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2019年1月25日 (金)

神の敵を知る エペソ6:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.27

 サタンとは元来、「敵対者」という意味です。サタンは神に敵対し、神の子どもである私たちをできるだけ神さまから離そうと、今も働いています。また、サタンは新約聖書においては「悪魔」とか「誘惑者」と呼ばれています。イエス様や弟子たちを絶えず誘惑しました。エペソ6章で、パウロは「悪魔の策略に対抗するために神の武具を身につけよ」と言っています。私たちはある意味では、霊的戦いの渦中にあるということです。何でも悪魔や悪霊のせいにしてはいけませんが、私たちの周りには見えない敵、見えない誘惑者がいるということを知る必要があります。

1.サタンの経歴

 聖書にはサタンの経歴careerについて明確に述べていません。それでも、私たちはある程度、彼のことを知ることができます。イザヤ書14章にはバビロンの滅びが預言されていますが、これがサタンの堕落を暗示しています。イザヤ1412-15「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」彼はおそらく天使長の一人で、賛美を司っていたのではないかと思われます。ところが「神の星々のはるか上に私の王座を上げ、…いと高き方のようになろう」と心の中で高ぶりました。星々というのは天使たちのことであり、彼らの上に王座を上げ、神のようになろうとしました。つまり、サタンは高慢になったために、よみに落とされたということです。でも、サタンは一人で反逆したのではありません。黙示録124「その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた」とありますので、天使の三分の一がサタンと一緒に落とされたのでしょう。彼らが今日、悪霊と呼ばれています。多くの人たちは、サタンは醜い顔をしていると思っています。しかし、そうではありません。エゼキエル2812,13「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。」と書かれています。エゼキエル28:17「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」サタンはあまりにも美しく、知恵がありました。そのために高ぶって堕落したのです。箴言1618「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」と書かれていますが、私たちも気を付けなければならないことです。

 その後、サタンはどうなったのでしょうか?創世記3章には蛇に化けたサタンが登場します。ということは、人間が造られる前に、どこかにいたということです。創世記12節は神学者の間でも物議をかもす箇所であります。1節では「初めに、神が天と地を創造した」と書かれています。ところが、2節になると「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり」と書かれています。ウィットネス・リーは1節と2節の間に膨大な時間があり、このときサタンが堕落し、2節は再創造であろうと言います。ジョン・ミルトンは『失楽園』という本の中で、サタンは「宇宙の反対側へはるばると吹き飛ばされ、荒涼たる辺境(リンボ)に結局到達する」(P.114)と書いています。本来この地上は人間のために造られました。ところが、アダムとエバが堕落したために、その支配権を失いました。サタンはそれを横取りして、「この世の君」となったのです。エペソ2章を見ると、彼は「空中の権威を持つ支配者」と呼ばれています。そのため、生まれつきの人間はサタンの支配下におかれ、暗闇の王国の中にいるのです。人間はもはや自由ではなく、罪過と罪の奴隷なのです。イエス様はルカ11章で「しかし、もっと強い者が襲って来て、彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」と言われました。私たちはかつてサタンの持ち物でした。しかし、イエス様は私たちを解放するために来られたのです。

 ヨブ記を見ると分かりますが、旧約時代、サタンは神さまの前に行くことができたようです。ヨブ1:6,7「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて言った。『地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。』」とあります。サタンは「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」と言いました。それを神さまが許したので、ヨブはすべてのものをなくしました。それでも、ヨブは神さまをのろいませんでした。黙示録を見るとさらに分かります。黙示録1210「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」とあります。サタン、あるいは悪魔は、「兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われています。サタンの武器は私たちの罪を神の前で訴えることです。神さまは義なるお方ですから、その罪をさばかない訳にはいきません。でも、聖書の最後の書物を見て分かりますが、サタンはもう神さまのところへは行けなくなりました。なぜなら、イエス・キリストがすべての罪を贖ってくださったからです。おそらく、サタンは、キリストが十字架で死んだとき喜んだでしょう。「キリストは死んだ。これからは俺のやりたい放題だ!」と思ったに違いありません。サタンは知りませんでしたが、十字架こそがサタンの武具を奪うことになるのです。つまり、キリストがご自身の血を流し、すべての罪を贖いました。神さまはキリストの贖いをご覧になって、ご自身の義が満たされました。もう、人類を罪によってはさばかないとお決めになられました。だから、もうサタンは兄弟たちの罪を神さまのところに持って行けなくなったのです。サタンの最後はどうなるのでしょうか?黙示録207「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、…」黙示録2010「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」最後は、サタンと悪霊どもは、永遠の火の池に投げ込まれます。サタンは最後に完全に滅ぼされるのです。でも、サタンは自分だけで滅びたいのではなく、一人でも多くの人間を巻き添えにしたいのです。これがサタンの経歴careerです。

2.悪魔の策略

 サタンは完全にいなくなったわけではありません。もしそうであれば、何も問題なく信仰生活を謳歌できるでしょう。しかし、私たちはサタンの経歴の最後のところで生活しています。エペソ21,2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」サタンは「空中の権威を持つ支配者」として今も不従順の子らの中に働いています。サタンは神を信じていない人たち、つまり、自分の罪過と罪との中に死んでいる者たちを所有しています。「イエス・キリストが十字架ですべての代価を払ったにも関わらず」です。ギリシャ時代は、奴隷が市場で売買されていました。自由人は奴隷の品定めをして、「これを買う」とバイヤーに告げます。そうすると、その奴隷が入った鉄格子の上に「売約済み」という札が貼られます。その奴隷の所有者が代わったわけです。イエス様が十字架で死なれる直前、「完了した」と叫ばれました。これはギリシャの商業用語で、テテレスタイと言います。テテレスタイとは「一度で全部を支払った」という意味であり、まさしく「売約済み」です。十字架以降に生まれた人たちは、「売約済み」という札のかかった鉄格子の中に入っています。もう、鍵はかかっていません。「ああ、そうですか」と出てこれば、その人の贖いが完了します。しかし、サタンは「そんなのウソだ。ここが一番、幸せなんだ。」と嘘をついて捕えたままにしています。

 私たちがすべき宣教は、キリストが成し遂げられたことを知らせることです。福音宣教こそが私たちが悪魔との戦いで、もっともなすべき優先順位だということです。でも、悪魔は指を加えて、見ているのではありません。Ⅱコリント44「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」「思い」というのは、mindであり、知性とか考えであります。人間の知性を支配できたら、その人全部を支配できます。悪魔は間違った情報を、私たちの思いにばらまいていると言うことです。特に「キリストの栄光にかかわる福音」です。人々は「キリスト」と聞いただけでむっとします。そして、「宗教なんか必要ない」と言うでしょう。そう言われると、こちらはひるんでしまいます。何故、人々は宗教が嫌いなんでしょう?それはこれまでさんざん偽物を掴まされてきたからです。でも、偽物が多いからと言って本物がないということではありません。たとえば、一万円の偽札があるとします。でも、人々はそんなの気にしないで一万円札を使っています。何故でしょう?偽物もあるけど、本物もあると信じているからです。ところで偽札を作る人は、千円札を作りません。なぜなら、コストが高くて元を取れないからです。では、百万円札だったらどうでしょう?それだったら、明らかに偽札とばれます。だから、紙幣で一番高価な一万円札の偽札を作るのです。同じように、キリスト教の偽物が多いのはそのためです。明治以降、日本にたくさんの新興宗教ができました。そのほとんどが、聖書の良い教えを集めたものです。たった1つないのが、罪を贖われたキリストのことです。この世の宗教には罪の贖いがありません。なぜなら、それを信じたら本当に救われてしまうからです。

