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2018年8月10日 (金)

律法からの解放 ローマ7:5-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.12

 私たちは法律をはじめとする様々な「きまり」の中で暮らしています。世の人たちは「洗礼なんか受けたら、新たにきまりができて、さらに自由がなくなる」と言うでしょう。人間は悪いことをするので、法律の数がますます多くなります。まるでいたちごっこです。実は人間にはきまりには従いたくない。むしろ逆らいたいという天邪鬼みたいな性質があります。きまりを多くすればするほど、「そんなきまりなんか守りたくない。破りたい」という引き金にもなるということです。聖書には律法と言って、法律やきまりに当たるものがあります。きょうは「律法からの解放」と題して、聖書から学び、きまりごとに対する自由を得たいと思います。

1.律法とは

 聖書によく出てくる「律法」とは何でしょうか?アダムとエバが罪を犯す前は、律法などありませんでした。主なる神さまと親しく交わっていたので、何も問題がありませんでした。ただし、善悪を知る知識の木から食べたとたん、目が開かれ、神のように善悪を判断するようになりました。言い換えると、神抜きで、自分で善悪を決めるというふうになったのです。今も私たちは人の罪を簡単にさばきますが、アダムが堕落してしまった結果であります。本来、善悪の判断は神さまがお決めになるのですが、私たちが先走って決めてしまうところがあります。信仰の父アブラハムは行いではなく、信じるだけで神から義と認められました。「律法」ということばが最初に出てくるのは、出エジプト記20章からです。イスラエルの民をエジプトから救い出された主なる神は、イスラエルと契約を結びました。その条件が十戒であります。イスラエルの民には、他にたくさんの律法が与えられました。律法は大きく分けると3つあり、道徳律法、祭儀律法、社会律法です。本来、律法は「この範囲内で暮らしたなら、安全で、健やかに暮らすことができますよ」という神さまの尊い戒めでした。ところがイスラエルの歴史を見ると分かりますが、神さまに反逆して偶像を拝み、律法の範囲を飛び越える生活をしました。もう罪のオンパレードです。神さまご自身も、「彼らは律法を与えても守ることができない」と納得されました。エレミヤ31章には、「私は彼らと新しい契約を結ぶ。律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」と書いてあります。エゼキエル36章には「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」とも約束されています。これがイエス・キリストによってなされた新しい契約です。信じる者に新しい心を与え、心に律法を書き記すということです。多くの人たちは、モーセの律法がイスラエルに交わされたものであって、異邦人の私たちとは関係のないことを知りません。イエス様はその代り、私たちに「愛する」という新しい戒めを与えました。なぜなら、愛は律法を全うするからです。

 使徒パウロは、私たちは罪からだけではなく、律法からも解放されているということを分からせるためにローマ7章とローマ8章を書きました。きょうは主にローマ7章から消極的な意味での律法からの解放、次週はローマ8章から積極的な意味での律法からの解放についてまた学びたいと思います。なおローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙は兄弟みたいなもので、両者とも律法からの解放について書かれています。そのため、ガラテヤ人への手紙からもいくつか引用いたします。ローマ7章を見ると、パウロがとても落ち込んでいるのが分かります。ある人たちは、これはパウロが救われる前の葛藤した出来事であると言いますが、そうではありません。パウロはローマ1章から5章前半までは「行いの罪の赦し」を語っています。5章後半から6章までは、「単数形の罪(原罪)」からの解放について語っています。ローマ7章のテーマは「律法からの解放」です。ローマ71節から4節までは、結婚のたとえが記されています。一人の女性が律法と結婚していました。夫がいる女性が他の男性のところへ行けば、「姦淫の女」と呼ばれます。しかし、夫である律法は永遠に不滅であり、死ぬことはありません。イエス様は「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」(マタイ518と言われたとおりです。でも、イエス様が十字架につけられて死んだとき、私たちも共に死んだのです。死んだ者に対して、律法は何もすることができません。さらに、イエス様はよみがえられ、私たちはイエス様と新たに結ばれたのです。つまり、新しい夫は律法ではなく、恵み深いイエス様です。ローマ76「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」アーメン。古い文字とは、石の板に書かれたモーセの律法です。クリスチャンは生ける御霊によって、心の板に律法が書かれているのです。これはエレミヤ書とエゼキエル書の成就といえます。かつては外側から「ああしてはいけない、こうしてはいけない」と戒められました。今度は聖霊が私たちの内に示してくださり、さらには行う力も与えてくださるのです。これが新約の恵みです。

