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2018年8月17日 (金)

御霊による歩み ローマ8:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.19

 前回は、「律法からの解放」についてローマ7章から学びました。きょうはローマ8章から「御霊による歩み」と題して学びたいと思います。エゼキエル書36章の「新しい心を与え、新しい霊を与える」という預言が2000年前のペンテコステの日に成就しました。今日では、イエス・キリストを信じる者はだれでも、聖霊によって生まれ変わり、さらには内側に聖霊を宿しています。聖書では、内側に住んでいる聖霊を「御霊」とか「キリストの御霊」と呼んでいます。厳密には「御霊」は、神の霊なのか、それとも自分自身の霊なのか区別がつかないところがあります。

1.御霊による歩み

パウロはローマ7章の後半で「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいます。これは自分の中には、律法を守る力がないというどん底からの叫びです。しかし、その直後、パウロは何かを発見したのです。そして、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ感謝します」と言っています。一体、パウロに何があったのでしょうか?ローマ82「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」このところに突然「いのちの御霊の原理」ということばが出てきます。日本語の聖書ではよく分かりませんが、原理も律法も同じことばです。英語の聖書ではlaw、ギリシャ語では「ノモス」です。ちなみにロシア語の「ノルマ」はノモスから来たことばです。新約聖書の「ノモス」は、法律や律法の他に、法則とか原理と言う意味もあります。一箇所、例をあげて、説明したいと思います。ローマ723「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」日本語では「異なった律法」となっていますが、本来なら「異なった法則」と訳すべきなのです。また「心の律法」は「心の法則」です。そして、「罪の律法」は「罪の法則」です。律法と訳してしまうと、ローマ82節とつながらなくなるからです。ローマ82の「いのちの御霊の原理」は「いのちの御霊の法則」です。そして、「罪の死の原理」は「罪と死の法則」です。「法則」と訳すと分かり易くなります。新共同訳聖書は全部「法則」に統一しています。

 では、私たちの内側、つまり肉につける私たちにはどのような法則があるのでしょうか?私たちの肉は律法を押し付けられると反抗したくなります。真面目にやったとしても守りきることができません。最終的には死にいたります。これが「心の法則」「罪の法則」です。パウロは「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう」と絶望しています。ところが、パウロはどん底に落ちて、全く別な法則を発見しました。自分を引き上げ、いのちを与えてくれる法則です。それが「いのちの御霊の法則」です。たとえ、私たちに「罪と死の法則」が働いても、「いのちの御霊の法則」が私たちを引き上げて救ってくれるのです。ウォッチマン・ニーが『キリスト者の標準』の中で鳥の話をしてこのことを説明しています。マタイによる福音書には「空の鳥を見なさい」と書かれています。もし私たちが鳥に、「引力の法則に恐怖を感じていないか」と尋ねることができたなら、鳥はどう答えるでしょうか?「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則について何も知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことが命の法則であるからです」と答えるでしょう。鳥の内には、飛ぶ力を備えている命があるばかりではなく、その命は、これらの生物に全く自然にまた持続的に、引力の法則に勝たせる命の法則を持っているのです。しかし、引力は依然として存在しています。アーメン。とても分かり易い例話です。私たちには罪と死の法則が依然として作用しています。その証拠に、もしだれかが私について悪口を言ったとすれば、すぐさま私の内部で何か思わしくないものが起こります。これは罪の法則です。また、何かのことで神さまを喜ばせようと努力します。しかし、自分は神の標準に達していないような気がしてきます。そして「私にはできない」という弱さを発見します。罪だけではなく「死の法則」が、自分の内に作用していることが分かります。これは法則ですから、すべての人間に働くマイナスの力です。でも、その法則に打ち勝つ力が「命の法則」です。その法則は、私たちの内におられる聖霊よってもたらされるものです。

