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2018年10月26日 (金)

満ち足りる心 ピリピ4:11-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.10.28

 白人は日焼けサロンにいきます。黒人は肌が白くなるクリームを塗ります。髪の毛が縮れている人はストレートパーマをしにサロンに行きます。髪の毛のまっすぐな人は、パーマをかけにサロンにいきます。髪の毛の少ない人は、増毛するために何かをします。このように人は自分にないものを欲しがる傾向があります。そして、今、持っているものに満足できません。夢を追い求めることは悪いことではありません。でも、目標が達成できないからと言って、フラストレーションがたまって、現状を喜べないというのはまことに不幸です。

1.満ち足りることを学ぶ

 ピリピ411「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」使徒パウロは何かを学びました。一体、何を学んだのでしょう?パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。この時、パウロはローマの牢獄に捕えられていました。最初はある程度の自由が与えられていたようですが、後半は狭い独房でした。汚物が混じった下水が側を流れている、じめじめした小部屋でした。そんな状況の中で、パウロは「喜びなさい」という手紙をピリピの人たちに書き送っています。これまでパウロは3回の伝道旅行をしてきました。小アジアのエペソやガラテヤ、そして海を渡ってギリシャやコリントに福音を宣べ伝えました。最後は囚われの身になって、ローマに渡りました。パウロはカイザルから裁判を受けようと願っていますが、キリスト教に対する迫害も加わってきました。もし、パウロが自由の身であるなら、スペインまで宣教に行きたかったでしょう。ところがそれが叶わず、今は捕らわれの身です。もし、私がパウロだったら「主よ、どうしてですか?あなたは私を異邦人の宣教のために遣わしたではありませんか?こんな状態では、あなた自身の損失になりますよ」と訴えることもできたでしょう。でも、パウロは拘束されていたので、手紙を各教会に書き送ることができました。現在、獄中からの手紙が4つか5つ残っているのは、そのためであります。おそらく、パウロが自由に活動していたなら、このような手紙を書く時間がなかったでしょう。

 パウロはここで、「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言いました。あのパウロですら何か学ぶ必要があったのです。それは、どんな境遇にあっても満ち足りることです。パウロがそうであるなら、私たちも満ち足りることを学ぶ必要があるのではないでしょうか?私たちは神さまに対して、いろんな夢や希望を抱きながら生活しています。早く新しい家に住みたい。早く昇進したい。早く結婚したい。早く子どもが与えられたい。早く子育てを終えたい。早く健康になりたい。早く家のローンを返したい。「一日も早く願いが叶うように」というのが、正直な願いでありましょう。でも、夢や希望がなかなか実現しないと、フラストレーションがたまります。いらいらして、毎日を楽しく生きることができなくなります。私たちは「神さまには時がある」ということを学ばなければなりません。そして、神さまに信頼し、神さまの御手にゆだねることです。もし、神さまが私たちをテストしておられると考えるならどうでしょう?それはどういう意味でしょう?今の状態でも、「満ち足りる心を持っているか?」ということです。「満ち足りる」は英語の聖書では、be contentということばです。Contentは「満足して、安心して、甘んじて」という意味です。私たちは「満足したら、成長が止まってしまうだろう。もっと高みを目指すべきでしょう」と言うかもしれません。確かにそうですが、山の頂上に達することも重要ですが、そのプロセスを楽しむことも必要です。頂上ばっかり見ていると、道端に咲いている花とか、景色を見ることができません。男性は目的を達成することに力を向けますが、その点、女性はプロセスを楽しむことができます。たとえば、男性が買い物に行くとき、「これを買いに行くんだ」と売り場を目指し、買ったらすぐ帰ってきます。でも、女性は1つの店を回り、気に入ったものがなかったら2つめの店、3つめの店に行きます。そして、戻ってきて最初の店で買ったりします。でも、買わないときもあります。女性はショッピングというプロセスを楽しんでいるのです。私たち男性は一緒に行かないで、どこかで待ち合わせしている方が幸いです。

 私たちはたとえ家が狭くても満足すべきです。もし、神さまの導きなしで、大豪邸が与えられたら、部屋数が多くて掃除が大変です。家族肩を寄せ合う狭い家も良いものです。もし、神さまの導きなしで部長になったら重い責任がかぶさってくるでしょう。それよりも、教会の奉仕の時間が持てるヒラ社員も良いです。もし、神さまの導きでなくて結婚したら、「ああ、しなければよかった」「他の人と結婚すれば良かった」と思うかもしれません。独身を楽しむこともできます。子どもが早く与えられたらと思っているかもしれません。でも、子どもが生まれたら、夜中に何度も起きなければなりません。「早くおしめが取れたら、働きに出られるのに」と思っている子育て中のお母さん。しかし、後からは、おしめをつけていた頃が一番、可愛かったと思うでしょう。伝道者の書には「すべてに時がある」と書かれています。他の訳は「すべてにシーズンがある」と訳されています。そうです。あなたは今のシーズンを楽しむべきなのです。なぜなら、今のそのことは神さまからのテストだからです。神さまは「今の状態を喜んでいるか、満ち足りているか」テストしておられます。もし、そのテストに合格するなら、次のシーズン、次のステップに進むことができるでしょう。民数記に書かれていますが、イスラエルの人たちはいつも不平不満をもらしていました。「喉が渇いた、水が飲みたい」「肉が食べたい、ニラやたまねぎが食べたい」といつもつぶやいていました。天よりのマナが降って来ても、「もう飽きた」と言いました。どうなったでしょう?彼らは安息の地に入ることができませんでした。彼らは満ち足りる心を持つことができなかったので、不合格になったのです。

 私たちは、神さまから満ち足りることを学ぶという試験を受けています。今、自分にないものを数えたら、決して満足することできません。あれがない、これがないと不満だらけになるでしょう。しかし、今あるものを数えたならどうでしょう。「ああ、これも主の恵み」「ああ、これも主の恵み」、今まで当たりまえだったものが、そうではない。とても貴重なものであったことがわかります。今ある肉体、今ある仕事、今ある家庭、今ある住まい、今ある人生を感謝しましょう。

2.秘訣を心得る


 ピリピ412「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」パウロはあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていると言っています。パウロが常に貧しくて、飢えていたかというとそうでもありません。パウロは豊かで、富んでいたこともありました。クリスチャンは豊かで、富むことが悪みたいに言われていますが、そうではありません。どちらが、誘惑が多いでしょう?箴言309「私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」豊かで、富んでいれば、「主とはだれか」と忘れてまいます。貧しいと、盗みをして神さまの名を汚すことになります。どちらも誘惑になります。あらゆる境遇に対処する秘訣とは何なのでしょうか?パウロは413節で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と述べています。キリスト教会では、13節だけを取り上げて「私はキリストにあってどんなことでもできるのです」と言います。このところから積極的な信仰について語ることができるかもしれません。しかし、12節と13節を連続して読むならば、ちょっと見方が変わってきます。パウロは12節で「貧しさと豊かさ、飽くことにも飢えること、富むこと乏しいこと、あらゆる境遇に対処する秘訣は何か」と言っています。その後、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言っています。もし、連続して読むならば、環境を乗り越える秘訣とはキリストではないかということです。しかも、キリストにあって何でもできるということではなく、貧しさや豊かさを乗り越えることができるということです。

 パウロは今、ローマの獄中に捕えられています。劣悪な環境で、食べるものもこと欠いている状態です。私たちは小腹がすいたら、ちょっと歩けば、コンビニで何でも買えます。100円でコーヒーも飲めます。パウロは飢えて、乏しい状態でした。そういう中で、何ができるのでしょうか?パウロにはキリスト様が共におられました。ピリピ44,5「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」パウロは、ピリピの人たちに「喜びなさい」と勧めています。その根拠は何なのでしょうか?「主は近い」ということです。これは主がまもなく来られるという再臨の意味と、主がすぐそばにおられるという両方の意味があります。パウロは早く地上を去って、主のもとに行きたいという願いがありました。しかし、劣悪な環境の中にこそ、主が近くにおられるということを体験したのではないかと思います。私たちは環境や状況によって、嬉しくなったり、悲しくなったりします。もし、私がパウロと同じような環境で、「喜びなさい」とはおそらく言えないでしょう。良い整えられた環境で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言うなら、とてもおめでたい信仰です。病気の時や失敗した時は、なかなか言えません。もし、そうだとしたら、キリストにある秘訣を知らないということになります。

