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2018年8月31日 (金)

機会を逃さない 伝道者の書9:11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.2

 私たちは日常生活において「チャンスをつかんだとか、逃した」とか言います。「聖書にそういう表現があるのだろうか?」と思うかもしれませんが、あります。でも、この世の人たちが考えるような、無情で気まぐれな存在ではありません。もし、私たちがチャンスに対して、日ごろから正しい姿勢を持っているなら、つかまえることができるでしょう。箴言に「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。」(箴言1924とあります。チャンスもそれと同じで、なまけ者でない限りは、だれでもつかめるようになっているのです。

1.時と機会

 時と機会は神さまからの賜物です。伝道者911後半に「すべての人が時と機会に出会うからだ」と書いてあるからです。すばらしいことに、神さまはすべての人に時と機会を与えておられます。伝道者の書には「時と機会をつかむことが何よりも勝る」と書いてあります。第一は競争です。私たちは、競争は足の早い人が勝つに決まっていると思っています。人ではなく、馬にたとえてみましょう。私は競馬はやりませんが、レースの前に人々が「この馬が勝つんじゃないだろうか」と予想して賭けます。一番人気とか、二番人気があります。もちろん血筋が良くて、実力のある馬が勝つ確率は大です。でも、実際のレースはどうなるか分かりません。馬場の状況とか、コース取りで、予想外の馬が一着になったりします。「勝負は時の運」と言います。でも、騎手は「馬の特質を知って、ここぞという時にしかけたら勝てた」と言うでしょう。第二は戦いです。旧約聖書には、勇士たちが登場しますが、意外な人が勝ったりします。少年ダビデは3メートルもある戦士ゴリアテに勝利しました。一番弱い部族の一人と言われたギデオンがアマレクに勝利しました。主が彼らと共にいたので、勝利する道を与えました。第三はパンです。パンは生きる糧であり、生活必需品の代表です。パンを得るためには知恵も必要ですが、時と機会に出会った人の方が有利です。Ⅱ列王記7章には、お腹を空かした4人のらい病人が出てきます。彼らは「どうせ、ここに座っていても死ぬんだから」とアラムの陣営に近づきました。主がアラムに戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、兵士はいのちからがら逃げ去りました。だれもいないので、彼ら4人は労せずして、たらふく食べたり飲んだりすることができました。さらには、富は悟りある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでないと続きます。まとめると、競争、戦い、パン、富、愛顧は時と機会に出会うことの方が、能力のすぐれた人たちよりもまさるということでした。

 神さまはすべての人に、時と機会を与えておられます。問題は、私たちがそれを捕まえて、活かすことができるかということです。なまけ者のように、ただ口を開けて待っているだけではダメです。皿にもられたなら、口にもっていかなければなりません。私は8人兄弟の7番目だったので、ゆっくり食べられませんでした。すぐ上の兄は体力と運動神経が抜群で、いっぱい食べます。ぼやっとしていると、自分の分がなくなります。だから、噛まないうちに、他のおかずを口に入れます。そこへ行くと、長男や一人っ子は、のんびりしています。自分の分がちゃんとあるのであわてることがありません。私はとてもせっかちです。一番良いときにつかめば良いのですが、まだ早いのに、手を出して失敗します。最善の時を待つことができません。なぜなら、「そういうことは、もう二度と来ないんじゃないか?」と言う焦りがあるからです。後から「ああ、もうちょっと待っていれば良かった。チックショウ!」と後悔します。昔、テレビで「底抜け脱線ゲーム」というのがありました。先端に針がついている模型の列車が円形の線路をぐるぐる走っています。そして、線路の途中に風船が1個置いてあります。プレイヤーは離れたところでパズルを解くのですが、列車が通過する前に風船を持ち上げなければ、風船が割れてしまい、ゲームオーバーになります。ずーと、そこで風船の番をしているなら、パズルは解けません。列車が来ない、わずかな間に、そこを離れて作業しなければなりません。そのゲームは、集中力とタイミングの勝負でした。私はハラハラ、ドキドキしながら見ていました。私たちの人生においても、良い時と良い機会に出会ったときに、全力を注がなければなりません。

 神さまはだれにも時と機会を与えてくださいます。「だれにでも」ですから、神さまの一般恩寵と言えるでしょう。日本では豊臣秀吉、徳川家康、二宮尊徳、野口英雄、田中角栄などが、時と機会をつかんで出世した人と考えられています。海外では、コロンブス、ロックフェラー、オードリー・ヘップバーン、ビートルズでしょうか?もっと相応しい人がいるでしょうが、私の偏見が入っていました。アメリカ西部のテキサス州にエイツプールという油田があります。これは実際にあった話です。本来ここは、エイツという人の所有地でした。エイツという人は貧しい人で、国から生活保護を受けていました。毎日のように彼は羊の世話をしながら、どうしたら借金を返すことができるかと考えていました。そんなある日、石油会社の専門家がその辺りを地質調査したところ、必ずここには油田があると告げました。その会社が油田の試掘を求めた時、彼は試掘に同意しました。結果、地下1,115フィートから毎日16万バレルもの石油が湧き出ました。30年後、政府がその中の1つを調べたところ、まだ毎日125千バレルもの石油が湧き出ていたそうです。彼はもちろん億万長者になりました。国からも多くの賞をいただき、多くの良い働きをしました。実は、エイツは初めからこの土地を全て所有していました。その牧場を買ったときから、彼は全てを所有していたのです。では、なぜ彼は貧しくて、不幸で力のない生活をしなければならなかったのでしょう。それは彼がその事実を知らなかった事と、無限の油田を発掘しなかったからです。彼がチャンスをつかんだのは、油田の試掘に同意したことです。

アンドリュー・カーネギーのことばです。「チャンスに出会わない人間は一人もいない。それをチャンスにできなかっただけである。」サーファーたちから学ぶことがあります。私たちはリバイバルの波を起こすことはできません。波を起こしてくださるのは神さまだけです。私たちができることはその波をとらえ、できるだけ長く波に乗り続けていることです。波が来たら乗るのです。

2.投資の勧め

投資といっても、株を買うということではありません。投資は英語で、investmentですが、「時間や精力などを投じる」という意味もあります。私たちはどれが一番良い時なのか人間なのでわかりません。重要なのは、チャンスが来たとき、つかまえる力がなければなりません。広島の植竹牧師は「チャンスの神さまはキューピーちゃんのようである」と言われました。キューピーちゃんはご存じのとおり素っ裸の赤ん坊です。そして、前髪がちょっとだけついています。チャンスの神さまキューピーちゃんが向こうから走ってきました。とても速いスピードで、目の前を通過していきます。「今だ」と思って、つかまえようとするのですが、少しでも遅いと「つるん」とすべってしまいます。キューピーちゃんは何も着ていないからです。タイミングが重要です。向こうから来たなと分かったなら、「きゅっ」と前髪をつかまえるのです。そうすれば、チャンスをものにすることができます。タイミングとつかまえる力が要求されます。広島の植竹牧師のお嬢さんは、高校生の時からパイプ・オルガンを弾いていました。ある時、ヨーロッパから有名なオルガニストが広島の町に来たそうです。詳しいことは忘れましたが、その方との出会いによって、ヨーロッパに留学できたそうです。プロフィールによると、エリザベト音楽大学、ドイツ・ウエストフアーレン州立教会音楽大学、オーストリア・ウィーン国立音楽大学の各校を卒業されました。現在は広島キリスト教会の主任牧師、教会音楽師です。彼女はある程度の実力があったので、みそめられたのです。しかし、チャンスを与えたのは神さまです。Orchestrateということばの意味をご存じでしょうか?いわゆる音楽のオーケストラの動詞形です。Orchestrateは「ひそかに計画する、画策する」という意味です。全能なる神さまがチャンスがめぐって来るように、配剤しておられるとは何とすばらしいことでしょう。

伝道者の書を書いた人はイスラエルのソロモン王であると言われています。ソロモンは交易によって国を繁栄させました。彼はツロの王ヒラムとパートナーを組みました。ツロは小さな海洋都市でありながらも、巨大な富による繁栄を誇っていました。 ツロと組んでシドン、西のタルシシュ、南のエジプトを初めとする諸国と通商関係を結び、原料を輸入してはそれを加工して製品化してそれを輸出しました。特に、陶器、銀細工は優れていました。ヒラムは優れた杉材を神殿や王宮の建築材として提供してくれました。ソロモンの投資の精神をほうふつさせるようなみことばがあります。伝道者の書11章です。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」(伝道者の書111-6)。

 この箇所は、どのようにしてチャンス(好機)を捕えたら良いのか私たち教えてくれます。「あなたのパンを水の上に投げよ、ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」というのはまさしく投資です。これは1つの説です。ナイル川が氾濫すると、上流から肥沃な土が運ばれてきます。水がまだひき切っていない内に種を蒔くのが良いそうです。でも、さながら、水の上に投げるような危ない行為です。もしかしたら、種が流されてしまうかもしれません。でも、後の日にすばらしい収穫を得るための投資であります。また「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」と書いてあります。これは、慎重し過ぎる人のことを言っています。株をやっている人はしょっちゅうグラフを見ています。おそらく、プロの人はデーターがどうのこうのではなく、最後は自分の感を信じているのではないでしょうか。最後の「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」というのは白いですね。競馬で言うと、「抑え馬券」でしょうか?もし、本命が来ない場合の抑えです。しかし、専門家に言わせると、「これは絶対やってはいけない」ということです。でも、伝道者の書の記者は、1回だけでなく、複数回、いろいろ投資しなさい。「あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」と言っています。ギャンブルのことを教えているのでないでしょう。私たちの力の向け方、力の注ぎ方であります。