 ロイド・ジョーンズという人が『キリスト者の戦い』という本を書いています。彼は有名なイギリスの説教家でその説教集の1部です。ロイド・ジョーンズは、悪魔は人間の知性を攻撃すると述べています。なぜなら、知性こそが人間の最高の賜物だからです。悪魔が人間の思いをくらませるとありますが、彼は6つ取り上げています。第一は、悪魔は疑いを巧みに入り込ませるという方法を最初に取りました。彼はエバのところに来て「神は本当に言われたのですか」と言いました。ペテロはイエス様が死んでよみがえるとおっしゃったとき、「主よ。そんなことがあなたに起るはずはありません」と言いました。主は「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。サタンはペテロの思いの中に疑いを入り込ませていたのです。第二は恐れの霊をもって私たちを圧倒し、キリストを否認しようとさせます。ペテロは、少し前は、大胆で自信にあふれていました。ところがイエス様が捕えられたとき、三度も知らないと呪って主を否みました。第三は、間違った教えを吹き込むということです。Ⅰテモテ41「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」第四は、悪しき思いを頭にばらまくということです。しかし、悪しき思いに誘惑されるからと言って、自分はクリスチャンではないと結論してはいけません。それこそ悪魔の思うつぼです。第五は、失望落胆です。それは悪魔の働きを最も顕著に示すものであり、クリスチャンにも未信者に対してもこの方法を用います。過度に自分自身に集中させ、してはならないことをしてしまった過去にこだわらせます。第六は、自尊心です。悪魔の常套手段は落胆ばかりでありません。正反対のことを行うことができます。それは自尊心を助長させるとことです。ダビデは「イスラエルの人口を数えよ」というサタンからの誘惑を受けて、民全体が裁かれることになりました。

 神さまは私たちに神の武具を与えてくださいました。エペソ6:13-17「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」「救いのかぶと」とは思いを守るヘルメットです。「キリストによって私は救われている」と、知性を守らなければなりません。「胸当て」とは私たちの心臓を守る武具です。「私はキリストによって是認されている」という信仰です。「真理の帯」とは、「私は真理に従う、真理はキリストである」という生活の土台です。「足の備え」とは、悪魔を踏みつけるキリストの権威です。「信仰の大盾」とは、「キリストの真実が私を捕えて離さない」というキリストの信仰です。悪魔に打ち勝つことのできる御名は、キリストです。主イエス・キリストの御名こそが、私たちを悪魔から守る唯一最大の武具です。

3.霊的戦い

 近年、日本でも「霊的戦い」と言うことが言われるようになりました。エペソ612「私たちの格闘は血肉に対するものでなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるものもろの悪霊に対するものである」と書かれています。サタンにはピラミッド型の霊的な階級があるようです。大都市を治めているもの、宗教や教育を治めているもの、個人にとりついているものがいるようです。ある人たちは霊的地図を書いて、戦いのあった場所や魔術が行われている場所でとりなしの祈りをしています。また、悪霊追い出しを専門に行っているグループもいます。そういう特別な使命を持っているなら別ですが、私たちは霊的過敏症になってはいけません。残念ながら、キリスト教会では2つの極端があります。1つは、「サタンと悪霊は全く存在しない。あれは古代の人たちが勝手に作った迷信である。悪魔は悪の擬人化したものである」という考えです。これは理性を中心とする自由主義神学者たちが言うことです。私たちを誘惑し、束縛する悪霊は今も存在しています。もう1つの極端は神とサタンが互角のように考えている人たちです。そのため、サタンとその悪霊にいつも怯えて暮らしています。イエス様よりも、悪霊の仕業に注目し、何でも悪霊のせいにしています。これも良くありません。ヘブル122「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と命じられています。私たちは悪霊がどう働いているかということよりも、イエス様がどのように導いておられるかということに注目すべきです。

 ビル・ジョンソンは、「私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのである」と言っています。彼が書いた『天が地に侵入するとき』から少し引用させていただきます。「イエスは全てのもの、地獄の力、墓、罪、そして悪魔を征服されました。イエスは死からよみがえり、父の右の御座に着座され、全てのものに勝って栄光をお受けになったのです。全ての名と力はイエスの足元に置かれました。このイエスは、私たちをご自分の『体』だと呼んでいます。体には足があります。比喩的に表現すると、この世のもっと高いとされる権力でさえ、体の一番低いところに位置する足の下に置かれたと言うことです。この勝利の意味は、私たちの生活には戦いがないというのではなく、私たちの戦いの勝利が保証されているということです。」アーメン。詩篇23篇は私たちに勇気と信仰を与えてくれます。詩篇234「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」経験豊かで力のある大牧者であるイエス様が私たちと共におられます。そして、むちと杖をもって、悪霊どもを蹴散らしてくださいます。23:5 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」敵がまわりにいます。でも、イエス様は「私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」。たとえ敵がまわりにいても、イエス様のもとでは食事を楽しむことができるということです。

 最後に私たちが霊的戦いにおいて知るべき2つのことをお伝えしたいと思います。ヤコブ47「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」アーメン。私たちが神に従えば従うほど、悪魔に対する権威が与えられると言うことです。神に従うことと、神から与えられる権威は正比例の関係があります。自分が神さまにぜんぜん従っていないのに、「悪魔よ、退け」と言っても無理です。悪魔が「お前こそ、退け」と言うでしょう。そうではなく、私たちいつでも、全面的に神さまに従うのです。そうすればおのずと、悪魔に対抗する力と権威が与えられます。イエス様はマタイ28章でこのように約束されました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ…」私たちはイエス様の権威を信仰によっていただくべきです。イエス様はあなたに「『守って下さい』とだけ願うのではなく、私の名前によって命じなさい」と言われます。そうです。私たちには主イエスの御名の権威が与えられています。きゃしゃな婦人警官と11トンダンプトラックでは、力ではトラックがはるかにまさっています。しかし、彼女の胸には警察官のバッチがついています。彼女が「ピー」と笛を吹いて、手をあげると、11トンダンプトラックは従うのです。私たちもイエスの御名の権威によって、「悪魔よ、退け!」「悪霊よ、私から離れ去れ!」と命じるのです。神さまに願うのではなく、命じるのです。

第二は自分の霊的立場を知るということです。エペソ2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」テモテ・ワーナという人が「聖書的世界観」について教えています。世界は神がおられる天と、御使いの領域、そして人間と物質の領域の3つに分けることができます。御使いの領域は「第二の天」とか「中間世界」と言います。西洋では啓蒙主義から合理主義が生まれ、目に見えないものは存在しないと言いました。そして、天使や悪霊の存在をあざ笑い排除しました。しかし、今も悪魔と悪霊は不信者たちを支配し、神から引き離しています。私たちクリスチャンにも誘惑や恐れを与えたりします。すばらしいことに、聖霊と神の天使が私たちを助け導いてくださいます。でも、それにも勝って、私たちは自分たちの霊的な立場を知る必要があります。私たちはキリストと共によみがえらされ、キリストと共に天のところに座らせて下さった存在です。私たちの肉体はこの地上にありますが、目をつぶると、イエス様がすぐ隣におられるのです。私たちはイエス様の御座の隣に座っているのです。アーメン。ですから私たちが悪魔と悪霊に立ち向かうとき、下からではなく、上から立ち向かうのです。下に住んでいる人たちは「えー?私が悪魔に立ち向かうなんて?」と言うでしょう。しかし、その人が、「自分は天のところにイエスさま共に座っている者なんだ」と理解しているなら、王座から、王座の力をもって悪魔に対抗して行くことができます。「私は神の子どもである。悪い者は私に触れることができない。主イエスの御名によって、私は敵に立ち向かう」と言うことができるのです。確かに私たちは霊的戦いの渦中にあります。でも、イエス様が勝利を収めてくれたので、私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのです。アーメン。

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2019年1月18日 (金)

福音宣教 ローマ10:8-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.20

 先週は「証人になる」というテーマで学びました。福音宣教となると、福音の内容を伝えなければなりません。ということは福音の中身を知っていなければなりません。しかし、福音の中身を頭で知っていたとしても、いざ人に伝えるとなると勇気が必要です。「もしかしたら、拒絶されるんじゃないだろうか?」と恐れます。ですから、伝えるためには愛、情熱、聖霊の力が必要となります。イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。福音宣教はオプションではなく、どうしてもしなければならないことです。

