくなりました。クリスチャンになって、永遠の命が与えられたのだったら、「ああ、やったー」と寝そべっていれば良さそうなものです。ところが「確かに、永遠の命は与えられけたけれど、この地上の人生は意外に短いぞ」と思うようになったのです。気がつくと、パチンコ、ギャンブル、マージャンをやめていました。それらが時間とお金の無駄使いと気付いたからです。お酒もやめました。お酒を飲むとボーっとなって、その夜は何も考えられなくなるからです。それで「この限られた時間をもっと有効に使わなければ」となりました。つまり、それまでは「好きなことを楽しく」という無目的な人生でしたが、救われてから目的ができてしまったのです。私が洗礼を受けて全く変わってしまったので、一緒に遊んでいた友だちも付き合っていた彼女も私から離れていきました。世俗的な友だちが去って行ったということです。その後、神さまから京子さんというすばらしい女性が妻として与えられました。いつの間にか、4人も子どもが与えられました。ハレルヤ!アーメン。

この世には復活を信じる人たちと、復活などないと信じている人たちがいます。日本人は東洋的で「生まれ変わり」という輪廻を信じているかもしれません。だから、遺体を火葬にした後、先祖代々のお墓に混ぜて入れます。一方、復活を信じているのはエジプト、アンデス、チベットのミイラがあります。彼らがミイラを作るのは、やがて魂が戻ってきたときのためです。しかし、それは聖書が言う復活とは違います。私たちの場合は、キリストが復活したように、朽ちない栄光のからだに変えられるということです。その第一号がイエス・キリストです。私たちの復活の保証は、イエス・キリストです。Ⅰコリント1520「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえらされました」。ちなみに、新約聖書では人が死んだことを「眠った」と言います。これは、魂が眠ったのではなく、肉体が死んで眠ったという意味です。「眠った」のですから、いつか目覚める時が来るという前提です。いつ目覚めるのか?Ⅰコリント155254「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。…しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利に飲まれた』としるされている、みことばが実現します。」パウロが言う「朽ちるもの」とは私たちの地上の肉体です。一方「朽ちないものを着る」とは、天に属する肉体です。私たちの魂が栄光の肉体を着るのです。

 テレビを見るとショップチャンネルがいくつもあります。家電、宝石、バッグ、化粧品、そして下着や洋服があります。そこに出てくる下着や洋服がなぜ良く見えるのでしょう?着ている人が美しいからです。「自分をあの服を身に着けたら、美しくなるんだろうなー」と0120に電話をします。でも、多くの場合それは、幻想であり、fakeです。私たちの肉体は日々、衰えています。言いかえると、私たちの肉体は死に向かっており、何ものもそれを妨げることは不可能です。あのオードリー・ヘプバーンも最後はしわくちゃになりました。しかし、私たちは救われると霊的に生まれ変わり、「たとい外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント416)。パウロは私たちの肉体を地上の幕屋(テント)と言っています。この肉体が、私たちの住まいです。でも、パウロは地上の幕屋が壊れても、神さまのくださる建物があると言っています。神さまのくださる建物こそが、朽ちない栄光のからだです。私たちは魂のまま永遠に生きるのではありません。天からの住まい、栄光のからだが与えられ、永遠に生きることになるのです。ですから、クリスチャンにとって、死とは地上の幕屋を脱ぐことです。しばらくは、パラダイスで休息します。その後、世の終わりイエス様がやって来られたとき、ラッパが鳴り響きます。そうすると地面や海に眠っていた肉体が目覚めて、天上の魂と合体するのです。Ⅰコリント1558「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

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2019年4月12日 (金)

キリストが負ったもの イザヤ53:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.4.14

今週は受難週で、来週の日曜日はイースター(復活祭)です。復活の前には十字架を語る必要があります。というわけで、きょうは旧約聖書のイザヤ書から、キリストが十字架で私たちのために負ってくださったものをいくつか学びたいと思います。つまり、キリストは2000年前に、これらのものを負ってくださったので、私たちはもう負う必要はないということです。ということは、私たちは信仰によって、解決されたものを受け取れば良いのです。

1.

