« 神の主権 ヨハネ黙示録20:11-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.10 | トップページ | ~ハバククの預言~亀有教会副牧師 毛利佐保 »

2019年3月15日 (金)

神からの権威 ヘブル12:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.17

 権威ということばは、最近は死語になっているかもしれません。戦後、あらゆる権威が否定され、権威というものは悪いものなんだと思われています。また、教会でも権威を強調すると、「カルトだ」と言われます。聖書的な権威というものがあります。神さまがお与えになった権威というものがあり、その権威に従うときに守りと祝福が与えられるということです。私たちは聖書から正しい権威というものを知る必要があります。

1.世の中の権威

 ローマ131,2「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」パウロがいたころは、ローマが世界を治めていました。ある人は、パウロは「キリストの福音はカイザルに背くものではない」ということを弁明するためにこのようなことを書いたと言っています。おそらく、このころは、キリスト教会に対する迫害が始まっていなかったのかもしれません。しかし、ネロが皇帝になると、迫害が増してきました。ヨハネは黙示録で、その当時のローマのような狂暴化した国家「獣」が、世の終わりにも出現することを預言しています。キリスト教倫理という学問がありますが、「教会と国家の関係」について教えています。教会は国家の権威、つまり、国が定めた法律には従うべきです。なぜなら、それは神が与えたと信じるからです。でも、国が悪魔化して、教会の信仰を妨げるようになるなら断固として抵抗するでしょう。よく「政教分離」ということが言われますが、これは正しい考え方とは言えません。ナチスドイツが国を支配したとき、教会は彼らと協定を結びました。「教会は国家から信仰の自由を与えられる代わりに、国家の政治に対しては一切口出しをしない」という協定です。しかし、ナチスドイツはそれを良いことに、安楽死やユダヤ人の迫害を始めました。それに対し、一部の教会、「告白教会」が抵抗し、迫害を受けました。他の大多数の教会は表立って抵抗をしませんでした。戦後、ドイツの教会はそれを深く反省し、殉教死したボンフェッファー牧師から学びました。つまり、国家と教会に、お一人の主だけが存在するということです。

今の日本は信仰を持つことが自由です。しかし、イスラム教の国では、キリスト教がものすごく迫害を受けています。軍隊や警察が存在していますが、見て見ぬふりをしています。ですから、ローマ13章のみことばは、「条件付き」で守るということです。つまり、国家が私たちの信仰を脅かさない限りは、国家の権力に従うということです。パウロはⅠテモテ2章でこのように勧めています。Ⅰテモテ21-3「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」パウロは為政者のために祈りなさいと言っています。私たちも日本の総理大臣や都知事、区長のために祈る必要があります。スキャンダラスなニュースを聞いて、「え?政治家のために祈るの?」とおっしゃるかもしれません。完全な国家というものはこの地上に存在しません。どんな政府であっても、不政府状態よりは良いのです。ベストは望めないにしても、ベターを願うことはできます。ですから、クリスチャンであっても国民の義務を果たし、選挙にも行くべきであります。イエス様はマタイ5章で「あなたがたは、地の塩です。あなたがたは世界の光です」と言われました。塩の役目は世の腐敗をできるだけ留めることです。また、光の役目は、裁きの預言をすることではなく、神さまの愛と真理を示すことです。

