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2018年12月29日 (土)

~ナホム書から見る慰め~    亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ナホム書1章12-15節

1:12

主はこう仰せられる。「彼らは安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる。わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。

1:13

今、わたしは彼のくびきをあなたからはずして打ち砕き、あなたをなわめから解き放す。」

1:14

主はあなたについて命じられた。「あなたの子孫はもう散らされない。あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳像を断ち滅ぼす。あなたはつまらない者であったが、わたしはあなたの墓を設けよう。」

1:15

見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。

彼らはみな、断ち滅ぼされた。

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昨年から12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」と続きましたので、今回は7番目の小預言書にあたる「ナホム書」の一書説教です。

 

前回お話したミカ書には、トキメキの預言がたくさんありました。

ミカ書の預言でヒゼキヤ王が悔い改めて宗教改革を行なったり、私たちがどのように生きて行けば神様が喜んでくださるのかということが記されていました。

また、永遠の支配者、救い主がユダのベツレヘムで生まれるというイエス様の降誕の預言などもありました。

 

しかし「ナホム書」では、神様は烈火のごとく憤られ、ニネべを滅ぼすことを宣告されています。

ニネべと言えば、「ヨナ書」で出てきたアッシリアの首都です。

ヨナ書では、ニネべの民たちが神の御前で悔い改めたことで、滅びから免れたはずです。

 

ところがナホム書ではニネべの滅びが宣告されています。

ナホムはヨナから100年ほど後に生きた預言者ですから、ヨナの時代の悔い改めから、わずか100年の間に、ニネべの民たちは背信してしまったと考えられます。残念です!

 

ナホム書は3章から成り立っていますが、そのほとんどがニネべに対する神の激しい怒りについて記されていて、一切の望みが打ち砕かれています。ですから読んでいてあまり恵まれませんし、辛いです・・・。

 

このようにナホム書は暗いイメージがあるので、礼拝説教ではほとんど取り扱われません。

しかしこのナホム書を、視点を変えて、「福音・良い知らせ(Good News)」という面から見てみると、実はまったく違ってきます。

「ナホム」という名前は、原語のヘブライ語では、נחם(ナーハム)と言います。

ナーハムは、「同情する・慰める」という意味を持っているのですが、このナホム書は実に名まえの通り、「慰めの書」なのです。

 

ナホム書の結論は、1章の終わりから2章のはじめに書かれていますので、本日は1章から2章のはじめにかけての結論部分を中心に見て行きたいと思います。

メッセージの中で、「アッシリア」と言ったり、「ニネべ」と言ったりしますが、ニネべはアッシリアの首都ですので、同じ意味となります。「ユダ」と「イスラエルの民」も同じ意味となりますのでご了承ください。

 

本日は2018年締めくくりの礼拝です。大いに期待して、このナホム書から慰めを存分にいただきましょう!

 

◆ナホム書から慰めをいただきましょう。

①アッシリアの滅亡から神のご本質を知りましょう。

 

まず、ナホム書がすんなり受け入れられないことについては、ひとつの理由があります。

それは、1章の冒頭から、

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1:1

ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。

1:2

主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。

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と書いてあるからです。

 

「神は愛です。」という御言葉が私たちの心に浸透しているように、私たちの主は、愛と慈しみの神様であるというイメージが強いです。

それなのにここでは冒頭から、「主はねたみ、復讐する神。」「主は復讐し、憤る方。」と書かれており、もうその時点で聖書を閉じてしまいたくなるような恐ろしさがあります。

 

しかし、この「ねたみ、復讐し、憤る神」も、実は神様の御本質です。

神様は悔い改める者には憐みをかけてくださいますが、罪を見逃すことはなさいません。

ですから、私たちは、この神様の厳しさから目を背けてはいけません。

 

神様は愛と慈しみに満ち溢れた御方ですが、厳しい御方でもあります。

その厳しさを知ってこそ、神の愛の大きさや深さを、よりいっそう知ることができるのです。

 

さて、なぜ神様はニネベに対してこんなにも憤られておられるのでしょうか。

この時代の背景を知ることは、聖書の理解を深めることに不可欠ですので、見てみましょう。

 

ナホムは、紀元前722年に北イスラエルが滅亡してしまった後の時代に活動した預言者です。

ナホムは1:1に書かれている「エルコシュ人」ですが、エルコシュというのは、おそらく南ユダのどこかにあった場所だと考えられます。ですからナホムは南ユダ王国の住人です。

 

ナホムが活動していたころの南ユダ王国の王は、ヒゼキヤ王の息子のマナセ王だと思われます。

マナセ王は、ヒゼキヤ王とは違って主の目に悪であることを行なった王です。

今までの新改訳聖書では、悪い王のことは、「主の目の前に悪を行なった」と書かれていますが、新改訳2017では、「主の目に悪であることを行なった」という訳に変わって解りやすくなりましたね。

