« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »

2019年3月30日 (土)

神からの権利 使徒17:26-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.31

 権利とは、合法的に受けられるものです。基本的人権ということばを聞いたことがあると思います。でも、きょうは法律とか政治の話をするのではなく、「神からの権利」について聖書から学びたいと思います。神さまは人間に住むべき地球を与えました。日光、水、空気、地下資源、命を与えてくれました。さらには、住むべき所、家庭、健康、労働、能力、友、娯楽…数えたらきりがありません。でも、多くの人たちは「これは神から与えられたものではなく、自然に与えられたもの、あるいは自分で努力して得たものだ」と誤解しています。だから、感謝がありません。

1.生命

 使徒1726-28「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」このところには、神さまが人々を造り出し、そして人々を地の全面に住まわせたと書いてあります。パウロはアテネに伝道に行きましたが、これまでの説教とは全く違っています。ユダヤ人はこれらのことを知っていたので、あえて語る必要はありませんでした。しかし、異邦人は神がだれであるか、人間は何なのか語らないとその先が進まなかったからです。アテネの人たちは初めに何があったのか、ものは何からできているのか哲学的な探究心が旺盛でした。しかし、人格的な神さまがこの世界と私たちを造られたということが分かりませんでした。この真理は神からの啓示であり、人間がいくら研究しても分からないことです。「神からの権利」ということを語るとき、私たちの生命は神さまから与えられたということを最初に理解する必要があります。私たちの生命は進化論者が考えるように自然に発生したものでも、猿から進化したものでもありません。神さまがご自身のかたちに似せて、私たちを霊的な存在として造られたのです。私たちは自然の一部ではなく、神の代理者として自然を治めるものとして造られたのです。

 十戒の6番目は「殺してはならない」です。何故、人を殺してはならないのでしょうか?それは神さまがその人に生命を賜ったからです。その生命はその人の権利であって、勝手に奪ってはなりません。もし、人の生命を勝手に奪うなら、社会的な罪の前に、創造者なる神さまに罪を犯していることになるのです。殺人はとても重い罪です。どのくらい重いのでしょう?多くの人たちはこの世の刑事裁判しか分かりません。でも、聖書には何と書いてあるでしょう。ヨハネ黙示録218「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」黙示録2215「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」人を故意に殺すならば、「永遠のさばきをうけ、御国からは締め出される」とはっきり書いてあります。最近の日本では、殺人のニュースが次から次と報道され、「この間も似たことがあった」と麻痺してしまいます。アメリカでも銃の乱射で学生が一度で何十人も死んでいます。私がもと住んでいた座間でも、おぞましい事件がありました。横浜市では看護師が20人もの患者の点滴に消毒剤を混入しました。イスラム教の国では、キリスト教会の礼拝堂を襲って、大勢の人たちが殺害されたことを度々聞きます。私たちはこの地上の法律では完全にさばかれないことを知っています。被害者の家族は悔しい思いでいっぱいでしょう。でも、殺人がいかに重い罪か、聖書にはっきりと記されています。日本人は「殺してはならない」という命令が十戒に記されていることを知るべきです。

 同時に私たちは隣人の生命が神さまから与えられたものとして、尊ぶべきです。親が子どもを虐待したり、学校ではいじめがありますが、とんでもないことです。しかし、私たちは実際にそういうことはしなくても、心の中で殺人を犯していることがあります。「あの人がいなくなれば良い」と思ったことはないでしょうか?イエス様は「兄弟に腹を立てる者はさばきを受けなければなりません」(マタイ522とおっしゃいました。私たちはクリスチャンになっても、人を自分の価値判断、好き嫌いで見てしまいます。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」このみことばは、みんなが好きな有名なみことばでしょう。でも、この前に何と書いてあるでしょう?Ⅱコリント515,16「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」これはどういう意味でしょう?人を人間的な標準(原文では肉)では見てはいけないと言うことです。では、人をどう見たら良いのでしょう?「キリストがその人のためにも死なれたんだ」とキリストの贖いを通して見るということです。つまり、その人のためにもキリストが死んで代価を払ってくださったのです。ということは、神の創造だけではなく、キリストが贖われた尊い存在として見なければなりません。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」とは、自分だけに充てられたみことばではなく、身近にいるその人ためにもあるのです。アーメン。私たちはキリストの贖いを通して、人々を見る必要があります。そうすれば、その人の生命、生きている価値を敬うことができるようになります。イエス様は「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ712と言われました。自分の生命も大事にするけれど、他の生命も大事にするということです。

2.自由意志

 神さまが人間に与えられた最高のものは「自由意志」です。「知性だ」と言う人もいますが、そう思っても結構です。その人の自由ですから。神さまが人間を創られたとき、自由意志を与えられました。いくら完璧な被造物であっても、自由意志がなければ単なるロボットです。しかし、自由意志はとても危険であり、自らの意志で逆らうこともできます。「嫌です」とか「従いたくありません」ということもできるからです。でも、神さまは多大なリスクを犯してまでも、人間に自由意志を与えました。そのことを良いことに、サタンが誘惑して、人間は神に逆らうことを選択しました。本来は自由意志によって神さまに従うべきだったのですが、それを誤用してしまいました。その結果、私たちには自由意志があるとは思いながら、さまざまなことで束縛されています。もし、「あなたは自由ですか」と聞いたら、「あまり自由じゃない」と答えるのではないでしょうか?しかし、私たちがキリストを信じて、神に立ち返るならば、本来、与えられた神からの自由を享受することができるでしょう。私たち人間は、神さまの権威を認めて従うときに、本当の自由が得られるようになっているのです。

 それはともかく、不完全でありながらも人間には自由意志が与えられています。私たちは自分の子どもであっても自由意志を奪ってはいけません。なぜなら、その人の権利だからです。自由な意思を持てない人を奴隷と言います。現代社会において「奴隷」はいないかもしれませんが、精神的に奴隷状態の人はいると思います。私たちは自由でありたいと思いますが、他者もそうだということを認めなければなりません。なぜなら、ひとり一人、自分の考えや好みがあるからです。これは神さまが与えた権利です。マインド・コントロールが悪いというのはだれでも知っています。しかし、manipulate ということばをご存じでしょうか?これは「人を操る、操作する」という意味です。これは、母親が子どもによくやることです。「そんなことをしたらお母さん悲しくなるわ」「そんな悪い子を産んだ覚えはありません」。子どもはお母さんを悲しませたくないので良い子になろうと努力します。しかし、何が善で何が悪なのか、判断基準というものを教えられていません。ただ、お母さんを悲しませたくないので、言うことを聞くのです。大人でもこの方法を用いる人がいます。恋人同士、夫婦関係、あるいは職場の上司が使うかもしれません。人を操るのは、自由意志をもて遊ぶことであり、人権を奪っていることだと考えるべきです。自分の意見や願いを言っても構いません。でも、最後はその人の自由意志、決断に任せるべきです。子どもが小さいときはある程度、矯正しても大丈夫です。しかし、自我が芽生えてからはそうはいきません。親は「良かれ」と思って老婆心ながら言っているのに、反抗されます。でも、神さまもアダムとエバに自由意志を与えました。放蕩息子の父親も弟息子を出て行くままに任せました。人は神から与えられた自由意志が何たるものか、痛みを通して学ぶしかないのかもしれません。親はできるだけ痛みを排除して、苦労しないようにしてあげようとしますが、それでは問題を先送りしているだけです。自分で選択し、自分で決断する。そうすれば、責任も自分で取るようになります。私たちは神さまから与えられた自由意志を他者にも正しく、用いるべきです。

3.純潔

 純潔などと言うことばも、現代は死語になっているかもしれません。教会では「性」を語るとタブーみたいに思われます。でも、正しい性をだれが、どこで教えることができるのでしょうか?それは神のことば、聖書でしかありません。十戒の七番目は「姦淫してはならない」です。他にモーセの律法には性的な掟がたくさん書かれています。出エジプト2216「まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、その人は必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない」とあります。レビ記18章には講壇から言えないことがたくさん書かれていますので、帰ってから、ご自分の家で読んでください。このところには「女性を犯してはならない」と何度も書かれています。これは女性の人権を守る戒めであります。モアブは近親相姦で有名でした。また、カナンは偶像崇拝の地でありましたが、同時に性的に乱れていました。かつて、ソドムトゴモラは同性愛で滅ぼされました。レビ記には「破廉恥な行為」として、書かれています。残念ながら、現代は破廉恥を売り物にする映画やテレビ番組があふれています。若者たちは、ポルノによって思いが汚されており、チャンスがあれば実行してしまいます。私たちは性が神さまから与えられたものとして尊ぶ必要があります。自分もそうですが、相手に対しても尊ぶ必要があります。と言っている、私は未信者の頃、かなり羽目を外していましたので、本来は講壇から語ることのできない者であります。今は、主のあわれみによって罪が赦され、このように聖書から勧めることができるようになりました。でも、いつでも誘惑があるんですから、気を付けなければなりません。パウロは「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Ⅰコリント1012と注意しています。