 パウロは変えられない環境の中でも、喜ぶことができました。あらゆる環境の中にあっても、満ち足りる心を持つことは可能なのでしょうか?「あなたが植えられたところで花を咲かせよ」という格言があります。ダビデの生涯を見ますと、彼はあらゆる環境の中でも、満ち足りて生きることができたことが分かります。ダビデはサムエルから次の王様になるという油注ぎを受けていました。しかし、彼は、しばらくの間、羊飼いをしていました。お兄さんたちは、戦争に出かけて、第一戦で活躍していました。ダビデはこのように言うこともできました。「神さま、あなたは偉大な約束を私に与えてくださいました。なのに、私はここで羊の番をしています。これって正しいのでしょうか?」しかし、ダビデはこの秘訣を知っていました。彼は自分が与えられた場所で忠実に働いていたのです。ダビデは将来のことを神さまにゆだねていましたので、羊を飼うことに満足していました。しかし、ある時、お父さんから戦場の兄たちにお使いを頼まれました。そのとき、イスラエルがゴリアテの前に恐れおののいていることを見ました。兄のエリアブが言いました。「一体、お前はなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けてきたのか?」と言われました。でも、ダビデは彼のことばを聞き流し、サウル王に「私に戦わせてください」と進言しました。主がダビデと共におられたので、3メートルもあるゴリアテを倒すことができました。その後、ダビデは宮殿に迎えられました。原っぱからpalace宮殿です。

もし、私たちが今、与えられている場所において忠実でないなら、どうして神さまは次のステップを与えて下さるでしょうか?『天国の人』という本からです。60年間も遊園地で働いている一人の男性がいました。彼の両親が遊園地のオーナーだったので、その後を継いで、人生のほとんどを遊園地の仕事にささげました。しかし、彼はそこで働きたくなかったのです。彼はもっと大きな夢がありましたが、不幸なことに続けるしかありませんでした。夢が成就していない不満を持ちながら、憂鬱な思いで遊園地の仕事を続けていました。しかし、表向きは親切で思いやりのある人物として振る舞い、人々を助けていましたが、心の中は不幸せで、自分は失敗した人生を送っていると思っていました。83歳になったある日のこと、乗り物を支えるワイヤーが切れて落ちて来ました。彼は真下にいた女の子を押し倒し、代わりに命を落としました。彼は天国に行って、自分に影響を与えた5人と会いました。47歳で死んだ妻とも会いました。5人目は焼けただれた5歳の女の子でした。彼が戦争に行ったときフィリピンの村を焼き払ったことがありました。彼は心から女の子にお詫びをしました。すると、彼女は遊園地の女の子が助かったことを教えてくれました。彼はそれまで自分は間違った場所で、間違った仕事をしてきたと思っていました。神さまは天国に来た人に、天国のどのような場所に住みたいか自由に選ばせました。ある人は海辺、ある人は宮殿、ある人は山の上を選びました。しかし、彼はあの遊園地を選びました。

 あなたは自分の希望が叶わないために、不満足でフラストレーションを持って生きはいないでしょうか?私も人のことは言えませんが…。でも神さまはあなたにふさわしい場所を与えておられるのです。その場所で喜んでいるなら、神さまは次のステップへと召してくださるでしょう。

3.私の神

 ピリピ419「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」使徒パウロは、神さまを「私の神は」と言っています。ということは、それだけパウロにとって親しいお方であったということです。パウロはこれまでの人生において、神さまが必要を満たしてくださったという体験があったということです。だから、「私の神は」と自信をもって言えるのだと思います。続いて、「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって」と書かれています。神さまは栄光の富をお持ちなのですが、それを引き出すためのお名前があるということです。それは「キリスト・イエス」です。パウロがここで「イエス・キリスト」と言っていないのは、神であるお方、キリストを強調したいためです。そういう順番はともかく、イエス様を通して、神さまご自身の栄光の富が満たされるということでしょう。他の宗教はともかく、私たちはパウロのように「私の神は」と言えるほど、親しい関係を持つ必要があります。だれかの神さまではなく、「私の神さま」と言えたら幸いです。私は信仰歴がそろそろ40年になります。イエス様を信じる前と、信じた後のことを比較するなら、「格段に違うなー」と確信をもって言うことができます。まず、イエス様を信じていなかった頃は、「感謝する」ということが全くありませんでした。不平不満のかたまりであり、自分がないものばかりに目を留めていました。学歴もない、頭も良くない、お金もない、財産もない、コネもない。私の家の隣の友人は長男だったので、大事にされ、物質的にもとても恵まれていました。私は母に「これ買ってくれ、あれ買ってくれ」と母を困らせました。なぜなら、自分が持っていないものを、隣の友人が持っていたからです。あれから、40年たってどうなったでしょう?友人は農家を継ぐ羽目になりました。彼は田んぼを売ってパチンコに明け暮れていると聞きました。

 しかし、私はクリスチャンになってから全く人生が好転しました。この間、道路を走っていたら、三菱のアルトが走っていました。そういえば、「赤い軽のアルトで家族みんな乗っていたなー」と思い出しました。牧師館も古かったけど、子どもたちは教会堂や広い庭で遊んでいました。昔、幼児園をやっていたので、敷地があったのです。家内が支えてくれて、神学校も行けたし、通信の大学も卒業できました。教会堂が古くて、隙間風が入り、床がいつもざらざらでしていました。会堂掃除のときは、姉妹方が来られました。長老の奥様の梅野さんは、掃除を終わった後、お昼に「力うどん」を出前で取ってくれました。新会堂は備品を含め、14000万円借金なしで建てることができました。あれから25年も経つので、「古い」とか言う人がいますが、私にとっては新会堂です。神の栄光と知恵の傑作品です。ゴスペルで大勢の人が救われ、小リバイバルを体験させていただきました。子どもたちの学費で苦労した時もありましたが、4人も生んだのですから当たり前ですね。「8人兄弟の7番目のヤスが、よく、まあ4人も育てられたなー」と思います。私も曲がりなりにも、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」と言うことができます。

私たちは「もっとお金があれば、満ち足りる心をもつことができるだろう」と言うかもしれません。しかし、満ち足りるべき最初のものは、「心」であります。お金と心は必ずしも正比例しません。残念ながらお金がたくさんあっても、心が満たされていない人が、この世にたくさんいるからです。もちろん、お金もあったら良いでしょうが、その前にもっと重要なものがあります。それは、すべての源なる神さまを持っているかどうかです。パウロは「私の神は、栄光の富を持っておられる」と言いました。そして、キリスト・イエスがその富を引き出すことができます。つまり、心の中に神さまを持つことが何よりも先決だということです。ジョエル・オスティーンのお父さんは牧師でした。ジョエルを含め、五人の子どもたちがおり、お家はそんなに豊かでありませでした。でも、ジョエルは貧しいと感じたことがなかったそうです。家族でビッグ・ヴァケーションに行くことはありませんでしたが、よく空港に連れて行ってくれたそうです。空港にはターミナルAとターミナルBがありました。空港には2つのターミナルを連絡する、無料の乗り物があったそうです。父親と子どもたちは飛行機に乗るわけではなく、ターミナルAとターミナルBを行き来しているだけです。ある人たちは、「この親子はきっと迷子になっているんだろう」と思ったかもしれません。でも、子どもたちはそれに乗るのがとっても楽しかったそうです。お父さんは、お金をかけなくても、楽しく過ごす方法を知っていたのです。

私たちは見方を変える必要があります。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって必要をすべて満たしてくださるに違いない」と期待して生きるならそうなります。「神さまはケチで、何もくれない」と思っていると、側にあるすばらしいものが見えません。私は朝、中川の川べり散歩をします。この春ですが、土手に薄汚れた桜の木がありました。もう、そめい吉野は散っているので、この灰色の木は一体何だろうと近づきました。なんとその木は山桜の木で、花が咲いていました。葉っぱと一緒だったので、灰色に見えたのです。「ああ、山桜だったんだー」と感動しました。4番目の息子が大学1年になり、淵野辺の校舎に行きました。アパートを借りるときにひと悶着ありました。私がひとりで全部決めたので、息子は不満だったようです。「せっかくやってあげたのに」と、ものすごく憤慨しました。でも、あとから思いました。「この間までおしゃぶりをしゃぶっていた子が、あんな大きな口をたたくようになったんだなー」と憤慨から感慨に変わりました。子どもたちと川の字で寝ていた寝室ですが、今は、すぐ隣に妻が寝ています。家内に「ああ、結婚したんだよなー」と言います。「何、言っているのよ、30何年もたって」と言い返されます。そうです。当たり前だと思っていたことが、実は当たり前ではなかったのです。神さまからたくさんのものを受けているのに、いつの間にか「当たり前」になり、無感動になります。古い家に住んでいる人は、屋根があることを感謝しましょう。仕事で忙しい人は、仕事があることを感謝しましょう。失業している人がいっぱいいるからです。足がきかない人は手がきくことを感謝しましょう。手がきかない人は口がきけることを感謝しましょう。口もきけず、耳もきこえず、目も見えなくなったら、永遠のいのちがあることを感謝しましょう。

