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2018年9月14日 (金)

知恵を求めよ Ⅰ列王記3:10-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.16

 知恵と知識は兄弟姉妹のような関係です。現代人は知識を求めます。クイズ番組でも知識の豊富な人が有利です。林先生もその一人でしょう。知識も必要ですが、知恵も必要です。いくら知識があっても、知恵がないなら、それを用いることができないからです。知識はいわば、建築資材のようなものです。いくら建築資材が山のように積まれていても、それが家になるわけではありません。箴言91「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据える」と書いてあります。私たちには知恵が必要です。神から知恵をいただくならば、複雑な世の中でも、平安で豊かな生活ができるでしょう。

1.ソロモンの知恵

 ダビデのあとを継いだソロモンが神である主から「あなたに何を与えようか。願え」と言われました。ソロモンは謙遜にも、「イスラエルの民をさばくために知恵をください」と求めました。彼の願いに対して、神さまは大変喜ばれました。普通の人なら、長寿とか富、あるいは敵のいのちを求めるからです。神さまは「わたしはあなたに知恵の心と判断する心を与える」と約束されました。そればかりか、ソロモンが願わなかった富と誉れも与えました。すばらしいことに、ソロモンはだれもがいただけなかったような崇高な知恵を神さまからいただきました。Ⅰ列王記をみると分かりますが、ソロモンはむずかしい問題を次々とさばきました。そして、海外と交易を行い、富と財宝がイスラエルに流れ込んできました。また、ソロモンは自然科学者であり、また文学者でもありました。それで、敵国でさえも、ソロモンの知恵を求めてやってきました。さらに、ソロモンはダビデが願っていた神殿をレバンノンの杉を用いて建造しました。また、ソロモンは13年かけて、まばゆいばかりの宮殿を建てました。神殿のときもそうでしたが、豪華で巧みな装飾がなされています。まさしく、「知恵が家を建てた」という感じがします。あるとき、シェバの女王が有力者たちを率いてエルサレムにやってきました。そして、心にあったすべてのことをソロモンに質問しました。ソロモンは、彼女のすべての質問を解き明かしてあげました。王がわからなくて、彼女に解き明かせなかったことは何1つありませんでした。女王はソロモンにこう言いした。Ⅰ列王記106-7「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。」

 残念ながら、ソロモンの人生の後半は良くありませんでした。外国の女性と結婚し、彼女らの神々に香をたき、いけにえをささげました。主はソロモンに怒りを発せられました。主が二度も彼に現れ、警告しましたが、従おうとはしませんでした。ソロモンの死後イスラエルは北と南に分裂しました。ヘブル人への手紙11章に信仰者の列伝が記してありますが、ソロモンの名前は出て来ません。でも、ソロモンは箴言、伝道者の書、雅歌を残しました。全部がソロモンの作ではないかもしれませんが、ソロモン自身の反省もその中に記されています。という意味では、私たちはソロモン自身とソロモンが書いた書物から、知恵の大切さを知り、それを神さまから求める必要があるのではないでしょうか?ビル・ジョンソンは少年のとき、神さまに1つの願いことをしたそうです。先生は「ソロモンのような知恵をください」と願いました。先生自身も高慢にならないように願いつつ、神さまが知恵を与えてくださったと証しています。どの本か忘れましたが、神からの知恵は、啓示ととても関係があると書いていました。啓示ということばは、「隠されていたものが露わにされる」という意味です。知恵も同じで、私たちの目から隠されています。でも、求めるならば、与えられます。ヤコブは「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ15と言いました。知識は一生懸命、努力して獲得するイメージがあります。一方、知恵は神さまが上から与えてくださる恵みのようなイメージがあります。ユダヤ人はとても頭が良いと言われています。彼らは世界の有数な銀行をいくつか支配して、経済を牛耳っています。その理由は小さいときから律法を学び、神さまに知恵を求めているからでしょう。私たち日本人はどの国の人たちよりも、頭が良くて勤勉だと言われています。でも、発想とか発明という点ではとても弱いです。改良して製品化するのは得意ですが、ないところから新しいものを作るという創造力がありません。やはり知恵の源であり、全宇宙を作られた神さまと関係を持っていないからだと思います。

