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2018年12月31日 (月)

年末年始の棚卸 イザヤ55:8-11 亀有教会牧師鈴木靖尋

一般に棚卸とは、在庫を調べることです。もし、これを自分の人生に適用するならどうでしょう?あの時はうまくいったけど、もう古くて役にたたないものがたくさんあるかもしれません。「これを棄てよう。いや、これは捨ててはならない。これは守っていくべきだ。」それは、人間関係にもいえるかもしれません。自分にぶら下がってくる人は捨てましょう。操り人形の糸を切りましょう。逆に自分がだれかにぶらさがっているなら独り立ちしましょう。イエス様に依存しているなら全く、問題はありません。きょうは私が気付かされている5つのことを取り上げます。みなさんの中にも、チェックが必要であるかもしれませんのでお聞きください。

 

1.後ろと前

 ピリピ313,14「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」このことは、昨年の122日にすでにお話ししました。前に向かって進むためには、使用価値のない古いものは捨てなければなりません。Let it go.「手放す」「あきらめる」ということです。過去のいやだったこと、自分を傷つけた人、裏切った人のことを手放しましょう。思い出したら、そこで座って見るのではなく、リモコンでチャンネル変えましょう。前のものに向かって進むためには、夢や幻、そして情熱が必要です。情熱という英語は、enthusiasmですが、もともとは、2つのギリシャ語からなっています。エンとセオスです。エンは「〇〇の中に」です。セオスは「神」です。2つを合わせると、「神の中に」「神がかった」という意味です。つまり、神さまがその人に情熱を与えるときは、年齢は関係ないということです。ある学者が「人間の脳はどんな頭の良い人でも5%も使っていない」と言いました。私も物を忘れますが、それ以上に覚えたらどうでしょう。私は英語を一生かけて勉強しています。この間、学んだ単語を忘れます。でも、また覚えるのです。「三歩前進、二歩後退」ではありませんが、忘れる量よりも、覚える量を増やすと良いのです。体の筋肉も使わないと衰えてきます。だから、ストレッチしましょう。ちょっと無理するくらいが良いのです。三浦雄一郎氏は80歳で三度目のエベレスト登頂に成功しました。だれか忘れましたが、ある婦人は80歳からピアノを習い始めました。絶えず、何かにチャレンジ、能力開発をすることが老いに勝つ秘訣です。詩篇1032-5「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」

2.動と静

 マルコ福音書は、イエス様が「神のしもべ」として牛のように働いているように書いています。その証拠に、イエス様は、すぐに行動をしています。たとえば、マルコ1章には「すぐに」が8回でてきます。英語の聖書はimmediatelyであり「直ちに、すぐさま、早速」です。葛飾区役所に「すぐやる課」というのがあります。ホームページに「区民の皆さんからの相談やご意見・要望に対し、各課と連携してスピーディに対応します」と書いてありました。私は年のせいもあり、「さっき何をするつもりだったんだろう」と忘れることがあります。また、すべきことを先延ばしにすると、忘れてしまいます。それを防止するために、私は気づいたら、すぐやることにしています。また、計画の実行をさきのばしにすると、情熱が失せてしまい、もうやる気がなくなります。ぐずぐずして、決断ができない人がいます。私はいろんな団体の世話役(幹事)を任せられました。どこかで一、二泊しながら研修会を持つことがありました。すぐに申し込む牧師もいれば、直前まで、迷っている人もいます。「どっちなんだ。行くのか、行かないのか、はっきりしてくれ!」とイライラします。もちろん、すぐ決断して、失敗したことも度々あります。車の運転は、すぐ決断しなければならないので疲れます。運転中、後ろから話しかけられたりすると、ドキッとします。でも、最近は「慎重さも大事だなー」と事故を重ねた結果、教えられています。ともかく、すぐしないこと、遅延というのは良くないです。時間の約束も守る必要があります。お金も清算もすぐしたら良いです。宿題やレポートも、すぐにやったら良いです。私などは説教を1年後先までできています。なので、土曜日は全く、イライラしていません。

 でも、イエス様はちゃんと静まる時も持っていました。時々、寂しいところに退いて、父なる神さまと交わっていました。また、日中は忙しいので、朝早く起きて祈っていました。どこからともなく、人々が「病を癒してほしい」「この問題を解決してほしい」と詰めかけて来ました。もし、彼らの要求のまま生きているなら、父なる神からいただいた目的を達成できません。イエス様は、人々のニーズに押し流されないように、静まる時をもっていました。インターバル・トレーニングが参考になります。働いたら、止まって、生き抜きすることが必要です。私は夕ご飯を作っています。それで、お昼前と夕方に買い物に行きます。ある場合は、閉店前の半額のときも行きます。買い物と料理は気分転換にとても良いです。会社でも、お昼あるいは午後、ちょっとだけお昼寝することを勧めています。脳波がぐっとアップするからです。体も同じ姿勢でいると、良くないので、ストレッチが大事です。睡眠も十分取りましょう。何故、寝ると良いのでしょう?それは免疫力がアップし、病気にならないからです。疲れたら寝る、風邪気味だったら寝る。詩篇1272「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」とあります。どうでしょう?睡眠不足の人は、「私は〇〇時には寝るぞ!」と決断したらどうでしょう?体内時計というのがあるそうですが、朝6時には起きて、朝日を浴びるのが良いそうです。とにかく、「動と静」のバランスを考えましょう。

3.ゆずれないものとゆずれるもの

 私たちにはゆずれないものがあります。それはキリストを信じる信仰です。極論はそうですが、信仰生活の中でも、ゆずれないものがいくつかあると思います。ヘブル619「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。」日本語よりも、ニュー・キングジェームスが良いです。This hope we have as an anchor of the soul, both sure and steadfast, and which enters the Presence behind the veil.直訳すると「私たちが持っているこの希望は、確かで固定した魂の錨のようなものです」となります。船の錨はとても重要です。そこに留まりたいなら、錨をおろしておかないと流されてしまうからです。この世の道徳や価値観は相対的であり、時代とともに変わります。もし、私たちが人の顔色や評判を気にしていたなら、とたんに不安になるでしょう。たとえ、99人が右を向いても、自分だけが左を向くということもあるでしょう。なぜなら、日本にクリスチャンは1%もいないからです。多数決では絶対負けてしまいます。ジョエル・オスティーンが「神さまと私で大多数」と言っています。どうぞ、「みんながそうしている」でだまされないようにしてください。「みんな」ではなく、聖書が何と言っているか、神さまが何と言っているかということに錨をおろすべきです。聖歌508「うきよの風と」があります。「うきよの風と波にもまれて、ふながかりせる小舟にとりて、強き錨ぞ、ただ頼みなる、罪の嵐はいかに吹くとも、岩なるイエスに錨降ろせば、ながさるることなし。我が魂は、波にもまれて、幾度か死を覚悟したれど、錨、この身をゆかしめざりき、罪の嵐はいかに吹くとも、岩なるイエスに錨降ろせば、ながさるることなし。」

 一方、私たちには、ゆずるべきものがあるかもしれません。それは、私たちの中にある信念です。信仰と信念はとても似ていますが、異なるところもあります。ある時は、私たちの信念が、正しい信仰生活の妨げになります。「敵は本能寺にあり」ではないですが、神の敵が自分の信念になっていることもあるのです。信念とは何でしょう?一般に「信念」とは、「正しいと信じている自分の考え」です。この場合、その人にとっては真理かもしれないけど、聖書が言う真理ではないかもしれません。つまり、神の真実と自分の信念が食い違う場合があるということです。これまで『思考の変革』で何度も学んだことがあります。私たちの自動思考を生み出している核(コア)の部分があります。これを核信念(コア・ビリーフ)というと申し上げました。実は、私たちの核信念は歪みがあり、こだわりがあり、一定の傾向があります。その人の経験、その人の性格、その人が体得してきた知識と関係があるからです。もし、「自分の信念がゆがんでいるなー」と気づいたら、進んで、譲歩する心が必要です。ヤコブ317「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり」とあります。「温順」は英語の詳訳聖書でyield to reasonと訳されています。これは「道理に対して、譲歩する」という意味です。ことわざにも、「無理が通れば、道理がひっこむ」とあります。自分では間違っていると分かっている。でも、後に引けないので、意地を張って貫き通す。これが「信念」であります。みなさんもこういう信念というか、こだわり、1つや2つは持っているのではないでしょうか?しかし、私たちは「これが私の生きる道」とばかり、開き直る場合があります。私たち?私がそうです。家族は良く知っています。ちなみに、私はテレビドラマと演歌は大嫌いです。なぜでしょう?上から二番目の兄の影響です。兄は42歳のとき事故で亡くなりましたが、非常にプライドの高い人でした。何故かというと、長男と長女が優秀だったので、その反動として自分なりの信念を持ったのだと思います。どういう訳か、下の私は二番目の兄を慕ったところがあります。正統な理由はないですが、兄の遺志を受け継いでいるのかもしれません。だから、つまらない信念かもしれません。これくらいなら良いかもしれませんが、信念が自分のエネルギーになっている場合もあります。それが正しければ良いのですが、怒りや「見返してやるぞ」という負のエネルギーでは良くありません。上からの知恵は、温順とあります。yield to reason「道理に対して、譲歩する」ということが必要ではないでしょうか?あなたにとって絶対ゆずれないものは何でしょう?あなたにとって、ゆずるべきものがあるでしょうか?棚卸をしてみてください。

4.出ると入る

 「出ると入る」はoutinです。聖書では、私たちの肉体や心が家にたとえられています。みなさんの家には扉doorがあるはずです。外部と完全にシャットアウトしている家はないでしょう。そこには出入りができる扉doorがあるはずです。「良いものはドアを開けて入れて、悪いものはドアを閉じて入れてはいけない」ということを前に学んだことがあります。それでは、自分の家あるいは部屋の中を見て、棚卸をしてみましょう。私はいつまでもこの教会にいるわけではないので、数年前から整理をしています。古いカセットテープやCD、どこかで学んだファイルが山のようにありました。しかし、まだまだ残っています。脚立が必要な棚の奥に、まだたくさんあります。80歳過ぎたら捨てられないと聞いたことがあるので、60代のうちに何とかしたいと思っています。きょうお話ししたいのは、心の棚卸です。心の中にある不用品を出さないと、新しいものを入れられないという真実があります。ルカ2章にキリストの誕生のいきさつが記されています。なぜ、ヨセフとマリヤは家畜小屋でイエス様を生むことになったのでしょうか?宿屋がいっぱいだったからです。英語の聖書にはno roomと書かれています。何故、宿屋の主人は二人を締め出したのでしょうか?もし、彼らを入れたら、今泊まっている客に出て行ってもらわなければならないからです。産気づいたカップルを入れると面倒だという理由もあったかもしれません。その結果、宿屋の主人は、キリスト誕生のためにお役に立てなかったのです。さて、私たちの中にしまってあるもので、本来ならダンシャリすべきものは何なのでしょうか?おそらく、自分に無礼なことをした人のことではないでしょうか?あいつから不当な扱いを受けた、虐待された、大事なものを奪われた、プライドを傷つけられた。負の遺産があるでしょう。英語ではいろんな表現があります。まず、赦せない心はbitterness(苦い)と言います。憤りはresentment、憎悪はhateです。そして、恨みはgrudgeです。Grudgeは「人に(物を)与えるのを喜ばない、与えたがらない、出ししぶる」という意味もあります。本当は気前よく与えるべきなんですが、その人だけには与えるのを控えます。favor好意、親切を与えないで、仕返しをしているわけです。そうしなければならない義務はないので、与えなくて良いかもしれません。でも、心の中には隠された恨みがあります。英語で船を停泊させるとき、harbor ということばを使います。Harborは名詞形では港です。三郷の中川にヨットハーバーがあります。たくさんのヨットが係留されています。Harborの動詞形は「隠す、かくまう、収容する」という意味でもあります。さらには、「恨みや憎しみを抱く」という意味もあります。心の港に恨みや憎しみをつないでいるのです。でも、そういうものがあると、新しいものをあなたの家である心に入れることはできません。既に、他の客でいっぱいでふさがっているからです。