 では、どうしたら「いのちの御霊の法則」を体験し続けることができるのでしょうか?ローマ83-4「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」このところに、「神はしてくださいました」と書いてあります。何をしてくださったのでしょうか?第一は、御子イエスが肉において罪を罰せられました。言い換えると、私たちの私の肉を罰して、死に渡されたということです。私たちの問題の根に一撃を加えて下さったのです。第二は、聖霊が私たちに律法を全うさせてくださるということです。でも、条件があります。それは「御霊によって歩む」ということです。「…によって歩む」とは服従を意味します。肉によって歩むということは、肉の命ずるままに自分をゆだねることを意味します。結果的にどうなるでしょう?ローマ86-8「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」「御霊によって歩む」とは、御霊にゆだねて、御霊に従うということです。私たちは肉で神さまを喜ばせることはできないし、神さまもそのことを望んでいません。すばらしいことに、内におられる聖霊が、神の御旨を行なえるように働いてくださるのです。聖霊はかつてキリストがなされたことを、私たちの内に実現させるために遣わされたのです。私たちは、そのため、聖霊様と普段から親しく交わることが必要です。交わりとは、御霊によってその恵みにあずかることです。パウロはこのような祝祷のことばを述べています。Ⅱコリント1313「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

 このように私は「御霊によって歩むことが大切です」とみなさんに確信を持って語れるようになるまで、かなりの年月を要しました。なぜなら、私の生まれつきの性質は「がさつであり、せっかち」です。「歩む」というよりは「走る」という方が当たっています。「聖霊に聞く」とか、「聖霊に従う」という意味は分かります。でも、途中で面倒になってやめて、あとは自分の力や考えで突っ走ってしまいます。でも、いろんな失敗や困難を通して、「御霊によって歩むことが大切なんだなー」と体験的に分かるようになりました。ギリシャ語で「知る」は2種類あります。「ギノスコー」は、知的に知るということです。聖書を勉強したり、研究するときはこの「ギノスコー」が重要です。一方、「オイダ」は、体験的に知るという意味のことばです。これは信仰をもって実際に行うとき、はじめて分かることです。「オイダ」はヘブル語では「ヤーダー」であり、男女の親密な関係を表わす用語です。言い換えると、親しい交わりを通して知るということです。御霊によって歩むとは、「御霊と交わりながら、生活する」ということです。エマオの途上に向かっていた二人に、復活したイエス様が近づいて来られました。彼らは目が閉ざされていて、その方がイエス様だと分かりませんでした。あとで気づいた二人がこのように言っています。ルカ2432 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」このように、イエス様は今も生きてられ、御霊によって私たちの内側に親しく語ってくださいます。

 もう1つは、「御霊の法則」というすばらしい恵みがあります。私は高校の「物理」と「応用力学」でつまずきました。土木科ですから、仕事につけば避けて通ることができない学科です。数式とか定理みたいなものはほとんど忘れましたが、「法則」には力があることだけは知りました。私たちはこの肉体を持っていますが、アダムの罪と堕落を幾分か受けています。霊的に新しく生まれたはずなのに、「生まれつきの考え」「生まれつきの能力」「生まれつきの性格」というものを持っています。これが肉なんだと思います。しかし、神さまは私たちを救ったあと、「今後はこれで生きなさい」と与えて下さったのが神の霊、聖霊なんだと思います。この方は神としての人格と持っておられ、私たちと親しく交わってくださいます。それだけではなく、私たちを罪と死から救ってくださる力を持っておられます。これが「御霊の法則」です。そして、私たちの肉ではなしえなかった、「律法を守ること」「律法を破らないこと」を聖霊が行ってくださるのです。聖霊、内におられる御霊は「第二の資源」と言うことができます。今では普通ですが、ハイブリッド車が走っています。あの車はあるときはガソリン、またあるときは電気で走ります。おそらく自動で切り替わるのでしょう。私たちもあるときは自分の力や考えで走るときがあります。しかし、自分の力や考えで間に合わないときは、内におられる御霊が自動的に働いてくださるのです。一番重要なことは、御霊が自由に働いてくださることを容認し、歓迎する必要があります。御霊は人格をもっておられますので、「私に関わらないでくれ」と拒絶すると退かれます。そうではなく、いのちの御霊の法則がいつでも、豊かに働かれるように、御霊に期待して歩みましょう。