 ソロモンは主なる神さまから知恵をいただきましたが、その知恵はどのように生かされたのでしょうか?簡単に列挙したいと思います。第一は裁判における知恵です。ふたりの女性が、「これはわが子です」と主張しました。ソロモンは「剣で生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい」と命じました。片方の女性は「決して殺さないでください。その子をあの女にあげてください」と言いました。他方は「断ち切ってください」と言いました。ソロモンは「生きている子どもを初めの女に与えなさい」と言いました。みんなソロモンの知恵に驚きました。日本は裁判が長くかかり過ぎます。第二は国の防備です。城壁と青銅のかんぬきを備えた町を作り、相応しい人たちを立て、馬と戦車を備えました。第三は、数えきれないほどの箴言と歌を作りました。第四は植物や生物を研究し、学術的にも成果をあげました。第五は建築です。すばらしい彫り物の施された神殿と宮殿を作りました。家具や調度品には金が貼り付けられていました。第六は交易です。ツロのヒラムがパートナでした。1年間にソロモンのところに入って来た金の重さは666タラント(約20トン)でした。「銀はソロモンの時代には、価値あるものとみなされていなかった」(Ⅰ列王記1021)と書かれています。結論ですが、もし、神さまからの知恵をいただいたならば、経済的な困窮はありえません。国も守られ、安心して暮らせます。科学や芸術も発展し、生活も豊かになるでしょう。日本は地下資源が乏しいと言われていますが、神さまからの知恵をいただくならば、豊かで安全な生活、間違いなしです。

2.知恵を求めよ

 箴言のほとんどがソロモンの作と言われています。箴言は「神からの知恵がどれだけすばらしいか」ということが記されています。しかも、知恵が擬人化されており、「私を探し求めなさい」と書かれています。箴言120-23「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。『わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。』」箴言51「わが子よ。私の知恵に心を留め、私の英知に耳を傾けよ。これは、分別を守り、あなたのくちびるが知識を保つためだ。他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。」おそらく、これはソロモン自身の反省を踏まえたものではないかと思います。「わが子よ」というのは箴言を読むであろう、後代の人たちのことではないでしょうか。ソロモンは神からのすばらしい知恵をいただいて頂点をきわめた人です。でも、他国の女性によって失敗しました。ですから、この箴言はソロモン自身の悔い改めと、私たち対する奨励と取ることができます。重要なことは私たちが、わきまえのない者にならないで、主の知恵に心を留めるということです。

 箴言を読んでみて分かる1つの特徴があります。それは知恵ある者と愚かな者、そして正しい者と悪者と2つに分けられているということです。私たちは日常、暮らしていて「そんなに極端に2つに分けていいのだろうか?」疑問を覚えるかもしれません。でも、箴言は痛快なくらい、2種類に分けています。おそらく、2者を並べることによって、コントラストを付けているのだと思います。それではイエス様を信じて救いを得ているクリスチャンがどうなのかということです。私たちが自動的に、「知恵ある者であり、正しい者になっているか?」ということです。もしかしたら、信仰があっても「愚かな者であり、悪者になってはいないだろうか?」ということです。一番の違いは、知恵を用いて生きているかということです。もし、信仰があっても、知恵を用いていないならば、愚かな生き方をしている可能性が出てくるということです。よく、「神さまが愛なのにどうしてこんなことが起こるのですか?」と文句を言う人がいます。あるいは、「一生懸命やったのに、どうして報いてくださらないのですか。私は何をやってもだめなんだ」と自己憐憫的な人もいます。極端なことを申しますと、神さまが愛であることと、知恵を用いて生活することとは違うと思います。私たちは、この世には法則があり、その法則に従わなければ、相応の結果を被るということを忘れてはいけません。神さまは英知を持って、この宇宙を造り、今もささえておられるお方です。もし、私たちが神さまの知恵をいただいて、その知恵を用いるならば、合法的に良い生活ができるのではないかと思います。私たちは知恵がないために、愚かな生き方をもしかしたらいているかもしれないということです。神さまが私を愛しているから、私は神さまを信じているから、すべてのものがうまくいくと考えるのは早計だと思います。