 新しいものとは何でしょう?キリストの誕生です。あなたはキリストを締め出して、離れの家畜小屋に追いやっているのではないでしょうか?いや、これは私の問題でもあります。メッセージしている私自身も問われる内容です。お互いにきついです。「ああ、テレビのお笑い番組を見ていれば、良かった」と思っている人もいるかもしれません。エペソ人やコロサイ人への手紙を見ますと、古い肉の性質を脱ぎ捨てて、キリストにある新しいものを着なさいと書かれています。どういうものがあるのでしょう。親切、優しさ、赦し合い、善意、正義、真実、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などです。私たちはガラテヤ5章の「9つの御霊の実」を上げますが、他にもたくさんあるということです。Ⅱペテロには徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛があげられています。前に引用したヤコブ3章には、純真、平和、寛容、温順がありました。全部を実らせるのは当然無理です。でも、果物にはいろいろな種類があります。花にもいろいろな種類いがあります。あなたにはあなたのvariationがあって良いのではないかと思います。どういうことかと言うと、その人の傷が癒されると、同じような人に対する同情心や気配りが生まれます。私のように不当な扱いや虐待で苦しんだ人はどうなるでしょう?私の家では父が酒を飲み暴れました。仕事もあまりしませんでした。夫婦仲も良くなく、兄弟同士も喧嘩をしていました。つまり、父がちゃんと家庭を治めていなかったので、家の中が荒れていたのです。私は旧約聖書のヨセフにとっても魅力を感じます。私のテーマは「正しく治める人がいなければならない」です。私は学校のときは、リーダーシップのない子どもでした。自分勝手な行動をして先生をいつも困らせていました。しかし、クリスチャンになってから変わりました。loyalty忠誠であれば良いなーと願っています。結論として、悪いものをはきだしたので、その分、良いものが入って来たということです。まだまだ、クリスチャンになる前の積残しあるかもしれません。役に立たない不用品は捨てましょう。その代り、神さまから新しい、役に立つものをいただきましょう。

5.オープンとクローズ

 詩篇119篇をみますと、神さまに心を開いて求めています。よく出てくることばが、「みおしえ」「さとし」「おきて」「仰せ」「悟り」「救い」などです。詩篇11918「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」ニューイングジェームス訳は、Open my eyes, that I may see Wondrous things from Your law.となっています。Wondrous thingsというのは何か興味がわきます。神さまは絶えず私たちに何かを示そうとしておられます。何かのアイディアであったり、これから起ることであったり、警告すべきこと、あるいはすばらしい奥義を示そうとしておられます。ところが、こっちは聞く耳持たずというか、この世のことに目を向けています。心も感情的に乱れて、神さまからの情報をキャッチできないでいるときがあります。主の御声に耳を傾けましょう。主が示してくださることにオープンでありましょう。箴言21-5「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。」主はどこでも、いつでも、常に語りかけておられます。こちらが聞こうとすれば、教えてくださいます。私は外を歩いているときも、買い物をしているときも、たえず主と会話をしています。「これはどうでしょうか?」「あのことはどうしたら良いでしょうか?」すると、何らかの考えが浮かんできます。私は子どものときから、落ち着きがないというか、集中力がありませんでした。今でいったら、ADHD学習障害だったかもしれません。作文でも絵でもテストでも、時間内に完成できません。なぜなら、頭と心が混乱していたからです。しかし、クリスチャンになって癒されました。とても集中力が付くと同時に、神からの知恵が与えられるようになりました。神さまは隠されたことを私たちに示そうとしておられます。申命記2929「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」とあります。箴言252「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」とあります。神さまは、私たちにそれを発見してもらいたいと願っておられるのです。もちろん、天国に行かないと分からないこともあります。それは主が私たちのために隠しておられるからです。でも、多くの場合、主は出し惜しみしないで、奥義を私たちに示してくださいます。

 しかし、シャットアウトすべきものもあります。悪魔は私たちの霊に悪いものをたえずばらまいているからです。恐れ、混乱、破壊的な考え、否定的な考え、情欲、中毒、憎しみ…これらは悪魔から来るものです。ヨハネ1010「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」とあります。盗人とは悪魔のことです。私たちは悪魔によって、ついつい、欺かれてしまいます。「欺き」これが、悪魔の最大の武器です。私たちの思いの中に、疑いをばらまいています。私たちの思いは戦場といっても間違いありません。私たちはこの思いを守らなければなりません。箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」アーメン。

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2018年12月29日 (土)

~ナホム書から見る慰め~    亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ナホム書1章12-15節

1:12

主はこう仰せられる。「彼らは安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる。わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。

1:13

今、わたしは彼のくびきをあなたからはずして打ち砕き、あなたをなわめから解き放す。」

1:14

主はあなたについて命じられた。「あなたの子孫はもう散らされない。あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳像を断ち滅ぼす。あなたはつまらない者であったが、わたしはあなたの墓を設けよう。」

1:15

見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。

彼らはみな、断ち滅ぼされた。

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昨年から12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」と続きましたので、今回は7番目の小預言書にあたる「ナホム書」の一書説教です。

 

前回お話したミカ書には、トキメキの預言がたくさんありました。

ミカ書の預言でヒゼキヤ王が悔い改めて宗教改革を行なったり、私たちがどのように生きて行けば神様が喜んでくださるのかということが記されていました。

また、永遠の支配者、救い主がユダのベツレヘムで生まれるというイエス様の降誕の預言などもありました。

 

しかし「ナホム書」では、神様は烈火のごとく憤られ、ニネべを滅ぼすことを宣告されています。

ニネべと言えば、「ヨナ書」で出てきたアッシリアの首都です。

ヨナ書では、ニネべの民たちが神の御前で悔い改めたことで、滅びから免れたはずです。

 

ところがナホム書ではニネべの滅びが宣告されています。

ナホムはヨナから100年ほど後に生きた預言者ですから、ヨナの時代の悔い改めから、わずか100年の間に、ニネべの民たちは背信してしまったと考えられます。残念です!

 

ナホム書は3章から成り立っていますが、そのほとんどがニネべに対する神の激しい怒りについて記されていて、一切の望みが打ち砕かれています。ですから読んでいてあまり恵まれませんし、辛いです・・・。

 

このようにナホム書は暗いイメージがあるので、礼拝説教ではほとんど取り扱われません。

しかしこのナホム書を、視点を変えて、「福音・良い知らせ(Good News)」という面から見てみると、実はまったく違ってきます。

「ナホム」という名前は、原語のヘブライ語では、נחם(ナーハム)と言います。

ナーハムは、「同情する・慰める」という意味を持っているのですが、このナホム書は実に名まえの通り、「慰めの書」なのです。

 

ナホム書の結論は、1章の終わりから2章のはじめに書かれていますので、本日は1章から2章のはじめにかけての結論部分を中心に見て行きたいと思います。

メッセージの中で、「アッシリア」と言ったり、「ニネべ」と言ったりしますが、ニネべはアッシリアの首都ですので、同じ意味となります。「ユダ」と「イスラエルの民」も同じ意味となりますのでご了承ください。

 

本日は2018年締めくくりの礼拝です。大いに期待して、このナホム書から慰めを存分にいただきましょう!

 

◆ナホム書から慰めをいただきましょう。

①アッシリアの滅亡から神のご本質を知りましょう。

 

まず、ナホム書がすんなり受け入れられないことについては、ひとつの理由があります。

それは、1章の冒頭から、

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1:1

ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。

1:2

主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。

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と書いてあるからです。

 

「神は愛です。」という御言葉が私たちの心に浸透しているように、私たちの主は、愛と慈しみの神様であるというイメージが強いです。

それなのにここでは冒頭から、「主はねたみ、復讐する神。」「主は復讐し、憤る方。」と書かれており、もうその時点で聖書を閉じてしまいたくなるような恐ろしさがあります。

 

しかし、この「ねたみ、復讐し、憤る神」も、実は神様の御本質です。

神様は悔い改める者には憐みをかけてくださいますが、罪を見逃すことはなさいません。

ですから、私たちは、この神様の厳しさから目を背けてはいけません。

 

神様は愛と慈しみに満ち溢れた御方ですが、厳しい御方でもあります。

その厳しさを知ってこそ、神の愛の大きさや深さを、よりいっそう知ることができるのです。

 

さて、なぜ神様はニネベに対してこんなにも憤られておられるのでしょうか。

この時代の背景を知ることは、聖書の理解を深めることに不可欠ですので、見てみましょう。

 

ナホムは、紀元前722年に北イスラエルが滅亡してしまった後の時代に活動した預言者です。

ナホムは1:1に書かれている「エルコシュ人」ですが、エルコシュというのは、おそらく南ユダのどこかにあった場所だと考えられます。ですからナホムは南ユダ王国の住人です。

 

ナホムが活動していたころの南ユダ王国の王は、ヒゼキヤ王の息子のマナセ王だと思われます。

マナセ王は、ヒゼキヤ王とは違って主の目に悪であることを行なった王です。

今までの新改訳聖書では、悪い王のことは、「主の目の前に悪を行なった」と書かれていますが、新改訳2017では、「主の目に悪であることを行なった」という訳に変わって解りやすくなりましたね。

 

ナホムにとっては、自分の国の王マナセ王は神に背くし、敵国アッシリアも神に背くし、霊的にも大変な時代だったようです。しかしアッシリアはこの頃、世的には絶大な勢力を誇っていました。

 

アッシリアはその頃、現在のパキスタン、アフガニスタンあたりから、古代エジプトの首都であったテーゼまで支配していました。

<ナホム書1:3 >

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主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。

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「主は怒るのにおそく、力強い。」と言われている通り、主は忍耐をもって怒りを抑えられ、預言者ヨナの時代に、悔い改めたニネべの民に対して、「滅ぼすまい」と、憐みをかけました。

にもかかわらず、ニネべの民は再び神から離れて罪の世界に戻ってしまいました。

 

主のニネべへの宣告は、アッシリアが強大な王国になったまさにその時でした。

ニネべはイスラエルの神の憐みによって滅びの道を免れたことをすっかり忘れ、おごり高ぶり、南ユダを属国にしてユダの民たちを苦しめました。

 

ナホムは、この強大なアッシリアに対して、預言者として神の厳しいことばを伝えました。

権力があって勢いのある相手に対して物申すというのは、私たちの時代に置き換えても、なかなか出来る事ではないことがわかります。

おそらくナホムは命がけで滅びの預言を語ったはずです。とても勇気のある人だと思います。

 

高ぶるアッシリアに対して、主はこのように言われました。

 

<ナホム書1:11 >

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あなたのうちから、主に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者が出たからだ。

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この「よこしまなこと」というのは、ヘブル語で l[;Y")liB. (ベリッヤアル)と言いますが、このことばは「よこしまな者、邪悪な者、滅びの者」という意味あり、神に敵対する存在を表す時に使われます。

旧約聖書では祭司エリの息子たちの邪悪な行いに対してなど、27回も使われていることばです。

 

また、新約聖書でも使われています。

<第Ⅱコリント6:15>で、パウロが言いました。

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キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

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このことからも、この「べリアル」はサタン、あるいは反キリストのことを表していることが解ります。

キリストとベリアルとには調和がないとパウロが語ったように、信仰と不信仰、光と闇は相反するものであり、調和はありません。だからこそ、神様はニネベの罪を見逃すことはなさいませんでした。

 

ニネべは、神の支配ではなく、ベリアル、つまりサタンに支配されてしまったのです。

 

そして14節です。

私たちが使っている、「新改訳第3版」の訳ですと、ユダの民も「あなた」、ニネべの民も「あなた」なので、どちらに神が語っておられるのか区別がつきにくいのですが、新改訳2017では、ユダの民は「あなた」、ニネべの民は「おまえ」と区別されているので、とても解りやすいです。

別に新改訳2017のキャンペーンをしているわけではないのですが、訳が解りやすくなっているので、ご紹介したいと思います。

新改訳2017<ナホム1:14>

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主はおまえについて命じられる。「もはや子が宿ることなく、おまえの名は絶える。おまえの神々の宮から、

わたしは彫像や鋳像を断ち切る。わたしはおまえの墓を造る。おまえが取るに足りない者となったからだ。」

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神様の怒りは激しく、子孫の繁栄は絶やされ、偶像や鋳像は断ち切られ、滅びゆく者の墓を造ると言われました。「おまえが取るに足りない者となったからだ。」というのは、サタンに支配されるようになったからだということです。

 

その神の言葉通り、ナホムがアッシリアにさばきの預言をしてから50年ほどして、権勢を誇っていたアッシリア帝国は衰退し、バビロンによって滅ぼされ、1400~1500年間続いてきた大帝国は、紀元前609年に完全に歴史から姿を消しました。

 

主の御言葉は必ず実現します。このアッシリアの滅亡から、神の御本質を知りましょう。

神は悔い改める者には憐みをくださいますが、罪を見逃される御方ではありません。箴言1:7に「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」と書かれている通りです。

 

◆ナホム書から慰めをいただきましょう。

②良い知らせ、平和を告げ知らせる者となりましょう。

 

ナホム書には、虐げられていたユダの民に対して神様が回復の約束を与えてくださることが書かれています。少し戻って7節です。

 

<ナホム1:7 >

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主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。

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「主はいつくしみ深い」という言葉は、ヘブル語ではיהוה טוֹב (トーヴ・アドナイ)と言います。

いつくしみは、別の言葉でも表されていますが、ここでは「トーブ(良い)」という言葉が使われています。

 

「トーブ」は、現在でも使われている言葉です。

例えば、「ボーケル・トーブ」というのは、「良い朝ですね」という意味で、朝の挨拶、「おはようございます」という言葉になります。イスラエル旅行に行った時に、まず最初に覚えた言葉です。

