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2018年11月24日 (土)

安息日を守る 出エジプト10:8-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.11.25

 

 前回はモーセの十戒を新約の私たちはどのように守ったら良いのかお話ししました。きょうは十戒の4番目を取り上げ、その意味を調べつつ、私たちのものにしたいと思います。律法は永遠であるとイエス様がおっしゃったので、異邦人である私たちは完全に無視をすることはできません。キリストの贖いを通して、律法を学ぶなら、そこに神さまのすばらしい約束を得ることができると信じます。

 

1.休みを取る

 

 安息日を守るとは、rest休みを取るということです。出エジプト記20章には、「六日間、働いても良いが、七日目は休め」と命じられています。その理由は、神さまの創造に由来しています。出エジ2011「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」とあります。人が造られたのは、6日目です。ですから、人が最初にしたことは、7日目の休むということでした。休みからスタートしたというのは、とても興味深いことです。ところで、安息日のヘブライ語の意味は「シャッバース」です。このことばは「やめる」あるいは「休む」に由来しています。安息日は神さまとイスラエルが結んだ契約に基づいています。彼らにとって安息日は土曜日です。ここで、重要なことは、6日働いても良いけれど、1日は休みの日にするということです。しかし、「聖なる日とせよ」と言われているので、「創造主なる神さまを覚えるために、この日を聖別せよ」という意味がこめられています。ですから、イエス様が地上におられた頃は、ユダヤ人が安息日を会堂で守っていました。そこでは律法が朗読され、人々が神さまを礼拝しました。残念ながら、安息日を守ることが絶対化され、人の生活を束縛していました。イエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」(マルコ227)と意味を正されました。つまり、何が何でも守らなければという律法主義を排して、人が生きるために重要であることを教えられたのです。ということは、私たち異邦人も、6日働いて、1日休むということが必要であるということです。

 

 ところが、日本人は休むということの必要性をあまり理解していません。昔、奉公人は年に2日しか休みがなかったそうです。「藪入り」と言って、正月とお盆だけでした。第二次世界大戦後、労働基準法の強化により、日曜日を休日とするようになりました。しかし、これがキリスト教からきたということをほとんどの人は知りません。日本は西洋の文化の良いところだけを取り入れて、その根底に流れている精神(価値観)を排除してきたようです。そのため、休みを取るということの意味が分かりません。そして、勤勉こそが善であり、休むことが悪であるみたいに思われています。そのため、働き中毒になる人が大勢います。また、長時間労働を強いられて、自殺者まで出ている状況です。「働き方改革」と言われていますが、それは残業を減らすという意味ではないそうです。労使の合意があれば、どれだけ残業をしても良いという仕組みになっているとインターネットに書いてありました。日本人はどこの国よりも、勤勉な民族です。でも、日本人の多くは天と地と私たちを創造された神さまを知りません。そのために、「自分たちが一生懸命働かなければ食っていけない」という考えがあります。夢を追い求める子どもに対して、親は「それで食っていけると思っているのか」と言うのではないでしょうか?日本人には「食べて行けるか」という強迫観念に駆られて、休む間もなく働くところがあります。また、男性の単身赴任が当たり前で、妻や子どもたちが犠牲になっています。詩篇127篇は勤勉な日本人に対してとても重要なみことばだと思います。詩篇1271-3「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」天地を創られた主がおられるので、休んでも大丈夫だということです。主は私たちが眠っている間も、必要なものを備えてくださいます。

 

 1週間に1日休むということは、私たちの心と体のために必要であるということです。なぜなら、神さまがそのように私たちを造られたからです。かつてアメリカ大陸に移住した人たちのほとんどは、大西洋側に住んでいました。当時のアメリカ政府は「カルフォルニアに金が良く出る土地があるから希望者は移住するように。だれでもそこに移住して自分の望むだけの土地に杭を打ち込めば、その打ち込んだところはその人の土地になる」と知らせました。すると多くの人々がこの良いニュースを聞いて、全財産と家族をほろ馬車に積んで移住することになりました。カルフォルニアまでは何か月もかかる大旅行でしたが、だれもが一足先に到着して、最も良い土地を自分の欲しいだけ得るために、目の色を変えて目的地に馬車を走らせました。ほとんどの人があまり休むこともなく日夜旅行しましたが、その中のキリスト教の牧師だけは違っていました。土曜日の夕方には馬を車から解放し、馬車の手入れをし、次の日曜日は休んで神さまを礼拝しました。そして、月曜日から土曜日まで旅行をしました。他の人々は日曜日も休まず目の前に置かれている良い地を得るために前進しました。こうして幾月かの後、カルフォルニア州の目的地に一番先に到着して、最も良い地を手に入れたのは、日曜ごとに礼拝して進んだ牧師の家族でした。牧師の家族はみんな健康であり、馬も丈夫で、馬車の破損もありませんでした。他の人々はどうだったでしょう?着いた人々は疲れ果て、ある人は病み、ある馬車は途中で壊れ、ある馬は過労のために倒れて、実に悲惨な状態であったそうです。

 

 私たちの人生も同じことです。聖書には「6日間働き、7日目にはすべてのわざを休んで神さまを礼拝しなさい」と書かれています。人間は「休め」と命令されなければ、休めない愚かな存在かもしれません。でも、神さまは私たちをそのように造られたのです。天の父は、天と地とその中のすべてのものを創造した後、私たちにそれらを与えてくださいました。もし、天の父がいないとするなら、その人はみなしごであり、自分しか頼れないので、休まずに働くしかありません。でも、イエス様は「あなたがたの天の父が養ってくださる」と言われました。

 

2.神を礼拝する

 

 安息日を守るとは、service神を礼拝するということです。モーセの十戒では安息日が土曜日であり、仕事をしてはいけない日でした。イエス様の時代はどのくらいの距離まで歩いて良いか、どういうことが労働になるか細かく定められていました。驚くべきことに、イエス様はあえて安息日に人々を癒されました。会堂に来ている人の中に、片手のなえた人、腰の曲がった人、悪霊につかれた人が混じっていました。イエス様は安息日に会堂で教えていましたが、その後、癒しと解放を行われました。会堂管理者は憤って、「働いて良いのは六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日にはいけないのです」と言いました。イエス様は「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やロバを小屋からほどき、水を飲ませに行くではありませんか」(ルカ1314,15)と言われました。他の場所では、「羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか?…安息日に良いことをすることは、正しいのです」(マタイ1211-12)と言われました。イエス様は人々に本当の安息を与えようと、あえて安息日に人々を癒されたと言っても過言ではありません。イエス様は人々にこう言われました。マタイ1128「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この「休ませてあげる」は、「休息を与える」「元気づける」という意味です。私たちはこのように礼拝に集まっていますが、イエス様が私たちの間を歩き回り、病の人を癒し、悪霊に縛られている者を解放するために、働いておられます。