 私たちは性というものを神さまから与えられた賜物として尊ばなければなりません。聖書では性的関係は夫婦の間だけであると限定されています。箴言にはその種の戒めが多く書かれています。箴言515-18「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。」このところで言われている「泉」とは何であるかは、ご自分でお考えになってください。聖書は夫婦の性的交わりが、二人を結合させるためにとても大事であると書かれています。エリヤハウスでは、「肉体だけではなく、霊が交わるからだ」と言っています。その根拠となるみことばがマラキ書2章に記されています。マラキ215-16「神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。」どちらが裏切るかは統計を取ったことがありませんが、マラキ書は男性に対して注意しています。「あなたがたの霊に注意せよ」と言われているのは、肉体だけの問題ではないということを示唆しています。日本では3組のうち1組が離婚しています。傷つくのは子どもたちだけではありません。当人たちも傷つき、霊が壊れていることを忘れてはいけません。エリヤハウスでは、「結婚とは二枚の板をボンドでくっつけることであるであり、離婚とはその二枚の板を無理やり剥がすようなものである」と言いました。おそらく、相手の霊の一部がこっちにくっついており、自分の霊の一部が相手に言っている状態です。ですから、祈りによって、聖霊の刃によって自分にくっつているものを切り落とし、それを相手にやります。また、相手側にある自分の霊の一部を、こっちに取り戻すと言うことが必要になります。そうでないと、いつまでも、相手のことが忘れられず、解放されないからです。離婚した場合は、このような解放のミニストリーを受けることをお勧めいたします。

 性は神さまが私たちに与えて下さった賜物です。この世では、愚かにも、自らの手でだいなしにしている人がたくさんいます。また、私たちは相手の性に対しても重んじ、慈しむ心が必要です。新約聖書では、教会をキリストの花嫁としてたとえています。また、エペソ人への手紙には、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ525と命じられています。また、ペテロの手紙には「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」(Ⅰペテロ37と書いてあります。これは、妻との関係が悪いならば、霊的にもおかしくなるということを示唆しています。アーメン。

4.持ち物

 私たちは自分の持ち物は神さまから与えられたものとして尊ぶ必要があります。また、同時に他者の持ち物に対しても同じ心が必要です。十戒の8番目は「盗んではならない」であり、10番目は「隣人のものを欲しがってはならない。」です。神さまは私たちに、いろんな物を与えておられます。多くの人たちは「自分がかせいだ」「自分が手に入れた」と誇っていますが、そうではありません。神さまが与えてくださったのです。ヨブはいっぺんに、10人の子どもと全財産を失いました。その時、ヨブは「私は裸で母の胎を出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ121と告白しました。子どもは持ち物ではありませんが、子どもでさえも、神さまがお与えになったのです。事故や病気や事件で大事な子どもを失ってしまった親たちがいます。子どもの遺品や子ども部屋を片付けることができず、時計が止まっている状態です。もちろん、いろんな理由があるかもしれませんが、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」という信仰に立って、神さまにゆだねるべきであります。そうしないと、神さまから与えられた自分の人生を全うし、責任を果たすことができません。私たちには全能であり、また、善であられる神さまがおられるということはすばらしい特権であります。主は私たちを愛しておられるので、悪いようにはしない。これは、本当だと思います。英語でdeserveは、「…受ける価値がある」「受けるに足りる」「…に値する」という意味です。このことばは良い意味でも悪い意味でも使われます。「受けるに値する者と見てくださり、感謝します。大事に使わせていただきます」と思うべきです。でも、「当たり前」という気持ちになったらどうでしょう。Deserveには「当たり前」という悪い意味もあります。私たちは今持っているものを「当たり前」と思ってはいけません。イスラエルの人たちは神さまがなされたみわざを忘れたので堕落しました(詩篇10613)。私たちはこの肉体の1つ1つの器官を感謝すべきです。土地や財産があれば、感謝すべきです。お金や時間、いろんな持ち物も感謝すべきです。

 今、私のデスクの中には、数えきれないほどのペンがあります。いろんな文房具がつまっており、引き出しにひっかかるほどです。私の友人の若木先生の子ども時代の証を聞いたことがあります。私もかなり貧乏でしたが、若木先生ほどではありません。若木先生は子どもの頃、はしけで生活していたそうです。「はしけ」は沖合いの大きな船と河岸とをつなぐ荷役の主役であり、河川交通の主役でもありした。そういう平べったい船で生活するとは、どういう状態でしょうか?家がいつも揺れています。自分の人生に安定感がないのはそのためだとおっしゃっていました。若木先生のお姉さんが小学校5年生のとき、お母さんに「新しいノートを買って」と頼んだそうです。すると、お母さんは「消しゴムで消してから、もう一度使いなさい」と言ったそうです。そばで聞いていた、子どもの若木先生は「家にはノート一冊も買うお金がないのか」と思ったそうです。やがて先生はクリスチャンになりましたが、神さまに大きなものを願ったことがないと気付いたそうです。「びっくり驚くようなプレゼント」をいただいた経験がないので、神さまにも求めることがなかったということです。昨年の6月カルバリーの大川牧師のメッセージを聞きました。家が本当に貧しくて、修学旅行にも行けなかったそうです。「どうして家は貧乏なんだ」とお母さんを蹴飛ばしたそうです。大川先生はやがて伝道者になるために献身しました。メッセージでは「そのとき私は貧しさも神さまに捧げました」とおっしゃっていました。どういうことかと言うと、先生は、貧乏の霊から解放されたということです。昔は、「こんなぜいたく品、私には相応しくない」と思って、買わなかったのではないかと思います。たとえ、いただいても、「私にはもったいない」と思ったのかもしれません。貧乏の霊というのがあるようです。私たちは貧乏の霊からも解放される必要があります。

 Ⅱコリント89「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」私が知っている牧師の奥さんは、聖め派の教会なので、とてもよく捧げるそうです。子どもたち4人くらいいるのですが、新しい洋服は買ったことがないと言っていました。「教会のバザーでたくさんの洋服が手にはいるからだ」とおっしゃっていました。でも、子どもたちはぐれるわけでもなくて、現在では何人も献身しています。でも、どこか間違っていると思います。富むことは悪いことではありません。悪いのは正しく管理しないことです。もし、神さまから与えられたものを正しく管理するならば、富さえも有効に用いることができるでしょう。神さまが与えてくださったものを感謝して受け取りましょう。

|

2019年3月23日 (土)

~ハバククの預言~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ハバクク書2章1-4節

2:1

私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。

2:2

主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。

2:3

この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。

もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。

2:4

見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

**************************************************************************************

週報に記載されている通り、3/19(火)に鈴木先生が左頭部硬膜下血腫の緊急手術をなさったので、先週は驚きと心配の数日間を過ごしました。しかしみなさんのお祈りが聞かれ、昨日無事退院というマッハな回復が与えられました!ハレルヤ!

木曜日にお見舞いに伺った時は、ICUから出たばかりでしたが、もうすでにすごく元気でした。

ドクターから、「ベット上で安静にして、お手洗いも付き添いをつけてください。」と言われたそうですが、先生はウロウロ歩き回って談話室でテレビを観ていたそうです。

看護師さんに見つかって叱られたそうですが、実に先生らしいエピソードですね(笑)。

来週は元気にこの講壇からメッセージを語ってくださると思います。主に感謝します。

そういうわけで、本日は私が礼拝メッセージを担当させていただきます。

さて、昨年から12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」「ナホム書」と続きました。今日は8番目の預言書、「ハバクク書」の一書説教です。

ハバククという預言者は、前回のナホムよりも後の時代の預言者で、ちょうど、預言者エレミヤと同じ時代に活動した人です。エレミヤと言えば、ヨシア王(B.C.640年-609年)の時代に神様から召し出され、南ユダ王国がバビロンに捕囚されて滅びるまで、ひたすら南ユダの民たちに神の言葉を伝え、悔い改めを説いた預言者です。

ハバククはそのエレミヤの預言者活動の地盤がある中で、預言活動をした人です。

ハバククは3章から成り立っています。

1章~2章前半は、ハバククが神への問いかけをして、神がそれに応えているという様子が記されています。

2章後半は、悪者に対するさばきの宣告がされ、3章は「ハバククの祈り」と呼ばれる詩篇となります。

ハバククは、詩が優れているので、もしかしたら神殿に仕える聖歌隊に関係する人だったかもしれません。

ハバクク書には、有名な聖句やパウロが引用している箇所もありますので、順番に見て行きましょう。

◆ハバクク書から救いと希望をいただきましょう。

①神は敢えてどん底を見させる御方。(1章5節)

ハバククの時代は古代となります。敵となった近隣諸国(エジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャなど)の古代の歴史文献や遺跡にも、聖書の史実を裏付けるものが多く残っていますが、歴史研究家から見れば、私たちが読んでいる、この旧約聖書も貴重な歴史文献です。特にダビデ王の時代あたりからは、遺跡などもかなり見つかっています。

このように旧約聖書の一部は、歴史的裏付けがあると認められています。それは嬉しいことですが、私たちが聖書を読む時に気をつけなければならないのは、歴史文献ではなく、今も生きておられる神からの啓示の書、いのちあふれる御言葉として読むことです。そうすると、聖書の意味合いも重みも違ってきます。

さて、神は私たちにハバククを通して何を語られているのでしょうか。

預言者ナホムの時代は、北イスラエル王国は滅び、アッシリア王国が絶大な力を誇っていました。

その後、アッシリアの首都ニネべは、新バビロニア王国によって陥落し、アッシリアは滅ぼされました。

預言者ハバククの時代には、アッシリアに変わり、新バビロニア王国が南ユダ王国を脅かす国となりました。

ハバクク書を見ていくにあたり、年代とイスラエル周辺の敵国の情勢を考えると解りやすいので説明します。

<イスラエル統一王国 → イスラエル分裂王国(北イスラエル王国・南ユダ王国)>

  • 北イスラエル王国   VS  敵国:アッシリア帝国

B.C.722年敵国:アッシリア帝国に滅ぼされる。

  

