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2019年2月22日 (金)

神の一般恩寵 伝道者9:1-10 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.2.24

 先週は、進化論は聖書的ではないということを申し上げました。本日は、創造主なる神が私たちを造られたゆえに、このような恵みがあるということを聖書からメッセージしたいと思います。言い換えると、他の動物にはない人間に対する特典です。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された」とありますが、言い換えると、人間は神さまに似たところがあるということです。アダムの堕落のゆえに、人類に罪と死が入りました。生まれつきの人間は、神から離れて生きていますが、それでも神さまの恵みを受けています。これを神の一般恩寵と言います。 

1.知性と才能

 詩篇85,6「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」このみことばから分かることは、人間は神さまよりいくらか劣るものとして造られたということです。他の動物と違い、人間には神さまからの栄光と誉の冠がかぶせられているということです。進化論を信じている人は、「猿と人間はいくらも違っていない」と言うでしょう。確かに猿と似ている人はいます。犬と似ている人もいれば、クマに似ている人もいます。なぜでしょう?それは造り主が同じだからです。作者が同じなので、どうしても似ているものを造ってしまいます。でも、神さまは人間だけに栄光と誉れの冠をかぶらせました。そして、動物や自然界を支配するように、多くのわざを管理させました。他の動物と違って、人間に与えられている最高のものは「知性と才能」です。人間はものごとを考え、そして作り出すことができます。知性は頭の脳の重さではありません。進化論者は「だんだん脳が大きくなったので、知性が増したんだ」と言います。アダムは造られたときからことばを発し、すべての動物に名前を付けることができました。そして、エデンの園を管理しました。堕落前のアダムは脳を100%使うことができました。ある人はアダムのIQ1000あったのではないかと言います。堕落した人間であっても、天にも届く、バベルの塔を作ることができました。ノアは巨大な箱舟を造りました。船の長さと幅と高さの比率、3053は、現在のタンカーの比率であり、最も安定する黄金比だそうです。

 伝道者の書をみると、神さまから知恵をいただいたソロモンのことが書かれています。彼はアリストテレスのように動植物や自然界を研究しました。また、偉大な建築家のように神殿や宮殿、そして庭と園を造りました。彼は偉大な文学と哲学と芸術家でもあり、数えきれないほどの歌や箴言を作りました。また、彼は軍備を整備し、海外と交易をなし、事業を拡大し、国を発展させました。彼は裁判官でもあり、国民をさばきました。他に農業開発、牧畜、遊戯(ハーレム)もしました。歴史上、ソロモンほどの偉大な成功者はいないでしょう。でも、これが、神さまが与えることの恵みであります。私たちはソロモンほどではなくても、知性と才能を神さまからいただいています。私たちは、他者と比べないで、自分が神さまから与えられたものを再発見すべきであります。学校教育は進化論に立っていますので、「適者生存」「弱肉強食」を是認するように仕向けています。そうではありません。私たちひとり一人は神の作品であり、どんな人であっても、光る宝石が隠されているのです。教育のラテン語は「ひきだす」という意味があるそうです。つまり、神さまから与えられたものを、その子から引き出してあげるのが教育であります。つめこむのが教育ではありません。神が与えた良きものを引き出すのが教育です。アーメン。東大先端科学技術研究センターでは「異才発掘プロジェクト」というものをやっています。中にはボールペンでひたすら構造物を書いている少年がいます。13歳の天才画家、濱口瑛士君がいますが、彼は発達障がいがあり、小学校でいじめに合い、不登校になったそうです。財団のホープページには「たとえば、引き篭もり、不登校、窓際族。実は、こういう人こそ『変わっているけどすごいポテンシャルのある人』だったりする」と書いてありました。

 神さまは全宇宙を創られたお方なので、英知に富んでいらっしゃいます。そのお方よりもいくらか劣るものとして私たち人間が造られました。だったらどんな人でも、光るものがあるということです。私が小学生のときの担任が池田絹子先生でした。私が一番叱られ、一番可愛がられたのではないかと思います。池田先生は音楽の教師だったので、私は朝礼で校歌を歌う時、友達と二人でアコーデォンを弾かされました。学芸会でも大太鼓やティンパニーが担当でした。どういう訳か音楽が私から離れず、座間キリスト教会では聖歌隊に入らされました。芸大卒の関根さんから色々教わりました。亀有教会に来てからも、メンバーが足りなかったので聖歌隊に入りました。2000年のゴスペルからもテナーを歌わされ、やめることができません。でも、ふと「ああ、池田絹子先生、草葉の陰から、やっているね」と見ておられるのではないかと思う時があります。そういう意味で、「学校の先生は重要なポストについているのだなー」と思います。でも、親は子どものことをよく理解できません。子どもが「あれをしたい」と言うと、「そんなんで、食っていけるの思っているのか」と否定します。子どもは小さいとき、サッカーの選手とか、歌手になりたいとか言います。確かにいくら目指しても、プロになれる人は1万人に一人いないかもれません。でも、すぐそれで「食べていけるか」で夢を摘むのは一種の虐待であります。なぜなら、子どもは親のものであって、親のものではないからです。父親が子どもに「リンカーンが君の年だったとき、彼は暖炉の火で勉強していたそうだよ」と言いました。息子は 「リンカーンがお父さんの年だったとき、彼は大統領だったよね」と答えたそうです。

 ジョエル・オスティーンは「私たちには父なる神さまのDNAが組み込まれている」と言っています。でも、それはキリストを信じて新生した後のことなのか、生まれた時からなのか分かりません。私は可能性の種だけは宿っていると思います。神さまを信じていなかったときも、ある程度、紆余曲折もありながら成長するでしょう。でも、ある時、創造主とキリストを信じると、止まっていた運命の時計の針が動き出すのではないかと思います。「ああ、私はこのために生まれてきたんだ。この知性もこの能力も神さまの栄光のために用いるべきなんだ」と分かったならなんと幸いでしょう。

2.命と楽しみ

 創造主なる神さまは私たちに命を与えてくださいました。世の中でも「1つしかない命を大切に」と言います。でも、若い時はその命を粗末に扱いがちです。でも、年を重ねてくると、「命というのはかけがえのないものなんだなー」と思うようになります。私は子どもの頃、川に行って魚を釣っていました。夏は昆虫採集のためセミ、蝶、とんぼなどを捕えました。パチンコを作って、それをすずめや猫に向けていました。しかし、年を取って来ると、生き物が可哀そうになります。雨上がりの後、かたつむりが路上で這っていると、つまんで花壇の中に入れてあげます。神さまがすべての生き物に命を与えたんだと分かっているからです。でも、すべての人間が、自分のいのちは神さまの贈り物であると思っている人がどのくらいいるでしょうか?ある人たちは、命を無駄に使い、ある人たちは自らの手で命を絶っています。「死んでも、生まれ変われば良いいんだ」と悪魔のウソを信じています。そうではありません。地上の人生は一回だけです。神さまは等しく、ひとり一人に1つの命を与えておられます。命の長い短い、太い細いはありますが、全ての人に、もれなく1つの命を与えておられます。私たちは神から与えられた命をどのように使うか、任されているのではないでしょうか?ちゃんとこの命を最後まで全うするという責任があると思います。

 英語で命をlifeと言います。でも、lifeは日本語に翻訳するとき、とてもやっかいなことばです。あちらではみんなlifeで通じるのですが、日本語に訳すと幾分か違ってきます。Lifeは命のほかに、生活、人生、生涯、寿命という意味があります。文脈を理解しながら、訳していかなければなりません。伝道者の書118-10「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」ここには、「生きているうちにできるだけ楽しめ」と言われています。聖書にこんなことが書かれているなんて信じられるでしょうか?キリスト教会ではすぐ「死んだのちのさばきを受けるから、早く、キリストを信じなさい」と言います。しかし、それは半分おどしであります。特に若い人というのは、死んでから先のことを考えていません。今が良ければ良いと思って生きています。現代、国民年金に入っていない若者がたくさんいます。彼らは自分たちが年取ったら、きっともらえないだろうと思っているからです。イソップ童話の「アリとキリギリス」みたいであります。伝道者の書を見て分かるのですが、「若者よ、おもいのまま生き、いっぱい楽しめ」と言っています。最後に「神のさばきを受けることを知っておけ」とピリッとしたことを言っています。