 

そして、「アドナイ」は「主・神」という意味ですから、「トーヴ・アドナイ」を直訳すると、「主は良い御方」ということになります。神は永遠な御方なので、「主は永遠に良い御方」ということになります。

 

その永遠に良い御方は、主を信頼する者には、たとえどんな災いや苦難が襲ってきても、「苦難の日のとりで」となって永遠に守ってくださると、ナホムは預言しています。

 

そして、<ナホム1:15 >

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見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。

彼らはみな、断ち滅ぼされた。

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ユダの民たちは、アッシリアに制圧されていたので、祭りのためにエルサレムに上ることも、誓願をすることもできなかったのでしょう。しかし、「よこしまな者はみな断ち滅ぼされた」と主は語られています。

イスラエルの民たちにとって、祭りのためにエルサレムに上り、祝い、誓願することが許されることは、なによりの幸せだったことでしょう。

 

いつも平和を携えて、神に信頼するものは、多くの祝福と慰めが得られることが、ここで約束されています。

 

この御言葉は、イザヤ書や、ローマ書にも用いられています。

 

<イザヤ書52:7 >

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良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。

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「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことよ」と主が語ってくださっているように、私たちは、イエス様の福音を語り伝える者として、ひとりひとりが立てられています。

イエス様の十字架の贖いと復活は、全世界の救いであり、希望と喜びです。

 

その事を知っている私たちは、なによりの幸いを神様からいただいているのです。

生きていれば苦難はたくさんあるでしょう。思い通りにならないこともたくさんあります。

祈ってもなかなか実現しない事もたくさんあるでしょう。

 

しかしもっとも大切なことは、私たち自身が、「平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせる美しい足となる」ことです。それが、主が私たちに期待されていることです。

 

そうすることによって、神は永遠に良い御方として私たちの苦難の日のとりでとなってくださると、ナホム書を通して主が約束してくださっています。

 

先日、高柳姉妹が勤める保育園に歌いに行く機会がありました。99人の園児と保護者、先生方にクリスマスの喜びを伝えに行きました。その時に歌った賛美に「神様の贈り物」という曲があります。

シンプルな歌詞の中に、私たちが決して忘れてはならない大切なメッセージが込められていますので、ここにご紹介します。鈴木先生が泣いてしまう曲です。

 

♪神様の贈り物♪

 

クリスマス 神様の愛の贈り物

クリスマス 神様の愛の贈り物

思い描いた いろんなこと うまくいかなくっても

思い出してね クリスマスは 愛の贈り物

 

父なる神様はニネべを滅ぼされましたが、そこには私たちには計り知れないほどの悲しみがおありになったはずです。それゆえに、尊いひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださいました。

御子を信じる者は、ひとりとして滅びることがなく、永遠のいのちをいただくことができるように、愛の贈り物をくださいました。

 

私たち人間にとって、イエス様こそが、「ナホム」、「慰め」なのです。

イエス様は神様からの最大の愛の贈り物だということを忘れないようにしましょう。

◆ナホム書から慰めをいただきましょう。

③主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

神様は、イスラエルの民の前にアッシリアという強敵を置かれました。

それは、イスラエルの民が練られて成長するためであり、どんな時でも主を愛し、主を信頼することを教えるためです。

 

<ナホム2:1-2 >

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散らす者が、あなたを攻めに上って来る。塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。

主は、ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される。──かすめる者が彼らをかすめ、彼らの

ぶどうのつるをそこなったからだ。

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ナホムは、アッシリアに苦しめられているイスラエルの民たちへ、この預言を取次いでいますが、神様は現在の私たちにはどのように語られているでしょうか。

 

そもそも、私たちを苦しめる敵とは、なんでしょうか。

国や社会、政治の制度に苦しめられている人もいるでしょうし、職場や学校で不当な扱いを受けたり、人間関係で苦しめられていることもあるでしょう。身近な友人や身内に苦しめられることもあるでしょう。

また自分自身の中に、敵だと思えるような部分もあるかもしれません。

 

しかしそれらがすべて、ベリアル、つまりサタンの攻撃だとか、影響を受けたものだとは限りません。

神様は時には、私たちが練られて成長するために敵を置かれるのです。

そのような時に私たちがどうすれば良いかということを、聖書は明確に教えてくれています。

 

詩篇の23篇は、ダビデが敵に追われて苦境に立たされた時に歌った歌ですが、私たちが敵と思われるものに苦しめられた時、ぜひ思い出していただきたい御言葉です。

 

<詩篇23篇>ダビデの賛歌

 

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。

私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 

御言葉には主の力があります。

私たちが主に信頼して御言葉を口にするとき、聖霊なる神が働いてくださり御言葉が現実のものとなります。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」

 

2018年を締めくくるこの礼拝において、静まって、いま一度イエス様が私たちにしてくださったことを想い起こし、感謝と喜びの祈りを捧げましょう。

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2018年12月24日 (月)

貧しくなられたキリスト Ⅱコリント8:9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.24

 クリスマスのイヴ礼拝で最も引用される箇所は、マタイ2章の「東方の博士」か、ルカ2章の羊飼いの話でしょう。イエス様がお生まれになった夜を「聖夜」と言うようであります。Holy night ということばが、讃美歌やクリスマス・キャロルによく出てきます。なんとなく、ロマンチックな気持ちになり、恋人たちが愛を告白する日として利用しているようであります。昔は、イヴ礼拝を止めたときもありました。なぜなら、準備に忙しいわりには人が来ないからです。その日の夜、隣の亀有福音教会に行きました。その教会にとってイヴ礼拝は大伝道集会であり、聖歌隊が降誕劇・オペレッタをやっていました。その後、高木牧師が甲高い声で50分も説教し、最後に「今晩イエス様を信じる人」と招きまでしました。暗いところで、2時間もいたので、拷問のように感じました。私の良い所は、説教が短いことです。また、信仰を無理強いしません。

 

今晩のメッセージは「貧しくなられたキリスト」ですが、キリストはどのように貧しかったのでしょうか?これからキリストと言ったり、御子イエスといったり、イエス様と言ったりしますが、みな同じ人物です。まず、誕生の時のことを考えたいと思います。マタイによる福音書とルカによる福音書にはキリストの誕生のことが記されています。まず、キリストはマリヤの胎をお借りしてこの地上に生まれることになりました。23日の説教では「神の御子が私たちと同じ肉体を持たれた」と言うことを学びました。マリヤはどこで御子イエスを生んだのでしょうか?なんと、家畜小屋です。岩をくりぬいた横穴にスダレをかけたような寒いところでした。マリヤとヨセフが人口調査のために、ベツレヘムを訪れました。ところが、宿屋には部屋がなかったので、二人はその家畜小屋を案内されたのです。そこで、マリヤは男の子を産みました。助産婦さんもいないでどうやって生んだのでしょうか?神の御子がそんな不衛生なところで生まれたのです。しかも、寝かされたのは「かいば桶」でした。馬や牛がたべるエサ箱です。今日ではダンボールがすぐ見つかるかもしれません。御子イエスは王なるキリストになるお方です。人間の考えでは、エルサレム宮殿で生まれるべきでしょう。だから、東方の博士たちは、ヘロデの宮殿に向かいました。「ユダヤ人の王だったら、そこに違いない」と思ったからです。でも、そうではありませんでした。

 

 アフリカのモザンビークは最も貧しい国の1つと聞いています。親から捨てられ、ゴミの山で暮らす子供たちがたくさんいます。大都市のスラム街では、生まれたばかりの赤ん坊が捨てられる場合もあるでしょう。そういう意味では、イエス様も彼らと同じだったと言えば、それまでです。しかし、ピリピ2章には私たち人間と異なるところからやって来たことが書かれています。ピリピ26-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」御子イエス様は単に貧しくなられたのではありません。本来、神であられるお方が、神のあり方を捨てて、無になり、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくされました。つまり、神が人間となるということ自体が、卑しいことなんだということです。父なる神と一緒に全宇宙を創られたお方が、地球という小さな惑星の、滅びゆく小さな人間として生まれました。これよりも卑しくて、貧しいことはありません。ある神学者は「神が人間になるのは、人間がうじむしになることと同じだ」と言いました。これはイエス・キリストにとって、想像もできないくらい厳しいことです。神の御子は「イエス」と言う名前で生まれましたが、この地上では、あえて貧しい姿で生まれました。生活もそんなに豊かでなかったようです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(マタイ820と言われました。それでも、イエス様は、衣食住は満たされていたと思います。なぜなら、多くの女性たちがイエス様と弟子たちに仕えていたからです。イエス様は罪人や取税人と食べたり飲んだりしていました。本来は、すべての所有者でありながら、人々のお世話になりました。そして、最後には、極悪人がかかる十字架にかかって死にました。墓がなかったので、アリマタヤのヨセフの墓を借りました。でも、丸三日で不要になりました。なぜなら、よみがえられたからです。

 

 しかし、パウロは神の子、イエス様が貧しくなられた理由をこう述べています。Ⅱコリント89「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」使徒パウロは、キリストが貧しくなられたのは、私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためだったとはっきり言っています。なのに、キリスト教会のある教派では、清貧が美徳であると思われています。カトリック教会では、聖フランチェスコはすべてを捨てて献身しました。修道士たちは、従順・清貧・貞潔に生きました。イギリスの国教会を批判した、ピューリタンは清貧を美徳にしました。戦中戦後、ピューリタン的な信仰が、アメリカを経て日本に入って来ました。きよめ派の教会は彼らにならって清貧を美徳としました。私の恩師の大川牧師も少年時代はとても貧しくて、修学旅行にも行けなかったと聞いています。一般の信徒ならともかく、牧師や伝道者は清貧の模範を示さなければなりません。牧師が、自分の家も持つことなどありえません。イエス様が枕するところがなかったのですら。服装から食べ物までチェックが入ります。大川牧師は中学生のとき、教会に火をつけてあげたいと思ったそうです。なぜなら、教会は偽善者の集まりと考えていたからです。しかし、今から40,50年くらいまえ韓国で大リバイバルが起こりました。戦後の韓国はとても貧しかったのですが、キリスト教会のお蔭で国がとても豊かになりました。その当時、韓国で最も大きなヨイド教会のチョー・ヨンギ師が日本のリバイバルのために来られました。チョー師はⅢヨハネ2から、魂が恵まれ、すべてのことに恵まれ、健康であるようにという「三拍子の祝福」を説きました。チョー師が病の癒しや繁栄を説くので、日本の教会はこぞって、「それはご利益宗教だ」と拒絶しました。ところが、大川牧師はそのことに共感し、チョー師と交わりを持つようになりました。そのことが原因で、某教団から去って、単立教会になりました。

 

 今晩はそういう恨み辛みを言うために講壇に立っているのではありません。キリスト教会の中で、長い間、清貧は美徳とされてきたということを言いたいのです。ところが、教会は教会運営のため、宣教のために、会堂を建てるために献金してくださいとお願いします。でも、クリスチャンが貧しかったら、教会に献金できるわけがありません。明らかに矛盾しています。もし、貧しくて病気がちなクリスチャンが、「イエス様を信じたら私のようになります」と言っても、だれも見向きもしないでしょう。旧約聖書を読んだらが、父祖たちであるアブラハム、イサク、ヤコブはみんな富んでいました。申命記28章を読むと、あなたの神、主の御声に従うなら、このように祝福されるという項目が列挙されています。申命記283-6「あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」さらに、このようなことも約束されています。「それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。」何と、その祝福は日常の細かなところまで及びます。病気にもなりません。アーメン。しかし、主の声に聞き従わないなら、どうでしょう?地の産物はのろわれ、さまざまな病気にもなります。すべてのものが敵に奪われるとも書いてあります。これは、主に従わないことからやってくる呪いです。貧しさと病は呪いであるとはっきり書いてあります。聖書を正しく読むならば、清貧が良いことであるとは書かれていません。貧しさは呪いであるとはっきり書かれています。

 

 私がこういうメッセージをするとそれは「ご利益信仰だ」とか「繁栄の神学だ」と言われます。そういうことを言う人たちは、清貧を美徳とるすピューリタンの信仰を受けた人たちです。少し開きなおりますが、繁栄のどこが悪いのでしょうか?ヨシュア記1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」これは主の律法を守った人に与えられる祝福です。しかし、生まれつきの人間は神の律法を守り通すことができません。だから、申命記28章の祝福ではなく、後半の呪いを受ける運命にあるのです。病や貧困や敗北は律法を守れない人にやってくる呪であります。その呪を打ち破るために、イエス様がこられたのです。ガラテヤ3章にどうしたらアブラハムの祝福がやってくるのか書かれています。ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」アーメン。このところから分かることは、イエス様が十字架にかけられることによって、律法の呪いとなってくださったということです。律法は1つでも従いきれなかったなら違反しているとみなされます。99点でもダメです。ということはすべての人間が律法の呪いを受けること間違いありません。しかし、イエス・キリストはまことの人間になり、律法を全うしてくださいました。全く罪のないお方が私たちの身代わりになられ、刑罰を受けてくださいました。このイエス・キリストを信じるなら、すべての罪が赦され、神の義がその人に与えられます。そうすると、申命記28章に記されている祝福がその人のものになります。クリスチャンは誰でも、アブラハムの祝福を受けるにふさわしい人物となります。