1.福音とは何か

 私たちは人に福音を伝えるためには、自分が福音とは何か理解していなければなりません。福音とはgood news「良い知らせ」です。たとえて言うと、「良い知らせ」というパッケージに入った品物です。だれでも、「良い知らせ」だったら聞きたいと願うでしょう。あなたも、かつては良い知らせを聞いて、信じて救われたのですから、恐れる必要はありません。私たちにとって「良い知らせ」とは何でしょう?使徒パウロはこのように述べています。Ⅰコリント152「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」。すごい。パウロはこの福音には人を救う力があると言っています。では、その福音とは何でしょう?Ⅰコリント153-4「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと…」このことは、パウロがだれかから聞いて、そして自分がコリントの教会に伝えたということです。「キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」です。なんとシンプルなのでしょう。あなたも言えるはずです。「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられました。このお方を信じるなら、救われます。」ローマ1013「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」と書いてあります。アーメン、ハレルヤです。

 でも、「救われる」というのが分かりません。一体、何から救われるのでしょうか?神さまはすべてのものを持っておられますが、人によって求め方が千差万別です。言い換えると、救われるテーマが違うのです。もちろん、クリスチャンになってから「救われる」ということが何なのか分かります。でも、はじめて福音を耳にする日本人は、「救われるって何?」と聞くでしょう。イエス様も人のニーズに答えています。ニコデモは誰からも尊敬される宗教的な人でした。でも、イエス様は「新しく生まれなければ、神の国にはいることができない」と言われました。これは「新生」という救いの側面です。また、サマリヤの女性には、「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧きます」と言われました。彼女は「私が渇くことがないように、その水を私に下さい」と願いました。これは「永遠のいのち」という救いの側面です。またルカによる福音書では、いなくなった一匹の羊、なくした一枚の銀貨、そして家出した弟息子のたとえ話をされました。イエス様は神から離れている人は失われた存在であると言っています。ここで分かるのは、救いとは神さまに見出され、神さまのものになるということです。でも、使徒パウロはユダヤ人が分かるような用語で説明しています。ローマ324「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」パウロは神さまから義と認められることが救いだと言っています。これは日本人には一番わかりません。ヨハネ福音書では「キリストを信じれば良い」と言われていましたが、その根拠がパウロの手紙に書かれています。それは、キリストが私たちの代わりに十字架について罪を贖われたということです。実は、罪という問題が分からないと、福音も分からないということになります。なぜなら、福音とは「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」だからです。私たちが罪を赦され、神の前に義となるために、キリストが十字架で死ぬ必要があったということです。キリストの死は身代わりの死であり、私たちの罪を贖うためであったということです。最初から、このことを理解して信じる人は少ないのではないでしょうか?私もそうでした。洗礼を受けて半年くらいたってから、「十字架の悩みは、我が罪のためなり」と賛美して泣きました。でも、ここまでいかないと、救いの確信を持つことができません。十字架の贖いが分かるとキリスト様から、簡単に離れることができなくなります。「躓いても、倒れても、叩かれても、離れられない!」

 パウロは福音には力があると言いました。ローマ116「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ここに書かれている「力」はギリシヤ語でデュナミスであり、ダイナマイトの語源となったことばです。しかし、どうして福音が救いを得させる力なのでしょう?パウロは救いということをこのようにも述べています。使徒2618「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」これは、生まれつきの人が盲目であり、暗闇の中で生きているということです。サタンに支配され、罪と死の奴隷であるということです。救われるために、霊的な目が開かれてキリストのことが分かってきます。パウロが言う救いとは、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返ることです。また、救いとは、罪の赦しを得、御国を受け継ぐ者になるということです。なんと、福音には人をそのようにさせる力があるのです。本人はキリストを信じるだけで良いのですが、神さまの方がいっぱいやってくれているというということです。これらのことは信じて救われてから分かることです。信じる前は「私は自由であった。そんなに悪いこともしていなかった」と思っています。ところが、信じた後、「ああ、私は暗闇の中にいた。ああ、罪に縛られていた」と分かるのです。福音は「良い知らせ」というパッケージに入っています。でも、中味はものすごく豊富で力強いものなんだということです。

2.福音を宣べ伝える

ローマ1014 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ここには、「福音を聞かないと信じることもできない。そのためにはだれかが福音を宣べ伝える必要がある」という前提があります。教会では「伝道」ということばをよく使います。聖書には「伝道」ということばはありません。「宣べ伝える」はギリシヤ語でケーリュッソーです。「告げ知らせる」「宣教する」「説教する」という意味もあります。「伝道する」は教会用語です。私は「伝道」と聞くと緊張して、嫌な気持ちになります。神学生の頃、伝道実習というのがあって、道行く人たちを集めて話しました。また、教会主事の頃は、特別な集会があるとチラシを3000枚くらい配りました。教会に集っている求道者に個人伝道するということが主でした。でも、伝道というのは、正直、嫌いです。去る6月、淀橋教会でトーチという集会がありました。トーチというのは次の世代にバトンを渡すということです。岸義紘先生がサックスを吹き、大川牧師がメッセージしました。その後、日本基督教団の若い牧師が日本基督教団風の説教をしました。それはともかく、大川牧師が「教会が成長しないのは伝道しないからだ」とおっしゃいました。グサッときました。「ああ、伝道していないなー」と思いました。久しぶりに緊張しました。私は「伝道」ということばが嫌いであって、福音を宣べ伝えるということはすばらしいことだと思います。

では、なぜ「伝道」が良くないイメージなのでしょうか?伝道というのは、道を伝えるということです。別に悪くない感じがします。しかし、一昔前の伝道について聞いたことがあります。日曜日の夜は伝道集会を持っていました。集会の前に町に繰り出して、チラシを配ったり、集会の案内をします。その時、提灯を持ち、太鼓やラッパを吹きながら練り歩くのです。しかも、道路の辻に立って、救いの証をさせたれたりします。『塩狩峠』という映画では、路傍伝道している牧師に、「耶蘇教やめろ」と石が投げつけられていました。昔はそれでも人が集まったようです。しかし、伝道というのがそういうものだったら、恥ずかしくてできません。1999年に韓国の牧師と宇都宮に路傍伝道に行きました。本当に道路の辻に立って説教しました。「私は中日の落合選手と同じ高校出身で、同級生です」とか言ってはじめました。中学生の女の子が信じて、お祈りをしてあげました。人の家に入って、ご婦人の膝の癒しのためにも祈りました。5日間の旅でしたが、「もう、いいや」と思いました。あまりにもプレッシャーで、「自分には賜物がないなー」と思いました。宣教師の賜物の人はできますが、私は無理だと思いました。自分ができないのに、みなさんに「伝道しなさい」とは言えません。でも、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、福音を宣べ伝えるということはすばらしいことであり、これは主の命令なので是が非でもしなければなりません。福音は宣べ伝えれば、宣べ伝えるほど、宣べ伝えたくなるからです。

 パウロはローマに行ってぜひ、福音を伝えたいと思っていました。なぜでしょう?ローマ114「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」パウロは「返さなければならない負債を負っている」と思いました。借金です。借金だったら返さなければなりません。でも、それは「福音を伝えなければならない」という負債を負っていると言う意味です。命令とか律法ではありません。内側から湧き上がる、負い目であります。私たちはキリストによってすべての罪を赦された者です。イエス様が十字架ですべての負債を払ってくれたからです。でも、まだ負債を負っているとはどういう意味でしょうか?パウロはⅠコリント9章でも似たようなことを言っています。Ⅰコリント916「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしも、私には務めがゆだねられているのです。」パウロは、イエス様から直接、異邦人の宣教を負わされました。かつてはキリスト者を迫害した、いわばキリストの敵であります。パウロは勘違いしてやっていたことですが、的はずれの熱心からでした。おそらく、パウロはこんな者に、福音宣教をゆだねてくださった神さまに申し訳ないと思ったのかもしれません。信仰を持ち始めた頃、羽鳥明牧師の「私は福音を恥としない」というメッセージテープを聞いたことがあります。熊本県かどこかの集会だったと思います。「イエス・キリストは一国の大統領でもなく、総理大臣でもなく、熊本県知事でもなく、こんな私に福音をゆだねてくださったのです!」とメッセージしておりました。