 それなのに、ガラテヤの教会の人たちは逆戻りしてしまいました。せっかく恵みで救われたのに、割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救いを全うできないと考えました。パウロは「あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉にあって完成されるというのですか」と嘆いています。せっかく律法と別れたのに、再び律法のところに行くとはどういうことでしょう。聖書はそれを姦淫と呼んでいます。彼らは「イエス様の恵みでは足りないので、律法からも学ばなければならない」と言っているのです。教会でも「救われたクリスチャンがモーセの律法が必要だろうか?」議論が分かれています。もちろん「モーセの律法」は神のことば、律法ですから全く不要だということはないでしょう。マルチン・ルターは「律法は行為の基準を示すが、それに従う力は与えない。福音がその力を与える。律法は死の使いであり、福音は命と平和の使いである」と言いました。しかし、ジョン・カルヴァンは「規範として律法が必要である」と主張しました。彼はジュネーブにおいて「神権政治」を開始しましたが、最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放を行いました。カルヴァンは「教会規則」を作りましたが、改革派が堅いのはこのためかもしれません。律法は永遠に存在しています。新約の時代に生きる私たちは「どのように律法と向き合えば良いのか」という課題が残っています。

2.律法の働き

 使徒パウロは律法を厳格に守るパリサイ人のパリサイ人でした。いわば、パウロは律法に関してはプロでした。そのパウロが、律法が自分に対してどのように働いたか赤裸々に書いています。第一は、律法は私たちに罪があることを知らせてくれるということです。律法は神が定めた義の基準であり、罪があるかどうかすぐ分かります。パウロはローマ77「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」と言っています。世の中に体重計がなければ、自分が何キロなのか分かりません。世の中に法律がなければ、どれだけ悪いことしたのか客観的には分からないでしょう。聖書には数えきれないほどの戒めがあります。教会にはご親切にも、「あなたは罪を犯していますよ」と教えてくれる人がいます。そう言われると、「いや、あなたもこのような罪を犯しているではありませんか」と言い返したくなります。いわゆるさばき合いが起りやすいのが教会です。第一のポイントで申しあげましたが、本来は神さまがさばくのに、私たちが神さまの代わりにさばいてしまうのです。なぜなら、善悪を知る知識の実を食べたからです。ところで、「ワンピース」というアニメがありますが、そこにはたくさんの能力者が登場します。彼らは「悪魔の実」を食べたからです。私たちも「善悪を知る能力者」であることを忘れてはいけません。イエス様はマタイ7章で「さばいてはいけません。さばかれないためです。…兄弟の目のちりを取る前に、自分の目から梁を取り除けなさい」と言われました。

 第二は、律法は私たちが罪を犯すようにけしかけるということです。パウロはローマ78「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私の内にあらゆるむさぼりを引き起こしました」と言っています。なぜなら、私たちの内側には律法に逆らう肉(ギリシャ語でサルクス)が宿っているからです。私たちは「わさるな」と言われれば、触りたくなるし、「見るな」と言われば、見たくなります。「そういう禁止事項がなければ、しらんぷりして通り過ぎたのに」です。私たちは小さいときから数えきれないほどの「きまり事」に縛られて生きてきました。学校では学校の校則があり、会社に入ればコンプライアンス(命令や要求に応じること、果たすべき務めを果たすこと)があります。「警察官や学校の教師が酔っぱらうと手に負えない」とよく言われますが、日ごろ規則に締め付けられているからです。「酔っ払い運転をするな!」と警告している、警察官がそうなるのは分かるような気がします。道ばたを歩いていると「ポイ捨て禁止、見ているぞ」みたいな看板があります。私はむっときます。21世紀教会の男子トイレに「きれいに使ってくれてありがとう!」と書いてありました。そう言われると、一歩前に出たくなります。