 

ナホムにとっては、自分の国の王マナセ王は神に背くし、敵国アッシリアも神に背くし、霊的にも大変な時代だったようです。しかしアッシリアはこの頃、世的には絶大な勢力を誇っていました。

 

アッシリアはその頃、現在のパキスタン、アフガニスタンあたりから、古代エジプトの首都であったテーゼまで支配していました。

<ナホム書1:3 >

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主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。

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「主は怒るのにおそく、力強い。」と言われている通り、主は忍耐をもって怒りを抑えられ、預言者ヨナの時代に、悔い改めたニネべの民に対して、「滅ぼすまい」と、憐みをかけました。

にもかかわらず、ニネべの民は再び神から離れて罪の世界に戻ってしまいました。

 

主のニネべへの宣告は、アッシリアが強大な王国になったまさにその時でした。

ニネべはイスラエルの神の憐みによって滅びの道を免れたことをすっかり忘れ、おごり高ぶり、南ユダを属国にしてユダの民たちを苦しめました。

 

ナホムは、この強大なアッシリアに対して、預言者として神の厳しいことばを伝えました。

権力があって勢いのある相手に対して物申すというのは、私たちの時代に置き換えても、なかなか出来る事ではないことがわかります。

おそらくナホムは命がけで滅びの預言を語ったはずです。とても勇気のある人だと思います。

 

高ぶるアッシリアに対して、主はこのように言われました。

 

<ナホム書1:11 >

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あなたのうちから、主に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者が出たからだ。

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この「よこしまなこと」というのは、ヘブル語で l[;Y")liB. (ベリッヤアル)と言いますが、このことばは「よこしまな者、邪悪な者、滅びの者」という意味あり、神に敵対する存在を表す時に使われます。

旧約聖書では祭司エリの息子たちの邪悪な行いに対してなど、27回も使われていることばです。

 

また、新約聖書でも使われています。

<第Ⅱコリント6:15>で、パウロが言いました。

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キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

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このことからも、この「べリアル」はサタン、あるいは反キリストのことを表していることが解ります。

キリストとベリアルとには調和がないとパウロが語ったように、信仰と不信仰、光と闇は相反するものであり、調和はありません。だからこそ、神様はニネベの罪を見逃すことはなさいませんでした。

 

ニネべは、神の支配ではなく、ベリアル、つまりサタンに支配されてしまったのです。

 

そして14節です。

私たちが使っている、「新改訳第3版」の訳ですと、ユダの民も「あなた」、ニネべの民も「あなた」なので、どちらに神が語っておられるのか区別がつきにくいのですが、新改訳2017では、ユダの民は「あなた」、ニネべの民は「おまえ」と区別されているので、とても解りやすいです。

別に新改訳2017のキャンペーンをしているわけではないのですが、訳が解りやすくなっているので、ご紹介したいと思います。

新改訳2017<ナホム1:14>

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主はおまえについて命じられる。「もはや子が宿ることなく、おまえの名は絶える。おまえの神々の宮から、

わたしは彫像や鋳像を断ち切る。わたしはおまえの墓を造る。おまえが取るに足りない者となったからだ。」

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神様の怒りは激しく、子孫の繁栄は絶やされ、偶像や鋳像は断ち切られ、滅びゆく者の墓を造ると言われました。「おまえが取るに足りない者となったからだ。」というのは、サタンに支配されるようになったからだということです。

 

その神の言葉通り、ナホムがアッシリアにさばきの預言をしてから50年ほどして、権勢を誇っていたアッシリア帝国は衰退し、バビロンによって滅ぼされ、1400~1500年間続いてきた大帝国は、紀元前609年に完全に歴史から姿を消しました。

 

主の御言葉は必ず実現します。このアッシリアの滅亡から、神の御本質を知りましょう。

神は悔い改める者には憐みをくださいますが、罪を見逃される御方ではありません。箴言1:7に「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」と書かれている通りです。

 

◆ナホム書から慰めをいただきましょう。

②良い知らせ、平和を告げ知らせる者となりましょう。

 

ナホム書には、虐げられていたユダの民に対して神様が回復の約束を与えてくださることが書かれています。少し戻って7節です。

 

<ナホム1:7 >

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主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。

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「主はいつくしみ深い」という言葉は、ヘブル語ではיהוה טוֹב (トーヴ・アドナイ)と言います。

いつくしみは、別の言葉でも表されていますが、ここでは「トーブ(良い)」という言葉が使われています。

 

「トーブ」は、現在でも使われている言葉です。

例えば、「ボーケル・トーブ」というのは、「良い朝ですね」という意味で、朝の挨拶、「おはようございます」という言葉になります。イスラエル旅行に行った時に、まず最初に覚えた言葉です。

 