 私たちは福音を人に語ると、その人は「信じるか、信じないか」「受け取るか、拒絶するか」どちらか選択に迫られます。「そんなの信じないよ」と言われたら、友達関係がなくなるかもしれません。親戚だったら、「もう来るな!」と言われるかもしれません。でも、福音を信じるならば、その人は救われ永遠のいのちをいただくことができます。もし、福音を信じないなら、その人は神によってさばかれ永遠の滅びに行くことになります。そんな大事な福音を委ねられているとしたら、「かたじけない」と言うしかありません。でも、そのとき聖霊が働いてくださることを忘れてはいけません。ヨハネ168「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」とあります。「あなたには罪がありますから、キリストの贖いが必要です」とはなかなか言えません。「馬鹿にするな!」と言われるでしょう。でも、聖霊がその人に働くなら、「ああ、私には罪がある。このままでは神さまの前に立つことができない。私はキリストが必要だ」と求めるでしょう。喉が渇いていない馬は、川の側に連れて行っても、水を飲まないそうです。聖霊によって飢え渇きを覚えている人がチャンスです。イエス様は「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから」(ルカ418とおっしゃいました。そうです。私たちは心の豊かな人にではなく、貧しい人に福音を伝えるべきなのです。

3.福音宣教の原動力

 「伝道しなければならない」と律法的に捉えると、口がこわばって、かえって語れなくなります。でも、私たちが伝えるのは「良い知らせ」です。この世の人たちは、「宗教はこわい。そんなうまい話なんかあるもんか?」と信じようとしません。私も救われた頃は一生懸命伝道しました。兄弟たちにも大川牧師の礼拝テープを送りました。郷里に帰って伝道しました。しかし、断られたり無視されるとだんだん辛くなります。「伝道」ということばが重くのしかかってきます。でも、福音説教と言い方を変えたら、気軽にできるのでしょうか?やっぱり勇気が必要です。私はこのすばらしい福音を宣べ伝えるためには、愛と聖霊からくる情熱が必要であると信じます。

 三浦綾子さんはが『道ありき』の「青春篇」に彼女がどのようにしてイエス様を信じたのか書いてあります。綾子さんは小学校の教師で、軍国主義の教えを子どもたちに熱心に教えました。ところが戦後、その教科書のほとんどが墨で塗られてしまい、愕然として教師を辞めました。綾子さんはその後、肺結核を患い、療養所に入りました。そこに、幼馴染の前川正さんも同じ病で入居しました。彼は北大の医学部の学生でとても美男子でした。彼は熱心なクリスチャンで、自暴自棄で暮らしていた綾子さんのことを気にかけました。「綾ちゃん、いったいあなたは生きていたいのですか、いたくないのですか」「そんなこと、どっちだっていいじゃないの」「どっちだってよくありません。綾ちゃんお願いだから、もっと真面目に生きてください」「正さん、またお説教なの?まじめっていったいどんなことなの?何のために真面目に生きなければならないの?戦争中、私は馬鹿みたいに大真面目に生きて来たわ。真面目に生きた結果はどうなったの?…」前川正さんはことばが出なくなり、はらはら泣いていました。綾子さんはそれを皮肉な目で眺めながら煙草に火をつけました。「綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」そして、何を思ったのか、彼は傍にあった小石を拾い上げると、突然自分の足をゴツンゴツンと続けざまに打ちました。さすがに驚いた綾子さんは、それを止めようと彼の手をしっかり握りしめました。「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生き続けてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たか分かりませんよ。…けれども信仰のうすい僕には、あなたを救う力がないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」。このとき綾子さんは、「私を女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを私なりに求めたい」と思ったそうです。

 
やっぱり愛なんですね。福音に対して人の心が開くのは愛なのです。中国のような大陸の人は、その人がどんな人であろうと言っていることが真実であれば信じるそうです。しかし、日本人は、その人が信じるに値する人なのか、その人を見てから考えます。私たちの動機がさぐられます。「一人でも救って、教会を大きくしてやろう」ではダメです。私たちは神さまからくる愛、神さまからくる熱心が必要です。Ⅱコリント513,14口語訳「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」パウロは人から気が狂っていると言われるくらい熱心でした。でも、その理由は「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」と言っています。私たちは福音を伝えるべきか、あとにすべきか二の足を踏むときがよくあります。他のことは何でもしゃべることができますが、「キリスト」となると「キ、キ、キ」と出て来ません。でも、パウロのようにキリストの愛が私に強く迫っているとなると、押し出されて、語らずにはいられなくなるのです。エレミヤがこう述べています。エレミヤ209私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」もう、福音をしまっておくことができないのです。私たちもそのようになりたいと思います。


 福音宣教の原動力のもう1つは聖霊の力です。イエスさまがガリラヤの会堂で引用したイザヤ書61章です。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え」と書いてあります。イエス様がヨハネのバプテスマから洗礼を受けました。マタイ316「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」と書かれています。ということは、イエス様の宣教活動の力の源は、聖霊であったことが分かります。また、弟子たちにもこのように言われました。ルカ24:49 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」このことが、ペンテコステに成就しました。天から激しい風のように、炎のように弟子たちの上に降りました。あの臆病だった弟子たちが一変し、迫害も死も恐れずに世界の果てまで福音を宣べ伝えに行きました。鍵は聖霊です。聖霊に満たされたら、福音を宣べ伝えずにはおれなくなるということです。私が一番感謝している人は、私に福音を伝えてくれた増田さんという人です。私は「神さまがいるなら見せてみせて下さい、そうしたら信じますよ」うそぶいていました。毎日、会社で福音を語られるのですから、お世話にもなっているので、聞かないわけにはいきません。1年半くらいたってからでしょうか?やっと一緒に座間キリスト教会の礼拝に出席ました。大川牧師のマシンガンのような説教を聞いて、引きつけられ、半年後に洗礼を受けました。でも、決心するときは大変でした。日曜日の午後、9時間も語られ、根負けして「じゃあ、信じるよ」と言いました。それだけ私はクリスチャンになりにくいタイプの人でした。増田さんは牧師にならないで、私が牧師になりました。彼は55歳のとき心筋梗塞で天に召されました。私が彼の代わりに、こうやって福音を語っています。どういう訳か亀有に来て、この教会だから救われたという方も大勢いらしゃいます。でも、最初は増田さんが根気よく、私に福音を伝えてくれたからです。その延長線上に、今があるのです。だから、私も負債を負っている一人です。みなさんもそうではないでしょうか?キリストの愛が私たちに強く迫っているので、いのちをもたらす福音を語らずにはおれません。

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2019年1月11日 (金)

証人となる 使徒1:8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.13

 証とは、自分がキリストとどう出会ったか、自分にとってキリストはどういう方かを身を持って語ることです。説教のように勧めたり、信仰告白に導く必要はありません。食べ物やサプリメントと同じでその人が良いと思えば、いただくでしょう。教会では「行いが伴っていない」とか、「証になっていないから」と断る人がたくさんいます。何も自分のすばらしいことを語るのではありません。こんなダメな自分を神さまがどれだけ愛しているか、そのことを語れば良いのです。

1.証の原点

 第一のポイントは、ペンテコステの前における「証」であります。つまり、証の原点について学びたいと思います。証とは見たこと聞いたことをだれかに告げるということです。裁判の席においては「証人」とも呼ばれ、大変重要な役割を果たします。なぜなら、この人の証言によって罪にもなるし、無罪にもなるからです。もし、偽証をたてるなら、あとでその人自身が裁かれるでしょう。十戒の9番目に、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」とありますが、元来は裁判と関係があります。そうであるなら、単なる嘘では済まされなくなります。もし、証の原点は自分が見たこと聞いたことをだれかに伝えることであるとするなら、そんなに重たい気持ちにはなりません。なぜなら、それを聞いた人が何か徳を得るかもしれないからです。