ビル・ジョンソンは世の終わりに人々は神さまのところに知恵を求めてやってくると言っています。イザヤ書21-3終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。アーメン。このところに「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち」とあります。ビル・ジョンソンはキリスト教会が影響を与えることのできる7つの活動範囲、7つの山について述べています。第一は家族、第二は宗教、第三は経済、第四は教育、第五は国家、第六は芸術とメディア、第七は科学とテクノロジーです。第五の国家のところで、「私たちは神の国の価値観が法律のすべての分野に現れるように祈り仕えるべきだ」と書かれています。また、「政治、法律、裁判、税金、刑務所、軍隊、官僚、市民の義務、愛国心、全ての活動に、神さまのすばらしいアイディアが現れるように祈り仕えなさい」と勧めています。旧約聖書をみると分かりますが、ヨセフは家族だけではなく、エジプトの民を大飢饉から救いました。また、ダニエルと3人の若者はバビロンに捕え移されましたが、その国で忠実に仕えました。ダニエルはバビロンからメド・ペルシャの王様、4代に仕えました。ダニエルと3人は国が定めた法律に従わなかったために、殺されかけました。しかし、神さまが御使いを遣わして彼らを助け出しました。その国の王たちは、「あなたがたの神がまことの神さまだ」と告白しました。私たちも彼らのように国家の権力に従うべきでありますが、消極的ではなく、国家が神からの祝福を受けるよう、積極的な仕え方があるということです。

2.家庭における権威

 家庭における権威には2つの分野があります。第一は父母の子どもに対する権威、第二は夫の妻に対する権威です。エペソ6:1「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。アーメン。これは、十戒の戒め5番目の戒めと同じです。しかし、パウロは、なぜ「第一の戒め」と言ったのでしょう。十戒の1から4番目は神さまに関する戒めです。そして5から10番目は人間社会に関する戒めです。その筆頭が、「あなたの父と母を敬え」です。そして、またこの戒めは神さまと人間を結ぶ戒めにもなっています。つまり、父と母は子どもたちに信仰を与えつつ、「神の戒めを守るんだよ」と教える責任があるということです。もし、父と母のことを無視したなら、救いに預かれないばかりか、神の戒めをも破る滅びの子になってしまうでしょう。神さまの代理という意味で、父と母を敬うべきであるということです。また、人間社会の戒めの筆頭ということは、6から10までの戒めも守れるようになるということです。パウロは「『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です」と言いました。言い換えると、その子の生涯において神さまの祝福を受けるということです。では、どうして「主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだから」と言えるのでしょうか?ここには「主にあって」という但し書きがあるので、虐待とか罪のゆえに従えない場合もあるということです。でも、多くの場合は、「両親に従いなさいなさいよ」と言われています。何故でしょう?なぜ、子どもは、親の言うことをきかなればならないのでしょう?

 その理由は、神さまが両親に権威を与えたということです。そして、その子どもが両親に従うなら祝福を受けるということです。つまり、子どもは家庭において、権威たるものが何なのかを両親に従うことによって学ぶことができるでしょう。申命記27章に「自分の父や母を呪う者はのろわれる」と書かれています。もし、両親を敬わないなら、どのような呪いが子どもに及ぶのでしょうか?それは「権威を恐れず、権威に従わない子どもになる」ということです。第一のポイントで言いましたが、ローマ13章では「国の権威に従え」と命じられていました。法律や条例、警察に逆らったらどうなるでしょう?きっと、さばかれ罰を受けるでしょう。また、学校に入ると校長先生や先生がいます。「私は先公の言うことには従いたくない」と言ったらどうなるでしょう。良い勉強を受けることができません。また、会社に入って、「私は社長や上司の言うことには従いたくない」と言ったらどうなるでしょう。会社を首になるでしょう。もちろん、ブラックな学校、ブラックな会社はあるかもしれません。でも、嫌であっても、「主にあって」この世の権威に従うべきなのです。上からの権威に従うと、どんな良いことがあるのでしょう。その人に、守りが与えられます。本来、権威というものは、下のものたちを守るためにあるのです。もちろん、権威を誤用して、独裁行為やパワハラをしている悪い人たちもいます。でも、不完全かもしれませんが、この世の権威は神さまが許したものであり、従うならば守りが与えられるということです。安全、給与、待遇、さまざまな保証に預かることができます。なぜなら、それらの多くのものは権威ある人たちに任されているからです。

