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2019年3月30日 (土)

神からの権利 使徒17:26-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.31

 権利とは、合法的に受けられるものです。基本的人権ということばを聞いたことがあると思います。でも、きょうは法律とか政治の話をするのではなく、「神からの権利」について聖書から学びたいと思います。神さまは人間に住むべき地球を与えました。日光、水、空気、地下資源、命を与えてくれました。さらには、住むべき所、家庭、健康、労働、能力、友、娯楽…数えたらきりがありません。でも、多くの人たちは「これは神から与えられたものではなく、自然に与えられたもの、あるいは自分で努力して得たものだ」と誤解しています。だから、感謝がありません。

1.生命

 使徒1726-28「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」このところには、神さまが人々を造り出し、そして人々を地の全面に住まわせたと書いてあります。パウロはアテネに伝道に行きましたが、これまでの説教とは全く違っています。ユダヤ人はこれらのことを知っていたので、あえて語る必要はありませんでした。しかし、異邦人は神がだれであるか、人間は何なのか語らないとその先が進まなかったからです。アテネの人たちは初めに何があったのか、ものは何からできているのか哲学的な探究心が旺盛でした。しかし、人格的な神さまがこの世界と私たちを造られたということが分かりませんでした。この真理は神からの啓示であり、人間がいくら研究しても分からないことです。「神からの権利」ということを語るとき、私たちの生命は神さまから与えられたということを最初に理解する必要があります。私たちの生命は進化論者が考えるように自然に発生したものでも、猿から進化したものでもありません。神さまがご自身のかたちに似せて、私たちを霊的な存在として造られたのです。私たちは自然の一部ではなく、神の代理者として自然を治めるものとして造られたのです。

 十戒の6番目は「殺してはならない」です。何故、人を殺してはならないのでしょうか?それは神さまがその人に生命を賜ったからです。その生命はその人の権利であって、勝手に奪ってはなりません。もし、人の生命を勝手に奪うなら、社会的な罪の前に、創造者なる神さまに罪を犯していることになるのです。殺人はとても重い罪です。どのくらい重いのでしょう?多くの人たちはこの世の刑事裁判しか分かりません。でも、聖書には何と書いてあるでしょう。ヨハネ黙示録218「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」黙示録2215「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」人を故意に殺すならば、「永遠のさばきをうけ、御国からは締め出される」とはっきり書いてあります。最近の日本では、殺人のニュースが次から次と報道され、「この間も似たことがあった」と麻痺してしまいます。アメリカでも銃の乱射で学生が一度で何十人も死んでいます。私がもと住んでいた座間でも、おぞましい事件がありました。横浜市では看護師が20人もの患者の点滴に消毒剤を混入しました。イスラム教の国では、キリスト教会の礼拝堂を襲って、大勢の人たちが殺害されたことを度々聞きます。私たちはこの地上の法律では完全にさばかれないことを知っています。被害者の家族は悔しい思いでいっぱいでしょう。でも、殺人がいかに重い罪か、聖書にはっきりと記されています。日本人は「殺してはならない」という命令が十戒に記されていることを知るべきです。

 同時に私たちは隣人の生命が神さまから与えられたものとして、尊ぶべきです。親が子どもを虐待したり、学校ではいじめがありますが、とんでもないことです。しかし、私たちは実際にそういうことはしなくても、心の中で殺人を犯していることがあります。「あの人がいなくなれば良い」と思ったことはないでしょうか?イエス様は「兄弟に腹を立てる者はさばきを受けなければなりません」(マタイ522とおっしゃいました。私たちはクリスチャンになっても、人を自分の価値判断、好き嫌いで見てしまいます。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」このみことばは、みんなが好きな有名なみことばでしょう。でも、この前に何と書いてあるでしょう?Ⅱコリント515,16「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」これはどういう意味でしょう?人を人間的な標準(原文では肉)では見てはいけないと言うことです。では、人をどう見たら良いのでしょう?「キリストがその人のためにも死なれたんだ」とキリストの贖いを通して見るということです。つまり、その人のためにもキリストが死んで代価を払ってくださったのです。ということは、神の創造だけではなく、キリストが贖われた尊い存在として見なければなりません。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」とは、自分だけに充てられたみことばではなく、身近にいるその人ためにもあるのです。アーメン。私たちはキリストの贖いを通して、人々を見る必要があります。そうすれば、その人の生命、生きている価値を敬うことができるようになります。イエス様は「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ712と言われました。自分の生命も大事にするけれど、他の生命も大事にするということです。