 成功している人は、自分の専門だけではなく、まったく別なことも手掛けています。Ⅹジャパンのヨシキは、アメリカで音楽活動をしていますが、オリジナル・ワインも作っています。しかし、芸能人は慣れないことをやって失敗しているのも事実です。テレビのコマーシャルでよく見ますが、「サントリー」とか「味の素」など全く別なものを作っています。何かを作っている過程で、副産物を発見し、それが当たる場合もあるようです。私たちの人生、信仰生活にどのように適用できるのでしょうか?私たちのほとんどは、仕事をして糧を得ています。それは、職業といえるでしょう。では、神さまに対する奉仕はどうでしょうか?教会内ですることもあるし、世の中に出て行くこともあります。ほとんどがお金が目的ではなく、神さまと人々に対する奉仕です。でも、これは御国の投資と考えることはできないでしょうか?もし、糧を得るための仕事しかしないのなら、多くの賜物や才能が埋もれたままになるでしょう。神さまはどんな人にも時と機会、さらには成し得る賜物や才能も与えておられます。聖書にタラントのたとえがありますが、5タラントと2タラントを預けられたしもべはすぐに行って商売をして、もうけました。1タラントのしもべは地を掘って隠したので、あとから主人にしこたま怒られました。私たちは神さまから与えられたものを用いなければなりません。私たちが行ったこと、ささげたものが、御国へのすばらしい投資であると考えるべきです。天国投資ですから、いずれは私たちのものになります。

3.機会を生かして用いる

新約聖書にも伝道者の書と似たような聖句があります。エペソ5:15-16「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」日本語の「機会」はギリシャ語では、カイロスです。時間の流れを表わすことばはクロノスですが、カイロスはそうではありません。辞書には「ちょうど良い時、都合の良い時、適当な時、好機、機会」と書いてありました。おそらく、カイロスは伝道者の書がいう「時と機会」ではないかと思います。しかし、テサロニケ5章を見ると、とても面白い表現に遭遇します。日本語聖書は「機会を十分に生かして用いなさい」と書いてあります。「アーメン、もっともなことだなー」と思います。でも、原文はいささか違います。なんと「機会を贖いなさい」と書かれています。贖うとは、お金を出して買い戻すと言う意味です。イエス様が私たちを罪から贖ってくださったことばと同じです。おそらく、これを書いたパウロは、「機会というのはそれほど価値があるものであり、ただじゃないんだ」と言いたいのでしょう。確かに、一度過ぎ去った機会を取り返すというのは、不可能です。だから、「お金を出してでも、買い戻しなさい」というのも分かります。使徒パウロの生涯を考えるとき、パウロは機会を逃したこともあれば、しっかりつかんだことのもある人物でしょう。パウロが小アジアに伝道に行こうとしたとき、御霊によって禁じられました。伝道はイエス様の至上命令であり、おかしなことです。ある夜、パウロは幻を見ました。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願していました。現代、自分が属している教団にこんなことを言ったら、気がおかしいと相手にされないでしょう。ところが、使徒1610「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」ここから、ヨーロッパ伝道がはじまったのです。パウロは機会を逃さないで、ヨーロッパに渡り伝道しに行きました。

機会はお金で買い戻さなければならないくらい、貴重なものだということです。でも、良い機会を捕えることを邪魔するものがあります。パウロは「悪い時代だから」と言っています。時代は、「日々」daysです。これは、神さまから離れている人たちの生活ぶりを表現していることばです。この世の人たちは、時間と富を浪費しています。神さまから与えられているなどとは全く考えていません。ルカ15章の放蕩息子のような生き方をしています。放蕩息子は、父親の財産、若さを浪費していました。その国に大飢饉が襲い、食べるものにも困り、最後は豚の世話をしました。豚はユダヤ人にとっては汚れた動物でした。彼はいわば身を持ち崩した人物の象徴です。まさしく現代の若者たちは、放蕩息子のように過ごしているのではないでしょうか?伝道者の書11章に「若さも、青春も、むなしい」と書かれています。何か言ったら、「構わないでくれ!私の人生だから」と文句を言われるでしょう。年取ってからやっと気づくのです。私が建設会社で仕事をしていた頃です。現場の先輩たちは、仕事が終わると飲みにいくか、麻雀をするかどちらかでした。みんな一流の大学を出ている人たちで、「もう勉強なんかしなくて良い」と思っていたのでしょう。私も多少遊びましたが、コツコツと英語を勉強していました。何故、私が英語を勉強したか2つの理由があります。1つは先輩の一人が軍事マニアでした。彼が新しい英語の辞書を買ったので、一版古い研究社の辞書を半額で譲ってくれました。私はそれを用いて、ラジオ英会話のテキストを買って勉強しました。もう1つは宇都宮に出かけたとき、キャッチに会い20数万円のカセットテープ付の英語教材を買ってしまったことです。あの頃から、断れない性分だったんですね。それで、元を取るためにコツコツと勉強しました。いずれは、土木現場をやめて、英語事務か通訳の仕事をしたいと思っていました。23歳のときに退職し、厚木の小さな貿易会社に入ることができました。その会社の上司がクリスチャンで、伝道されて、やがては牧師になりました。現在英語の仕事はしていませんが、とても役立っています。私の運命を変えたのは、英語の辞書であり、小さな貿易会社への転職でした。今、思えば、神さまのOrchestrateであり、「私は時と機会を捕えることができたんだなー」と思います。

 みなさんの中にも、「あのときが私の転機であった」ということがあると思います。「うまくいった」と感謝することあれば、「ああ、しくじったなー」と後悔することもあるでしょう。確かに、ワンチャンスしかないときもあります。でも、私たちの神さまはOrchestrateの神さまですから、「遅すぎる」ということはありません。なぜなら、まだ天国に召されていないからです。まだ、生きているのですからチャンスは巡ってくると信じます。確かに、一度過ぎ去った機会を取り返すというのは難しいでしょう。でも、放蕩息子のたとえには続きがあります。彼が我に返って、父のところに戻りました。なんと、父は彼を無条件に受け入れてくれたではありませんか。父は息子に、一番良い着物を着せ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせてくれました。これら3つは、義の衣、息子としての権威、もう奴隷ではないということを象徴しています。私たちの神さまは回復の神さまです。柏に「人生やりなおし道場」という名前の教会があります。これはもとヤクザの鈴木啓之先生が牧会している教会です。ある人が、「土地と建物を伝道のために使ってください」と捧げてくれたそうです。その人は、御国のために投資してくださったんですね。私たちの神さまは、時と機会を買い戻してくださる神さまです。だから、ワンチャンスだけではなく、セカンドチャンス、サードチャンスも与えてくださいます。よく芸能人が再起不能なようなスキャンダルを起こして消えて行きます。もちろん戻って来る人もいますが、ああいう人たちは、イメージが勝負なので、元通りと言う訳にはいかないでしょう。極論ではありますが、もし、彼らが救い主イエス・キリストに出会ったなら、元を取れるのではないかと思います。スキャンダルを起こしたお蔭で、イエス様に出会って永遠を手に入れたら勝ち得て余りある人生ではないでしょうか?私たちクリスチャンもこの世において、「まずいこともあったなー」と顔を赤らめることが1つや2つはあるでしょう。でも、イエス様と出会って、永遠を手に入れたのですから、勝ち得て余りある人生です。あのようなマイナスがあって、むしろ良かったのです。

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2018年8月25日 (土)

人生の季節 伝道者の書3:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.26

 日本語の聖書は「天の下では、何事でも定まった時期がある」と書いています。英語の詳訳聖書はThere is a seasonとはじまります。seasonの方が、ロマンがあって良さそうな感じがします。スイスの精神科医、ポール・トゥルニエが『人生の四季』という本を書きました。私は人生を4つではなく、5つ分けて考えてみました。テレビの放送大学で「発達心理」を、ちょっと見ましたが「つまんないなー」と思いました。メリハリがなく、暗くて聞かせようという努力が見えません。あの人たちは笑点を見て、少し勉強したら良いのではないかと思いました。

1.幼児期

 幼児期はゼロ歳からと言われていますが、本当は胎内にいるときから始まります。近年、胎教ということが言われますが、胎児はどうも聞いているらしいのです。結婚をしていない女性が「生むべきか」「生まないべきか」と悩んでいる不安感が、胎児に伝わったらどうでしょうか?人生の初めから「私には価値がない」「私は不適切である」というレッテルを貼られて生まれるようなものです。救世軍の創設者にウィリアム・ブースという有名な人がいます。彼のお母さんがおなかの子に「ビル。世界がお前を待っている」と声をかけたそうです。すごいですね。スタートの地点から違います。私は8人兄弟の7番目で生まれ、おまけみたいな存在でした。私は小さい時から眉間にしわがありました。家内は「神経質に見えるから伸ばしなさい」と注意してくれました。4番目の子どもが生まれ、産院に面会に行きました。なんと、赤ちゃんの眉間にしわがありました。その時、「よく、生まれて来たね!」と言って喜びました。それは赤ちゃんに言ったことも確かですが、自分にも言ったことばでした。詩篇139篇には「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇13916と書いてあります。なんと母子手帳はお母さんが書く前から、創造主なる神さまが書いておられました。

 幼児期に一番必要なのは「基本的信頼感」です。自分は愛されている、受け入れられているという安心感です。だから「基本的安心感」とも呼ばれています。英語にinsecureということばがあります。「自信が持てない」という意味ですが、「安全でない」「守りがない」という意味もあります。両親からちゃんと愛を受けない場合、「自分には守りがない」と言う恐れと不安がつきまとうでしょう。幼児にとって母親と父親の役割が違います。最初に子どもを抱くのが母親です。授乳、排せつ、睡眠、全部やってあげます。この時は、母親とべったりで良いのです。ハンナもサムエルを乳離れするまでしっかり育てました。その後、父親が必要となります。入浴のお手伝いをするだけではありません。父親は社会の代表です。父親が「あなたはすばらしい、価値がある」と励ますならば、「世の中は、きっとすばらしい」と外に向かって生きる力が与えられるでしょう。もし、母親しか育児をしないなら、偏った子どもになります。「親子パック」というのがありますが、母子一体で境目がなくなります。拒食症とかリストカットする原因になると言われています。また、深刻なダメージを与えるのが、ニグレクト、度を越したせっかん、性的虐待です。「良い子を演じなければ生き延びられなかった」という人もいます。「そんなことしたらお母さん悲しいわ。お母さんを悲しませないで」という、ダブルバインドもダメです。子どもを操作してはいけません。子どもをいらだたせてもいけません。スーパーで子どもをものすごく叱っている親がいます。子どもも意地を張って反抗して、30分もバトルしている親子がいます。もう、子どもの感情が爆発しています。「100円くらいのお菓子1個くらい買ってあげればいいじゃないか」と思います。それだったら、買い物に連れて来なければ良いのです。エペソ64「子どもを怒らせてはいけません」と書いてありますが、これは「扇動する」「誘発する」という意味もあります。子どもの時に、たびたび感情を爆発させられたなら、「境界性パーソナリティ障害」になる恐れがあります。一度、怒り出したら止まらないという人がいますが、感情をコントロールできないのです。子どものときに愛を受けなかった人が、大人になってからそれを取り戻すというのは不可能なくらい大変なことです。こちらがいくら与えても、満足できません。「君は愛されるため生まれた」という賛美がありますが、幼児期は愛と育みを受ける季節です。幼子をいっぱい愛してあげるべきです。それは、子どもの将来につなげるためのすばらしい投資です。