 でも、このところから分かることは、神さまは人生を楽しむように必要なものを与えておられるということです。私は「若さ」こそが神さまが人に与えた最高のプレゼントの1つではないかと思います。私は朝と夜に散歩をしています。すると、足の長い中高生の女の子が自転車をこいでいます。その時、私が思うのは、「若いって良いなー。神さまが与えてくれだんだよな!」と神さまを賛美します。なぜ、そう思うのか?80歳ぐらいのおばあちゃんが、なんとか歩いているのを見るからです。あのおばあちゃんも、中高生の時代があったのです。若い時は、若い事のすばらしさが分かりません。でも、だんだん足腰が痛くなる年齢になると、その価値が分かるのです。神さまは人生を楽しむように、一般恩寵をだれにでも与えておられます。なのに、どうして、悲しみ、悩み、痛むのでしょうか?私は3匹の猫を飼っていました。猫から多くのことを学びましたが、1つのことは「彼らは明日を思い患っていない」ということです。だれかがエサを与え、だれかがドアを開けてくます。「ありがとう」と言うことは決してありません。食べたら、寝ます。その寝顔は、全く平安そのものです。「それに比べ、人間様はなんと悩みが多いのだろう」と、がっかりします。猫から学んだことは、「私たちには神さまがついているだろう」でした。人間はかしこいので、どうしても先々のことを心配して、思いわずらい、今日という日を楽しむことができません。楽しみは海外旅行しなくても身近にあります。一家だんらん、日差しのもとで寝っころがること、ご飯を食べられること、自分で排せつができること…みんな感謝なことです。

私は当教会が100名礼拝になることを必死に願い求めて来ました。100名に満たないので、いつも不満と恥ずかしさがありました。大川牧師が714日の創立記念礼拝に来られます。「ああ、また言い訳がましいことを言わなければならないのか」と暗くなりました。でも、ふっと思いました。「教会が大きくなくて良かった」と。私が座間キリスト教会で奉仕していた頃は、集会がたくさんあり、その準備にあけくれていました。平日でも朝早くから教会に人々がおり、気を使わなければなりませんでした。特に、スタッフの間にはライバル心がありました。しかし、当亀有教会は平日は人はいません。牧師室でゆっくり本を読み、説教を作ることができます。これまでも、いろんなセミナーに出かけ勉強することができました。役員会と総会はちょっとだけ嫌ですが、他は気をつかうことがありません。フラストレーションをためることなく、マイペースで奉仕できるのは、「教会が小さかったからだなー」と感謝しています。もちろん、リバイバルは信じています。リバイバルが来たら忙しくなるでしょう。でも、そのために蓄えてきた知識や経験がたくさんあります。ひょっとしたら、神さまはそのために私を準備してくださったのではないかと本気で思っています。これまで燃え尽きないで、生きて来られたのは主の恵みです。

神さまは人に一個のいのちを平等に与えておられます。嬰児でなくなる人もいれば、100歳まで生きて天寿を全うする人もいるでしょう。健康な人もおれば障害者で生まれる人もいます。知能が高かったり、低かったり、才能が豊かだったり、なかったりと、確かに不平等です。でも、神さまは人に一個のいのちを平等に与えておられます。神さまはそのいのちを楽しむように願っておられます。もし、不平等だと感じたら、キリストにある特別恩寵をいただくしかありません。

3.善と愛

マタイ545「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」このみことばは、神さまの一般恩寵を表している典型的なみことばです。このところに、父なる神さまが善なるお方であり、どんな人でも愛しておられるということが表明されています。私たちは「正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」のみことばを誤解しています。「憎い人の上に集中的に雨が降るように」と願うかもしれません。しかし、パレスチナの地方は雨があまり降らないので、雨が降るということは恵みなのです。ここで言われていることは、イエス様は「神の子どもは、自分を愛してくれない人でも愛しなさい」と教えておられます。しかし、きょうのテーマは神さまの一般恩寵であります。このところに神さまは「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」とはっきり書いてあります。多くの人は「神さまがいるなら見せてみろ」とか「もし、神さまがいるなら、何故、こんなひどいことが起るのだ」と文句を言います。しかし、神さまは悪い人の上にも太陽が上り、正しくない人にも雨を降らせてくださるお方なのです。聖書の神さまは善なるお方であり、愛なるお方です。

私たち人間は、神さまに似せて造られた存在です。ですから父なる神さまの属性である、善と愛を幾分か受け継いでいます。なぜ、そんなことが分かるのですか?このところに、「自分を愛してくれるものを愛する」と書いてあります。条件付きではありますが、人を愛する愛はあります。「取税人でも同じことをする」とありますが、マタイ7章には「悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与える」と書いてあります。どんな悪い親でも、自分の子どもを愛するのです。「異邦人であっても、兄弟にあいさつする」とは、異邦人でも兄弟愛はあるということです。教会はこの世の人に向かって、「愛がない」とか「罪人である」と言いがちです。限定的で不完全であるかもしれませんが、善の心があり、愛の心があるのです。何故でしょう?それは神さまがご自身のかたちに人間を造られたからです。私はヒューマニズムのことを言っているわけではありません。ヒューマニズムというのは、神さまなしの考え方であって、それは正しくありません。私たちはその人がどんなに悪い人であっても、神さまの善と愛のかけらがあることを発見してあげる必要があります。私は中学の時、高校の時、先生方からひどく叱られました。その時の彼らの目が、犯罪人でも見るような冷たい目でした。愛のひとかけらもありませんでした。私はここでは「先生」と呼ばれていますが、「学校の先公みたいになってはならない」と自戒しています。

昔、カトリックの井上洋治神父が、神さまは大地のような包容力があると言いました。カトリック教会の信仰は、神さまの善と愛をたたえ、私たちもそのように生きることを勧めています。プロテスタント教会と比べて、「キリストしか道がない」というように対決しません。しかし、井上洋治神父の晩年の姿を見て、やっぱり私たちの信仰と違うと思いました。彼は人の悲愛を説き、父なる神を「アッバ」(お父さん)と親しみをこめて呼び、仏教との接点を見出し、死に到るまで「南無アッバ」の祈りを唱えました。法然が唱える「南無」の意味はよくわかりませんが、汎神論的な神観があります。自分が無になって神と一体になるというのは、キリスト教の考えではありません。私たちは神さまの一般恩寵は認めます。どんな人でも神さまは愛しておられ、善きものを与えようとされています。しかし、一般恩寵だけで神さまを理解しようとすると、救いの考えが全く違ってきます。井上洋治神父の救いは神さまと一体になることです。南無は帰依と言う意味があるようですが、この神さまに帰依するということなのでしょう。また、井上神父は風のようになるとも言っています。遠藤周作氏とともに、西洋のキリスト教をなんとか日本の風土に合わせようとする努力は認めます。でも、私たちはキリストの贖いがなければ、決して、父なる神さまに近づくことはできません。キリストの贖いなしでも、善と愛は受けられます。でも、それは一般的なものであり、この世だけのものです。神さまは、本当は私たちの人生を、この世だけのもので終わらせたくないのです。伝道者の書の記者は、「人生がこの世のものだけと考えるならば、好きなことをして楽しみなさい」と言っているのです。多くの人は「死んだら終わりだ」と考えて生きています。だから、一生懸命生きて、自分の人生を全うするという生き方が生まれます。でも、それは神さまの一般恩寵のレベルだということを知らなければなりません。

伝道者の書に本当に神のみことばなのでしょうか。伝道者の

書は「空しい」「空しい」と度々出てくるので、まるで仏教の教えのようです。後のユダヤ人がこの書を聖典に入れるべきか大変迷ったそうです。ところが、この1節があったので、やはりこの書を聖典に入れるべきだと考えたそうです。伝道者の書1213「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」口語訳は「これはすべての人の本分である」となっています。本分は2つの意味があるようです。1つは「人が本来尽くすべきつとめ」であり、2つ目は「そのものに本来備わっている性質」です。確かに人間は、神のかたちに似せて造られました。だから、人間には知恵と才能、命と楽しみ、善と愛が備わっています。神さまはそれをだれにでもお与えになりました。私たちは一生、この神さまの恵みを使って生きることができるのです。しかし、これは神さまを発見するための、資源であり材料です。神さまはこれらを使って「あなたの創造者がだれかを覚えよ。わざわいの日が来ないうちに」(伝道者121と勧めています。また、「神を恐れよ。神の命令を守れ」これが人間の本分であるとも言っています。このことばに、神さまの知恵と才能、命と楽しみ、善と愛の極限がつまっています。これは神が私たちに与えたいと願っておられる、神の特別恩寵への道です。一般の人には与えられない特別な恵みです。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

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2019年2月17日 (日)

進化論を斬る 詩篇8:3-9 亀有教会牧師 2019.2.17

 

 私は小中学のときは理科が5でした。当然、進化論についても知っていました。先生がキリンの首がなぜ長くなったのか教えてくれました。ピテカン・トロプス・エレニクスと言う名前も覚えています。ですから、24歳のとき職場の先輩が「神が人間を創った」と言ったときに反論しました。その後、神さまがこの世界を、そして、この私を造られたと分かってから、人生が変わりました。不思議なことに、生きることに目的が生じたからです。 

