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2018年9月30日 (日)

~ミカ書に見る希望~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ミカ書7章5-10

7:5

友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。

7:6

息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。

7:7

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

7:8

私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。

7:9

私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

7:10

それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。

 

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昨年から12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」と続きましたので、今回は6番目の小預言書にあたる「ミカ書」の一書説教です。

 

ミカ書は、印象が薄い方もいらっしゃるかもしれませんが、イザヤ書と共通する内容をもった預言書です。

66章からなる実に壮大なイザヤ書の内容を、7章にコンパクトにまとめたような預言書とも言えます。その預言の中には、ミカ書にしか書かれていないイエス様の降誕に関係する記述がありますし、終末に向かうこの世界において、私たちがどのように生きるべきかという神様の御言葉を伝えています。

 

NHKで最近人気が出てきた、「チコちゃんに叱られる!」というクイズバラエティー番組をご存知でしょうか?

5歳児のチコちゃん(体は着ぐるみ、顔はCG、声は木村祐一)が、ゲストに「ポン酢のポンって何?」などの、日頃あまり考えたことがない目線からの素朴な疑問を、クイズにして投げかけます。

 

そのクイズにゲストがうまく答えられないと、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」っと、チコちゃんに叱られてしまうわけです。(チコちゃんは5歳児だけど、とても物知りで何でも知っています。・・・っという設定です。)

 

ある時、「大人になるとあっという間に1年が過ぎるのはなぜ?」っと、チコちゃんがクイズを出しました。

確かに私も、子どもの頃は1年が長かったけれど、年を重ねるごとに月日の流れをあっという間に感じていました。時々、30年前のことを20年前とか言ってしまうことがありますが、みなさんはいかがですか?

 

このクイズの答えは、「人生にトキメキがなくなったから。」でした。

専門家の解説によると、「時間の感じ方には心がどの位動いているかが重要」らしく、言い変えると、「トキメキをどのくらい感じるかで変わる」そうです。

 

例えば食事をするときにも、子どものころはいろいろな感情が生まれてきます。

子どもの場合、「あ、今日のごはんはハンバーグだ!どんな味かなー。美味しい!どうやって作るんだろう?あ、ニンジンが星形に切ってあるー。わぁーポテトサラダ大好きーー。」っとトキメキがいっぱいです。

 

反対に大人の場合は、「今日はハンバーグか・・・。」っと、ただ黙々と食事をするだけの作業になってしまってトキメキはありません。

 

また、子どもに「昨日は何をしましたか?」と質問すると、それはそれは色んな話題が出てきます。

でも大人は考え込まないと思い出せない。もし、トキメキがあったなら思い出せるのではないかと思います。

 

トキメキは大事ですね!ですから私を含めみなさんも、聖書の御言葉をトキメキをもって受け取ることができたなら、しっかり心に入るのではないかと思います。同じ時間の流れでも、いつも神様の御言葉に心ときめいているならば、さらに喜び、祈り、感謝が増して、一日一日が印象深く輝くのではないかと思う次第です。

 

というわけで、本日はミカ書から3箇所、トキメキの箇所をご紹介したいと思います。

 

◆ミカ書からトキメキをいただきましょう。

①ベツレヘムからイスラエルの支配者が出るという預言。 (5章2節)

 

まずミカという預言者についてです。

<ミカ1:1 >

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ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。

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聖書にはミカという名前の人物は何人か出てきますが、この預言者ミカについては、この1章1節に書かれている情報しかありません。「ミカ」という名前の意味は、「誰が主のようであるのか」です。

ミカはユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代の人なので、紀元前8世紀-7世紀くらいに生きた人だと思われます。預言者イザヤとかホセアと同時代の人です。

おそらく、722年のサマリヤ陥落、北イスラエル王国の滅亡も見たのではないかと思われます。

 

ミカは、エルサレムの南西30-40kmの位置にある小さな農村、「モレシェテ・ガデ」の出身です。

このような小さな村の出身ではありますが、ミカの預言は冒頭にもお話したように、預言者イザヤにも勝るとも劣らない文才があります。

 

●1章から順に見て行きましょう。

ミカ書の1章は、北イスラエル王国の首都サマリヤと、南ユダ王国の首都エルサレムへのさばきの警告です。この時代は、両王国ともそれなりに栄えていました。

しかし両王国とも、自分の国を守るために、エジプトなどの諸外国と手を組んだりしているうちに、偶像崇拝を平然と行なうようになりました。

 

主は、そのようなサマリヤとエルサレムに対して怒りを燃やされました。

主は皮肉にも、偶像崇拝のきっかけとなったその諸外国からの攻撃、特に強国アッシリアからの攻撃によって両王国を苦しめ、罪に気づかせようとされました。

 

●2章のはじめにミカは、「ああ」という嘆きの言葉を発しています。

神のさばきによって、ミカの故郷である、モレシェテ村もペリシテ人によって侵略されてしまいました。

 

<ミカ2:1>

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2:1

ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。

2:2

彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。

2:3

それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。」

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権力のある者は悪巧みを計り、貧しい者から根こそぎ財産を取り上げる。

主はこのような者たちをおゆるしにはなりません。

 

●続く3章には、神のさばきによってエルサレムが廃墟となることが預言されています。

このミカの悲痛とも言える嘆きの預言は、南ユダ王国の王、ヒゼキヤの心に響きました。

ヒゼキヤ王は主を恐れ、宗教改革を行ないました。

 

ヒゼキヤ王のことをみなさんご存知でしょうか?

ヒゼキヤ王は父親のアハズ王とは違って主の目にかなった良い行いをしました。

偶像を取り除き、レビ人の祭司をたてて聖別し、民たちに過ぎ越しの捧げものをするように呼びかけました。強国であったアッシリアに半分属国になりかけながらも、イスラエルの神に信頼して、南ユダを守りました。

 

彼の功績のひとつである、「ヒゼキヤのトンネル」は、今も残っていて観光地になっています。敵から水路を守るため、神殿の横の谷にあるギホンの泉からシロアムの池(現在は「下の池」と呼ばれています)に続いていく水路のトンネルを、532メートルも手堀りでコツコツ掘るという一大事業を成し遂げました。

 

ヒゼキヤ王に関しては、その他にもたくさんの功績、また罪についても聖書に記されています。

現在、英語圏の人には、ヒゼキヤ(英)Hezekiah (ヘゼカイヤ)という名前の人が多く見られるのも、尊敬されている王だということがうかがえますね。

 

ヒゼキヤ王と南ユダの民たちが、ミカ書3:12の御言葉によって悔い改めたことにより、主はわざわいを思いなおされたことについては、預言者ミカから100年ほど後の時代に出てきた預言者エレミヤが語っています。

 

<エレミヤ26:18-19>

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26:18

「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダのすべての民に語って言ったことがある。『万軍の主はこう仰せられる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。』

26:19

そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」

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しかしその回復も長くは続きませんでした。

ヒゼキヤの死後、その子マナセが王になりましたが、彼は主の目の前で悪を行ないました。

偶像崇拝を行ない再び神は怒りを燃やされました。

エレミヤの時代には北王国に続いて南ユダもバビロンに征服されてしまいました。

しかし、神様は、いつの時も救いの道を備えてくださっています。

 

●4章には、終末におけるエルサレムの回復が預言されています。

預言書には、神の徹底的なさばきと、救いと回復がセットになって記されています。

 

●続く5章には、ミカ書だけに記されている預言が書かれています。

この5章2節の預言が、本日の1つ目のミカ書トキメキの箇所です

 

<ミカ5:2>

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ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

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神様が与えてくださった回復の道は、メシヤ、救い主をお与えになることでした。

