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2018年8月25日 (土)

人生の季節 伝道者の書3:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.26

 日本語の聖書は「天の下では、何事でも定まった時期がある」と書いています。英語の詳訳聖書はThere is a seasonとはじまります。seasonの方が、ロマンがあって良さそうな感じがします。スイスの精神科医、ポール・トゥルニエが『人生の四季』という本を書きました。私は人生を4つではなく、5つ分けて考えてみました。テレビの放送大学で「発達心理」を、ちょっと見ましたが「つまんないなー」と思いました。メリハリがなく、暗くて聞かせようという努力が見えません。あの人たちは笑点を見て、少し勉強したら良いのではないかと思いました。

1.幼児期

 幼児期はゼロ歳からと言われていますが、本当は胎内にいるときから始まります。近年、胎教ということが言われますが、胎児はどうも聞いているらしいのです。結婚をしていない女性が「生むべきか」「生まないべきか」と悩んでいる不安感が、胎児に伝わったらどうでしょうか?人生の初めから「私には価値がない」「私は不適切である」というレッテルを貼られて生まれるようなものです。救世軍の創設者にウィリアム・ブースという有名な人がいます。彼のお母さんがおなかの子に「ビル。世界がお前を待っている」と声をかけたそうです。すごいですね。スタートの地点から違います。私は8人兄弟の7番目で生まれ、おまけみたいな存在でした。私は小さい時から眉間にしわがありました。家内は「神経質に見えるから伸ばしなさい」と注意してくれました。4番目の子どもが生まれ、産院に面会に行きました。なんと、赤ちゃんの眉間にしわがありました。その時、「よく、生まれて来たね!」と言って喜びました。それは赤ちゃんに言ったことも確かですが、自分にも言ったことばでした。詩篇139篇には「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇13916と書いてあります。なんと母子手帳はお母さんが書く前から、創造主なる神さまが書いておられました。

 幼児期に一番必要なのは「基本的信頼感」です。自分は愛されている、受け入れられているという安心感です。だから「基本的安心感」とも呼ばれています。英語にinsecureということばがあります。「自信が持てない」という意味ですが、「安全でない」「守りがない」という意味もあります。両親からちゃんと愛を受けない場合、「自分には守りがない」と言う恐れと不安がつきまとうでしょう。幼児にとって母親と父親の役割が違います。最初に子どもを抱くのが母親です。授乳、排せつ、睡眠、全部やってあげます。この時は、母親とべったりで良いのです。ハンナもサムエルを乳離れするまでしっかり育てました。その後、父親が必要となります。入浴のお手伝いをするだけではありません。父親は社会の代表です。父親が「あなたはすばらしい、価値がある」と励ますならば、「世の中は、きっとすばらしい」と外に向かって生きる力が与えられるでしょう。もし、母親しか育児をしないなら、偏った子どもになります。「親子パック」というのがありますが、母子一体で境目がなくなります。拒食症とかリストカットする原因になると言われています。また、深刻なダメージを与えるのが、ニグレクト、度を越したせっかん、性的虐待です。「良い子を演じなければ生き延びられなかった」という人もいます。「そんなことしたらお母さん悲しいわ。お母さんを悲しませないで」という、ダブルバインドもダメです。子どもを操作してはいけません。子どもをいらだたせてもいけません。スーパーで子どもをものすごく叱っている親がいます。子どもも意地を張って反抗して、30分もバトルしている親子がいます。もう、子どもの感情が爆発しています。「100円くらいのお菓子1個くらい買ってあげればいいじゃないか」と思います。それだったら、買い物に連れて来なければ良いのです。エペソ64「子どもを怒らせてはいけません」と書いてありますが、これは「扇動する」「誘発する」という意味もあります。子どもの時に、たびたび感情を爆発させられたなら、「境界性パーソナリティ障害」になる恐れがあります。一度、怒り出したら止まらないという人がいますが、感情をコントロールできないのです。子どものときに愛を受けなかった人が、大人になってからそれを取り戻すというのは不可能なくらい大変なことです。こちらがいくら与えても、満足できません。「君は愛されるため生まれた」という賛美がありますが、幼児期は愛と育みを受ける季節です。幼子をいっぱい愛してあげるべきです。それは、子どもの将来につなげるためのすばらしい投資です。