 

1.進化論の歴史 

 

進化論はどのようにして生まれたのでしょうか?近代科学は17世紀ヨーロッパで誕生しました。そして、近代科学誕生の思想的基盤はキリスト教でした。ちなみに、ニュートンはすばらしいクリスチャンです。この時代の科学者たちは、神の創造した自然界と秩序を見出そうとし、計り知れないほど大きな神の英知の一端を知ろうとしました。ところが19世紀になると、科学にも哲学にも大きな転回がやってきます。西洋のキリスト教的基盤が弱くなり、進化思想がそれにとってかわっていきます。ちょうどその頃、日本が明治の世になって開国し、西洋の科学的技術を輸入しはじめました。もともと進化論と呼ばれている理論は、生物の種類の多様性を説明する一仮説に過ぎません。ところがそれが発表されるやいなや、産業革命後の社会風潮と相まって、適者生存、弱肉強食と公式化され、個人間や国家間の競争を是認する社会思想として急速に広まって行きました。日本は開国後、殖産興業、富国強兵を国の柱にしていたので、進化論を科学的真理として喜んで受け入れました。学校では進化論が生物学の基盤となっていますが、本来は社会学的なものであり、科学ではありません。ダーウィンが発表した学説が世の中の風潮に合致したということが言えます。ナチスは、「適者生存」に関するダーウィン進化論に基づいた社会ダーウィン主義の見解を採用しました。そして、遺伝的に劣性と見なす身体障害者や精神障害者、常習犯罪者をガス室に送りました。ヒトラーはドイツ民族を世界で最も優秀な民族と捉え、それ以外の民族、ユダヤ人などを絶滅させようと企てました。これが悪名高き、悲惨なホロコーストです。

 

 これが、進化の大問題、新しい種の起源に対してダーウィンが与えた答えです。「自然界のいたるところで、また地球の歴史のあらゆる時点で、そこに生息している動植物は絶えざる生存競争に巻き込まれてきた。それぞれの世代ごとに、最適者だけが勝ちをおさめた。これら適者は、両親よりもどこかしら秀でていた。目が良かったり、より速く走れる長い足を持っていたり、突然の寒気にも耐えられる葉をもっていたりした。きわめて徐々にではあるが、これらの新しい特徴は次第に蓄積していき、その結果、やがて新しい種類の動物や植物が出現するようになった。これら新しい生物は、数百万年前の遠い祖先とは全く異なっていた。自然界の戦いから、飢えと死から、より高等な動物がやがて生じてくる。」彼がこの考えを発表するやいなや、当時の世界は狂気して受け入れました。ダーウィンはビーグル号に乗る前は、牧師になりたいと思っていました。ところが、ビーグル号の5年間が彼を変えてしまったのです。彼自身が突然変異したのです。

 

2.進化論のまちがい

 

 進化論の間違いを4つだけ取り上げて説明したいと思います。第一は進化論を証明する化石が発見されていないということです。フランシス・ヒッチング著『キリンの首』にこのように書かれていました。ダーウィンは、何度も化石の記録に立ち戻って、自説を支持する証拠を探し求めました。彼は小さな単細胞生物から、無脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類と爬虫類という進化系列はつながっていると信じていました。つまり、魚類が両生類に、両生類が爬虫類に、爬虫類が鳥類に変わったということです。ダーウィンは、この過程は少しずつ進行したのだと確信していました。今日ほとんどの博物館や教科書は、自然淘汰と同様に、この漸進主義を無批判に受け入れています。となると理論的には、こうした着実な前進は化石の記録にも現れるはずです。ダーウィンの説が正しいとしたら、あるグループからより高次の複雑な体系を持つグループまで、徐々に変わる化石をすべて見ることができるはずです。世代ごとに生じる小規模な「改良」または「前進」も、種それ自体の進化と同様保存されているに違いありません。ところが、実際はそうではありません。種と種の間を埋める移行的な化石を見つけることができません。主要な動物グループの間をつなぐ化石をいくら探しても、そんなものはほとんど、あるいは全くと言っていいくらいに、存在しないのです。始祖鳥が化石として発見されたとき「これにまさる中間生物の例はない」と言われました。しかし、始祖鳥はその当時生息していた多くの奇妙な鳥の一種に過ぎないという可能が高まり、中間生物ではないと結論されました。

 

 進化論では、地層の一番下が単純な生物の化石、地層が上になって行き次第、複雑で高等な生物の化石が発見されるであろうと考えられてきました。なぜなら、進化が時間の経過によって、行なれたという前提があるからです。ところが、全世界の地層を見ても、彼らの考えた通りの順番に発見されていません。それが全く逆であったり、単純な生物も高等な生物も混ざり合っていること言うことが分かりました。シルビア・ベーカーという人は、全世界に及んだ大洪水説を唱えています。死んだ動物や魚はそのままでは化石にならないということです。なぜなら、他のものに食べられてしまうからです。化石を生ずるのに最も良く、可能性のある過程は、生物が死んだとき、または死の直後に突然堆積層の中に埋没することだということに大方の意見が一致しているそうです。化石化した魚が堆積岩の中に見出されますが、それらが腐肉を食う生物の攻撃を受けた兆候は何もなく、苦悶の状態で見出されています。また、恐竜の化石は猛威による突然の死であるかのような状態で発見されています。マンモスは温暖なところに住み、青草を食べていました。しかし、突如として大洪水に襲われ、凍結してしまったと考えられます。だから、胃の中にはキンポウゲなどの青草が見つかりました。石炭と石油は共に大量の生物の残骸であり、これも大洪水のゆえであろうということです。かつて「系統樹」なるものがあり、下等なものから高等なものに進化していく樹木の絵がありました。しかし、その化石が見つかっていないので、1950年代のものは樹木としての面影は残っているものの、「枝」はつながっていません。

 

第二は、生命が偶然に発生するということはありえないということです。進化の考えは、ダーウィンが始めたものではありません。それ以前にも、多くの科学者や哲学者が進化を信じており、古代ギリシャで最初起ったものです。ヒトは魚から進化したとか、動物は植物に由来していると主張する人もいました。紀元前400年、アリストレテスは自然発生説を提案しました。なぜなら、彼は泥の中から昆虫やハエが突然出現するのを見たからです。もし、昆虫が自然発生によって生ずるとしたら、他のすべての生物にも同じことが起こらない理由があるだろうかと言いました。長い間、自然発生説が受け入れられていましたが、19世紀にパスツールが自然発生説の誤りを証明しました。生命はどのように誕生したのでしょう。1950年二人の科学者(スタンリー・ミラーとハロルド・ユーレイ)がメタン、アンモニア、水素から成る混合気体、いわゆる原始のスープに雷を模した電気放電を当てたところ、アミノ酸などの有機体ができました。無機物から生物を創ったということで、世界中に報道されました。しかし、今では生命の発生の解釈としては、何の価値もないという結論に落ち着いています。

 

『進化論を斬る』という本で稲垣久和氏はこう言っています。ところでこのように原始地球上で、また分かっていない化学的メカニズムでアミノ酸が生じたとしても、生命の誕生にほど遠いのです。それを納得するために単純な確率の計算をしてみましょう。生物体の基本物質であるタンパク質は、アミノ酸という分子が鎖のようにつながった巨大分子です。アミノ酸は20種類ありますが、これがどういう順序でつながっているかが生物機能にとって本質的に重要です。そこで原始地球上で無秩序(ランダム)な化学反応の結果、アミノ酸の百個つらなった特定の小さなタンパク質分子ができる確率はいくらか?これは一列に百個並んだ座席を想定して、そこに人をひとりずつ座らせていきます。そうすると一番端には20通りの座り方、二番目も20通り、三番目も20通りという具合に20を百回掛けただけの並び方があることがわかります。計算すると、10130乗種類のものから一個を選び出す操作に等しいのです。今、地球の年齢の約45億年を秒に換算すると1017乗秒しかなりません。そこで一秒間に一種類の組み合わせを数えていったとしても、1017乗種類しか数え上げることができません。地球の年齢のかわりに宇宙の年齢150億年をとっても、1018乗秒以下ですから答えは同じです。このような簡単な確率の計算から明らかなように、無秩序とか偶然とかの考えの基礎にしてしまうと、特定の小さなタンパク質すら生じないのです。ましてやタンパク質やそれを同じような高分子である核酸が複雑に有機的に組み合わさった生命というものが、このような偶然によって生じるなどと主張することは科学ではなく、偶然の哲学、または進化主義とでも呼べる1つの哲学的立場の表明です。