そしてその救い主はベツレヘムでお生まれになるという預言です。

ベツレヘムは言わずと知れたイエス様が馬小屋でお生まれになった場所です。

イエス様は神の御子であり、聖霊によって身ごもりましたが、系図の上ではユダ族であるダビデ王の子孫となります。マタイやルカの福音書に系図が記されている通りです。

 

ダビデもベツレヘムで羊飼いをしていました。ダビデの父エッサイ、その父オベデ、その父ボアズは、言わずと知れた、ルツの夫です。

主なる神様は預言者ナタンを通して、ダビデの子孫からでる世継ぎに王国を確立させると約束されましたが、ミカの預言によると、そのことは永遠の昔から定められていたようです。

 

ミカ書が永遠に価値のある書と言えるのは、この5章2節の御言葉のゆえです。

父なる神が御子イエスを系図のうえでダビデの子孫としてくださったのも、ベツレヘムで誕生させてくださったのも、十字架の贖いも復活も、永遠の昔から神が定めておられたことなのです。

 

メシヤ(救い主)がベツレヘムから生まれるというミカの預言は、多くのユダヤ人たちが昔から知っていました。

マタイ2:5-6、ヨハネ7:42など参照してください)

そしてこの預言がついに実現したことを、イエス様が誕生した時にお祝いに訪ねてきた東方の博士たちや、イエス様を殺そうとしたヘロデ大王も知ったのです。

 

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』(ルカ2:11) 「ダビデの町」とは、エルサレムではなく、ベツレヘムのことです。

 

ミカ書5章2節の御言葉に何が書かれているか、もう覚えましたか?

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしの

ために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。』

※ミカ書5章2節から、トキメキいただきました!

 

◆ミカ書からトキメキをいただきましょう。

②神が語られる罪の償いの方法。 (6章8節)

2つ目の、ミカ書トキメキの箇所は、6章8節です。

 

●6章は1節から8節までの文体が特に素晴らしいので、ご紹介したいと思います。

新改訳聖書では、神様と人間を区別するために、ひらがなの「わたし」は父なる神様やイエス様を表し、漢字の「私」は人間という風に分けています。ここでの漢字の「私」はイスラエルの民です。

神様は、ここではこの世界を法廷に見立てて、イスラエルの民を告発しています。山々と丘々が陪審員です。

 

<ミカ6:1-8 >

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6:1

さあ、主の言われることを聞け。立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ。

6:2

山々よ。聞け。主の訴えを。地の変わることのない基よ。主はその民を訴え、イスラエルと討論される。

6:3

わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。

6:4

わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを買い戻し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリヤムを送った。

6:5

わたしの民よ。思い起こせ。モアブの王バラクが何をたくらんだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまでに何があったか。それは主の正しいみわざを知るためであった。

6:6

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

6:7

主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

6:8

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

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神様ご自身が、イスラエルの民に対して何を行なってこられたかを訴えました。

エジプトから脱出させ、奴隷としての苦役から解放され、モーセ・アロン・ミリヤムという指導者を与えたことや(出エジプト)、モアブの王の攻撃からも民を守ってくださったこと(民数記22-24章)、ヨルダン川の東岸シティムから西岸ギルガルまで渡るとき、主は奇蹟をもって民を導かれたこと(ヨシュア記3-4章)を訴えられました。

 

イスラエルの民たちは、神様が民のためにしてくださった歴史的な導きと奇蹟の真実を想い起し、その応答として、人間のわざによる犠牲をもって神様から罪の赦しを得ようとしました。その犠牲となる全焼のいけにえは、子牛や雄羊から、最終的には自分の長子、生まれた子どもまで捧げようとしました。

 

しかしそこで神様は、御自身が民に求めておられることを語ってくださいました。

ここの6章8節が、ふたつめのトキメキの聖書箇所です。

『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』

 

神様は、人間のわざによる捧げものを望んではおられません。『ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと』を求めておられます。

父なる神様は、イエス様が教えてくださった「主の祈り」のように私たちにどのように生きるべきかを教えてくださっています。それなのに私たちは、このイスラエルの民たちのように、的外れな事をしてしまうのです。

 

主の御言葉を忘れず、けっして神様から離れることがないように、強く深い信仰が持てるように祈り求めましょう。

※ミカ書6章8節から、トキメキいただきました!

 

◆ミカ書からトキメキをいただきましょう。

③苦難の時こそ主を仰ぎ見る。主が私の光。 (7章8-9節)

 

●7章では、ミカは嘆きをもって、主のさばきの厳しさを見ています。

ミカは民の状態を夏の果物にたとえました。時期が遅くなって収穫が得られず働きは徒労に終わりました。

同じように、イスラエルの民には敬虔な者も正しい者もひとりもいないと嘆いています。

民はみな自分の利益のためには策略をし、殺人まで犯し、役人、さばきつかさ、有力者たちは立場を利用し、不正に利得を得ています。そこには神の刑罰が下り、混乱が起こります。

 

そして、本日の聖書箇所、7章5-6節では、隣人、親しい友、妻さえも信用できず、親子関係も崩壊して行く様子が記されています。しかし、それでもミカは神への信仰と希望を捨てず、光である主を仰ぎ見ています。

本日の3つ目のミカ書トキメキの箇所は、7章7節、8節です。

 

<ミカ7:7-8 >

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7:7

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

7:8

私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。

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私たちの苦難とは、狭義では私たちの日々の生活に襲い掛かる様々な困難な出来事のことを指しますが、広義ではマタイ24章やマルコ13章などの終末預言にあるような、戦争、飢饉、地震、天変地異が起こる大患難時代のことを指します。

 

その時には神様が混乱を起こされ、愛する人でさえも信じることができなくなるという悲惨な状況になります。

そんなことが本当に起こったら、私たちは耐えられるでしょうか。

 

ミカ書は、そんな時こそ主を仰ぎ見て、私たちの光である主を信頼することを教えてくれています。

「希望」という言葉は、旧約聖書の原語ヘブル語では<へ>hwqt(ティクバー)と言います。この言葉の語源は<ヘ>hwq (カバー)で、意味は「待つ」です。動詞では、「期待する」という意味もあります。

「主を仰ぎ見て、主を待ち望む」というミカの姿勢は、待つ、期待するという「希望」につながります。

 

その希望とはイエス様であり、耐え忍んで待つ者には救いと回復を必ず与えてくださいます。

イエス様がそのことを約束してくださっています。

『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』

(マタイ24:35、マルコ13:31、ルカ21:33)

7章最後の18-20節は、ミカの賛美と祈りで締めくくられています。

7章18節『あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。』というミカの告白は、先ほど語った「ミカ」という名前の意味、「誰が主のようであるのか」に対する応答のようにも考えられます。

「誰が主のようであるのか」、「あなたのような神は他にはおられません!」

※ミカ書7章7-8節から、トキメキいただきました!

