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2018年12月 7日 (金)

宗教的にならない コロサイ2:16-23 亀有教会牧師 2018.12.9

 この世の人たちは、キリスト教を宗教だと思っているかもしれません。宗教をどう捉えるかによって、異なりますが、私たちは宗教的にならないように心掛ける必要があります。イエス様と当時の宗教家たちとの間で反目があり、結局は彼らによって十字架につけられました。「私たちはキリスト教ではない」と主張したとしても、宗教になってしまう可能性はどうしてもあります。なぜなら、宗教は肉であり、生まれつきの人が好むものだからです。きょうは、どのようなことを注意したなら、宗教的にならないのか4つのポイントを上げたいと思います。

1.儀式

 どの宗教にも儀式があります。「どうしてそんなことをするの?」と、野暮な質問をしてはいけません。やっている当人も分からないからです。宗教には「タブー」と言われるものが必ずあります。あえて、それが何なのか問うてはならないのです。それでは「聖書には儀式がないのか?」というとあります。出エジプト記24章から40章までが儀式的な律法について書かれています。また、レビ記にいたっては、そのほとんどが儀式的なことです。民数記は、神に仕える人たちが勝手なことをしたために神さまに打たれた記事がいくつもあります。サウル王は祭司しかやっていけない犠牲をささげて、神さまから捨てられました。ウジヤ王は神殿に入って香を焚いたために、らい病になりました。儀式というのは端的に言うと、「聖なる神さまに私たちがどのように近づくのか」というきまりみたいなものです。前提として、私たちは罪と汚れに満ちているので、聖なる神さまのところには簡単に近づくことができないということです。そのため、第一は罪や汚れをきよめる犠牲が必要です。第二は、神さまと人々の間に立つ、祭司や大祭司が必要となります。第三は、儀式を行うための場所や、用具が必要となります。何も考えないで「儀式なんか不要だ、ナンセンスだ」と言って排除してはいけません。

でも、このところに儀式が不要である根拠が記されています。コロサイ2:16,17「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」祭りや儀式は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。それらはキリストの予表、型であり、本体が来たなら、不要になるということです。ヘブル人への手紙はユダヤ教からクリスチャンになった人たちのために書かれました。そこにはユダヤ人たちが大事にしていた、安息日、礼拝の規定、食べ物や飲み物、大祭司、犠牲などについて記されています。それら、すべてのものはキリストによって成就されました。キリストは罪のために一つの永遠のいけにえをささげて下さったので、私たちは聖なるものとされました。また、キリストはまことの大祭司であり、新しい契約の仲介者になられました。私たちはこのお方を通して、大胆に恵みの御座に近づくことが可能になったのです。残念ながら、ローマ・カトリックはこのことが分かっていません。犠牲の意味がこめられたミサをあげ、司祭がキリストの代わりをしています。一般の信者は直接、神さまのところには近づくことができません。

 それでは「私たち教会はどうなのか?」ということです。「礼拝学」と言う神学があります。良く言われるのが「恵みの手段」means of graceです。神さまに近づいて礼拝するための手段です。私たちはできるだけ礼拝をシンプルにしていますが、ある教会のプログラムを見たら20項目もありました。司会者が前に立ち、人々が立ったり座ったりします。彼らは「儀式ではありません。恵みの手段です」と言うかもしれません。でも、あまりにも項目が多すぎて、中心がぼやけてきます。イエス様は礼拝についてどのように答えておられるでしょうか?ヨハネ423,24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」大事なのは、どのように礼拝するかではありません。神さまが求めておられるのは礼拝者です。私たち自身です。キリストに贖われた私たち自身をささげることが真の礼拝なのです。恵みの手段の決定的なものは、霊とまことによって礼拝することです。Ⅰ歴代誌289「全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである」とあります。神さまの前で表面を飾る必要はありません。なぜなら、すべてがお見通しだからです。幸いなことに、私たちはイエス様によってすべての罪が贖われ、聖霊によって生まれ変わった存在です。新約の私たちは、霊とまことによって礼拝することが可能になりました。ハレルヤ!