 

ところが、問題が1つあります。それは、「貧しいことは良いことだ。富むことは罪だ」という間違った考えがある場合です。イエス様は受けるより与える方が幸いであると言われました。人に与えるためにはまず持っていなければなりません。イスラエルに行くと2つの湖があります。1つはガリラヤ湖です。もう1つは死海です。ガリラヤ湖はヘルモン山から水を受け、ヨルダン川に流します。だから、いつも新鮮です。ところが、死海は受ける一方です。湖面から水が蒸発し、生物が住めない塩の湖です。クリスチャンは神さまから得て、それを人々に、あるいは御国のために与えるのです。そうすれば、神からの祝福は止むことがありません。でも、それを自分のためだけに使うなら、たちまち祝福は止んでしまいます。本日のメッセージに戻ります。Ⅱコリント89「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」私は8人兄弟の7番目に生まれました。父はあまり働かなかったために、家にはあまりお金がありませんでした。クリスマスの日、母は「うちは苦しみますだよ」と言いました。それでも姉や兄が、クリスマス・ケーキを買って来てくれました。しかし、父は酒を飲んでくだをまいていました。とても暗いクリスマスでした。秋田の片田舎ではクリスマスは遠い外国の話でした。「どこかにサタンタ・クロースがいたら良いなー」くらいの知識でした。しかし、神の御子が栄光の座を捨てて、この世に来てくださいました。しかも、だれよりも貧しい姿でお生まれになられました。しかし、それは、希望がない人たち、暗くて貧しい人たちのために救いを届けにやってこられたのです。その救いは精神的なものだけではなく、全人格的な豊かさを与えるためです。

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2018年12月21日 (金)

受肉した神のことば Ⅰヨハネ1:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.23

 この世では人間が神になったりしますが、それは本当の神さまではありません。聖書には「神が人間になられた」と書いてあります。そのことを神学的には「受肉」と言います。しかし、そのことは当時の世界では、全く受け入れがたいことでした。なぜなら、霊魂は聖いけれど、肉体は悪であると考えられていたからです。きょうはクリスマス礼拝として、「受肉した神のことば」と題して、聖書から共に学びたいと思います。

1.聞いて、見て、さわったもの

 Ⅰヨハネ11「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」。ギリシャの世界では肉体は悪であると考えられていました。プラトンがそういうことを強調しました。プラトニック・ラブという言い方はそこから来ています。しかし、聖書的は、肉体は神さまが創られたものであり、それ自体、悪いわけではありません。ただし、アダムが堕落してから、肉体に罪が入ったことは確かです。しかし、当時はギリシャ哲学の影響を受けていたので、肉体が悪であると考えられていました。そして、神さまがその肉体を取るなんて、全くナンセンスであるとキリスト教を非難しました。そのことに対する論争は、紀元後300年くらいまで続きます。でも、ヨハネがこの手紙を書いていた頃、すでにそういう兆候がありました。それは、グノーシス主義という異端であります。グノーシスとは「霊知」と言う意味です。簡単に言うと、神秘主義であり、霊的な満し(プレローマ)を求めました。宗教によくある恍惚状態(エクスタシー)であります。彼らの神観は多神教であり、創造主である神も信じていましたが、肉体と物質を創ったので下層の神であると考えていました。その代り、最もランクの高い神、至高神の存在を信じていました。他にも天使崇拝、神話も取り入れていました。一般的に、宗教にはそういう不思議な体験というものがあります。世界には教祖なる者がいますが、みんなそのような神秘的な体験をしています。マホメット、仏陀、モルモン教の教祖、新興宗教の教祖たちです。考えてみれば、パウロ自身も「ダマスコの途上でまばゆい光の中で復活のイエスによって地に打ち倒された。第三の天にまで引き上げられた」と言っています。だから、他の宗教の人たちから言えば、「同じだろう」と言われるかもしれません。とにかく、キリスト教の根幹をゆるがすようなグノーシスの神秘主義的な異端が出現してきました。そのため、ヨハネはそのことに警戒するように、この手紙を書いています。

 11節を見ますと、神のことばが、肉体をとってこの地上に来られたことが書かれています。「初めからあったもの」とはどういう意味でしょう?これはヨハネが書いた、ヨハネ福音書の書き出しを暗示しています。ヨハネ11,2「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」つまり、ヨハネが言う「初めからあったもの」とは、「ことば」です。ギリシャ語ではロゴスであり、その当時はとても意味深なことばでした。古代のギリシャ哲学では、「初め(アルケー)にあったのか?この世界は何でできているのか?」ということをものすごく探究しました。「ロゴスなるものが世界を創ったのではないだろうか」という考えが支配的になりました。ロゴスは強いて訳すと、「宇宙理性」と言えるかもしれません。でも、そこには人格的なものは含まれません。神であるとも言っていません。しかし、ヨハネはあえて「初め(アルケー)にロゴスがあった」と書いたのです。当時の世界はこれを読んでびっくりしたことでしょう?しかも、その続きがあります。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」「なんと?ロゴスは神とともにおられ、神とともにこの世界を創造したのか?しかも、いのちまであるとは?」とびっくり仰天したでしょう。なぜなら、ロゴスは単なる宇宙理性ではなく、神であり、人格があり、いのちがあると言うからです。現在は、グノーシスに似た、ニューエイジが世界中にはびこっています。彼らは宇宙に満ちる神と一体になることを勧めています。彼らの神は人格などありません。ただ漠然とした宇宙の大霊です。

 ヨハネはそのことばが、肉体をとられたことをこの手紙で書いています。「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」肉体とは書かれていせんが、肉体の持つ性質は書かれています。それは「見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わう」です。ヨハネは「私たちが聞いたもの」と言っています。それは、ヨハネが神の子イエスが語ることばを聞いたということです。「目で見たもの」とは、イエス様をその目で見ました。しかも、じっと見ました。3年半、寝食を共にしました。ペテロとヤコブとヨハネの三人は特別でした。彼らはヤイロの娘のよみがえり、変貌の山、そしてゲツセマネの園の奥まで一緒でした。「また手でさわったもの」とは、ヨハネがイエス様にさわったということです。最後の晩餐のとき、イエス様が「この中のだれかが私を裏切る」と言われました。ペテロは「それはだれなのか」、イエス様に聞くようにヨハネに促しました。おそらく、ヨハネはイエス様の胸元に寄り添って、「主よ。それはだれですか」とささやいたに違いありません。そういう意味で、「手でさわったもの」と言えるのは、ヨハネがもっとも相応しいでしょう。つまり、イエス様は仮に現れていた霊的な存在ではないということです。ちゃんと私たちと同じ肉体を持っておられたということです。なぜでしょう?肉体を持っている私たちを救うためです。ヘブル2:1415「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アダム以来の人間は、死ぬ運命にあります。そういう私たちを死から救うために、神の御子は私たちと同じ人間となって下さったのです。蟻を救うためには蟻にならなければなりません。ある神学者が言いました。「神が人間になるとは、人間が蛆虫になるのに等しい」と。イエス様は神としてのご栄光を捨ててくださって、天から下って、人間としてお生まれくださったことを感謝します。これがクリスマスです。

2.永遠のいのち

 Ⅰヨハネ12.「──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──ヨハネは「いのちが現れた」と言っています。いのちとは、イエス・キリストのご自身のことです。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。このいのちは、ギリシャ語ではゾーエーであり、単なる「いのち」ではありません。人間のいのちは、プシュケーであり、「地上の生命」あるいは「肉体のいのち」です。ヨハネが言うゾーエーは、神のいのちであり、永遠のいのちです。これは人間にはないものです。ヨハネは私たちが救いを得るとは、神のいのち、永遠のいのちをいただくことであると定義しています。パウロは救いとは罪が赦され、義とされることであると法的に定義しています。一方、ヨハネは「神のいのち、永遠のいのちを得ることなんだ」と生命的に定義しています。最も有名な箇所はヨハネ316節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」でも、どうして御子イエスを信じるなら、永遠のいのちを持つことができるのでしょうか?それは、創世記まで遡らなければなりません。エデンの園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。アダムは園のどの木からでも思いのままに食べて良かったのです。ただし、善悪の知識の木から取って食べてはいけませんでした。主なる神は、はっきりと「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言明されました。それだけはっきりと禁じられていたのに、ヘビに化けたサタンにそそのかされて食べました。それで、人間は堕落し、死ぬようになりました。ただちに霊が死に、後から肉体が死にました。主なる神は、アダムが手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように、園から追放しました。しかも、ケルビムという天使が回る炎の剣を持って、いのちの木の実を阻止しています。

 おそらく、園の中央にあった「いのちの木の実」はイエス・キリストの予型でありましょう。ところで、人間はみんな死の毒にやられています。誰でも、この地上に生まれたなら必ず死ぬ運命にあります。あなたも、私も死に向かって生きています。だれが死のからだから、私たちを救ってくれるのでしょう?ヨハネ316節の有名なみことばの直前に、イエス様がこのようなことを言われました。ヨハネ313-15「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」この物語は民数記21章からの引用です。イスラエルの民が荒野で「パンもない、水もない。ここで俺たちを殺すつもりか」とつぶやきました。すると主は、民の中に燃える蛇、毒蛇を送られました。蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人たちが死にました。民たちは主とモーセに「罪を犯しました。どうか蛇を私たちから取り去ってください」とお願いしました。その時、モーセは主から示されて、青銅の蛇を作り、それを旗竿の上につけました。主は「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。毒が体に回って死にかかっていた人も、青銅の蛇を仰ぎ見ると生きました。何故、ヨハネはそのことを引用しているのでしょうか?人の子であるイエス様は天から降りてきて、十字架にかかりました。十字架は神の刑罰であり、へびのように呪いの象徴です。信じるとは、十字架のイエスを仰ぎ見ることです。すると、死にかかっている人が、生きるのです。地上のすべての人は、死の毒にやられています。しかし、十字架のイエスを仰ぎ見るなら、つまり信じるなら滅びないで永遠の命を持つことができるのです。ここに逆説的な真理があります。細かい理由は分からなくても、父なる神が人類を死から救うために、御子イエスを与えました。どこに?十字架の上に贖いの供えものとして与えました。イエス・キリストは私たちの罪の代わりに罰せられました。父なる神は御子イエスを信じるなら、滅びることなく、永遠のいのちを与えると約束されたのです。

 イエス・キリストはゾーエーといういのちです。ゾーエーといういのちは、死に打ち勝ついのちであり、復活のいのちでもあります。ヨハネは「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」と証をしています。証というのは、目撃者の証言であります。裁判の席で立つ「証人」という意味でもあります。彼らが偽りを証言したなら罪になります。しかし、ヨハネは「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし」と言っていますが、何のことなのでしょうか?それはイエス様がよみがえった日の夕方のことではないかと思います。ユダヤ人を恐れて戸が閉じてあったのに、イエス様が来られ、弟子たちの中に立たれました。「平安があるように」とその手と脇腹を彼らに示されました。弟子たちは、主を見て喜びました。どんな喜びでしょう?イエス様が死に打ち勝たれたと言う喜びです。ヨハネは「このことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ2031と言っています。いのちとは、永遠のいのち、神のいのちです。どうすれば滅びないで永遠のいのちが与えられるのでしょうか?私たち人間にはプシュケーという肉体のいのちしかありません。これは年老いて、やがて死ぬ運命にあります。なぜなら、アダムが犯した罪の毒の影響を受けているからです。この肉体のいのちには全く希望がありません。いろんなサプリメントを飲んで、アンチ・エージングを心がけても不可能です。唯一、まことの方法は、いのちであられるイエス・キリストを信じることです。信じるとは、神が与えたイエス・キリストを信じるということです。そうするなら、あなたの中に神のいのち、ゾーエーが付与されるでしょう。クリスチャンは2つのいのちを持っている存在です。1つは、プシュケーという肉体のいのちです。そして、もう1つはゾーエーという永遠のいのちです。いつか、肉体のいのちは消えてなくなるでしょう。でも、私たちはもう1つのいのちを持っています。このいのちは肉体の死とは関係ありません。