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2018年9月21日 (金)

神との平和 ローマ5:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.23

 平和と和解は、姉妹みたいな関係です。なぜなら、平和と和解も女性名詞だからです。でも厳密に言うなら、和解が先で、平和はその結果と言えるでしょう。パウロはローマ51「神との平和を持っている」と言っています。そして、ローマ510「御子の死によって神と和解させられたのなら」と平和が与えられた根拠について述べています。しかし、聖書においては、平和と和解は互いに言い換えることのできることばではないかと思います。ですから、「神との平和」と言ったとしても、頭の中では「神との和解」と入れ替えて理解して下さったら有り難いです。

1.神との平和

 使徒パウロはⅡコリント5章で「神の和解を受け入れなさい」と命じています。しかし、これは命令ではなく、「和解を受け入れてください」という懇願です。私たちは、以前は神さまと敵対関係にありました。エペソ2章には「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって…生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ23と書かれています。これは、「私たちが生まれながら怒りっぽかった」という意味ではありません。確かにそういう人もいますが、そうではなく、神から怒りを受ける対象であったということです。このようなことばを聞くと「いや、そうじゃないでしょう。神さまは愛なんじゃないですか?」と反論するかもしれません。キリスト教会では「罪」を除外して、神さまの愛だけを説くところもあるかもしれません。それはヒューマニズムの宗教であり、万人救済主義になる恐れがあります。ある人たちは「愛なる神は地獄を作らない」と主張しています。私たちは聖書から「神の義」と「人間の罪」という二つのことを明確に知らなければなりません。この二つは、絶対に交わることのできないものです。結論から言うと、神の義が満たされない限りは、神との平和はありえないということです。

 パウロはローマ51にくるまで、ローマ1章、2章、3章と人間の生まれながらの罪について語っています。そして、「ユダヤ人は律法を持っていると誇っているが守っていない」と言っています。ローマ3章では「義人はいない、ひとりもいない。…すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する」と言っています。つまり、律法のもとではだれひとり、神さまの前では義と認められず、断罪されるということです。人は、このダークな部分を知らないと、救いの喜びも分かりません。「救い」を端的に言うなら、「もう、神さまにさばかれない。地獄に落とされない」ということです。私たちは旧約聖書の、特に民数記を読むと躓くかもしれません。なぜなら、そこには神が愛ではなく、罪をさばく厳しいお方として記されているからです。イスラエルは神さまから選ばれた民ですから、私たちには反面教師的な存在です。彼らは神さまに何度も背きました。もし、私たちがあの時代に生きていたなら、命がいくつあっても足りないでしょう。でも、私たちには福音があります。ローマ321-24「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」アーメン。これこそが福音です。ある人たちは、「ただ、信じるだけで救われて良いのか?行いも必要ではないだろうか?」と反論します。しかし、それは神の恵みを知らない人たちです。ガラテヤ310「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。…すべてのことを守らなければ、だれでものろわれる」とあります。律法は100%の正しさ、義を要求します。生身の人間が、神に受け入れられようと、律法を行なうことは絶対不可能です。学校のテストで毎回100点取れないのと同じです。私たちが救われるためには、律法の行いではなく、信仰による神の恵みしかないのです。もし、「救われるために行ないも必要だ」という人がいるならば、それはイエス・キリストの十字架の贖いを否定する人たちです。パウロは「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を表わすためです」(ローマ325と言いました。これは、イエス・キリストが私たちの代わりに罪を負われたので、神さまの私たちに対する罪がなだめられたということです。このことは、私たち人間が願ったのではありません。父なる神さまがひとり子、イエスをこの世に送り、御子イエスに全人類の罪を負わせ、御子イエスを代わりにさばいたということです。それで、神さまは、御子イエスを信じる者にご自分の義を与えると約束されました。それが信仰による義です。

 高い建物の上には必ず避雷針があります。これまで日本の神社仏閣が火災にあったのは、避雷針がなかったからです。避雷針はベンジャミン・フランクリンが発案したと言われています。教会には十字架が立っていますが、それは罪から私たちを守る避雷針を象徴しています。もし、十字架がなければ、私たちは断罪されて、地獄に落とされるしかありません。民数記の人たちは、神に逆らったので、「地面がその口を開き、生きながら陰府に落とされました」(民数記1630-33)。私たちも十字架の贖いがなければ、同じような運命をたどっていたことでしょう。私たちは「イエス様のお名前によって」と祈ります。まさしく、イエス様のお名前は、罪を取り除いて下さり、父なる神さまの間近に行くことができるのです。聖書に「和解」ということばがあります。「和解する」はギリシャ語でカタラッソーです。しかし、元の意味は「変える」です。では、何が変えられるのでしょうか?高木慶太師は『信じるだけで救われるか』という本でこう述べています。「神は決して変わることのないお方であるから、変えられるのは、神の前における人間の立場である。神は、キリストの十字架によって、神の前における人間の立場を変えてくださり、それとともに人間をそれ以前とは違った見方で見られる。すなわち、もはやわれわれを単に呪いのもとにある者として見られるのではなく、われわれに平和を宣言しておられるのである」。アーメン。私たちはキリストによって実現された和解のゆえに、未信者に対して、「神さまはあなたを責めたり、罰したりしようとしておられるのではなく、和解の手を差し伸べておられるのです」と言うことができるのです。信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持っています。

2.自分との平和


 「自分との平和」「自分との和解」と言う表現は奇妙に聞こえるかもしれません。ユダヤ人には罪を告発する律法がありました。しかし、私たち異邦人には、律法と言う絶対的なものがありません。もちろん、日本にも法律がありますが、小さな子どもたちにとって、親や学校の教師の言うことが律法になります。「〇〇してはいけない」「〇〇しなさい」と小さいときから教えられます。ところが、人間は元来、罪人なので、親や教師は子どもの存在を壊すような言い方をします。「人の迷惑にならないように」「人に笑われないように」と注意します。「馬鹿、そんなことが分からないのか」「能無し」「不器用」「情けない」「死ね」…悪いことばを浴びせられて育ちます。親や教師が責めた言葉が、いつの間にか自分を責めることばになります。「こんなことができないのか?私はダメだなー」「私は何をやっても満足にできない」「どうせ私はできそこないなんだ」「そんなことは私には似合わない」と自分を卑下するようになります。それらのことばは、もともと他の人が自分に対して発していたことばなのですが、いつの間にか、自分を責めることばになっています。そして、何か失敗したときに、自分の頭を叩いたりします。私も昔は自分の頭や顔をたたいていました。もう一人の自分がいて、失敗した自分を責めているのです。まるで、分裂状態です。そういう声が度々聞こえて、学校のときは作文や絵画、図面など時間内に提出したことがありません。親や先生から「集中力がない」と良く言われましたが、内部が分裂しているので、集中できるわけがありません。今、思えば、軽度の統合失調症あるいは、人格が乖離していたのかもしれません。

 私がこんなことを言うと変に聞こえるでしょうか?でも、みなさんに質問します。「あなたは自分が好きでしょうか?」「あなたは自分を信頼しているでしょうか?」「あなたは自分を誇りに思っているでしょうか」「あなたは自分を極度に責めることはないでしょうか?」…いくつか当たっているのではないでしょうか?「自分へのご褒美」ということばを聞いたことがありますが、これは、自分を責めることの反対なのではないでしょうか?「自分へのご褒美」と言うならば、「自分へのこらしめ」ということもありえるでしょう。つまり、自分と自分が分裂しているということです。イエス様が福音書で「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、うちわで争えばつぶれます」(ルカ1117と言われました。もしかしたら、自分を責めている声というのは、自分ではなくて、サタンの手下なのかもしれません。なぜなら、黙示録には「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神のみ前で訴えている者」(黙示録1210と言われているからです。英語の聖書にはaccuser 「告発者」「非難者」と書かれています。つまり、私たちの内部に非難する者が同居していたなら、どうなるでしょう?また、ある人たちは罪責感や罪悪感にさいなまれています。自分が過去に犯した失敗や罪が自分を責めるのです。「イエス・キリストが十字架ですべての罪を贖ってくださった」と聞いたとき、すべてが消え去ったでしょうか?「子よ、あなたの罪は赦されました」と宣言されたとき、告発者はあなたから離れ去ったでしょうか?もしかしたら、たまに訴えられているのではないでしょうか?その度に、「自分は幸せになってはいけない。罰を受けるのが当然である」と考えているなら、完全に欺かれています。