 イザヤ534「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」何かの間違いではないでしょうか?イザヤはやがて来られるメシヤは、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と預言しています。ということは、イエス・キリストは十字架で私たちの病を負ってくださったということです。すべてのキリスト教会は、「キリストは私たちの罪を負ってくださった。だから、信じれば罪が赦される。罪の問題は解決済みである」と言います。この事実は福音の中心であります。しかし、キリストが「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」とは、あまり聞くことがありません。「聖書は神の霊感によって書かれた誤りのない神のことばである」と信じている教会が、あるところは信じて、あるところはomit除外するとは何事でしょう?それは、すでに他の考え方があり、そのゆがんだ考え方によって聖書を読んでいるからです。聖書にそう書いてあるのに、「そんなことはない」と無意識に飛ばして読んでいるのです。「病のことは別問題だ」とthroughしているのです。では、なぜこんな間違いを犯してしまったのでしょう? 20世紀前後に聖書の霊感を信じる保守的な学者たちから、cessationism「休止説」が出てきました。彼らは「使徒たちが天国に帰って、新約聖書が完成した後は、目を見張る奇跡や聖霊の賜物は不要になった」と主張しました。おそらく、Ⅰコリント138「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」のみことばを根拠にしたのでしょう。しかし、そのみことばは、イエス様が再臨なされる終末時であって、今の時代ではありません。キリスト教会の歴史をたどっても、使徒後教父たち、中世の教会、宗教改革者たち、18,19世紀にイギリスとアメリカに起った大覚醒運動、20世紀以降はインドネシヤ、南米、中国、アフリカにしるしと奇跡の伴うリバイバルが起きました。イエス様や弟子たちがなされた病の癒し、悪霊の追い出し、死人のよみがえりがどんどん起こっています。まさしく、ヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」アーメン。

 では、なぜ、イザヤ534「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」を信じることが大事なのでしょうか?第一は、イエス様ご自身がこの地上でイザヤの預言を成就されたからです。マタイ8:16,17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」福音書を読むと分かりますが、イエス様のミニストリーの三分の一が病の癒しと悪霊の追い出しです。他の2つは教えと福音宣教です。イエス様は福音宣教だけをしたのではありません。御国がこのところに来ていることを証明するために、病の癒しと悪霊の追い出しをなされたのです。人々は目に見えない御国を癒しによって体験したので福音を信じるのが容易になったのです。第二は使徒ペテロもそのことを教えています。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ペテロはイザヤ書53章を引用して、キリストが私たちの罪を負われたので、私たちが義のために生きることができることを述べています。それだけではありません、「キリストの打ち傷のゆえにあなたがたは癒されたのです」と完了形で述べています。ペテロは罪の問題も、病の問題も十字架で解決済みであるとはっきり述べています。それなのに、「罪の赦しは受けますが、病の問題は自分で解決します」と言うのでしょうか?それは傲慢であるとしか思えません。

 私は聖霊の賜物による癒しを信じており、しばしば癒しの祈りをさせていただきます。これまでは、私の信仰によって癒すのであって、その人の信仰についてはあまり強調しませんでした。なぜなら、「癒されないのは私の信仰が足りないからでしょうね」と懸念する人たちがいるからです。だから、「こちらの信仰によって癒しますから、あなたは、ただ受け取れば良いのですよ」とミニストリーをしてきました。ところが、福音書を見ると、イエス様がしばしば「あなたの信仰があなたを癒したのです」と言われたのを発見することができます。そして、生まれ故郷のナザレでは大きな奇跡を行なうことができませんでした。原因は、彼らの不信仰でした。ということは、癒しを受ける方にも信仰がいるということです。それは、「癒しを受け取ります」という以上の信仰です。「キリストは2000年前、私の病を十字架で負ってくださった。病の問題はすでに解決済みである。私は病気でいる必要はない」ということを認めるということです。クリスチャンが「私の罪はキリストの十字架で支払われている」と信じるのと同じです。つまり、「キリストは既に十字架で私の病を負って下さっている。アーメン」と信じるなら、神の癒しがぐっと臨むということです。これは、癒し手が自分の聖霊の賜物で癒すということではありません。主の臨在がそこに現れて、主ご自身がその人の病を癒してくださるということです。なぜなら、イエス様は「その人自身の信仰によって癒された」とおっしゃっており、ご自分の癒しの力ではないような言い方をしているからです。つまり、このイザヤ53章の「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」という聖書のみことばの上に信仰を置くならば、もっと癒しのわざが起るということです。どうぞ、この受難週に改めて、イエス様が私の病と弱さを十字架で負ってくださったことを感謝しましょう。そして、解決済みの事実を信じることによって、大胆に主の御名による癒しを求めましょう。