3.神との交わり

 Ⅰヨハネ13「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」このことは、クリスチャンになってからのことが書かれています。救われた私たちは、神さまと親しい交わりを持つことができるのです。交わりはギリシャ語でコイノーニアと言います。コイノーニアは、交わり、交際、親密な結合という意味で、英語ではfellowshipです。でも、他に、共有、分け前に与かるという意味もあります。つまり、持っているものや、喜び、いのちをやり取りするということです。では、ヨハネが言っている、私たちが持つべき交わりとは何なのでしょうか?それは「御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。これはどえらいことです。御父と御子は永遠から親しい交わりを持っておられます。神が愛であるということは、ひとりでは不可能です。神はお一人であられますが、ご自身の中に父、子、聖霊という三つのペルソナ(位格)を持っておられます。つまり、父、子、聖霊が互いに愛し合っているということです。このところには、御父と御子の二つのペルソナ(位格)しか書かれていません。聖霊はどうなったのでしょう?実は、この聖霊なる神が、私たちを御父と御子の交わりの中に加えてくださるのです。毎週、礼拝の最後に祝祷をいたします。そのとき、「聖霊の交わりがあるように」と祈ります。そうです。聖霊こそが、私たちをして神さまとの交わりを可能にしてくださる霊なのです。ヨハネ4章にまことの礼拝について記されています。ヨハネ424「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」イエス様は「神は霊である」と言われました。そして、礼拝者は「霊とまことによって」礼拝しなければならないと言われています。ここで言われている「霊とまこと」とは、私たちの霊であり、まことです。しかし、私たちの「霊とまこと」では限界があります。そこで、私たちの霊の内に住んでいる聖霊が霊なる神との交わりを可能にしてくださるのです。だから、「聖霊の交わりがあるように」と祈るのです。聖霊によって、御父および御子イエス・キリストとの交わりが可能になったのです。

 でも、その後に、神との交わりを邪魔するものが書かれています。それは何でしょう?それは罪です。ヨハネは「やみの中を歩む」とか「偽りを言っている」とも言っています。でも、7節以降にははっきりと、神との交わりを邪魔するものは「罪である」と言っています。Ⅰヨハネ17-10「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」福音的な教会でありながら、この箇所を未信者がイエス様を信じるときのことばにしている教会があります。特に19節がバイブル・キャンプなどでは、救いのみことばとして取り上げられています。子どもたちは、何か犯した罪を悔い改めて、そしてイエス・キリストを救い主として信じる祈りをします。ただ、信じるだけではダメなのです。自分が犯した具体的な罪を告白する必要があるのです。しかし、それは行為義認であり、本当の福音ではありません。救いは行いによらないというのが、福音の本質です。なぜ、そんな間違いを犯してしまうのでしょう?それは、ヨハネ第一の手紙が未信者向けではなく、すでにイエス様を信じた神の子に宛てられていることを忘れているからです。その証拠として、Ⅰヨハネ21「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは…」と書かれています。Ⅰヨハネ513「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」このように、既にイエス様を信じて、神の子となっている人たちにヨハネは手紙を書いているのです。何のためでしょう?第一は既に、神のいのちがあること。第二は既に、神との交わりがあることです。そして、第三は、交わりを妨げる罪を取り除くことです。ですから、Ⅰヨハネ17節から10節までは、すでに神との交わりを持っている、神の子どもたちに書かれているのです。

 では、救われて神の子どもになったら、罪を二度と犯さなくなるのでしょうか?Ⅰヨハネ39「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません」と書かれています。これは、「継続的に、常習的に罪を犯さない」ということであり、「二度と罪を犯さない」という意味ではありません。神の子どもでも、再び罪を犯す可能性があるので、ヨハネはこの手紙を書いているのです。もし、私たちが罪を犯したならどうすべきでしょう?19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。「言い表す」はギリシャ語でホモロゲオウ、「同じことばを言う」という意味です。つまり、「私はこれこれのことをしました」と神さまの前で告白するということです。「ごめんなさい」と言うかどうかは、強制されていません。むしろ、ありのままを認めることの方が重要です。よく、お母さんが子どもに「ごめんなさいと言いなさい」と強要します。子どもの方は、悔しくて絶対口を開こうとはしません。それは逆効果です。では、私たちが罪を告白して、どうして赦されるのでしょう?第一は、イエス・キリストの血です。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」と書いてあります。Ⅰヨハネ2章には「罪のためのなだめの供え物」と書いてあります。第二は、神さまが真実だからです。「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と書いてあります。でも、なぜ、「神が真実で正しい」と関係があるのでしょう?それは、神さまが御子イエスの血を通して、あなたが犯した罪を見るからです。真実で正しい神さまは、矛盾することなく、いつでもあなたの罪を赦して、きよめるということです。第三は、「御子イエスが御父の前で弁護してくださる」とⅠヨハネ21節にあります。このクリスマス、肉体を持っている私たちを救うために、神の御子が人となってこの世に来てくださったことを感謝しましょう。

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2018年12月14日 (金)

へんぴな所から マタイ4:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.16

 イエス様は果たしてどんなところから宣教活動をされたのでしょうか?もし、現代のようにリサーチやマーケティング、あるいは戦略的に宣教を考えるならどうするでしょう?おそらく、都のあるエルサレムから始めるべきでしょう。なぜなら、そこは宗教の中心地であり、有力な人たちが大勢いるからです。エルサレムをキリスト教化したら、イスラエル全体にすばやく影響を及ぼすことができるからです。しかし、イエス様は私たちが考えるような道を取られませんでした。イエス様はへんぴな所から始め、名もない人たちを弟子に召し、底辺の人達を救われました。

1.へんぴな所から

マタイ4:1516 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」このみことばは、イザヤ書9章からの引用であり、イエス・キリストの預言が記されています。イザヤ96「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」本来なら、このところからクリスマスのメッセージをお届けすべきなのですが、あえて周辺的な事柄を取り上げたいと思います。イエス様が宣教を開始されたゼブルンの地とナフタリの地はどういうところだったのでしょうか?イザヤ91「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」この後に、マタイ415節に引用されたみことばが続きます。ゼブルンの地とナフタリの地はイスラエルの北部にあります。ヨシュアたちがカナンの地を占領した後、どの地に定住するか12部族がくじを引きました。そして、この2部族がガリラヤ湖の西側に住むことになりました。ところが、紀元前783年アッシリヤによって北の10部族が滅ぼされました。なんと、住んでいた人たちのほとんどが国外に連れ去られ、5つの外国の部族が代わりに入れられました。このように民族を根絶やしにするのがアッシリヤの戦法でした。イザヤ書の「さきにはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けた」とはこのことであります。イエス様の時代はサマリヤと同じで混血で混合宗教でありました。だから、ユダヤ人は「ナザレから何の良いものがでるだろう」と馬鹿にしていました。いわゆる吹き溜まりのような場所だったのです。しかし、イエス様はこのような場所から宣教を開始しました。だから、イザヤは「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」と預言しているのです。

私は秋田の出身です。ちなみに家内は岩手です。両方とも東北の田舎の出です。「秋田から何のよいものが出るだろう」と言ったら、秋田出身の人たちから叱られるでしょう。岩手もそうですが、かつては蝦夷地でした。中学校のとき国語の先生から教えられました。秋田は京都の人たちが流れて来たらしくて、京都弁がなまって、秋田の方言になったということです。性格もとてもよく似ていて、表向きは愛想が良いのですが、決して本心はあかさないそうです。そのため、秋田はうつ病と自殺率が全国のトップになっています。もっとも、裏日本で雨が多く、日光が照らないせいもあります。もし、私が秋田に住んでいたなら決してクリスチャンにはならなかっただろうと思います。家内も同じようなことを言っています。なぜなら、教会が近所に全くないからです。私は4男なので、家には住めないので、関東にやってきました。昔は「集団就職」というのがありました。私の人生観は「夢を追って、楽しいことをやって生きることでした。」しかし、クリスチャンになって振り返ると、「生き延びるために生きていたなー」と思います。このような者が、講壇に立って、みなさんに説教を垂れるなんて、ありえないことです。まさしく、「はずかしめを受けたが、後には…光栄を受けた。」であります。私のことはともかく、みなさんはいかがでしょうか?もちろん、「私はあなたと比べて生まれも育ちも良いですよ。そんなに下品じゃないですよ」とおっしゃるかもしれません。でも、このところに、マタイ4章に「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」と書いてあります。これは、私だけではなく、みなさんのことではないかと思います。私たちは生まれたときから、死の地と死の陰にすわっていたといっても過言ではありません。パウロはエペソ2章でこのように言っています。21,2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」私たちはかつて、霊的には死んでいた状態でした。しかし、神の大きな愛のゆえに、恵みによって救われたのです。「あの時は確かに死んでいたなー」と、救われてから分かるのです。

 イエス様は最も困難なところから始めました。カペナウムは自分が生まれ育った場所です。イエス様が最も大きな奇跡を行ったのはカペナウムです。でも、彼らはイエス様を信じようとしませんでした。なぜなら、ナザレのイエスとその家族を良く知っていたからです。イエス様はこのように嘆いておられます。マタイ1123「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」はっきり言って、イエス様の宣教は失敗だったかもしれません。なぜなら、多くの人が躓いたからです。滋賀県に止揚学園という知能に重い障がいを持つ人たちの支援施設があります。その場所に施設を作るとき「馬鹿が移る」と大反対されたそうです。その施設の福井達雨先生の座右の銘は「負け戦に賭ける」だそうです。キリスト教会も大勢救われるようなところで伝道して、大きな教会を建てたいと思うかもしれません。しかし、目先の人数を追い求めて、神様が召しておられる場所を軽視するところがあります。私も亀有31年もいます。日本中の牧師が共通して言うことがあります。「私のところが一番、伝道が難しい」。暗い場所こそ、最も、福音の光が輝くところだと信じます。

2.名もない人たち

 イエス様は福音宣教を開始した直後、弟子たちを集めました。その目的は、ご自分のわざを継承させ、拡大させるためです。天にお帰りになる直前、弟子たちにこう命じられました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」よく見ると、ここには「教会を成長させなさい」とか、「教会を数多く建てなさい」とは書かれていません。「キリストの弟子を作りなさい」と命じているだけです。なのに、私は30年以上、的外れな奉仕をしてきました。日本の福音派の教会がこぞって「教会成長」「教会開拓」をスローガンに掲げてきました。現在も、そのようなセミナーや牧師の養成コースがあります。私も大川牧師から「どうして100名ならないの?」とか「1,2つ教会を開拓しないと」と良く言われます。来年の7月、当教会の70周年創立記念礼拝にメッセンジャーとして既にお願いしています。もし、「教会は人数じゃないよ」と言ったなら、「大きくなってから言えよ」と言われるでしょう。とても言えませんけど…。また、日本の教会で牧師同士が挨拶するとき、必ず尋ねることばがあります。「お宅の教会は礼拝、何名来ているの?」であります。自分よりもずっと大きいと、へりくだらざるをえません。でも、「お宅の教会にキリストの弟子は何人いるの?」とは聞きません。純粋に、聖書を見ると、教会を建てるのは私たちではありません。マタイ1618「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と書いてあるからです。英語の聖書もI will build My church,となっています。これまで、教会の組織とか、運営方法、たくさん学んできましたが、よけいなことをしてきたのではないかと反省しています。

 でも、聖書を読めば、読むほど、「イエス様の命令、イエス様のやり方とは違うことをやっているなー」と気づかされます。イエス様が召した12人の弟子たちというのは一体どういう人たちだったでしょう?ほとんどがガリラヤの漁師です。ギリシャ語は理解できたかもしれませんが、書くことはできなかったでしょう。他に取税人、政治結社の一員、ご自分を裏切るであろう人物も加わっていました。一般の企業がプロジェクト・チームを立ち上げるとしたらどうするでしょう?イスラエル大学で専門に聖書を勉強した人たちの中から選ぶでしょう。学位を持っているか、だれに師事したのか、弁論術はすぐれているだろうか?ローマの市民権は持っているだろうか?人格的にはどうだろうか?過去にスキャンダルを起こしたことはないだろうか?しかし、イエス様の場合は、そういう資格試験は全くありませんでした。いきなり、「私に従って来なさい」と言っただけです。当てずっぽうと言って良いくらい、その場で決めたような感じがします。人格的にもみんな問題があります。ペテロはおしゃべりでいい加減、ヨハネとヤコブは激しやすいタイプ、トマスは懐疑論者です。イスカリオテのユダは会計をごまかしていました。イエス様が十字架に捕らえられたとき、ヨハネを除いて、みんな逃げました。リーダー格のペテロはイエス様を「知らない」と三度も言いました。何かの間違いではないでしょうか?しかし、イエス様はヨハネ15章でのこのようにおっしゃっています。ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」イエス様は、たまたまではなく、ちゃんとお考えがあって、あの弟子たちを選び、任命したのです。ちゃんと、前もってご計画があったということです。イエス様は「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」(マタイ39と言われたことがあります。有能な人を起用するなら、だれでもできます。しかし、イエス様は全く役に立ちそうもない普通の人を選びました。だからこそ、そこに栄光が現れるのです。パウロもこう言っています。Ⅰコリント127-29「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