 神さまは私たちに知恵を働かせて生きるように願っておられるからです。たとえ神さまを信じていなくても、知恵を用いて、良い生活をしている人はたくさんいます。もちろん「良い生活」の定義もむずかしいですが、とにかく、恵まれた生活です。一般恩寵でも、ある程度の所まで行きます。なぜなら、神さまは私たちを知恵ある者として造られたからです。でも、ソロモンがそうであり、箴言もそうなのですが、神からの知恵は特別であり、大きな力があるということを知らなければなりません。私たちは信仰者として、神から知恵をいただいて、日常の生活で用いるべきだということです。なぜなら、せっかくクリスチャンになっても、神さまが願っている標準的な生活に達していない方もいらっしゃるからです。なぜなのか?それは、神からの知恵を用いていないからです。箴言には「家」とか「部屋」ということばが何回も出てきます。冒頭でも言いましたが、箴言91「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据える」、箴言141「知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす。」箴言243-4「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。」私は「家」とか「部屋」は生活とか人生を象徴しているのではないかと思います。簡単に言うと生活や人生は「その人次第である」ということです。神さまは私たちがどのように生きるのか任せておられます。家や部屋のように、ごちゃごちゃになったり、住みやすいものになったりします。私たちの周りにもごちゃごちゃな人生を送っている人もおれば、ぴしっと筋の通った麗しい人生を送っている人もいます。いろいろ理由や要因があると思いますが、「知恵」です。知恵が、家を建て、部屋を尊く、好ましい宝物で満たすことができるのです。もし、神からの知恵を用いるならば、もっと豊かで恵まれた生活を送ることができると信じます。

 なぜ、あなたの人生がごちゃごちゃで、破れた所や壊れた所があるのでしょうか?神さまは愛です。イエス様を信じる信仰があったとしても、自動的に生活が良くなるわけではありません。父なる神さまは、あなたに知恵を用いるように願っておられるのではないでしょうか?日本ではあまり分かりませんが、貧しい国に行くとそのことが良く分かります。インドなどでは汚い水を飲むので赤痢になって死ぬ人たちがたくさんいます。水を一度煮沸するか、井戸を掘れば良いのです。仏教の国が貧しいのは、この世の物質を神さまからの賜物として用いていないからです。イスラムの国が貧しいのは女性の身分を認めていないため、労働力が低いからです。南米は焼畑農業ではなく、耕作地を作って種を蒔けば良いのです。私たちは文化圏に住んでいるので、「彼らがこうすれば良いのに」ということがすぐわかります。でも、天の神さまが私たちをご覧になってどう思っておられるでしょうか?「私の名を信じているあなたがどうして地を這うような生活をしなければならないのだろうか?私の知恵を用いたならば、豊かで恵まれた生活が送れるのに。私は天国でだけではなく、地上でも豊かに恵んであげたいのに」と思っているでしょう。

3.キリストこそ知恵

 Ⅰコリント130「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」このところにすばらし約束があります。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となられた」と書かれています。パウロが言いたいことは、私たちはキリストのうちにあり、キリストも私たちの内にあるという真理です。クリスチャンはキリスト様が内に住んでいらっしゃいます。そのお方が、神の知恵そのものであるとしたらすばらしいではないでしょうか?でも、その前に、御子イエス・キリストがどういう意味で神の知恵なのか知らなければなりません。コロサイ1章には御子イエスさまが創造者であることが書かれています。コロサイ115-17「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」私たちは父なる神さまが創造主であることは知っていましたが、なんと御子イエスもそうであったということです。御子イエスはこの地上に来るまでにロゴスと呼ばれていました。ヨハネ11-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」日本語のヨハネ福音書にはことばと書いてありますが、ギリシャ語は「ロゴス」であり、当時の世界では「宇宙を造った理性的な存在」と考えられていました。