 イザヤ611b-3「捕らわれた人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべて悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けされるため」とあります。「捕らわれた人」というのは、「強い者によって虐待されてそうなった人」です。英語の聖書はoppress「圧迫される」とかafflict「苦しめられる、悩ます」ということばです。簡単に言うと犠牲者です。一方「囚人」とは自分が犯した罪や失敗によって、監獄に閉じ込められている人です。囚われた原因が自分にもあるということです。どちらにしても、幸福な状態ではありません。どちらにしても、自分を愛し、自分を敬い、自分との平和を持っているとは思えません。でも、イエス様は私たちを解放するためにやってこられたのです。「もっと強い者が襲って来て、彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」(ルカ1122)。かつてはサタンに囚われていましたが、イエス様がサタンのかしらを打ち砕き、私たちを解放してくださったのです。言い換えると、私たちの罪を赦し、私たちを牢獄から救い出し、愛する御子のご支配の中に移してくださったのです。ハレルヤ!もし、まだ、あなたの良心が、あなたを訴えるなら、それは間違った邪悪な良心です。ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」。アーメン。

 最後は自分自身と和解する必要があります。これは私の経験ですが、私はクリスチャンなってしばらくたってから、自分を愛し、自分を赦し、自分を受け入れました。何故かと言うと、聖書に「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と書かれているからです。それでどうなったかと言うと、自分を訴える者がいなくなりました。正確には言えませんが、自分と自分が和解して、1つになりました。これまでは自分が分裂状態で、集中力が全くありませんでした。でも、自分と自分が1つになったので、自分の中に争いがなくなり、調和がやってきました。英語で表現するなら2つのことばがあります。1つはfusion「融合」です。もう1つはintegrate「統合」です。自分と自分が融合し、統合したということです。それ以来、自分を責めたり、卑下する自分はいません。逆に、自分を励まし、自分を助ける自分になりました。それ以来、私はとても集中力がつき、神からの知恵を完全に受け取ることができるようになりました。自慢のように聞こえるかもしれませんが、私の賜物の1つは「知恵のことば」です。私がこうやって説教できるのは神の知恵です。私のことはともかく、みなさんも思い当たるふしがあるなら、自分と和解してください。キリストの平和がまず、あなたの心を支配しますように。イエス様の愛と赦しと受け入れを、まずあなた自身が受け取ってください。御国があなた自身に来ますように。あなたには無尽蔵の富と力を持っておられる神さまが共におられます。アーメン。

3.人との平和

 イエス様は山上の説教で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ59と言われました。平和を作る者となるためには、2つのことが前提になければなりません。第一は神との平和、第二は自分との平和です。自分の中に怒りが満ちている人がどうして平和を作ることができるでしょう。世の中にはたくさんの平和運動のグループがあります。でも、どういう訳なのか、彼ら同士が争っています。イデオロギーの違いと言えばそれまでですが、自分たちの中に聖書が言う「平和」がないのかもしれません。聖書が言う「平和」とは戦争がないことではありません。ビートルズは戦争のない平和を願うような歌をたくさん歌いました。悪くはないと思いますが、戦争を起こすのは私たちの内側に罪があるからです。貪欲や妬み、敵対心の大きくなったものが戦争です。ですから、いきなり国家間の平和ではなく、隣人との平和から始めなければなりません。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ1919と言われました。中には、「世界の人は愛することはできますが、隣りのオヤジが憎い」という人がいます。遠くの人は案外、愛せます。問題は毎日、顔を合わせている隣人なのです。何故、私たちは隣人と仲良くできないのでしょうか?もちろん、仲良くできる人もいます。でも、顔を見たくないほど、険悪な状態になる人だっています。何故、私たちは人と争ってしまうのでしょうか?

 エペソ214-16「 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」文脈はユダヤ人と異邦人間にある敵意のことが書かれています。でも、これは私たち人間が生まれながら持っている「敵意」と解釈することも可能です。なぜなら、アダムとエバに罪が入ったとたんに「敵意」がやってきたからです。神である主はエバに「あなたは夫を恋い慕うが、「彼はあなたを支配することになる」(創世記316と言われました。これは夫婦間にある軋轢です。創世記4章では、カインが弟アベルをねたみのゆえに殺してしまいました。さらに、カインの子孫、レメクは「私は77倍の復讐をする」と言いました。そして、争いは民族間、国家間と広がって行きました。人間はだれから教えられなくても人と争い、さらには殺人まで犯してしまう存在なのです。なぜなら、アダム以来、「敵意」という罪がやどっているからです。イエス・キリストは私たちが生まれながら持っている敵意を廃棄するために来られました。パウロは「このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」と言いました。アーメン、キリストの十字架によって、私たち敵意が葬りされられたのです。

 神さまがその次になさってくださったことは、聖霊による生まれ変わりであります。神から生まれた者は神の種がやどっています。だから、兄弟を愛するということが当たり前になったのです。Ⅰヨハネ314「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」ヨハネは神を愛する者は、兄弟をも愛することが当然であると言っています。ヨハネは「古い戒め」をこんどは「新しい戒め」に直しました。「古い戒め」にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(レビ記1918とありました。でも、それは正しい戒めではありましたが、実行する力がありませんでした。なぜなら、私たちの内にアダム以来の罪があるからです。でも、イエス様は十字架にかかり罪を赦し、罪の力を打ち砕いてくださったのです。そして、神のいのちである、聖霊を私たちに送ってくださいました。古い戒めがキリストの贖いによって、新しい戒めになりました。もう、実行不可能な命令ではなく、私たちの内におられる神のいのち、聖霊がそのことを実行させてくださるのです。Ⅰヨハネ323「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」アーメン。ヨハネは数えきれない律法をたった2つにまとめました。第一は、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。第二は、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。この2つの命令こそが、新約の時代に住む私たちへの命令なのです。ハレルヤ!

 世の中にはたくさんの法律やきまりがあります。学校には校則、会社にはコンプライアンス、車を運転していると道路交通法、商売している人には商法があります。法律やきまりにがんじがらめになっています。それらは全部、外側から人間に与えている戒めです。残念ながら、効力がありません。なぜなら、生まれながらの人間には罪があり、律法を守れないからです。もちろん、人と争い、やがてそれが国家間の戦争にまで発展します。しかし、神さまのやり方はこの世の方法とは全く違います。私たちを聖霊によって生まれ変えさせ、平和の人、愛の人にするということです。神のいのち、聖霊は外側からではなく、私たちの内側に働き、内側からあふれてくるのです。平和のヘブライ語はシャロームです。これは戦争がないという単なる平和ではありません。神の力と生命にあふれた動的な状態を言います。子どもの頃、コマを回したことがあるでしょう。コマが高回転で回っています。じっとして止まっているように見えます。でも、それは力に満たされた状態です。これが平和です。イエス様が私たちに「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ59と言われました。これは私たちの中に既に「神との平和」が宿っているので、この世に向かって平和を作ることができるという意味です。私たちは神との平和を持っています。私たちは自分自身との平和を持っています。そして、私たちはこの世に向かって平和を作り出すことのできる神の子どもです。アーメン。

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2018年9月14日 (金)

知恵を求めよ Ⅰ列王記3:10-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.16

 知恵と知識は兄弟姉妹のような関係です。現代人は知識を求めます。クイズ番組でも知識の豊富な人が有利です。林先生もその一人でしょう。知識も必要ですが、知恵も必要です。いくら知識があっても、知恵がないなら、それを用いることができないからです。知識はいわば、建築資材のようなものです。いくら建築資材が山のように積まれていても、それが家になるわけではありません。箴言91「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据える」と書いてあります。私たちには知恵が必要です。神から知恵をいただくならば、複雑な世の中でも、平安で豊かな生活ができるでしょう。