2.学業期

 School days小中高生です。学校はいわば戦場であります。いじめとの戦い、受験戦争があります。良い先生に当たると子どもは伸びますが、悪い先生に当たるとその学科さえも嫌いになります。私の小中高を、ひとことで言うなら、圧迫を受けた年月です。英語のpressure, oppressionということばがぴったりです。大体、私は協調性のない子どもであり、目立ちたちがり家で、うるさい存在でした。だから、学校の先生にとっては問題児であり、いなくれなればば良い存在でした。日本の学校では「みんなと一緒、和を乱してはいけない」というのが教育の大前提のような気がします。エジソンが小学校入学三か月で「お前は学校に来るな」と言われたそうです。ADHD学習障害を持っていたのでしょうか?お母さんは学校から「そんなにあの子をかばうのなら、あなたが教えたらよろしい」と言われました。お母さんは、変わり者と呼ばれていたエジソンの潜在能力と才能に密かに気づいていました。今でいう、ホーム・スクーリングで彼を育てました。教育のラテン語は「引き出す」という意味ですが、日本の学校は「詰め込み」であります。でも、今、思うと、記憶力が一番盛んなのは「その頃だなー」と思います。小学校の頃、世界各国の首都を覚えましたが、今でも覚えています。記憶力は30歳を超えるとぐっと落ちてきます。60歳になると「砂に書いたラブレター」で、人の名前が全く出て来ません。大学生でバイトばかりしている人がいますが、もったいないと思います。頭が柔らかいんですから、勉強したら良いと思います。学ぶに時があります。

 もう1つ学業期に言えるのは、友達です。良い友達もいれば、悪い友達もいます。世の中からみたら学校は小さな世界ですが、子どもにとってはすべてです。いじめで不登校になったり、自殺する子がいますが、そのためかもしれません。子どもが成長し、ティーン・エィジャーになると、親よりも友達に物事を相談するようになります。現代はスマートフォーンを中学生ならみんな持っています。おそらく、ラインとかでいつも通信しているのではないでしょうか?携帯を一時も離せない子どもがいますが、まさしく人間依存症です。しかし、それほど友達の存在が大きいのかもしれません。私も高校生のときは暗黒時代でしたが、それでも楽しかったことがあります。今思えば、「あんな時でも、神さまが友達を与えてくれていたんだなー」と感謝しています。あの頃、ジョージ・ハリスンのMy sweet lordが流行りました。今でもその歌を聞くと、「幸せな時もあったんだなー」と思います。でも、My sweet lordは本当の主ではありませんでした。

 また、ティーン・エィジャーは「自我像の嵐」のときでもあります。自分がだれか分かりません。親から独立したいと思いますが、経済的には独立できません。この時は、意志も感情も不安定です。昔、「ケッサラー、ケッサラー、人生は階段を手探りで歩くようなもの」という歌がありました。まさしく、暗中模索という感じです。ある生徒が、学校の先生に「何のために勉強するのですか?」と聞いたら、「怠けているから余計なこと考えるんだ。一生懸命勉強しろ」と叱られたそうです。その子は自殺したそうです。「私は何のために生きているのか」「一体私はだれなのか」。この世の人たちは明確な答えを持っていません。それなのに、一生懸命生きています。究極的な答えはあるのでしょうか?伝道者の書121「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」日本の学校では進化論を教えます。「人間はアメーバーから偶然に進化したんだ」と教えられます。偶然だったら、目的なんかありません。「何かできるものが価値がある」という、弱肉強食の社会で生きることになります。そうではありません。聖書から「人間は神のかたちに似せて造られた尊い存在なんだ」ということを知るなら何と幸いでしょう。年代表よりも、方程式よりも、英単語よりもはるかに価値があります。なぜなら、聖書の神は人生の意味と目的を与えてくれるからです。

3.若者 

 学業期とかぶりますが、中年までとさせていただきます。ひとことで言って、「若さは神の賜物(プレゼント)」です。若い人は、若いことがどんなにすばらしいことなのか全く自覚していません。私が22歳のとき、現場の主任から「若いっていいねー」としみじみ言われました。その方は今思えば、45歳くらいの人でした。その時は「え、何言ってんの?」としか思えませんでした。道を歩いていると、女子高生が短いスカートをはいて自転車に乗っています。「え、あれがスカートなの」と思うくらい短いです。足もすらっとしていて、昔と違うなーと思います。でも、おじさんはいやらしい目で見ていません。「ああ、神さまの賜物だなー」と思います。そして、「神さま、あなたはすべての人に良いものを与えておられますね。アーメン」と主を賛美します。私は65歳になって思うのですが、若さは何故、良いのでしょうか?まず、エネルギーにあふれています。体力、気力、想像力にあふれています。うむことなく夢を追いかけることができます。年寄りは「現実は甘くない。安定した生活を求めよ」と冷や水をかけます。「そういう、あなたはどうだったんだ?」と言いたくなります。失敗して、はめをはずしても「若気のいたり」としてある程度許されます。挫折しても、また立ち上がれば良いのです。「七転び八起」ということわざがあります。厚切りジェイソンのネタです。「七転び八起ってよく考えるとおかしくないですか?転んだ数と起き上がる数が同じはずだし…」。ある人が、「深く考えず、たくさん転んで、たくさん起きるんだな」と解説していました。

 若い時はエネルギーが溢れ、羽目を外しがちです。でも、それが致命傷になるときもあります。刑を受けて、20年も檻に入ったなら、青春が台無しです。出てきたときは40代です。伝道者の書119-10「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」これは、「何をやっても良いけど、やがて神さまの前に立つときが来るんだよ」と警告しているみことばです。レストランでメニューを見て、何を食べても良いです。しかし、最後にレジで精算しなければなりません。あれと同じです。罪を表わすのにtrespassということばがあります。これは「ある限度を超える、踏み外す」という意味があります。モーセの十戒は、私たちが超えてはならない限度を教えてくれる戒めです。道路を車で走っていると両脇に、センターラインとガードレールがあります。車はその間を走ったなら安全です。ガードレールは超えてはならない限界を教えてくれます。律法は、超えてはならない限度を教えてくれる大切なものです。若い人は、「とげのついた棒をけるのは、痛い」(使徒2614ということを憶えるべきです。

4.中年

 中年、middle ageです。専門家は、中年は何歳から何歳までですと定義するでしょう。私は独断と聖書的に、40歳から60歳ということにします。と言うことは、39歳までは「若者」のぶるいにはいるということです。なぜ、「40歳からか」と申しますと、40歳くらいで体に変調を起こすからです。日本では厄年があり、男性は42歳、女性は37歳と言われています。「そんなの迷信だ」と言っても間違いないのですが、私は体の変調と関係があるのではないかと思います。体力が急に落ちたり、ホルモンのバランスもくずれがちになるのではないでしょうか?これはある時に聞いたことなので、聖書と関係ないかもしれません。「もし、40歳のとき無理をしなければ、60歳まで健康に生きられます。もし、60歳のときに無理をしなければ、80歳まで健康に生きられます」ということを聞いたことがあります。これは霊感されていませんので、ご参考程度です。モーセは40歳までエジプトで王子の生活をしていました。40歳から80歳までは、ミデヤンの荒野で羊を飼っていました。80歳から120歳までは100万人以上のイスラエルの民を荒野で導きました。モーセは詩篇90篇で「私たちの齢は70年、健やかであっても80年。…自分の日を正しく数えることを教えてください、知恵の心を得させてください」と言っています。つまり、人間はいつまでも生きられる存在ではなく、「あと、いつまで生きられるのかな、と考えるように」ということではないでしょうか?新約聖書的には、「知恵の心」とは「死ぬ前に、キリストにある永遠のいのちを得よ」ということなのかもしれません。伝道者書の12章でも「また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に」と警告しています。

 しかし、この中年期はまことに忙しい時でもあります。立ち止まって、「救いがあるのだろうか」などと考える暇がありません。男性ですと、ちょうど中間管理職の立場です。上からは数字を突きつけられ、下からは「こうして、ああして」と文句を言われます。もう、サンドイッチ状態です。だから、世の男性はアルコールや快楽に逃げるのであります。なぜなら、ストレスが尋常ではないからです。日本では仕事第一です。会社から単身赴任を命じられても断ることができません。なぜなら、子どもにお金がかかるし、家のローンも残っているからです。アメリカでは家庭第一なので、そういうことはありません。阪神のバースという人が、絶頂期に、アメリカに帰りました。息子の病気の治療のためだったと言われています。現在は会社の工場が中国やタイなど海外にあります。国内だったらともかく、海外に単身赴任というのは奥さんや子どもにとって、大変です。なぜなら、経済ですべての問題が解決しないからです。仕事には確かに呪いがあります。アダムは「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記319と言われました。良い汗もありますが、このみことばは呪いを象徴しています。一生懸命に働いても、ワーク・ホリックになったり、家庭崩壊になるというのは呪いではないでしょうか?