2.

 イザヤ53:5,6「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」私たちは新約聖書から「罪」と言いますが、旧約聖書にはもっとたくさんの罪があることが分かります。イザヤ書53章を見ると、代表的な罪が3つ記されています。第一は「そむきの罪」です。ヘブライ語ではペシャと言い、意図的に犯す罪です。英語ではtransgression「制限無視」「違反」です。イスラエルの人たちは、まことの神を知りながら、偶像の神に走りました。パリサイ人たちは、自分たちの言い伝えのために、神の戒めを破りました。知らないで犯す罪よりも、知っていて犯す罪の方がよい重いのは当然です。第二は「咎」です。ヘブライ語ではアーオーンと言い、「曲げる、何かをゆがめる」という罪です。英語ではiniquityであり、「不正」「不法」です。カインは弟アベルを殺しました。そのため地は呪われ、土地を耕してもその力を生じなくなりました。創世記413「カインは主に申し上げた。『私の咎は、大きすぎて、担いきれません。』」。カインが犯した罪によって、土地の性質がゆがめられてしまったのです。私たちも先祖が犯した咎によって、報いを受けている場合が多々あります。偶像礼拝の罪がその1つです。出エジプト205「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし…」と書かれています。第三は「罪」です。このみことばは、イザヤ5312「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」にあります。ヘブライ語ではハタートと言い、「本来の目的からはずれること」「目的に達しないこと」。英語ではsin「道徳・宗教上の罪」を意味します。ローマ323「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」とあります。これは、神さまと交わることのできる状態から落ちているという意味です。これら3つの罪は、この世でよく言われる「犯罪」「罪悪」とは随分と違うなーと思います。聖書はもっと根源的な罪を扱っているのでしょう。