 

イギリスの天文学者のフレッド・ホイルは、「もし細胞が偶然できるというのなら、『竜巻が鉄くず置き場の鉄くずを巻き上げて、竜巻が去ったら、偶然、ジャンボ・ジェット機ができていた』というようなものだ」と言っています。ジャンボ・ジェット機を作ったのは、竜巻ではなく、知恵のある人間です。そして、その知恵のある人間を創造されたお方がおいでになるのです。

 

 第三は、進化論は熱力学第二法則に反しているということです。ジェレミー・リフキン著『エントロピーの法則Ⅱ』という本があります。東京大学名誉教授で、『ニュートン』の編集長の竹内均氏が訳しています。第二法則を一言で言えば「覆水盆に返らず」という諺のとおり「エネルギーを使用すればするほど、そのエネルギーはより質の低いエネルギーへと変換されていき、ついには使用不可能になってしまうということです。つまり、物質は絶えず老化していくということであり、地球上では「エントロピーが増大している」ということになるのです。ダーゥインの進化論は、「最初の生命は偶然の化学変化によって生じたものであり、それが何代も積み重なって進化し、ついに最も複雑で興味深いもの―私たち人間が出現したのだ」と言います。進化という考えは、エントロピーの法則と真逆です。なぜなら、無秩序から秩序へとだんだん良くなると考えているからです。しかし、実際、この世界は秩序から無秩序へとエントロピーが増大していきます。新築の家でも50年もたつと、雨漏りがしたり、床が落ちたりします。新車でも10年も乗ると、エンジンや足回りにガタが来ます。しかし、実際に生物は、進化はしないけれど、生命を一生懸命に保っています。植物は太陽からエネルギーを取っています。動物は何かを食べて生き続けています。生物は機械と違い、自己復元能力を備えています。でも、進化ではなく、全体の形も各部分も、特長もそのままです。

 

『エントロピーの法則Ⅱ』の本に「遺伝子工学は『エントロピーの法則』にどこまで挑戦できるか」ということが書かれていました。日本政府と多くの大企業は、日本を工業化社会から脱皮させ、遺伝子工学社会に突入させようとしています。遺伝子工学によって、私たちは生物資源を合理的かつ効率よく、よりスピーディに産業利用できるようにしようとしています。ところがその場合、将来の生態系そのものへの悪影響が及ぶ可能性などは、ほとんど考慮されていません。1970年代のアメリカで、遺伝子操作でとうもろこしの改良を行い、「スーパー・コーン」の大豊作を試みました。ところが、新型の病気が流行したときに、スーパー・コーンは脆弱で、全然抵抗力のないことを農業関係者は思い知らされました。いわゆる欠陥遺伝子を全面的に排除してしまうと、短期間的には効率の高い種ができるが、長期的には種の生存能力が弱まるのです。要するに欠陥遺伝子を排除することは、種に死刑宣告を与えるに等しいのです。つまり、種の中から、環境の変化に合わせて順応するための遺伝子形質をはく奪してしまうからです。

 

 私は英知に富んだ創造主がこの世界、そして生物を創造したと堅く信じています。人間は無から有は創造できないのです。生物を造っている基本的要素である、遺伝子を壊したり、組み合わせたりすることは簡単です。でも、一度壊れてしまった遺伝子を再生することは不可能です。私も子どもの頃、だれかの腕時計をばらばらにしたことがあります。でも、それを元通りにすることはできませんでした。人間は様々なクローンを作っていますが、映画のようなバイオ・ハザードが起こるかもしれません。私たちは神よりいくらか劣るものとして造られましたが、決して、神ではありません。創造主が造られたものを正しく管理することが求められているのです。

 

 第四は、遺伝子は進化論に反対します。フランシス・ヒッチング著『キリンの首』より。ダーウィンは「同種の異なる個体や別種の個体のある特徴が、ある時は遺伝し、ある時は遺伝しないのは何故なのか」分かりませんでした。彼の理論から行くと、より長い足、より優れた視力といった好ましい新特性は、その動物の子孫に次々に受け継がれなければなりません。ところが、実際は元の変質は混ぜ合わされてしまうのです。彼の死後、メンデルがエンドウのいろいろな品種を交配し、遺伝子のもとの考え方を発見しました。遺伝学は、生命そのもののしくみを記述する学問だと言われます。この学問は、人間は一つの種として、サルは別な種そして、そしてクラゲは全く異なる種そして、それぞれに存在していることの理由を説明してくれます。事実上すべての生物は、細胞からできています。各細胞の核の中には、動植物の種ごとに独特な情報の暗号である遺伝子がおさまっています。ここに遺伝の鍵があります。細胞は定期的に自身をつくりかえています。遺伝暗号は、そのたびことに同じものをつくりかえるにはどうするかを指令します。私たちは生まれながらにして持っている指紋を一生持ち続けたまま死にます。遺伝子が、生涯を通じて皮膚細胞の個々独特のパターンを保持させるからです。各細胞の性質と仕事を決定する遺伝暗号の実態は、化学物質DNA(デオキリシボ核酸)であり、二重らせんの形をしています。

 

 ダーウィンの追従者たちは、「突然変異こそが、進化になるのだ」と言いました。彼らに言わせると、偶然生じた有利な突然変異が、自然淘汰によって選択されることによって、新種が形成されると考えました。ダーウィンの時代以後も、植物や動物に交配と選択によって、品種改良を行ってきました。しかし、そうした場合でも、小麦はあくまでも小麦のままであって、グレープフルーツなどにはなりません。進化にこのような行き止まりが存在する理由は簡単に説明できます。要するに、各生物の遺伝システムには、独自の制約が組み込まれているのです。それぞれ動植物がその平均からあまりはずれないように、ストップがかかっていると思えば良いのです。最近の遺伝学の進歩によって、さらに分かってきました。人為的に作りだされたものは、繁殖能力や生存能力が劣るため、普通は死んでしまうか、すぐにもとにもどってしまうのです。

 

 昨年の528日、科学メディアPhys.org に「生物種の全面的な遺伝子調査により、生物進化の新しい側面が明らかに」という記事が掲載されていました。10万種以上の生物のDNAとアメリカ政府の遺伝子データーバンクにある500万以上のDNAの断片を徹底的に調査しました。そこから、現在地球にいる大半の生物(人間を含む)が地球上に登場したのは、10万年~20万年前の間だとわかりました。そして「中間種は存在しない」ということでした。これはつまり、この地球の生物の90%以上は「それ以前への遺伝子的なつながりがない」ということです。地球のほとんどの生命は20万年前以降に「この世に現れた」のです。現行の科学で言われている人類誕生までの歴史では、46億年前から始まり、35億年前くらいに最初の生命が誕生し、そこから徐々に進化してきたというものです。しかし、今回の大調査の結果わかることは、「徐々に」進化していないということなのです。…遺伝子は進化論を否定しているといことが科学でも証明されています。

 

3.創造論に立つ

 

 今日、子どもたちは学校でヒトは類人猿から進化したのが事実であり、歴史の授業で、ローマ帝国が存在したことが事実である、と教えるのと同じような確かさをもって、猿人が存在したと教えられています。事実、私たちの社会全体は進化論の観点に影響されています。つまり、「創造者はいない、ヒトは絶えず進化しつつあって、ヒトの悪い行為はヒトが過去に動物であった時の遺物に過ぎない」と言うのです。人が罪を犯すのは、進化の途中、進化が不十分なせいなのでしょうか?そうではありません。人間は創造主を離れ、堕落してしまったからです。生まれつきの人間は、創造主なる神を認めたくないのです。ダーウィンが「種の起源」を発表したときは、論争が嵐のように巻き起こりました。当時の著名な科学者の多くは、ダーウィンの学説に反対していました。しかし、それは産業革命後の社会にはうってつけの学説でした。「適者生存」が競争社会を正当化させました。また、科学の発展や遺伝子操作が人間に幸福をもたらすと考えました。そして、人間は「やっと神から自由になれた!」と喜んだのです。

 