 第三は、律法は最終的に私たちを殺してしまうということです。ローマ79-10「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」何と言うことでしょう?律法は元来、善なるものです。なぜなら、神さまが与えたものだからです。でも、問題は私たちが律法に耐えられないということです。モーセがシナイ山の頂で十戒をいただいていました。しかし、山の下ではモーセが戻って来ないので、アロンに金の子牛を造ってもらいました。モーセが山から降りると、人々は金の子牛を拝んで、いけにえを捧げていました。モーセは主からいただいたばかりの2枚の板を投げ捨てて砕いてしまいました。これが罪ある人間に石の板が役に立たないことを暗示している出来事です。Ⅱコリント36-7「文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって」と書いてあります。つまり、これはモーセの律法を知らせると、人々を殺してしまうということです。「いや、そんなことはない。十戒はすばらしい」と言う人がいるでしょう。最初のうちは熱心に守って、「自分は聖い。真面目だ」と誇るかもしれません。しかし、やがて律法の基準に達していない自分を発見します。表面では守っているつもりでも、内側では守っていないからです。当時の宗教家、パリサイ人や律法学者たちに、イエス様はこのように言われました。「白く塗られた墓のようなものです外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいです」(マタイ2128)。教会が律法を強調すると教会員が死ぬか、あるいは偽善者になります。

平野耕一牧師が『これだけは知ってもらいたい』と言う本の中でこうおっしゃっています。お葬式みたいな教会とか、お葬式みたいな礼拝という表現をあなたは聞いたことがありますか。霊は人を生かすのですが、文字は殺すのです。教会に足を踏み入れたとたん、その教会が死んでいるか、生きているかがわかります。そのいくつかの特徴をあげてみましょう。第一に、生きている教会というのは、信徒がワイワイ、ガヤガヤ楽しげにおしゃべりしています。それは、自分が正しいと思われようとか、信仰的あるいは霊的に見られようとして自分を規制する必要がないので、自分のありのままの姿をみんなの前でさらけ出すことができるからです。心が開かれているので、ついしゃべってしまいます。ですから、礼拝が始まる直前までワイワイ、ガヤガヤ、祝祷が終わって「アーメン」と言ったとたんに、またみんながワァーとしゃべり出してしまいます。第二に、恵まれている教会には笑いがあります。しょっちゅう笑い声があちらこちらから聞こえてきます。そして、あらゆる面での人々の感情表現が豊かになります。笑いもその1つですが、悲しみ、苦しみも素直に表されています。悲しいときは無理に平静を装うことなく、素直に悲しいと言い、具合が悪いときは具合が悪い、痛んでいるときは痛んでいると包み隠さず表すことができます。第三に、いのちのある教会では、個性的な信徒が育っています。…(途中、割愛して)反対に律法的な教会の特徴としては、あまり自由な会話がありません。すぐにさばかれてしいそうで、気楽に話せないのです。「霊性が落ちる」「教会には関係ない」「くだらない」という冷めた声が聞こえてきます。また、信徒の顔に表情がないこともあげられます。みんな同じ顔をしています。あまり悲しまないし、笑わないし、何か厳粛で重々しい雰囲気があたりにただよっています。確かにそれは、ある人にとっては霊的で信仰的な態度かもしれません。しかし、それは人間性が死んでいってしまいます。このように人間は、律法の下では死んでしまうということです。

3.律法からの解放

 パウロはローマ6章で私たちクリスチャンは「罪から解放されている」と言いました。しかし、クリスチャンは律法からも解放されていることを知りません。解決のヒントとなるみことばがこれです。ローマ614-15「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」ウォッチマン・二-は『キリスト者の標準』と言う本の中で、恵みと律法の違いについて教えています。「恵みとは、神が私のために何かをされることを意味し、律法は、私たちが神のために何かをすることを意味します。神は私に、聖くて義しい一定のことを求めておられます。これが律法です。さて律法が、私に何かをせよとの神の要求を意味するのであれば、律法からの解放とは、神はもはやそのことを私に求めず、神ご自身がそれを備えて下さることを意味するのです。律法は、私が神のために何かをすることを意味し、律法からの解放は、私がそれを行うことを免除され、恵みにあって神ご自身がそれをなされることを意味します。肉につける私は、神のために何もしなくて良いのです。それが律法からの解放です。ローマ7章の問題は、肉につける人が、神のために何かをしようと努力しているところにあります。あなたがそのようにして神を喜ばせようとすれば、必ず自分を律法の下に置くことになり、そしてローマ7章の経験が、あなたのものとなり始めるのです。」