 

 朝早く、婦人たちが墓に行くと、死んだはずのイエス様のおからだがありませんでした。イエス様は三日目によみがえられたのです。それ以来、教会は日曜日を安息日礼拝に取り換えました。聖書では命じられていませんが、弟子たちと初代教会は「週の初め」すなわち日曜日を、復活の主をお祝いするために集まるようになりました。それが、2000年以上も続いているのです。中には「土曜日こそが安息日礼拝の日である」と礼拝を守っているグループもいます。彼らは、旧約聖書の他の戒めも守っており、「どうなんだろう?」と思います。旧約聖書の律法はイスラエルに対して与えられたのであり、新約の教会のために、文脈化する必要があるのではないかと思います。私はユダヤ教のシナゴーグ(会堂)には行ったことはありませんが、私たちとどのような違いがあるのでしょう?ヤコブは「倒れたダビデの幕屋を立て直す…異邦人がみな主を求めるようになる」(使徒1516-17)と言いました。ダビデが行った礼拝はとても賑やかでした。数多くの楽器を用いて、手を叩き、歌い、踊ったりもしました。現代の教会はそのことを再発見して、礼典的な礼拝ではなく、祭典的な礼拝をするようになりました。「イエス様の復活を喜び、お祝いする」ことが中心になりました。式文や朗読文をやめて、神さまがなされたことを宣言するようなメッセージになりました。イエス様がルカ4章で「主の恵みの年を告げ知らせるために」と言われました。これは「ヨベルの年のラッパを吹く」という意味です。私たちは礼拝で、キリストにある救いと癒しと解放を告げ知らせるのです。

 

 礼拝を英語でserviceとも言います。もちろん、神さまに仕えることなのですが、なぜ礼拝をserviceと言うのでしょうか?おそらく、このことばはローマ121から来ているのではないかと思います。ローマ121「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ここで言われている「礼拝」は、「膝をかがめる」「ひれ伏す」という意味のギリシャ語ではありません。ラトリューオウで、「仕える」「奉仕する」「献身する」という意味があります。英語の聖書ではserviceと訳されています。ですから、礼拝の中で行う、賛美、奏楽、祈り、献金、受付、送迎…みんなserviceなんであります。私の説教もserviceの中の1つです。でも、聞く人はどうなんでしょうか?30分、じっと耳を傾けるというのも大変な労働であり、serviceです。でも、ラトリューオウはこういう集まりだけではなく、日常生活の中で、神さまを礼拝しながら生きるという意味が強いことばです。私たちが家庭や職場、地域社会で神と人々に仕えながら礼拝しているのです。でも、プロテスタント教会で忘れてしまいがちなのが、日曜日が主日と強調するあまり、休息しないということです。特に、日本の福音派の教会は朝早く教会に来て、日曜学校、礼拝、奉仕、小グループ、夕拝(夜の伝道集会)を守り、夜遅く帰るというのがザラでした。日曜日、全く休んでいないとしたらどうなんでしょう?それでは、安息日になっていません。

 

 私は30歳の頃、日本人6人が招かれ2か月間アメリカに行ったときがあります。旅行の終わり頃、パサディナの教会の礼拝に出席しました。お昼帰ってきました。家の主人は簡易ベッドで寝ていました。男たちは、何をしたでしょう。なんと庭にプールがありました。飛び込み台もあり、お昼から夕方までプールにジャンプしながら泳いでいました。そして、口々に言いました。「日曜日の午後、こんなにゆっくりして良いのだろうか」と。その頃、私は座間キリスト教会で教会主事として働いていました。朝7時、9時、11時と礼拝があり、日曜学校も各地にありました。午後は青年会、聖歌隊などの集まり、夜はスタッフが説教しました。その後、反省会を持ち、帰るのが10時半頃になりました。午前中の大川牧師の説教はみんながほめます。ところが、夜のスタッフの説教は自分が当番のときは針のむしろです。大川牧師の奥さんから先生に「早く帰ってきなさい」と電話があります。大川牧師は「何言っているんだ。今が一番楽しい時なんだ」と言っていました。スタッフとして働いていたころよりも、一教会の牧師の方がずっと楽です。日曜日、私の場合は特別ですが、家庭をお持ちの方は、日曜日はさっさとお家に帰るのが良いと思います。未信者のご主人や子どもたちが、「お昼、何も食べるものがない」と泣いているかもしれません。日曜日の奉仕も重要ですが、休むということもちゃんと考えなければなりません。昔の教会では子どもたちが「お父さんとお母さんは信仰熱心だけど、同じようになりたくない」と言ったようです。そうではなく、「日曜日は休むためにもある」ということを忘れないようにしたいと思います。「日曜礼拝を守れ」と言うし、一方では「日曜日に休め」と言われます。この両立が大事です。

 

3.聖霊の導きで生きる

 

 安息日を守るとは、lifestyle生活様式なのです。旧約聖書で安息の地はカナンでした。ヨシュア記113口語訳「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたのために安息の場所を備え、この地をあなたがたに賜わるであろう』と言った言葉を記憶しなさい。」新約聖書にも同じことばが出てきます。ヘブル人3章に「安息」ということばが2回使われています。エジプトから脱出した第一世代は、不信仰のゆえに安息に入ることができませんでした。ヘブル4章には「安息」と「安息日」が6回出てきます。1種類はヨシュアたちが入った「カナン」であり、もう1種類は救われた人たちが行く「天の御国」です。つまり、安息の地はカナンであり、また天の御国でもあります。きょう取り上げたいのは、ヨシュアたちが入った安息の地、カナンについてです。安息の地、カナンは、どのようなところだったでしょうか?ヨシュアたちはカナンに攻め上り、先住民を追い出す必要がありました。ヨシュアたちは領土を勝ち取るために戦わなければなりませんでした。でも、その戦いは、一般に私たちが考える戦いとは違っていました。なんと、主が既にその地を彼らに与えておられました。そして、主はヨシュアに「あなたの行く所どこにでも、あなたと共にある」と約束されました。つまり、主に従っていくならば、勝利できるということです。なぜなら、それは主の戦いであり、主が戦ってくれたからです。エリコを責めるときも、常識を超えた戦いでした。エリコの城壁の周りをだまって11回まわるだけです。それを6日間続けます。そして、7日目には7回まわり、最後にラッパを吹き鳴らし、「わー」と叫びます。それで城壁が崩れ去り、町を攻め取ることができました。ヨシュアたちは主の命令に従うことによって勝利することができました。