 かなり前に稲垣久正氏が書かれた『進化論を斬る』という本を読んだことがあります。この方は、東京都立大卒の理学博士で、国際基督教大学の講師をなされ、専攻は理論物理学と教理生物学です。稲垣先生は科学的な面から、進化論が未だ証明されていない仮説であり、日本の富国強兵を正当化したとおっしゃっています。キリスト教会はどうでしょう?創造論を信じる人たちをキリスト教原理主義と馬鹿にしました。そして、教会は「有神論的進化論」という妥協案を考え出しました。神が進化によって人間を含む生物を創造したとする説です。この立場では、創世記の天地創造を寓意的に解釈します。そうなると、「神が天地を創造し、私たちを神のかたちに創造された」とはっきり言えなくなります。中間の化石がないこと、偶然による生命の発生がありえないこと、熱力学第二法則は進化と真逆であること、遺伝子は進化論に反対すると4つのポイントで申しあげました。学校では「進化論」を証明された事実のように教えているので、学力一辺倒の教育、おちこぼれ、弱い者いじめにつながっていると思います。教育の土台は創造者なる神を恐れることです。箴言17「主を恐れることは知識の初めである」と書いてあるからです。進化論の「適者生存」は社会福祉と全く反する考え方です。なぜなら、子どもや老人、障害者は存在する価値がないからです。本当の社会福祉は神が人間を創造し、命を与えたゆえに、どんな人であっても生きる価値あるという考えが土台です。詩篇84-8「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」人間は自然の一部ではなく、自然をちゃんと治めるように神さまから造られた尊い存在です。もし偶然で人間が誕生したのなら人生に目的がありません。でも、創造主が人間を創られたのなら、人生に目的があります。

 

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2019年2月 8日 (金)

エペソ教会と日本 使徒19:1-6 亀有教会鈴木靖尋牧師 2019.2.10

 ここ2回にわたりサタンとか悪霊からの解放について学んできました。実はエペソの教会がそのことを体験した教会です。そして、そのことは日本の教会に対する模範にもなります。日本の教会は長い間、リバイバル(霊的復興)を望んでいますが、なかなかその兆しがありません。「神の時である」と言えばそれまでですが、いざリバイバルが起こる時はこのようになるということを知っておく必要があります。もちろん、近年、各国で起こっているリバイバルからも学ぶ必要があります。でも、私たちは聖書から根本的な要素を捉えておくということがとても重要です。

1.エペソ教会のはじまり

 聖霊が降ったペンテコステから20年以上たっていたと思われますが、エペソにはまだ、そのことが起こっていませんでした。アポロという有能な教師がエペソに来て、キリストの福音を宣べ伝え、そこに信仰者の群れができました。しかし、その信仰は不完全でした。アポロがコリントに行ってから、パウロが奥地を通ってエペソにやって来ました。そして、幾人かの弟子に出会って「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。そうすると、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。パウロは「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと「ヨハネのバプテスマです」と答えました。そこで、パウロは「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言いました。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。ここには明らかに時間のズレがあります。時代遅れと申しましょうか、受けたのはヨハネのバプテスマであり、イエス様のそれではなかったということです。では、その両者は一体どこが違うのでしょうか?ヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」です。イエス様が来られる前、人々は罪を告白してヨルダン川でバプテスマを受けました。いわば罪の赦しのためのバプテスマです。しかし、ヨハネは「その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。そのことが、ペンテコステの日に成就しました。エペソの人たちは、その出来事を知らないで、ヨハネのバプテスマしか受けていなかったのです。今度は、改めてイエス様の名前によるバプテスマを受けました。そうすると、彼らの中に聖霊が入り、彼らは霊的に新しく生まれ変わったのです。この経験は現代のクリスチャンが普通に体験することです。※バプテスマ=洗礼

 しかし、問題となる表現が、パウロの「信じたとき、聖霊を受けましたか?」という表現です。ペンテコステ派の人たちは、福音派の人たちに「あなたは聖霊を受けましたか?」と聞きます。すると、「もちろん受けていますよ?」と答えます。すると「いつですか?」と聞かれます。「はい、イエス様を信じた時ですよ」と答えます。すると「そんなことはないでしょう?では、その時、異言が出ましたか?」と聞かれます。「え?異言って何?」というと「じゃあ、あなたは聖霊を受けていませんよ」と言われます。何かここにちぐはくさが見られます。この「受ける」という表現が問題です。このことに関しては既に何度も話していますが、私たちは2重の意味で聖霊を受ける必要があります。第一は内側に受けるということです。このことは私たちがイエス様を信じるとき、聖霊が私たちの内側に入り、私たちは霊的に新しく生まれます。パウロはローマ8章で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ89と言っていますので、クリスチャンは例外なく聖霊を内側にいただいている、受けているということです。でもここで満足してはいけません。私たちは上からも受ける必要があるからです。残念ながら、ビリー・グラハムが書いた『聖霊』という本では、内側に受けることだけしか書かれていません。聖霊で満たされるとは内側から満たされることであると言っています。この考えは、ほとんどの福音派の教会に受け入れられています。だから、ペンテコステ派が言う「聖霊を受ける」という表現が全く理解できないのです。

 パウロはエペソの人たちに、もう1つの別のことをしています。使徒196「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」これが聖霊を上から受けるという、第二の恵みです。使徒の働き18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」とありますが、上からと書かれています。上はギリシャ語で「エピ」です。そして、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が「エピ」上から臨んだのです。ウィットネス・リーは「聖霊の二種類の満たし」ということを述べています。内側の満たしはギリシャ語で「プレロー」です。もう1つ「プレソー」というギリシャ語があり、それは「外側を満たす」という意味です。たとえば、バブテスマ槽は内側で水に満たされますが、だれかがバプテスマ用の水槽の中にバプテスマされる時、彼は内側ではなく、外側で水に満たされます。私は、外側で満たされる経験を聖霊のバプテスマと呼ぶべきではないかと思います。なぜなら、そのことこそ、イエス様が弟子たちに望んでおられたことだからです。イエス様はかつて「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ2449と言われました。そのことが、ペンテコステの日に成就したのです。ですから、エペソの人たちはパウロが手を置いて祈ってくれたので、聖霊が上から臨んで満たされたのです。その結果、異言や預言という聖霊の賜物が現れたのです。これがクリスチャンの標準であります。内側に聖霊をいただいて新生し、外側からも聖霊をいただいて力を受けるのです。聖霊のバプテスマは奉仕のための賜物と力を与えます。福音派の教会は聖霊が内に満たされ、キリスト品性、聖さが現れることを願い求めます。ガラテヤ書5章には「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いてあります。しかし、私たちは同時に、奉仕のための賜物と力が必要です。Ⅰコリント12章には「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです」とあり、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など9つの賜物が記されています。エペソの教会のはじまりは、キリストの御名によるバプテスマと、聖霊が上から臨む聖霊のバプテスマの2つがありました。私たちはこの2つの聖霊の経験を持つことを標準にしたいと思います。

2.エペソ教会の発展

 エペソ教会はどのように発展したのでしょうか?使徒198-12「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」パウロの伝道法はまず、ユダヤ人の会堂に入り、彼らに福音を語ることでした。その当時、ユダヤ人の会堂はいたるところにありました。かつてエルサレム神殿が破壊され、世界に散らされたことのなごりです。しかし、ユダヤ人はキリストの福音に反抗的であり、エペソにいたユダヤ人も全く同じでした。「この道をののしった」というのは、「キリストの福音をののしった」ということです。それで、パウロはしかたなく、異邦人に向けて福音を語りました。パウロたちは「毎日ツラノの講堂で論じた」とありますが、これはギリシャ人が自由に政治や哲学を論じることのできた講堂があったということです。「これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」とありますが、彼らがみんな信じたわけではないけれど、小アジアにすむ人たちみんなが、主のことばを聞いたということです。そして、パウロは福音を宣教しただけではなく、しるしと奇跡を行いました。かつてイエス様が弟子たちにお命じになられたように、病をいやし、悪霊を追い出しました。人々はパウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てました。すると、その病気は去り、悪霊は出て行ったということです。アーメン。リバイバルが起こるとこのようなことが普通に起こります。奇跡が日常茶飯事に起こったらすばらしいですね。

 でも、ある事件が起こりました。使徒1913節から16節にしるされています。エペソの魔術師たちが、人々が教会によって悪霊から解放されているという話を耳にして、確かめに行きました。彼らは、クリスチャンたちがイエスの御名によって癒しと解放を行っているのを、目の当たりにしました。そこで、エペソの町で著名な魔術師の幾人かが、イエスの名によって悪霊の追い出しをしてみました。「パウロの宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる!」。すると悪霊は、とりついた男性を通して答えました。「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもお前たちは何者だ?」そして、悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、彼らを打ち負かしました。魔術師たちは裸にされ、傷を負ってその家から逃げて行きました。この出来事は、またたく間に町に広まったと書かれています。使徒1917「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」