2.自由意志

 神さまが人間に与えられた最高のものは「自由意志」です。「知性だ」と言う人もいますが、そう思っても結構です。その人の自由ですから。神さまが人間を創られたとき、自由意志を与えられました。いくら完璧な被造物であっても、自由意志がなければ単なるロボットです。しかし、自由意志はとても危険であり、自らの意志で逆らうこともできます。「嫌です」とか「従いたくありません」ということもできるからです。でも、神さまは多大なリスクを犯してまでも、人間に自由意志を与えました。そのことを良いことに、サタンが誘惑して、人間は神に逆らうことを選択しました。本来は自由意志によって神さまに従うべきだったのですが、それを誤用してしまいました。その結果、私たちには自由意志があるとは思いながら、さまざまなことで束縛されています。もし、「あなたは自由ですか」と聞いたら、「あまり自由じゃない」と答えるのではないでしょうか?しかし、私たちがキリストを信じて、神に立ち返るならば、本来、与えられた神からの自由を享受することができるでしょう。私たち人間は、神さまの権威を認めて従うときに、本当の自由が得られるようになっているのです。

 それはともかく、不完全でありながらも人間には自由意志が与えられています。私たちは自分の子どもであっても自由意志を奪ってはいけません。なぜなら、その人の権利だからです。自由な意思を持てない人を奴隷と言います。現代社会において「奴隷」はいないかもしれませんが、精神的に奴隷状態の人はいると思います。私たちは自由でありたいと思いますが、他者もそうだということを認めなければなりません。なぜなら、ひとり一人、自分の考えや好みがあるからです。これは神さまが与えた権利です。マインド・コントロールが悪いというのはだれでも知っています。しかし、manipulate ということばをご存じでしょうか?これは「人を操る、操作する」という意味です。これは、母親が子どもによくやることです。「そんなことをしたらお母さん悲しくなるわ」「そんな悪い子を産んだ覚えはありません」。子どもはお母さんを悲しませたくないので良い子になろうと努力します。しかし、何が善で何が悪なのか、判断基準というものを教えられていません。ただ、お母さんを悲しませたくないので、言うことを聞くのです。大人でもこの方法を用いる人がいます。恋人同士、夫婦関係、あるいは職場の上司が使うかもしれません。人を操るのは、自由意志をもて遊ぶことであり、人権を奪っていることだと考えるべきです。自分の意見や願いを言っても構いません。でも、最後はその人の自由意志、決断に任せるべきです。子どもが小さいときはある程度、矯正しても大丈夫です。しかし、自我が芽生えてからはそうはいきません。親は「良かれ」と思って老婆心ながら言っているのに、反抗されます。でも、神さまもアダムとエバに自由意志を与えました。放蕩息子の父親も弟息子を出て行くままに任せました。人は神から与えられた自由意志が何たるものか、痛みを通して学ぶしかないのかもしれません。親はできるだけ痛みを排除して、苦労しないようにしてあげようとしますが、それでは問題を先送りしているだけです。自分で選択し、自分で決断する。そうすれば、責任も自分で取るようになります。私たちは神さまから与えられた自由意志を他者にも正しく、用いるべきです。