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2018年10月19日 (金)

預言者と預言 Ⅰコリント14:1-5 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.10.21

 現在のキリスト教会でもっともうとんじられているのが、預言者と預言ではないかと思います。先週はⅠコリント13章から学びましたが、そこには「預言の賜物ならすたれます」と書かれていました。ほとんどの福音派の教会は「聖書が完成したときに、そういう賜物は必要なくなった」と言います。だったら、「知識ならばすたれます」とも書いてあるので、「知識も必要ない」と言ってください。完全なものが現れるとは、世の終わり、キリストが再臨される時のことであります。世の終わりが来るまでは、伝道のため、教会を建て上げるため、将来の危険から免れるため、預言者と預言は大事な神さまからの賜物であります。

1.預言者

 まず、最初に旧約聖書において預言者たちはどのような働きをしていたのか学びたいと思います。モーセは神さまから律法を授かりました。そして、「主はモーセに告げて仰せられた」というフレーズが度々出てきます。モーセは主なる神さまの代弁者であります。人々は聖なる神さまのところに近づくことができませんでした。なぜなら、罪があるからです。その次は、サムエルが登場しますが、やはりイスラエルの民の間に立って、主のことばを告げました。ナタンはダビデに油を注ぎ、王様に任命しました。ダビデが罪を犯したとき、その罪をあばいて悔い改めに導きました。南北朝時代には、エリヤとエリシャが活躍しました。彼らは王室から離れたところで生活していました。時々、王様に会って、国の罪を責めたり、王様に助言を与えたりしました。ユダ王国のときは、イザヤが王様に仕えつつ、国政に対して助言を与えたり、将来の預言をしました。その後、エレミヤやエゼキエルが登場しますが、王様と国の罪を責めました。彼らに主のことばを告げても、全く耳を傾けようとしませんでした。捕囚時代はダニエルが高い地位を与えられ、バビロンとペルシャの王様に仕えました。帰還後はハガイやゼカリヤが神殿再建のために預言しました。他にもヨナとか、ホセヤ、マラキなどの預言者たちがたくさんいます。

 旧約聖書に出てくる預言者の共通している特徴とは何でしょうか?第一は主のことばを取り次ぎ、王や民をさばくということです。エリヤなどは天から火を下して、バアルの預言者たちを切り殺しました。イエス様がエルサレムに行こうとしたのに、サマリヤ人たちが通そうとしませんでした。ルカ954「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」ヤコブとヨハネはエリヤのように、彼らを滅ぼしてしまおうと思ったのです。恐ろしい話です。バプテスマのヨハネも「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか…良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる。」(マタイ3710と言いました。バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者です。口から火を吐くような預言をしました。第二は将来を予言することです。サムエルは「予見者」と呼ばれました。英語ではseerであります。異国にもそういう人たちがいました。占い師もその部類だと思います。神さまは永遠なる御方なので、時間に支配されていません。イザヤに対してもそうですが、現在、近い将来、遠い将来、関係なく連続した出来事として示しました。だれでも、未来のことを知ることができたら、すばらしいのではないでしょうか?だから、偽預言者もそのような予言をするのではないかと思います。第三は神からの啓示や知恵を与えるということです。ヨセフは奴隷からエジプトの宰相になることができました。なぜなら、パロの夢を解き証し、飢饉に備えさせたからです。また、ダニエルは捕囚の身でありましたが、4人の王様に仕えました。王たちは彼を重んじて、彼に政治を任せました。旧約聖書では預言者は、王様と大祭司と並んで、神さまから油を注がれ、特別な働きをしました。

 しかし、イエス様が十字架の贖いを成し遂げてから、預言者の働きは終わりを告げることになりました。そして、新たに預言者が登場することになりますが、旧約の預言者とは全く異なる働きをするようになりました。私たちは、このことを知らないと、預言者と預言を全部捨ててしまいます。旧約時代は聖霊がひとり一人に与えられていませんでした。だから、預言者たちは「主はこう仰せられる」と告げなければなりませんでした。しかし、ペンテコステ以来、聖霊がイエス様を信じるすべての人に与えられています。イエス様が「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ1426とおっしゃいました。問題解決のため、預言者をさがしに遠くへ行かないでください。もし、私のところへ来たなら、「まず聖書と聖霊に聞きなさい」と言うでしょう。もちろん、必要とあらば、預言をして差し上げます。でも、多くの場合は確認としての預言です。主は、もう既にあなたに告げておられるからです。預言を聞いたとき、「ああ、やっぱりそうだったんですね」と確認を与えてくれます。もう1つ重要なことは、イエス・キリストの贖いによって、神の怒りが取り去られたということです。Ⅰヨハネ410「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」とあります。キリストの血によって、だれでも父なる神さまのところに近づけるようになりました。キリストの血によって古い契約に終わりが告げられました。新しい契約とはどんなものでしょう?ヘブル810-11「私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。…おのおのその兄弟に教えて『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、私を知るようになるからである」。アーメン。

 では、新約時代の預言者の役割とはどのようなものなのでしょうか?第一は和解をもたらすということです。旧約時代の預言者は神のさばきを告げることでした。しかし、キリストが十字架で私たちの代わりに罪となりさばかれました。Ⅱコリント518「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」使徒パウロは「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」と言っています。旧約時代のエリヤは天から火を下し、バアルの預言者たちを剣で殺しました。ところが、世の終わり再び来られるエリヤはどうでしょう?マラキ46「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」彼はさばきのためではなく、家族の和解をもたらすために来るのです。エリヤハウスという働きがありますが、この箇所から取られました。新約に生きている私たちが旧約時代の預言者をイメージしていたらどうでしょう?2001年のニューヨークのツインタワー崩壊も神のさばきであると言うでしょう。また、大地震や津波も、エイズも神のさばきであると言うでしょう。確かに世の終わりの終わりには預言書のようなことが起こります。しかし、世の終わりイエス様が再び来られるまでは恵みの時代です。極端な信仰者たちは何でも世の終わりのさばきに解釈しますが、旧約時代の預言者をイメージしているからです。神さまは怒っておられません。「かえって、あなたがたに忍耐深くあわれるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むこと望んでおられるのです」(Ⅱペテロ39。確かに自然の法則や自然現象は存在していますが、何とか災害を免れさせようとしています。使徒11章二書いてありますが、アガボという人が、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言しました。

第二はからだなる教会を建て上げるためです。エペソ4章には、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためである」と書かれています。旧約聖書では、預言者ハガイとゼカリヤが神殿の再建を大いに助けました。新約の預言者は、キリストの体なる教会を建て上げるのです。だけど、預言がどのように聖徒たちを建て上げるのでしょうか?Ⅰコリント143「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します」とあります。ここに「徳を高める」とあります。ギリシャ語で「オイコドメオー」であり、edify建て上げると言う意味です。人の弱さや欠点を見つけるのはだれでもできます。もし、預言者が隠れた罪をみんなの前であばくなら、その人の徳が高められるでしょうか?恥をかき、傷つけられるでしょう。このような預言がしばしば語られるので、「預言は悪いものだ。預言は危険だ」と言われるのです。そうではありません。新約時代の預言者の務めはそうではありません。その人の泥の中に隠れている宝物を探し当ててあげることなのです。イエス様も「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」(マタイ1344と言われました。畑とはあなたのことです。預言者は神さまがその人に抱いておられるdivine destinyを示してあげることができます。あなたの両親や友人、先生は「あなたのことをこう言っているかもしれないけど、神さまはあなたのことをこう思っていますよ。あなたに与えている神さまの賜物と計画はこうですよ」と告げることができます。その人の人生が全く変わるでしょう。