 このところに私たちがこれまで学んできた、サタンと悪霊からの解放が記されています。チャック・ピアスが書いた『使徒的教会の台頭』にこのように書かれています。エペソは女神アルテミスの神殿があり、ローマ帝国における異教の中心地でした。それに加えて、魔術やオカルトの拠点としても知られていました。魔術というのは、手品のことではありません。魔女や魔術師、魔法や占いのことです。エペソは霊的に暗い場所でした。ローマ社会では、まじないや呪文、魔法の本は「エペソの書物」と呼ばれていました。エペソは、そのような評判を持つ町だったのです。古代社会では、確かに呪いをかけたり、悪霊をはらいたいとき、エペソの魔術師なら願いを叶えてくれるという望みを持って、人々はエペソに行きました。エペソは、教会開拓者にとっては屈辱的な場所だったに違いありません。繁栄し、巨大で誇り高く、オカルトや異端が支配的な町だったからです。しかし、その霊的に暗いエペソの町に、神は光を灯し、地域全体を照らしました。事実、エペソは、もっとも重要な使徒的センターでした。「アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主の言葉を聞いた」のです。黙示録1章から3章には、小アジアの7つの教会が列挙されていますが。それらの教会は、恐らくこの二年間にエペソから遣わされた複数の使徒チームによって開拓されたのです。アーメン。

 私は、エペソは霊的な意味で日本に似ているのではないかと思います。日本人は教育があり文化的な生活をしています。しかし、首相をはじめ大臣たちのほとんどは神道系の宗教団体に属しています。政治や企業のトップが占いや霊能者のお告げで方針を決めているそうです。日本では毎朝テレビで「きょうの占い」が放映されています。ゲームや漫画には魔術やオカルト、ニューエイジがからんでいます。日本は偶像崇拝の国であり、人はもちろん、山や動物、なんでも神さまにして、拝んでいます。神仏に手を合わせることが、信心深くて良いことになっています。このような日本に、「天地を造られた神はおひとりしかいない。救いに至る道はキリストしかない」と言うなら、「なんと狭い宗教なんだ」と排斥されるでしょう。しかし、エペソでパウロたちは何をしたのでしょう?なんと、偶像の神ではなく、生きているまことの神さまをデモンストレーションしました。パウロは主のみことばだけを伝えたのではありません。病人をいやし、悪霊を追い出しました。さまざまな奇跡やしるしが起こり、人々は、「自分たちは間違った神を拝んでいた」と告白しました。それだけではありません。魔術の本をかかえて来て、みんなの前で焼き捨てました。その金額は銀貨5万枚ですが、5万デナリで現在の5億円です。彼らは悪霊と関係を断ち切ったのです。日本にもこのような劇的な回心が必要です。なぜ、日本のクリスチャンはなまぬるいのでしょうか?それは偶像礼拝や過去の罪を断ち切らないために、悪霊がどこかに住んでいるからです。人格の一部を、心のどこかの部屋を、思いを支配されているからです。私たちは本物のクリスチャンになるために、偶像礼拝を悔い改め、悪しき霊からの解放が必要です。

3.エペソ教会の危機

 使徒1920「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」とハピーエンドで終われば良いのですが、そうではありませんでした。前にも申しましたが、エペソは女神アルテミス(ダイアナ)を祀っている神殿がありました。この神殿はアテネのパルテノン神殿の三倍の大きさがありました。この神殿を見るためだけに、ローマ帝国から人々がやってきました。この期間にエペソ教会が急成長したために、町の経済が荒廃しました。エペソの主要産業の一つは、女神アルテミス像の制作でした。パウロの二年間に及ぶ伝道の終わり頃には、多くの人が主を信じるようになり、偶像を買う人がいなくなりました。偶像職人たちは、文字通り町中で騒動を起こし、自分たちの商いを守ろうとしました。使徒1926「ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。私はエペソの背後にいる悪霊が巻き返しを図ろうと、群衆を扇動しているとしか思えません。「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と二時間ばかり叫び続けた」(使徒1934)とあるからです。しかし、幸いなことに町の書記役が出て来て、騒動が納まりました。個人の救いだけではなく、社会のしくみが変わる、トランスフォーメン(変革)がリバイバルのゴールです。

 キリスト教会史において、エペソのようなリバイバルが各国で起こりました。しかし、ジョンウェスレーのリバイバルが30年間で最も長く、世界のリバイバルの平均寿命は3年から5年、長くて10年です。なぜ、リバイバルが急速に衰え、その火が消えてしまうのでしょうか?その最大の原因は教会に対する迫害よりも、同じ教会からの非難や中傷であります。今から25年くらい前、カナダのトロントでリバイバルが起きました。その名前は「トロント・ブレッシング」と呼ばれています。リバイバルはトロント・エアポートチャーチで始まりました。ジョン・アーノットが主任牧師です。そこへ4日間の約束でイリノイ州の小さな教会からランディ・クラーク師が招かれました。そこに聖霊の火が下り、集会は40日間に及びました。癒しや奇跡がどんどん起こりました。人々は床に転げ、笑いながら、転げながら、泣き続けていました。ものすごい聖霊の油注ぎがあり、世界から100万人くらいが聖霊の力をいただきに訪れたと言われています。ところが、ミニストリーを受ける人たちの中に、笑い転げ、動物の声で叫んだり、動物のように床を這うような人たちも現れてきました。トロント教会は「それはホーリィ・ラーフィングであり、解放と癒しが起こっている証拠だ」と言いました。ところが、ヴィンヤード・チャーチの指導者たちは、「ヒステリックで霊的に危険である」と批判しました。その結果、トロント・エアポートチャーチはその群れから追い出されてしまいました。

 エディ・レオ師は「リバイバルは神さまの一方的な恵みであるが、リバイバルを継続させるのは私たちの責任である」と言いました。リバイバル、それは聖霊の圧倒的な現れです。リバイバルが起こると、良いものだけではなく、カオス(混沌)も一緒に訪れます。神学的におかしなことも起こり、あきらかに行き過ぎだと思えることも起こります。教会にはブルドックのように、伝統や教義を守る番人がいるものです。特に、その教会が大きな教団に属していると、やり玉にあがります。どんな立派な人でも、神さまに用いられている人に対しては、ねたみ心が起こります。そして、小さな問題を、主要な出来事として批判するのです。「あれは聖霊ではなく、悪魔がやっていることだ」と言うのです。福音書にありますが、イエス様が口をきけなくする悪霊を追い出したことがありました。パリサイ人は「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と批判しました。イエス様は「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、御霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」(マタイ1232と言われました。混乱を避けたい、善良な人たちによって、聖霊の火が消されてしまうのです。

 ビル・ジョンソン師は『天が地に侵入する時』という本でこのように警告しています。行きすぎた行為を恐れるために、多くの人はどっちつかずの中間さをバランスが取れた考え方のように採用しています。そのような恐れは、自己満足することを徳とします。行き過ぎた行為に対する恐れは、変化に反対する人々を高潔な心を持った者のように見せてきたのです。しかし、行き過ぎた行為がリバイバルを終わらせた訳では決してありません。ウィリアム・デ・アルディガは、「偉大なリバイバルは、極端な人々の故に終結したのではない。それは、反対者たちの糾弾によったのです。分裂は、霊的なことを計る物差しとして、知性に最高の価値を与える時にはいつでも起こることだ。分裂は、多くの人が非難するように、聖霊の賜物が用いられたことによるのではない」と言っています。…私たちの完璧さに対する脅迫観念が、リスクを冒すための余地を消し去ってはなりません。完全さということに関して付け加えて言うなら、それは宗教の霊に余地を与えることです。一歩踏み出して神に用いられることを拒む人は、それを行う人を非難する側に回ります。危険を冒す者は、神の心を興奮させると同時に、危険を冒すことのない、決して失敗しない人々からの攻撃の対象となるのです。

 教会の多くは、聖霊の偉大なリバイバルを求めています。しかし、自分たちの神学や考えに合わないと、「もう結構です」と拒否してしまいます。リバイバルが起こると、良いものだけではなく、カオスも一緒に訪れます。「肉は食べて、骨は口から出す」ということわざがあります。現象を見てさばくのではなく、聖霊様がなさっている癒しや解放、救いを見るべきです。日本の教会はあまりにも知的で神学的です。人間の小さな頭で、どうして聖霊の偉大なリバイバルを把握できるでしょう。あえてリスクを冒すような冒険心、聖霊様にどこまでも期待する飢え渇きが必要です。日本にもエペソ教会に起ったようなことが起りますように願いたいと思います。

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2019年2月 2日 (土)

霊的解放 ルカ11:24-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.2.3

 私たちはキリストと共によみがえらされ、キリストと共に天のところに座らせて下さった存在です。ですから私たちが悪魔と悪霊に立ち向かうとき、下からではなく、上から立ち向かうのです。まず、このことを知ってから、悪しき霊からの解放について学ぶことができます。きょうは悪霊によって支配されている程度の重いものから順番で学びます。第一はとりつかれる。第二は場所を与える。第三は思いです。