【預言者ナホム・エレミヤ】の時代の周辺諸国の動き 

B.C.609年 ヨシア王、敵国:エジプト王国との戦いで戦死(メギドの戦い) 

敵国:エジプト王国とアッシリア帝国の連合軍・・・B.C.605年敵国:新バビロニア王国に滅ぼされる。

   (カルケミシュの戦い)

  • 南ユダ王国  VS  敵国:新バビロニア王国

B.C.586年敵国:新バビロニア王国に滅ぼされる。バビロン捕囚。エルサレム神殿破壊。

【預言者エレミヤ・ハバクク】の時代の周辺諸国の動き 

敵国:新バビロニア王国・・・B.C.539年敵国:ペルシア帝国に滅ぼされる。(オピスの戦い)

  • B.C.539年ペルシャのクロス王によって捕囚の民は解放され、エルサレム帰還が許される。

※捕囚期間70年とは、B.C.586年のエルサレム神殿破壊からではなく、B.C.609年にヨシア王が戦死した時からの期間を指します。(B.C.609年~B.C.539年の70年間)

 

**********************************************

この捕囚期間70年を見ても解るように、ヨシア王はキーマンとも言えます。

ヨシア王は、南ユダ王国最後の良心とも言える王様で、主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれませんでした。

ヨシア王は主の目に悪を行なった先王のマナセ王やアモン王の影響で霊的に衰退しきった南ユダを立て直しました。律法の書(申命記だと考えられている)を発見し、宗教改革を行ない、偶像を取り払ったので、国も繁栄し、霊的にも回復を得ました。

しかし、ヨシア王がエジプトとの戦いで戦死したあとに立てられた4人の王は、いずれも「主の目に悪であることを行なった」王たちでした。ついに、4人目のゼデキヤ王の時代に、南ユダ王国は滅びてしまいました。

このようにヨシア王の戦死からすでに神の目から見ての捕囚は始まっていたのです。

預言者ハバククは、預言者エレミヤがヨシア王の時代から続けてきた預言者活動の地盤がある中で、活動を行いました。ヨシア王が戦死して、律法は力を失い、偶像崇拝が再び始まり、霊的にも国としても衰退していく南ユダのあり様を見て、ハバククは神に問いかけをします。

<ハバクク1:1-4>

**********************************************

1:1

預言者ハバククが預言した宣告。

1:2

主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

1:3

なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。

1:4

それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われています。

**********************************************

「あなたはいつまで聞いてくださらないのですか」「なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。」というハバククの切実な問いかけに対して神はこのように応えられました。

<ハバクク1:5-6>

**********************************************

1:5

異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。

1:6

見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。

**********************************************

この1章5節は、パウロが使徒の働き13章40-41節でアンテオケのユダヤ人会堂で語った時に引用しました。

そして、1章6節ですが、この「カルデヤ人」というのは、新バビロニア王国のことです。新バビロニア王国は、カルデヤ王国とも呼ばれています。

神は狂暴で激しいカルデヤ人にイスラエルの民たちを支配されるようにすると言われました。

先ほども説明しましたが、カルデヤ(バビロニア王国)は、エジプトとアッシリアの連合軍を「カルケミシュの戦い」で滅ぼし、絶大な力を誇っていました。

バビロニア王国の王、ネブカデネザル王は、ダニエル書にも出てきますし、黙示録では「大バビロン」という言葉も出てきて、良い意味では使われていません。

南ユダの民たちにとっては、エルサレム神殿が破壊され、バビロンに捕囚されるということは、まさにどん底を見せられる屈辱です。しかしそれはイスラエルの民を矯正し、神に立ち帰らせるという神の目的の故でした。

民たちは70年後にエルサレムに帰還することができました。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

<エレミヤ29:10-14>

**********************************************

29:10

まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。

29:11

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

**********************************************

賛美伝道者のメグ&ピアノコウジさんの曲に、このエレミヤの御言葉から作られた、「あなたの祝福」という賛美があります。

「主はひとりひとりに計画をもっている♪わざわいではなく~♪平安を与えてくれる恵みの約束~♪」

・・・っと、元気よく歌うんですが・・・

でも、本当に、とてつもないどん底にいる時に、このエレミヤの御言葉を思い出せるでしょうか。

70年は、かなり長い苦難です。捕囚の地で生まれ、エルサレムに帰れないままそこで死んだ人たちもたくさんいたことでしょう。

ペルシャのクロス王からエルサレム帰還を許されたときは、捕囚の地での生活に慣れてしまって、帰還しなかった人も多くいたようです。

しかし、気の遠くなるような長い長い苦難の後に、神は必ず希望を与えてくださいます。

このU字型とも言える型は、神が見せてくださる希望の型です。それを信じるのです。

聖書には、このU字型の希望がたくさん描かれています。ヤコブやヨセフの人生も、ヨブの人生もU字型です。究極には、イエス様の十字架の苦難と復活の勝利もU字型です。

これは私たちの人生にも当てはまります。

たとえ私たちの人生がどん底に落ちたとしても、逆転勝利を信じるならば、けっしてどん底で終わることはありません。なぜなら聖書にそう記されているからです。

◆ハバクク書から救いと希望をいただきましょう。

②正しい人はその信仰によって生きる。(2章4節)

ハバククは、神が語られたカルデヤ人からの捕囚については納得しましたが、さらなる疑問を抱きました。

イスラエルの民を矯正し、神に立ち帰らせるという神の目的のためとはいえ、あの狂暴な偶像礼拝者カルデヤ人を侵入させ、繁栄を許すとは、神のきよさと矛盾するのではないかということです。

そこで、神にふたつめの問いかけをしました。

1章12節-2章1節がハバククの問いかけですが、1章13節をみてみましょう。

**********************************************

1:13

あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。

なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。

**********************************************

神の応えはこうでした。本日の聖書箇所です。

**********************************************

2:2

主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。

2:3

この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。

もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。

2:4

見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

**********************************************

2章4節は、パウロが、ローマ書1章17節、ガラテヤ書3章11節、ヘブル書10章38節で引用しています。

いずれも、信仰によって義と認められるということを語る時に引用しています。

ただハバクク書では、信仰義認の意味合いよりも、2章3節の「定めの時」や「終わりの日」、つまり、イエス様の再臨の時について語っているのではないか思われます。

2章4節の「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。」の「心」はヘブライ語でנֶפֶשׁ(ネフェシュ)と言います。この言葉は旧約聖書中に多く出てきますが、人間の欲望などを表しています。

同じネフェシュは、2章5 節にも、「のど」と訳されて使われています。

**********************************************

2:5

実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める。

**********************************************

カルデヤ人は高ぶり、よみのように「のど」を広げと書かれているように、主は2章の後半では、カルデヤ人の繁栄は長くは続かせず、さばきに遭って滅びの道を歩むことを語られています。

実際バビロニア王国は、B.C.539年にオピスの戦いでペルシャ帝国に滅ぼされました。

ここで大切なのは、その人間の欲望、ネフェシュからどうやって解放されるかです。

人の心は欲望で満ちているので、そういった意味では正しい人などひとりもいないと言っても過言ではないでしょう。それでもイエス様の再臨を信じて待ち望む者、神の王国の到来に希望をもつ者は、主の救いと恵みと回復の中で生きることができるのです。「正しい人はその信仰によって生きる」という御言葉の通りです。

ハバククは、このように、主の壮大なご計画と、将来の希望について理解し、納得しました。

それゆえ、3章では、主を高らかに賛美しています。

◆ハバクク書から救いと希望をいただきましょう。

③俯瞰(ふかん)的に見ると見えてくる景色。(3章17-19節)

 

3章は「ハバククの詩篇」です。前半は嘆き、後半は神を讃え、感謝の賛美になっています。

3章の前半は、神がご自分の民を救うために出て来られる様子が歌われています。

「この年のうちに来てください。」とハバククは言います。神は反逆する諸国を踏みつけます。

その際に反逆者たちは、神の民たちをほしいままにし、絶滅させようと荒れ狂います。

<ハバクク3:17>

**********************************************

3:17

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

**********************************************

17節は、イスラエルの民が、とんでもない苦難に遭うことを表しています。

「無花果」・・・ムカカ・・・これで「いちじく」と読ませるのは無理があるといつも思います。

「花の無い果実」と書くように、一見いちじくには花がないように見えますが、花は実の中にあるそうです。

ハバククが「花が咲かない」と歌ったのは、実がならないという意味です。

ぶどうの木も実をみのらせず、イスラエルの象徴であるオリーブの木にも実りがない。作物は実らず、動物もいなくなる。という未曾有の恐ろしい事態がやってきます。ハバククは耐え忍びます。

そこで、ハバククの信仰が顕わにされます。18,19節は、ハバククの信仰告白です。

<ハバクク3:18-19>

**********************************************

3:18

しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

3:19

私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

指揮者のために。弦楽器に合わせて。

**********************************************

ハバククは18節で、「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」と歌っています。

こんな状況でも喜ぼうと歌っています。それはハバククが主にあって勝利を得ることを信じているからです。

U字型の希望は、奇蹟です。奇蹟は奇蹟が起こると信じる人にしか起こりません。

そして注目していただきたいのは、ハバククの視点が、目の前の未曾有の困難にあるのではなく、俯瞰(ふかん)的であるということです。俯瞰(ふかん)的・・・とは、難しい表現かもしれませんが、物事を高い所から見下ろす、あるいは広い視野で物事を見ることを指します。