2.自己否定

 キリスト教会で良く言われるのが自己否定と謙遜です。確かに聖書には「十字架を負って従いなさい」「古い自分に死になさい」と命じられています。でも、聖書の教えは自己否定で終わりません。イエス様は十字架で死なれましたが、三日目によみがえりました。同じように私たちも十字架で死んだ後には、必ず復活が来るのです。自己否定で一番有名な聖句はガラテヤ2章にあります。ガラテヤ219,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」アーメン。私たちは十字架につけられて一度死んだ存在です。でも、その続きがあります。ガラテヤ220後半「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。復活して、キリスト中心に生きている新しい自分がいます。十字架の死と復活はワンセットです。十字架の死だけを強調すると、苦しくなり、お葬式になります。なぜなら、十字架は自分を殺し、葬らせてくれる道具だからです。でも、死んだままでは神さまのために生きることができません。でも、神さまはイエス様を死からよみがえらせました。同じように私たちに十字架を適用すると、神さまが復活を与えてくださいます。パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ122と言いました。

 もう1つ言われるのが「謙遜」です。コロサイ218「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり…」コロサイ223「人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか」と書いてあります。当時の人たちも、自己卑下とか謙遜を大事にしていたようです。でも、本当の謙遜とは自己を卑下することではありません。キリスト教会で良く聞くことばがあります。「私は何もできません」「私には全く価値がありません」「私は弱い者です」「私は罪が赦されただけの者です」「私はそれを受けるだけの資格がありません」「私はまだまだ、きよめられていません」「私は取るに足らない者です」…と言う方がいらっしゃいます。それが本当の謙遜であるかどうかテストする方法があります。「私は何もできません」という人には、「そうですね。あなたは何もできませんね」と言ってみましょう。「私は弱い者です」と言う人には、「そうですね。あなたは本当に弱いですね」と言ってみましょう。おそらく、真っ赤になって怒るでしょう。それを「わざとらしい謙遜」と言います。謙遜というのは本来そのような意味ではありません。

本当の謙遜は自分を卑下するのではなく、このようにしてくださった神さまを誇ることです。 たとえば、ここにある画家が描いた絵があるとします。もし、あなたが「その絵はヘタクソだ。つまらない」と酷評したらどうでしょう?それはその絵だけではなく、それを書いた画家を卑しめたことになります。もし、私が「私は何もできません。私には全く価値がありません」と言ったらどうでしょう?私を造られた創造主なる神を卑しめることになります。ウクライナに貧しい家庭で育ちましたが、ビジネスで成功し22歳で大富豪になった女性がいます。貧しい人たちを集めて、ビジネスに成功するためのNPOを立ち上げました。200人の人たちが学んでいますが、自分たちが金持ちになるだけではなく、政治や経済の指導者になることがゴールです。彼女は最高級のベンツに乗っています。車の後ろの窓に、最後の晩餐の絵と広告が書かれています。「私のように成功したかったら、ここに電話をして」と電話番号が書かれています。実はその電話は教会の電話番号だそうです。教会になじみのない人たちが、たくさんやって来て、キリストに出会うとともに、神の国の法則を知って豊かになっているそうです。私たちは世の光であり、地の塩です。この世に良い影響を与えるように生かされている存在です。自己卑下している暇はありません。私たちが信じているイエス様がどんなにすばらしいか生活とことばで証する必要があります。