 

 新約の私たちが安息の地に入りたいなら、聖霊に導かれて進む必要があります。言い換えると自分の考えや肉のがんばりではなく、聖霊に信頼して歩むということです。そうすれば、安息を得ながら、信仰生活を送ることができます。それこそが、安息日を守ることであり、安息日がライフスタイルになります。516,17日に21世紀教会でリバイバル・スクールがありました。カルフォルニアからチェ・アン牧師が来られメッセージをしてくださいました。先生のお父さんは韓国からの移民であり、週末は牧師をし、月曜日から金曜日までは技術者として働きました。さらには、レストランを買い取って経営しました。お父さんは一日も休んだことがなく、家族でバケーションに行ったこともなく、安息の良い模範ではなかったそうです。その息子さんチェ先生は若い頃とても荒れた生活をし、麻薬にもはまっていました。ところが30代後半に献身して牧師の道を歩みました。でも、牧会9年目、1992年(46歳)完全に燃え尽きてしまいました。フラー神学校で8年間学び、修士号と博士号を取りました。ところが学びを終えて、うつになり、主任牧師のところに辞表を出しました。先生は、世界一物価の高いカルフォルニアで4人の子どもを育て、牧会しながら神学校で勉強していました。カルフォルニアを出て、友人が住んでいるコロラド・スプリングスのような田舎に行こうと思いました。でも、あることが起こりました。1994年のことです。ここからは、先生のメッセージをそのままお届けします。

 

聖霊様が私の人生に訪れて下さいました。私は再び新生を体験したように思いました。聖霊が川のように流れていました。私はその川の中で神さまと契約を結びました。「私は今流れている川に飛び込みます。そこに留まります。そして、その川が流れて行くところどこへでも行きます。」それはエゼキエル47章に書かれているような川です。御使いが預言者エゼキエルを、聖所のところから流れる川に導いて行きました。川が流れるところではすべてものが生きます。実際にそのような川はありません。ヨルダン川はエルサレムの周りに流れていますが、エルサレムの真ん中から流れていく川はありません。それは霊的な川を表わしています。それは力強い聖霊の働きが聖所から流れることを表しています。御使いがエゼキエルを導いていくと、その川は足首の深さ、それから膝の深さ、腰の深さになりました。そして、流れていくとそれは渡ることのできない川になりました。私たちの足首、膝、腰のあたりまでは、私たちがコントロールできる水の深さです。そこで歩くこともできます。でも、最後にはそれさえできなくなって、泳いで水の流れのままにエゼキエルを運んでいくほどの川となりました。神さまは「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって」(ゼカリヤ46とおっしゃいました。19941月に聖霊が注がれて、「2月に教会をはじめなさい」と言われました。19944月に教会を始めました。「私たちは聖霊様が導かれるままに何でもします」と約束しました。

 

その後、どうなったでしょう?先生の本にこのように書かれています。「自宅の祈り会に30人が集まりました。翌週は65人集まり、リビングルームとダイニングルームが満杯になりました。1か月後に建物を借りて公式な集会を持ち、300人集まりました。その後、パサディナで一番大きな施設を借りることにしました。199512日から、ジョン・アーノットを迎え、リニュアル集会を持ちました。初日、2000名余りの人々が詰めかけました。知人に加えて、一度も来たことのないような人たちが何百人も来たようでした。神の力が下りました。聖霊の電撃のような臨在が会場に満ち、しるしと不思議と癒しが伴いました。霊的な刷新が本当に起こりました。私たちの教会だけでなく、大パサディナ地域に、です。その働きは、今では世界中に広がっています。今振り返ると、私たちが目にしたものは、リバイバルだったと言うべきかもしれません。」アーメン。本当に私もあやかりたいと思います。これが、聖霊の導きで生きる人生の実であります。自分の努力や肉の力でやってもある程度のことはできるでしょう。でも、うつと燃え尽きになるならば、それは安息日を生きていることにはなりません。十分休息を得ながらも、神さまの働きが進むなら何とすばらしいでしょう。それはやはり、聖霊に満たされ、聖霊の導きで生きることであります。チェ・アン師が最も大事にしているみことばは、ゼカリヤ46「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって」です。疲れている時は大胆に休みましょう。休むことに罪悪感を持ってはいけません。でも、その休みは単なる休みではなく、神さまと親しく交わり、神さまから力をいだたいている時でもあります。そして、再び立ち上がり聖霊に導かれて生きるのです。

 

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2018年11月16日 (金)

十戒と私たち Ⅰテモテ1:8-10 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.11.18

 クリスチャンでしたら「モーセの十戒」を知っておられると思います。しかし、キリスト教会がそのまま全部守るべきなのか考えたことがあるでしょうか。私たちが救われるための条件はイエス・キリストの贖いを信じるという1点にあります。でも、救われてから、律法は役に立たないのか、全部破棄して良いのかというとそうでもありません。私たちは、パリサイ人や律法学者のように律法主義になってはいけませんが、律法に対する正しい立場を持つべきです。

1.十戒とイスラエル

 十戒は律法の中で中心的なものなので、きょうは律法と十戒を交互に言うことがあります。どちらも同じだと考えてください。モーセの十戒を分かり易くした数え歌があります。「1つ、1つの神を拝せよ。2つ、再び像を拝むな。3つ、みだりに御名を唱えるな。4つ、喜び安息守れ。5つ、いつまでも両親を敬え。6つ、むごい殺人を犯すな。7つ、汝姦淫を犯すな。8つ、やましい盗みをするな。9つ、こんりんざい偽証をたてるな。10で隣をむさぼるな。」では、モーセの十戒は一体誰に対して与えられたものでしょうか?私は法律の専門家ではありませんが、法解釈をするためには、その法律が制定された時点にさかのぼる必要があります。十戒は出エジプト記20章に記されています。しかし、その前に神である主がイスラエルと契約を結んでいる箇所があります。出エジプト記194-6「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」この契約はイスラエルをエジプトから解放した神である主とイスラエルが結んだものです。しかも、「もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という条件付であります。後から、民は口をそろえて「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と言いました。その後、契約にくっついている守るべき条項、いわゆる律法が出エジプト記20章から31章まで長々と記されています。そして、十戒こそが数ある律法の中心的な戒めです。十戒のはじめに何と言われているでしょうか?「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(出エジ202となっています。ここで重要なことは、十戒とはじめとする律法はイスラエルに対するものであり、私たち異邦人に対してではないということを知らなければなりません。なぜなら、私たちはエジプトの国、奴隷の家から救い出された者でないからです。そして、私たちはキリストにあって新しい契約を結んだ民であり、十戒に代わる新しい戒めをいただいている者だからです。そのことは、次のポイントでお話ししたいと思います。