3.純潔

 純潔などと言うことばも、現代は死語になっているかもしれません。教会では「性」を語るとタブーみたいに思われます。でも、正しい性をだれが、どこで教えることができるのでしょうか?それは神のことば、聖書でしかありません。十戒の七番目は「姦淫してはならない」です。他にモーセの律法には性的な掟がたくさん書かれています。出エジプト2216「まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、その人は必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない」とあります。レビ記18章には講壇から言えないことがたくさん書かれていますので、帰ってから、ご自分の家で読んでください。このところには「女性を犯してはならない」と何度も書かれています。これは女性の人権を守る戒めであります。モアブは近親相姦で有名でした。また、カナンは偶像崇拝の地でありましたが、同時に性的に乱れていました。かつて、ソドムトゴモラは同性愛で滅ぼされました。レビ記には「破廉恥な行為」として、書かれています。残念ながら、現代は破廉恥を売り物にする映画やテレビ番組があふれています。若者たちは、ポルノによって思いが汚されており、チャンスがあれば実行してしまいます。私たちは性が神さまから与えられたものとして尊ぶ必要があります。自分もそうですが、相手に対しても尊ぶ必要があります。と言っている、私は未信者の頃、かなり羽目を外していましたので、本来は講壇から語ることのできない者であります。今は、主のあわれみによって罪が赦され、このように聖書から勧めることができるようになりました。でも、いつでも誘惑があるんですから、気を付けなければなりません。パウロは「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Ⅰコリント1012と注意しています。

 私たちは性というものを神さまから与えられた賜物として尊ばなければなりません。聖書では性的関係は夫婦の間だけであると限定されています。箴言にはその種の戒めが多く書かれています。箴言515-18「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。」このところで言われている「泉」とは何であるかは、ご自分でお考えになってください。聖書は夫婦の性的交わりが、二人を結合させるためにとても大事であると書かれています。エリヤハウスでは、「肉体だけではなく、霊が交わるからだ」と言っています。その根拠となるみことばがマラキ書2章に記されています。マラキ215-16「神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。」どちらが裏切るかは統計を取ったことがありませんが、マラキ書は男性に対して注意しています。「あなたがたの霊に注意せよ」と言われているのは、肉体だけの問題ではないということを示唆しています。日本では3組のうち1組が離婚しています。傷つくのは子どもたちだけではありません。当人たちも傷つき、霊が壊れていることを忘れてはいけません。エリヤハウスでは、「結婚とは二枚の板をボンドでくっつけることであるであり、離婚とはその二枚の板を無理やり剥がすようなものである」と言いました。おそらく、相手の霊の一部がこっちにくっついており、自分の霊の一部が相手に言っている状態です。ですから、祈りによって、聖霊の刃によって自分にくっつているものを切り落とし、それを相手にやります。また、相手側にある自分の霊の一部を、こっちに取り戻すと言うことが必要になります。そうでないと、いつまでも、相手のことが忘れられず、解放されないからです。離婚した場合は、このような解放のミニストリーを受けることをお勧めいたします。

 性は神さまが私たちに与えて下さった賜物です。この世では、愚かにも、自らの手でだいなしにしている人がたくさんいます。また、私たちは相手の性に対しても重んじ、慈しむ心が必要です。新約聖書では、教会をキリストの花嫁としてたとえています。また、エペソ人への手紙には、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ525と命じられています。また、ペテロの手紙には「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」(Ⅰペテロ37と書いてあります。これは、妻との関係が悪いならば、霊的にもおかしくなるということを示唆しています。アーメン。