 イエス様も取税人ザアカイに対して「この人もアブラハムの子なのですから」とおっしゃいました。また、病の霊につかれ、腰の曲がった女性を癒した後こうおっしゃいました。「この女はアブラムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです」(ルカ1316)。イエス様は罪の中にいたあなたを見出して、「あなたに与えている神さまの賜物と計画はこうですよ」とおっしゃってくださいます。その次には、他の人にイエス様のことばを伝えることができるのです。

2.預言の賜物

 Ⅰコリント12章に御霊の賜物が列挙されています。その目的は何でしょう?Ⅰコリント127「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」御霊の賜物はキリストのからだの各器官のようなものです。私たちはキリストがかつて地上でなされたことを、御霊の賜物を用いて、同じことを行うように召されているのです。預言の賜物は、その一つであります。Ⅰコリント14章には預言の賜物と異言の賜物が比較されています。パウロは異言よりも、預言を求めなさいとはっきり言っています。Ⅰコリント141「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」パウロがこれだけはっきりと述べているのに、現代の教会はとても消極的であるばかりか、否定的です。先週も申し上げましたが、Ⅰコリント13章に「預言の賜物ならすたれます」と書いてありました。ディスペンセーションナリズムの信仰に立っている人たちは、「聖書が完成したので、預言は不要になった」と言うのです。とんでもありません。世の終わり、キリストが再臨する日まで、賜物としての預言を用いなければなりません。なぜなら、使徒パウロが「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と命じているからです。もし、パウロの言っていることが間違っているなら、私たちは信仰義認も捨てなければなりません。あっちは取って、こっちは捨てるというのはいい加減過ぎます。聖書は書かれた神の啓示であり、これ以上のものはありません。しかし、預言は聖書で言われていないことを補助したり、教会を建て上げるためにはとても重要な賜物です。Ⅰコリント14章にはその目的が具体的に示されています。Ⅰコリント143「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」アーメン。徳を高めるとは、人を建て上げるということです。第一のポイントでは泥の中に隠れている宝物を発見してあげることだと言いました。私たちは小さい時から「ダメだ。それじゃ良くない」と打ち壊されて育ちました。しかし、神さまご自身は人が見るようには見ていません。「勧め」とはギリシャ語でパラカレオーであり、「励ます」と言う意味もあります。私たちは励ましが必要です。「慰め」は「緩和する、軽減する」という意味もあります。もし、預言がこのような働きをするのだったら、だれも否定する人はいないでしょう。私たちは気づかないうちに使っているかもしれません。

 このところで、私たちが最も注意すべきことは、「預言の賜物と預言者の違い」です。私たちは旧約聖書の預言者を連想するので、罪をあばく預言をしたり、あるいは完璧な預言でなければならないと思うでしょう。第一のポイントでも言いましたが、十字架の贖い後は、新しい契約のもとで仕えるべきことを知らなければなりません。クリス・バロトン師がSchool of the Prophetsという本の中で、「預言の賜物と預言者の違い」を詳しく説明しています。第一に、預言の賜物は、聖霊による賜物です。これは賜物によって何かをするということに重点が置かれます。一方、預言者は「キリストご自身が与えた賜物」(エペソ47)です。行いよりも、その人自身の立場に重点が置かれます。第二は、預言の賜物は「すべて信者が預言を求めるように」励まされています。一方、預言者は、私たちが選ぶのではなく、神さまご自身が預言者として選びます。神からの召命と油注ぎがあるということです。第三は、預言する能力が賜物です。一方、預言者は預言者自身が賜物です。つまり、預言者は預言する能力が大きいとか小さいとか関係ありません。能力の大小ではなく、その人自身が神からの賜物なんだということです。第四は、預言の賜物を用いる人は聖徒の一人として分類されます。預言の賜物は人生のためにあります。一方、預言者は五職の一人(エペソ411,12)として任命された人です。預言者という召命そのものが人生なのです。このように考えると、預言の賜物はだれもが用いることのできる聖霊の能力です。一方、預言者はキリストご自身が教会を建て上げるために、特別に召した人であります。「その人に何ができるかというよりも、その人自身が賜物」というのは、すごい考え方だと思います。同じように、牧師も何ができるかというよりも、牧師自身がキリスト様からの賜物と考えられます。10年位前、台湾から10数名が宣教活動のため来られたことがあります。ある姉妹から「牧師は一週間何をしているんですか?伝道していますか?癒しをしていますか?教会を開拓していますか?」と聞かれ、返すことばがありませんでした。「あいつら何のために日本に来たんだ!」とその時は、非常に傷つきました。後からはっきり分かりました。「確かに私はそんなに働かないで高い給与をもらっている。しかし、そうではない。牧師の存在そのものが尊いんだ。私は人からではなく、神さまから任命されてここにいるんだ」と分かりました。エペソ4章には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の五職は「キリストのからだを建て上げるための、キリストの賜物」と書かれています。現代の教会は、使徒と預言者を省いているので、健全に成長できないのです。

 預言とは、いわば神さまからの啓示であります。神さまはいろんな方法で私たちに語っておられます。では、預言の賜物はどのようなかたちで私たちに与えられるのでしょうか?そのヒントがⅠコリント2章にあります。Ⅰコリント29-10「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」神さまは3つの方法で、私たちに語られます。第一に神さまは霊的な耳を通して語りかけます。神様は私たちに言葉を与えます。1つの言葉もありますし、2つ、3つの言葉もあります。神さまは言葉を通してコミュニケートされます。預言と似ていますが、「知識の言葉」や「知恵の言葉」もあります。神さまは、本当にわずかな言葉をもって示してくださいます。その言葉を忠実に口に出すならば、さらに多くの言葉が出てきます。預言がまるで、泡のように溢れ出てきます。しかし、これは、1つか2つの言葉から始まります。第二に神さまは霊的な目を通して、語りかけます。頭に浮かぶ絵(メンタルピクチャー)を通して、私たちに語りかけます。白黒の場合もあるし、テレビのようにカラフルな場合もあります。止まっているような風景の絵かもしれないし、あるいは映画のように動いている絵かもしれません。そのようにして神さまは絵によって、あなたに語りかけます。第三は、神さまは霊的な感覚を通して語りかけられます。ある人はこれを「印象」と呼びます。私たちは人の傍に寄ると、何か感じるときがあります。「怒り」「混乱」「悲しみ」「罪悪感」などです。霊的に敏感な人は、人の中にいるだけで疲れてしまいます。悪いものを知らずに受けるからです。そういう人は、普段は霊のアンテナをひっこめておきましょう。とにかく、預言にはことば、絵、印象の3つがあるということを学びました。

アメリカのチェ・アン師は「預言的なことばは伝道のために非常に力になる」と教えてくださいました。ペンテコステの日、ペテロがヨエル書から説教しました。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」ペンテコステの日から、預言者でなくても、息子や娘が預言し、青年が幻を見、老人が夢を見るようになったのです。神さまがある時はことばを与え、あるときは映像を見せて「この人と語りなさい」と言われます。預言的なことばが伝道の鍵になるということです。まさしくそれはマタイ16章に記されている「御国の鍵」です。私たちは預言的な祈りによって、縛ったり、解いたりすることができるのです。ケニアにサイモンという伝道者がいました。ジャングルを歩いていると、突然、「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と語る神さまの声を聞きました。周りにだれもいなかったので、空耳かなと思いました。神さまが「もう一度語りなさい」と言われました。目の前にサルがいました。「これはテストかな?」と思いましたが、「神さまはあなたを愛しておられます。イエス様はあなたの罪のため十字架にかかられ、三日目によみがえられました」と福音を語りました。すると、神さまは「招きをしなさい」と言われました。「え?サルを招くのですか?」彼はビリー・グラハムがやるように、「イエス様を信じたなら、前に出て人生を神さまに明け渡しなさい」と言いました。すると、ジャングルの木陰から、15人の女性たちが出て来ました。驚いたことに、彼女らは招きに応じて出てきたのです。ある時、チェ・アン師が洗車場に車を洗いに行きました。そこには待合室があり、そこに首にコルセットをした女性がいました。神さまは「彼女は首の裏に病気を持っているので祈ってあげなさい」と言われました。彼女の隣に座ると、彼女の方から声をかけてきました。先生が、「あなたの首どうしたのですか」と聞きました。「5年前、家で仕事をしていたとき、椅子から仰向けに倒れてしまいました。手術を受けましたが、骨の病気もあり首が動きません。右腕も麻痺しています」と答えました。彼女から同意を受けたあと、頭の上に手を置いて祈りました。彼女に「首を動かしてみてください」と言いました。「首を動かしても痛くない。腕も動く」と答えました。彼女はその後イエス様を信じて受け入れました。これは、預言的なことば、預言的な祈りを用いる伝道です。