 でも、その方が肉体をとってこの地上に来られました。なんと、私たちと同じ赤ん坊で生まれて、そこからスタートされました。ルカ252「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」と書いてあります。あのイエス様であっても、知恵が進む必要があったということです。進むとは「発展する」とか、「増し加わる」という意味です。そして、ルカ福音書には12歳のときの少年イエスについて書かれています。ヨセフとマリヤは少年イエスを連れて、エルサレムの祭りにのぼりました。その当時は、知人や親族でまとまって帰ってくるので、少年イエスがその中にいると思っていました。ルカ246-47「そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」なんと、12歳の少年イエスが律法の専門家たちと対等に渡り合っているではありませんか?「人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」と書いてあります。イエス様は30歳になってから、公生涯に入ります。町や村へ神の福音を宣べ伝えに行きました。ところが、イエス様の前には律法学者やパリサイ人たちがたちはだかりました。そして、イエス様を陥れるために、いろんな難問をふっかけました。でも、その都度、イエス様は持ち前の知恵によって、彼らをぎゃふんと言わせました。ある時、「税金をカイザルにおさめることは律法にかなっていることでしょうか?かなっていないことでしょうか」という質問を受けました。「納めよ」と言えば、イスラエルがローマに隷属していることを認めることになります。「納めるな」と言えば、カイザルに背く者として訴えられるでしょう。どっちに答えても不利になります。イエス様は彼らにデナリ銀貨を見せながら、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました。彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエス様を残して去って行きました。福音書にはイエス様が知恵にあふれたお方として書かれています。特に目に見えない天国のことを、たとえ話によって分かり訳く教えてくださいました。大学の教授は難しいことをより難しく教えますが、イエス様は難しいことを子どもでも分かるように教えてくださいました。なぜなら、神の知恵を持っておられたからです。

 問題はこれからです。イエス様が死んでよみがえり、天にお帰りになられました。イエス様が天に帰ったとき、神の知恵も一緒にいなくなってしまったのでしょうか?そうではありません。イエス様は聖霊によって、この地上に戻ってこられました。ですから、聖霊はキリストの御霊とも呼ばれています。キリストを信じる人の内に住んでくださる聖霊が、キリストの御霊なのです。さきほど、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となられた」(Ⅰコリント130と申し上げました。神の知恵を持っておられたイエス様が、私たちの内に住んでおられるということです。箴言において知恵が擬人化され、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげている」と書いてありました。まさしく、そのことがキリストによって成就し、今、神の知恵であるキリストが私たちの中に人格的に生きておられるのです。Ⅰコリント12章には御霊の賜物が列挙されています。Ⅰコリント128「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ」と書かれています。これは賜物としての知恵であり、ある人に与えられると書かれています。この意味は聖霊が「この人に専門的に与えよう」というふうに考えておられるということです。でも、それだけではありません。キリストのからだなる教会おいて、だれかに与えようかと、聖霊が待ち構えておられるということです。では、どういう人に与えられるのでしょうか?知恵を求める人です。神からの知恵を用いたいと願っている人です。聖霊の賜物は飢え渇いている人に与えられます。「もう、結構です。間に合っています」という人には与えられません。私たちが自分の知恵に乏しいことを知り、へりくだって聖霊様に「あなたの知恵をください」と求めるなら、即、与えられます。向こうは知恵にあふれていますので、神の子らに与えたくてしょうがないのです。私もクリスチャンになる前は、「ヤコブのように悪知恵を用いて人を出し抜いてでも偉くなりたい」と思っていました。でも、今は「確かに聖霊様は知恵を下さる。アーメン」と心から言えるようになりました。その知恵は悪知恵ではなく、人を生かし、人を建て上げる神の知恵です。あなたにも神からの知恵が与えられます。なぜなら、神の知恵であられるイエス様があなたの内に住んでおられるからです。あなたの内におられるお方が、あなたに知恵をあげたいと強く願っておられます。

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