 でも、「私たちは、どの程度モーセの律法を守るべきか」という課題が残っています。パウロとバルナバが異邦人伝道を終えて帰ってきました。その後、エルサレムで会議が開かれました。ユダヤから下って来た人たちが「モーセの慣習にならって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張しました。パリサイ派から信者になった人々も立ち上がり「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言いました。そして、激しい論争がありました。どうなったでしょう?ペテロは「なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神をこころみようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(使徒1511と言いました。全会衆は沈黙していまいました。最後に議長のヤコブが立ち上がり、「ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきである」と決議しました。つまり、異邦人の私たちはモーセの律法を守らなくても、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるということです。パウロが言ったように、キリストと共に死んだ私たちは律法から解放されていのです(参考:ガラテヤ219-20)。このことは、「律法からの解放」というメッセージですでに語りました。

 では、一体、律法はだれのためにあるのでしょう。Ⅰテモテ19-10「すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。」パウロは「律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです」(Ⅰテモテ18と言いました。言い換えると、取扱い方を間違えると益にならないばかりか、害になるということです。律法の取り扱いにおける注意事項は何でしょう?「律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人…健全な教えにそむく事のためにあるのです。」私たちは、律法は正しいものであり守るべき戒めであると知っています。しかし、この世の多くの人たちはそれらを「時代遅れだとか、そんなの関係ない。俺たちは自由だ」と否定するでしょう。でも、彼らはイエス様を信じない人たちであり、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人たちであります。でも、使徒パウロは自分のことをこう言いました。「私は、以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。…私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ113,15)。パウロもかつてはそうだったんです。でも、パウロは悔い改めて、キリストによる救いをいだだきました。

 私はテレビのニュースを見て思うのですが、偉い人たちが平気で嘘をついているようです。殺人や姦淫も行われています。私は、「ああ、モーセの十戒を守っていたなら、そんな大きな害を受けなかったのになー」と思います。モーセの律法は、越えてならない、人生の道路の両脇のガードレールのような存在です。車に乗っている人は分かると思いますが、ガードレールを越えたら、大事故になるか、命を落とすことさえあります。でも、運転手はガードレールを直視して走っていません。道路の真ん中を見て、チラチラとガードレールを見ます。同じように、私たちは信仰の導き手であるイエス様を直視しつつ、超えてはならない律法をたまに見て生きているのです。

2.十戒とイエス・キリスト

 マタイ517,18「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」イエス様は、律法を廃棄するためではなく、成就するために来られました。ところが、イエス様は十戒をあえて破っておられるようにも思えます。安息日に関する戒めはどうでしょう?イエス様はあえて安息日に人々を癒されました。律法を厳格に守るパリサイ人たちは怒って、イエス様を殺そうとしました。なぜなら、彼らはイエス様が安息日に働いたと解釈したからです。また、ヨハネ8章には、姦淫の現場で捕えられた女性の記事があります。人々は「モーセの律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています」と主張しました。でも、イエス様は彼女を罪に定めませんでした。この時点でイエス様は十字架の贖いを成し遂げていません。また、この女性が罪を告白している様子もありません。それなのに十戒を無視して、簡単に赦して良いのでしょうか?また、汚れたものに触ってはならないという律法がありました。それなのに、イエス様は死んだ人に触れてよみがえらせ、らい病人に触れてきよめられました。きわめつけは、イエス様が裁判の席で、ご自分を神と等しくしたことです。これは十戒の第一番目、冒瀆罪に当たります。当時の大祭司は自分の衣を引き裂いて、「神への冒瀆だ。彼は死刑に当たる」と言いました。イエス様は、神の律法を守るパリサイ人、律法学者、祭司長たちから十字架につけられました。彼らは「イエスは自分を神とするとんでもない罪人だ」と裁いたのです。

 でも私たちは、イエス様は律法を破ったのではなく、律法を正しく解釈し、律法を成就したことを知っています。イエス様は律法の目的、律法の精神をよくご存じでした。律法の創立者が、この地上に来られて、正しく解き明かされたと考えることができます。そのことがマタイ5章から7章まで克明にしるされています。イエス様は「十戒」を取り上げながら、「私はこう言う」と解釈し直しました。それを聞いた人々はどう思ったでしょう?マタイ728,29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」「権威ある者」とは、authorityであり、「よりどころ」「出典」という意味もあります。当時の宗教家たちは、律法を誤用し、人々に重荷を負わせていました。イエス様はそのことをとても怒って軌道修正したのです。

さらに、イエス様は数多くある律法をたった2つにまとめました。律法学者が「律法の中で、大切な戒めはどれですか?」とイエス様を試すような質問をしました。イエス様はこのように答えられました。マタイ2237-40「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」簡単にまとめると、神さまを全身全霊で愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛することの2つです。十戒で言うなら、第一戒から第四戒めまでが、神さまを愛するということです。そして、第五戒から第十戒めまでが、隣人を愛するということです。言い換えると、神さまを愛し、隣人を愛するという二つの戒めが、律法全体を網羅しているということです。なんとイエス様はスマート、頭が良いのでしょう。旧約の律法は200個以上あります。また、同時の宗教家はそれに「人々の教えや言い伝え」を加えていたので、膨大な数に達していました。それらをイエス様はたった2つにまとめたのです。「神を愛し、隣人を愛しなさい」これですべてがこと足りるのです。学校でこの2つの戒めを教えたなら、いじめがなくなるでしょう。刑務所でこの2つの戒めを教えたなら再犯率はぐっと下がることは間違いありません。実際、アメリカではこのことを実行して、ものすごく成果をあげています。ある人がクリスチャンになりましたが、社会的な罪の裁きを受けるために、刑務所に入りました。しかし、彼は大勢の服役中の人たちや刑務官たちを信仰に導いたという証を聞いたことがあります。