1.ソロモンの知恵

 ダビデのあとを継いだソロモンが神である主から「あなたに何を与えようか。願え」と言われました。ソロモンは謙遜にも、「イスラエルの民をさばくために知恵をください」と求めました。彼の願いに対して、神さまは大変喜ばれました。普通の人なら、長寿とか富、あるいは敵のいのちを求めるからです。神さまは「わたしはあなたに知恵の心と判断する心を与える」と約束されました。そればかりか、ソロモンが願わなかった富と誉れも与えました。すばらしいことに、ソロモンはだれもがいただけなかったような崇高な知恵を神さまからいただきました。Ⅰ列王記をみると分かりますが、ソロモンはむずかしい問題を次々とさばきました。そして、海外と交易を行い、富と財宝がイスラエルに流れ込んできました。また、ソロモンは自然科学者であり、また文学者でもありました。それで、敵国でさえも、ソロモンの知恵を求めてやってきました。さらに、ソロモンはダビデが願っていた神殿をレバンノンの杉を用いて建造しました。また、ソロモンは13年かけて、まばゆいばかりの宮殿を建てました。神殿のときもそうでしたが、豪華で巧みな装飾がなされています。まさしく、「知恵が家を建てた」という感じがします。あるとき、シェバの女王が有力者たちを率いてエルサレムにやってきました。そして、心にあったすべてのことをソロモンに質問しました。ソロモンは、彼女のすべての質問を解き明かしてあげました。王がわからなくて、彼女に解き明かせなかったことは何1つありませんでした。女王はソロモンにこう言いした。Ⅰ列王記106-7「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。」

 残念ながら、ソロモンの人生の後半は良くありませんでした。外国の女性と結婚し、彼女らの神々に香をたき、いけにえをささげました。主はソロモンに怒りを発せられました。主が二度も彼に現れ、警告しましたが、従おうとはしませんでした。ソロモンの死後イスラエルは北と南に分裂しました。ヘブル人への手紙11章に信仰者の列伝が記してありますが、ソロモンの名前は出て来ません。でも、ソロモンは箴言、伝道者の書、雅歌を残しました。全部がソロモンの作ではないかもしれませんが、ソロモン自身の反省もその中に記されています。という意味では、私たちはソロモン自身とソロモンが書いた書物から、知恵の大切さを知り、それを神さまから求める必要があるのではないでしょうか?ビル・ジョンソンは少年のとき、神さまに1つの願いことをしたそうです。先生は「ソロモンのような知恵をください」と願いました。先生自身も高慢にならないように願いつつ、神さまが知恵を与えてくださったと証しています。どの本か忘れましたが、神からの知恵は、啓示ととても関係があると書いていました。啓示ということばは、「隠されていたものが露わにされる」という意味です。知恵も同じで、私たちの目から隠されています。でも、求めるならば、与えられます。ヤコブは「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ15と言いました。知識は一生懸命、努力して獲得するイメージがあります。一方、知恵は神さまが上から与えてくださる恵みのようなイメージがあります。ユダヤ人はとても頭が良いと言われています。彼らは世界の有数な銀行をいくつか支配して、経済を牛耳っています。その理由は小さいときから律法を学び、神さまに知恵を求めているからでしょう。私たち日本人はどの国の人たちよりも、頭が良くて勤勉だと言われています。でも、発想とか発明という点ではとても弱いです。改良して製品化するのは得意ですが、ないところから新しいものを作るという創造力がありません。やはり知恵の源であり、全宇宙を作られた神さまと関係を持っていないからだと思います。

 ソロモンは主なる神さまから知恵をいただきましたが、その知恵はどのように生かされたのでしょうか?簡単に列挙したいと思います。第一は裁判における知恵です。ふたりの女性が、「これはわが子です」と主張しました。ソロモンは「剣で生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい」と命じました。片方の女性は「決して殺さないでください。その子をあの女にあげてください」と言いました。他方は「断ち切ってください」と言いました。ソロモンは「生きている子どもを初めの女に与えなさい」と言いました。みんなソロモンの知恵に驚きました。日本は裁判が長くかかり過ぎます。第二は国の防備です。城壁と青銅のかんぬきを備えた町を作り、相応しい人たちを立て、馬と戦車を備えました。第三は、数えきれないほどの箴言と歌を作りました。第四は植物や生物を研究し、学術的にも成果をあげました。第五は建築です。すばらしい彫り物の施された神殿と宮殿を作りました。家具や調度品には金が貼り付けられていました。第六は交易です。ツロのヒラムがパートナでした。1年間にソロモンのところに入って来た金の重さは666タラント(約20トン)でした。「銀はソロモンの時代には、価値あるものとみなされていなかった」(Ⅰ列王記1021)と書かれています。結論ですが、もし、神さまからの知恵をいただいたならば、経済的な困窮はありえません。国も守られ、安心して暮らせます。科学や芸術も発展し、生活も豊かになるでしょう。日本は地下資源が乏しいと言われていますが、神さまからの知恵をいただくならば、豊かで安全な生活、間違いなしです。

2.知恵を求めよ

 箴言のほとんどがソロモンの作と言われています。箴言は「神からの知恵がどれだけすばらしいか」ということが記されています。しかも、知恵が擬人化されており、「私を探し求めなさい」と書かれています。箴言120-23「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。『わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。』」箴言51「わが子よ。私の知恵に心を留め、私の英知に耳を傾けよ。これは、分別を守り、あなたのくちびるが知識を保つためだ。他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。」おそらく、これはソロモン自身の反省を踏まえたものではないかと思います。「わが子よ」というのは箴言を読むであろう、後代の人たちのことではないでしょうか。ソロモンは神からのすばらしい知恵をいただいて頂点をきわめた人です。でも、他国の女性によって失敗しました。ですから、この箴言はソロモン自身の悔い改めと、私たち対する奨励と取ることができます。重要なことは私たちが、わきまえのない者にならないで、主の知恵に心を留めるということです。

 箴言を読んでみて分かる1つの特徴があります。それは知恵ある者と愚かな者、そして正しい者と悪者と2つに分けられているということです。私たちは日常、暮らしていて「そんなに極端に2つに分けていいのだろうか?」疑問を覚えるかもしれません。でも、箴言は痛快なくらい、2種類に分けています。おそらく、2者を並べることによって、コントラストを付けているのだと思います。それではイエス様を信じて救いを得ているクリスチャンがどうなのかということです。私たちが自動的に、「知恵ある者であり、正しい者になっているか?」ということです。もしかしたら、信仰があっても「愚かな者であり、悪者になってはいないだろうか?」ということです。一番の違いは、知恵を用いて生きているかということです。もし、信仰があっても、知恵を用いていないならば、愚かな生き方をしている可能性が出てくるということです。よく、「神さまが愛なのにどうしてこんなことが起こるのですか?」と文句を言う人がいます。あるいは、「一生懸命やったのに、どうして報いてくださらないのですか。私は何をやってもだめなんだ」と自己憐憫的な人もいます。極端なことを申しますと、神さまが愛であることと、知恵を用いて生活することとは違うと思います。私たちは、この世には法則があり、その法則に従わなければ、相応の結果を被るということを忘れてはいけません。神さまは英知を持って、この宇宙を造り、今もささえておられるお方です。もし、私たちが神さまの知恵をいただいて、その知恵を用いるならば、合法的に良い生活ができるのではないかと思います。私たちは知恵がないために、愚かな生き方をもしかしたらいているかもしれないということです。神さまが私を愛しているから、私は神さまを信じているから、すべてのものがうまくいくと考えるのは早計だと思います。