 既に天に召されましたが、韓国のS教会にO牧師がおられました。1990年代、弟子訓練で、日本から多くの牧師たちが研修に出かけました。日本にも先生を何度もお招きしました。O先生は、アメリカの大学で学ばれた有能な牧師を後継者におたてになられました。その先生によって早天祈祷会は毎朝、1万人集まっていました。しかし、まもなく、その先生は学歴詐称で訴えられ失墜しました。S教会で長老をしておられた方がこう言っていたそうです。「O牧師は、優秀な大学生に高い信仰書をプレゼントしていたけど、私には何もくれなかった。しかし、かつての優秀な大学生は一人も教会に残っていない。O牧師は人を見る目がない」と。こういう話題は、礼拝では不謹慎だったかもしれません。私は大川牧師の弟子ですが、高校出で全く優秀でありませんでした。私よりも学歴があり優秀な人たちはたくさんいました。でも、あの頃、座間キリスト教会で献身して、残っている牧師は私だけです。私が言いたいのは、神様の選びは人間とは違うということです。神様はあえて、この世の取るに足りない者や見下されている者、無に等しいものを選ばれるのです。旧約聖書からも、ヨセフも、ダビデも、ギデオンも取るに足りない人が選ばれたことがわかります。もし、「自分が取るに足りない者」だと思ったなら、キリストの弟子になる資格が十分にあります。でも、私を含め、教会の指導者が心からそう思っているか?であります。やっぱり、学歴、素養、賜物、能力…を見てしまうでしょう。何度か失敗してみて、「ああ、やっぱりそうなのか?」と学ぶのです。本当にそのことを悟るまでは40年くらいかかるかもしれません。イエス様は「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ117と言われました。英語の聖書は"Follow Me, and I will make you become fishers of men."です。イエス様が私たちを弟子にしてくださるのです。私たちに必要なのは、イエス様についていく、イエス様に従って行くことです。アーメン。

3.底辺の人たち

マタイ416「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」当時、イスラエルには、アム・ハーレツと呼ばれる、「地の民」がいました。パリサイ人たちが、律法を知らない人たちを軽蔑して言ったことばです。聖書では「群衆」ということば出てきます。パリサイ人や律法学者もイエス様のところに来ましたが、学識が邪魔してイエス様を信じようとしませんでした。なんと、一番、先に神の国に入ったのは、当時、見下げられていた、取税人や罪びと、遊女たちだったのです。イエス様が当時の宗教的指導者にこう言っておられます。マタイ2131-32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」彼らは聖書をだれよりもよく勉強し、律法を守り行おうとしていた人たちです。しかし、彼らが神の国に入らないで、いわゆる律法を守れない「地の民」のほうが神の国に入ったのです。何という皮肉でしょう。私たちも道徳的で立派な人が救いを受けるのではないかと思います。しかし、そういう人に限って、高慢であり、神様に頼ろうとしません。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ913と言われました。

しかし、教会はどうでしょう?町の有力者や金持ち、あるいは芸能人が救われたら、後から大勢の人が救われるだろうと思っています。よく、伝道のときに引用される聖書箇所があります。それは「平安の子」です。ルカ106,7「もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。」「平安の子」というのはキーパースンです。「平安の子」が救われたら、芋ずる式に他の人たちが救われるという宣教の戦略です。確かに、聖書にはそういう人がいます。パウロがピリピに伝道に行ったとき、紫商人のルデアという一人の婦人がいました。使徒16章に「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」と書いてあります。そのあと、どうなったでしょう?彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実なものとお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊りください」と言って頼み、しいてそうさせました。神様はピリピにルデアとその家族を初穂として備えてくださいました。確かに、主が備えてくださっている魂というのがおられます。でも、それは人間的に考えた戦略ではありません。多くの場合、私たちの考えとは違う方法で導かれます。つまり、多くの場合、「平安の子」キーパースンは、私たちが考えもよらない人であるということです。

松戸の岡野牧師夫妻が「生活伝道」について話されたことがあります。開拓当時はチラシ配布をして、伝道集会や音楽集会も開きました。他に、英会話伝道、映画伝道、何でもやりました。そのせいもあってか、数年で30名くらい集まりました。しかし、伝道に疲れ果てて教会にだれもいなくなりました。岡野牧師は「私は教会をつぶしました」とよく証しておられました。しかし、あるとき、牧師夫人がイザヤ書58章から知らされたそうです。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」(イザヤ586,7)。二人は悔い改め、これまでの人を集める伝道をやめました。子どもが幼稚園に行っていましたが、そのとき、あるお母さんを助けてあげました。雨の日に子どもを一緒に送ってあげたり、子どもを預かってあげました。そのお母さんはイエス様を信じませんでしたが、それを見ていた他のお母さんが興味を持ち始めました。「なぜ、あんな親子を世話するんだろう?」とびっくりしたからです。つまり、世話した困っている人ではなく、他の人が「平安の子」だったのです。神さまは私たちの動機を見ておられます。「あなたが教会に来るなら愛します」では本当の愛ではありません。

ハイディ・ベーカー夫妻は最も貧しい国、アフリカのモザンビークに片道切符で伝道に行きました。今では、1万以上の教会が生み出され、1万人の子どもたちが集まり、まさしく火のようなリバイバルが起こっています。しかし、最初は何もないところからスタートしました。2日後にお金が尽きてしまいました。道路の脇に座りながら、何をしたら良いか考えていました。神さまが語りかけました。「私があなたをここに送った。あなたはここでリバイバルを見るだろう。私があなたに望むすべてのことは、あなたが一人のために立ち止まってすることだ」。私は2000何年まで、どのようにこの都市で伝道すべきか、という戦略的な計画を持ちませんでした。私が知っていたすべてのことは、神さまが一人のために立ち止まるということだけでした。私は、貧しくて小さな子どもを愛するために一緒に座ることから始めました。ある日、私はギトーという男の子を拾いました。小さくて痩せ細ったその子は、打ちたたかれ、レイプされ、道端で死にかかっていました。私はハエがたかって死にかかっているその子を腕に抱き愛しました。彼はエイズにかかっていました。私は彼を抱えながら「ギトー、私と一緒に家に行こう」と言いました。彼がリバイバルの顔だったのです。そこには快適な計画も、滑らかなパンフレットもありません。まもなく、神さまはギトーのエイズを完全に癒して下さいました。イエス様は「最も小さい者にしたことは私にしたことだ」と言われました。私は道端の子どもたちの顔にイエス様の顔を見ました。ギトーのような一人に神の愛を注ぎ、養子になるように伝えました。多くの人たちが、血を流し、絶望して死にかかっていました。しかし、今はドレスを着て、銀行や会社で働いたり、大学に通っています。彼女のように、富んでいる人や有力な人ではなく、底辺の人たちに仕える事が、伝道の鍵なのです。教会はこの世の方法ではなく、イエス様の方法を学ぶべきだと思います。

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2018年12月 7日 (金)

宗教的にならない コロサイ2:16-23 亀有教会牧師 2018.12.9

 この世の人たちは、キリスト教を宗教だと思っているかもしれません。宗教をどう捉えるかによって、異なりますが、私たちは宗教的にならないように心掛ける必要があります。イエス様と当時の宗教家たちとの間で反目があり、結局は彼らによって十字架につけられました。「私たちはキリスト教ではない」と主張したとしても、宗教になってしまう可能性はどうしてもあります。なぜなら、宗教は肉であり、生まれつきの人が好むものだからです。きょうは、どのようなことを注意したなら、宗教的にならないのか4つのポイントを上げたいと思います。

1.儀式

 どの宗教にも儀式があります。「どうしてそんなことをするの?」と、野暮な質問をしてはいけません。やっている当人も分からないからです。宗教には「タブー」と言われるものが必ずあります。あえて、それが何なのか問うてはならないのです。それでは「聖書には儀式がないのか?」というとあります。出エジプト記24章から40章までが儀式的な律法について書かれています。また、レビ記にいたっては、そのほとんどが儀式的なことです。民数記は、神に仕える人たちが勝手なことをしたために神さまに打たれた記事がいくつもあります。サウル王は祭司しかやっていけない犠牲をささげて、神さまから捨てられました。ウジヤ王は神殿に入って香を焚いたために、らい病になりました。儀式というのは端的に言うと、「聖なる神さまに私たちがどのように近づくのか」というきまりみたいなものです。前提として、私たちは罪と汚れに満ちているので、聖なる神さまのところには簡単に近づくことができないということです。そのため、第一は罪や汚れをきよめる犠牲が必要です。第二は、神さまと人々の間に立つ、祭司や大祭司が必要となります。第三は、儀式を行うための場所や、用具が必要となります。何も考えないで「儀式なんか不要だ、ナンセンスだ」と言って排除してはいけません。

でも、このところに儀式が不要である根拠が記されています。コロサイ2:16,17「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」祭りや儀式は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。それらはキリストの予表、型であり、本体が来たなら、不要になるということです。ヘブル人への手紙はユダヤ教からクリスチャンになった人たちのために書かれました。そこにはユダヤ人たちが大事にしていた、安息日、礼拝の規定、食べ物や飲み物、大祭司、犠牲などについて記されています。それら、すべてのものはキリストによって成就されました。キリストは罪のために一つの永遠のいけにえをささげて下さったので、私たちは聖なるものとされました。また、キリストはまことの大祭司であり、新しい契約の仲介者になられました。私たちはこのお方を通して、大胆に恵みの御座に近づくことが可能になったのです。残念ながら、ローマ・カトリックはこのことが分かっていません。犠牲の意味がこめられたミサをあげ、司祭がキリストの代わりをしています。一般の信者は直接、神さまのところには近づくことができません。

 それでは「私たち教会はどうなのか?」ということです。「礼拝学」と言う神学があります。良く言われるのが「恵みの手段」means of graceです。神さまに近づいて礼拝するための手段です。私たちはできるだけ礼拝をシンプルにしていますが、ある教会のプログラムを見たら20項目もありました。司会者が前に立ち、人々が立ったり座ったりします。彼らは「儀式ではありません。恵みの手段です」と言うかもしれません。でも、あまりにも項目が多すぎて、中心がぼやけてきます。イエス様は礼拝についてどのように答えておられるでしょうか?ヨハネ423,24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」大事なのは、どのように礼拝するかではありません。神さまが求めておられるのは礼拝者です。私たち自身です。キリストに贖われた私たち自身をささげることが真の礼拝なのです。恵みの手段の決定的なものは、霊とまことによって礼拝することです。Ⅰ歴代誌289「全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである」とあります。神さまの前で表面を飾る必要はありません。なぜなら、すべてがお見通しだからです。幸いなことに、私たちはイエス様によってすべての罪が贖われ、聖霊によって生まれ変わった存在です。新約の私たちは、霊とまことによって礼拝することが可能になりました。ハレルヤ!

2.自己否定

 キリスト教会で良く言われるのが自己否定と謙遜です。確かに聖書には「十字架を負って従いなさい」「古い自分に死になさい」と命じられています。でも、聖書の教えは自己否定で終わりません。イエス様は十字架で死なれましたが、三日目によみがえりました。同じように私たちも十字架で死んだ後には、必ず復活が来るのです。自己否定で一番有名な聖句はガラテヤ2章にあります。ガラテヤ219,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」アーメン。私たちは十字架につけられて一度死んだ存在です。でも、その続きがあります。ガラテヤ220後半「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。復活して、キリスト中心に生きている新しい自分がいます。十字架の死と復活はワンセットです。十字架の死だけを強調すると、苦しくなり、お葬式になります。なぜなら、十字架は自分を殺し、葬らせてくれる道具だからです。でも、死んだままでは神さまのために生きることができません。でも、神さまはイエス様を死からよみがえらせました。同じように私たちに十字架を適用すると、神さまが復活を与えてくださいます。パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ122と言いました。

 もう1つ言われるのが「謙遜」です。コロサイ218「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり…」コロサイ223「人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか」と書いてあります。当時の人たちも、自己卑下とか謙遜を大事にしていたようです。でも、本当の謙遜とは自己を卑下することではありません。キリスト教会で良く聞くことばがあります。「私は何もできません」「私には全く価値がありません」「私は弱い者です」「私は罪が赦されただけの者です」「私はそれを受けるだけの資格がありません」「私はまだまだ、きよめられていません」「私は取るに足らない者です」…と言う方がいらっしゃいます。それが本当の謙遜であるかどうかテストする方法があります。「私は何もできません」という人には、「そうですね。あなたは何もできませんね」と言ってみましょう。「私は弱い者です」と言う人には、「そうですね。あなたは本当に弱いですね」と言ってみましょう。おそらく、真っ赤になって怒るでしょう。それを「わざとらしい謙遜」と言います。謙遜というのは本来そのような意味ではありません。