私たちは人生の歩みの中で、目の前の課題をクリアする事ばかりに囚われ、大切なことを見落としてしまうことがあります。ハバクク書の最後に書かれている、「私に高い所を歩ませる。」(3:19)とは、私たちが主に信頼し、主にあって喜び歩む時に、まるで展望台から見る景色のように人生全体を見渡すことができるということです。そこで新たな気づきが与えられます。

私たちが日常生活の中で、知らず知らず植え付けられているマインドをリセットしましょう。

他人から見て、私は何者だと思われて見られているのだろうかと気を揉むのではなく、神様が造ってくださった私とは、いったい何者なのか・・・私は何をすべきなのか・・・ということを考えましょう。

また、ハバククのように、困難を喜びに変える信仰は、私たちの日常に起こる様々な大変な出来事の受け止め方を変えてくれます。何かうまくいかない問題が起こってしまった時、マイナスに考えてしまうのではなく、この問題を通して私は造り変えられ、成長するんだという恵みに変えることができます。

私たちが自らの人生を俯瞰(ふかん)的に見ることにより、神が用意してくださった素晴らしい御計画がいっそう鮮明に見えて来るのです。逆に言えば、俯瞰(ふかん)的に見ることができなければ、神の素晴らしい御計画を見落としてしまうことになります。・・・それはもったいないです・・・

困難を喜びに変えられるように、神の素晴らしい御計画を知ることが出来るように、祈り求めましょう。

「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」

主が与えてくださる恵みと癒しと回復を信じて、ハバククのように主から力を得て、雌鹿のように飛び跳ね、主を高らかに賛美し、喜んで神がご計画された道を歩んでいきましょう。

|

2019年3月15日 (金)

神からの権威 ヘブル12:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.17

 権威ということばは、最近は死語になっているかもしれません。戦後、あらゆる権威が否定され、権威というものは悪いものなんだと思われています。また、教会でも権威を強調すると、「カルトだ」と言われます。聖書的な権威というものがあります。神さまがお与えになった権威というものがあり、その権威に従うときに守りと祝福が与えられるということです。私たちは聖書から正しい権威というものを知る必要があります。

1.世の中の権威

 ローマ131,2「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」パウロがいたころは、ローマが世界を治めていました。ある人は、パウロは「キリストの福音はカイザルに背くものではない」ということを弁明するためにこのようなことを書いたと言っています。おそらく、このころは、キリスト教会に対する迫害が始まっていなかったのかもしれません。しかし、ネロが皇帝になると、迫害が増してきました。ヨハネは黙示録で、その当時のローマのような狂暴化した国家「獣」が、世の終わりにも出現することを預言しています。キリスト教倫理という学問がありますが、「教会と国家の関係」について教えています。教会は国家の権威、つまり、国が定めた法律には従うべきです。なぜなら、それは神が与えたと信じるからです。でも、国が悪魔化して、教会の信仰を妨げるようになるなら断固として抵抗するでしょう。よく「政教分離」ということが言われますが、これは正しい考え方とは言えません。ナチスドイツが国を支配したとき、教会は彼らと協定を結びました。「教会は国家から信仰の自由を与えられる代わりに、国家の政治に対しては一切口出しをしない」という協定です。しかし、ナチスドイツはそれを良いことに、安楽死やユダヤ人の迫害を始めました。それに対し、一部の教会、「告白教会」が抵抗し、迫害を受けました。他の大多数の教会は表立って抵抗をしませんでした。戦後、ドイツの教会はそれを深く反省し、殉教死したボンフェッファー牧師から学びました。つまり、国家と教会に、お一人の主だけが存在するということです。

今の日本は信仰を持つことが自由です。しかし、イスラム教の国では、キリスト教がものすごく迫害を受けています。軍隊や警察が存在していますが、見て見ぬふりをしています。ですから、ローマ13章のみことばは、「条件付き」で守るということです。つまり、国家が私たちの信仰を脅かさない限りは、国家の権力に従うということです。パウロはⅠテモテ2章でこのように勧めています。Ⅰテモテ21-3「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」パウロは為政者のために祈りなさいと言っています。私たちも日本の総理大臣や都知事、区長のために祈る必要があります。スキャンダラスなニュースを聞いて、「え?政治家のために祈るの?」とおっしゃるかもしれません。完全な国家というものはこの地上に存在しません。どんな政府であっても、不政府状態よりは良いのです。ベストは望めないにしても、ベターを願うことはできます。ですから、クリスチャンであっても国民の義務を果たし、選挙にも行くべきであります。イエス様はマタイ5章で「あなたがたは、地の塩です。あなたがたは世界の光です」と言われました。塩の役目は世の腐敗をできるだけ留めることです。また、光の役目は、裁きの預言をすることではなく、神さまの愛と真理を示すことです。

ビル・ジョンソンは世の終わりに人々は神さまのところに知恵を求めてやってくると言っています。イザヤ書21-3終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。アーメン。このところに「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち」とあります。ビル・ジョンソンはキリスト教会が影響を与えることのできる7つの活動範囲、7つの山について述べています。第一は家族、第二は宗教、第三は経済、第四は教育、第五は国家、第六は芸術とメディア、第七は科学とテクノロジーです。第五の国家のところで、「私たちは神の国の価値観が法律のすべての分野に現れるように祈り仕えるべきだ」と書かれています。また、「政治、法律、裁判、税金、刑務所、軍隊、官僚、市民の義務、愛国心、全ての活動に、神さまのすばらしいアイディアが現れるように祈り仕えなさい」と勧めています。旧約聖書をみると分かりますが、ヨセフは家族だけではなく、エジプトの民を大飢饉から救いました。また、ダニエルと3人の若者はバビロンに捕え移されましたが、その国で忠実に仕えました。ダニエルはバビロンからメド・ペルシャの王様、4代に仕えました。ダニエルと3人は国が定めた法律に従わなかったために、殺されかけました。しかし、神さまが御使いを遣わして彼らを助け出しました。その国の王たちは、「あなたがたの神がまことの神さまだ」と告白しました。私たちも彼らのように国家の権力に従うべきでありますが、消極的ではなく、国家が神からの祝福を受けるよう、積極的な仕え方があるということです。

2.家庭における権威

 家庭における権威には2つの分野があります。第一は父母の子どもに対する権威、第二は夫の妻に対する権威です。エペソ6:1「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。アーメン。これは、十戒の戒め5番目の戒めと同じです。しかし、パウロは、なぜ「第一の戒め」と言ったのでしょう。十戒の1から4番目は神さまに関する戒めです。そして5から10番目は人間社会に関する戒めです。その筆頭が、「あなたの父と母を敬え」です。そして、またこの戒めは神さまと人間を結ぶ戒めにもなっています。つまり、父と母は子どもたちに信仰を与えつつ、「神の戒めを守るんだよ」と教える責任があるということです。もし、父と母のことを無視したなら、救いに預かれないばかりか、神の戒めをも破る滅びの子になってしまうでしょう。神さまの代理という意味で、父と母を敬うべきであるということです。また、人間社会の戒めの筆頭ということは、6から10までの戒めも守れるようになるということです。パウロは「『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です」と言いました。言い換えると、その子の生涯において神さまの祝福を受けるということです。では、どうして「主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだから」と言えるのでしょうか?ここには「主にあって」という但し書きがあるので、虐待とか罪のゆえに従えない場合もあるということです。でも、多くの場合は、「両親に従いなさいなさいよ」と言われています。何故でしょう?なぜ、子どもは、親の言うことをきかなればならないのでしょう?

 その理由は、神さまが両親に権威を与えたということです。そして、その子どもが両親に従うなら祝福を受けるということです。つまり、子どもは家庭において、権威たるものが何なのかを両親に従うことによって学ぶことができるでしょう。申命記27章に「自分の父や母を呪う者はのろわれる」と書かれています。もし、両親を敬わないなら、どのような呪いが子どもに及ぶのでしょうか?それは「権威を恐れず、権威に従わない子どもになる」ということです。第一のポイントで言いましたが、ローマ13章では「国の権威に従え」と命じられていました。法律や条例、警察に逆らったらどうなるでしょう?きっと、さばかれ罰を受けるでしょう。また、学校に入ると校長先生や先生がいます。「私は先公の言うことには従いたくない」と言ったらどうなるでしょう。良い勉強を受けることができません。また、会社に入って、「私は社長や上司の言うことには従いたくない」と言ったらどうなるでしょう。会社を首になるでしょう。もちろん、ブラックな学校、ブラックな会社はあるかもしれません。でも、嫌であっても、「主にあって」この世の権威に従うべきなのです。上からの権威に従うと、どんな良いことがあるのでしょう。その人に、守りが与えられます。本来、権威というものは、下のものたちを守るためにあるのです。もちろん、権威を誤用して、独裁行為やパワハラをしている悪い人たちもいます。でも、不完全かもしれませんが、この世の権威は神さまが許したものであり、従うならば守りが与えられるということです。安全、給与、待遇、さまざまな保証に預かることができます。なぜなら、それらの多くのものは権威ある人たちに任されているからです。