2.恵みによる歩み

 ローマ86-8「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」私たちは、肉で律法を行なおうとするとそれができないということがよく分かりました。なぜなら、律法が肉を刺激して、反抗心を生み出し、結局は死に至ります。死というのは霊的な窒息死であります。しかし、信仰生活のことを考えてみましょう。教会はイエス様を信じるだけで救われると「信仰義認」を説きます。これは正統的なプロテスタント教会だったら、反対するところはないでしょう。ところが、問題は洗礼を受けてからのことであります。ほとんどの教会では「洗礼準備会」というものを設けていると思います。そこでは信仰の確認とこれからの信仰生活がどうあるべきか教えます。ところが、結構、やるべきことがたくさんあることに気が付きます。聖書を読むこと、祈ること、聖日礼拝に出席すること、献金、奉仕、罪から離れきよい生活を送ることを学びます。教会によっては、いくつかの規約もあるようですが、「これから教会員として義務を果たします」と誓約書を交わすところもあるようです。つまり、イエス様を信じて救われるということと、教会に属して教会員になることを分けているところもあります。そういう準備会を受けた人の頭にはどのようなことが浮かぶでしょうか?おそらく、「救われるのは恵みかもしれないけれど、信仰生活は行いが必要なんだ。詐欺みたいだなー」と思うのではないでしょうか?でも、ほとんどの人は、信仰的に燃えていますので、それらが全く苦にはならないでしょう。私も洗礼受けた後、「聖日礼拝厳守、はってでも来い」と言われ、今まで休んだことがありません。40年間、どうしても行けなかったことが2度ほどありますが、あとでビデオ礼拝を持ちました。最終的に牧師になったので、休むわけにはいかなくなりました。

大川牧師は聖日礼拝を「強いられた恵み」と言いました。私は会社で働いていましたが、朝6時の早天祈祷会、水曜祈祷会、土曜日の週報印刷、日曜日の礼拝、聖歌隊、夜の礼拝に出ました。半年後、直接献身の表明をしたので、さらにCSなどの奉仕がたくさん出て来ました。週に礼拝堂の掃除は3回はしました。たまに説教する機会も与えられました。ある時、第二礼拝の説教をした後、ホルンの宮田四郎先生から「疲れているように見える」と言われ、がっかりしました。その頃、本田弘慈という大伝道者が来られ、「ねこ信者」というお話しをされたことがあります。先生は関西の出身の先生でしたから、「〇〇しにゃーならん。〇〇しにゃーならん」といつも言っている人を「ねこ信者」だというのです。「当たっているなー」と思いました。「聖書を読まなければならない」「祈らなければならない」「集会を守らなければならない」「献金しなければならない」「奉仕をしなければならない」など、みんな良いことです。しかし、これが律法になっていたならどうでしょうか?クリスチャンは「モーセの律法」をもちろん守りますが、このような新たな律法の中で生きているというのが現状ではないでしょうか?

2007年、スティーブ・マクベイという先生が聖書キリスト教会で「恵みの歩み」という講演をなされたことがあります。先生は16歳のときから説教しました。19歳である教会の主任牧師になり、21年間牧会をしました。神様が喜ばれることを一生懸命しようとしました。忠実に神様のことばを語るように努力しました。一生懸命、伝道をし、祈りの生活も一生懸命守ろうとしました。教会の人数は増えました。忠実な牧会をしようと努力しましたが、心の中では達成感がありませんでした。本当に主を愛していましたが、心の中では「自分は足りない、神様に受け入れられるにはふさわしくない」と思っていました。先生はその後、主の召命であると信じ、別の教会に赴任することになりました。向かう道路に「スティーブ牧師、行かないでください!」という横断幕がかけられていました。先生は新しい教会を成長させようとしました。もっと祈り、もっと勉強し、もっと働き、もっと訪問し、できるだけのことをしました。それでも、人数は減るばかりでした。「主よ、どうぞ私を強めてください。力をください。私は諦めません。がんばりますから」と祈りました。1990106日土曜日の夜、事務所の中でうつぶせになっていました。朝2時でした。あと数時間で教会の礼拝が始まります。鬱的で、まったくやる気がない状態でした。「神様、何をしているんですか?何で私をここに呼んだのですか?」と、泣きながら祈っていました。その時、主が答えてくれました。耳で聞こえる声ではなく、霊で分かるように語ってくれました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」。先生は、「神さまが私に教会を建ててほしい。説教をしてほしい。カウンセリングをしてほしい。病気のためお見舞いに行ってほしい」と思っていると考えていました。しかし、神様は私自身を欲しいということが分かりました。神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられると言うことが分かったのです。スティーブは紙を取り出し、自分がゆだねるものを1つずつ書き記しました。最後に「全部、神様のご支配のもとにゆだねます」と書いて、自分の名前をサインしました。