 神さまは私たちに知恵を働かせて生きるように願っておられるからです。たとえ神さまを信じていなくても、知恵を用いて、良い生活をしている人はたくさんいます。もちろん「良い生活」の定義もむずかしいですが、とにかく、恵まれた生活です。一般恩寵でも、ある程度の所まで行きます。なぜなら、神さまは私たちを知恵ある者として造られたからです。でも、ソロモンがそうであり、箴言もそうなのですが、神からの知恵は特別であり、大きな力があるということを知らなければなりません。私たちは信仰者として、神から知恵をいただいて、日常の生活で用いるべきだということです。なぜなら、せっかくクリスチャンになっても、神さまが願っている標準的な生活に達していない方もいらっしゃるからです。なぜなのか?それは、神からの知恵を用いていないからです。箴言には「家」とか「部屋」ということばが何回も出てきます。冒頭でも言いましたが、箴言91「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据える」、箴言141「知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす。」箴言243-4「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。」私は「家」とか「部屋」は生活とか人生を象徴しているのではないかと思います。簡単に言うと生活や人生は「その人次第である」ということです。神さまは私たちがどのように生きるのか任せておられます。家や部屋のように、ごちゃごちゃになったり、住みやすいものになったりします。私たちの周りにもごちゃごちゃな人生を送っている人もおれば、ぴしっと筋の通った麗しい人生を送っている人もいます。いろいろ理由や要因があると思いますが、「知恵」です。知恵が、家を建て、部屋を尊く、好ましい宝物で満たすことができるのです。もし、神からの知恵を用いるならば、もっと豊かで恵まれた生活を送ることができると信じます。

 なぜ、あなたの人生がごちゃごちゃで、破れた所や壊れた所があるのでしょうか?神さまは愛です。イエス様を信じる信仰があったとしても、自動的に生活が良くなるわけではありません。父なる神さまは、あなたに知恵を用いるように願っておられるのではないでしょうか?日本ではあまり分かりませんが、貧しい国に行くとそのことが良く分かります。インドなどでは汚い水を飲むので赤痢になって死ぬ人たちがたくさんいます。水を一度煮沸するか、井戸を掘れば良いのです。仏教の国が貧しいのは、この世の物質を神さまからの賜物として用いていないからです。イスラムの国が貧しいのは女性の身分を認めていないため、労働力が低いからです。南米は焼畑農業ではなく、耕作地を作って種を蒔けば良いのです。私たちは文化圏に住んでいるので、「彼らがこうすれば良いのに」ということがすぐわかります。でも、天の神さまが私たちをご覧になってどう思っておられるでしょうか?「私の名を信じているあなたがどうして地を這うような生活をしなければならないのだろうか?私の知恵を用いたならば、豊かで恵まれた生活が送れるのに。私は天国でだけではなく、地上でも豊かに恵んであげたいのに」と思っているでしょう。

3.キリストこそ知恵

 Ⅰコリント130「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」このところにすばらし約束があります。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となられた」と書かれています。パウロが言いたいことは、私たちはキリストのうちにあり、キリストも私たちの内にあるという真理です。クリスチャンはキリスト様が内に住んでいらっしゃいます。そのお方が、神の知恵そのものであるとしたらすばらしいではないでしょうか?でも、その前に、御子イエス・キリストがどういう意味で神の知恵なのか知らなければなりません。コロサイ1章には御子イエスさまが創造者であることが書かれています。コロサイ115-17「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」私たちは父なる神さまが創造主であることは知っていましたが、なんと御子イエスもそうであったということです。御子イエスはこの地上に来るまでにロゴスと呼ばれていました。ヨハネ11-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」日本語のヨハネ福音書にはことばと書いてありますが、ギリシャ語は「ロゴス」であり、当時の世界では「宇宙を造った理性的な存在」と考えられていました。

 でも、その方が肉体をとってこの地上に来られました。なんと、私たちと同じ赤ん坊で生まれて、そこからスタートされました。ルカ252「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」と書いてあります。あのイエス様であっても、知恵が進む必要があったということです。進むとは「発展する」とか、「増し加わる」という意味です。そして、ルカ福音書には12歳のときの少年イエスについて書かれています。ヨセフとマリヤは少年イエスを連れて、エルサレムの祭りにのぼりました。その当時は、知人や親族でまとまって帰ってくるので、少年イエスがその中にいると思っていました。ルカ246-47「そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」なんと、12歳の少年イエスが律法の専門家たちと対等に渡り合っているではありませんか?「人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」と書いてあります。イエス様は30歳になってから、公生涯に入ります。町や村へ神の福音を宣べ伝えに行きました。ところが、イエス様の前には律法学者やパリサイ人たちがたちはだかりました。そして、イエス様を陥れるために、いろんな難問をふっかけました。でも、その都度、イエス様は持ち前の知恵によって、彼らをぎゃふんと言わせました。ある時、「税金をカイザルにおさめることは律法にかなっていることでしょうか?かなっていないことでしょうか」という質問を受けました。「納めよ」と言えば、イスラエルがローマに隷属していることを認めることになります。「納めるな」と言えば、カイザルに背く者として訴えられるでしょう。どっちに答えても不利になります。イエス様は彼らにデナリ銀貨を見せながら、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました。彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエス様を残して去って行きました。福音書にはイエス様が知恵にあふれたお方として書かれています。特に目に見えない天国のことを、たとえ話によって分かり訳く教えてくださいました。大学の教授は難しいことをより難しく教えますが、イエス様は難しいことを子どもでも分かるように教えてくださいました。なぜなら、神の知恵を持っておられたからです。

 問題はこれからです。イエス様が死んでよみがえり、天にお帰りになられました。イエス様が天に帰ったとき、神の知恵も一緒にいなくなってしまったのでしょうか?そうではありません。イエス様は聖霊によって、この地上に戻ってこられました。ですから、聖霊はキリストの御霊とも呼ばれています。キリストを信じる人の内に住んでくださる聖霊が、キリストの御霊なのです。さきほど、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となられた」(Ⅰコリント130と申し上げました。神の知恵を持っておられたイエス様が、私たちの内に住んでおられるということです。箴言において知恵が擬人化され、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげている」と書いてありました。まさしく、そのことがキリストによって成就し、今、神の知恵であるキリストが私たちの中に人格的に生きておられるのです。Ⅰコリント12章には御霊の賜物が列挙されています。Ⅰコリント128「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ」と書かれています。これは賜物としての知恵であり、ある人に与えられると書かれています。この意味は聖霊が「この人に専門的に与えよう」というふうに考えておられるということです。でも、それだけではありません。キリストのからだなる教会おいて、だれかに与えようかと、聖霊が待ち構えておられるということです。では、どういう人に与えられるのでしょうか?知恵を求める人です。神からの知恵を用いたいと願っている人です。聖霊の賜物は飢え渇いている人に与えられます。「もう、結構です。間に合っています」という人には与えられません。私たちが自分の知恵に乏しいことを知り、へりくだって聖霊様に「あなたの知恵をください」と求めるなら、即、与えられます。向こうは知恵にあふれていますので、神の子らに与えたくてしょうがないのです。私もクリスチャンになる前は、「ヤコブのように悪知恵を用いて人を出し抜いてでも偉くなりたい」と思っていました。でも、今は「確かに聖霊様は知恵を下さる。アーメン」と心から言えるようになりました。その知恵は悪知恵ではなく、人を生かし、人を建て上げる神の知恵です。あなたにも神からの知恵が与えられます。なぜなら、神の知恵であられるイエス様があなたの内に住んでおられるからです。あなたの内におられるお方が、あなたに知恵をあげたいと強く願っておられます。

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2018年9月 8日 (土)

人生の優先順位 マタイ6:31-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.9

 きょうは「人生の優先順位」と題して、聖書から共に学びたいと思います。優先順位は英語で、the order of priorityと言いますが、orderは事物、価値などの「順序、順位、序列」という意味です。また、priorityは「優先事項、順位がより重要であること」という意味です。ものごとの優先順位をさすことばとして、priorityはビジネス用語になっているようです。優先順位ができていない人は、常に忙しく、何かに追い立てられて生きている人です。自分が環境の主人ではなく、奴隷であります。「だって、忙しいんだもの」と常に言っている人は、必要でないけど緊急なことに支配されている人たちです。では、どうしたら自分が環境の主人になり、順位がすっきりした生き方ができるのでしょうか?