 しかし、その子が家庭において、両親を敬うということを学ばなかった場合はどうなるでしょう?不幸にも親が子どもを虐待して、とてもじゃないけど敬えない場合があります。また、親が不在か死んだため、直接、権威というものが何か学ぶことができない場合もあります。そうなると権威というものが、恐ろしくて悪いもののように思うでしょう。その子どもの心の中には、権威に対する反抗心、権威に対する疑いがあります。学校でどういう訳か、自分だけが叱られる。会社でどういう訳か、自分だけが冷遇される。教会でどういう訳か、粗末に扱われる。牧師が私のことを嫌っているみたいだ。そういうことがあるかもしれません。実は私の父はあまり働かないで、酒を飲み、母や子どもたちに暴力をふるっていました。経済的にも精神的にも、子どもたちをちゃんと守りませんでした。正月に集まると、兄や姉が互いに喧嘩をしていました。父は見て見ぬふりをして、諌めませんでした。母も兄弟たちも、そんな父を軽蔑していました。今、思えば、私は機能不全の家庭で育ったんだと思います。そのため私には「権威から来る守り」というものがありませんでした。守りがなかったので、学校の先生から良く叱られたんだなーと思います。私はエリヤハウスで、父母を敬わなかったことを悔い改めました。また、父や母を赦しました。そして、神さまから、旧約聖書のヨセフのような権威をいただきました。ですから、今では主のあわれみと助けによって、家庭を正しく治め、教会を正しく治めることができると信じています。

 もう1つは、夫の妻に対する権威です。エペソ5:22「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」とあります。もちろん、夫たちには「キリストが教会を愛されたように愛しなさい」と命じられています。キリストの愛とは、命を与えるほどの愛ですからたやすい事ではありません。でも、このところで重要なのは、「妻は夫に従いなさい」と命じられていることです。多くの女性たちは、「そんなの男尊女卑の古い教えだ。従えるような夫だったら従うわよ」と反論するかもしれません。でも、さきほどの「父と母を敬え」と同じように、これも神さまから来た戒めです。なぜなら、神さまは夫にかしらとしての権威をお与えになられたからです。でも、「かしら」って何でしょう?かしらとは偉いか偉くないかと言う意味なのでしょうか?Ⅰコリント113「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」とあります。このところに、「女のかしらは男である」と書かれています。その直後に「キリストのかしらは神です」とあります。そうすると、父なる神はキリストよりも偉いのでしょうか?「エホバの証人」が言うように、キリストは神さまの下なのでしょうか?しかし、これはそういう意味ではありません。インドネシアのエディレオは「かしらには、源という意味がある。これは上下の問題ではなく、機能の違いである」と教えてくれました。もし、頭がお尻、あるいは膝についていたらどうなるでしょう?頭には耳や目、口がついていますので、ものすごく不便だと思います。頭が体の一番上にあるので、遠くまで見渡すことができるし、都合が良いです。同じように、「女のかしらは男である」というのは身分ではなく、機能だということです。

 では、かしらである男性にどのような機能が与えられているのでしょうか?かしらからくるイメージは、リーダーシップを取る、あるいは責任を取るということです。決断を妻に任せる夫がいますが、夫が決断してそして責任を取るべきなのです。どんなにひ弱そうに見える男でも、かしらとして生きるように神さまから造られています。エディレオが傘の絵を見せて説明してくれたことがあります。広げられた傘がちゃんとしていれば、傘の下にいる妻や子どもが守られます。もし、傘に穴があいていたなら、妻や子どもがびしょびしょになります。これは夫がちゃんと責任を果たしていない家庭です。「じゃあ、私が」と妻がリーダーシップを取ります。しかし、それは神の摂理に合っていません。それは傘を上下、逆さにさしている状態です。雨が傘の中にたまり、傘の役目を果たしません。夫は家庭の長として、妻と子どもを守る必要があります。でも、「夫はちっとも頼りにならない」と、夫からリーダーシップと横取りして、全部、決めてしまう妻がいます。そうすると夫はますますひ弱になり、同時に責任も取らなくなります。賢い妻は夫を「無能」とか「亭主元気で留守が良い」とは言いません。愚かな妻は夫をけなして、ないがしろにします。そうすると夫は家に帰りたくなくなります。「シャチョさん」「シャチョさん」と迎えてくれる人たちのところに行くでしょう。賢い妻は夫をほめます。夫は図に乗って木に登るかもしれません。でも、夫は尊敬する妻のために命を捨てるでしょう。賢い妻は、最後の大事な部分は夫に決断させます。ほとんど妻が段取りして、決めているんですが、最後の決断だけは夫に任せます。夫は「よし。分かった。俺に任せておけ」と自分が決めたことなので、責任を取ります。どうぞ夫の権利を奪って、夫をふぬけにさせないでください。夫の権利を認め、立ててやってください。そうすれば祝福されます。


3.霊的な権威

ヘブル1317「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」私が講壇からこのようなことを言うと、「あてこすり説教」になってしまいます。私はあまり権威的な牧師でないので、寛容な心で受け止めてください。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」。とても気持ちが良いですね。その前に、教会の指導者はどのような人であるべきなのでしょうか?西暦313年、キリスト教がローマ教会になると、この世の階級制度を取り入れました。「ヒエラルキー」と言いますが、教皇を頂点とするピラミッド的な組織構造にしました。教会は聖職者のものであり、一般信徒は教会の外に置かれました。宗教改革以降、万人祭司制が取られましたが、その影響がプロテスタント教会の中にいくらか残っています。たとえば、聖餐式や洗礼式を執り行うためには、按手礼を受けた牧師でなければなりません。地方教会も牧師を頂点として、役員会が組織されています。教団になるともっと複雑で、たくさんの教会規則があります。「聖書にそのようなことが書いてあるのだろうか?」と反論したくなります。キリストがご自身の教会のために立てた指導者は、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師(エペソ412)です。地方教会は牧師一人が長になっていますが、これは聖書的ではありません。かなり前に『神の五本指』という本を読んで驚いたことがあります。新約聖書で、「牧師」という肩書は1回しか登場しません。一方、「使徒」ということばは81回も登場します。今日の教会は、伝道者、牧師、教師しか認めていないので3本の指で奉仕をしているようなものです。Ⅰコリント1228「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師…」。「第一に使徒」と書いてあります。

 

 指導者をさばくのは神さまであり、教会員ではありません。ヤコブ31「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」Ⅰコリント44「私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。」もし、教会の信徒がさばくなら、「さばくとさばかれる」(マタイ71,2という罠に陥ってしまうでしょう。むしろ、指導者のためにとりなすのです。神さまご自身が、教会の指導者に対して権威をお与えになりました。もし、その権威に従うなら、その人には守りが与えられるでしょう。ジョン・ビビアがunder coverという本を書きました。まだ、全部読んでいませんが、たとえ不本意であっても、権威に従うときに守りが与えられると書いてありました。指導者を馬鹿にしたり、権威を否定すると、覆いが取り去られてしまって、その分だけ悪魔の攻撃を受けるということです。でも、その指導者自身はへりくだることを忘れてはいけません。もし、その権威を乱用するならば、「カルト」になってしまいます。今も、多くの人たちが指導者から受けたパワハラとセクハラで苦しんでいます。イエス様はこの世の権威とは違うと言われました。マタイ2025-27「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」アーメン。でも、このみことばを逆手にとって「牧師はしもべなんだから私たちに仕えるのが当たり前だ。私たちはそのために献金をしているんだから」と言ってはいけません。パウロが「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。」(Ⅰコリント911と言っているとおりです。教会では、父親との傷があるために、牧師を敬えない人もいます。なぜなら、牧師が父親に見えて、反抗したくなるからです。しかし、父親を赦し、霊的な権威を認めるならば、祝福が豊かに臨むでしょう。今日は神からの権威ということを学びました。まことの権威は、私たちを縛るためではなく、守るためにあるのです。神からの権威として認めて、従っていくならば、神さまご自身がその人を豊かに祝福し、特別な愛顧favorを与えて下さるでしょう。


 

|

2019年3月 8日 (金)

神の主権 ヨハネ黙示録20:11-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.10

 主権ということばは日常あまり使わないと思います。主権はもともとフランス語から来たもので、「至上、最高、他より上位の」という意味なようです。たとえば、国民主権というと、主権は国民にあるという民主主義の考えです。でも、神の国の場合は、主権は神さまにあります。イスラエルでは、神さまは「主(ヤーウェ)」と呼ばれ、神が治める国でした。しかし、人々が他の国のように王様を求めてから堕落しました。キリスト教会においては単純ではありませんが、父なる神とキリストが王です。しかし、このことは本来、全世界、全宇宙にあてはまることなのです。

1.神のさばき 

 神の主権の一面は、神のさばきに関係があります。そのことが記されているのは、創世記2章です。創世記2:1617「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」と書いてあります。エデンの園の中央にはいのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。善悪の知識の木は、神の主権を象徴していました。その意味は、善悪は神さまがお決めになるということです。でも、サタンに誘惑されて、アダムとエバはその木から実を取って食べました。食べたということは、神の主権を犯すということであり、自分たちが善悪を判断するということです。これは神さまに対する反逆であります。しかし、神さまはなぜ、そのような木を生えさせておいたのか疑問であります。「その木がなければ、堕落することもなかったのに?」と悔しくなります。でも、園の中央にあった二本の木は、アダムとエバに教えていたのです。命の源は神さまにあること、そして主権は神さまにあることを示していたのです。「なぜ、いのちの木から食べないで、善悪の知識の木から食べたのだろう?」と理解に苦しみます。とにかく、人類が善悪の知識の木から食べて以来、神から独立して生きるようになりました。その一番の証拠は、善悪の基準を神さまに求めないで、自分たち人間が勝手に決めるようになりました。国家間においてもそうですが、個人の生活においてもそうであります。私たちは自分勝手に人を善とし、自分勝手に人を罪に定めて生活しています。「それは良い」とか、「それは悪い」とか判断して生きています。