3.戒律

コロサイ2:21,22「『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか」そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」このように宗教には戒律が伴います。また、それを守れない場合は破門になったり、さまざまな罰が与えられます。宗教改革によって、教会政治は民主的になりました。特にジョン・カルバンは長老性を取り入れました。しかし、彼は厳しい戒規も設けました。ジュネーブにおいては、政治と宗教が一体化していましたので、破った者に対しては実刑も課せられました。歴史を経て、だいぶ軽くはなりましたが、「戒規」ということを明言している教会がたくさんあります。ウェブで調べたところ「戒規とは誤った教理、罪の行い、に対して行使される、キリスト教会の教育、訓練の極端な形である。 教会戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の3段階がある」とありました。英語で戒規はdisciplineであり、「罰する」という意味よりも、「訓練する」とか「矯正する」という意味です。パウロはⅡコリント7章で「悔い改めて立ち直るのをたすけるため」と書いています。しかし、教会の中でなされることは、世の中の裁判とは全く違うとも言っています(参考:Ⅰコリント61-8)。一般に「戒規とは誤った教理、罪の行い、に対して行使される」と言われています。「誤った教理」で最も問題になるのは聖書の福音理解です。「キリストを信じるだけでは救われない。行いの実がない人たちは世の終わりにさばかれる」と主張する人は福音の根幹を揺るがすので絶対受け入れられません。また、「罪の行い」は世の中の犯罪のことを言うのではありません。教会という共同体を壊す罪が問題なのです。小さな罪と思われるゴシップ(噂話)は絶対良くありません。また、不品行や姦淫も共同体を壊す罪であります。

 しかし、戒規を執行するときに、私たちが忘れてはならないのは、その人自身の尊厳を傷つけてはならないということです。ダニー・シルクが書いた『尊敬の文化』という本からの引用です。ベテル教会の神学校の生徒が夏休み中に肉体関係を持ってしまいました。しかも、女子生徒が妊娠していることが分かりました。二人は処罰を受けるつもりで、二人の牧師のもとにやってきました。牧師が男性に質問しました。「あなたは何をしたんですか?」男子生徒は「ぼくの口から聞きたいんですか?」…その後、牧師は「ではそれに関して、できることは何かあるかな?」と聞きました。「何もありません!」。「わかりました。では何が問題なのですか?」「僕には質問の意図が分かりません」。ついに牧師が言いました。「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう?」「わかりません」。「悔い改めたのですか?」「ええ、もちろん悔い改めました」「では何を悔い改めたのかな?」しばらく沈黙が続いた後、彼は認めました「わかりません」。「そうだよね。問題はそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」…長い話を短くすると、男性は「怒っている人と一緒にいると相手の言いなりになりやすい」ということでした。一方、女性は「人間不信であり、他の人が自分をコントロールしていると思っていること」でした。その後、二人は自分たちを愛してくれた人たちのことを考えました。クラスメイトや両親家族のことです。二人は自分たちの過ちが周囲の人々を深く傷つけることに気づきました。二人はしくしく泣き続けました。処罰の恐れの中ではこのような体験はできなかったでしょう。それは外圧によってではなく、二人の内面から湧き出てきた麗しい体験でした。何かを二人に押し付けた者は誰もいませんでした。誰から悔い改めるように説得したわけでもありません。私たちが二人を信頼し、適切な質問をした結果、二人の内側に愛を尊敬が芽生え、それが悔い改めに結びついたのです。…人が罪を犯すと「恥」がべったりついたような気がします。そうすると尊厳がなくなり、卑屈になります。罪は罪として悔い改める必要があります。でも、その人の尊厳を回復してあげる必要があります。

私は、教会は決まりごとをできるだけ、少なくすべきだと思います。ある教会では、洗礼を受けて教会員になるために、「これこれのことを守ります」という誓約書にサインさせられるところがあるようです。十分の一献金とか、聖日礼拝なのでしょうか?私はそういうのが大嫌いです。パウロは「罪が戒めによって機会をとらえ、私のうちにあるむさぼりを引き起こしました」(ローマ78と言いました。つまり、戒律を多くすれば、人の中に潜んでいる罪が芽生えてくるということです。これは肉であり、天国に行くまで完全にはなくなりません。だから、私は教会の中ではできるだけ「きまり」を少なくして、あとは御霊によって導かれるように指導しているつもりです。ところがある教会の牧師は「教会では秩序が第一」と主張します。そのため、犯した罪に対してはきちんとした処罰を与えているようです。ある牧師は全会衆の前で、ある兄弟を除名した理由を伝えたそうです。私はそういう話を聞くととても悲しくなります。箴言144「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」教会に問題があるというのは、生きている証拠です。教会に新しい人がいっぱい来たら、必ず問題が起こります。静かで秩序立てられているのは生きていない証拠かもしれません。病院でも酸素マスクをつけた人たちが寝ている静かな病室もあります。一番、騒がしいのは産院です。新しい命が生まれているからです。教会は秩序を求めるよりも、リスクを犯してでもいのちを求めるべきだと思います。