1.神の国とその義

 マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」このところに「だから」と書いてあります。「だから」というのは一体、どの部分から帰結したものなのでしょうか?このみことばの前に、25節にも、31節にも「何を食べるか」「何を飲むか」「何を着るか」という心配ごとが記されています。そして、32節「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」「だから…」と続いています。異邦人というのは、神を信じないユダヤ人以外の人を指すことばであり、少々、軽蔑的な言い方です。そういう意味では、私たち日本人も異邦人であります。異邦人の特徴とは何でしょう?「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」、いつも心配している人たちのことです。「心配する」はギリシャ語で「思いわずらう」という意味もあります。テレビのコマーシャルを見ると、そのほとんどが衣食住のテーマを扱っています。最近は人々が食べ過ぎて、ダイエット製品が良く売れています。着る物がないのではなく、流行を追いかけており、ダサくないものを着ることを求めています。土日、近くのショッピングモールに立ち寄る時があります。「こんだけ集まって、何が面白いんだろう。他に行くところがないのか?」と思うときがあります。日本人の関心事は、神の国とその義とではなく、この世の事柄であります。

 この世そのものは罪ではありません。かつて禁欲的なピューリタン信仰が日本の教会に入ってきました。装飾品を身に着けたり、お化粧したらダメと言われました。映画もダメ、ダンスもダメ、ドラムやギターもダメみたいに言われました。それは、この世のものが罪であると考えたからです。正確にはこの世のものは罪ではありません。私たちはこの世の中に生きていますので、この世から抜け出すことはできません。この世のものを正しく用いるならば便利で快適でしょう。ただし、この世のものは私たちを占有し、神の国から遠ざける力があるということを忘れてはいけません。本来、私たちの心は神の国とその義によって、占領されるべきです。そうすれば、すべてのものが与えられることが分かり、心配する必要がなくなります。でも、日本人は、創造者なる神さまとそのお方が私たちの父であることが分かりません。日本人ほど勤勉で真面目な国民は他にいないでしょう。でも、日本人ほど心配し、思いわずらっている国民も他にいないでしょう?ある医師は5人に1人は一生の間に何らかの精神疾患にかかる」と言っています。あるデーターによると、10人に1人は、うつと戦いながら、なんとか生きているということです。「これだけ物質的に豊かな国なのに、どうしてなんだろう?」と思います。日本人は創造者なる神さまとそのお方が私たちの父であることが分かりません。私はそのことが原因であると確信しています。もし、全知全能の神さまが私たちのお父さんだとしたら、必要と守りが与えられます。もし、そのような神さまがいなかったなら、自分で一生懸命働き、自分のことを自分で守るしかないでしょう。でも、いつ病気になって倒れるかわかりません。いつリストラされて、生活できなくなるか心配です。「ああ、私は負け組じゃないだろうか?」とまで思ってしまいます。私もかつて建設会社をやめて数か月、失業していた時がありました。レストランで楽しく食事をしている光景を見て、別世界の人たちのように見えました。ルカ15章に放蕩息子の物語がありますが、そのまんまでした。何のために生きるか分からないので、ただ生き延びるための人生でした。

 現代はあまりにも複雑化しています。教育も複雑、社会構造も複雑、人間関係も複雑です。でも、イエス様はシンプルに生きることを勧めています。マタイ626「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」ここで言われている鳥はすずめなのでしょうか?あるいはカラスなのでしょうか?どちらにして彼らはすごいなーと思います。田舎でも、都会でも関係がありません。ちゃんとエサを見つけて生活しています。でも、イエス様は「天の父がこれを養っていてくださるのです」とおっしゃっています。さらにイエス様は「野のゆりのことを考えなさい」とも言われました。野のゆりは、人間のように「働きもせず、紡ぎもしません」。空の鳥もそうですが、「人間のようにあくせく働いていなくてもちゃんと生きているよ」ということです。彼ら自身は自覚していないと思いますが、天の父が彼らを養っておられるということです。イエス様は「ましてあなたがたに、よくして下さらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」とおっしゃっています。このところから、父なる神さまが私たちを養っていて下さるという信仰が必要だということがわかります。空の鳥や野のゆりは、信仰がなくても生きているようですが、人間は信仰が必要だということです。では、その信仰は一体、どこからやってくるのでしょうか?

 やっと戻ってきました。マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」だから、という以下のことばは、すべてが与えられることの条件です。これを第一に求めるなら、父なる神さまがちゃんと与えてくださるという保証でもあります。私たちの人生における優先順位の総括とは、このマタイ633節です。異邦人である私たちは、心配や思いわずらいから解放されるために、人生で何が最も重要なのか知らなければなりません。ここでは2つのことがらがくっついています。その2つは「神の国」と「神の義」であります。では、神の国を求めるとはどういうことなのでしょうか?「神の国」はギリシャ語で「神の王的な支配、統治」と言う意味です。神の国では神さまが王様です。もし、私たちが神の王国の住民になりたいと思うなら、この方を王様として心にお迎えし、この方に従わなければなりません。簡単にいうと、神さまに従い、神さまのお世話になるということです。残念ながら、生まれつきの私たちは神の存在を認めないし、むしろ逆らっています。イエス様は「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、change of mind向きを変えるということです。そして、キリストが十字架でなされた贖いを信じるということです。そうすれば、罪赦され、神の国に入り、神の国の住民になることができます。その結果、王なる神さまは私たち臣民を守り、必要を与えてくださいます。「神さまからすべての必要が与えられるので、心配することはない」ということになります。もう1つの課題は「神の義を求める」ということです。これは神さまが正しいとされることを、この世にあっても求めるということです。この世は神さまに反逆し、神さまなしの世界です。このような世界の中で、神さまが正しいとされることを求めることは並大抵ではありません。パウロはローマ12章で「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」と言いました。神の義というのは「神のみこころであり、神に受け入れられるものです」。

 鳥や花は、私たちのような意志や考えがありません。私たちは神のかたちに似せて造られたので自由意志があります。本来、自由意志は神さまに喜んで従うためにありました。しかし、アダムが罪を犯してから、「私は信じない」「私は従わない」という間違った方に自由意志を用いるようになったのです。神さまは私たちが自由意志をもって、神の国とその義とをまず第一に求めることを願っておられます。鳥や花はいくらがんばっても、神さまの子どもにはなれません。私たちはキリストにあって、神の子どもという身分が回復されました。神さまが父であるならば、子である私たちを心から面倒見たいと思うのは当然でしょう。私には4人のこどもがあります。私はとても貧しい家で育ったので、生き延びることがテーマでした。でも、キリストの神さまを信じてから、父の心が与えられました。「どうやって4人のこどもたちの学費を賄うことができるのか?」心配したときもありました。そのとき、このように思いました。「私の父は、天の神さまである。そうしたら、4人のこどもたちは、天の神さまにとっては孫である。孫をかわいがらないおじいちゃんはいない。」厳しい時期も何度か通りましたが、神の国とその義とをまず第一に求めたら、何とかなるという体験を通した信仰が与えられました。なまじっか私たちには考えがあるので、心配します。でも、私たちは空の鳥や野のゆりのことを考えて、彼らがどのように養われているか知るべきです。まして、天の父が私たちに良くして下さらないわけがありましょうか。