さらには、イエス・キリストによって古い戒めが、新しい命令になりました。Ⅰヨハネ27-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」文脈から見ると分かりますが、「古い命令」とは十戒を中心とする律法のことです。しかし、ヨハネは「新しい命令として書き送る」と言っています。古い戒めを捨て去るのではなく、renewalするということです。Renewalは書き換え、更新、復興と言う意味です。パウロはローマ104「キリストが律法を終わらせた(成就した)」と言っています。また、ガラテヤ313「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」と書いてあります。では、新しい契約と新しい律法とは何なのでしょうか?新しい契約はイエス・キリストを信じる者が義とされ救いを受けるということです。行いではなく、信仰だということです。新しい律法とは何でしょう?それは御霊による新生によって私たちの心の板に律法が刻まれているということです。教会でもモーセの律法を朗読しますが、そのとき、彼らの心には覆いが掛かかります。なぜでしょう?「ああ、ダメだな、自分は律法に達していないなー」と思うからです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれます。Ⅱコリント36「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」今日の教会は、キリストの恵みの中にあります。ところが親切にも、「モーセの律法を守らなければ神さまに受け入れられないよ」と言います。こうして文字は人を殺します。でも、私たちは律法を全うされたイエス様、そして律法を全うさせてくださるキリストの御霊を思うとき生きることができるのです。私たちは新しい契約の内に生かされていることを忘れてはいけません。

3.十戒と私たち


 第一は旧約時代、第二はイエス様の時代、第三は教会の時代と言うことができます。新約聖書で「教会」というと、ほとんどが異邦人から救われたクリスチャンをさします。パウロは「異邦人の時が満ちたら、ユダヤ人が救われる時が来る」(ローマ1125-26)と言っているからです。ですから、新約聖書の書簡のほとんどが教会のために書かれていますので、そのみことばを私たちはダイレクトに学ぶ必要があります。書簡(手紙)を見ますと、モーセの十戒は記されていません。また、イエス様が律法をたった2つにまとめましたが、それもたった1つになっています。3か所開きますが、最初にローマ13章を見たいと思います。ローマ139-10「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」第二はガラテヤ人への手紙です。ガラテヤ514「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」さらに、「御霊に導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」(ガラテヤ518と書かれています。第三はヤコブの手紙からです。ヤコブ28 「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。」ヤコブは「えこひいきしないで、愛しなさい。自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい」と勧めています。注目すべき事は、ヤコブが「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が、最高の律法であると認めているということです。

これら3つに共通していることは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めだけが取り上げられているということです。そしてこの戒めは、それぞれ、「すべての律法を要約したもの」「律法全体を一語で全うするもの」「最高の律法」と呼ばれています。かつて、モーセの十戒がイエス様によって2つにまとめられましたが、最後は1つになっているということです。では、第一の戒め「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」が不要になったのでしょうか?このことに関しては、いくつかの答えがあると思います。簡単には言えません。新約聖書の書簡は、前半がキリストの贖いに関する教理的なことが記されています。そして、後半は信じた人がどう生きるべきかという倫理的なことがしるされています。ということは、前半のキリストを信じて神さまを愛するということが、前提になっているということでしょう。その上に、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と命じられているのだという考えです。もう1つの考えは、「あなたが本当に神さまを愛しているのなら、あなたの隣人を愛するはずですよ」という証拠みたいなものです。ヨハネは第一の手紙の中でこう述べています。Ⅰヨハネ420-21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」なんと強烈なみことばでしょう。私たちは「父なる神さまあなたを愛します」。あるいは「イエス様あなたを愛します」と言うことができます。でも、「私のこの隣人は愛することはできません」「あの兄弟を、あの姉妹を愛することができません」と口では言わないかもしれませんが、思っているのではないでしょうか?ヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」と言っています。イエス様の時代、パリサイ人や律法学者が宗教的な指導者でした。彼らは熱心に律法を守り、神さまをあがめ、神さまに仕えていました。でも、イエス様から「ああ、わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と呼ばれました。

 旧約時代もイエス様の時代も、「これこれの律法を守りなさいよ」と箇条書きにできるほど命じられていました。しかし、私たちの時代は、「神さまを本当に愛しているなら、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われているだけです。どっちが楽か?細かくてたくさんあるのも嫌ですけど、1つしかなくてあとは考えなさいというのも大変です。学校の時は、「廊下を走るな」とか「髪の毛が長い」とか先生から注意されました。ところが、大人になるとそういう細かい規則からは解放されます。同じように信仰を持つ前は、律法が私たちをキリストに導く養育係りでした。律法は「あなたはそれでは神さまから義と認められない、罪があるよ」と知らせてくれました。今度イエス様を信じて新しく生まれ変わりました。もちろん、私たちは旧約聖書のモーセの十戒を学ぶ必要があります。そして、新約聖書から教理と倫理についても学ぶ必要があるでしょう。でも、最後は自由な律法に仕え、御霊によって歩むしかありません。私たちが罪を犯さないのは神さまを悲しませたくないからです。私たちはイエス様から信頼されていますので、裏切りたくありません。私たちが戒めを守るのは、神さまから愛されているからです。地獄でさばかれるのがイヤだから、仕方なく守っているのは奴隷です。イエス様は私たちを友と呼ぶと言われました。ヨハネ1514「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」イエス様は現在、御霊によってこちらにいらっしゃっています。イエス様が地上におられた頃、イエス様の周りにいた人たちが緊張したでしょうか?福音書を見ると分かりますが、12弟子たちは結構自由でした。取税人たちも一緒にイエス様と食事をしました。ベタニヤの兄弟たちはいつでもイエス様をお泊めしました。姉のマルタはイエス様にタメ口をききました。彼らがイエス様の近くで緊張していたという記事はほとんど見当たりません。

 私はこのことばが本当に大好きです。Ⅱコリント317「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれています(ローマ55)。私たちはその愛で神さまを愛します。また、その愛で「私の隣人を私自身のように愛する」ことができるのです。キリスト様につながっていれば大丈夫です。

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2018年11月10日 (土)

十戒 出エジプト20:1-17 ファミリー礼拝(CS合同)亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.11.11

イスラエルの人たちはエジプトで長い間、どれいでした。

モーセに導かれ、エジプトを脱出することができました。

人々は荒野を通って、シナイ山に到着しました。

主はイスラエルと契約をかわし、十戒をさずけました。

 

第一戒 主は、ゆいつの神(神はただお一人)

    はじめに、神が天と地を創られました。

    神さまを第一にせよ

第二戒 偶像を造るな(偶像をおがむな)