旧約聖書のⅡ列王記7章には、4人のらい病患者が出てきます。大飢饉にみまわれ、町には食べるものがありませんでした。この4人は「このままではどうせ死ぬのだから」と、冒険を犯しました。その時は、アラム軍がイスラエルを取り囲んでいました。4人のらい病患者は、食べ物を奪おうとアラムの陣営に潜り込みました。なんと、そこにはだれもいませんでした。なぜなら、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので「イスラエル軍が攻めてきた」と思って、持ち物を全部おいて逃げ去った後だったのです。4人は一つの天幕に入り、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行きました。また、戻って来ては、ほかの天幕に入り、そこから持ち出し、それを隠しに行きました。彼らは互いに言いました。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(Ⅱ列王記7 9)。彼らは町に言って、「アラムの陣営にはだれもいませんよ」と告げました。イスラエルの人たちは、アラムの陣営に行って、衣類や武具、そして小麦をたくさんかすめ奪いました。それで飢饉から脱出できたのです。彼ら4人は「私たちのしていることは正しくない。だまっていたなら罰を受ける」と考えました。なぜなら、町には飢え死にそうな人たちがたくさんいたからです。このように証とは、良いことを独り占めしないでだれかにも知らせるということが含まれます。

 新約聖書のヨハネ4章にはサマリヤの女性が登場します。彼女はわけありの女性でした。なぜなら、夕方の涼しい時ではなく、だれもいない日中に水を汲みに来たからです。イエス様はそんな彼女に「水を飲ませてくれ」とお願いしました。彼女は「ユダヤ人が自分に声をかけるなんて」と驚きました。なぜなら、ユダヤ人はサマリヤ人が霊的な混血だったので軽蔑していたからです。イエス様は井戸水ではなく、渇かない「生ける水」について話しました。彼女は「私にその水をください」と願いました。そうするとイエス様は思いもかけないことばを彼女に発しました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言いました。彼女は「私には夫はありません。」と答えました。するとイエス様は「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」と言い当てました。彼女はびっくりして「あなたは預言者だと思います」と答えました。その後、彼女は自分の水がめを置いて、サマリヤの町に出かけました。そこには彼女を嫌っている人たちが大勢いたことでそう。しかし、彼女はイエス様のことを告げずにはおられませんでした。ヨハネ429,30「『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」…ヨハネ4:39「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。」ここで重要なのは、サマリヤの女性が自分が出会ったイエス様のことを伝えたことです。その時、彼女は「私のしたこと全部を私に言った人がいる」と告げました。彼女のしたことというのは、夫を5人も替え、今6人目と同棲していることです。自分の恥をさらしてまで伝えたかったのです。その後、サマリヤの人たちは直接、イエス様のところへ行って、イエス様のことばを聞いて信じました。でも、サマリヤの女性が証しなければ、彼らは救われなかったことは確かです。サマリヤの女性は自分の喜びを独り占めしないで、町の人たちにも知らせたかったのです。そのためには、自分の恥などどうでも良かったのです。

 私は19796月に洗礼を受けました。その当時、水曜日の夜と、金曜日の午前に祈祷会がありました。前半の30分くらいは証の時があり、兄弟姉妹が日常の出来事から、救いの証まで自由に分かち合っていました。佐伯兄弟というとても熱心な人がいました。彼が少年のとき、お母さんが鉄道自殺して、自分がこおり籠をもって、遺体を運んできたという証を聞きました。ものすごく強烈でした。またある息子がお父さんを殺そうと包丁で額に切り付け、クリスチャンの娘が教会にみんなを連れて来たという、これまた強烈な証でした。ある姉妹は洗濯機が壊れて、修理屋さんを呼んだという証をしました。見てもらうと「靴下がそこにひっかかって故障したんだ」と言うことでした。姉妹は「ああ、パンツでなくて良かった」言いました。もう、どうでも良いものから、過激な証までどんどん飛び出しました。でも、共通して言えることは、自分の恥や罪を隠さないで伝え、その代り、イエス様がどんなにすばらしいかを伝えていたことです。極端になると、自分がどんなにひどかったか、そちらに重点が置かれるものもありました。この世の中では決して聞かれない恥や罪の自慢です。でも、それだけイエス様がすばらしいということを伝えたかったのです。このように証とは自分が体験したことを率直に伝えるということです。

2.証人となる

 使徒18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」ここで言われている「証人」というギリシャ語は、「殉教者」という意味もあります。これは、「キリストがポンティオ・ピラトのもとで告白した血のあかし」(Ⅰテモテ613)と同じ意味です。つまり、「いのちがけの証」ということになります。毛沢東が文化大革命を起こしましたが、その時、多くの教会が迫害されました。大勢のクリスチャンが捕えられ、「キリストを否んだら助けてやる」と当局から迫られました。でも、否まなかったために、殉教した人がたくさんいます。私たちももし、そのような立場になったら「どうしよう?」と思います。実は、イエス様の弟子たちはイエス様が捕えられたときみんな逃げました。イエス様が復活したことを知ったにも関わらず、彼らは部屋の戸を閉じて隠れていました。イエス様が彼らの真ん中に入って来られ、「平安があるように」と言われました。さらに彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われたのです。おそらく、この時、11人の弟子たちに聖霊が内住の御霊としてお入りになったのだと思います。そのとき、彼らは霊的に生まれ変わりました。でも、それだけではまだ不十分でした。ルカ24章に書いてありますが「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」と言われ、天に昇られました。彼らは共に集まり、祈って待っていました。五旬節の日、突然、激しい風のような響きが起こり、彼らの上に聖霊が降りました。イエス様が天に昇られた日から10日目のことでした。まさしく、聖霊が彼らの上に臨まれて、力を受けて、キリストの証人となりました。彼らはいのちがけで、世界の果てにまで出かけていきました。かつての臆病な弟子たちと同じ弟子たちとは思えません。

 ここで重要なのは、「わたしの証人となる」ということばです。「証人となりなさい」という命令ではありません。言い換えると、私たちの上に聖霊が臨むと自然に「キリストの証人」になるということです。しかし、キリスト教会は使徒12節を別の言葉で訳しています。「聖霊が臨むと地の果てまで伝道するようになる」と「伝道」にしています。次週「伝道」についてはお話ししますが、まずクリスチャンは「キリストの証人」になるべきだということです。言い換えると、伝道よりも、まずキリストの証人になることが基本だということです。では、「キリストの証人」とは何なのでしょう?最初に申し上げましたが、「証人」の動詞形が「証人である」「証言する」です。ヨハネ17「この人はあかしのために来た」とありますが、これはバプテスマのヨハネのことです。ヨハネは何をしたかと言うと、ヨハネ134「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」とあります。つまり、バプテスマのヨハネは、「天から御霊がくだって、その上にとどまるのを見たので、この方が神の子である」と証言したのです。証言とは自分が見たキリストに関することをそのまま言うということです。私たちのことで言うなら、自分にキリストが何をしてくれたのか、自分のことばで言うということです。これがキリストの証人になるということです。私たちは伝道と証を一緒に考えてしまうので、苦しくなります。伝道とはキリストが一体だれで、何をしたのかという「使信」を宣べ伝えることです。一方、証はキリストが自分に何をして、自分がどのように変えられたのか言えば良いのです。言い換えると、伝道は自分が体験していなくても語ることはできます。一方、証はキリストが自分に何をしてくれたのか体験がないと語れないということです。