2.学業期

 School days小中高生です。学校はいわば戦場であります。いじめとの戦い、受験戦争があります。良い先生に当たると子どもは伸びますが、悪い先生に当たるとその学科さえも嫌いになります。私の小中高を、ひとことで言うなら、圧迫を受けた年月です。英語のpressure, oppressionということばがぴったりです。大体、私は協調性のない子どもであり、目立ちたちがり家で、うるさい存在でした。だから、学校の先生にとっては問題児であり、いなくれなればば良い存在でした。日本の学校では「みんなと一緒、和を乱してはいけない」というのが教育の大前提のような気がします。エジソンが小学校入学三か月で「お前は学校に来るな」と言われたそうです。ADHD学習障害を持っていたのでしょうか?お母さんは学校から「そんなにあの子をかばうのなら、あなたが教えたらよろしい」と言われました。お母さんは、変わり者と呼ばれていたエジソンの潜在能力と才能に密かに気づいていました。今でいう、ホーム・スクーリングで彼を育てました。教育のラテン語は「引き出す」という意味ですが、日本の学校は「詰め込み」であります。でも、今、思うと、記憶力が一番盛んなのは「その頃だなー」と思います。小学校の頃、世界各国の首都を覚えましたが、今でも覚えています。記憶力は30歳を超えるとぐっと落ちてきます。60歳になると「砂に書いたラブレター」で、人の名前が全く出て来ません。大学生でバイトばかりしている人がいますが、もったいないと思います。頭が柔らかいんですから、勉強したら良いと思います。学ぶに時があります。

 もう1つ学業期に言えるのは、友達です。良い友達もいれば、悪い友達もいます。世の中からみたら学校は小さな世界ですが、子どもにとってはすべてです。いじめで不登校になったり、自殺する子がいますが、そのためかもしれません。子どもが成長し、ティーン・エィジャーになると、親よりも友達に物事を相談するようになります。現代はスマートフォーンを中学生ならみんな持っています。おそらく、ラインとかでいつも通信しているのではないでしょうか?携帯を一時も離せない子どもがいますが、まさしく人間依存症です。しかし、それほど友達の存在が大きいのかもしれません。私も高校生のときは暗黒時代でしたが、それでも楽しかったことがあります。今思えば、「あんな時でも、神さまが友達を与えてくれていたんだなー」と感謝しています。あの頃、ジョージ・ハリスンのMy sweet lordが流行りました。今でもその歌を聞くと、「幸せな時もあったんだなー」と思います。でも、My sweet lordは本当の主ではありませんでした。

 また、ティーン・エィジャーは「自我像の嵐」のときでもあります。自分がだれか分かりません。親から独立したいと思いますが、経済的には独立できません。この時は、意志も感情も不安定です。昔、「ケッサラー、ケッサラー、人生は階段を手探りで歩くようなもの」という歌がありました。まさしく、暗中模索という感じです。ある生徒が、学校の先生に「何のために勉強するのですか?」と聞いたら、「怠けているから余計なこと考えるんだ。一生懸命勉強しろ」と叱られたそうです。その子は自殺したそうです。「私は何のために生きているのか」「一体私はだれなのか」。この世の人たちは明確な答えを持っていません。それなのに、一生懸命生きています。究極的な答えはあるのでしょうか?伝道者の書121「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」日本の学校では進化論を教えます。「人間はアメーバーから偶然に進化したんだ」と教えられます。偶然だったら、目的なんかありません。「何かできるものが価値がある」という、弱肉強食の社会で生きることになります。そうではありません。聖書から「人間は神のかたちに似せて造られた尊い存在なんだ」ということを知るなら何と幸いでしょう。年代表よりも、方程式よりも、英単語よりもはるかに価値があります。なぜなら、聖書の神は人生の意味と目的を与えてくれるからです。

3.若者 

 学業期とかぶりますが、中年までとさせていただきます。ひとことで言って、「若さは神の賜物(プレゼント)」です。若い人は、若いことがどんなにすばらしいことなのか全く自覚していません。私が22歳のとき、現場の主任から「若いっていいねー」としみじみ言われました。その方は今思えば、45歳くらいの人でした。その時は「え、何言ってんの?」としか思えませんでした。道を歩いていると、女子高生が短いスカートをはいて自転車に乗っています。「え、あれがスカートなの」と思うくらい短いです。足もすらっとしていて、昔と違うなーと思います。でも、おじさんはいやらしい目で見ていません。「ああ、神さまの賜物だなー」と思います。そして、「神さま、あなたはすべての人に良いものを与えておられますね。アーメン」と主を賛美します。私は65歳になって思うのですが、若さは何故、良いのでしょうか?まず、エネルギーにあふれています。体力、気力、想像力にあふれています。うむことなく夢を追いかけることができます。年寄りは「現実は甘くない。安定した生活を求めよ」と冷や水をかけます。「そういう、あなたはどうだったんだ?」と言いたくなります。失敗して、はめをはずしても「若気のいたり」としてある程度許されます。挫折しても、また立ち上がれば良いのです。「七転び八起」ということわざがあります。厚切りジェイソンのネタです。「七転び八起ってよく考えるとおかしくないですか?転んだ数と起き上がる数が同じはずだし…」。ある人が、「深く考えず、たくさん転んで、たくさん起きるんだな」と解説していました。

 若い時はエネルギーが溢れ、羽目を外しがちです。でも、それが致命傷になるときもあります。刑を受けて、20年も檻に入ったなら、青春が台無しです。出てきたときは40代です。伝道者の書119-10「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」これは、「何をやっても良いけど、やがて神さまの前に立つときが来るんだよ」と警告しているみことばです。レストランでメニューを見て、何を食べても良いです。しかし、最後にレジで精算しなければなりません。あれと同じです。罪を表わすのにtrespassということばがあります。これは「ある限度を超える、踏み外す」という意味があります。モーセの十戒は、私たちが超えてはならない限度を教えてくれる戒めです。道路を車で走っていると両脇に、センターラインとガードレールがあります。車はその間を走ったなら安全です。ガードレールは超えてはならない限界を教えてくれます。律法は、超えてはならない限度を教えてくれる大切なものです。若い人は、「とげのついた棒をけるのは、痛い」(使徒2614ということを憶えるべきです。

4.中年

 中年、middle ageです。専門家は、中年は何歳から何歳までですと定義するでしょう。私は独断と聖書的に、40歳から60歳ということにします。と言うことは、39歳までは「若者」のぶるいにはいるということです。なぜ、「40歳からか」と申しますと、40歳くらいで体に変調を起こすからです。日本では厄年があり、男性は42歳、女性は37歳と言われています。「そんなの迷信だ」と言っても間違いないのですが、私は体の変調と関係があるのではないかと思います。体力が急に落ちたり、ホルモンのバランスもくずれがちになるのではないでしょうか?これはある時に聞いたことなので、聖書と関係ないかもしれません。「もし、40歳のとき無理をしなければ、60歳まで健康に生きられます。もし、60歳のときに無理をしなければ、80歳まで健康に生きられます」ということを聞いたことがあります。これは霊感されていませんので、ご参考程度です。モーセは40歳までエジプトで王子の生活をしていました。40歳から80歳までは、ミデヤンの荒野で羊を飼っていました。80歳から120歳までは100万人以上のイスラエルの民を荒野で導きました。モーセは詩篇90篇で「私たちの齢は70年、健やかであっても80年。…自分の日を正しく数えることを教えてください、知恵の心を得させてください」と言っています。つまり、人間はいつまでも生きられる存在ではなく、「あと、いつまで生きられるのかな、と考えるように」ということではないでしょうか?新約聖書的には、「知恵の心」とは「死ぬ前に、キリストにある永遠のいのちを得よ」ということなのかもしれません。伝道者書の12章でも「また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に」と警告しています。

 しかし、この中年期はまことに忙しい時でもあります。立ち止まって、「救いがあるのだろうか」などと考える暇がありません。男性ですと、ちょうど中間管理職の立場です。上からは数字を突きつけられ、下からは「こうして、ああして」と文句を言われます。もう、サンドイッチ状態です。だから、世の男性はアルコールや快楽に逃げるのであります。なぜなら、ストレスが尋常ではないからです。日本では仕事第一です。会社から単身赴任を命じられても断ることができません。なぜなら、子どもにお金がかかるし、家のローンも残っているからです。アメリカでは家庭第一なので、そういうことはありません。阪神のバースという人が、絶頂期に、アメリカに帰りました。息子の病気の治療のためだったと言われています。現在は会社の工場が中国やタイなど海外にあります。国内だったらともかく、海外に単身赴任というのは奥さんや子どもにとって、大変です。なぜなら、経済ですべての問題が解決しないからです。仕事には確かに呪いがあります。アダムは「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記319と言われました。良い汗もありますが、このみことばは呪いを象徴しています。一生懸命に働いても、ワーク・ホリックになったり、家庭崩壊になるというのは呪いではないでしょうか?

 女性にとっても、中年期はやばい年です。学費がかかる子どもたちがいます。日本では、パートに出かけ、なおかつ家事をするというのが当たり前になっています。日本では、女性の社会進出が奨励されていますが、差別、セクハラ、パワハラを乗り越えなければなりません。また、年齢とともに、疲れも取れなくなります。立つ度に「よっこらしょ」と言うなら老化のはじまりです。やがて更年期障害がやってきます。人生の天王山です。この時をうまく超えられるか問題です。イライラしたり、うつになったり、頭痛、めまい、体がほてったりします。私は既婚者なので良く知っています。ホルモンのバランスがくずれ、「いのちの母A」のやっかいになります。こういう場合は家にじっとしているよりも、何か活動して、気を紛らわすのが良いそうです。「とにかく人生の嵐を乗り越えなければ」と必死です。残念ながら、教会はそのことをなかなか理解してきませんでした。「怒ってはいけない」とか、罪のせいにしてきました。「信仰によって」と励ましてしまいますが、肉体の法則の方がより勝るときもあります。すべてのことが霊的に処理できると思ったら大間違いです。私たちは「肉体でできている。肉体は弱い」ということを知るべきであります。Ⅱコリント12:9 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」どんな山でも、主が乗り越えさせてくださいます。アーメン。

5.収穫期

 ポール・トゥルニエが『人生の四季』でこう述べています。「私がこういうテーマを扱うようにと依頼されたのは、おそらく偶然ではないでしょう。私は今ちょうど60歳を越えたところで、もうすでに自分の力が衰退しつつあることを感じているからです。まだこの先、私が多くの患者さんたちに役立つことがあろうと、また何冊かの本が書けようと、もうこれらのことが私の人生をさほど大きく変えることはないでしょう。骰子(さい)はふられてしまいました。私がなし、学び、獲得することができたことはだんだんその価値を失いつつあります。中老の人々にとって重要なことは、彼らが現在どういう人間であるかということなのであって、彼らがまだこれから何ができるかということではない。」と言っています。60歳は定年退職の年でもあります。今は少し遅くて65歳の人もいますが、男性にとってはアイディンティテイの危機です。仕事イコール人生、役職イコール自分のスティタスでした。しかし、定年と同時にそれもなくなります。では、女性はどうなのでしょうか?「からの巣症候群」というのがありますが、子どもたちが独立して、家からいなくなります。子育てが1つの生きがいでしたが、それも失われました。今では頑固な亭主が側にいるだけです。定年と同時に熟年離婚というのがあるそうです。広島の植竹牧師がおっしゃっていました。夫が広島新聞を定年退職して家に帰ってきたとき、妻が三つ指ついて挨拶しました。「長い間御苦労さまでした。私も主婦業を今日で退職させていただきます。つきましては退職金の半分をいただきたく存じます。」「何言ってんだお前」と怒ったら、妻が今まで溜めていたうっぷんを1時間まくし立てたそうです。夫は同僚に「女はこえぞー」と話したそうです。

60歳以上は人生の収穫期です。老年期と言ってはいけません。最近は健康寿命ということが言われていますので、寝たっきりで100歳まで生きたいと思う人はいないでしょう。せめて、80歳までは健康で長生きしたいものです。私も人生の季節ということを考えています。もう、人生の第四コーナを回りました。あとは一直線でまっすぐ走るしかありません。今さら、「ここを変えろ」「ここをなおせ」と言われても無理です。「変われ」と言われても、変われないのです。聖書でfinish well良い終わり方をした人は30%ぐらいだと言われています。しかし、私はそんなことを信じません。主はflourish ending「繁茂した、栄えた終わり方」を与えて下さいます。使徒パウロが言ったとおりです。Ⅱテモテ47-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」アーメン。

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