 女性にとっても、中年期はやばい年です。学費がかかる子どもたちがいます。日本では、パートに出かけ、なおかつ家事をするというのが当たり前になっています。日本では、女性の社会進出が奨励されていますが、差別、セクハラ、パワハラを乗り越えなければなりません。また、年齢とともに、疲れも取れなくなります。立つ度に「よっこらしょ」と言うなら老化のはじまりです。やがて更年期障害がやってきます。人生の天王山です。この時をうまく超えられるか問題です。イライラしたり、うつになったり、頭痛、めまい、体がほてったりします。私は既婚者なので良く知っています。ホルモンのバランスがくずれ、「いのちの母A」のやっかいになります。こういう場合は家にじっとしているよりも、何か活動して、気を紛らわすのが良いそうです。「とにかく人生の嵐を乗り越えなければ」と必死です。残念ながら、教会はそのことをなかなか理解してきませんでした。「怒ってはいけない」とか、罪のせいにしてきました。「信仰によって」と励ましてしまいますが、肉体の法則の方がより勝るときもあります。すべてのことが霊的に処理できると思ったら大間違いです。私たちは「肉体でできている。肉体は弱い」ということを知るべきであります。Ⅱコリント12:9 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」どんな山でも、主が乗り越えさせてくださいます。アーメン。

5.収穫期

 ポール・トゥルニエが『人生の四季』でこう述べています。「私がこういうテーマを扱うようにと依頼されたのは、おそらく偶然ではないでしょう。私は今ちょうど60歳を越えたところで、もうすでに自分の力が衰退しつつあることを感じているからです。まだこの先、私が多くの患者さんたちに役立つことがあろうと、また何冊かの本が書けようと、もうこれらのことが私の人生をさほど大きく変えることはないでしょう。骰子(さい)はふられてしまいました。私がなし、学び、獲得することができたことはだんだんその価値を失いつつあります。中老の人々にとって重要なことは、彼らが現在どういう人間であるかということなのであって、彼らがまだこれから何ができるかということではない。」と言っています。60歳は定年退職の年でもあります。今は少し遅くて65歳の人もいますが、男性にとってはアイディンティテイの危機です。仕事イコール人生、役職イコール自分のスティタスでした。しかし、定年と同時にそれもなくなります。では、女性はどうなのでしょうか?「からの巣症候群」というのがありますが、子どもたちが独立して、家からいなくなります。子育てが1つの生きがいでしたが、それも失われました。今では頑固な亭主が側にいるだけです。定年と同時に熟年離婚というのがあるそうです。広島の植竹牧師がおっしゃっていました。夫が広島新聞を定年退職して家に帰ってきたとき、妻が三つ指ついて挨拶しました。「長い間御苦労さまでした。私も主婦業を今日で退職させていただきます。つきましては退職金の半分をいただきたく存じます。」「何言ってんだお前」と怒ったら、妻が今まで溜めていたうっぷんを1時間まくし立てたそうです。夫は同僚に「女はこえぞー」と話したそうです。

60歳以上は人生の収穫期です。老年期と言ってはいけません。最近は健康寿命ということが言われていますので、寝たっきりで100歳まで生きたいと思う人はいないでしょう。せめて、80歳までは健康で長生きしたいものです。私も人生の季節ということを考えています。もう、人生の第四コーナを回りました。あとは一直線でまっすぐ走るしかありません。今さら、「ここを変えろ」「ここをなおせ」と言われても無理です。「変われ」と言われても、変われないのです。聖書でfinish well良い終わり方をした人は30%ぐらいだと言われています。しかし、私はそんなことを信じません。主はflourish ending「繁茂した、栄えた終わり方」を与えて下さいます。使徒パウロが言ったとおりです。Ⅱテモテ47-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」アーメン。

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2018年8月17日 (金)

御霊による歩み ローマ8:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.19

 前回は、「律法からの解放」についてローマ7章から学びました。きょうはローマ8章から「御霊による歩み」と題して学びたいと思います。エゼキエル書36章の「新しい心を与え、新しい霊を与える」という預言が2000年前のペンテコステの日に成就しました。今日では、イエス・キリストを信じる者はだれでも、聖霊によって生まれ変わり、さらには内側に聖霊を宿しています。聖書では、内側に住んでいる聖霊を「御霊」とか「キリストの御霊」と呼んでいます。厳密には「御霊」は、神の霊なのか、それとも自分自身の霊なのか区別がつかないところがあります。

1.御霊による歩み

パウロはローマ7章の後半で「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいます。これは自分の中には、律法を守る力がないというどん底からの叫びです。しかし、その直後、パウロは何かを発見したのです。そして、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ感謝します」と言っています。一体、パウロに何があったのでしょうか?ローマ82「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」このところに突然「いのちの御霊の原理」ということばが出てきます。日本語の聖書ではよく分かりませんが、原理も律法も同じことばです。英語の聖書ではlaw、ギリシャ語では「ノモス」です。ちなみにロシア語の「ノルマ」はノモスから来たことばです。新約聖書の「ノモス」は、法律や律法の他に、法則とか原理と言う意味もあります。一箇所、例をあげて、説明したいと思います。ローマ723「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」日本語では「異なった律法」となっていますが、本来なら「異なった法則」と訳すべきなのです。また「心の律法」は「心の法則」です。そして、「罪の律法」は「罪の法則」です。律法と訳してしまうと、ローマ82節とつながらなくなるからです。ローマ82の「いのちの御霊の原理」は「いのちの御霊の法則」です。そして、「罪の死の原理」は「罪と死の法則」です。「法則」と訳すと分かり易くなります。新共同訳聖書は全部「法則」に統一しています。

 では、私たちの内側、つまり肉につける私たちにはどのような法則があるのでしょうか?私たちの肉は律法を押し付けられると反抗したくなります。真面目にやったとしても守りきることができません。最終的には死にいたります。これが「心の法則」「罪の法則」です。パウロは「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう」と絶望しています。ところが、パウロはどん底に落ちて、全く別な法則を発見しました。自分を引き上げ、いのちを与えてくれる法則です。それが「いのちの御霊の法則」です。たとえ、私たちに「罪と死の法則」が働いても、「いのちの御霊の法則」が私たちを引き上げて救ってくれるのです。ウォッチマン・ニーが『キリスト者の標準』の中で鳥の話をしてこのことを説明しています。マタイによる福音書には「空の鳥を見なさい」と書かれています。もし私たちが鳥に、「引力の法則に恐怖を感じていないか」と尋ねることができたなら、鳥はどう答えるでしょうか?「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則について何も知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことが命の法則であるからです」と答えるでしょう。鳥の内には、飛ぶ力を備えている命があるばかりではなく、その命は、これらの生物に全く自然にまた持続的に、引力の法則に勝たせる命の法則を持っているのです。しかし、引力は依然として存在しています。アーメン。とても分かり易い例話です。私たちには罪と死の法則が依然として作用しています。その証拠に、もしだれかが私について悪口を言ったとすれば、すぐさま私の内部で何か思わしくないものが起こります。これは罪の法則です。また、何かのことで神さまを喜ばせようと努力します。しかし、自分は神の標準に達していないような気がしてきます。そして「私にはできない」という弱さを発見します。罪だけではなく「死の法則」が、自分の内に作用していることが分かります。これは法則ですから、すべての人間に働くマイナスの力です。でも、その法則に打ち勝つ力が「命の法則」です。その法則は、私たちの内におられる聖霊よってもたらされるものです。

 では、どうしたら「いのちの御霊の法則」を体験し続けることができるのでしょうか?ローマ83-4「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」このところに、「神はしてくださいました」と書いてあります。何をしてくださったのでしょうか?第一は、御子イエスが肉において罪を罰せられました。言い換えると、私たちの私の肉を罰して、死に渡されたということです。私たちの問題の根に一撃を加えて下さったのです。第二は、聖霊が私たちに律法を全うさせてくださるということです。でも、条件があります。それは「御霊によって歩む」ということです。「…によって歩む」とは服従を意味します。肉によって歩むということは、肉の命ずるままに自分をゆだねることを意味します。結果的にどうなるでしょう?ローマ86-8「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」「御霊によって歩む」とは、御霊にゆだねて、御霊に従うということです。私たちは肉で神さまを喜ばせることはできないし、神さまもそのことを望んでいません。すばらしいことに、内におられる聖霊が、神の御旨を行なえるように働いてくださるのです。聖霊はかつてキリストがなされたことを、私たちの内に実現させるために遣わされたのです。私たちは、そのため、聖霊様と普段から親しく交わることが必要です。交わりとは、御霊によってその恵みにあずかることです。パウロはこのような祝祷のことばを述べています。Ⅱコリント1313「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

 このように私は「御霊によって歩むことが大切です」とみなさんに確信を持って語れるようになるまで、かなりの年月を要しました。なぜなら、私の生まれつきの性質は「がさつであり、せっかち」です。「歩む」というよりは「走る」という方が当たっています。「聖霊に聞く」とか、「聖霊に従う」という意味は分かります。でも、途中で面倒になってやめて、あとは自分の力や考えで突っ走ってしまいます。でも、いろんな失敗や困難を通して、「御霊によって歩むことが大切なんだなー」と体験的に分かるようになりました。ギリシャ語で「知る」は2種類あります。「ギノスコー」は、知的に知るということです。聖書を勉強したり、研究するときはこの「ギノスコー」が重要です。一方、「オイダ」は、体験的に知るという意味のことばです。これは信仰をもって実際に行うとき、はじめて分かることです。「オイダ」はヘブル語では「ヤーダー」であり、男女の親密な関係を表わす用語です。言い換えると、親しい交わりを通して知るということです。御霊によって歩むとは、「御霊と交わりながら、生活する」ということです。エマオの途上に向かっていた二人に、復活したイエス様が近づいて来られました。彼らは目が閉ざされていて、その方がイエス様だと分かりませんでした。あとで気づいた二人がこのように言っています。ルカ2432 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」このように、イエス様は今も生きてられ、御霊によって私たちの内側に親しく語ってくださいます。

 もう1つは、「御霊の法則」というすばらしい恵みがあります。私は高校の「物理」と「応用力学」でつまずきました。土木科ですから、仕事につけば避けて通ることができない学科です。数式とか定理みたいなものはほとんど忘れましたが、「法則」には力があることだけは知りました。私たちはこの肉体を持っていますが、アダムの罪と堕落を幾分か受けています。霊的に新しく生まれたはずなのに、「生まれつきの考え」「生まれつきの能力」「生まれつきの性格」というものを持っています。これが肉なんだと思います。しかし、神さまは私たちを救ったあと、「今後はこれで生きなさい」と与えて下さったのが神の霊、聖霊なんだと思います。この方は神としての人格と持っておられ、私たちと親しく交わってくださいます。それだけではなく、私たちを罪と死から救ってくださる力を持っておられます。これが「御霊の法則」です。そして、私たちの肉ではなしえなかった、「律法を守ること」「律法を破らないこと」を聖霊が行ってくださるのです。聖霊、内におられる御霊は「第二の資源」と言うことができます。今では普通ですが、ハイブリッド車が走っています。あの車はあるときはガソリン、またあるときは電気で走ります。おそらく自動で切り替わるのでしょう。私たちもあるときは自分の力や考えで走るときがあります。しかし、自分の力や考えで間に合わないときは、内におられる御霊が自動的に働いてくださるのです。一番重要なことは、御霊が自由に働いてくださることを容認し、歓迎する必要があります。御霊は人格をもっておられますので、「私に関わらないでくれ」と拒絶すると退かれます。そうではなく、いのちの御霊の法則がいつでも、豊かに働かれるように、御霊に期待して歩みましょう。