 この世で妥協して生きている人ではなく、真面目なクリスチャンが7章の経験をします。「せっかく救われたのだから、神さまのためにお役に立ちたい」と自分を捧げた時から悲劇がはじまります。だまっていれば、すばらしい人なんですが、少しでも動き出すなら、失敗を重ねてしまいます。ウォッチマン・二-はさきほどの本の中で、「そこつな召使い」のことを書いています。彼がじっとしておれば、そのそこつさは表面に出ません。彼は一日中何もせずじっとしておれば、何の役にも立ちません。ところがもし彼に「さあ、怠けないで何か仕事をしなさい」と言えば、すぐさまトラブルが起こるのです。彼は立ち上がる拍子に、まずイスをひっくり返し、数歩先へ行ったところで、踏み台につまずいて倒れるでしょう。大切なお皿を手にしたとたん、それを壊してしまいます。あなたが彼に何も要求しないなら、彼のそこつさは分かりませんが、何かするように頼んだとたんに、彼は本性を表わすのです。…何を言いたいかと申しますと、神さまが私たちに何も求めなければ、私たちは義なる人であり、聖い人です。なぜなら、聖書は「あなたは罪赦されて、聖い人である」とおっしゃっているからです。でも、神さまから何か求められるや否や、私たちの罪性が暴露されます。律法は私たちの弱点を表わします。でも、何故、神さまは律法を与えたのでしょうか?その理由は「私が頭のてっぺんからつま先まで罪に満ちていること、私が弱さの化身であり、私には何もできないことを」教えるためです。神さまは私たちが何者であるかをよく御存じです。問題は、私たちは口先ではそう言っても、心からそう信じていないのです。そのため神さまは、その事実を私たちに自覚させるために、律法を与えたのです。

 パウロは落ちるところまで落ちました。ローマ722-24「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」パウロは律法によって「私は全く弱く、かつ望みのないものである」ところまで達しました。神さまは、もともと私たちが律法を守ることができないということをご存じだったのです。律法を通して神さまに受け入れられた人は、かつて一人も有りません。律法は私たちの真の姿をさらけ出します。私たちは余りにもうぬぼれており、自分は強いと考えています。だから、神さまは私たちを試み、私たちがどんなに弱い者であるかを証明しなければならないのです。パウロは「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と、どん底から叫びました。そして、どん底に落ちてみてすばらしいことを発見しました。ローマ725「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」私たちは「ローマ7章の24節と25節の間に一体何があったのだろう?」と思います。一体、パウロは何を発見したのでしょうか?パウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と叫んでいます。おそらくパウロは、キリストが私の代わりに律法を全うしてくださった。私はキリストと一緒に死んで、キリストと一緒によみがえったので、律法に答える必要はないと分かったのです。ガラテヤ219-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。

 神の律法は無効になったのではなく、キリストによって完全に成就されたのです。そのことによって、あなたは、律法から解放されたのです。それはどのような意味を持つでしょうか?それは今後、神さまのために、何一つとしてしないということです。神をお喜ばせしようとする努力など、決してしないということです。しかし、もし私が「肉にあって」神さまを喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」置くことになり、やがては死んでしまいます。しかし、感謝すべきことに、キリストが私の内にあって、神さまに喜ばれる働きをしてくださるのです。私たちの内に働かれるのは神であるキリストです。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」。いや喜ばせる必要はないのです。神さまはキリストにあってすでに満足しておられます。これからは、肉で行う必要はありません。神であるキリストがあなたの内に生きておられ、あなたの内から働いてくださるのです。これが律法からの解放です。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ127)

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