1.とりつかれる

 「クリスチャンは、悪霊にとりつかれることがあるのか?」という疑問があると思います。答えはそうでもあり、そうでもないということです。そもそも、「とりつかれる」とはどういう意味でしょう?マルコ4章にゲラサ人の地にいた人のことが書かれています。彼は汚れた霊につかれた人であり墓場に住んでいました。彼はたびたび足かせや鎖につながれても、鎖を引きちぎり、足かせも砕いて、だれも彼を押さえるだけの力がありませんでした。彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。イエス様が「お前の名は何か?」とお尋ねになると「私の名はレギオンです」と答えました。「レギオン」はローマの軍隊では、6,000人の兵士の単位です。イエス様は本人に名前を尋ねたのですが、内側にいた悪霊が答えたのです。英語の聖書では、マルコ515「とりつかれる」possessed withとなっており、「所有されている」という意味です。彼は人格まで支配されていたのですから、よっぽど重症の人でした。また、ルカ13章には「18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女性」のことが記されています。英語の聖書は「持っている」と書かれています。彼女は病をもたらす悪霊を内側に持っていたということです。それで体を伸ばすことができなかったのです。

 ルカ福音書の11章の物語は、一見、たとえ話のようでありますが、霊的な事実を私たちに教えています。家というのは私たちの肉体のことです。このお話しの前で、イエス様は口をきけなくする悪霊を追い出しています。その後、イエス様は強い人が十分に武装して自分の家を守っているというたとえ話をしています。イエス様はより強い者であり、彼の武装を解除して、分捕りものを分けます。それはサタンに捕えられていた人を解放するという意味です。その後、家から出ていた悪霊の話をしています。この話をしている対象はイエス様に悪口を言った宗教家であろうと思います。彼らは聖くなろうと悔い改めをしていたに違いありません。でも、家の中は空っぽで掃除がしてありました。すると、一度出て行った悪霊が、他の霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつきました。それでその人は前よりももっと悪くなったということです。それがイエス様を批判した宗教家たちのことを指しているのは間違いありません。この地上は真空を嫌います。彼の家は空っぽだったので、悪霊が入り込んできたのです。最良の道は、イエス様を家の主人にお招きすることです。もし、家がイエス・キリストのものになっていたなら、イエス様が「何しに来たんだ。勝手に入るな。これは私の家だ」と悪霊の侵入を許さないでしょう。

 クリスチャンも、悪霊にとりつかれることがあるのでしょうか?多くの場合、クリスチャンになる前のことが原因になっています。イエス様を主と告白して、洗礼を受ける時、多くの霊的なものが排除されると信じます。でも、ある悪霊は、その人の中に居続けることが可能です。その一番の原因は、未信者の時に行っていた偶像礼拝です。クリスチャンになってから、偶像礼拝する人はいないでしょう。悪霊に入られたのは、クリスチャンになる前です。日本の家々には仏壇があり、先祖崇拝をします。新年は神社に行って参拝し、厄年などは御払いに行くかもしれません。当教会には、神輿を先頭で担いでいたという姉妹もいます。占いや呪文、魔術にはまった人もいるでしょう。また、七五三などでは、両親が子どもを神社に行って「守って下さい」と拝みます。もし、そこに悪霊がいたなら、悪霊と契約を結ぶことになり「よし、わかった。一生面倒見てやる」と言うでしょう。本人ではなく、両親が結んだ契約ですが、生きている間、有効になっている場合があります。そういう場合には、悔い改めて、主イエスの名前によって契約を打ち破る必要があるでしょう。また、偶像崇拝や占いをした罪を悔い改める必要があります。今から20年前に「解放のキャンプ」というのがインドネシアから入りました。私はインドネシアでその現場を直接見ました。200人のキャンパーが洗礼を受ける前に、解放のミニストリーを受けていました。メッセージの後、100人位が前に出て、もだえ苦しみながら解放を受けていました。中心的な原因は偶像礼拝と性的な罪からくる束縛でした。解放を受けてから、イエスを主と告白し、プールで洗礼を受けていました。

 最近、日本の教会ではそのような「解放のキャンプ」をしなくなりました。インドネシアなどは、霊的な解放に対してとてもオープンです。罪を告白し、赦しと解放を受ける教会の文化ができています。しかし、日本は「あの人、悪霊につかれていたの?怖い!」とか言われて、特別扱いされる恐れがあります。しかし、クリスチャンになる前の私たちは悪霊にやられていることは間違いありません。それを解放のキャンプのように集中して行うか、毎週の礼拝などで、少しずつ解放されていくかどちらかです。牛久の大喜多牧師は大学生のとき、イエス様を信じました。泊りがけの修養会に青年たちと参加しました。大喜多青年は、布団に寝ながら、牧師の悪口をさんざん言っていました。隣に寝ていた先輩ががばっと起きて、大喜多青年の頭に手を置いて、「悪霊を出て行け!」と祈ってくれました。大喜多青年から黒い煙のものが「ばーっ」と出て行ったそうです。次の朝、彼はすっきりして、何で自分が牧師のことを批判していたのか分からなかったそうです。牧師に対して、無性に逆らいたい気持ちのある人は怪しいです。イエス様を礼拝しようとすると混乱があり、集中できないというのも悪霊が原因している可能性があります。私も教会に来たての頃は10分位、集中的なくて、後半からやっとメッセージが入りました。色々原因があると思いますが、これまで偶像礼拝や占いをしたことのある人は、その名前を上げて、悔い改め、主イエスの名前によって関係を断ち切りましょう。自分で自信のない人は、信頼のおける人から断ち切りの祈りをしてもらったらとても効果があります。

2.場所を与える 

 

 エペソ426,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ここで言われている「機会」は、ギリシャ語でトポスです。トポスは「滞在や居住のための場所や部屋」という意味があります。文脈から考えると、怒ること自体は罪ではありませんが、そのまま放置すると、そこに悪魔が場所を設けて、その人を支配することになります。日が暮れるというのは、次の日まで持ち越すということです。すると、心の中に怒りが留まり、悪魔が悪さをする場所を設けるということです。怒りだけではなく、トラウマ、罪責感、悲しみ、赦せない心、ねたみ、心の傷など…そういうものが悪霊の餌になります。たとえば、生ごみをそこに放置したらどうなるでしょう。カラスやネズミが集まって来るでしょう。あなたは、いつもやって来るカラスやネズミを追い出すべきでしょうか?それとも生ごみを片付けたら良いでしょうか?もちろん後者でしょう。生ごみにあたるのが、怒り、トラウマ、罪責感、悲しみ、赦せない心、ねたみ、心の傷などであります。処理されていない罪や心の傷があるので、悪霊がやってくるのです。そのために、まず罪を告白し、赦しと癒しを受けるべきです。その後、場所を設けていた悪霊は簡単に出て行くでしょう。

2001年、蒲郡の石原牧師が『解放のミニストリー』という本を書きました。そこには「足場」あるいは「要塞」と書かれていました。その本から少し引用いたします。「私たちはキリストの贖いをとおして、神によって無条件の罪の赦しを受けていますが、実生活の中で、悪魔は私たちの過去に行ってきたすべての罪の行動を見てきたので、その罪を持ち出して訴えます。それはちょうど敵のために用意された要塞のようであり、建築中の足場のようです。悪魔は私たちの過去の偶像との契約や罪、心の傷を足場として用い、救いを受けた後でも容赦なく、その人を縛り、自由を制限し、神の栄光のために生きられないように邪魔をするのです。自分の側に悪魔が居座るための要塞や足場を残したままにしておけば、悪霊どもは私たちとの関わりをそのまま持ち続け、影響力を行使できます。それゆえ、私たちはキリストにある自由を自分自身のものとするためにも、要塞をつぶし、足場をできる限り、取り外す必要があります。その方法は、告白という武器を用い、キリストの御名の権威を用いて、悪霊とのかかわりを断ち切って行くことです。」アーメン。私も蒲郡や他の場所で開かれた、解放のキャンプに参加したことがあります。しかし、最後に石原牧師が「共依存」や「ひきこもり」の方にウェートが行きました。確かに、日本人にはそのような傾向や必要性はあると思います。しかし、教会を離れてミニストリーをするようになってから、バランスに欠けるようなところが見えてきたように思えます。