4.持ち物

 私たちは自分の持ち物は神さまから与えられたものとして尊ぶ必要があります。また、同時に他者の持ち物に対しても同じ心が必要です。十戒の8番目は「盗んではならない」であり、10番目は「隣人のものを欲しがってはならない。」です。神さまは私たちに、いろんな物を与えておられます。多くの人たちは「自分がかせいだ」「自分が手に入れた」と誇っていますが、そうではありません。神さまが与えてくださったのです。ヨブはいっぺんに、10人の子どもと全財産を失いました。その時、ヨブは「私は裸で母の胎を出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ121と告白しました。子どもは持ち物ではありませんが、子どもでさえも、神さまがお与えになったのです。事故や病気や事件で大事な子どもを失ってしまった親たちがいます。子どもの遺品や子ども部屋を片付けることができず、時計が止まっている状態です。もちろん、いろんな理由があるかもしれませんが、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」という信仰に立って、神さまにゆだねるべきであります。そうしないと、神さまから与えられた自分の人生を全うし、責任を果たすことができません。私たちには全能であり、また、善であられる神さまがおられるということはすばらしい特権であります。主は私たちを愛しておられるので、悪いようにはしない。これは、本当だと思います。英語でdeserveは、「…受ける価値がある」「受けるに足りる」「…に値する」という意味です。このことばは良い意味でも悪い意味でも使われます。「受けるに値する者と見てくださり、感謝します。大事に使わせていただきます」と思うべきです。でも、「当たり前」という気持ちになったらどうでしょう。Deserveには「当たり前」という悪い意味もあります。私たちは今持っているものを「当たり前」と思ってはいけません。イスラエルの人たちは神さまがなされたみわざを忘れたので堕落しました(詩篇10613)。私たちはこの肉体の1つ1つの器官を感謝すべきです。土地や財産があれば、感謝すべきです。お金や時間、いろんな持ち物も感謝すべきです。

 今、私のデスクの中には、数えきれないほどのペンがあります。いろんな文房具がつまっており、引き出しにひっかかるほどです。私の友人の若木先生の子ども時代の証を聞いたことがあります。私もかなり貧乏でしたが、若木先生ほどではありません。若木先生は子どもの頃、はしけで生活していたそうです。「はしけ」は沖合いの大きな船と河岸とをつなぐ荷役の主役であり、河川交通の主役でもありした。そういう平べったい船で生活するとは、どういう状態でしょうか?家がいつも揺れています。自分の人生に安定感がないのはそのためだとおっしゃっていました。若木先生のお姉さんが小学校5年生のとき、お母さんに「新しいノートを買って」と頼んだそうです。すると、お母さんは「消しゴムで消してから、もう一度使いなさい」と言ったそうです。そばで聞いていた、子どもの若木先生は「家にはノート一冊も買うお金がないのか」と思ったそうです。やがて先生はクリスチャンになりましたが、神さまに大きなものを願ったことがないと気付いたそうです。「びっくり驚くようなプレゼント」をいただいた経験がないので、神さまにも求めることがなかったということです。昨年の6月カルバリーの大川牧師のメッセージを聞きました。家が本当に貧しくて、修学旅行にも行けなかったそうです。「どうして家は貧乏なんだ」とお母さんを蹴飛ばしたそうです。大川先生はやがて伝道者になるために献身しました。メッセージでは「そのとき私は貧しさも神さまに捧げました」とおっしゃっていました。どういうことかと言うと、先生は、貧乏の霊から解放されたということです。昔は、「こんなぜいたく品、私には相応しくない」と思って、買わなかったのではないかと思います。たとえ、いただいても、「私にはもったいない」と思ったのかもしれません。貧乏の霊というのがあるようです。私たちは貧乏の霊からも解放される必要があります。

 Ⅱコリント89「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」私が知っている牧師の奥さんは、聖め派の教会なので、とてもよく捧げるそうです。子どもたち4人くらいいるのですが、新しい洋服は買ったことがないと言っていました。「教会のバザーでたくさんの洋服が手にはいるからだ」とおっしゃっていました。でも、子どもたちはぐれるわけでもなくて、現在では何人も献身しています。でも、どこか間違っていると思います。富むことは悪いことではありません。悪いのは正しく管理しないことです。もし、神さまから与えられたものを正しく管理するならば、富さえも有効に用いることができるでしょう。神さまが与えてくださったものを感謝して受け取りましょう。

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