2.恵みによる歩み

 ローマ86-8「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」私たちは、肉で律法を行なおうとするとそれができないということがよく分かりました。なぜなら、律法が肉を刺激して、反抗心を生み出し、結局は死に至ります。死というのは霊的な窒息死であります。しかし、信仰生活のことを考えてみましょう。教会はイエス様を信じるだけで救われると「信仰義認」を説きます。これは正統的なプロテスタント教会だったら、反対するところはないでしょう。ところが、問題は洗礼を受けてからのことであります。ほとんどの教会では「洗礼準備会」というものを設けていると思います。そこでは信仰の確認とこれからの信仰生活がどうあるべきか教えます。ところが、結構、やるべきことがたくさんあることに気が付きます。聖書を読むこと、祈ること、聖日礼拝に出席すること、献金、奉仕、罪から離れきよい生活を送ることを学びます。教会によっては、いくつかの規約もあるようですが、「これから教会員として義務を果たします」と誓約書を交わすところもあるようです。つまり、イエス様を信じて救われるということと、教会に属して教会員になることを分けているところもあります。そういう準備会を受けた人の頭にはどのようなことが浮かぶでしょうか?おそらく、「救われるのは恵みかもしれないけれど、信仰生活は行いが必要なんだ。詐欺みたいだなー」と思うのではないでしょうか?でも、ほとんどの人は、信仰的に燃えていますので、それらが全く苦にはならないでしょう。私も洗礼受けた後、「聖日礼拝厳守、はってでも来い」と言われ、今まで休んだことがありません。40年間、どうしても行けなかったことが2度ほどありますが、あとでビデオ礼拝を持ちました。最終的に牧師になったので、休むわけにはいかなくなりました。

大川牧師は聖日礼拝を「強いられた恵み」と言いました。私は会社で働いていましたが、朝6時の早天祈祷会、水曜祈祷会、土曜日の週報印刷、日曜日の礼拝、聖歌隊、夜の礼拝に出ました。半年後、直接献身の表明をしたので、さらにCSなどの奉仕がたくさん出て来ました。週に礼拝堂の掃除は3回はしました。たまに説教する機会も与えられました。ある時、第二礼拝の説教をした後、ホルンの宮田四郎先生から「疲れているように見える」と言われ、がっかりしました。その頃、本田弘慈という大伝道者が来られ、「ねこ信者」というお話しをされたことがあります。先生は関西の出身の先生でしたから、「〇〇しにゃーならん。〇〇しにゃーならん」といつも言っている人を「ねこ信者」だというのです。「当たっているなー」と思いました。「聖書を読まなければならない」「祈らなければならない」「集会を守らなければならない」「献金しなければならない」「奉仕をしなければならない」など、みんな良いことです。しかし、これが律法になっていたならどうでしょうか?クリスチャンは「モーセの律法」をもちろん守りますが、このような新たな律法の中で生きているというのが現状ではないでしょうか?

2007年、スティーブ・マクベイという先生が聖書キリスト教会で「恵みの歩み」という講演をなされたことがあります。先生は16歳のときから説教しました。19歳である教会の主任牧師になり、21年間牧会をしました。神様が喜ばれることを一生懸命しようとしました。忠実に神様のことばを語るように努力しました。一生懸命、伝道をし、祈りの生活も一生懸命守ろうとしました。教会の人数は増えました。忠実な牧会をしようと努力しましたが、心の中では達成感がありませんでした。本当に主を愛していましたが、心の中では「自分は足りない、神様に受け入れられるにはふさわしくない」と思っていました。先生はその後、主の召命であると信じ、別の教会に赴任することになりました。向かう道路に「スティーブ牧師、行かないでください!」という横断幕がかけられていました。先生は新しい教会を成長させようとしました。もっと祈り、もっと勉強し、もっと働き、もっと訪問し、できるだけのことをしました。それでも、人数は減るばかりでした。「主よ、どうぞ私を強めてください。力をください。私は諦めません。がんばりますから」と祈りました。1990106日土曜日の夜、事務所の中でうつぶせになっていました。朝2時でした。あと数時間で教会の礼拝が始まります。鬱的で、まったくやる気がない状態でした。「神様、何をしているんですか?何で私をここに呼んだのですか?」と、泣きながら祈っていました。その時、主が答えてくれました。耳で聞こえる声ではなく、霊で分かるように語ってくれました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」。先生は、「神さまが私に教会を建ててほしい。説教をしてほしい。カウンセリングをしてほしい。病気のためお見舞いに行ってほしい」と思っていると考えていました。しかし、神様は私自身を欲しいということが分かりました。神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられると言うことが分かったのです。スティーブは紙を取り出し、自分がゆだねるものを1つずつ書き記しました。最後に「全部、神様のご支配のもとにゆだねます」と書いて、自分の名前をサインしました。

スティーブ牧師は自分が死んだという診断書にサインをしたのです。そして、イエス様あなたが生きて下さいと願ったのです。それは、律法に対して死んで、律法を全うしてくださるキリストにあって生きるということでした。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いてあります。これは、言い換えると神さまは「あなたは肉でがんばらなくても良い」という慰めのことばでもあります。イエス様は私たちがイエス様を信じたときに、満足してくださいました。イエス様は、私たちに何かをさせるために、私たちを救われたのではありません。「神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられる」というのは真実です。では、何もしなくても良いのでしょうか?良いのです。聖書を読まなくても、祈らなくても、聖日礼拝に出席しなくても、献金をしなくても、奉仕をしなくても、イエス様は私たちを愛しておられます。神さまは私たちの行いではなく、存在そのものを愛しておられます。そう言われると、私たちの方は天邪鬼なので、「ちょっと聖書を読もうかな、祈ろうかな」と思うのです。つまり、「しなくても良い」という自由が与えられると、したくなるのです。律法は「あなたはまだ足りない。基準に達していない」と私たちを責めます。しかし、恵みは「あなたは十分です。何もしなくても愛されていますよ」と私たちを励ましてくれます。律法はマイナスの地点から、プラスになるように一生懸命頑張ります。ところが、恵みはプラスの地点から、さらにプラスになるというイメージがあります。つまり、恐れや不安や罪責感が動機でなく、安心感が動機なのです。私はかつて業績指向の塊でした。神さまが「パウロはあれだけ伝道したのに、お前はなんだ。歯がゆいぞ!」と背中から冷や水をかけられている気がしました。かつては、仁王様のような厳しい神さまのイメージがありました。しかし、「恵みの歩み」を知ってから、神さまは放蕩息子のお父さんのように無条件で愛しておられる優しいお父様だと言うことが分かりました。

Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」律法は私たちを殺します。しかし、御霊は私たちを生かしてくださいます。3:17-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」律法は私たちに恐れを与え、私たちから自由を奪います。しかし、主の御霊のあるところには自由があります。どんな自由でしょうか?私はありのままで神さまから受け入れられている。主の御霊と共に歩めば大丈夫だという安心感です。多くの人はこの「安心感」がありません。「自分は相応しくない」「まだ足りない」「まだ不十分だ」すべては律法から来る恐れです。父なる神さまはすべてのものをお持ちです。何よりもすばらしいのは、私たちが救われるために御子イエス様を十字架に渡してくださいました。しかし、それだけではありません。私たちの内に主の御霊を与え「これでやりなさい」とすべての資源もくださったのです。聖霊は神さまご自身ですから、すべてのものをお持ちです。この神さまが私たちの内におられるのですから、驚くべき事です。神さまの永遠の計画とは、御霊によって私たちと一緒に住むことだったのです。神さまはすべてのものをお持ちです。私たちが献金しなければやっていけない貧しい方ではありません。私たちが奉仕しなければ何もできない方ではありません。そうではなく、神さまは私たちを通して、働きたいと願っておられるのです。主役は神さまで私たちは管channelです。水を通すような管です。管の重要な役割は詰まらせてはいけないということです。できるだけ自分は透明になって、主が現れてくださるように願うのです。自分が小さくなればなるほど、主が大きく現れてくださいます。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」イエス様は現在、御霊によってあなたの中に住んでおられます。神の御子を信じる信仰とは、内におられるイエス様が私を通して働いて下さることを信じることです。イエス様が、あなたからmanifest現われ出てくださいますように。アーメン。

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2018年8月10日 (金)

律法からの解放 ローマ7:5-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.12

 私たちは法律をはじめとする様々な「きまり」の中で暮らしています。世の人たちは「洗礼なんか受けたら、新たにきまりができて、さらに自由がなくなる」と言うでしょう。人間は悪いことをするので、法律の数がますます多くなります。まるでいたちごっこです。実は人間にはきまりには従いたくない。むしろ逆らいたいという天邪鬼みたいな性質があります。きまりを多くすればするほど、「そんなきまりなんか守りたくない。破りたい」という引き金にもなるということです。聖書には律法と言って、法律やきまりに当たるものがあります。きょうは「律法からの解放」と題して、聖書から学び、きまりごとに対する自由を得たいと思います。

1.律法とは

 聖書によく出てくる「律法」とは何でしょうか?アダムとエバが罪を犯す前は、律法などありませんでした。主なる神さまと親しく交わっていたので、何も問題がありませんでした。ただし、善悪を知る知識の木から食べたとたん、目が開かれ、神のように善悪を判断するようになりました。言い換えると、神抜きで、自分で善悪を決めるというふうになったのです。今も私たちは人の罪を簡単にさばきますが、アダムが堕落してしまった結果であります。本来、善悪の判断は神さまがお決めになるのですが、私たちが先走って決めてしまうところがあります。信仰の父アブラハムは行いではなく、信じるだけで神から義と認められました。「律法」ということばが最初に出てくるのは、出エジプト記20章からです。イスラエルの民をエジプトから救い出された主なる神は、イスラエルと契約を結びました。その条件が十戒であります。イスラエルの民には、他にたくさんの律法が与えられました。律法は大きく分けると3つあり、道徳律法、祭儀律法、社会律法です。本来、律法は「この範囲内で暮らしたなら、安全で、健やかに暮らすことができますよ」という神さまの尊い戒めでした。ところがイスラエルの歴史を見ると分かりますが、神さまに反逆して偶像を拝み、律法の範囲を飛び越える生活をしました。もう罪のオンパレードです。神さまご自身も、「彼らは律法を与えても守ることができない」と納得されました。エレミヤ31章には、「私は彼らと新しい契約を結ぶ。律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」と書いてあります。エゼキエル36章には「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」とも約束されています。これがイエス・キリストによってなされた新しい契約です。信じる者に新しい心を与え、心に律法を書き記すということです。多くの人たちは、モーセの律法がイスラエルに交わされたものであって、異邦人の私たちとは関係のないことを知りません。イエス様はその代り、私たちに「愛する」という新しい戒めを与えました。なぜなら、愛は律法を全うするからです。