本当の謙遜は自分を卑下するのではなく、このようにしてくださった神さまを誇ることです。 たとえば、ここにある画家が描いた絵があるとします。もし、あなたが「その絵はヘタクソだ。つまらない」と酷評したらどうでしょう?それはその絵だけではなく、それを書いた画家を卑しめたことになります。もし、私が「私は何もできません。私には全く価値がありません」と言ったらどうでしょう?私を造られた創造主なる神を卑しめることになります。ウクライナに貧しい家庭で育ちましたが、ビジネスで成功し22歳で大富豪になった女性がいます。貧しい人たちを集めて、ビジネスに成功するためのNPOを立ち上げました。200人の人たちが学んでいますが、自分たちが金持ちになるだけではなく、政治や経済の指導者になることがゴールです。彼女は最高級のベンツに乗っています。車の後ろの窓に、最後の晩餐の絵と広告が書かれています。「私のように成功したかったら、ここに電話をして」と電話番号が書かれています。実はその電話は教会の電話番号だそうです。教会になじみのない人たちが、たくさんやって来て、キリストに出会うとともに、神の国の法則を知って豊かになっているそうです。私たちは世の光であり、地の塩です。この世に良い影響を与えるように生かされている存在です。自己卑下している暇はありません。私たちが信じているイエス様がどんなにすばらしいか生活とことばで証する必要があります。

3.戒律

コロサイ2:21,22「『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか」そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」このように宗教には戒律が伴います。また、それを守れない場合は破門になったり、さまざまな罰が与えられます。宗教改革によって、教会政治は民主的になりました。特にジョン・カルバンは長老性を取り入れました。しかし、彼は厳しい戒規も設けました。ジュネーブにおいては、政治と宗教が一体化していましたので、破った者に対しては実刑も課せられました。歴史を経て、だいぶ軽くはなりましたが、「戒規」ということを明言している教会がたくさんあります。ウェブで調べたところ「戒規とは誤った教理、罪の行い、に対して行使される、キリスト教会の教育、訓練の極端な形である。 教会戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の3段階がある」とありました。英語で戒規はdisciplineであり、「罰する」という意味よりも、「訓練する」とか「矯正する」という意味です。パウロはⅡコリント7章で「悔い改めて立ち直るのをたすけるため」と書いています。しかし、教会の中でなされることは、世の中の裁判とは全く違うとも言っています(参考:Ⅰコリント61-8)。一般に「戒規とは誤った教理、罪の行い、に対して行使される」と言われています。「誤った教理」で最も問題になるのは聖書の福音理解です。「キリストを信じるだけでは救われない。行いの実がない人たちは世の終わりにさばかれる」と主張する人は福音の根幹を揺るがすので絶対受け入れられません。また、「罪の行い」は世の中の犯罪のことを言うのではありません。教会という共同体を壊す罪が問題なのです。小さな罪と思われるゴシップ(噂話)は絶対良くありません。また、不品行や姦淫も共同体を壊す罪であります。

 しかし、戒規を執行するときに、私たちが忘れてはならないのは、その人自身の尊厳を傷つけてはならないということです。ダニー・シルクが書いた『尊敬の文化』という本からの引用です。ベテル教会の神学校の生徒が夏休み中に肉体関係を持ってしまいました。しかも、女子生徒が妊娠していることが分かりました。二人は処罰を受けるつもりで、二人の牧師のもとにやってきました。牧師が男性に質問しました。「あなたは何をしたんですか?」男子生徒は「ぼくの口から聞きたいんですか?」…その後、牧師は「ではそれに関して、できることは何かあるかな?」と聞きました。「何もありません!」。「わかりました。では何が問題なのですか?」「僕には質問の意図が分かりません」。ついに牧師が言いました。「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう?」「わかりません」。「悔い改めたのですか?」「ええ、もちろん悔い改めました」「では何を悔い改めたのかな?」しばらく沈黙が続いた後、彼は認めました「わかりません」。「そうだよね。問題はそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」…長い話を短くすると、男性は「怒っている人と一緒にいると相手の言いなりになりやすい」ということでした。一方、女性は「人間不信であり、他の人が自分をコントロールしていると思っていること」でした。その後、二人は自分たちを愛してくれた人たちのことを考えました。クラスメイトや両親家族のことです。二人は自分たちの過ちが周囲の人々を深く傷つけることに気づきました。二人はしくしく泣き続けました。処罰の恐れの中ではこのような体験はできなかったでしょう。それは外圧によってではなく、二人の内面から湧き出てきた麗しい体験でした。何かを二人に押し付けた者は誰もいませんでした。誰から悔い改めるように説得したわけでもありません。私たちが二人を信頼し、適切な質問をした結果、二人の内側に愛を尊敬が芽生え、それが悔い改めに結びついたのです。…人が罪を犯すと「恥」がべったりついたような気がします。そうすると尊厳がなくなり、卑屈になります。罪は罪として悔い改める必要があります。でも、その人の尊厳を回復してあげる必要があります。

私は、教会は決まりごとをできるだけ、少なくすべきだと思います。ある教会では、洗礼を受けて教会員になるために、「これこれのことを守ります」という誓約書にサインさせられるところがあるようです。十分の一献金とか、聖日礼拝なのでしょうか?私はそういうのが大嫌いです。パウロは「罪が戒めによって機会をとらえ、私のうちにあるむさぼりを引き起こしました」(ローマ78と言いました。つまり、戒律を多くすれば、人の中に潜んでいる罪が芽生えてくるということです。これは肉であり、天国に行くまで完全にはなくなりません。だから、私は教会の中ではできるだけ「きまり」を少なくして、あとは御霊によって導かれるように指導しているつもりです。ところがある教会の牧師は「教会では秩序が第一」と主張します。そのため、犯した罪に対してはきちんとした処罰を与えているようです。ある牧師は全会衆の前で、ある兄弟を除名した理由を伝えたそうです。私はそういう話を聞くととても悲しくなります。箴言144「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」教会に問題があるというのは、生きている証拠です。教会に新しい人がいっぱい来たら、必ず問題が起こります。静かで秩序立てられているのは生きていない証拠かもしれません。病院でも酸素マスクをつけた人たちが寝ている静かな病室もあります。一番、騒がしいのは産院です。新しい命が生まれているからです。教会は秩序を求めるよりも、リスクを犯してでもいのちを求めるべきだと思います。

4.難行苦行

 コロサイ2:23「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」ローマのサンクタ・スカラ教会には28段の大理石の階段があるそうです。伝説によれば、これらは、エルサレムから、すなわち、主イエスを十字架につけるために引き渡したピラトの家からローマに運ばれたものでした。その階段は、サンクタ・スカラ(聖なる階段)と呼ばれ、老いも若きも、富める者も貧しい者も、非常にゆっくりと昇ります。というのは、それが、非常に痛みを伴うことだからです。彼らは、功徳を得るためには、手と膝で昇らねばならないからです。一段昇るごとに、改悛者は祈りをささげます。彼らは、その様にしてすべての階段を昇ったなら、次第に罪が赦され、いつどこでか分からないが、赦罪を得るだろうと教えられていました。1511年、若い修道僧が、苦悩に満ちた良心に鞭打たれ、罪の重荷に押しつぶされそうになってローマに旅をしました。その熱心のうちに、彼は、重荷から自由にされ、神の愛顧を得ようと、その階段を昇るためにやってきたのです。彼は、大理石の石段に集まった人々に混ざって、忠実に、彼の祈りを繰り返しながら、手と膝で昇りはじめました。彼は、苦労して半ばまで昇った時、突然、魂の奥深くに「義人は信仰によって生きる」と宣言する声を聞きました。神の恵みのすばらしいメッセージが、その「聖なる階段」においてマルチン・ルターの心に届きました。そして、赦されていない罪の重荷が消え去りました。ルターは、キリストにあって、新しく造られた者となり、ローマ教会の迷信に基づく習慣のかせが解き放たれ、その後、彼は、罪の赦しと信仰のみによる義認のメッセージを喜んで語りました。アーメン。この世の人たちは救いを得るために、あるいは何らかの悟りを得るために難行苦行をしています。私たちクリスチャンはキリストがなされたみわざを、聖霊の啓示によって理解するとき、救いが与えられます。私たちは神の愛顧を得るために、何もしなくて良いということは何とすばらしいことでしょう。

 次に問題になるのは、救われた後の私たちです。私たちの中に罪の性質、肉が宿っているといことをかなり前のメッセージで語りました。パウロは「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と言いました。仏教では煩悩を断つために、難行苦行をします。でも、煩悩がなくなったかと言うとそうではありません。また、雑草のように芽生えてきます。イエス様は日々、十字架を負って従ってきなさいと言われました。だから、私たちはパウロのように自分の肉を十字架につけて、従っていくしかありません。そうすれば、十字架の死が肉に適用され、キリストにあって生きることができるのです。さあに、神さまは、その肉を取り除くために、聖霊が人や環境を通して、私たちを按配しているこということ学びました。私たちが出会ういやなこと、いやな人、いやなもの、すべては偶然ではなく、私たちをきよめるための道具なんだということです。信仰の境地というのはあるのでしょうか?あります。Ⅰテサロニケ516,18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。

 5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。ここにはっきりと「神があなたがたに望んでおられることです」と言われています。つまり、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝するようになったら、神さまが備えられたテストに合格したことになるのです。そうすると、いやなこと、いやな人、いやなものの一切が、すばらしいものに見えてきます。アーメン。

 これらはきよめられるためのものですが、父なる神さまは私たちを訓練するために、あえて苦しいところを通らされます。ヘブル1267「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」でも、これは訓練のための訓練ではありません。私たちは苦難を通して、忍耐強くなり、最後までやり通す強固な信仰が与えられます。ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」そうです。何にもゆるがない「平安な義」の実が与えられます。それは、私の神さまは、キリストにあって私を愛しておられるという揺るがない信頼感を持つことができるということです。神への信仰は、神への信頼と言い換えることができます。アーメン。

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2018年12月 2日 (日)

うしろのものを忘れ ピリピ3:12-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.2

 啓発セミナーでも「肯定的に、前向きに生きる」ということが言われます。もちろん、そうだと思いますが、私は聖書的な根拠、神さまの助けがあってのことだと思います。きょうは、聖書の人物やみことばを取り上げながら、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むことの重要性に関してメッセージしたいと思います。

1.うしろのものを忘れ

 私たちは忘れてはいけないものと、忘れた方が良いものとがあります。もちろん、私たちは神さまの恵みを忘れてはいけません。私たちは罪からの救いだけではなく、たくさんの恵みを受けてきました。これらを数えて、神さまに感謝をささげなければなりません。ところが、私たちは忘れなければならない過去の出来事を、何度も思い起こしては、憂鬱になることはないでしょうか?パウロは「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む」と言っています。でも、重要な真理は、うしろのものを忘れないと、前のものに向かって進むことはできないということです。たとえば、みなさんの家にクロゼット(洋服ダンス)はおありでしょうか。私のクロゼットはシャツや洋服がいっぱいで、家内から「着ないものは捨てなさい」と注意されます。「いつか着るだろう」と思っても、2,3年着ないものもあります。ズボンもそうですが、はいてみると、ウエストのところがパンパンで「無理!」というのも何本もあります。クロゼットもタンスもそうですが、古いものを捨てないと、新しいものを入れることができません。「人生の棚卸」があるとしたら、前に向かって進むためには、使用価値のない古いものは捨てなければなりません。

 かなり前に『アナと雪の女王』というディズニーのアニメ映画がありました。その映画の主題歌がLet it go.です。日本語の歌詞は「ありのままで」ですが、本当はそうでありません。この英語の本当の意味は「手放す」「あきらめる」です。ジョエル・オスティーンのある本に、Let it goのことが書かれていました。私たちは時々、過去の嫌なことを思い出すことがあります。私を捨てた人、裏切った人、ひどいことをした人を思い出すことはないでしょうか?私たちは機械でありませんので、完全に忘れ去ることができません。何の前ぶれもなく、嫌なシーンが脳裏をかすめることがあります。しかし、ある人たちは、映画のDVDでも見るように、カウチを持ってきて、そこに座ります。そして、ポップコーンを食べながら、「ああ、そうだったよなー」と辛い思い出に浸ります。すると、昔の嫌な感情が再現されて、憂鬱になります。しかし、それは良くありません。私たちにはリモコンがあります。そういうシーンが出てきたら、チャンネルを変えるべきです。英語でfillipと言いますが、そのシーンをはじき飛ばすのです。そこに留まってはいけません。私たちは自分の心を守る必要があるからです。特にトラウマの場合は、とてもやっかいです。いきなり、お化けのように出てきます。これは私たちの意志ではどうしようもありません。たった1つだけ解決策があります。インドネシアのエディ・レオ師が教えてくれました。トラウマとか誘惑が浮かんで来たら、「ハレルヤ!主を礼拝します」と礼拝の時にするのです。そうすれば、一日、何度も神さまを礼拝することができます。不思議なことに、「ハレルヤ!主を礼拝します」を言うと、トラウマや誘惑はさっと消えてなくなります。