 神さまにはどうして主権があるのかということを少し考えてみたいと思います。旧約聖書で「神(エロヒーム)」は天地万物の創造者です。そこには、「究極的なもの、絶対的なもの」という意味があります。しかし、日本語で「カミ」には、そのような考えはありません。日本人の神々は、すべて人間的・相対的な存在です。だから、神の主権とか尊厳という考えがなかなか生まれません。もう一つ、旧約聖書では神さまが「主(ヤーウェ)」と呼ばれています。モーセは神さまに、「イスラエルの民が『あなたの名は何ですか』と聞かれたら、何と答えたら良いでしょうか?」と尋ねました。すると、神さまは「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト314とお答えになられました。「わたしはある」というこのことばから、「主」という呼び名が生まれました。主という意味は、だれからも存在させられない、「自存性」という意味があります。また、主は「契約の神」という意味もあります。イスラエル、そしてユダヤ人は「主(ヤーウェ)」という名前を呼ぶのを恐れ、代わりにアドナイと呼びました。アドナイは「所有権」を表しており、主人とか所有者という意味です。これらのことから考えますと、神さまを「主」とは簡単に呼ぶことはできません。この世の多くの人たちは「神さま」と呼ぶかもしれませんが、「主」とは呼ばないでしょう。なぜなら、主の中には「所有者」とか「主人」という意味がこめられているからです。旧約聖書から、2つだけ神さまの名前の意味を紹介しました。まとめると、「神」には「究極的なお方」「絶対者」という意味があります。また「主」は契約の神「所有者」「主人」という意味があります。

 そのお方が、イスラエルの民と契約を交わしたとき、十戒を中心とする律法を与えられました。私は、十戒を中心とする律法こそが神さまが、イスラエルだけではなく、人類に示した善悪の基準ではないかと思います。もちろん、異邦人に全部あてはまらないものもあります。そこには、キリスト論を通して解釈適用することが必要です。でも、十戒を中心とする律法こそが善悪の基準であると思います。人類が罪を犯す前のエデンの園では、これらの律法は不要でした。でも、人類が神から離れ、自分たちで善悪を決めるようになりました。そうすると、人類は歯止めがきかず、罪に陥り、滅びてしまうでしょう。主である神さまは、そうならないように、判断基準として、イスラエルに十戒を中心とする律法を与えられたのだと信じます。私たちは善悪を判断するとき、自分たちが勝手に決めるのではなく、「聖書は何と言っているだろう?」と聞く必要があるということです。人間が作った法律や倫理道徳は時代によって変わります。しかし、イエス様はこのように言われました。マタイ518「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」神のことば、律法をどう解釈するのか、そう簡単ではありません。でも、十戒はとても明快であり、やってはならないことの柱になっています。そのため、人間が作った法律の柱は十戒から来ていると言っても過言ではありません。でも、人間は知識の木から取って食べたために、とてもこざかしくて、なんとか法の網を潜り抜けようとしています。そればかりか、究極的な善悪の基準、さばきの権威が神さまにあるということを認めたがりません。

 非常に大風呂敷を広げてしまって、どう着地すべきなのか分からなくなりました。もし、私たちが神の主権を認め、「究極的には神さまがさばかれる」と考えるならどうなるでしょうか?私はクリスチャンになる前、「どうしてこの世にはたくさんの悪がはびこっているのだろう?そして、裏でさんざん悪いことをしているのにどうしてさばかれないのだろう?」と義憤をいだいたことがあります。アメリカのヒーローものは、みな悪事をさばいています。スーパーマン、スパイダーマン、バットマンたちはみな正義の見方です。日本のアニメではゴレンジャーとか、ウルトラマンがいます。時代ものでは、「必殺仕置き人」「暴れん坊将軍」「大岡越前」「遠山の金さん」がいます。しかし、現実は、ちゃんとしたさばきが行われていないように思います。ほんの1部だけが、テレビのニュースに取り上げられているように思います。みなさんも、「この世の不正や悪なんとかならないのか?」といらだっておられるのではないでしょうか?大丈夫です。神さまがさばきます。この世で無理であったなら、やがて神さまが終わりの日にさばいてくださいます。ヨハネ黙示録2012「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」ですから、世界中に起っている不平等や悪に必要以上に思い悩むことはないということです。神さまがいずれさばいてくださるからです。

 問題は私たちです。新約聖書の私たちはキリストを信じたゆえに、全ての罪が赦され、さばかれることはありません。その根拠となるみことばを二つだけ上げたいと思います。ヨハネ515「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。キリストが私たちの罪を負ってくださったゆえに、キリストが代わりにさばかれました。父なる神はこのキリストを信じる者の罪を赦し、義と認めてくだいます。ですから、やがて神さまのみ前に立つ時が来ても、すべてのさばきが免除されるのです。もし、絶対者なる神が「キリストのゆえに、あなたの罪を赦す」と宣言してくだるのです。そうすれば、悪魔からも、自分の良心も、人からも、だれからも咎められることはありません。これは、社会的な罪に対する償いを言っているのではありません。地上で犯した社会的な罪は償われる必要があります。でも、それらを含めてすべての罪が神の前で明らかにされる時が来ます。すべての人はそこで犯した自分の罪に対して申し開きをしなければなりません。でも、キリストを信じる者はさばかれることはありません。なんというすばらしい神の主権ではないでしょうか。

パウロが私たちこのように命じています。Ⅰコリント45「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」アダムとエバの堕落以来、人間は神さまぬきで善悪を決めるようになりました。言い換えると、それは自らがさばき主なる神になるということです。私たちは究極的に罪を裁くお方は、神さまであることを認め、神さまに審判をゆだねる必要があります。ですから、私たちは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。このように神さま主権の一面である、神のさばきに服して生きるとき、まことの平安がやってきます。私たちはキリストにあってさばかれることはありません。しかし、神さまの主権を認め、正しい意味で、神さまをおそれて生きる必要があります。そうすれば、安全で平和で暮らすことができます。

2.神の選び

神の主権のもう一面は、神の選びに関係があります。このことが記されているのは、ローマ9章から11章です。このところにはイスラエルの選びと回復について書かれています。そして、このところには神さまはある者を選び、ある者を捨てると書いてあります。ジョン・カルヴァンは「神の予定」をとても強調した宗教改革者です。カルヴァンは「神の救いにあずかる者と滅びに至る者が予め決められている」という二重予定説を唱えました。これに対して、オランダのアルミニウスは、人間の意志を強調しました。キリスト教会は、左は二重予定説から、右は人間の意志という幅の中で、自分たちの立場を保持しています。私は二重予定説は信じませんが、神さまの選びは確かにあると思います。なぜなら、そのことが聖書に書かれているからです。それを示す箇所をお読みいたします。ローマ910-16このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」創世記を読むと分かりますが、神さまは兄のエサウではなく、弟のヤコブを選びました。なんと、母リベカのお腹の中にいるときに、ヤコブが選ばれていたのです。ヘブルの記者はエサウにもその責任があったことを示唆しています。ヘブル1216「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」

 もう一箇所、「神の選び」を言うときに引用される有名なみことがあります。ヨハネ15:16 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」このことばは、イエスさまが弟子たちにむけておっしゃったことばです。でも、私たちは弟子たちに語られたことばは、イコール私たちにも語られているのだと解釈して読んでいます。そうでないと、聖書は昔の書物になってしまうからです。ただし、イエス様のことばが私たちのことばになるためには、聖霊が私たちに働くことと、それを信仰によって受け止めるという2つのことが必要になります。私はイエス様があなたを、私を選んでくださったと信じます。もし、「私がキリストを救い主、そして神さまとして選んだ」とするならどのような信仰になるでしょう?これはさきほど引用したオランダのアルミニウスの説です。彼は人間の意志を強調しました。もちろん、私たちはイエス様を信じるときに自分の意思を用いて決断しました。そのことは間違いありません。私も信仰を持ちたての頃は、「私がイエス・キリストを信じた」と思っていました。しかし、信仰の先輩たちがヨハネ15章のみことばを引用して、「選んだのは私ではなくキリストです」と証をしていました。はじめ、彼らのことばを「嘘っぽい。俺たちはロボットじゃないぞ!」と思いました。でも、信仰生活を送って行くうちに、「ああ、本当だなー」とだんだん思えるようになり、最後はヨハネ15章のとおりだというところに落ち着きました。なぜでしょう?もし、「自分がキリストを選んで、自分が信じた」と考えるならどうでしょう?ある時、「いや、そうでなかった。私が間違っていた」となって信仰を捨てるかもしれません。なぜなら、自分が決めたからです。でも、「キリストが私を選んでくださったのだ」というのであれば、私の信仰がおかしくなっても大丈夫です。向こうが私を信じて、選んでくださったのですから安心です。

 このことを支えるみことばがあります。Ⅱテモテ213「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」英語の聖書では、If we are faithless, He remains faithful; He cannot deny Himself.となっています。「真実である」はfaithfulですから、信仰に満ちているというニュアンスがあります。イエス様はfaithfulです。私たちは自分の意思で自分の信仰で、イエス様を信じます。アーメンすばらしいことです。一方、イエス様はそういう私たちを受け止めてくださいます。私たちの信仰は65%くらいかもしれません。でも、イエス様が私たちの信仰を100%として受け止めてくれたらありがたいですね。それだけではなく、これはイエス様の真実が一度信じた私たちを離さないと言う意味でもあります。ある時、ペテロがガリラヤ湖を上を歩きました。ペテロは勇敢にもイエス様からおことばをいただいて、水の上を歩いたのです。でも、途中、風を見てこわくなり沈みかけました。ペテロが「主よ。助けてください」と叫びました。すかさずイエス様が手を伸ばして、彼をつかんで引き上げてくださいました。このことを書いた絵を見たことがあります。イエス様がペテロの手首をつかんでいます。ペテロもイエス様の手首をつかんでいます。これはどういう意味でしょう?手の平だったらツルっとすべります。手首だったら大丈夫です。また、このような状態ですと、ペテロがうっかり手を放しても大丈夫です。なぜなら、イエス様がペテロの手首をつかんでおられるからです。この状態こそが、私たちの信仰を表しているのではないかと思います。私たちはイエス様を信じました。そして救われました。それだけではありません。イエス様の真実、イエス様の信仰が私たちを救っているのです。だから、私たちの信仰が左前になっても、大丈夫です。もし、私たちの救いが私たちの信仰次第であるというなら、あぶなっかしいです。イエス様の真実、イエス様の信仰が私たちを絶えず支えておられるなら安心です。これがキリストの選びです。