キリストは、預言者を召しておられます。この世にキリストの和解をもたらし、教会を建て上げるために必要です。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めましょう。預言は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるため、そして伝道するためにとても重要な賜物だからです。

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2018年10月12日 (金)

賜物の注意点 Ⅰコリント13:1-3 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.10.24

 Ⅰコリント13章は「愛の讃歌」と呼ばれ、結婚式でもよく引用されます。しかし、Ⅰコリント12章と14章は御霊の賜物について書かれています。その中間の13章に「愛」について書かれています。でも、実際の聖書はこのように章ごとに分かれていません。後の人が便利なように章と節を付けました。だから、本来は12章から14章まで、区切りなどなく連続的に書かれています。保守的な教会は13章の「愛」だけを語りますが、本来は御霊の賜物について語るべきなのです。「でも、愛を忘れていけないよ」と、注意も一緒に与えます。きょうは福音派の保守的な教会が割愛しやすい箇所から語りたいと思います。

1.愛を土台にする

 コリントの教会は聖霊の賜物にあふれていました。聖霊の賜物あるいは「御霊の賜物」はキリストのからだなる教会の手足にたとえられています。神さまが「これを用いて、奉仕しなさい」と願って、クリスチャン全員に与えている霊的な賜物です。ところが、コリントの教会は「私にはこういう賜物がある」と互いに誇っていました。彼らは異言を話すことを最も高い位置に置いていたようです。預言や信仰、その他の賜物も豊かにありました。しかし、コリントの教会には世の多くの罪も入っており、聖徒らしい生活をしていませんでした。それで、パウロは「御霊の賜物も大事だけれど、愛がもっと大事だよ」ということをⅠコリント13章で語っています。131節から3節まで、霊的賜物をあげながら注意点をいくつかあげています。

 第一は異言です。Ⅰコリント131「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」異言というのは、通常私たちが使っている言語ではありません。これは、神さまと直接話すことのできる未知なることばです。初代教会では人々が聖霊を受けると異言を話していました。しかし、話す本人はその意味が分からず、異言を解き明かしてくれる人がいて、「ああ、こういう意味なのか?」と分かりました。でも、ほとんどは解き明かす必要がない、神さまへの賛美みたいなものです。「御使いの異言」というものがあるかどうか分かりません。パウロが「たとい」と言っていますので、少しオーバーな表現なのかもしれません。とにかく、コリントの人たちは異言の賜物に最も重要性を置きました。そのことに対して、パウロはⅠコリント14章で「異言よりも預言を求めなさい」と勧めています。現在でも、異言を何よりも強調する教団がありますが、こういうところから学ぶべきだろうと思います。パウロは「人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」と言っています。

 第二は預言の賜物です。Ⅰコリント132最初「また、たとい私が預言の賜物を持っており」と書いてあります。日本語の聖書は予知の「予言」ではなく、「預言」と書かれています。この「預」は「預金」の「預」と同じで、預かるという意味から来ています。簡単に言うと、預言は「神さまから預かったことば」と言うことです。全知なる神さまが与えるのですから、それが未来のことであったり、隠されたことが露わにされたりするのです。これは旧約聖書の預言者たちの預言とは異なります。これは聖霊の賜物としての預言です。ある人は、「旧約聖書の預言者は100%神さまからのものであるが、賜物としての預言は2080%の正確率であろう」と言っています。

 第三は知識です。Ⅰコリント132半ば「またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ」とあります。知識の賜物とは、直観のように一瞬に与えられる神からの情報です。私たちはあれこれ推測し、いろいろ調べた後、「これはこうだ」と結論を出します。ところが、知識の賜物は、全知なる神さまから一瞬に与えられる情報です。その場にいなくても、千里眼的に見えたりもします。旧約聖書ではエリシャが遠くから、ゲハジがナアマン将軍から贈り物を受け取り、それを隠しているのを見て知っていました。イエス様もサマリヤの女性が5人と離婚し、6人目と同棲していることを言い当てました。彼女はおどろいてイエス様をメシヤであると信じました。

 第四は信仰です。Ⅰコリント132後半「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても」とあります。福音書でイエス様は「山に向かって、『動いて、海には入れ』と、自分の言ったとおりになると信じるならそのとおりになる」と言われました。「山を動かすほどの完全な信仰」が与えられたらなんとすばらしいでしょう。でも、この信仰を用いて富士山を平地にするとみんなが困りますので、やめてください。でも、日本のすべての高い山は、信仰の対象になっていますので、1個くらい見せしめのため、海に移しても良いかもしれません。私たちクリスチャンはある程度の信仰を持っていますが、信仰の賜物は、常識では考えられないことを実現できる信仰の力です。

 第五は分け与える賜物です。Ⅰコリント133前半「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え」とあります。教会員の中には、金銭や物をよく捧げる方がいらっしゃいます。実業家たちの中にこの賜物のある人が多くいますが、彼らはお金もうけも上手です。彼らが気前良くささげると神さまが祝福して、ささげた以上にお金を増やしてくださいます。でも、ささげないでケチになると、祝福もストップしてしまいます。つまり、神さまがその人を祝福してささげるように、用いておられるということです。牧師としてはそういう人が教会に大勢いたほうが助かります。でも、お金持ちというのは案外ケチで、持っていない人の方がよく捧げるという皮肉な法則があるようです。

 第六は殉教の賜物です。Ⅰコリント133後半「また私のからだを焼かれるために渡しても」とあります。「果たして、殉教が御霊の賜物なのだろうか?」という疑問も起こりうるでしょう。弟子のヤコブは殉教しましたが、ペテロは捕えられても御使いによって助け出されました。私たちにはだれが殉教し、だれが助け出されるのか分かりません。でも、ペテロも最後にはローマで、逆さ十字架で殉教したと言われています。聖書には「独身の賜物」というのもあるようですが、殉教と同じで「そういう賜物は結構です」と断りたいでしょう?私も同じです。御霊の賜物は他にもたくさんありますが、6つだけ上げてみました。

 パウロがここで言わんとしていることは、「どんなに大いなる賜物があったとしても、愛がなければ無意味である」ということです。ここで言われている「愛」は言い換えると動機であります。その賜物を動かしている心構えと言っても良いでしょう。コリントの人たちは、霊的賜物を何のために使っていたのでしょうか?ある人は自分を誇るために、またある人は何かの利益を生むために、またある人は自分のセクト(仲間)を増やすためでした。しかし、霊的賜物は魔法とか超能力ではありません。これは、聖霊がその人に与えてくださった超自然的な能力です。私たちは他に、生まれつきの才能や自分で努力して得た能力があります。神さまはこのような一般恩寵を誰にでも与えています。ある人たちはそれを磨き上げて、その道のエキスパートになります。スポーツや芸術の世界でもそうですが、そういう場合は「人から賞賛を受けてなんぼ」というところがあります。冬季オリンピックで金メダルを取った、羽生選手のパレードが仙台でありました。10万人以上の人たちが集まり、拍手と歓声を上げたそうです。彼らはそのようにして個人の栄光をたたえているのです。しかし、私たちクリスチャンの場合、霊的賜物は自分が努力して得たものではありません。向こうからみこころのままに、与えられたものです。だから、自分を誇ることはできません。しかも、イエス様は「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ107,8と言われました。

 御霊の賜物は誰にでも与えられます。きのうきょう信仰を持った人にも与えられます。使徒10章に書いてありますが、ペテロのもとにコルネリオ一家が集まりました。彼らはペテロの話を聞いていましたが、その途中、聖霊の賜物が注がれました。まだ、洗礼も受けていないのに、です。しかし、保守的な教会は、「聖書をちゃんと学び、聖い生活をし、人格的に整えられるのが先だ」と言います。しかし、聖霊の賜物とその人の信仰歴や人格性とは全く関係がありません。聖書に「御霊の実」というクリスチャンとしての品性があります。私たちは全員、キリストにとどまり「御霊の実」を結ぶ責任があります。しかし、御霊の賜物に関しては、自分に与えられた賜物だけに責任があります。また、「御霊の実」がそんなになくても、御霊の賜物が与えられることもあります。人格的に欠けのある人が、御霊の賜物を使うといろいろ問題が起こります。これが、コリント教会の実情でありました。しかし、もう一度言いますが、御霊の賜物はその人の信仰歴や人格的なきよさとは全く関係ありません。神さまが一方的に与えてくださるものです。だから、その人は、神さまの恵みとしていただいて、ちゃんと管理して、神さまの栄光のために用いなければなりません。ローマ1129「神の賜物と召命は変わることがありません」と書いてあります。神さまはあなたを信用して、御霊の賜物をあなたに与えて下さいました。私たちはそれを隠さないで、用いる必要があります。イエス様はマタイ25章でタラントのたとえを語られました。私たちは1タラントを地面にかくした悪いなまけ者のしもべになってはいけません。むしろ、5タラントあるいは2タラント預けられたしもべのように、忠実に用いるべきです。マタイ2529「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」イエス様から「よくやった。良い忠実なしもべ」と言われますように。