 使徒パウロは、私たちは罪からだけではなく、律法からも解放されているということを分からせるためにローマ7章とローマ8章を書きました。きょうは主にローマ7章から消極的な意味での律法からの解放、次週はローマ8章から積極的な意味での律法からの解放についてまた学びたいと思います。なおローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙は兄弟みたいなもので、両者とも律法からの解放について書かれています。そのため、ガラテヤ人への手紙からもいくつか引用いたします。ローマ7章を見ると、パウロがとても落ち込んでいるのが分かります。ある人たちは、これはパウロが救われる前の葛藤した出来事であると言いますが、そうではありません。パウロはローマ1章から5章前半までは「行いの罪の赦し」を語っています。5章後半から6章までは、「単数形の罪(原罪)」からの解放について語っています。ローマ7章のテーマは「律法からの解放」です。ローマ71節から4節までは、結婚のたとえが記されています。一人の女性が律法と結婚していました。夫がいる女性が他の男性のところへ行けば、「姦淫の女」と呼ばれます。しかし、夫である律法は永遠に不滅であり、死ぬことはありません。イエス様は「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」(マタイ518と言われたとおりです。でも、イエス様が十字架につけられて死んだとき、私たちも共に死んだのです。死んだ者に対して、律法は何もすることができません。さらに、イエス様はよみがえられ、私たちはイエス様と新たに結ばれたのです。つまり、新しい夫は律法ではなく、恵み深いイエス様です。ローマ76「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」アーメン。古い文字とは、石の板に書かれたモーセの律法です。クリスチャンは生ける御霊によって、心の板に律法が書かれているのです。これはエレミヤ書とエゼキエル書の成就といえます。かつては外側から「ああしてはいけない、こうしてはいけない」と戒められました。今度は聖霊が私たちの内に示してくださり、さらには行う力も与えてくださるのです。これが新約の恵みです。

 それなのに、ガラテヤの教会の人たちは逆戻りしてしまいました。せっかく恵みで救われたのに、割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救いを全うできないと考えました。パウロは「あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉にあって完成されるというのですか」と嘆いています。せっかく律法と別れたのに、再び律法のところに行くとはどういうことでしょう。聖書はそれを姦淫と呼んでいます。彼らは「イエス様の恵みでは足りないので、律法からも学ばなければならない」と言っているのです。教会でも「救われたクリスチャンがモーセの律法が必要だろうか?」議論が分かれています。もちろん「モーセの律法」は神のことば、律法ですから全く不要だということはないでしょう。マルチン・ルターは「律法は行為の基準を示すが、それに従う力は与えない。福音がその力を与える。律法は死の使いであり、福音は命と平和の使いである」と言いました。しかし、ジョン・カルヴァンは「規範として律法が必要である」と主張しました。彼はジュネーブにおいて「神権政治」を開始しましたが、最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放を行いました。カルヴァンは「教会規則」を作りましたが、改革派が堅いのはこのためかもしれません。律法は永遠に存在しています。新約の時代に生きる私たちは「どのように律法と向き合えば良いのか」という課題が残っています。

2.律法の働き

 使徒パウロは律法を厳格に守るパリサイ人のパリサイ人でした。いわば、パウロは律法に関してはプロでした。そのパウロが、律法が自分に対してどのように働いたか赤裸々に書いています。第一は、律法は私たちに罪があることを知らせてくれるということです。律法は神が定めた義の基準であり、罪があるかどうかすぐ分かります。パウロはローマ77「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」と言っています。世の中に体重計がなければ、自分が何キロなのか分かりません。世の中に法律がなければ、どれだけ悪いことしたのか客観的には分からないでしょう。聖書には数えきれないほどの戒めがあります。教会にはご親切にも、「あなたは罪を犯していますよ」と教えてくれる人がいます。そう言われると、「いや、あなたもこのような罪を犯しているではありませんか」と言い返したくなります。いわゆるさばき合いが起りやすいのが教会です。第一のポイントで申しあげましたが、本来は神さまがさばくのに、私たちが神さまの代わりにさばいてしまうのです。なぜなら、善悪を知る知識の実を食べたからです。ところで、「ワンピース」というアニメがありますが、そこにはたくさんの能力者が登場します。彼らは「悪魔の実」を食べたからです。私たちも「善悪を知る能力者」であることを忘れてはいけません。イエス様はマタイ7章で「さばいてはいけません。さばかれないためです。…兄弟の目のちりを取る前に、自分の目から梁を取り除けなさい」と言われました。

 第二は、律法は私たちが罪を犯すようにけしかけるということです。パウロはローマ78「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私の内にあらゆるむさぼりを引き起こしました」と言っています。なぜなら、私たちの内側には律法に逆らう肉(ギリシャ語でサルクス)が宿っているからです。私たちは「わさるな」と言われれば、触りたくなるし、「見るな」と言われば、見たくなります。「そういう禁止事項がなければ、しらんぷりして通り過ぎたのに」です。私たちは小さいときから数えきれないほどの「きまり事」に縛られて生きてきました。学校では学校の校則があり、会社に入ればコンプライアンス(命令や要求に応じること、果たすべき務めを果たすこと)があります。「警察官や学校の教師が酔っぱらうと手に負えない」とよく言われますが、日ごろ規則に締め付けられているからです。「酔っ払い運転をするな!」と警告している、警察官がそうなるのは分かるような気がします。道ばたを歩いていると「ポイ捨て禁止、見ているぞ」みたいな看板があります。私はむっときます。21世紀教会の男子トイレに「きれいに使ってくれてありがとう!」と書いてありました。そう言われると、一歩前に出たくなります。

 第三は、律法は最終的に私たちを殺してしまうということです。ローマ79-10「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」何と言うことでしょう?律法は元来、善なるものです。なぜなら、神さまが与えたものだからです。でも、問題は私たちが律法に耐えられないということです。モーセがシナイ山の頂で十戒をいただいていました。しかし、山の下ではモーセが戻って来ないので、アロンに金の子牛を造ってもらいました。モーセが山から降りると、人々は金の子牛を拝んで、いけにえを捧げていました。モーセは主からいただいたばかりの2枚の板を投げ捨てて砕いてしまいました。これが罪ある人間に石の板が役に立たないことを暗示している出来事です。Ⅱコリント36-7「文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって」と書いてあります。つまり、これはモーセの律法を知らせると、人々を殺してしまうということです。「いや、そんなことはない。十戒はすばらしい」と言う人がいるでしょう。最初のうちは熱心に守って、「自分は聖い。真面目だ」と誇るかもしれません。しかし、やがて律法の基準に達していない自分を発見します。表面では守っているつもりでも、内側では守っていないからです。当時の宗教家、パリサイ人や律法学者たちに、イエス様はこのように言われました。「白く塗られた墓のようなものです外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいです」(マタイ2128)。教会が律法を強調すると教会員が死ぬか、あるいは偽善者になります。

平野耕一牧師が『これだけは知ってもらいたい』と言う本の中でこうおっしゃっています。お葬式みたいな教会とか、お葬式みたいな礼拝という表現をあなたは聞いたことがありますか。霊は人を生かすのですが、文字は殺すのです。教会に足を踏み入れたとたん、その教会が死んでいるか、生きているかがわかります。そのいくつかの特徴をあげてみましょう。第一に、生きている教会というのは、信徒がワイワイ、ガヤガヤ楽しげにおしゃべりしています。それは、自分が正しいと思われようとか、信仰的あるいは霊的に見られようとして自分を規制する必要がないので、自分のありのままの姿をみんなの前でさらけ出すことができるからです。心が開かれているので、ついしゃべってしまいます。ですから、礼拝が始まる直前までワイワイ、ガヤガヤ、祝祷が終わって「アーメン」と言ったとたんに、またみんながワァーとしゃべり出してしまいます。第二に、恵まれている教会には笑いがあります。しょっちゅう笑い声があちらこちらから聞こえてきます。そして、あらゆる面での人々の感情表現が豊かになります。笑いもその1つですが、悲しみ、苦しみも素直に表されています。悲しいときは無理に平静を装うことなく、素直に悲しいと言い、具合が悪いときは具合が悪い、痛んでいるときは痛んでいると包み隠さず表すことができます。第三に、いのちのある教会では、個性的な信徒が育っています。…(途中、割愛して)反対に律法的な教会の特徴としては、あまり自由な会話がありません。すぐにさばかれてしいそうで、気楽に話せないのです。「霊性が落ちる」「教会には関係ない」「くだらない」という冷めた声が聞こえてきます。また、信徒の顔に表情がないこともあげられます。みんな同じ顔をしています。あまり悲しまないし、笑わないし、何か厳粛で重々しい雰囲気があたりにただよっています。確かにそれは、ある人にとっては霊的で信仰的な態度かもしれません。しかし、それは人間性が死んでいってしまいます。このように人間は、律法の下では死んでしまうということです。

3.律法からの解放

 パウロはローマ6章で私たちクリスチャンは「罪から解放されている」と言いました。しかし、クリスチャンは律法からも解放されていることを知りません。解決のヒントとなるみことばがこれです。ローマ614-15「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」ウォッチマン・二-は『キリスト者の標準』と言う本の中で、恵みと律法の違いについて教えています。「恵みとは、神が私のために何かをされることを意味し、律法は、私たちが神のために何かをすることを意味します。神は私に、聖くて義しい一定のことを求めておられます。これが律法です。さて律法が、私に何かをせよとの神の要求を意味するのであれば、律法からの解放とは、神はもはやそのことを私に求めず、神ご自身がそれを備えて下さることを意味するのです。律法は、私が神のために何かをすることを意味し、律法からの解放は、私がそれを行うことを免除され、恵みにあって神ご自身がそれをなされることを意味します。肉につける私は、神のために何もしなくて良いのです。それが律法からの解放です。ローマ7章の問題は、肉につける人が、神のために何かをしようと努力しているところにあります。あなたがそのようにして神を喜ばせようとすれば、必ず自分を律法の下に置くことになり、そしてローマ7章の経験が、あなたのものとなり始めるのです。」