    新島 襄 漢訳聖書の創世記11で神を信じる。

    「神さま。この天と地をおつくり下さったことを感謝いたします。私の両親をつくられたことを感謝いたします。私をもおつくりくださったことを感謝いたします。今まで知らなかったとはいえ、お礼を申し上げなかったことをおゆるし下さい。」

神さまだけを礼拝せよ

第三戒 主の名をみだりにとなえるな

    ヤハウエアドナイ

    神→天

    Oh!Jesus、Gosh、Oh! My God

    神さまの名前を悪用するな。

第四戒 安息日を守れ

    安息日(土曜日)→日曜日 キリストの復活ゆえ

    週一日、休んで、聖なる日とせよ 

第五戒 父母をうやまえ(そんけいする)

    幸せな一生を送ることができる。(リビング・バイブル)

    主にあって、両親に従え

第六戒 殺してはならない

    ことばでもヤバイ

    「のうなし!」「馬鹿もの」「死ね!」…ゲヘナ(地獄)の火で焼かれる

    だれも傷つけるな

第七戒 姦淫してはならない

    結婚の約束を守れ

第八戒 盗んではならない

    万引き家族→No 万引き

    盗むな

第九戒 偽証してはならない(うそをつかない)

    いつも真実を伝えよ

第十戒 むさぼってはならない(人のものをほしがらない)

    他人のものをほしがるな

 

十戒の目的

①罪を知って、イエス様の救いを得るため。

②正しい道を歩むことによって、守られるため。 道路の両脇のガードレールのようなもの。

 

十戒の数え歌

一つ、ひとりの神を拝せよ。

二つ、ふたたび、像をおがむな。

三つ、御名をみだりにとなえるな。

四つ、喜び安息まもれ。

五つ、いつまでも父母をうやまえ。

六つ、むごい殺人をおかすな。

七つ、なんじ姦淫をおかすな。

八つ、やましい盗みをするな。

九つ、こんりんざい偽証をたてるな。

十で、となりをむさぼるな。

 

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする(詩篇197,8)。

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2018年11月 2日 (金)

霊的飢え渇き エゼキエル47:3-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.11.4

 イエス様はルカ福音書で「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」(ルカ620,21と言われました。リバイバル(霊的復興、初代教会のような出来事)が起こるために必要なことは、飢え渇きです。私たちが主を切に求めると、そこに主のみわざが起こり、多くの人たちが救われます。きょうは、私たちはどのような飢え渇きを持つべきなのか3つのポイントでメッセージをさせていただきます。

1.神さまに対する飢え渇き

 ギリシャ語で「知る」は二種類あります。ギノスコーは知的に知るということです。もう1つはオイダであり、これは体験的に知るということです。新約聖書ではこのことが交互に使われています。ヨハネ5章でイエス様はユダヤ人にこう言われました。ヨハネ539-40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」彼らのように、聖書を勉強することは大変良いことです。しかし、聖書はだれのことを書いてあるかというと、イエス様についてであります。たとえて言うなら聖書は非常口の表示板です。人々はその方向に非常口があると分かります。でも、だれも表示板そのものが非常口だとは思いません。ユダヤ人は聖書に精通していましたが、聖書が示しているお方を受け入れませんでした。彼らは知的に高慢になっており、イエス様が自分たちの考えているメシヤとは違うと拒絶しました。私たちは神学を勉強すると、神さまのことが全部わかったような気になります。神さまは「全能である」と頭では分かっています。でも、生活が困窮している中で、神さまが本当に助けになると信じていません。その人は神さまを知的には理解していても、全能の神さまを体験していないということになります。知性と信仰が乖離してしまうような勉強はしないほうがましです。なぜなら、聖書に「知識は人を高ぶらせる」(Ⅰコリント82書いてあるからです。

 私たちはへりくだって主を知ることを求めなければなりません。ホセヤ6:3 「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」「後の雨」は3月から4月頃に降り、穀物の豊かな実りをもたらすので、祝福の雨とされています。聖書で「前の雨」はペンテコステのことです。そして、「後の雨」は、世の終わりのリバイバルを象徴しています。私たちは世の終わりの時代に住んでいます。世の人たちは、聖書も読まないし、神さまを知ろうともしません。なぜなら、他に楽しいことがいっぱいあるからです。世の終わりの教会はラオデキヤのように「自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もない」と言うようになります。しかし、主は「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、私は口からあなたを吐き出そう」(黙示録316-17と言われます。「もう、自分は豊かになった、乏しいものは何もない」と、飢え渇きがありません。終わりの時代だからこそ、私たちは主を知ることを切に追い求めなければなりません。このままですと、大収穫のないまま、世の終わりが来てしまいます。神さまは忍耐しておられ、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます」(Ⅱペテロ39)。私たちは飢え渇きをもって、主を知ることを求める必要があります。 

 ビル・ジョンソン師は「主を知るとは、主の臨在を慕い求めることである」と言っています。彼は『主の臨在をもてなす』という本の中でこう述べています。「詩篇1611『あなたの臨在の中には喜びが満ち』とあります。どこに喜びがあるのか、臨在の中です。もし、家の中でも神の臨在をもっと意識するなら、家の中がどこよりも大きな喜びが満ちあふれるでしょう。ダビデのきわだった生涯を考えると、ダビデの成功の秘訣は主の臨在でした。ダビデは主の臨在に心を向けなければ、人生のコンパスを失うことを知っていたのです」(原本直訳)。私たちは聖書を読んで神さまを知ることができます。さらに、礼拝と祈りによって神さまと深く交わることができます。そのためには5分でも、10分でも、静まる必要があります。そこに神の霊が臨んでくださり、あなたは刷新されるでしょう。神さまとの人格的な交わりほどすばらしいものはありません。人と会うためには相手の都合を聞かなければなりません。アポイントメントを取らないと会えないかもしれません。でも、神さまはいつでも、私たちとお会いして下さり、親しく交わってくださいます。すばらしいことに、このことが聖霊によって可能になったのです。