2.限界性を知る

 Ⅰコリント138-13「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」「信仰、希望、愛」は当教会の週報の副題みたいになっています。クリスチャンであるなら「信仰、希望、愛」をだれも否定する人はいないでしょう。しかし、物議をかもしやすいのは、霊的賜物です。8節から再び、御霊の賜物がいくつかあげられており、それらの限界性も示されています。前半のメッセージでは「賜物を用いる時は愛が必要ですよ」という注意でした。後半は、「賜物は完全ではなく、限界がありますよ」とパウロが言っています。なぜなら、コリントの教会は、賜物がまるで完全であるかのように考えていたからです。誰でも、神からの能力が与えられたら、スーパーマンになったような気がするのではないでしょうか?しかし、そうではありません。主の御名を辱めないために、賜物の限界を知って、これらを用いる必要があります。

 8節には「愛は絶えることがない」と書かれています。それに比べ、預言の賜物ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。問題は、「いつそのことが起こるか?」ということです。10節には「完全なものが現れたれら、不完全なものはすたれます」と書かれています。福音派の保守的な教会は、聖書が完成したら、このような霊的な賜物が不要になると考えています。かなり前に、いのちのことば社から「チェーン式バイブル」が発売されました。その聖書に、このような解説が載せられています。「キリストが再臨していない、現在の不完全な時代には、成長の段階がある。キリスト教会の発足時は、まだ未成熟の時代であり、教会の成長と確証のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような必要は消えた。」と書かれています。もし、私が大阪の人であったら「あほか?」と言っているでしょう。一体、この考えはどこから来たのでしょう?19世紀イギリスで、ディスペンセーション主義の神学が起こり、この考えがアメリカに広まりました。ディスペンセーション主義とは、時代をいくつかに区分する考えであり、福音派の多くが再臨信仰と一緒に受け入れました。もちろん良いところもあります。しかし、スコフィールドという人が聖書を作り、時代区分の考え方をより強化しました。つまり、聖書が完成したら、預言や奇跡が必要ない、「やんでしまった」と言うのです。決してそうではなく、イエス・キリストが再臨して、御国が完成したら、預言や奇跡が必要なくなるのです。

パウロは12節で「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言っています。その時というのは、御国が完成した時であり、そのとき私たちはイエス様と顔と顔とを合わせて見ることになります。でも、今は一部分しか知りません。今というのは、御国が完成していない、現代のことであります。だからこそ、私たちは信仰が必要であり、聖霊の賜物が必要なのです。確かに私たちには完成された66巻の聖書があります。これ以上の文書啓示は与えられていません。私たちはこの聖書に付け加えたり、減らしたりはできません。「ただし」であります。この「だたし」が重要です。主は今も生きておられ、私たちに御霊によって語っておられます。もちろん、聖書のみことばを通して語られます。しかし、幻、夢、そして預言によっても今も語っておられます。使徒2章に書いてありますが、ペンテコステの日、ペテロがヨエル書を引用してこのように語りました。使徒217,18「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』問題は「終わりの日」とはいつなのか?です。「終わりの日」は英語の聖書では、in the last daysと複数形になっています。簡単に言うと、ペンテコステの日から「終わりの日」がはじまったということです。そして、究極の終わりの日、in the last dayはイエス様が地上に戻ってこられる日です。つまり、キリストが再臨される日までの時代が、「終わりの日」なのです。だから、キリストが再臨する日まで、預言、幻、夢は存在し続けるということです。何のためでしょう?それは、神さまは聖書以外のことを語りたいからです。私たち人間が「聖書がもう完成したのですから、もうそれ以上のことを語らないで下さい。大丈夫です」というのは大変失礼であり、傲慢な態度であると言えます。

 ただし、私たちはコリントの教会のような同じ過ちや、賜物至上主義のような極端に気を付ける必要があるということです。今から、30年くらい前、「預言」のブームがありました。ある人たちが「神はこう言われます」と預言しました。それを受け取る人たちは、「神さまがそう言われるなら絶対間違いはないだろう」と思いました。ある人たちは「聖書や説教よりも、預言者が語る預言に価値がある」と言い出しました。そして、セミナーを受けた人たちが、教会に帰って「うちの牧師は預言に無知だし、霊的賜物もない」とさばくようになりました。それを聞いた牧師たちは傷つき、「預言とか霊的な賜物は教会を分裂させる危険なものだ」と、そういう人たちを教会から追放しました。大川牧師も今から40年前、「異言を話す」ということで某教団から糾弾され、結局は単立教会になりました。私は大川牧師が霊的な体験をされた直後に教会に来たので、ぜんぜん違和感はありませんでした。はじめから、聖霊が働かれ、奇跡や癒しは今も存在していると信じていました。しかし、私が最初に神学校に入ったとき、「私は異質な存在なんだ」ということが分かりました。結局、私は他の神学校で学び直すことになりました。でも、その神学校も聖霊の働きに対しては慎重でした。その当時、主の十字架クリスチャンセンターから10名以上の神学生が入ってきて、混乱を招きました。彼らは、数年後、自分たちの学校を作りました。命のことば社から「聖霊の賜物を批判する」本もいくつか出版され、教会は福音派と聖霊派に分かれてしまいました。「聖霊派」なんていう名称は本来ありません。でも、私がこういうことを言うと、「あなたはカリスマですね。大川牧師の弟子なんだからカリスマですね」と言われます。

 さて、本題に戻ります。これで終わるとうっぷん晴らし的なメッセージになってしまうからです。御霊の賜物は全く、消えてなくなったというものでもありません。今も、御霊の賜物は存在していますが、「完全ではありませんよ」という注意書きが付いているということです。知識のたまものであっても、一部分しか知りえないということです。また、預言の賜物であっても、将来のことや隠されていることが全部分かるわけではなく、部分的であるということです。異言もある程度の預言のような働きをしますが、たとえ解き明かしがあったとしても、不完全です。病の癒しの賜物があっても、癒すことのできない病気もあるということです。もちろん、イエス様がなされたことが標準でありますから、そこまで近づく必要はあります。ですから、中途半端なところで妥協してはいけません。キリストの再臨が来るまで、与えられた霊的賜物を最大限に用いなければなりません。もし、私たちが自分の使命や生来の賜物だけで、神さまに奉仕をするのだったら燃え尽きてしまうでしょう。それに、神さまの働きも限られます。イエス様は、ご自身の働きを継続するように、御霊の賜物をお与えになったからです。いわば、御霊の賜物は、キリストのからだの各器官のような存在であります。私たちに手や足、耳や目、口や頭があるように、それぞれ違った霊的賜物があるということです。一人で全部ある人はいません、おのおのが連結し、助け合って地上におられたイエス様のような働きができるのです。イエス様が「戻ってくるまでこのタラントを使いなさい」と預けたものが、霊的賜物なのです。初代教会の頃はなぜあんなに力があったのでしょうか?現代の教会は神学的にはすぐれているかもしれませんが、力がありません。使徒パウロはⅠコリント2章で「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」と言いました。そうです。私たちは御霊と御力の現れも必要なのです。神さまの力を私たちの神学や経験に押し下げてはいけません。現代、そういうことがないとしたら、私たちがチャレンジしていない、怠けているということなのです。「ないならない」で、へりくだって「聖霊様、力を与えてください。あなたの賜物を与えてみわざを行なわせてください」と祈り求めるべきなのです。パウロはテモテに「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」(Ⅱテモテ16と言いました。この世にいると、神の賜物がストーブの火のように弱ってくるということでしょう。だから、時々、かき混ぜていただいて燃え立たせる必要があります。愛を土台としながら、それぞれ与えられた御霊の賜物を用いて、イエス様の働きを継続拡大していきましょう。