2.人生の優先順位

 後半は私たちの人生においてどのようなことに対して、優先順位を決めるべきか具体的にとりあげたいと思います。人生の優先順位、特に3つのことがらを上げて考えてみたいと思います。第一は時間です。パウロはエペソ5章で「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」と言いました。機会はギリシャ語でカイロスですから、「特別な時」という意味です。英語のほとんどの聖書はtimeと訳しています。ですから、今回は「時間の使い方」というふうに解釈したいと思います。神さまは平等にすべての人に124時間、86,400秒を与えました。時間は銀行に振り込まれるお金のようなものです。もし、1日毎に自分の口座に86,400円が振り込まれたらあなたはどう使うでしょうか?時間というお金はきょう使い切らなければなりません。残念ですが、明日のために貯めておくことができません。明日にはまた新たに86,400円が振り込まれます。もし、このように時間を考えるなら、「時間をつぶす」なんていう考えは生まれて来ないでしょう。なぜなら「お金をつぶす」のと同じだからです。あなたは、与えられた86,400円という時間を正しく、活かして用いなければなりません。ある人は、いつも何かに振り回されて忙しくしています。なぜでしょう?その人は時間の優先順位のない人です。もし、あなたが時間に対して優先順位をたてていないなら、あなたの空いている時間を人が使うでしょう。あなたは人から「…してください」と頼まれたら断れないタイプでしょうか?もし、あなたが時間に対して優先順位を持っているなら、あなたが時間の主人ということになります。もし、他の人が急に「…してください」と頼んでも、「いえ、今は手がふさがっています。この時間なら大丈夫です」と言うことができるでしょう。

 では、神の国とその義を第一に求める時間の使い方というのはどのようなものなのでしょうか?実はこのみことばの前に、「主の祈り」がありました。これはイエス様が「このように祈りなさいよ」と弟子たちに教えた祈りです。ということは、主の祈りこそが、優先順位のヒントになるということではないでしょうか?マタイ69「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」。この祈りは、私たちの必要ではなく、神さまの必要が満たされるための祈りです。神さまは「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」ということを願っているということです。これは言い換えると、「神さまが礼拝され、神さまの支配がこの地に来るように」と言う願いです。ということは、私たちの一日、一週間、一年において、神さまを礼拝すること、神さまの支配がくるような時間をささげる必要があるということです。旧約聖書では安息日の他に、たくさんの行事があり、一週間も聖なる日が続くことがありました。ダビデやイエス様は朝早く、父なる神さまと交わっていました。私たちはユダヤ人ではありませんから安息日という考えはありません。日曜日が聖日であり、安息日に代わるものであるという論法は後の教会が決めたものです。私たちは聖書的な根拠がどうであれ、神さまを礼拝する時間を聖別する必要があります。そして、時間の使い方に対して、優先順位を持つということを決めたらいかがでしょうか?毎日の日課、一週間の予定、一か月と予定を組むと、だらだらと時間を過ごすことが少なくなります。

第二はお金です。家庭での大きな問題は浪費ではないでしょうか?ギャンブル依存はダメですが、欲しいものを買い過ぎて、借金で首が回らなくなるケースもあります。テレビで、ある人が「必要なものと欲しいものの比率は73にすべきだ」と言っていました。いわゆる浪費癖がある場合は、特にお金の優先順位を身に着けるべきでしょう。こういう私も、お金の管理は得意な方ではありません。私が気を付けるべきものはアマゾンです。ポチと押すと、すぐ届きます。後から、クレジットの支払が「どーん」とやってきます。エディ・レオ牧師がsign and wonderということを言ったことがあります。sign and wonderは本来、聖書の奇跡を意味することばです。しかし、エディ先生の奥さんはとても買い物好きです。あっちの店でサインします。こっちの店でサインします。あとでクレジットの支払を見て、エディ先生が「ワンダー」と目を丸くして驚きます。近年、若者の間で、クレジットによるカード破産というのがとても多いようです。「カードで買うとポイントも貯まるし、得だ」と考えますが、現金が見えないので落とし穴になります。

私たちは金銭の優先順位を体得する必要があります。お金はマモンと言われ、使い方を間違えると怪物のようになります。私たちがお金の主人であり、お金が私たちの召使であるべきです。エディ・レオ牧師がそのためには、十分の一献金がすばらしい方法であると教えておられます。聖書で十分の一の記載の最初は、アブラハムがメルキゼデクにささげたことです。彼は戦利品の中から十分の一を捧げました。旧約聖書マラキ310「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、私の家の食物とせよ。こうして私をためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―私があなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかためしてみよ」と書かれています。本来、私たちは神さまをためしてはいけません。ところが、この箇所だけに、「私をためしてみよ」と書かれています。つまり、「十分の一を捧げて私が本当に祝福しないかどうか試してみよ」ということです。ということは実際にやってみた人でないと分からないということです。さらにマラキ311「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。」と書いてあります。これはどういうことかと言うと、十分の一を捧げることは、畑の周りに柵を設けることになります。その柵があるので、他の動物があなたの畑に入って、産物を食い荒らさないということです。旧約聖書には「あなたの初なりを宮に持ってきなさい」ということばもあります。ですから、捧げるための極意は、給与をもらったときにすぐに献金として分けるべきです。使った後、余ったら捧げるとなると決して成功しません。お金に対する優先順位を身に着ける一番の方法は、十分の一献金です。くれぐれも、これはやった人でなければ分かりません。信仰の先輩たちに聞くと、「本当にそうだったよ」と顔を輝かせて答えてくれるでしょう。

第三は力です。力とは私たちの体力、知力、能力、技術力と言えるでしょう。力に対する優先順位というのがあるのでしょうか?前のメッセージで伝道者の書から「すべてには季節seasonがある」とお話ししたことがあります。若い時は体力だけではなく、記憶力や想像力もすぐれています。ですから、ゲームや遊びはほどほどにして、勉強やスポーツに励むべきです。そういう意味では学校教育はいじめがなければ良いところです。若さはいつまでもあるわけではないので、将来のために投資することが大切です。また、仕事や立場によって本分というのがあります。職業によって、自分にとって最優先すべきものは何なのか、そこにエネルギーを注ぐべきです。どうでも良いことにエネルギーを裂いてはいけません。「人助け」と称して、よく人のおせっかいばかりしている人がいますが、自分の責任をまず果たすべきです。子育てのときは、子どもに本当にエネルギーを取られます。でも、これも子どもの将来のための愛の投資です。今どき、「この子が親孝行してくれるか?」などと考える親はいないでしょう。ある人が「子どもは三歳まで、十分親孝行してくれた」と言いました。年を取れば、だんだん体力と記憶力が衰えてきます。若い頃のように無理がききません。でもこの時期には、洞察力、管理能力、総合的な判断が最高潮の時です。また、次の世代にこれまで培ってきたノウハウを伝える重要な役目もあります。ちなみに老後にゆっくり旅行に行こうなんて無理です。まだ、足腰がきくころに出かけるべきです。このように人生の各ステージにおいて、優先順位が違ってきます。でも、体力、知力、能力、すべてのことに言えることですが、学ぶ時間、鍛える時間を常に取らないと、衰えていくばかりです。神のご栄光のために、一生勉強、一生研究、一生訓練することが必要です。

もし、あなたが「人生の成功の秘訣は何ですか?」と答えたら何と答えるでしょう?もし、あなたが死ぬ前に、子どもに「このことが一番、大事なことだよ」と伝えたいことは何でしょう?あるパン屋さんが、死ぬ前に息子を呼んでこう言ったそうです。「サンドイッチのハムは薄く切ろよー」。何かさみしいですね。私だったら「人生で大事なのは優先順位だよー」と言いたいです。その時、添えたいみことばはマタイ633節です。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」私は親が子どもに残せる最大の遺産は信仰だと思います。信仰の極致は、滅びないで永遠のいのちを持つと言うことです。永遠のいのちを持っていたら、地上の人生はおまけみたいなものです。でも、その子がひとり立ちして生きるためにも信仰が必要です。いつまでも、親が一緒にいて助けることはできません。でも、人生のすばらしい秘訣があります。それは人生の成功の秘訣でもあります。たとえ、子どもに遺産を残せなくても、人生の優先順位における信仰を与えることができたら大丈夫です。最後にリビング・バイブルでマタイ633-34節をお読み致します。「神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものはすべて、神様が与えて下さいます。明日のことを心配するのはやめなさい。神様は明日のことも心にかけて下さるのだから、一日一日を力いっぱい生き抜きなさい。」

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