 これらのことを考慮して、イエス様が2000年前に私たちの罪を負ってくださったということを深く考えるべきです。私は洗礼を受けてクリスチャンになってから、「キリストの十字架が私の罪のためだった」ということを悟ったのは半年かかりました。キリストによって完成された救いを、ただ受け取れば良いという信仰でした。キャンパス・クルセードの「四つの法則」というのがありました。4つとは、神、罪、キリスト、信仰の4つです。罪はイエス様が十字架で負ってくださった。罪の代価はすでに支払われている。救いの手立ては出来上がっている。そういう教えでした。だから、信じたときは涙も出ませんでした。もちろん、悔恨の涙は聖書的ではありません。でも、なんだか「ところてん式の福音」みたいな感じがします。四角い透明なものを、箱に入れて、棒を押し込むと、ところてんができあがります。救いを「四つ法則」と片付けるのは、安直しすぎるような気がします。救いは確かに恵みですが、私たちの罪が赦されるために、イエス様が十字架で死なれたということが分かるのは時間がかかると思います。そして、「私のあの罪、この罪、いろんな罪のためだったんだ」と分かって来ると、救いの有り難さが分かってきます。私が小学生の頃、中学生二人と3人で「めんこ」を遊びました。私はズルして片方の中学生のめんこを隠しました。もう一人の中学生は、「お前が隠したんだろう」と言いました。「いや、俺じゃない」と彼が答えました。それが1時間くらい続き、すっかり暗くなりました。一人の中学生は「白状しろ!」ともう一人の友人の首を絞めていました。私の兄が「お前ら、何をやっているんだ」と家から出てきました。訳も聞かずに、二人の中学生を殴りつけ、解散させました。後味の悪いのは私です。二人の友情を壊してしまったからです。彼らは私がめんこを隠すはずがないと思っていたのでしょう。もう、何十年も昔のことでしたが、心の中にしこりとして残っていました。イエス様にお詫びしました。でも、二人に会ってお詫びもできません。そのとき、罪というのは、簡単に赦されるものではないのだと思いました。咎という問題は、エリヤハウスで取り扱うことができました。父が酒乱で子どもや母をよく殴りました。私はそんな父のようにはなるまいと思っていました。とろころが、長男が何か悪いことをしたとき、叩きませんでしたが、首をぐっと絞めました。家内と喧嘩したときも、殴りたくなりました。その時、私は驚きました。「父親と同じ血が流れているんだ。父のようになるまいと思っていても、そうなるように轍(わだち)ができているんだ」と恐ろしくなりました。大人になっても父を赦せませんでしたが、なんとか赦しました。そうしたら、咎から解放されました。エリヤハウスから教えられて、父親との間に十字架を立てて、悪いものが流れてこないようにと祈りました。

 私が一番ショックだったのは、イエス様が私たちの罪を負われただけではなく、罪そのものとなったということを知ったときでした。Ⅰコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」救いを受けた私たちは、どうしても自分の方からしかイエス様の十字架を見ません。しかし、イエス様ご本人はどんな気持ちだったのでしょう。自分が何も悪いことをしていないのに、人々の罪をかぶるとはどういうことでしょう?自分が犯した罪じゃないのに、裁かれて死ぬというのは、どんな気持ちなのでしょう。「私は悪いことをしていないのに、何でだよ」と思うのが普通でしょう。でも、父なる神さまが、私たちの罪を赦し、私たちを義とするためには、その道しかなかったようです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書いてあります。罪を知らない方とはイエス様のことです。さらに、イエス様は、私たちの代わりに罪そのもとされましたのです。その時、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうして私をお見捨てになられたのですか?)」と叫ばれました。日中だと言うのに、全地が真っ暗になっていました。罪の醜悪さ、罪の重さ、罪の残忍さ…一口ではいえません。あの罪、この罪、いろんな罪のためにイエス様は身代わりに死んで下さったのです。イエス様が私たちの罪を負ってくださり、罪そのものとなってくださいました。救いの道がそのように開かれたことを感謝します。

3.悲嘆と悲しみ

 キングジェームス・ヴァージョンのイザヤ534は日本語とかなり違います。イザヤ534 Surely He has borne our griefs and carried our sorrows;Yet we esteemed Him stricken,Smitten by God, and afflicted.直訳すると、「確かに、彼は悲嘆と悲しみを負われた」となります。そこには、日本語訳のように、病とか痛みとは書いていません。でも、なぜキングジェームスはそのような訳し方をしたのでしょう?ヘブライ語の聖書は、最初に負ったものが「ハリー」であり、これは「不健康」「病気」「苦しみ」という意味です。次に負ったものが「マクオーブ」であり、これは「痛み」「病気」「苦しみ」という意味があります。すると、キングジェームス訳は、肉体的なものではなく、精神的なものに置き換えてしまったのではないかと思います。New English Bible、モファット訳、New American StandardNew International Version…みな「悲嘆と悲しみを負われた」と訳しています。病気を負われたとは書いていません。これは、あきらかにキリスト教が西洋周りでやってきたことの弊害であります。現代のキリスト教会が、肉体の病の癒しを軽く扱うのは、そのためです。いつの間にか、キリスト教の救いを精神的なものにしてしまったのです。その点、日本の新改訳聖書、口語訳、新共同訳は「病を負った」とはっきり訳しています。しかし、きょうのメッセージは聖書を批判するためのものではありません。第一のポイントでキリストは病を負って下さったとはっきり言明したのですから、第三は精神的なものでも良いのではないかと思います。良く考えると私たちの人生において、病気になるのは嫌です。でも、悲嘆や悲しみも深いダメージを与えることは確かです。私たちの人生において悲嘆や悲しみはできるだけ少ない方が良いにきまっているからです。