 一番、容易なのは「イエス様を信じてどう変えられたか?」ということです。「イエス様を信じる前はこうで、イエス様を信じたあとどのように変えられたか?」です。自分の体験を語れば良いのです。私の場合は「人間は死んだら、全部おしまいだ」と思っていました。ところが、イエス様を信じたとき永遠のいのちが与えられたと実感しました。ということは、人生は無駄ではないということが分かったということです。私の家内はイエス様を信じて、罪が赦されたということでした。よっぽど罪深い人生を送っていたのでしょうか?そうではなく、十字架による罪の赦しは救いの基本形であり、このことが分かると信仰の道をはずれることはありません。他には、思いわずらいから解放された、先のことをくよくよ思わなくなったというのもあります。生きる意味とか目的が与えられたという哲学的なものもあります。劣等感から解放されたとか、病気が癒されたというのもあります。かなり前に、タンザニアのガジマ牧師のメッセージを聞いたことがあります。死んで四日目に生き返った女性のことを話していました。彼女は「出生証明書と死亡証明書の2つを持っているのは私だけだ」と言っていました。そういえば、ヨハネ福音書には、死んで4日目によみがえったラザロのことが記されています。聖書にはラザロが、何を言ったかひとことも書かれていません。彼はイエス様と共に食卓に着いている人々の中に混じっていただけです。しかし、ラザロがイエス様の生き証人でした。ヨハネ129「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。」ラザロは無言の証人であります。死んでよみがえったラザロの存在そのものに力がありました。私たちも「キリストによって変えられた私を見て下さい」と言うことができます。1980年のミス・アメリカの証を聞いたことがあります。彼女は10代の時、自動車事故に遭い、衝撃で、彼女はフロントガラスを突き抜けて背中を壊し、左足をつぶしました。彼女の顔には100本以上の縫い目が必要でした。医師は両親に、決して歩くことができないと話しました。彼女の左足は弱く、しかも右足よりも6センチ短かったのです。リハビリのため何年も費やしましたが、高校3年生のとき、癒しの集会に出て、骨盤が癒され、片足が6センチ伸びました。彼女は学校に行って、校門の前に立って「私は足が伸びたのよ」とみんなの前で証をしました。ミス・アメリカに選ばれた時も、その証をしました。彼女はやがて伝道者の妻になり、その当時、癒しを信じていなかった教会に向けて、「今も奇跡は起こる」と証言しました。このように、キリストを体験したなら、キリストのことを証言せずにはおれなくなるのです。

3.証の方法

 私たちがすべき基本的な証とは、「自分がどのようにキリストを信じて、救われたか」を誰かに話すことです。公の場合もあれば、きわめて個人的なときもあります。私たちは何から救われたのか、一人ひとりテーマが違うと思います。でも、「救い」には多くのものが含まれています。公の場合は自分のベストなテーマで構いません。でも、個人的に誰かに話す場合は、その人のニーズに合わせる必要があります。ベストなものじゃないけど、相手に合ったテーマを選ばなければなりません。大伝道者でも自分の救いからメッセーをする場合、2つ、多くて3つしか語れないと言われています。私も8人兄弟の7番目で生まれたとか、小学校5年生のとき切手を焼かれたとか、ボクシングでTKOで敗れたとか話しますが、みなさんはもう耳ダコではないかと思います。それでも、私は私のイエス様を自分の生涯を通して、証したいのです。聖歌232「罪とがをゆるされ」という賛美があります。日本語は「日もすがらあかしせん、夜もすがら主をほめん」ですが、原曲はもっと感動的です。This is my story, this is my song, praising my savior all the day long.「これが私の物語です。これが私の歌です。日々末永く、私の救い主をほめたたえます。」となります。そうです。自分の証は物語です。物語は起承転結が基本ですので、自分の証も、そのように組み立てることが重要です。

使徒パウロがどのように救われたか、彼の証が使徒の働きには3回記されています。使徒9章はルカが客観的に書いたものです。そして、使徒22章と26章はパウロ自身が語ったものが収められています。開かなくても結構ですが、使徒26章からパウロの証の方法を学びと思います。第一は、パウロは自分が救われる前のことを話しています。パウロはパリサイ人であり、熱心に神に仕えていました。熱心さのゆえに「道の者たち」を迫害しました。私たちもどこの生まれで、どんな生き方をしてきたのか簡単に紹介する必要があります。でも、これまでの過去の人生を語ったなら3時間あっても足りないでしょう。前もって選んだテーマに必要なものだけをピックアップする必要があります。死の恐れとか、劣等感、人間関係の問題、悪習慣、生きる意味の模索などです。そして、できれば具体的なエピソードがあれば良いです。田原米子さんは、高校生の頃、生きる目的が分からなくなり、いろんな哲学書を読みあさりました。先生に聞いても、「よけいなことを考えないで勉強しろ」と言うだけです。それで彼女は線路に飛び込み、自殺を図りました。

第二はキリストとの出会いです。パウロはダマスコに行く途中、まばゆい光が天からさしました。パウロは地にたおれ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きました。パウロが「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、「私はあなたが迫害しているイエスである」と言われました。パウロは目が見えなくなり、アナニヤという人のところへ祈ってもらうために手を引かれて行きました。その時、パウロは「あなたは異邦人のところへ福音を宣べ伝えに行くのです」という使命も一緒に受けました。私たちはパウロほど劇的な出会いはないかもしれませんが、何らかのきっかけがあるはずです。だれかから紹介されたとか、ゴスペルのコンサートに誘われたとか、あるはずです。先ほどの米子さんの場合は、気が付いたら病院に寝かされていました。気づいたら、両足がなく、左手も有りませんでした。もう一度、死のうと睡眠薬をためました。そこへ宣教師と若い青年がお見舞いに来ました。そして、小さな聖書を置いていきました。彼女は「人の弱みにつけこんで、だから宗教は嫌いなんだ」と思いました。しかし、ある晩、「神さまがいるなら教えてください」と一言、祈って寝ました。次の日、思い切って聖書を開いて読みました。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という聖句が目に飛び込んできました。彼女はそれまで「五体満足でも生きていけなかったのに、こんな体になってしまって」と落胆していました。何とそのとき、「まだ右手に3本の指がある」と気が付きました。これが米子さんのキリストとの出会いです。

第三はそれから、どうなったかです。パウロは「天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめ、エルサレム、ユダヤ全地方、さらに異邦人にまで悔い改めて神に立ち返るように宣べ伝えて来ました」と言いました。パウロの場合は裁判にかけられていましたので、弁明の形になっています。結論はこうです。使徒2622,23「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」パウロの場合は、キリストの福音まで伝えていますので、証から伝道になっています。でも、パウロは「この日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです」と言いました。つまり、パウロが福音を宣べ伝えるときは、必要とあらば、自分のあかしを交えているということです。ある人たちは、「説教は神のことばであり、自分のことを話すべきではない」と言います。では、パウロはどうなんでしょうか?パウロは説教の中に、このように自分のあかしを入れています。米子さんはすでに天に召されました。でも、私は米子さんが、三本の指で、リンゴを剥いている姿を思い出すことができます。彼女は人生の意味をキリストに見出しました。本来なら、ハンディを負って、人のお世話になりながらひっそりと暮らす人生だったでしょう。でも、義足を履いて、日本全国を歩き回り、キリストにある新しい人生を証しました。自分が救われた証を人と比較する必要はありません。ミッションバラバの鈴木啓之先生はヤクザから救われました。博打と覚せい剤の人生でした。でも、育ちの良い人は「私はそんなに悪くないのでキリストは必要ない」と言うかもしれません。だから、そういう人は、育ちが良くて普通の証で救われるのです。世界中のどこかに、あなたの救いの物語を必要としている人が必ずいます。あなたの証は神さまの栄光のために必要なのです。This is my story, this is my song,「日もすがらあかしせん、夜もすがら主をほめん」です。

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2019年1月 5日 (土)

新しい皮袋 ルカ5:33-39 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.6

 古い皮袋というのは当時のユダヤ教でした。彼らは言い伝えや伝統を重視するあまり、イエス様の福音を受け入れることができませんでした。一方、新しいぶどう酒というのは発酵している状態で、これは福音が持っているいのちを象徴しています。福音が「喜びの訪れ」という意味ですから、暗い、堅い、つまらない宗教に入れることはできません。しかし、福音を入れる入れ物も必要です。残念ながら、入れ物は、最初は新しくても、だんだん古くなります。言い換えると宗教的な要素が強くなって、福音を入れておくことはできなくなります。

1.新しい皮袋

 第一に、新しい皮袋とは礼拝が祭典的であることです。使徒15章には異邦人の問題を扱ったエルサレム会議が記されています。議長のヤコブが言ったことばがとても印象的です。使徒1516「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」このみことばは、アモス書9章からの引用ですが、終わりの時代そのようなことが起ると言う預言です。ダビデはその当時、画期的な礼拝をささげました。レビ人を組ごとに分けて、24時間、神さまを礼拝するようにしました。また、ダビデが推奨した礼拝は賑やかな礼拝でした。詩篇150篇には、「角笛、十弦の琴、立琴、タンバリン、緒琴、笛、音の高いシンバルで、鳴り響くシンバルで神をほめたたえよ」と書かれています。また、他の箇所には、叫べ、歌え、手を打ち鳴らせ、踊れとも書かれています。実際、ダビデが神の箱を迎えるときに、あらゆる楽器を用いて主を賛美し、自分自身も踊りました。