 この世で妥協して生きている人ではなく、真面目なクリスチャンが7章の経験をします。「せっかく救われたのだから、神さまのためにお役に立ちたい」と自分を捧げた時から悲劇がはじまります。だまっていれば、すばらしい人なんですが、少しでも動き出すなら、失敗を重ねてしまいます。ウォッチマン・二-はさきほどの本の中で、「そこつな召使い」のことを書いています。彼がじっとしておれば、そのそこつさは表面に出ません。彼は一日中何もせずじっとしておれば、何の役にも立ちません。ところがもし彼に「さあ、怠けないで何か仕事をしなさい」と言えば、すぐさまトラブルが起こるのです。彼は立ち上がる拍子に、まずイスをひっくり返し、数歩先へ行ったところで、踏み台につまずいて倒れるでしょう。大切なお皿を手にしたとたん、それを壊してしまいます。あなたが彼に何も要求しないなら、彼のそこつさは分かりませんが、何かするように頼んだとたんに、彼は本性を表わすのです。…何を言いたいかと申しますと、神さまが私たちに何も求めなければ、私たちは義なる人であり、聖い人です。なぜなら、聖書は「あなたは罪赦されて、聖い人である」とおっしゃっているからです。でも、神さまから何か求められるや否や、私たちの罪性が暴露されます。律法は私たちの弱点を表わします。でも、何故、神さまは律法を与えたのでしょうか?その理由は「私が頭のてっぺんからつま先まで罪に満ちていること、私が弱さの化身であり、私には何もできないことを」教えるためです。神さまは私たちが何者であるかをよく御存じです。問題は、私たちは口先ではそう言っても、心からそう信じていないのです。そのため神さまは、その事実を私たちに自覚させるために、律法を与えたのです。

 パウロは落ちるところまで落ちました。ローマ722-24「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」パウロは律法によって「私は全く弱く、かつ望みのないものである」ところまで達しました。神さまは、もともと私たちが律法を守ることができないということをご存じだったのです。律法を通して神さまに受け入れられた人は、かつて一人も有りません。律法は私たちの真の姿をさらけ出します。私たちは余りにもうぬぼれており、自分は強いと考えています。だから、神さまは私たちを試み、私たちがどんなに弱い者であるかを証明しなければならないのです。パウロは「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と、どん底から叫びました。そして、どん底に落ちてみてすばらしいことを発見しました。ローマ725「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」私たちは「ローマ7章の24節と25節の間に一体何があったのだろう?」と思います。一体、パウロは何を発見したのでしょうか?パウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と叫んでいます。おそらくパウロは、キリストが私の代わりに律法を全うしてくださった。私はキリストと一緒に死んで、キリストと一緒によみがえったので、律法に答える必要はないと分かったのです。ガラテヤ219-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。

 神の律法は無効になったのではなく、キリストによって完全に成就されたのです。そのことによって、あなたは、律法から解放されたのです。それはどのような意味を持つでしょうか?それは今後、神さまのために、何一つとしてしないということです。神をお喜ばせしようとする努力など、決してしないということです。しかし、もし私が「肉にあって」神さまを喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」置くことになり、やがては死んでしまいます。しかし、感謝すべきことに、キリストが私の内にあって、神さまに喜ばれる働きをしてくださるのです。私たちの内に働かれるのは神であるキリストです。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」。いや喜ばせる必要はないのです。神さまはキリストにあってすでに満足しておられます。これからは、肉で行う必要はありません。神であるキリストがあなたの内に生きておられ、あなたの内から働いてくださるのです。これが律法からの解放です。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ127)

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2018年8月 4日 (土)

自分の世界を全うする ローマ8:28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.5

 ローマ122後半を原文に忠実に訳すならば「思いを一新することによって、変貌させられなさい」となります。変貌はギリシャ語ではメタモルフォーであり「姿を変える」「変革する」という意味です。前回学びましたが、変革させられるためには、第一に私たちは思いを一新させていただく必要があります。コア世界観を新しいものに取り換えるということです。その次は、神のみこころに合わない思いを1つずつ変えていくという地道な作業が残されています。また、ローマ12章には変革されてからどのように生きるべきかまで記されています。

1.オーバーカム

 オーバーカムovercomeは、障害や誘惑などに打ち勝つ、克服するという意味です。「乗り越える」と訳しても良いかもしれません。前回、「核信念には三種類ある」と学びました。核信念(コア世界観)は、ゆがんだ考えをもたらす塊みたいなものです。そこから、自動的に思いが出てくるのです。前回は古い核信念(コア世界観)は、新しいものと取り換えるしかないと勧めました。これはその人が持っているテーマであって、「問題」というと重くなります。テーマあるいは自分の世界と言っても良いでしょう。それらをオーバーカム、克服していけばよいのです。三種類の核信念を1つ1つ取り上げてそれぞれの克服の道を探っていきたいと思います。

 第一は脅迫的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「行い」に注目します。完璧主義的な人で「自分は完全でなければ、神から愛されることはできない。神から愛されるためには、完全でなければならない」と考えます。頭では「恵みが大事だ」だと分かっているのですが、心では「神さまは厳しいお方だ」と思っています。このタイプの人は白か黒かで考えます。1000では神経がまいってしまいます。この人は人から任されたら、結果を出すため一生懸命頑張ります。結果が出ないと自分は無能だと思われるからです。完璧主義で業績指向の人は、「これで十分」という基準がありません。いつも後ろから追い立てたれているような感じがします。脅迫的信念の人は、親から厳しく育てられた人に多いです。長時間勉強をさせられ、成績が悪いと叱られます。ことば使いや行儀作法もうるさく注意されてきました。そこそこ成績もよく、人格的にも良いのですが「まだ足りない、まだ不十分」という未達成感が常にあります。神さまは完全ですが、人間は不完全です。神さまは私たちに完全無欠を要求していません。そのためにイエス様が十字架にかかってくださったのです。失敗しても、寝ないで反省しなくても良いのです。自分の失敗を赦しましょう。自分のだらしないところや足りないところも神さまが受け入れ、愛してくださっていることを認めましょう。やり残したことがあっても、明日またやればよいのです。少し休めば、神さまが新しい力を注いでくださいます。パウロはとても真面目で何でもできる人でした。しかし、復活の主に出会って、打ち倒されました。そして彼はこう言いました。Ⅱコリント129「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」このテーマを持った人には、行ないよりも主の恵みにとどまることが必要です。

 第二は適合的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は愛情や信頼が欲しくて「他人」に注目します。そのため、たえず人の顔色を伺い、相手に合わせようとします。きわめて日本的です。「人が私をどう思っているだろうか」「私の愛は受け止められているだろうか」「私は信頼されているだろうか」と考えます。親からありのままで愛されたことがありません。見捨てられ症候群というのがありますが、甘えたことがないのです。だから、人からの愛着や信頼を求めます。あなたは「周りから受け入れられたい」という願いがあるでしょうか?逆に、「私はのけものにされている」「私は誤解されている」「私は正統に評価されていない」という怒りや恐れがあるでしょうか?それらは核信念からくるゆがんだ思いです。箴言2925,26「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。」と書いてあります。あなたは人の奴隷になってはいないでしょうか。人から嫌われなくないために、良いことをするというのは貢ぎであります。貢ぎとは「私を認めてください」と自分を差し出すことです。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ624「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」クリスチャンは神さまに第一に仕え、神さまから認めてもらえば良いのです。人からの評価はあとから着いてきます。でも、人から嫌われたり、拒絶されたらどうしますか?ヨハネ148「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」ヨハネ222「あなたは、わたしに従いなさい。」あなたの注目すべき方は、人ではなくてイエス様です。イエス様に注目すれば人の目から解放されます。

第三は支配的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「ちゃんとコントロールできているか」ということに注目します。自分や他人を支配するような信念です。おそらく親が家庭を正しく治めていなかったのではないでしょうか?そのため、不条理な中で翻弄されてきました。「自分の力では対抗できないものが自分の世界を混乱さている」と考えています。もし抵抗できなければ、萎縮して諦めるしかありません。この人のテーマはコントロールです。自分へのコントロールだと「事が自分の思うように進まなければ、自分はもうだめだ」と考えます。他人へのコントロールだと「人が私の望むようにしなければ、私のことを大事にしていない」と考えます。この人は、人が自分の望むようにしてもらえるように、必死でいろんなことをします。それで疲れ果ててしまいます。「自分は強くなければならない。なぜなら強いものだけが好かれるから」「何かうまく行かなければ自分のせいである」「悪い人は罰されるべきである」。このように自分や他人をコントロールします。ある程度、コントロールできているうちは良いですが、やがて自分のコントロールが利かなくなるときが来ます。「怒り」によるコントロールがきかなくなくと、絶望的になります。そのタイプの人は環境や人を変えるということは不可能であることを学ぶべきです。変えられるのは自分だけです。コントロールできるのは自分自身です。そこに焦点を当てると変わってきます。究極的に主なる神がコントロールし、すべてのことを正しくさばくお方であることを気づくべきです。あなたが神になってはいけません。支配権を主にゆだねましょう。自分がさばくのではなく、主のさばきにゆだねましょう。神の権威と、権威ある人を認めましょう。そうするとあなたの上に覆いができ、あなたは安息することができます。覆いとはcoveringであり、権威に服している人が与えられる守りです。