 私たちは祈りといえば、「あれしてください」「これしてください」と願うことだと思っているかもしれません。嘆願やとりなしの祈りをする前に、私たちは主だけを求め、主と親しい時を過ごすことを優先すべきです。主のご愛と恵みと信仰に満たされて、はじめて嘆願やとりなしの祈りが力強くできるのです。とりなしの賜物のある人は、1時間も課題をあげて祈っても大丈夫です。しかし、普通の人は、まず自分が満たされるように祈るべきです。その後、人のために祈るなら霊的に枯れることはありません。先ほど、神学の勉強が必要でないような言い方をしましたが、そういう意味ではありません。神学は信仰を体系付けるためにとても重要です。神学は両脇の極端の溝にはまらないように、真理の王道を示してくれます。でも、それで神さまが分かったようになるのは大間違いです。その中味を満たすのは信仰であり、生きた神さまとの交わりです。神さまが本当に全知全能なお方なのかは、自分の生活で神さまと共に生活しないかぎり分かりません。子育て、仕事、人間関係、いろんな問題や困難を乗り越えて行く中で、「ああ、人にはできないが神にはできる」と分かるのです。頭の信仰ではなく、全人格的な信仰になったら幸いです。不思議なことに、そのように神さまを知るともっと神さまを知りたくなります。イエス様は「私が真理である」と言われました。だったら私たちも、真理を知るために時間をかけるべきです。そうするなら、真理の御霊が交わりの中で、親しく教えてくださいます。神さまを知れば知るほど、もっと知りたくなります。世の楽しみは中毒になって、身を滅ぼしてしまいます。しかし、神さまを求めれば求めるほど、満たされ、祝福を受けます。アーメン。

2.油注ぎに対する飢え渇き

 イエス様は天にお帰りになる前、「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ2449と弟子たちに命じられました。そして、ペンテコステの日、約束の聖霊が彼らの上に臨まれました。「彼らは聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしました(使徒24)」。「聖霊に満たされる」は、ギリシャ語から2種類あることがわかります。第一つは「内側が聖霊で満たされる」です。これは聖霊によって支配されるという人格的な意味です。もう1つは「外側からすっぽり聖霊で満たされる」です。これは聖霊によってその人に力が与えられるということです。後者を「聖霊のバプテスマ」、あるいは「聖霊の油注ぎ」と呼んでいます。もちろん、教団教派によって考え方や表現は違います。奇跡やしるしを信じる人たちは、この立場を支持しています。実はイエス様も上から聖霊の力を受ける必要がありました。イエス様はバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けました。その直後、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエス様の上に下られました(ルカ322)。そのことは何を意味するのでしょう?それはイザヤ611「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ」という預言の成就です。つまり、この時、イエス様は上から聖霊を受けて、メシヤとしてのミニストリーを行うができるようになったということです。3年半の間、イエス様は福音を宣べ伝え、病人を癒し、さまざまな奇跡を行ないました。この地上を去る前に、イエス様はこのようなことをおっしゃいました。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」これは弟子たちだけではなく、私たちクリスチャンにも向けられている約束であることを信じられるでしょうか?その根拠は、イエス様はご自分の力ではなく、聖霊によって神のわざを行っていたからです。イエス様は私たちの模範であったということです。私たちも聖霊を上から受けるとイエス様と同じことができるという約束です。

 聖霊を上から受ける、つまり聖霊の油注ぎには、いろんな体験があります。初代教会の頃は、異言や預言を話したりしました。しかし、体験は人によって様々であり、それを定まった教義にしてはいけません。でも、私は油注ぎが1回限りではなく、何度も受けて良いものであり、また受けるものだと思っています。Ⅱテモテ16「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」おそらく、テモテは神の賜物が消えかかっていたのではないでしょうか。だから、それをかき回して、もう一度、燃え立たせる必要がありました。ここで、「按手」ということばが出てきます。パウロはエペソの人たちにも按手しました。使徒196「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」とあります。聖霊のバプテスマは個人で祈っているときにも与えられます。しかし、だれか神の人から手を置いて祈ってもらったときも与えられるということです。これを英語ではimpartation分与と呼んでいます。

私があこがれる聖霊体験を持たれた二人の先生をご紹介したいと思います。最初はランディ・クラーク師の証です。19841月、二人の執事とダラスの集会に出席しました。ジョン・ウィンバーとチョーヨンギ師が講師でした。最後に招きがあり、多くの人たちが泣いていました。私は跪いて、ちょっとだけ祈ってから帰ろうと思いました。なぜなら、この様子がテレビで放映されていたからです。主の霊が私に「両手をあげなさい」と言われたように思いました。私はバプテストです。バプテストはそんなことをしません。しかし、両手を上げました。その瞬間、神の霊が私を打ちました。私は混乱し、感情を失い、すべって最後には床にねそべりました。なんと、私が寝そべって体をゆらしているシーンが大きなスクリーンに映し出されました。私のプライドは打ち砕かれました。聖霊は再び私を打ち、私は1時間も床の上で横たわり、震えながら泣いていまし。私はその後、何年間も小さな教会でドーナツをあげなら牧会していました。19911月トロントの教会に講師として招かれました。46日間集会が続き、霊の力強い油注ぎの集会へと発展し、平安、癒し、体の震え、神の力によって倒れる、笑い、多くの異言などの聖書にある顕著な事柄が揃って現れました。かつて、ジョン・ウィンバーが「あなたには使徒的な召しがあります。あなたは世界中を旅して、聖霊を付与する人になります」という知識の言葉が成就しました。

もう一人は、ビル・ジョンソン師の証です。19952月、トロントの集会にスタッフたちを連れて出席しました。油注ぎがあまりにも強くて、歩くことができませんでした。私たちはそこからブレークスルーが始まったと信じています。その年の10月のある晩のことです。早朝3時に目がさめましたが、体を動かすことができません。私はベッドに横たわりながら「主よ、私の両手はそびえ立っています。私の両足もそびえ立っています。私の体もコントロールできません。」と言いました。私はそのとき「天に引き上げられるのかな」と思いました。その後、両手と両足が私の体からちぎれるほど乱暴に動きました。電流が私の体中を流れ、このまま死ぬかと思いました。「ああ、これは神さまだ。でも、神さまが何をしているのか分からない」と思いました。気持ちは良くありませんでしたが、喜びにあふれていました。正直なところ、とてもみじめな方法で満たされたと思いました。私は朝起きたとき「神さま、もっと与えて下さい」と祈りました。しかし、私はその代価を払わなければなりませんでした。お昼にお気に入りのレストランに行きました。突然、夜と同じように、手足に震えが来て、体からひきちぎられそうになりました。目の前に運ばれて来たばかりのスパゲィーがありました。「神さま、今ですか?」と思った瞬間、顔がお皿の上にのめりこみました。すべての威厳が私から取り去られたように思いました。