 しかし、その子が家庭において、両親を敬うということを学ばなかった場合はどうなるでしょう?不幸にも親が子どもを虐待して、とてもじゃないけど敬えない場合があります。また、親が不在か死んだため、直接、権威というものが何か学ぶことができない場合もあります。そうなると権威というものが、恐ろしくて悪いもののように思うでしょう。その子どもの心の中には、権威に対する反抗心、権威に対する疑いがあります。学校でどういう訳か、自分だけが叱られる。会社でどういう訳か、自分だけが冷遇される。教会でどういう訳か、粗末に扱われる。牧師が私のことを嫌っているみたいだ。そういうことがあるかもしれません。実は私の父はあまり働かないで、酒を飲み、母や子どもたちに暴力をふるっていました。経済的にも精神的にも、子どもたちをちゃんと守りませんでした。正月に集まると、兄や姉が互いに喧嘩をしていました。父は見て見ぬふりをして、諌めませんでした。母も兄弟たちも、そんな父を軽蔑していました。今、思えば、私は機能不全の家庭で育ったんだと思います。そのため私には「権威から来る守り」というものがありませんでした。守りがなかったので、学校の先生から良く叱られたんだなーと思います。私はエリヤハウスで、父母を敬わなかったことを悔い改めました。また、父や母を赦しました。そして、神さまから、旧約聖書のヨセフのような権威をいただきました。ですから、今では主のあわれみと助けによって、家庭を正しく治め、教会を正しく治めることができると信じています。

 もう1つは、夫の妻に対する権威です。エペソ5:22「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」とあります。もちろん、夫たちには「キリストが教会を愛されたように愛しなさい」と命じられています。キリストの愛とは、命を与えるほどの愛ですからたやすい事ではありません。でも、このところで重要なのは、「妻は夫に従いなさい」と命じられていることです。多くの女性たちは、「そんなの男尊女卑の古い教えだ。従えるような夫だったら従うわよ」と反論するかもしれません。でも、さきほどの「父と母を敬え」と同じように、これも神さまから来た戒めです。なぜなら、神さまは夫にかしらとしての権威をお与えになられたからです。でも、「かしら」って何でしょう?かしらとは偉いか偉くないかと言う意味なのでしょうか?Ⅰコリント113「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」とあります。このところに、「女のかしらは男である」と書かれています。その直後に「キリストのかしらは神です」とあります。そうすると、父なる神はキリストよりも偉いのでしょうか?「エホバの証人」が言うように、キリストは神さまの下なのでしょうか?しかし、これはそういう意味ではありません。インドネシアのエディレオは「かしらには、源という意味がある。これは上下の問題ではなく、機能の違いである」と教えてくれました。もし、頭がお尻、あるいは膝についていたらどうなるでしょう?頭には耳や目、口がついていますので、ものすごく不便だと思います。頭が体の一番上にあるので、遠くまで見渡すことができるし、都合が良いです。同じように、「女のかしらは男である」というのは身分ではなく、機能だということです。

 では、かしらである男性にどのような機能が与えられているのでしょうか?かしらからくるイメージは、リーダーシップを取る、あるいは責任を取るということです。決断を妻に任せる夫がいますが、夫が決断してそして責任を取るべきなのです。どんなにひ弱そうに見える男でも、かしらとして生きるように神さまから造られています。エディレオが傘の絵を見せて説明してくれたことがあります。広げられた傘がちゃんとしていれば、傘の下にいる妻や子どもが守られます。もし、傘に穴があいていたなら、妻や子どもがびしょびしょになります。これは夫がちゃんと責任を果たしていない家庭です。「じゃあ、私が」と妻がリーダーシップを取ります。しかし、それは神の摂理に合っていません。それは傘を上下、逆さにさしている状態です。雨が傘の中にたまり、傘の役目を果たしません。夫は家庭の長として、妻と子どもを守る必要があります。でも、「夫はちっとも頼りにならない」と、夫からリーダーシップと横取りして、全部、決めてしまう妻がいます。そうすると夫はますますひ弱になり、同時に責任も取らなくなります。賢い妻は夫を「無能」とか「亭主元気で留守が良い」とは言いません。愚かな妻は夫をけなして、ないがしろにします。そうすると夫は家に帰りたくなくなります。「シャチョさん」「シャチョさん」と迎えてくれる人たちのところに行くでしょう。賢い妻は夫をほめます。夫は図に乗って木に登るかもしれません。でも、夫は尊敬する妻のために命を捨てるでしょう。賢い妻は、最後の大事な部分は夫に決断させます。ほとんど妻が段取りして、決めているんですが、最後の決断だけは夫に任せます。夫は「よし。分かった。俺に任せておけ」と自分が決めたことなので、責任を取ります。どうぞ夫の権利を奪って、夫をふぬけにさせないでください。夫の権利を認め、立ててやってください。そうすれば祝福されます。