スティーブ牧師は自分が死んだという診断書にサインをしたのです。そして、イエス様あなたが生きて下さいと願ったのです。それは、律法に対して死んで、律法を全うしてくださるキリストにあって生きるということでした。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いてあります。これは、言い換えると神さまは「あなたは肉でがんばらなくても良い」という慰めのことばでもあります。イエス様は私たちがイエス様を信じたときに、満足してくださいました。イエス様は、私たちに何かをさせるために、私たちを救われたのではありません。「神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられる」というのは真実です。では、何もしなくても良いのでしょうか?良いのです。聖書を読まなくても、祈らなくても、聖日礼拝に出席しなくても、献金をしなくても、奉仕をしなくても、イエス様は私たちを愛しておられます。神さまは私たちの行いではなく、存在そのものを愛しておられます。そう言われると、私たちの方は天邪鬼なので、「ちょっと聖書を読もうかな、祈ろうかな」と思うのです。つまり、「しなくても良い」という自由が与えられると、したくなるのです。律法は「あなたはまだ足りない。基準に達していない」と私たちを責めます。しかし、恵みは「あなたは十分です。何もしなくても愛されていますよ」と私たちを励ましてくれます。律法はマイナスの地点から、プラスになるように一生懸命頑張ります。ところが、恵みはプラスの地点から、さらにプラスになるというイメージがあります。つまり、恐れや不安や罪責感が動機でなく、安心感が動機なのです。私はかつて業績指向の塊でした。神さまが「パウロはあれだけ伝道したのに、お前はなんだ。歯がゆいぞ!」と背中から冷や水をかけられている気がしました。かつては、仁王様のような厳しい神さまのイメージがありました。しかし、「恵みの歩み」を知ってから、神さまは放蕩息子のお父さんのように無条件で愛しておられる優しいお父様だと言うことが分かりました。

Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」律法は私たちを殺します。しかし、御霊は私たちを生かしてくださいます。3:17-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」律法は私たちに恐れを与え、私たちから自由を奪います。しかし、主の御霊のあるところには自由があります。どんな自由でしょうか?私はありのままで神さまから受け入れられている。主の御霊と共に歩めば大丈夫だという安心感です。多くの人はこの「安心感」がありません。「自分は相応しくない」「まだ足りない」「まだ不十分だ」すべては律法から来る恐れです。父なる神さまはすべてのものをお持ちです。何よりもすばらしいのは、私たちが救われるために御子イエス様を十字架に渡してくださいました。しかし、それだけではありません。私たちの内に主の御霊を与え「これでやりなさい」とすべての資源もくださったのです。聖霊は神さまご自身ですから、すべてのものをお持ちです。この神さまが私たちの内におられるのですから、驚くべき事です。神さまの永遠の計画とは、御霊によって私たちと一緒に住むことだったのです。神さまはすべてのものをお持ちです。私たちが献金しなければやっていけない貧しい方ではありません。私たちが奉仕しなければ何もできない方ではありません。そうではなく、神さまは私たちを通して、働きたいと願っておられるのです。主役は神さまで私たちは管channelです。水を通すような管です。管の重要な役割は詰まらせてはいけないということです。できるだけ自分は透明になって、主が現れてくださるように願うのです。自分が小さくなればなるほど、主が大きく現れてくださいます。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」イエス様は現在、御霊によってあなたの中に住んでおられます。神の御子を信じる信仰とは、内におられるイエス様が私を通して働いて下さることを信じることです。イエス様が、あなたからmanifest現われ出てくださいますように。アーメン。

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