4.難行苦行

 コロサイ2:23「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」ローマのサンクタ・スカラ教会には28段の大理石の階段があるそうです。伝説によれば、これらは、エルサレムから、すなわち、主イエスを十字架につけるために引き渡したピラトの家からローマに運ばれたものでした。その階段は、サンクタ・スカラ(聖なる階段)と呼ばれ、老いも若きも、富める者も貧しい者も、非常にゆっくりと昇ります。というのは、それが、非常に痛みを伴うことだからです。彼らは、功徳を得るためには、手と膝で昇らねばならないからです。一段昇るごとに、改悛者は祈りをささげます。彼らは、その様にしてすべての階段を昇ったなら、次第に罪が赦され、いつどこでか分からないが、赦罪を得るだろうと教えられていました。1511年、若い修道僧が、苦悩に満ちた良心に鞭打たれ、罪の重荷に押しつぶされそうになってローマに旅をしました。その熱心のうちに、彼は、重荷から自由にされ、神の愛顧を得ようと、その階段を昇るためにやってきたのです。彼は、大理石の石段に集まった人々に混ざって、忠実に、彼の祈りを繰り返しながら、手と膝で昇りはじめました。彼は、苦労して半ばまで昇った時、突然、魂の奥深くに「義人は信仰によって生きる」と宣言する声を聞きました。神の恵みのすばらしいメッセージが、その「聖なる階段」においてマルチン・ルターの心に届きました。そして、赦されていない罪の重荷が消え去りました。ルターは、キリストにあって、新しく造られた者となり、ローマ教会の迷信に基づく習慣のかせが解き放たれ、その後、彼は、罪の赦しと信仰のみによる義認のメッセージを喜んで語りました。アーメン。この世の人たちは救いを得るために、あるいは何らかの悟りを得るために難行苦行をしています。私たちクリスチャンはキリストがなされたみわざを、聖霊の啓示によって理解するとき、救いが与えられます。私たちは神の愛顧を得るために、何もしなくて良いということは何とすばらしいことでしょう。

 次に問題になるのは、救われた後の私たちです。私たちの中に罪の性質、肉が宿っているといことをかなり前のメッセージで語りました。パウロは「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と言いました。仏教では煩悩を断つために、難行苦行をします。でも、煩悩がなくなったかと言うとそうではありません。また、雑草のように芽生えてきます。イエス様は日々、十字架を負って従ってきなさいと言われました。だから、私たちはパウロのように自分の肉を十字架につけて、従っていくしかありません。そうすれば、十字架の死が肉に適用され、キリストにあって生きることができるのです。さあに、神さまは、その肉を取り除くために、聖霊が人や環境を通して、私たちを按配しているこということ学びました。私たちが出会ういやなこと、いやな人、いやなもの、すべては偶然ではなく、私たちをきよめるための道具なんだということです。信仰の境地というのはあるのでしょうか?あります。Ⅰテサロニケ516,18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。

 5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。ここにはっきりと「神があなたがたに望んでおられることです」と言われています。つまり、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝するようになったら、神さまが備えられたテストに合格したことになるのです。そうすると、いやなこと、いやな人、いやなものの一切が、すばらしいものに見えてきます。アーメン。

 これらはきよめられるためのものですが、父なる神さまは私たちを訓練するために、あえて苦しいところを通らされます。ヘブル1267「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」でも、これは訓練のための訓練ではありません。私たちは苦難を通して、忍耐強くなり、最後までやり通す強固な信仰が与えられます。ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」そうです。何にもゆるがない「平安な義」の実が与えられます。それは、私の神さまは、キリストにあって私を愛しておられるという揺るがない信頼感を持つことができるということです。神への信仰は、神への信頼と言い換えることができます。アーメン。

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