 では、あえてキングジェームス・ヴァージョンや西洋の聖書を尊重して、イザヤ534からメッセージをさせていただきます。キリストが最初に追われたgriefは、「深い悲しみ」であり、「悲嘆」であります。その次はsorrowですが、「悲しみ」「悲哀」「哀悼」であり、griefとほとんど同じです。そして、両者とも家族や愛する人を亡くした時に用いられることばです。それでは、イエス様が悲嘆と悲しみを実際に負われたのでしょうか?確かに、福音書にあります。最初はイエス様がナインという町に入ろうとした時です。ルカ712-15「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」やもめの一人息子が死んだのですから、これほど悲しいことはありません。その死体は町の外の墓地に運ばれようとしていました。本来なら汚れるのに、イエス様は棺に手をかけて、埋葬の行進をストップさせました。そして、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言って、青年をよみがえらせました。重要なのは、イエス様が「泣かなくても良い」と言ったことばです。イエス様はただ口でお母さんを慰めたのではありません。私がよみがえらせてあげるから、「泣かなくても良い」とおっしゃったのです。この奇跡はあきらかに、イザヤ534の「悲嘆と悲しみ」を負われるという預言の成就ではないでしょうか?福音書を見ると、会堂管理者ヤイロの一人娘のよみがえり、そして、死んで4日もたったラザロのよみがえりの記事があります。そちらの方も、人々が死んだ人に対して、悲しみ嘆いています。でも、いのちであられるイエス様は、喜びと賛美に変えてしまいました。

 私たちにはこれまでの人生において、「私は悲嘆や悲哀をなめさられた」という人は、一人も例外なくおられることでしょう。家族の死別もあるかもしれませんが、親から見捨てられ、虐待され、人々から不当な扱いを受けたことがたくさんあるでしょう。裏切り、喪失、軽蔑…それらも「悲嘆と悲しみ」に入ると思います。ということは、肉体の病気の癒しも必要ですが、このような精神的な苦痛も馬鹿にできないということです。むしろ、後者の方は薬や医者では治すことができません。どこにそれらの痛みを持っていったら良いのでしょうか?やっぱり、キリストの十字架ではないでしょうか?イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあるからです。そのお方は、私たちと同じことを体験されたので、私たちの悲嘆と悲しみをご存じであり、深く同情してくださいます。でも、それだけではありません。イエス・キリストは十字架で、私たちの悲嘆と悲しみを負ってくださったのです。深い心の傷も痛みも負ってくださったのです。ですから、病や罪と同じように、私たちがいつまでも負っているべきではありません。イエス様が十字架で既に負ってくださったのですから、イエス様のもとにお返ししましょう。イザヤ書61章はメシヤの預言ですが、このようなおことばがあります。イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」アーメン。でも、そればかりではありません。イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」アーメン。私たちが失ったものを神さまは倍にして返してくださるのです。

 今週は受難週です。イエス様が私たちの代わりに十字架で死なれました。ただ死なれたのではありません。十字架の前はさんざん嘲笑され、馬鹿にされました。つばきをかけられ、髭を抜かれ、いばらの冠を額に押し付けられました。そして、ローマ兵によって容赦なく鞭が当てられ、瀕死の状態になりました。その後、十字架を負わされ、ゴルゴタまで上りました。イエス様は真っ暗の中から叫びました。「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになられたのですか?」。その時、イエス様は私たちの病、罪、そして悲嘆と悲しみを負ってくださったのです。ですから、あなたはそれらを負う必要がありません。それらを十字架のもとに降ろしましょう。

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