ビル・ジョンソン師は、15年間祈ってもだれも癒されませんでした。しかし、この時から、数えきれない人たちが癒されるようになりました。私たちは聖霊を上から受ける必要があります。そうすれば、賜物が開かれ、力が与えられ、すばらしいことが私たちを通して起るでしょう。聖霊の油注ぎは、自分が癒されるだけではなく、大いなる神の働きの突破口になるからです。聖霊の油注ぎによるブレークスルー、霊的突破口にあこがれます。

3.ミニストリーに対する飢え渇き

 ミニストリーとはイエス様が地上で行われた「働き」のことです。マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」と書いてあります。イエス様は「教え、福音宣教、病の癒し」をなされました。その他に、イエス様は嵐を静めたり、パンを増やしたり、死人さえよみがえらせました。いわゆる「しるしと奇跡」を行いました。私は神学校で、聖書の教えや伝道について学びました。しかし、それは、イエス様がなさったようにではありませんでした。福音書を見ると分かりますが、イエス様は聖霊による賜物を用いて伝道しました。サマリヤの女性に対しては、知識の賜物によって彼女に夫が5人いたことを言い当てました。一挙に彼女の心が開き、イエス様を預言者だと告白しました。パリサイ人や律法学者たちから難問をふっかけられました。イエス様の教えの多くは反対者たちとの論争から来るものでした。「カイザルものはカイザルに返しなさい」と答えたら、彼らは何も言えず去って行きました。イエス様はそのとき、知恵の賜物を用いたに違いありません。ザアカイに対してはどうだったでしょう。彼はいちじく桑の上で隠れていました。イエス様は木の根元に来て、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。イエス様は、ザアカイの居場所、名前、予定まで示しました。イエス様はこのとき、預言の賜物を用いたに違いありません。現代の教会は、音楽伝道、喫茶店伝道、英会話伝道をやってきました。現代の教会は、イエス様や弟子たちが行った伝道法とは全く違います。

イエス様は弟子たちにこのように命じました。マタイ107.8NASB直訳「行って説教し、天の王国が近づいたと言いなさい。病人を癒し、死人をよみがえらせ、らい病人たちをきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」これが聖書で言う伝道です。ところが、私が学んだ神学校ではこんなことを教えてくれませんでした。ある人は、「そういう目覚ましい奇跡は聖書の完成とともに必要でなくなった」と言いました。しかし、リバイバルが起こっている各地では、聖書の記述と同じようなことが今でも起こっています。40年前、私がクリスチャンになった頃は、インドネシヤのチモールにリバイバルが起きました。水がぶどう酒に変わる奇跡も起こったと聞きました。中国では死んだ人が何百人も生き返ったと聞きました。インドではらい病人が癒されました。アルゼンチンではなくなった歯が新しく生えたという奇跡も起こりました。イスラム教の伝道は最も難しいと思われています。イエス様が直接、彼らの現れてくださり、彼らがイエス様を信じています。現在はアフリカ中にリバイバルが起こり、聖書の記述と同じようなことが繰り返し起こっています。集会が終わった後に松葉杖の山ができるそうです。私たちが学校で習った神学はなんだったのだろうと思います。自分たちの神学と経験に神さまを押し込めていたのです。しかし、神さまは私たちの神学と経験以上のお方です。私たちは聖書を神のことばと信じるならば、その内容もそのまま信じなくてはなりません。

 ランディ・クラーク師は道端を歩きながら、「アルゼンチンで起っているようなことが、どうしてアメリカで起らないのだろうか」と思いました。自分の中には、渇きと懐疑心がありました。すると突然、声がしました。「Man、私はアルゼンチンにおけるリバイバルの油注ぎの下から来ている。私たちは多くの人々が癒されるのを見なければならない。ここでなければならない」。そのことばは彼を本当に励ましました。それまでランディは多くの癒しのミニストリーをやってきました。しかし、彼は体の中に埋め込まれている金属が消えてなくなるという奇跡を見たことがありませんでした。ある日、ビル・ジョンソンと一緒に集会を持っていました。ビル・ジョンソン師が「神さまが金属の埋め込まれている人を癒したいと願っています。その人は立ちなさい」と言いました。その時、祈りましたが、だれも癒されませんでした。非常にがっかりし、信仰的にも打ち倒されました。次の日はコロラドで集会を持ちました。きょうは金属のための祈りはしないぞと決心していました。食事をしようとしていたとき、だれかが大きな封筒を持って来ました。「ひどい痛みがあります」と表書きと名前がありました。封筒を開けると頸部のレントゲン写真が同封されていました。首のねじを数えてみました。23,24個、それ以上ある。それだけではなく、脊椎には4本の長い棒と横棒がありました。「昨晩もできなかったんだから、今晩はやらないことにしよう」と決意していました。

 賛美が終わると、私はそれをしてしまいました。「神さまが体に金属を埋め込まれている人を癒そうとしているのが見えます。金属を体に持っている人は立ちなさい」と言いました。47人の金属を持っているたちが立ち上がりました。ビル・ジョンソンが祈り、私も祈りました。23人の人たちが癒されました。その中の11人がステージに上り証をしました。次の日、その中の5人か6人をインタビューしました。彼らはモルヒネ・パッチをしていましたが、今はしていません。なぜなら、何年間も続いていた痛みが消え去ったからです。私は彼らが今までいていなかったことをするのを見ました。その日から、そのような癒しを受けた人の数を数えることにしました。1年間で180人の人たちが、金属が消えたと証をしました。私はブレークスルーを体験しました。今は2011年になりますが、400人以上の人たちが、金属が消えたと証をしています。

 ビル・ジョンソン師は15年間、祈っても一人も癒されませんでした。しかし、トロントで油注ぎを受けてから、どんどん人々が癒されるようになりました。ランディ・クラーク師も同じです。彼の場合は、知識の賜物で人々が癒されます。ある集会中ですが、「腫瘍」という文字そのものが見えました。その直後「腫瘍」と言いました。その時、会場にいた5人の人たちの腫瘍が癒されました。彼は私たちにこう勧めています。従うことです。遅れた従い方は、従っていないことになります。待っていると油注ぎがなくなり、みわざが起らなくなります。私は従うことを学びました。その時が来たら、瞬間に行動しましょう。神さまがあなたに何かを見せてくれたら、私がやったように「腫瘍」と言いましょう。その時、5人の人が瞬間に癒されました。私はことばが見えたら、瞬間に従うことを学びました。失敗を恐れず、従うなら奇跡は起こります。

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