3.霊的な権威

ヘブル1317「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」私が講壇からこのようなことを言うと、「あてこすり説教」になってしまいます。私はあまり権威的な牧師でないので、寛容な心で受け止めてください。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」。とても気持ちが良いですね。その前に、教会の指導者はどのような人であるべきなのでしょうか?西暦313年、キリスト教がローマ教会になると、この世の階級制度を取り入れました。「ヒエラルキー」と言いますが、教皇を頂点とするピラミッド的な組織構造にしました。教会は聖職者のものであり、一般信徒は教会の外に置かれました。宗教改革以降、万人祭司制が取られましたが、その影響がプロテスタント教会の中にいくらか残っています。たとえば、聖餐式や洗礼式を執り行うためには、按手礼を受けた牧師でなければなりません。地方教会も牧師を頂点として、役員会が組織されています。教団になるともっと複雑で、たくさんの教会規則があります。「聖書にそのようなことが書いてあるのだろうか?」と反論したくなります。キリストがご自身の教会のために立てた指導者は、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師(エペソ412)です。地方教会は牧師一人が長になっていますが、これは聖書的ではありません。かなり前に『神の五本指』という本を読んで驚いたことがあります。新約聖書で、「牧師」という肩書は1回しか登場しません。一方、「使徒」ということばは81回も登場します。今日の教会は、伝道者、牧師、教師しか認めていないので3本の指で奉仕をしているようなものです。Ⅰコリント1228「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師…」。「第一に使徒」と書いてあります。

 

 指導者をさばくのは神さまであり、教会員ではありません。ヤコブ31「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」Ⅰコリント44「私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。」もし、教会の信徒がさばくなら、「さばくとさばかれる」(マタイ71,2という罠に陥ってしまうでしょう。むしろ、指導者のためにとりなすのです。神さまご自身が、教会の指導者に対して権威をお与えになりました。もし、その権威に従うなら、その人には守りが与えられるでしょう。ジョン・ビビアがunder coverという本を書きました。まだ、全部読んでいませんが、たとえ不本意であっても、権威に従うときに守りが与えられると書いてありました。指導者を馬鹿にしたり、権威を否定すると、覆いが取り去られてしまって、その分だけ悪魔の攻撃を受けるということです。でも、その指導者自身はへりくだることを忘れてはいけません。もし、その権威を乱用するならば、「カルト」になってしまいます。今も、多くの人たちが指導者から受けたパワハラとセクハラで苦しんでいます。イエス様はこの世の権威とは違うと言われました。マタイ2025-27「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」アーメン。でも、このみことばを逆手にとって「牧師はしもべなんだから私たちに仕えるのが当たり前だ。私たちはそのために献金をしているんだから」と言ってはいけません。パウロが「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。」(Ⅰコリント911と言っているとおりです。教会では、父親との傷があるために、牧師を敬えない人もいます。なぜなら、牧師が父親に見えて、反抗したくなるからです。しかし、父親を赦し、霊的な権威を認めるならば、祝福が豊かに臨むでしょう。今日は神からの権威ということを学びました。まことの権威は、私たちを縛るためではなく、守るためにあるのです。神からの権威として認めて、従っていくならば、神さまご自身がその人を豊かに祝福し、特別な愛顧favorを与えて下さるでしょう。


 

|

« 神の主権 ヨハネ黙示録20:11-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.10 | トップページ | ~ハバククの預言~亀有教会副牧師 毛利佐保 »