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2018年10月 5日 (金)

高潔な人 ダニエル1:8-17 2018.10.7 亀有教会牧師鈴木靖尋

 きょうは旧約聖書のダニエルという人物を取り上げて、「高潔」ということについて学びたいと思います。最近、「高潔」ということばが聞かれるようになりました。高血圧ではなく、高潔です。英語ではintegrityです。Integrityは、正直、高潔、誠実、完全という意味があります。箴言10章から12章を見ますと、「正しい者」とか、「潔白な者」ということばが何度も出てきます。まさしく、きょうのテーマの「高潔な人」のことです。箴言115「潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。」今日は3つのポイントで「高潔」とは何かについて学びたいと思います。

1.妥協をしないこと

 ダニエルは10代のとき、仲間と一緒にバビロンに捕らわれました。ネブカデネザル王はイスラエル人の中から、王の宮廷で仕えることのできる優秀な者たちを選ぼうとしました。三年間、彼らを養育した後、王に仕えるようにさせました。彼らとは、ユダ部族のダニエル他、三人の若者でした。ダニエル18「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」おそらく、王様から配給される食べ物やぶどう酒は偶像にささげられたものだったのでしょう。ダニエルは身を汚さないように「私たちに野菜だけを食べさせてくれ」と願いました。肉はだめで、菜食主義が良いと言うことではありません。彼らを養育する宦官は、最初はしぶりましたが、10日後に、彼らの様子を見て驚きました。王様が食べるごちそうを食べている少年たちと見比べて、ダニエルたちの顔色の方がずっと良かったからです。そこで、世話役はこの四人の少年が食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒を取りやめて、彼らに野菜を与えることにしました。神さまは4人の若者を祝福しました。ダニエル117「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」

 ダニエルたちから学ぶことは、妥協をしないということです。レビ記には食べてはならないものが列挙されています。陸地を這うものやうろこのない魚は食べてはならないと書いてあります。また、血がしたたる肉も食べてはらならないと書いてあります。一番の問題は、偶像にささげた肉とぶどう酒でした。おそらく、偶像にささげて、降りてきたものが配給されたのだと思います。ダニエルたちは、それらを食べることは、身を汚すことなのだと信じて、一切、口に入れませんでした。本来、彼らは捕虜なのですから、生き延びることが最優先でしょう。世の中では「死活問題」と言いますが、食べるためには何でもするところがあります。しかし、ダニエルたちは妥協しませんでした。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。「この世と調子を合わせてはいけません」とありますが、原文は「…と同じ形になる」「…に順応する」という意味ですJB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。つまり、この世の価値観に妥協するなということです。妥協は英語で、compromiseと言いまが、私たちの周りにはそういう誘惑がたくさんあります。この世で一番多い妥協は、ごまかしであります。多少、ずるしても良いという考えです。ジョエル・オスティーンの本にThey cut corners「彼らは手を抜く」という文章がありました。「ある人たちは、会社に来るなり、コーヒーを飲みます。ボスのいない間インタネットを見て、だらだら時を過ごします。会社の電話で私用のために遠距離にかけます。510分前には帰る支度をしています。こういう人が、『どうして神さまは私を昇給させて下さらないのですか』と言っても無理です。Integrity高潔な人は、会社に15分前から来て、積極的に仕事をこなします。そして、定刻よりも15分遅く帰ります。車を半年も洗わない人がいます。家の芝生はぼうぼうとして刈ったことがありません。そういう人は、この教会に来ないで、隣のファースト・バプテスト教会に行ってください。」放映番組ではみんなが爆笑していました。ジョエル・オスティーン自身はとてもきちょうめんな人です。すらすら話せるようにしっかり練習します。スーパーに行く時も、私のようにだらしない格好で行きません。なぜなら、礼拝がテレビで放映されているので、いつだれが見ているか分からないからです。

 聖書に「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ1610と書いてあります。これは、この世のことに忠実な人は、やがて天国で大きなことを任されるという意味です。つまり、私たちはこの世で行っていることは、神さまからのテストだということです。神さまは「この人は小さい事にも忠実だから、今度は大きなことを任せよう」とお考えになっています。私たちは「どうして私だけがこんな仕事をしなきゃならないんだ。不公平だ」と不満をもらしてしまいます。しかし、隠れた所で神さまがご覧になっていたならどうでしょう?私たちがしていることは人々から報いられるためではありません。たとい目立たなくても、神さまの前で行なっているという信仰が必要です。いつも、ごまかして、妥協している人に対して、神さまは報いてくださらないでしょう。Integrity高潔な人は、人が見ていようと見ていまいと、最善を尽くす人であります。使徒の働きにドルカスという女性が出てきます。彼女は多くの良いわざと施しをしていた弟子でした。ところが、彼女は病気になって死んで、人々がその遺体を洗って、屋上の間に置きました。ちょうど、ペテロがその近くに来ていたので、人々がペテロを屋上の間に案内しました。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せました。ペテロがドルカスに「起きなさい」と命じたら、彼女は目を開けました。神さまはドルカスがしたことを憶えておられたのです。だから、ペテロを用いてドルカスをよみがえらせてくださったのです。

 ある人たちは「みんなずるいことをしているじゃないか、私だって少しくらいしても良いだろう」と言い訳をするかもしれません。しかし、あなたはみんなと同じではありません。なぜなら、Integrity高潔な人は人々の前ではなく、聖なる神さまの御目のもとで生きているからです。

2.金銭を欲しがらないこと

 ダニエル517「そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。」ダニエルは、金銭や権力をほしがりませんでした。今回、王様の夢を解き明かすのが2回目です。かつて、ネブカデネザル王の夢を解き明かしてあげたことがあります。そのとき「王はダニエルを高い位につけ、彼に多くのすばらしい贈り物を与えて、彼にバビロン全州を治めさせ、またバビロンのすべての知者たちをつかさどる長官としました。」(ダニエル248)。ダニエルはもう捕虜ではありません。王の宮廷にとどまって、バビロン全州を治める長官になっていました。そうなると、いろんな誘惑もやってくるのではないでしょうか?ネブカデネザルの死後、息子のベルシャツァルが王になりました。彼は千人の貴婦人のために大宴会を催しました。彼はぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た、金、銀の器を持って来るように命じました。王と妻とそばめたちが、その器で飲み、自分たちの神々を賛美しました。すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁に、何か文字を書きました。王の顔色が変わり、それにおびえて、がたがた震えました。王は、大声で、呪文師や星占い、知者たちを連れてこさせ、「この文字を読み、解き明しをする者にはだれでもほうびをつかわす」と言いました。しかし、だれもいません。そのとき、ダニエルが王の前に連れてこられました。ダニエルはほうびをやると言った王様に何と答えたでしょう?ダニエル517「そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。『あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。』」ダニエルはむやみに、金銭や権力をほしがりませんでした。ただ、純粋に王のために幻を解きあかしてあげたのです。

欲しがるは英語で、covetousです。使徒パウロはこのように言っています。Ⅰテモテ610「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」ある人が「それにつけても金の欲しさよ」という下の句は、どの俳句や川柳にもつながると教えてくれました。「古池や、かわず飛び込む、水の音。それにつけても金の欲しさよ」「鳴かずんば、鳴くまで待とうほととぎす。それにつけても金の欲しさよ」なんだか、笑点みたいになっていますが、お金は「マモン」と呼ばれ、聖書では偽りの神として擬人化されています。歴代の韓国の大統領が逮捕されていますが、その容疑は、背任、収賄(しゅうわい)、職権の乱用などです。やはり権力が与えられると、欲に勝てなくなるのではないでしょうか?何も持っていない人には誘惑はあまりやってきません。だから、一般の人たちは「権力者は悪いことをする」と非難します。でも、いざ自分が高い位についたなら、何をするか分かりません。最初の頃は清廉潔白であっても、数年たつと、いろんな人たちが群がってきます。利権という誘惑が次から次へとやってきます。数年前からテレビのニュースを賑わしていますが、「〇〇問題」は、みなそのたぐいであります。やはり、自分がそういう権力を持っているなら、「ちょっとぐらい良いだろう」とやってしまうのではないでしょうか?ですか、その人が誘惑に強いかどうかは、実際、権力と力を持ったときでないと分かりません。その点、ダニエルは王様の次に偉い人でした。バビロンには愚かな王様ばかりいましたが、ダニエルはその国の繁栄のために仕えたのです。