ところが、いつの間にか、礼拝が形式的になっていきました。特にローマ・カトリック教会になってからは、荘厳で、儀式的になりました。16世紀、宗教改革が起こりましたが、その時に儀式的なものをかなり排除しました。ルターはみんなが歌える賛美歌をたくさん作りました。ジョン・カルヴァンはパイプ・オルガンを捨てて説教を強調しました。残念ながら、聖公会はカトリックとあまり変わりません。祭典的というのは神さまを喜び、お祝いするという意味です。これに対して、礼典的というのは儀式的でプログラムががっちり固定されているということです。交読文で「叫べ」「踊れ」「手を打ち鳴らせ」と言いますが、実際にはやりません。当教会では説教の途中に、「ハレルヤ」とか「アーメン」とか言いますが、改革派やルター派の教会に行ったならつまみ出されるでしょう。他の人が当教会の礼拝に来ると、「ここは韓国の教会ですか」とか「ペンテコステ派ですか」と言われます。韓国の教会は50年前にリバイバルが起きて、どの教団教派も元気な賛美を歌うようになりました。ペンテコステ派の教会は聖書から「ダビデの幕屋の回復」ということを主張しました。彼らは教会にドラムとかギターをいち早くいれました。新しい賛美も数多く作り、ダンスも取り入れています。私はペンテコステではありませんが、礼拝において彼らから学ぶ要素がたくさんあると思います。

 第二は新しい皮袋とは新しい歌です。詩篇には「新しい歌を主に向かって歌え」と何か所も書かれています。リック・ウォレンが書いた本が1998年に『健康な教会へのかぎ』という題で翻訳出版されました。ところが「求道者向けの礼拝」「音楽を吟味する」「教会につながっていない人への説教」の三項目が割愛されていました。3年後に小冊子として日本語で出版されました。おそらく、「いのちのことば社」が日本の教会には過激だと判断したからでしょう。小冊子から少し引用します。教会史をたどってみると、偉大な神学者たちは、その当時のスタイルの音楽にのせて神の真理を宣べ伝えました。マルチン・ルターの「神はわがやぐら」の旋律は、彼の時代に流行した音楽からの流用です。もし、今日ルターがいたら、地域のカラオケバーから曲を拝借したかもしれません。チャールズ・ウェスレーは英国の居酒屋やオペラハウスで聴かれていた流行曲を数曲用いています。ジョン・カルヴァンは、世間で活躍する音楽家を二人雇って、彼の神学を歌に盛り込ませました。英国女王はこうした低俗な「メロディー」に怒ってカルヴァンの「ジュネーブ舞曲」と嘲笑したと言われます。おそらく一番信じがたいのは、ヘンデルの「メサイヤ」が当時の教職者たちによって「大衆劇」と酷評されていたことでしょう。現代音楽のコーラス部分と同じように、当時はメサイヤも繰り返しが多すぎてメッセージ性に乏しいと非難されました。

 もう少し、引用しますが、このことが割愛された理由だと思います。教会で用いる音楽スタイルを決定するほど、重要であり、かつ議論を呼ぶものは他にないでしょう。教会が今後どのような人々をキリストに導けるか、また教会が成長していけるか否かは、音楽によって決まると言って過言ではありません。教会の音楽は、その教会が伝道の対象としている人々に合わせていくべきです。音楽はまた、その地域における教会の位置づけをします。どのような教会であるかは音楽によって表されます。いったん礼拝に用いる礼拝のスタイルを決めると、あなたが理解するよりはるかに多くの点で教会の方向を決めてしまいます。どんな人々が教会に集まり教会に残るか、またどんな人々が教会を去っていくかは音楽によって決まります。…教会は、特定スタイルの音楽だけが「神聖」でないことを認める必要があります。音楽を神聖にするのは、その使信です。音楽を霊的にするのはその歌詞です。「キリスト教の音楽」というものはありません。あるのは「キリスト教の詩」です。引用は以上です。当教会では2000年から亀有ゴスペルクワイアを創設ました。若い方がたくさん救われ、その当時の礼拝形式が合わなくなりました。2003年から司会者を下げて、ワーシップリーダーが賛美を導くようにしました。元気な賛美を立て続けにするので、嫌になって帰る人もいました。今では当たり前になっていますが、若い人たちにターゲットを当てるためでした。先輩クリスチャンはその分、我慢することになり、感謝しております。聖書では「新しい歌を主に向かって歌え」と書いてあります。賛美こそは新しい皮袋だと信じます。

 第三は新しい皮袋とは教会の組織です。西暦313年コンスタンティヌス帝が、キリスト教を国教にしました。そのおかげで、それまで続いていた迫害が止みました。ところが、コンスタンティヌス帝はローマのミトラ教の神殿を手本として、神聖な儀式を司る有給の聖職者を雇いました。一方、一般の信徒たちは黙って傍観するだけの存在になりました。やがて、一般信徒は、集会中に歌うことも許されず、音楽は専門の聖歌隊が担当しました。また、だれでも勝手に集会を開くことは許されず、国から認定された聖職者が導くものでなければなりませんでした。異教の風習と偶像礼拝が教会に持ち込まれると、聖霊は離れ去って行きました。1000年の束縛と死を経た後、神さまは回復の御業をはじめました。紀元1500年頃を皮切りに、すばらしい聖霊の働きが起こり、神さまは教会を回復しはじめました。マルチン・ルターが聖書から信仰義認を発見しました。彼は聖書をドイツ語に翻訳したので、普通のクリスチャンたちが聖書を読めるようになりました。彼は、だれでも神さまに近づき、奉仕できると言う万人祭司説を称えました。18世紀はジョンウェスレーによる聖めのリバイバルが起きました。19,20世紀には聖霊の力を回復しはじめました。しかし、教会の組織はローマ・カトリック教会のものを払拭できず、聖職者と一般信徒と二つに分けています。教皇はいなくなりましたが、この世の議会政治や民主政治を取り入れています。司祭の代わりに、牧師が教会を指導し、使徒や預言者が排除されています。牧師が霊的な奉仕をして、信徒には任されていません。何か問題があったら、「牧師のところへ行って相談しなさい」と言われています。

 半年前に『使徒的教会の台頭』という本を読みました。この本の著者は、新しい皮袋とは、「キリストのからだなる教会である」と言いました。これも、昔から書かれていることでしたが、どうしてもこの世の組織や政治形態しか思い浮かびませんでした。ちょっとは改善しても、教団やその委員会がピラミッド式に治めています。では、どのような組織が新しい皮袋なのでしょうか?教会のかしらなるキリストが、教会を治めるために、「キリストの賜物」(エペソ47)を与えました。エペソ4:11 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」この人たちが、教会を運営するためにキリストがお建てになった「五役者」なのです。ところが、現在の教会が、牧師がほとんどの働きをしており、使徒や預言者がいません。新約聖書を見ますと、使徒が87回、預言者が157回、教師が121回、伝道者が3回、牧師が1回です。聖書で1回しか述べられていない牧師が、教会の中心的な職務に据えられています。ある統計によると、アメリカの教会の牧師の70%は、牧師の働きを辞めようかと定期的に考えているそうです。また、80%が鬱あるいは落ち込みで苦しんでいるそうです。この本の著者は、使徒的教会こそが牧師の働きを活性化すると言っています。牧師中心の教会は、教会員を一般信徒と見なします。一方、使徒的教会では、全てのクリスチャンが働き人と見なされます。牧師中心の教会では、牧師の役割は聖徒たちを気遣うことです。一方、使徒的教会は、奉仕のためにひとり一人の聖徒が整えられることを望みます。古い皮袋の教会では、牧師という一人の人が働きます。一方、新しい皮袋の教会では、全ての信者が働きに向けられて整えられます。私たちはもう一度、教会がキリストのからだであり、私たちすべてが、その器官であることを覚えて、それぞれの使命を果たしたいと思います。