そして、「アドナイ」は「主・神」という意味ですから、「トーヴ・アドナイ」を直訳すると、「主は良い御方」ということになります。神は永遠な御方なので、「主は永遠に良い御方」ということになります。

 

その永遠に良い御方は、主を信頼する者には、たとえどんな災いや苦難が襲ってきても、「苦難の日のとりで」となって永遠に守ってくださると、ナホムは預言しています。

 

そして、<ナホム1:15 >

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見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。

彼らはみな、断ち滅ぼされた。

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ユダの民たちは、アッシリアに制圧されていたので、祭りのためにエルサレムに上ることも、誓願をすることもできなかったのでしょう。しかし、「よこしまな者はみな断ち滅ぼされた」と主は語られています。

イスラエルの民たちにとって、祭りのためにエルサレムに上り、祝い、誓願することが許されることは、なによりの幸せだったことでしょう。

 

いつも平和を携えて、神に信頼するものは、多くの祝福と慰めが得られることが、ここで約束されています。

 

この御言葉は、イザヤ書や、ローマ書にも用いられています。

 

<イザヤ書52:7 >

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良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。

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「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことよ」と主が語ってくださっているように、私たちは、イエス様の福音を語り伝える者として、ひとりひとりが立てられています。

イエス様の十字架の贖いと復活は、全世界の救いであり、希望と喜びです。

 

その事を知っている私たちは、なによりの幸いを神様からいただいているのです。

生きていれば苦難はたくさんあるでしょう。思い通りにならないこともたくさんあります。

祈ってもなかなか実現しない事もたくさんあるでしょう。

 

しかしもっとも大切なことは、私たち自身が、「平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせる美しい足となる」ことです。それが、主が私たちに期待されていることです。

 

そうすることによって、神は永遠に良い御方として私たちの苦難の日のとりでとなってくださると、ナホム書を通して主が約束してくださっています。

 

先日、高柳姉妹が勤める保育園に歌いに行く機会がありました。99人の園児と保護者、先生方にクリスマスの喜びを伝えに行きました。その時に歌った賛美に「神様の贈り物」という曲があります。

シンプルな歌詞の中に、私たちが決して忘れてはならない大切なメッセージが込められていますので、ここにご紹介します。鈴木先生が泣いてしまう曲です。

 

♪神様の贈り物♪

 

クリスマス 神様の愛の贈り物

クリスマス 神様の愛の贈り物

思い描いた いろんなこと うまくいかなくっても

思い出してね クリスマスは 愛の贈り物

 

父なる神様はニネべを滅ぼされましたが、そこには私たちには計り知れないほどの悲しみがおありになったはずです。それゆえに、尊いひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださいました。

御子を信じる者は、ひとりとして滅びることがなく、永遠のいのちをいただくことができるように、愛の贈り物をくださいました。

 

私たち人間にとって、イエス様こそが、「ナホム」、「慰め」なのです。

イエス様は神様からの最大の愛の贈り物だということを忘れないようにしましょう。

◆ナホム書から慰めをいただきましょう。

③主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

神様は、イスラエルの民の前にアッシリアという強敵を置かれました。

それは、イスラエルの民が練られて成長するためであり、どんな時でも主を愛し、主を信頼することを教えるためです。

 

<ナホム2:1-2 >

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散らす者が、あなたを攻めに上って来る。塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。

主は、ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される。──かすめる者が彼らをかすめ、彼らの

ぶどうのつるをそこなったからだ。

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ナホムは、アッシリアに苦しめられているイスラエルの民たちへ、この預言を取次いでいますが、神様は現在の私たちにはどのように語られているでしょうか。

 

そもそも、私たちを苦しめる敵とは、なんでしょうか。

国や社会、政治の制度に苦しめられている人もいるでしょうし、職場や学校で不当な扱いを受けたり、人間関係で苦しめられていることもあるでしょう。身近な友人や身内に苦しめられることもあるでしょう。

また自分自身の中に、敵だと思えるような部分もあるかもしれません。

 

しかしそれらがすべて、ベリアル、つまりサタンの攻撃だとか、影響を受けたものだとは限りません。

神様は時には、私たちが練られて成長するために敵を置かれるのです。

そのような時に私たちがどうすれば良いかということを、聖書は明確に教えてくれています。

 

詩篇の23篇は、ダビデが敵に追われて苦境に立たされた時に歌った歌ですが、私たちが敵と思われるものに苦しめられた時、ぜひ思い出していただきたい御言葉です。

 

<詩篇23篇>ダビデの賛歌

 

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。

私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 

御言葉には主の力があります。

私たちが主に信頼して御言葉を口にするとき、聖霊なる神が働いてくださり御言葉が現実のものとなります。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」

 

2018年を締めくくるこの礼拝において、静まって、いま一度イエス様が私たちにしてくださったことを想い起こし、感謝と喜びの祈りを捧げましょう。

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