 ある人たちは、「私たちは過去から学ばなければならない」と言います。反省とか内省を強調する人たちもいます。しかし、ほどほどにしないと、私たちは前に進むことができません。車を運転する人なら分かりますが、私たちはどこを見て運転するでしょう。全面には、大きなフロントガラスwindshieldがあります。そして小さなバックミラー rearview mirrorがあります。室内の小さいものと、両脇にもあります。ほとんどの場合はフロントガラスを通して、走る方向を見て運転します。でも、たまにチラチラとバックミラーも見ます。バイクが横をすり抜けようとする時があるからです。でも、後ろばかり見ていると、前方不注意になって事故を起こします。人生も同じように、過去のことは小さなバックミラーです。これから先のことは大きなフロントガラスです。この比率が重要です。過去が1であるなら、これから先のことは9くらいでしょうか?しかし、年を取ると「昔は良かったなー」となり、過去が7で、これから先のことが3ぐらいになります。それは良くありません。最も良いことは過去にありません。最も良いことはこの先にあるのです。神さまはもっと良いことを私たちに体験させたいのです。夢と希望を失ったら、年齢に関係なく、その人は老人です。30歳で老人の人がおり、80歳でも青年の人がいるかもしれません。日野原先生は104歳で天に召されましたが、ずーっと青年でした。なぜなら、やるべきことがいっぱいあったからです。

 使徒パウロにとってうしろのものであり、忘れるべきものは何だったのでしょう?ピリピ35-7「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」パウロはきっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人でした。あまりにも熱心だったので、教会を迫害したほどでした。「律法による義についてならば非難されるところのない者です」と自負しています。おそらくパウロほど真面目な人はいないでしょう。しかし、パウロにとって、そういうものは忘れるべきものでした。Let it go. 「手放す」「あきらめる」です。以前は、パウロにとってそういうものは自分が誇るべきものであり、良いものだったのでしょう。でも、「私はキリストのゆえに、損と思うようになりした」と言っています。8節では「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と言っています。なぜなんでしょう?もし、そういうものを自分のクロゼットにしまいこんでいると、キリストのすばらしさを自分のものにできないからです。パウロはキリストを知るために、身分も、プライドも良いものも捨て去ったのです。

 私たちが捨て去るべきもので、過去の良いものがあるかもしれません。テレビでサッカーのメッシの豪華な自宅が映されていました。家にはゴールデン・ボールなど、いろんな賞が飾られていました。でも、最近の試合を見ると全盛期が過ぎたような感じがしました。あれだけ賞をもらうと、ハングリーさが欠けるんじゃないでしょうか?だけど、「あれだけやったらいいかな?」という誰もが思うでしょう。私たちは神さまの恵み、神さまのみわざを忘れてはいけません。でも、過去の思い出に浸っていると、神さまに対する期待とかチャレンジ精神がなくなることも確かです。私は亀有に赴任して31年になりました。ここ数年前から、断捨離(だんしゃり)をしています。最初に捨てたのが、礼拝のビデオとカセットテープです。DVDCDに全部コピーしました。ディボーション・ノート、セミナーの資料、本も捨てました。去る6月の役員会で、「音楽準備室にいらない機械がたくさんあります。処分してください」と言われました。ビデオプレイヤー、DVDプレイヤー、カセットのコピー機、OHP、全部で15くらいありました。それらを分解して、細かく砕いて、もえないゴミの日に出しました。これまで、いろんなセミナーに出席して学びましたので、カセットテープや資料のファイルがたくさんありました。それらを捨て去るのには勇気と信仰が必要でした。

 私たちの人生を振り返りますと、うまくいかなかったことがあります。あのときはうまくいくと思っていたのに、今はもう役に立たないというものがあります。英語でwork outは「うまくいく」と言う意味ですが、dont work out.「うまくいかない」「結果が出ない」ということがあります。認めるのは本当に辛いのですが、捨てるしかありません。亀有に来て31年、色んなことを学んでやってみたけど「何が残ったのか」「どれがうまくいくのか」考えてみました。最後に残ったのは、説教preachでした。弟子訓練、セル、インナーヒーリングをやってきましたが、説教だけが残りました。「私は説教者preacherとして神さまから召されているんだ。それで良いや」と思いました。みなさんもどうでしょうか?人生の棚卸をしてみましょう。いらないものは捨てましょう。過去の傷、トラウマ、失敗、嫌な思い出を捨てましょう。そうすると、「これだけは捨てられない。これこそが一番大切なものだ」というものが残るのではないでしょうか?金の採掘場をテレビで見たことがありますが、1トンくらいの岩から何グラムしか取れません。佐渡の砂金なども川の砂利をさらって、あるかないかです。私たちの人生も結構、いらないものがあるかもせれません。悪いものだけではなく、一見、良いものもあります。プライドとかトロフィーとか、賞状、資格、学位などです。パウロは何と言ったでしょう?ピリピ38「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」イエス・キリストを知っていることのすばらしさが、人生のどれほどのウェートを占めているでしょうか?イエス・キリストが人生のすべてであるなら、いらないもの、どうでも良いものがたくさんあるのではないでしょうか?どうでも良いものを捨てるなら、これから先、もっとすばらしいものを入れることができます。最も良いものは過去にではなく、これから先にあるからです。

2.前のものに向かって進む

 第二のポイントの題名を「目標を目指して」にすべきかと思いました。しかし、学校の時から目標を掲げても、実現したことがあまりないので、プレッシャーをかけないようにしました。本当の目標は自分でひねり出したり、だれかから押し付けられたりするものではありません。神さまがその気にさせてくれなければ何もできないからです。イエス様はヨハネ5章でこのように言われました。ヨハネ519,20「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」イエス様は贖い主でありますが、私たちの模範でもあります。イエス様は自分からではなく、いつも父なる神さまがしておられることを見て行いました。ご自分も神さまですから、やろうと思えばできたはずです。でも、あえてご自分を制限なさっておられました。それは私たちの模範となるためです。私たちも神さまと親しい交わりを持つなら、神さまがなすべき目標を与えて下さると信じます。

 後半は「前のものに向かって進む」と題してお話しします。イスラエルの民は40年間も荒野をさまよっていました。なぜなら、カデシュ・バルネアで攻め上らなかったからです。彼らは不信仰のゆえに、約束の地に入ることができませんでした。それから40年たち、新しい世代になりました。主はこのように言われました。申命記16,7「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。」ものすごい意味ありげな表現だと思います。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。」彼らがその山に長くとどまっていたのは、不信仰に対する神さまの呪いでした。でも、神さまは「向きを変えて、出発せよ」と言われました。人生にはいくつかの段階があります。「次のステップ」「次のステージ」「新しいシーズン」、みなそういうことを表現することばです。私も65歳なので、「次のステップ」に進むべきだと思っています。前半では「私は説教者preacherだ」と言いました。でも、欲を言うなら、日本のリバイバルのために用いられたいと思います。私はしるしと奇跡の伴うリバイバルこそが聖書的であると信じます。カルフォルニアのベテル教会にsupernatural school超自然の学校があります。アメリカだけではなく、世界中から2000人の人たちが集まって学んでいます。私はそこに行けないので、ビル・ジョンソンを始め、何人かの本を原書で読んで学んでいます。「もうこれしかない」と最後の人生をかけています。私の人生は競馬で言うなら、第四コーナを回ったところです。あとは直線ですから、ただまっすぐ走るだけです。私はしるしと奇跡の伴うリバイバルのために神さまから用いられたいです。

 私たちは前のものに向かって進むためには、犠牲を払う覚悟が必要です。周りの人たちの意見を聞いて、「これで良いや」と妥協してはいけません。創世記12章にはアブラハムの召命の記事があります。まだ、そのときは「アブラム」でしたが。主はアブラムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われました。どこという場所は示されず、ただ、「出発しなさい」と言われました。それで、アブラムは主がお告げになったとおりに出かけました。でも、創世記11章終わりには、アブラムのお父さんのことが書かれています。アブラムのお父さんはテラです。創世記1131,32「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。」たった2節から全部のことを掌握するのは無理です。でも、テラはカナンの地に行くためにカルデヤ人のウルから一緒にでかけました。何があったから分かりませんが、ハランまで来て、そこに住みついてしまいました。テラはそこで死にました。その後、息子であるアブラムにお声がかかったのです。彼はいくつだったでしょう?「アブラムがハランを出たときは、75歳であった」(創世記124と書かれています。その頃は、現代よりも少し長生きしたかもしれませんが、それでも75歳ですから良い年です。アブラハムの良いところは、どこに行くのかを知らないで、出て行ったことです(ヘブル118)。新約聖書ではアブラハムの信仰が賞賛されています。

 私自身が感じているのですが、年を取ってくると情熱が失われるのではないかと思います。若い人は「何かをしたい」と夢を抱きますが、すばらしいことだと思います。前のものに向かって進むためには、夢や幻、そして情熱が必要です。年を取ってくると「現実は難しい」と思うようになります。なぜなら、これまでさんざん失敗して、苦い思いをしてきたからです。そのため「新しいことをしよう」という意欲がわきません。教会でも「こうしたい」「ああしたい」とアイディアを出す人がいますが、「うらやましいなー」と思います。私は「チャレンジ精神がなくなってしまったなー」と情熱のなさにがっかりします。これで終わってしまうと、年寄りの憂さ晴らしで終わってしまいます。ところで、情熱という英語は、enthusiasmですが、もともとは、2つのギリシャ語からなっています。エンとセオスです。エンは「〇〇の中に」です。セオスは「神」です。2つを合わせると、「神の中に」「神がかった」という意味になります。つまり、神さまがその人に情熱を与えるときは、年齢は関係ないということです。使徒2章に「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてあります。つまり、聖霊が注がれると預言したり、幻や夢を見るということです。テモテはパウロの弟子ですが、激務のため、肉体的にも精神的に弱るときがあったようです。パウロは何と言ったでしょうか?Ⅱテモテ16「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」昔、七輪でお魚を焼いたことがあります。火が弱くなると、炭火をかき混ぜると酸素が入って、また火が強くなります。私たちは聖霊の油注ぎが必要です。イギリスのチャールズ・スポルジョンがこう言いました。「私たちは絶えず聖霊の油注ぎを受ける必要があります。なぜなら、漏れるからです」と。そうです。この世で生きていると、油注ぎがなくなり、情熱も失せてきます。だから、新たに聖霊の油注ぎを受ける必要があるのです。そうしたら、情熱も一緒に湧いてきます。

最後にハーランド・サンダースという人のお話しをさせていただきます。父親が5歳の時に亡くなり、彼は小学校の途中で行かなくなりました。何年もの間、職をとっかえ、ひっかえ、住まいを転々しました。そして、ガソリンスタンドのそばで、レストランを始めました。このレストランがほどなくしてはやりだし、通りの向こうにあった大き目の建物へと店舗を移しました。しかし数年後、火災によって店は全焼してしまいました。しかし、彼は焼け跡で、またゼロから再び店を始めました。彼の作るフライドチキンには11種類の秘伝のハーブとスパイスが使われており、その他にはない味が、多くの人々の心をつかみました。やがてその功績が認められ、ケンタッキー州知事はこのハーランドに「カーネル(大佐)」を名乗ることをゆるしました。カーネルが、もう仕事としては引退してもおかしくない60代にさしかかった頃のことです。ケンタッキーの彼の小さな町を高速道路が横切るようになり、交通の流れがそちらに取られて人通りが少なくなりました。そこが過疎地になり、カーネルのレストランは経営不振に陥り、結局は閉店へと追い込まれました。60代ともなれば、もう第一線を退いてもおかしくありません。やめてしまえば済むことなのです。でも、彼はその道を選びませんでした。カーネルは、「神様というお方はこの状況に対しても解決の道をお持ちのはずだ」と希望を捨てませんでした。

カーネルがレストランをたたみ、借金を全額返済し終わった時、彼の手元には105ドル(日本円にして3万円程度)しか残りませんでした。それが、その時の全財産でした。カーネルは今までの住み慣れた場所に見切りをつけ旅立ちました。決まった住所などありません。彼は唯一の持ち物であるトラックにフライドチキンを揚げるためのフライヤーを載せて、町から町へ売る旅に出たのです。そんな旅を続け、カーネルが70代にさしかかった頃です。「あの車で売りにくるカーネルとやらの揚げるチキンは、うまいらしいぞ!」といううわさがアメリカ中に広まりました。ついにカーネル・サンダースは自身の特別なチキンを『ケンタッキー・フライドチキン』と名付け、アメリカとカナダ全土にたくさんの店舗が建てられる運びとなったのです。今日では、KFCという略称で親しまれ、世界中に11万以上の店舗があると言われています。神様は、最終的には見事に彼の損失を回復してくださいました。カーネルの人生は、その全貌が見えるまでの通過点において、何とひどい人生だと見えたかもしれません。もう終わりだ。もう進めない。カーネルのような体験をすれば、そんなあきらめや絶望の思いに囚われるのは、いともたやすいことだったでしょう。でも、神様は、彼の失った機会や時間を取り戻させることのできるお方なのです。カーネルは、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む人物の模範です。私たちも神さまから目標と情熱をいただいて、前のものに向かって進みたいと思います。

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