 パウロはもっとすごいことを言っています。エペソ14-6「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」アーメン。旧約聖書にはエレミヤの召命の記事があります。エレミヤ1:5「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」なんとすごいことでしょう。お腹に宿る前から、エレミヤは預言者として召されていたということです。私たちはもっとすごく、世界の基の置かれる前から、つまり、天地が造られる前から選ばれていたということです。こうなると頭がおかしくなります。「こんなちっぽけな私をそのように選んでくださっていたとは!」おどろくばかりの恵みなりきです。でも、自動的に私たちが選ばれていたということではありません。このところには、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」と書いてあることがミソです。キリストがすべての接点であります。キリストと出会って、キリストを信じたからこそ、神の選びが発動してくださったと考えるべきです。でも、私たちがキリストと出会い、キリストを信じることも神さまが導いてくださったということも事実です。やっぱり、このことを考えると頭がおかしくなります。ただ、いえることは「有り難いなー」ということです。私は25歳でイエスさまを信じました。しかし、彼女と親友は信じないで去って行きました。私はキリスト教にかぶれて頭がおかしくなったと思われたのです。『いつくしみ深き』を歌う時、「わが友は笑い、迫害すれど」でいつも思い出してはぐっときます。本当に不思議です。人々がキリストの福音を聞いても、一方は「これはすばらしい」と信じ、「こんなのおかしい」と信じない人が出てきます。

『那須のぞみキリスト教会』のブログにこのような記事がありました。あるテレビ番組にミス・ユニバースに選ばれた女性とその家族が出ました。そのとき司会者がその女性にこう質問しました。「あなたがこんなに美しいのはお父さんに似たからでしょうか?」するとカメラがこの女性の脇に座っていた父親をアップでとらえたのです。しかし、横にいたお父さんはロバのような顔で、どう見ても父親に似たとは思えません。そこでさらにこう質問しました。「それではお母さんに似たのでしょうか?」するとカメラが、今度はお母さんの顔を映しましたが、お母さんの顔もイマイチぱっとしません。一体なぜこの女性がこんなにも美しいのかわからない司会者こう言いました。「たぶん、親戚に美しい方がおられるのでしょう」。これはどういうことでしょうか。これは、原因が見いだせないなら、とりあえず何か適当な理由でもくっつけておこうという態度です。これは私たちが救われた理由を扱うときにも現れます。私たちが救われたのはどうしてか?それは私がしっかりしていたからだとか、一生懸命に生きていたからだ。あるいは、私はもともと出来が良いから救われたんだ。さらには、我が家はなかなかの家系だからだ…というふうにです。しかし、聖書はそれが間違いだと言います。聖書は私たちが救われたのは私たちの内側に何か救われるための根拠があったからではなく、一方的な神様の選びによるというのです。アーメン。まさしくそのとおりだと思います。私たちは、キリストさまによる、神の選びを信じます。神さまは、「こんな者を選んでくださった」いや、「あなたは高価で尊い」と選んでくださいました。

|

2019年3月 1日 (金)

神の特別恩寵 ローマ4:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.3

 先週は神の創造から来る、一般恩寵についてお話ししました。創造主なる神さまは全ての人に命を与え、喜びや楽しみを与えておられます。確かに、ひとり一人与えられたものは違います。でも、そこには不完全でありながらも、神が人に与えた栄光と誉れの冠を見ることができます。まさしく、天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるお方です。でも、神さまはご自分を信じる者たちに、一般とは違う、特別な恵みを与えてくださいます。それはキリストによって贖われた者だけが持つ特権です。

1.特別な知性と才能

 前回のメッセージでは「知性と才能」でしたが、本日のものは「特別」がついています。旧約聖書には神さまから、特別な知性と才能が与えられた人たちが何人も登場します。一番、有名なのは神さまから知恵が与えられたソロモンです。神殿や宮殿の建築、海外との交易、事業の拡大、軍備、裁判、芸術、農業なんでも行うことができました。彼は歴史上、最も富んだイスラエルの王でした。それから、バビロンに捕えられたダニエルと三人の若者たちです。ダニエル120「王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも10倍まさっていた」と書いてあります。ダニエルは敵国にありながらも、4代の王様を助けました。また、主は、幕屋の調度品を作らせるためにベツァエルを召しました。出エジプト313-5「彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たしました。それは、彼が金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」また、ダビデは優れた戦士であり、最も尊ばれた王でした。ダビデは北イスラエルとユダの統一国家を作りました。ダビデは音楽にも優れ、数えきれない歌を作りました。このように旧約聖書を見ると、神の霊が彼らの上にあったので、普通の人にできない知性と才能を発揮しました。神さまはご自身の目的を果たすために、神の霊をお与えになったと言うことが分かります。

 その考えは新約聖書にも見られます。イエス様の弟子たちのほとんどがガリラヤの漁師たちでした。イエス様は彼らを3年半、訓練したのち天にお帰りになられました。復活後も、弟子たちは人々を恐れて隠れていました。ところがペンテコステの日、彼らの上に聖霊が降りました。リーダー格のペテロが集まって来た人々の前で説教しました。あのペテロがキリストの十字架の死と復活の意味を聖書から解き明かしたのです。人々は胸を打たれて、3000人の人がバプテスマを受けました。その後、ペテロとヨハネが生まれつきの足なえを歩かせたので、さらに5000人がイエス様を信じました。その後、大迫害が起こって、ペテロとヨハネが捕えられました。民の指導者、長老、学者たちは何と言ったでしょう。使徒413「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」「無学な普通の人」とは「律法を専門に学んでいない素人」と言う意味です。聖書の専門家が、無学な弟子たちに、返すことばがなかったのです。

 しかし、特別な知恵と才能は初代教会の弟子たちだけではありません。現在の私たちにも与えられているのです。今日、まことに残念ですが、それらを過去のものだと認めない教会もあります。「聖書が完成してからは、目覚ましい奇跡やしるしが必要でなくなった」と言っています。現代こそ、目覚ましい奇跡やしるしが必要な時代は他にありません。人間の科学や知恵では、不可能なことが多すぎるからです。私たちは、台風1つでさえどうすることもできません。いつ大地震が来るか恐れて生活しています。いつ癌になるか恐れて生活しています。現代ほど、恐れに満ちている時代はありません。そのため、体ばかりか精神が病んでいます。イエス様は天にお帰りになられましたが、その代り、別の助け主、聖霊が与えられました。教会はキリストのからだであり、各器官がイエス様の代わりに働くように召されています。各器官にあたるのが、聖霊の賜物です。それは旧約聖書の人たちが与えられていた特別な知恵と能力です。Ⅰコリント127「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」これは、クリスチャンであるなら、もれなく、例外なく与えられているということです。このところには、知恵のことば、知識のことば、信仰の賜物、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力が挙げられています。他にはローマ12章、エペソ4章、Ⅰペテロ4章にも記されていますが、聖霊の賜物は、合計30種類以上あると言われています。

 ビル・ジョンソンのある本に「優れた弓」という記事がありました。マットという人は、音楽を通して福音を伝えたいと思っていました。ところが、奉仕だけでは生活ができず悩んでいました。ある時、神さまが「私はあなたのビジネスを成功させます。そして、あなたが献金をもらわなくてもミニストリーをできるように助けます」と言われました。若い頃からマットは複合弓を作って射ることを趣味としていました。マットは「より良い弓を作るにはどうしたら良いか」神さまに尋ねました。数週間後、朝の三時ごろに目を覚ますと、目の前に一枚の紙がぶらさがっているのを見ました。ノートから破られた一枚のように見えました。その紙には、複合弓に関する新しい概念がスケッチで描かれていました。妻のシェリーが何をやっているのかと尋ねたとき、「幻を見ているみたいだよ」と答えました。マットの祈りに答えて、神は新しい弓の概念を示してくださり、弓術の歴史を変えるような発見を与えて下さったのです。その結果、マシュ・アーチェリー・カンパニーという会社が誕生しました。今日、マーシュの会社は世界一大きな弓の会社となりました。大量に売るだけではなく、優れたデザインと機能をもった製品を扱っています。弓術の道具を作るのに用いられた創造性と優れた技術は、そのままアコースティックギターを制作するのにも用いられました。今日、マットとシェリー・マクファーソン夫妻は、自由に音楽のミニストリーをし、巡回奉仕をし、世界中で福音を伝える働きを支援しています。

 かつて、神さまがマットに語られたことばです。「私は世界のすべての問題に対する答えを持っています。もし人が私に求めさえするなら、その答えを与えるでしょう」。私たちは神さまの子どもであり、求めるなら、世の人々にはない、特別な知恵と才能を与えてくださいます。