2.新しいぶどう酒

 第一は福音の喜びです。「福音」自体の中に「喜び」がはいっているのに、おかしいと思うかもしれません。ところが、キリスト教会は聖書の福音をそのまま語っていません。そのため、皮袋がパンパンになるくらい膨らまないのです。イエス様は「新しいぶどう酒」と言われました。ということは「古いぶどう酒」もあるということです。イエスさまは、1つ前に「新しい着物と古い着物」についてもおっしゃっています。2つのたとえは同じことを言っています。古いぶどう酒と古い着物は、旧約聖書のことを指していると考えられます。その当時は、旧約聖書の中心はモーセの律法でした。一方、新しいぶどう酒と新しい着物は、新約聖書のことを指していると考えられます。その当時はまだ「新約聖書」は完成していませんでした。イエス様は「御国の福音」を持ってこられました。福音(エウワンゲリオン)のもともとの意味は「戦争に勝ったという勝利の知らせ」でした。ギリシャ時代たくさんの戦争がありました。もし、戦争に敗れたなら町は略奪され火で焼かれます。捕えられた人たちは奴隷になるしかありません。戦地から「戦争に負けた」という知らせを受けたなら金目のものを携えて一目散に逃げるしかありません。紀元前450年のマラトンの戦いでは、一人の兵士がひたすら走り、勝利を伝えると息絶えてしまいました。彼が走ったマラトンからアテナイまでの距離が、マラソンの距離になったと言われています。「勝利の知らせ」こそが、福音であります。では、イエス様は何に勝利されたのでしょうか?死と悪魔に勝利されたのです。イエス様は人類が負っている罪と死を十字架で破ってくださったのです。イエス様が死からよみがえられた後、神の国が力強く臨んできました。この地が神の国によって侵略されているのです。ですから、私たちの福音は単なる福音ではなく、「御国の福音」です。

 残念ながら、教会は「福音」をとても小さく扱うようになりました。罪が赦されて、天国に行くという魂の救いだけにフォーカスをあててしまいました。ということは、「人は洗礼を受けたら、あとは好きに暮らして、最後は天国に入れば良い」ということになりました。これは、怠け者を作り出す福音です。確かにイエス様を信じるだけで天国に行くことができます。しかし、神さまが願っているのはそれだけではありません。マタイ2818-20「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」ここにはあらゆる国(国民)を弟子とせよと言われています。これは個人の救いだけではなく、国全体が変革されるということです。もう1つは「イエス様が命じておいたことを守るように教えよ」と言われています。イエス様は福音をただ宣べ伝えただけではありません。しるしと不思議、癒しと力あるわざを行って、御国が来ていることを証明されました。パウロも言っていますが、私たちの福音は「知恵のことばではなく、御霊と御力の現れ」が伴うべきだということです。これが新しいぶどう酒です。

 第二、新しいぶどう酒とは聖霊の力です。新しいぶどう酒は「聖霊の力」を象徴していると考えられます。単なる聖霊ではなく、聖霊の力です。なぜかと言うと、聖霊は創世記1章から記されていますが、新約の私たちには違うかたちでやってきたことを知らなければなりません。その革命的な出来事はペンテコステの日に実現されました。使徒2章にそのことが記されています。使徒21-4「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」ここに「天から激しい風が吹いて来た」と書かれています。聖霊が天から激しく下って来られたということです。イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたときも似たようなことが起こりました。マタイ316「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」イエス様のときは、天が開け、神の御霊が鳩のように静かに降って来られました。一方、ペンテコステの日は、天から激しい風のごとく下り、炎のような分かれた舌が現れ、ひとりひとりの上にとどまりました。弟子たちのときは、激しい風のように、火のように下ったということです。何を言いたいのか?どちらも、神さまの働きをするための原動力になったということです。イザヤ書61章に「主はわたしに油をそそぎ」と書いてありますが、これは聖霊の油そそぎであります。

 もちろん、聖霊は力だけではありません。聖霊は人の中に住むようになり、人は神の神殿となりました。聖霊はイエス様と同じような助け主であられ、私たちを慰め、あらゆる真理へと導いてくださいます。旧約聖書の「神が共にいる」と言うことが、聖霊によって実現されました。しかし、これらは聖霊の静的、staticな面であります。ところが聖霊は動的、dynamicな面があることを忘れてはいけません。初代教会の頃は、聖霊のdynamicな面が強調されていました。彼らが迫害されたときどのように祈ったでしょうか?使徒429-31「『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。』彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」アーメン。弟子たちが迫害されたのは、人格的にきよめられたからではありません。ペテロが奇跡を行なって、大勢の人たちがイエス様を信じたためです。弟子たちは迫害に屈せず、「イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」と祈りました。そうすると、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだしました。聖霊こそ、福音宣教と神のわざを行うための原動力だということです。昔、サブリツキーという伝道者が日本に来られたことがあります。コテコテのペンテコステの人でした。サブリツキーはとてもハスキー低音でこう言われました。Power is Holy spirit. Holy is power. Power is Holy spirit. Holy is power.と何度も語りました。とっても単純でしたが、聖霊は力を与えるお方であると分かりました。

 第三、新しいぶどう酒とは主の臨在です。主なる神はエデンの園でアダムとエバと親密な関係を持っていました。ところが、二人が知識の木の実から食べたため、罪が入って神との関係が遮断されました。二人はエデンの園から追い出され、サタンがこの地上を支配するようになりました。主はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの中に住もうと幕屋を建てさせました。ソロモンが神殿を奉献したとき、主の臨在があまりにも強くて、祭司たちは立って奉仕することができませんでした。しかし、バビロンによってエルサレム神殿が焼かれてしまいました。最後に神の御子が肉体を持ってこの地上にお生まれになられました。イエス様の中に神さまが臨在されました。神が共におられるイエス様こそ、私たちの模範であります。そのことが実現するようになったのが、ペンテコステの日からです。天から御霊が降り、120人が聖霊に満たされました。言い換えると、120人の中に主が臨在しました。エルサレム中の人たちが物音を聞いて集まりました。人々は、120人が集まっているところに、主が臨在しておられることを知ることができました。この間、キリストを十字架につけた人たちが、ペテロの説教を聞いて「私たちはどうしたら良いでしょうか」と言いました。ペテロが「悔い改めなさい」と勧めたら、3000人の人たちが信じてバプテスマを受けました。この時からキリスト教会が誕生したのです。

 主はどこにおられるのでしょうか?コロサイ127「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」。Ⅰコリント619「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮である」と書かれています。つまり、私たちの間に、主が臨在してくださるということです。神さまは偏在なるお方でどこにでもおることができます。しかし、キリスト様を信じる共同体の中に臨在してくださるということです。歴史の中で主の御霊が激しく臨んだことが何度もあります。人々は主の臨在を肉眼でも見ることができました。病が癒され、盲人が見え、聾唖者が聞こえ、足なえが歩き、死人が生き返りました。これを私たちはリバイバルと呼んでいます。そのリバイバルを喜べない人たちが必ずいるものです。「神学的におかしい、これでは無秩序になる」と否定します。なぜなら、人々が倒れたり、痙攣したり、大きな声で笑ったり、ころがったりするからです。そういう現象だけを見て、主がなさっておられる御業を否定するのです。イエス様がおられたとき一番の敵は当時の宗教家たちでした。私たち教会は、リバイバルのためには伝統や制度、神学さえも捨てる覚悟がなければなりません。天が地上に侵略するときは、異状なことが起るのは当然であります。ビル・ジョンソンが書かれた『主の臨在をもてなす』から引用致します。「神ご自身をお招きするということ以上に大きな特権はない。そして、それ以上の責任もない。神は圧倒的に善であるお方、最高に尊厳があり、可能な限り驚異的なすばらしい方である。力強くかつ紳士的、積極的でありながら繊細な方。しかも完全でありながら、不完全な私たちを抱きしめて下さる。けれども、この神をお招きし、おもてなしをするという任務について気づいている人は少ない。神の臨在の現れなしに、私たちの個人や人格が完全になることはない。神をお招きするということを学ぶのは、私たちの任務の中心である」。

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