 このようにゆがんだ核信念に意識的に聖書的な正しい考えをミサイルのように打ち込むのです。核信念は難攻不落な要塞のようです。でも、みことばのミサイルによって壊すことができます。みことばの真理によって置き換えていくのです。みことばは真理であり、真理に従えば力があります。そして大事なのは、たとえそういうことがあっても「自分の世界は壊れない」という新しいコア世界観を持つということです。「私は失敗した、罪を犯してしまった。でも、神さまからの愛は失わない。主の愛は絶えることがない」という新しい世界観を持つのです。また、「私は馬鹿にされた。ないがしろにされた。でも、私の価値は変わらない。主が認めてくださっている」という新しい世界観です。「私の思うとおりに事が運ばない。あの人は責任をちゃんと取ってくれない。でも、神さまがなんとかしてくださる。すべてを主にゆだねれば大丈夫だ」という新しい世界観を持つのです。つまり、「どんなことがあっても、私の世界は壊れない」というしなやかな心をいただく必要があります。詩篇9212「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。」やしの木はどんな大きな嵐がやってきたときも風を恐れません。なぜなら、幹をたわませて風をしのぐからです。樫木や松の木が折れてしまっても、やしの木は簡単に折れません。なぜなら、神さまはやしの木に、はね返る性質、bound spiritを与えておられるからです。私たちもbound spirit、簡単に折れない、しなやかな心をいただきましょう。

 2.逆転勝利の道

 古い核信念、古いコア世界観で生きて来た人の特徴は何でしょう?それは、負のエネルギーで頑張っているということです。そして、自分が得られなかったものを何とか手に入れようと頑張っています。そのため自分だけではなく、周りの人たちを汚しながら生きています。それは埋め合わせ対象行動であり、「怨念晴し」の世界です。第一の脅迫的信念というテーマを持った人は、行ないにいつも注目します。「まだ不十分だ、まだ足りない。もっと頑張ろう」。これがその人のエネルギーです。教会ではこれを律法主義というのですが、その人が一生懸命やっているので、ダメとは言えないのです。神さまの愛を得るために、貢ぐのはやめましょう。神さまは行いの裏にある動機をご覧になっています。律法学者やパリサイ人は、行いは立派でしたが、動機が汚れていました。では、この人の新しいエネルギーとは何なのでしょう?ローマ8章からの抜粋です。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。…それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。…肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。…肉にある者は神を喜ばせることができません。」解決は御霊、聖霊によって歩むことです。あなたのエネルギーがあなたの肉ではなく、聖霊に切り替わるならば、あなた本来の人になることができます。イエス様は自分の力で何でもできましたが、あえて御父に聞き、聖霊の力によって行動しました。だから律法の罠に陥ることなく、正しい道を歩むことができたのです。この人は元来、真面目で、几帳面なのです。だから、パウロのように神学を組み立て、細かいことができるのです。パウロはどんな困難があっても、あきらめないで、世界の果てまで伝道することができました。あなたには教えや様々な奉仕の賜物があるのではないでしょうか?パウロはあなたにこのように命じています。ローマ1211「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」

 第二の適合的信念というテーマを持った人です。この人は人の気持ちがよく分かる人です。悪い意味では共依存的ですが、愛情と信頼を何よりも得たい人です。これまでは人に受け入れられるため、認められたいために頑張ってきました。でも、その動機が汚れていたのです。人からの是認ではなく、神さまからの是認を第一に求めるべきです。神さまはイエスさまにおっしゃったように「あなたは、わたしの愛する子、私はあなたを喜ぶ」(マルコ111とおっしゃっています。もう、イエス様にあってあなたは受け入れられ、認められているのです。「自分が不適合ではないのか」「自分には資格がないのではないだろうか」と悩んできたかもしれません。そうではありません。ヘブル55「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」とイエス様と同じように、あなた自身にも資格を与えてくださっています。あなたは、すでに神さまから認められているので、その土台の上に、人と関われば良いのです。あなたは賜物で言うと、分け与える人であり、人の気持ちがよく分る慈善の人ではないでしょうか。パウロはあなたにこのように命じています。ローマ1215「喜ぶ者といっしょ喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」

 第三支配的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「ちゃんとコントロールできているか」ということに注目します。つまりは、あなたは不条理というコントロールを受けてきました。あなたには正しくコントロールできる力、リーダーシップがあります。しかし、これまでは「自分のことを聞け」「自分のことを聞く人を愛する」という汚れた動機で動いていました。そのため、周りの人はあなたから、「コントロールされている」という汚れを受けて来ました。あなたはそうやって人を操ってきました。だから、「もう結構です」とパペットの糸を切って、離れた人もたくさんいたのです。でも、こんどは違います。なぜなら、支配のトップは主イエス・キリストであると言うことが分かったからです。あなたは、さばきの権威をイエス様に渡しました。あなたのボスはイエス様であり、あなたは彼の子分です。あなたはイエス様の権威のもとで、リーダーシップを発揮すれば良いのです。あなたには管理や指導、勧める賜物があるのではないでしょうか?パウロはあなたにこのように命じています。ローマ1219「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」。さばきを主にゆだねましょう。

 私たちは問題のない家庭で育った人など一人もいません。虐待されたり、粗末にされたり、圧迫を受けながら育てられました。もちろん、愛と養育もたくさん受けて来ました。でも、私たちはアダムの子孫なので、良いことは水に流し、悪いことは石に刻むところがあります。どうしても否定的なこと、被害者的なことの方が核信念にダメージを与えるのです。でも、そこに神さまの御手が伸べられたならば、どうでしょう?すばらしい逆転勝利がもたらされます。あなたをあのような苦しみに置くことは神さまのみこころではありませんでした。しかし、父なる神さまはあなたを見出して、救ってくださいました。その後どうなったでしょう?神さまのあなたに対する人生の計画とはどのようなものなのでしょうか?ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」アーメン。聖書に出てくる偉大な人物はすべて、この逆転勝利を通過した人たちです。旧約聖書のヨセフは父から溺愛され他の兄弟たちから恨みを買いました。さらに、「父母、兄弟たちが自分を拝んだ」と見た夢を自慢しました。父の使いで出てきたヨセフを捕え、奴隷として売り飛ばしました。父には「ヨセフは獣で裂き殺された」と報告しました。ヨセフはエジプト人の奴隷となって主人の家で真面目に仕えました。ところが主人の妻から濡れ衣を着せられ、地下牢にぶち込まれました。そこでも主が共におられ、監獄の長はすべての囚人をヨセフの手に任せました。ある時、罪を犯した二人の役人が入って来ました。ヨセフは二人が見た夢を解き明かしてあげました。1人は助け出されましたが、ヨセフのことをすっかり忘れました。それから二年後、エジプトのパロ王が不思議な夢を見ましたが、どんな知者も解き明かすことができません。ヨセフが地下牢から呼び出され、パロの夢を解き明かしてあげました。パロ王はとても感激し、ヨセフに指輪を与え、自分の代わりにエジプトを治めてくれるように願いました。夢のとおり飢饉が世界を襲い、カナンに住んでいた兄弟たちが穀物を求めてやってきました。彼らは目の前の宰相がヨセフだとは知りませんでした。ヨセフは兄弟たちを試しましたが、彼らが後悔していることを知り、自分の正体を告げました。ここがすばらしい箇所です。創世記455「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」これがdivine destinyです。

 神さまがやがて来る飢饉から家族を救うためにヨセフを前もってエジプトに遣わしていたということです。ヨセフはそのことを悟ったので、兄弟たちに仕返しをしませんでした。まさに、ヨセフの物語は、逆転勝利という神さまのご計画です。何を言いたいかと申しますと、あなたもヨセフのように仕込まれていたということです。なんであんな家庭に生まれたのだろう?なんであんなひどいことをされたのだろう?なんで家には父親がいなかったんだろう。なんで家には母親がいなかったのだろう。なんで家にはお金がなかったんだろう。なんで、だれも私のことを認めてくれなかったのだろう。あなたは「なんで」「なんで」と生きて、欠けているところを必死に埋め合わせて生きてきたのかもしれません。でも、父なる神さまが「その中であなたを仕込んでいた」と考えることはできないでしょうか?あなたは逆転勝利したあと、このように言うでしょう。「ああ、あのことがあってよかったんだ」「ああ、あのことがあったので今日があるんだ」「ああ、あのことがあるのでこのように用いられているんだ」。これまでの負の財産が、プラスの財産になった瞬間です。それでも、あなたが、怨念晴らしで負のエネルギーで生きていくなら、最後は破滅です。たとい、あなたの正義を通し、あなたの行いを通し、あなたの存在を通しても、動機が汚れているなら、最後は倒れます。これまでそういう政治家がたくさんいました。最近は事務次官たちもいらっしゃいます。東大の法学部を出て、エリートコースまっしぐら、でも、最後にひっくりかえってしまいました。やっていることは正しそう見えても、動機が間違っていたのです。ヤコブ120「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあるとおりです。私たちはたとえ正しいことをしていても、動機がきよめられる必要があります。それは、言い換えるとエネルギーを変えるということです。怒りや憎しみ、「今に見ていろ!」ではなく、神さまの満たされたところから来るエネルギーです。神さまの愛と赦しと受け入れから来るものです。自分のがんばりや肉の力ではなく、聖霊からくるものです。パウロが手紙の最後に「どうか恵みがあなたがたと共にあるように」と祈っているとおりです。

 最後に私たちは自分の世界を全うする必要があります。今までは不完全で、悪いものを出す核信念、コア世界観でした。でも、主にあって新しい核信念、新しいコア世界観をいただくことができました。これからはそれを完成していかなればなりません。最初に読んだローマ12章を見ますと、たびたび出てくることばがあります。「自分に与えられた恵み」「おのおのに分け与えてくださった信仰の量り」「与えられた恵みに従って」共通していることは、それぞれ与えられた恵みがあるということです。言い換えると、それぞれ与えられた世界観があるということです。キリストのからだなる教会において、私たちはそれぞれの器官であります。ひとり一人違いますが、キリストのからだにつながることにより、すばらしい役割を果たすことができます。一見、寄せ集めのような感じがしますが、そうではなく、神さまのご計画で私たちは召されました。ひとり一人に賜物と召命があります。ひとり一人に神さまが果たしてもらいたい、divine destinyがあります。私たちのゴールは自分の世界を全うし、神さまが与えたdivine destinyを果たすことにあります。「自分の賜物と召命は何なのだろう?」とよく分からない人がいるかもしれません。でも、ローマ12章は「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と命じています。あなた自身を神さまにささげ、キリストのからだにつながるとき、「ああ、私の賜物と召命はこれだ」と分かるのではないでしょうか?みなさんが、主にあって、逆転勝利の道を歩み、ご自分の世界を全うすることを願います。

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