 パウロは「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」と警告しています。キリスト教会では「お金は悪いもの、汚れたもの」とまで言います。それだったらなぜ、人々に献金をささげるように求めるのでしょうか?汚れたお金を集めて、教会運営や宣教活動をするというのは矛盾しています。ところで献金のときに「きよめてお用い下さい」とお祈りする方がおられます。あの祈りの本当の意味は「聖別して」という意味であり、お金が汚れているという意味からではありません。「特別にこのためにお用い下さい」という意味からくるものです。でも、私は未信者の方が誤解をするといけないので私はそのように祈りません。山崎長老さんがおられた頃、よくこういうことをおっしゃっていました。「お金はいのちの次に大切なもんじゃ。もし、信仰がなければ1円たりとも献金できないじゃろう」。山崎長老さんは若い時、満州鉄道で助役の次みたいに出世した人でした。しかし、敗戦後、日本に引き揚げ、無一文から商売をはじめました。だから、お金のたいせつさ、ありがたさを良くご存じでした。なぜ、山崎長老さんが教会に来るようになったかと言うと、初代の山下牧師が保証人になってくれたからだそうです。山崎長老さんはそのご恩を忘れず、商売で儲けたお金を教会のためにささげました。いろいろあっても忠実にこの教会に通い続けました。この会堂も山崎長老さんの信仰とささげものが支えになりました。山下牧師が病気で召されるまでひたすら看病しました。召される直前、「アイスクリームを食べたい」と言うので、買って来て食べさせてあげたそうです。山崎長老さんがダニエルのように高潔な人であったかどうかは脇に置いて、イエス様を純粋に愛し、天国貯金を励んだ人には間違いありません。私は信仰一本でやってきましたが、山崎長老さんからお金の大切さについて教わりました。

 父なる神さまは、金銭と権力を正しく用いるように願っておられます。もし、その人に金銭と権力が与えられたなら、それを当たり前だと思わないで、神さまと人々のために用いるべきであります。なぜなら、神さまはあなたを通して、人々に幸いで豊かな人生を与えたいと願っておられるからです。もし、それを自分のためだけに使うなら、祝福どころか「いばらととげ」になってしまうでしょう。ダニエルは捕虜でありましたが、バビロンの太守になり、王国をささえました。でも、いつも謙遜で、いつも神を恐れていました。私たちもバビロンに似たような国の中に生きています。「お金さえあれば何でもできる」と誘惑してくるでしょう。私たちはお金を主人にしてはいけません。最後に、ベンジャミン・フランクリンの名言をご紹介します。「お金は良い召使いだが、悪い主人でもある。」もし、私たちがお金を主人にしたなら悲惨なことになります。でも、お金を召使にしたらならば良く働いてくれます。

3.一貫性があること

 一貫性は英語で、consistencyと言います。裏表がない人は信用されるでしょう。また、言うことと行うことが一致しているなら、なお結構です。王権はメディア人のダリヨスに代わりました。王はバビロン全国に120の太守を任命して国を治めることにしました。そして、彼らの上に3人の大臣を起きましたが、ダニエルはその一人でした。しかし、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわめてすぐれていました。なぜなら、彼の内にすぐれた霊が宿っていたからです。そこで、王はダニエルを任命して全国を治めさせようと思いました。このことに面白くなかったのが、他の大臣や太守たちです。何とか彼を訴える口実を見つけようと努めましたが、彼には何の怠惰も欠点も見つけることができませんでした。そこで、彼らが申し合わせ、1つの法令を王様に制定させました。なんと、「今から30日間、王様以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」という禁令が制定されました。ダニエルはそのことを知って家に帰りました。だが、いつものように、エルサレムに向かって、日に三度、ひざまずいて、神の前に祈り、感謝していました。このことを知った他の大臣や太守が、王様の前に進み出て、ダニエルのことを訴えました。王様は署名した手前、否定することができませんでした。無残にもダニエルは捕えられ、獅子の穴に投げ込まれました。王様は気がきではありません。一晩中断食して、夜明け前に、獅子の穴へ急いで出かけました。ダニエルは無事生きていました。何と、神の御使いが獅子の口をふさいでくれたからです。ダニエルに罪がないことを知った王様は、彼を訴えた者たち全員を獅子の穴に投げ込ませました。彼らはあっという間に、獅子に噛み砕かれました。日曜学校で語られる有名なストーリです。

 このところにダニエルが「どうしようか?やめようか?」と躊躇している様子はありません。屋上の部屋の窓が開いていたにも関わらず、いつものように、日に三度、祈ったのであります。おそらく、敵たちはダニエルが祈るのを目撃することができたのでしょう。にもかかわらず、ダニエルは神に祈ることをやめませんでした。歴史上、このような迫害はひんぱんにありました。みんなダニエルの物語を聖書から知っていました。ローマのコロシアムで同じような目にあったクリスチャンがたくさんいたと思われます。彼らはたとえ、獅子に噛み砕かれても、信仰をすてなかったのであります。ダニエルもたとえ死ぬようなことがあっても構わないと思っていたのでしょう。私たちがダニエルから学ぶべき事は、一貫性です。信仰ひとすじです。ダニエルが暮らしていたバビロンは多神教の世界でした。同じように、日本も多神教の国です。特に日本では死んだときは仏教で葬儀をあげます。手を合わせて御焼香しないなら、罰当たりと言われるかもしれません。カトリック教会では「郷に入らば郷に従え」式ですが、プロテスタントの福音派は「偶像礼拝になるから御焼香は避けるように」と指導します。私は焼香をしませんが、その分、まことの神さまに長く祈ります。喧嘩をふっかけるようなことはしませんが、私たちが礼拝する神さまはただお一人です。ヤコブ書には「二心の者は安定がない」と書かれています。こういう日本で、私たちが「まことの神しか拝まない」ということを人々が知るならどうでしょう。ある人たちは、「変わり者だなー」と卑下するでしょう。しかし、ある人たちは「ああ、命をかけるようなものがこの世にあるんだ」と逆に恐れを抱くでしょう。

 また、一貫性があるとは、「裏表がない」「言行一致」ということも当てはまると思います。人の顔色を見て、言っていることがコロコロ変わるなら、信用されなくなります。「係り長のときはああいっていたけど、課長に出世したら全く反対のことを言っている」ということもありえます。「背に腹は代えられない」と言いますが、これは真理を曲げている人の逃げ口上です。詩篇15篇は本日の「高潔な人とはどういう人なのか」ということを言い当てている箇所です。詩篇15全部を引用させていただきます。「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。」これを読みながら「正直、合格点とれるだろうか?」と思いました。なぜなら、私は生まれつきの性格や習慣、言葉使い、考え方がかなり残っているからです。でも、私たちの内には100%高潔であられるイエス様が住んでおられます。パウロは「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ89bと言いました。逆に言うなら、クリスチャンはもれなく、キリストの御霊を内に持っているということです。だから、希望があります。私たちの内にイエス様が住んでおられるのですから、イエス様の高潔がおのずと現れてくるに違いありません。

 昔、ベンハーという映画を見たことがあります。ベンハーが鎖につながれて、荒野を行進しているシーンがありました。彼は喉が渇いて死にそうでした。ちょうど、道ばたにイエス様がおられ、ひしゃくでベンハーに水を差し出しました。それを見ていた、ローマ兵が「何をするんだ」とばかり、そのひしゃくを払いのけました。ローマ兵がイエス様を見た瞬間、彼の顔がこわばりました。「自分は何てことをしているんだ」と、自らを恥じているようでした。その隙に、ベンハーは桶から水をがぶがぶ飲むことができました。しかし、当人のベンハーはその方がイエス様だとは知りませんでした。ベンハーが二度目にイエス様を見たのは、遠くの丘の上で人々に話している時でした。でも、彼はイエス様のところへ近づいて話を聞こうとも思いませんでした。三度目はイエス様が十字架で死ぬ寸前でした。あたりが暗くなり、雨が降って、イエス様の血が流れてきました。その血が死の谷にいる母と妹のところまで流れてきたとき、二人のらい病は癒されました。その時に、あの方がイエス様だと分かったのです。そして、それまでの怒りと復讐心が消え去りました。なぜなら、ベンハーがイエス様の高潔さに触れたからです。私たちもイエス様の高潔さを運ぶ器になれたら何とすばらしいことだろうと思います。

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