2.特別な命と楽しみ

 前回のメッセージでは、「神さまは等しく、ひとり一人に1つの命を与えておられます。命の長い短い、太い細いはありますが、全ての人に、もれなく1つの命を与えておられます」とお話ししました。まことに残念ですが、その命と楽しみは、ひとり一人違います。生まれつき障害をもって生まれる人もいます。何かの事故や災害で、人生の半ばで死ぬ人もいます。貧しい家庭環境で育ち、満足な教育を受けられない人もいるでしょう。そういう意味では、この世はまことに不平等であります。残念ながら、これはアダム以来、人間が神さまから離れて生活しているからです。この世の神が私たち人間を支配し、私たちは罪と死の中で暮らしています。それでも、神さまの一般恩寵があるので、程度の差はあれ、自分の一生を楽しんで生きられるようになっているのです。ヨハネ9章には生まれつき盲人であった人のことが記されています。彼は自分で生活ができないので、物乞いをして生きていました。弟子はその人を見て「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と聞きました。ユダヤ人の中にも因果応報という考えがあったのかもしれません。日本でも「生まれつき不幸な星のもとに生まれた」という表現もあります。ある人たちは不幸な運命の犠牲者のように生きています。ところが、イエス様はこのように言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」アーメン。長い話を短くすると、彼は目が見えるようになりました。そればかりか、霊の目も開かれて、イエス様を信じて救われました。イエス様は地上の運命をひっくり返して、その代り、豊かな報いを与えて下さるお方です。

 イエス様はパンの奇蹟を与えたとき、このようにおっしゃいました。ヨハネ651「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」いのちのパンであられるイエス様を食べるということは、信じるということです。イエス様を信じるとどうなるのでしょう?その人に、永遠のいのちが与えられ、永遠に生きると約束されています。そもそも、「永遠のいのち」とは何なのでしょう?この肉体をもって、1000年以上ずっと長生きするということではありません。「永遠のいのち」とは神のいのちであり、豊かないのちです。そのいのちを神さまは、キリストを信じるものに与えるとおっしゃるのです。これは一般恩寵ではなくて、特別恩寵の世界です。私たちは地上で生きるいのちは1個しかありません。地上の寿命はひとり一人異なります。障害者のことも話しましたが、地上での「いのちと楽しみ」はまことに不平等です。でも、イエス様が生まれつきの盲人の目を開けてあげました。それと同じように、神さまは私たちに永遠のいのちと永遠の御国を用意しておられるのです。御国ではこの地上の不平等がひっくり返されます。不幸な人ほど豊かな報いを受けるのです。イザヤ355-6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」アーメン。

 神さまが与える特別な命と楽しみとは何なのでしょう?それは神さまご自身が持っておられる永遠のいのちです。私たちは肉体のいのちを持っています。この命は地上のいのちで限られたいのちです。死んだらなくなってしまういのちです。医者が問題にしているのは、この生命のいのちです。しかし、父なる神さまはもう1つ、レベルの違ういのちを与えたいと願っておられます。これはアダムが失ってしまったいのちよりも勝ったものです。イエス様はアダムが失ったいのち以上のものを与えるために十字架で私たちの罪を贖ってくださいました。堕落前のアダムと私たちはどこが違うのでしょうか?私たちはやがて、イエス様と同じ栄光のからだが与えられます。死なないからだというよりも、復活のからだです。さらにはエデンの園よりもすばらしい、天のエルサレムに住むことができます。天のエルサレムにも川が流れており、いのちの木があります。でも、規模が全く違います。黙示録222-4「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」エデンの園の場合は、サタンが近くまで来て、アダムとエバを誘惑しました。しかし、天のエルサレムにはそのような敵は存在しません。私たちは神さまの御顔を仰ぎ見ながら、神さまに仕えるのです。

 私たちはこの地上において2ついのちと2つの国籍を持ちながら生きています。一般恩寵はこの地上で生きるための肉体のいのちだけです。しかし、私たちクリスチャンは永遠のいのちを持ちながら生活しています。この地上のいのちを失っても、永遠のいのちは失いません。パウロは、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物がある」(Ⅱコリント51と言いました。また、私たちは日本と言う国籍をもってこの地上で生きています。しかし、私たちの国籍は天にもあります。ピリピ3:20「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」アーメン。私たちは日本という国の法律に従い、義務を負っています。同時に私たちは神の国の法律に従い、義務を負っています。献金は税金ではありません。献金は感謝と御国への投資です。イエス様は「自分の宝は天に蓄えなさい。…宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ620,21と言われました。では、私たちの喜びとは何なのでしょう?クリスチャンは天国に行くまで、歯を食いしばりながら、禁欲的に生きるのでしょうか?そうではありません。詩篇16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」私たちの喜びや楽しみはどこにあるのでしょうか?主のみ前にあります。主の臨在、主と共に歩むならば、喜びと楽しみが両脇にころがっているということです。喜びと楽しみは人生の目的ではありません。主を愛し、主と共に歩むならば、ボーナスとして喜びと楽しみがやってくるのです。たとえこの地上で不足するときがあったとしても、主が共におられるならば、豊かないのちを満喫でき、喜びと楽しみのある生活を送ることができるのです。

3.特別な善と愛

 特別な善と愛とはどのようなものなのでしょうか?まず、そのことは信仰の父アブラハムに見ることができます。アブラハムは75歳のとき、主から召された人です。その時、「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と約束されました。その時から、アブラハムは神さまから特別な善と愛を受けるようになりました。新約聖書でアブラハムは信仰の父のように尊ばれていますが、何度か失敗をしたことがありました。アブラハムが、ゲラルというところに滞在中、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言いました。エジプトのパロにも同じ嘘をついたことがありました。ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れました。ところが、夜、神さまがアビメレクに現れて「あなたが召し入れた女のために、死ななければならない。あの女は夫のある身である」と言われました。驚いたアビメレクは、銀1000枚の他に、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与えました。この箇所を見るとどうしても不公平のように思われます。アビメレクはウソをつかれたので、サラを召し入れたのです。なのに、「アビメレクとアビメレクに属するすべての者も、必ず死ぬ」と言われました。間違ったことをしたのはアブラハムなのに、アビメレクが悪者になり、たくさんの品物を差し上げて、「ここから出て行ってくれ」とお願いする羽目になりました。これはあきらかに神さまの「えこひいき」です。えこひいきを英語ではfavorと言います。実は英語の聖書にはたくさんfavorが出てきますが、日本語の聖書には「恵み」としか訳されていません。

 ダビデも主からたくさんのfavorを受けたイスラエルの王様です。イスラエルの初代の王はサウロでした。しかし、サウル王は2つの失敗を犯したために、神さまから捨てられました。第一は、祭司しかできない、全焼のいけにえを勝手にささげたことです。第二は、アマレクを全部滅ぼせと言われたのに、羊と牛の最も良いものを生かしておきました。このようにサウル王の罪は不従順です。それに比べて、ダビデはウリヤの妻バテシバを寝取りました。バテシバが妊娠すると、ウリヤを戦場から呼び出して、家に帰って休みなさい」と言いました。しかし、ウリヤは家に帰らず、王宮の門のそばで寝ました。ダビデはヨアブに命じて、ウリヤを激戦の真正面に出し、彼が打たれて死ぬように仕向けました。ウリヤが戦死した後、バテシバを妻として迎えました。あとから預言者ナタンがやってきて、ダビデが犯した罪を証ました。ダビデは自分の罪を告白しただけで赦されました。サウルとダビデを比べて、明らかにダビデが犯した罪の方が重いです。サウルは不従順の罪、ダビデは姦淫と殺人という大罪を犯しました。なのに、ダビデは赦され、イスラエルで模範的な王様として高められました。明らかに不公平です。しかし、これがfavorというものです。ローマ914-16「それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」このところには、神の選びから来る善と愛が記されています。

 では、新約聖書に記されている特別な善と愛とはどのようなものなのでしょうか?ローマ4章にアブラハムとダビデのことが引用されています。ローマ41-8それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」アブラハムとダビデは聖書を見ますと、二人は不完全であり罪も犯しました。でも、どうでしょう?アブラハムは、神を信じて、義と認められました。ダビデは行いではなく、信仰によって、罪赦され、義と認められました。このように何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。言い換えると、イエス・キリストを信じることによって義と認められるということです。そのことによって、神さまが私たちの父になり、私たちは神のこどもになります。当然、この世の人たちとは違う、特別な善と愛を受けることができるようになります。

 ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。だれにでも、すべてのことが益になるわけではありません。この世においては、失敗は失敗、損失は損失、喪失は喪失で終わってしまいます。もちろん、例外もありますが、そんなに多くはありません。私たちは新聞やテレビのニュースから、不条理が満ちていることをいやというほど知らされます。人々が悲惨な事故や災いになすすべなく、飲みこまれています。善人が悪人に滅ぼされ、「本当に神はいるのだろうか?」と疑いたくなります。でも、これが世の常というものです。でも、私たちにはもう1つ別のライフ・ラインがあります。私たちはこの世で生きていながら、この世で生きていません。パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント418と言いました。どういうことかと言うと、私たちは神の国の国民であり、父なる神さまの特別な善と愛を受けている存在です。だから、神さまがすべてのことを働かせて益としてくださるのです。世の人にとってはマイナスであっても、神さまが全能の御手をのばして、プラスにしてくださるのです。それは誰にでも起こる訳ではありません。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためです。私たちはキリストにあって、神の愛と愛顧favorをいただいている存在です。それは地上に住んでいるときから、天に帰るまで永遠に続くのです。

|

« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »