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2018年7月28日 (土)

~ヨナ書から見る神の愛~    亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ヨナ書4章5-11

4:5

ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。

4:6

神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。

4:7

しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。

4:8

太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」

4:9

すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」

4:10

主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

4:11

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

 

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昨年から12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」と続きましたので、今回は「ヨナ書」の一書説教です。

おそらく「ヨナ書」の内容はみなさんよくご存知だと思いますが、あらすじをひと通り見て行きましょう。

 

アミタイの子ヨナは、神のことばを民に伝えるために立てられた預言者でした。

ある時ヨナに主のことばがありました。

 

<ヨナ書1:2>

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立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。

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ヨナは主の言葉に従わず、方向違いのタルシシュに逃れようとして、ヨッパの港からタルシシュ行きの船に乗りました。

 

ヨナはなぜニネべと反対方向のタルシシュに逃れようとしたのでしょうか。

 

ヨナ書が描かれている時代というは、紀元前8世紀頃だと考えられています。

その頃は、強大なアッシリア帝国がイスラエルの敵国として立ちはだかっていました。

その首都が「ニネベ」です。ヨナはイスラエルを苦しめる敵国には関わりたくなかったから逃げたのです。

ところがヨナが乗った船は嵐に遭い、難破しそうになりました。神が嵐を起こされたからです。

ヨナの事情を知った船員たちはヨナを海に放り込みました。

 

溺れそうになったヨナですが、主はヨナを大きな魚に飲み込ませて助けました。

ヨナは三日三晩魚の腹の中にいて神に祈って悔い改めました。

主は魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させました。

 

・・・ここまでのあらすじを40秒で表現するとこうなります。

 

この後ヨナは、ニネべの町に入ると主のことばを一日中歩き回って伝えました。

「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫び続けました。

 

ニネべの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着ました。

当時は、悲しみや嘆きを表現する時に荒布をまといました。

ニネべの王も、王服を脱いで荒布をまとい、灰の中に座って祈り、悔い改めました。

 

ニネべの人々が悔い改めているのをご覧になった神は、ニネべを滅ぼすのをやめました。

ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせました。

ニネべはイスラエルを苦しめている敵国だからです。

 

ヨナはふてくされて神に「主よ。今、どうぞ私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」と言いました。ヨナは町から出て、町の東の方に座り、小屋をたててニネべの成り行きを見極めようと見ていました。

 

神は「とうごま」をヨナを覆うように生えさせて陰を作り、ヨナの不機嫌を直そうとされました。

ヨナは非常に喜びましたが、翌日、主はとうごまを枯れさせました。

ヨナは再び、「生きているより死んだ方がましだ。」と言いました。

すると主はこのように仰せられました。

 

<ヨナ4:10-11>

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あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。

そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

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このようなお話がヨナ書には描かれています。

 

このヨナ書の中心テーマは「罪深い人間を憐れむ神の愛」ですが、皮肉にも「人間の愚かさ」が、神の愛を更に際立たせています。

 

前回取り上げた「オバデヤ書」は、人間の愚かさやエサウの罪に対して緊張感漂う厳しい言葉で書かれていましたが、ヨナ書は、その人間の愚かさをウィット(機知)に富んだ神のユーモアで描いています。

「オバデヤ書」と対照的な「ヨナ書」が続けて位置づけられているのは興味深いことです。

 

ではヨナ書から、

◆①ヨナ書から見る人間の愚かさ。

について考えてみましょう。

●人間の愚かさ①・・・争い事が絶えない。戦争をする。

 

ヨナの時代の紀元前8世紀は、北王国はヤロブアム2世、南ユダはウジヤ王が統治していた時代です。

ヤロブアム2世の時代は非常に栄えていましたが、絶えず隣国と戦い、特に大国アッシリヤからの攻撃には悩まされていました。神は、偶像崇拝を行ない、イスラエルの民を苦しめるアッシリヤに怒りを燃やされ、首都であるニネべを滅ぼそうとされました。

 

そして、「40日後にニネべを滅ぼす」という警告を、預言者ヨナにさせました。

ヨナという名前は「鳩」という意味があります。本来は平和の象徴である鳩のような人物だったのかもしれませんが、ヨナも争いや戦争に巻き込まれ、心がすさんでいたようです。

神がニネべを滅ぼすのをおやめになったときに、ヨナは不機嫌になりました。

争いや戦争からは、なんの良いものも生まれません。

しかし、愚かな人間は争いや戦争をやめることができないのです。

 

●人間の愚かさ②・・・神から与えられた使命をないがしろにする。

 

ヨナは神の命令に逆らいました。海で溺れかけましたが大魚に飲み込まれて命救われ悔い改めました。

イタリアの作家、カルロ・コッローディの児童文学作品、『ピノッキオの冒険』は、ヨナ書をモチーフにして書かれたのではないかという説があります。確かにピノキオも大魚(クジラ)に飲み込まれました。

 

ピノキオは愚かな人間の姿をモチーフにし、ゼペットじいさんは創造主なる神を、妖精のブルー・フェアリーは奇蹟を行ない命を与えたのでイエス様を、コオロギのジミニー・クリケットはピノキオの良心を任されたので聖霊をモチーフにしているとも考えられなくもないです。

 

子どものころにこの物語を絵本で読んだ時、ピノキオはなんて我が儘で自分勝手なんだろうと思いました。

噓をつくと鼻が伸びるのですが、良い子になると約束したのに何度も嘘をついては鼻がどんどん伸びて、ゼペットじいさんを悲しませました。

ヨナの行動も、神様を悲しませたに違いありません。

私たちも、いろんな誘惑に心を奪われて、神から与えられた使命をないがしろにはしていないでしょうか。

 

●人間の愚かさ③・・・喉元過ぎればすぐに忘れる。

 

ニネべの王をはじめ、ニネべの人々は、喉元過ぎればすぐに忘れてしまい、また神に対して罪を犯しはじめました。神を信じ、断食をして、荒布を身にまとい、灰の中に座り、ひたすら神に赦しを願って悔い改めたのに、、、です。

 

神の怒りは再び燃やされ、紀元前612年ニネべはバビロンに滅ばされてしまいました。

「喉元過ぎればすぐに忘れる。」という人間の愚かな性質は、人間が歴史や過去から学ばずに同じ過ちを繰り返してきたことからも証明されます。

主はこのように忍耐強い御方ですが、ニネべへの憐みは2度目はありませんでした。

 

ヨナ書から見る人間の愚かさは、誰にでも当てはまることがあるのではないでしょうか。

聖書は、私たちがその「愚かさの縄目」から解放されるために、たくさんのメッセージを伝えてくれています。

 

次にヨナ書から、

◆②ヨナ書から見る神の愛

について考えてみましょう。

 

ヨナ書では、神様がヨナに語られたこのみことばに神の愛が集約されています。

<ヨナ4:10-11>

*********************************************

あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。

そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

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神様は、人々が滅びの道を歩むことは望んでおられません。

イスラエル人ではなく、異邦人であっても、主に立ち返り、主を信じて悔い改める者には、救いの道を用意してくださっています。

 

イエス様は、このニネべに対する神の愛を十字架の贖いを通して表されました。

新約の福音書には、イエス様がヨナを引用されたことが書かれています。

 

マタイの福音書12:38-41(ルカ11:29-32)では、イエス様に敵対する律法学者やパリサイ人たちがイエス様に「しるし」を求めました。その時イエス様は、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」と言われました。

 

ヨナはイエス様の予型(予兆、前兆)です。ヨナは三日三晩大魚のお腹の中にいました。そしてニネべの人々に神のことばを宣べ伝え、そうすることによって、ニネべの人々に対する「しるし」となりました。

同じように、イエス様は十字架で死に渡され陰府にくだられ三日後に復活なさいました。後に弟子たちの宣教によってイエス様は当時の人々の「しるし」となられました。

イエス様の十字架の贖いは、神様の最大の愛です。

 

このように、ヨナ書から見る神の愛は、ひとり子であるイエス様をこの地上に遣わせてくださった、神様の大きな愛へとつながっているのです。

 

最後に、

◆③ウィット(機知)に富んだユーモアで笑って生きる。

ということについて考えてみたいと思います。

 

先ほどもお伝えしましたが、ヨナ書のストーリーには、ウィット(機知)に富んだ神のユーモアが随所に記されています。父なる神様をユーモアがある御方だとは思えない方もいると思いますが、神はユニークな方法でヨナを導いていることは確かです。

 

①神に逆らって逃げたヨナを、大魚に飲み込ませてニネべまで運びました。

②とうごまを生やしてヨナの不機嫌を直そうとされました。ヨナは喜びました。

③・・・かと思ったらとうごまを枯らしてヨナを死ぬほど怒らせました。

 

とてもユニークな方法です。しかしこの状況はヨナ本人にとってはちっとも面白くなかったと思います。

ヨナは心の余裕など皆無で、本気で怒って神に食ってかかっています。

今の若者たちの言葉で表現すると、「激おこぷんぷん丸」(かなり激しく怒っている状態)から、「ムカ着火ファイヤー」(最上級に怒っている状態)を通り越して、「カム着火インフェルノ」(爆発)になってしまった状態とも言えるでしょう。

 

しかし第三者の私たちから見ると、こんな駄々っ子のようなヨナを、神様は愛情たっぷりにユニークな方法で諭しておられる、そんなやりとりを見て、クスッと笑ってしまいながらも神の愛の深さに感嘆します。

ここで、「ヨナ」、「神」、「聖書の読者」の3つの視点に注目してみましょう。

 

一つ目の視点/ヨナの視点: 「冷静になれず、とにかく面白くない。」

二つ目の視点/神の視点: 「愛情たっぷりにヨナを諭す。」

三つ目の視点/聖書の読者の視点: 「この様子を見て、神のウィット(機知)に富んだユーモアにクスッと笑いながら、神がどれだけヨナとニネべの人々を愛しておられるかを知る。」

 

ヨナはこんなに自分の感情を神様にぶつけているのに、神は忍耐強くヨナを包んでくださっています。

もう、神様から愛され過ぎているヨナが羨ましいほどです。

 

この3つの視点を考えると、聖書の読者の視点になって物事を見ると、より鮮明に神の憐れみ深い愛を知ることができるということに気づきます。

 

神とヨナの関係を私たちが「三つ目の視点/聖書の読者の視点」で見るように、自分に起こっている出来事を客観的に見る事はとても大事なことなのです。

 

私たちは自分の人生を生きている時に、知らず知らずヨナのような駄々っ子になってしまって、一番大切な神様に与えられた使命を忘れてしまっているかもしれませんし、ただただ落ち込んで悲しんでいるかもしれません。自分の怒りにまかせて周りが見えなくなっているかもしれません。

 

神様が聖書の中で時折見せておられるウィット(機知)に富んだユーモアは、私たちの人生の中にも散りばめられています。そのユーモアは私たちが視点を変えて自分を客観的に見ることによって、初めて気付くことが出来るものではないでしょうか。

 

人生は楽しいだけではなく、苦しみもたくさんあります。

ユーモアは、人生の苦しみの時にこそ必要です。なぜなら神は、人間が危機から脱するための力を得るための知恵として、笑いやユーモアを与えてくださったからです。

 

ウィット(機知)に富んだユーモアは自らと他者との心を解放し、励まし、生かし、癒し、救う役割をも果たすポジティブ(前向き・積極的)なものです。

 

苦しい時には、泣いたり、悲しんだり、悔んだり、怒ったりするでしょう。そういった感情を出すことはとても大事です。しかしそんな中でも、その苦しい出来事を視点を変えて見ることが出来るならば、ヨナ書を読んだ時に感じたような神の愛と憐みを、自分の人生の中にも見出すことができるのではないでしょうか。

 

医師であり、大学教授でもある、柏木哲夫(1939-)先生は、『癒しのユーモア』という著書の中で、ターミナルケアの現場でのユーモアのもたらす意義について記しています。

 

柏木先生は、欧米諸国ではターミナルケアやホスピスケアの現場に、「ユーモア療法」が積極的に導入されていることに注目し、自身もホスピスケアの現場において、できるだけユーモアのセンスを発揮するようにと心がけておられるそうです。

 

その中の一つに、患者との川柳交換があります。

柏木先生は、回診の時に患者と川柳の交換を約束します。次の回診までに少なくとも一つは川柳を作って交換します。愉快な川柳を作っては笑い、時には新聞に投稿もします。

採用されて新聞に自分の川柳が掲載されると楽しく、前向きな気持ちになれるようです。

 

柏木先生と川柳を交換していた、ある50歳代の胃癌の男性は、がんに語りかけるという詩を書いていますので、ここにご紹介します。

「ガン君に語りかけてみた」

 

お腹に手を当ててガン君に語りかけてみた。

「どうしてそんなに頑張って大きくなろうとするんだ。寄生主のボクの生命を奪ってしまえば

結局君も死んで元も子もなくなることはわかっているんだろう。もう少し考え直したらどうか。

ほどほどに大きくなるとか、いっそ小さくなって長く生きのびるとか。」

 

でもガン君は沈黙したままだ。仕方がないので、

「君が黙っているならしょうがない。ボクはこの方面ではプロのドクターに教えられ、君に正面攻撃

ではなく、からめ手から攻めるから注意しておくように」

と捨てぜりふを言った。

 

沈黙のまま。

ボクは、

「君が大きくなってボクの細胞も生きていけなくなったとき、ともに死のう。そのときボクは救い主に

よって救われ、神様のところへ行って永遠の命を与えられるから、君にありがとうを言わなければ

ならない。君はどこへ行くんだい。君も天国に来たいなら生きているうちに自分の無力を知って

神に身体をあずけたらいいんだよ。」

とそっと言った。

 

お腹にあてている手がちょっとふるえたように思えた。

 

この詩は、「男性の信仰とユーモアのセンスが見事に調和した感動的な詩である。」と柏木先生は語っています。

50代の若さで末期の胃癌に侵されているという苦しい状況の中でも、このような豊かな心を持てるとは驚きです。

 

この男性は、自分を客観的に見ることが出来ています。

おそらくキリスト教徒だと思われる信仰をもっている彼は、「永遠のいのち」への希望をもって、ガンに対して一生懸命語りかけています。ガンに、「自分の無力を知って、神に身体をあずけたらいいんだよ。」と語りかけながら、自分自身の心をも奮い立たせています。

そして、この詩を読む多くの人たち対しても確かな愛のメッセージを送っています。

 

人間はみんな、誰でも例外なく、いつかは「死」と向き合う時が来ます。この世の中には不確かなことがたくさんありますが、「人はいつか死ぬ」ということだけは、確かなものです。

 

その確かなものが現実となった時に、この男性のようにイエス様に頼ることが出来たなら大きな力になります。

現代は、少子高齢化、これからは多死社会となるので、空前の終活ブームが起こっています。

ですが、私たちキリスト者は、神がどのような思いでニネべを救おうとなさったかということを忘れずにいたいと思います。またユーモアを通してヨナにそのことを教えた主を覚えたいと思います。

そしてイエス様です。ヨナは後に来られるイエス様の予型でした。

イエス様は常にご自身を冷静に客観的に見ておられました。

 

神様のユーモアの根底には私たち人間への深い愛があります。

神様はヨナ書を通して人間の愚かさや、神様の憐み深い愛を教えてくださっています。

 

危機的な状況に陥った時こそ、冷静になって、自分を客観的に見ることを教えてくださっています。

ウィット(機知)に富んだユーモアは自らと他者の心を解放し、励まし、生かし、癒し、救う役割を果たします。

 

神に信頼して、いつも感謝と喜びの心をもって、ユーモアたっぷりに笑って人生を歩んでいきましょう。

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