 ニール・アンダーソン師は「赦さない罪こそが最も、その人を束縛する場所になる」と言っています。私たちクリスチャンは「人がした悪を赦さなければならない」ということを頭では理解しています。「主の祈り」でも毎週、その箇所を賛美しています。しかし、賛美しながら「そのことは別だよ」と、スルーしているのではないでしょうか?私たちは人を赦す前に、「赦しとは何でないのか」、「赦しとは何なのか」を正しく知る必要があります。第一に赦しとは、罪をがまんする、罪を大目に見るということではありません。神さまは罪に対して、刑罰というかたちで取り扱います。大事なのは私たちが自分で復讐するのではなく、神さまにお任せするということです。ローマ1219「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」つまり、自分が復讐する権威を神さまの前に放棄するということです。第二に赦しとは、相手が罪を認めて謝ったなら赦してあげるということでもありません。もちろん、そのような和解が来たら一番幸せですが、その日がいつ来るかわかりません。もしかしたら、一生来ないかもしれません。今も、その人は自分が犯した罪を忘れて、涼しい顔をしているかもしれません。相手のことを関係なく、こちらが赦すということです。第三は、自分の中に赦す気持ちが起きたら、赦すというものがあります。これが最も厄介であります。なぜなら、赦すのは意志の問題であり、感情ではないからです。感情がそのように望んでいなくても、神さまのご命令ですから「赦します」ということが重要です。第四、赦しとはその人の罪を忘れることではありません。赦す行為は必要ですが、忘れることは自分の記憶の問題ですから、意思とは関係ありません。私たちは過去のことを思い出すことがあります。その度に、神さま「私は既に赦しています」と委ねるべきなのです。そうしていくうちに思い出す回数が少なくなっていくでしょう。

ニール・アンダーソン師は、赦しとは何なのかこのように教えています。罪が犯されたときには、加害者と被害者がいます。そして、この罪によって二人の間に、鎖が出来てしまいます。加害者があなたに悪いことをしました。あなたを言葉で傷つけたり、あなたの権利を奪ったり、あなたをだましました。あなたの腕には傷があり、加害者に対するうらみがあります。それが目に見えない鎖になっています。鎖の反対側はあなたを傷つけた加害者にあります。鎖の先が首輪のようにその人にはまっています。距離的に離れていても、その人とは鎖でつながっています。二人の間には霊的なそして情緒的なつながりがあります。ですから、赦しというものは意志によって、選択すべきこと(選び取るもの)です。赦しとは、被害者と加害者との問題というよりも、むしろ被害者と神さまとの問題なのです。たいてい加害者は被害者の痛みなど全く知らないで、のほほんと暮らしています。被害者の苦々しい思いや恨みは加害者にどういうダメージをもたらすでしょうか?もたらしません。あなたを苦しめ、あなた自身に毒を飲ませているのです。霊的に、情緒的に、そして肉体的なダメージを与えてしまいます。ある医者さんは「怒りをどういうふうに処理したら良いか、ちゃんと教えることさえできたら、患者の80%ほど退院させることができる」と言っていました。神さまとの関係において、赦そうと決めるのです。その人にかぶせていた非難と憎しみを取り去って、神さまの御手におゆだねします。思いの中で、相手の罪の首輪をはずしてあげます。そうすると、被害者であるあなたの腕から鎖がはずれてあなたは自由になります。その結果、あなたを縛っていた悪霊が足場をなくすので、もう去るしかありません。

3.思い

Ⅱコリント103-,5「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる」。このみことばこそが勝利の秘訣です。私はパソコンを使っていますが、パソコンの中にウィルスを駆除するソフトが入っています。インターネットやメール、だれかのUSBからウィルスが入ります。感染すると自分のパソコンがダメになるだけではなく、だれか他の人にも害を与えてしまいます。ウィルスは1つのソフトみたいで、それを開くと、独自の働きをするようにプログラムされています。私たちの思いも同じで、だれかによってマインド・コントロールされることがあります。そうすると自分の意思や考えではなく、勝手に動いてしまうのです。「思い」は英語でマインドですが、思考、知性、頭、心のことです。私たちはすでに人間の魂の構造について学びましたので、省略します。結論から言うと、私たちの思いはたえず悪霊の攻撃にさらされています。言い換えると、私たちの思いは戦いの場であるということです。戦いは会議室ではなく、頭の中で起っているのです。悪魔は汚れた思い、疑い、恐れ、違った教え、惑わし、失望落胆、邪悪な思いを雨あられのように、私たちの思いにぶちまけています。私たちはこれを自分の思いのように錯覚して、「なんて私は汚れているんだ」、「なんて私は不信仰なのだ」と自分でがっかりします。悪魔が、あなたの思いを支配したら、あなたをほとんど支配したことになります。なぜなら、人間は神に近い知的な生き物だからです。

ジョイス・マイヤーという人が『思考という戦場』という本を書いています。そこに「メアリーの物語」が書いてありました。メアリーと夫のジョンの結婚生活はうまくいっていません。二人の間には、絶えず争いがあります。二人とも怒りっぽく、互いに相手に対して苦々しい気持ちを抱き、恨み辛みの思いが相当たまっています。二人の子どもも、家庭内のごたごたから、間違いなく何らかの影響を受けています。メアリーの問題は、夫のジョンを家長の座に座らせることができないということです。つまり、彼女は何でも自分で仕切りたいのです。家計についても、子どもの教育についても、すべて自分で決めたいと思っているのです。また、自分が自由に使える「自分だけの」お金を持つために、外で働くことを考えています。つまり、彼女はだれにも頼ろうとせず、何かといちゃもんをつけるうるさ型で、人に対する要求も高く、いつもがみがみ言うタイプなのです。メアリーの思考には要塞が築かれていました。その要塞は、もう何年ものあいだずっとそこに居座っています。どうやってその要塞が築かれたのか、本人でさえわかりません。反抗的になったり、ガミガミ小言を言ったり、高圧的で高飛車な態度は良くないとわかっていても、どうすれば自分を変えることができるのか全く分からないのです。ある状況になると、どうしても自分を抑えられなくなり、衝動的に醜態をさらしてしまうからです。メアリーが自分の行動を律することができないのは、自分の思考を制することができないからです。なぜ、自分の思考を制することができないかというと、幼い頃、悪魔が彼女の思考の中に要塞を築き上げたからです。

サタンは、彼女がまだ幼いときに、周到に練り上げた計画を実行に移し、巧妙に仕組まれたうそ偽りという種を蒔き始めました。つまり、メアリーが今悩んでいる問題の原因は、彼女の子ども時代にまでさかのぼることができました。メアリーの父親は非常に支配的な性格で、自分の機嫌が悪いと言うだけで彼女をぶつことも多々ありました。もし少しでもおかしなことをいうものなら、ありったけの怒りを彼女にぶちまけたのでした。何年ものあいだ彼女は、自分と母親に対する父親の傍若無人な態度に、絶望的な思いで悩み続けてきました。父親は、娘や妻の人格を否定し、人を食ったような態度を取り続けたに対し、兄に対しては接し方が全く異なりました。まるで、男の子であるというだけで、えこひいきしているかのような有様でした。16歳になる頃までには、メアリーはサタンが何度も繰り返し囁いたうそ偽りにすっかり洗脳されてしまいました。「男なんて威張っているだけよ。みんな同じ。信用してはだめ。結局はあなたを傷つけ、あなたを利用するだけだから。あなたが男だったらうまくいったのにね。好きな事をやりたい放題できたのに。人に命令し、威張り散らし、自分の思い通りに人を操り、だれも(特に、妻や娘たちは)何も言えなくて、ただ言いなりになるだけなのにね」。その結果、メアリーは「大きくなって家を出たら、二度と人に振り回される人生は送らないわ!」と心(マインド)に堅く誓ったのでした。サタンは、メアリーがまだ幼い時から、彼女の思いに戦いを仕掛けてきたのです。そんな状態で成長し、いざ結婚して、従順でかわいらしく、性格の良い妻になれるでしょうか?メアリーと同じような問題を抱えている人たちは、これから先どうすれば問題を解決できるでしょうか?

イエス様はこのように言われました。ヨハネ831,32「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」このところでイエス様は、どのようにしてサタンの偽りに勝つか伝授しておられます。それは、神の真理を知り、それを自分のものにし、みことばによって思考を一新することによります。そして、最初引用したⅡコリント104,5節を武器にして、敵の築いた要塞を打ち壊し、神の知識に逆らうあらゆる高慢と高ぶりを打ち砕くのです。ここで言う「武器」とは、教会での説教や聖書の教えを通して、あるいはキリスト教書籍やテープ、個人的なディボーションの中で受け取ったみことばです。しかし、ただ受け取るだけではなく、御霊の啓示により自分にとっての真理になるまで、みことばにとどまらなければなりません。そうです。継続は力なりです。私たちは耳にする真理に対して、どれだけ考えたか、あるいは学んだかによって、私たちのもとに帰ってくる量が決まるのです。私たちはみことばの武器を絶えず使い続けることが重要なのです。思いにおける悪しき霊との戦いは、いわば真理の戦いです。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」アーメン。

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