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2018年7月28日 (土)

~ヨナ書から見る神の愛~    亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ヨナ書4章5-11

4:5

ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。

4:6

神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。

4:7

しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。

4:8

太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」

4:9

すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」

4:10

主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

4:11

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

 

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昨年から12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」と続きましたので、今回は「ヨナ書」の一書説教です。

おそらく「ヨナ書」の内容はみなさんよくご存知だと思いますが、あらすじをひと通り見て行きましょう。

 

アミタイの子ヨナは、神のことばを民に伝えるために立てられた預言者でした。

ある時ヨナに主のことばがありました。

 

<ヨナ書1:2>

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立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。

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ヨナは主の言葉に従わず、方向違いのタルシシュに逃れようとして、ヨッパの港からタルシシュ行きの船に乗りました。

 

ヨナはなぜニネべと反対方向のタルシシュに逃れようとしたのでしょうか。

 

ヨナ書が描かれている時代というは、紀元前8世紀頃だと考えられています。

その頃は、強大なアッシリア帝国がイスラエルの敵国として立ちはだかっていました。

その首都が「ニネベ」です。ヨナはイスラエルを苦しめる敵国には関わりたくなかったから逃げたのです。

ところがヨナが乗った船は嵐に遭い、難破しそうになりました。神が嵐を起こされたからです。

ヨナの事情を知った船員たちはヨナを海に放り込みました。

 

溺れそうになったヨナですが、主はヨナを大きな魚に飲み込ませて助けました。

ヨナは三日三晩魚の腹の中にいて神に祈って悔い改めました。

主は魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させました。

 

・・・ここまでのあらすじを40秒で表現するとこうなります。

 

この後ヨナは、ニネべの町に入ると主のことばを一日中歩き回って伝えました。

「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫び続けました。

 

ニネべの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着ました。

当時は、悲しみや嘆きを表現する時に荒布をまといました。

ニネべの王も、王服を脱いで荒布をまとい、灰の中に座って祈り、悔い改めました。

 

ニネべの人々が悔い改めているのをご覧になった神は、ニネべを滅ぼすのをやめました。

ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせました。

ニネべはイスラエルを苦しめている敵国だからです。

 

ヨナはふてくされて神に「主よ。今、どうぞ私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」と言いました。ヨナは町から出て、町の東の方に座り、小屋をたててニネべの成り行きを見極めようと見ていました。

 

神は「とうごま」をヨナを覆うように生えさせて陰を作り、ヨナの不機嫌を直そうとされました。

ヨナは非常に喜びましたが、翌日、主はとうごまを枯れさせました。

ヨナは再び、「生きているより死んだ方がましだ。」と言いました。

すると主はこのように仰せられました。

 

<ヨナ4:10-11>

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あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。

そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

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このようなお話がヨナ書には描かれています。

 

このヨナ書の中心テーマは「罪深い人間を憐れむ神の愛」ですが、皮肉にも「人間の愚かさ」が、神の愛を更に際立たせています。

 

前回取り上げた「オバデヤ書」は、人間の愚かさやエサウの罪に対して緊張感漂う厳しい言葉で書かれていましたが、ヨナ書は、その人間の愚かさをウィット(機知)に富んだ神のユーモアで描いています。

「オバデヤ書」と対照的な「ヨナ書」が続けて位置づけられているのは興味深いことです。

 

ではヨナ書から、

◆①ヨナ書から見る人間の愚かさ。

について考えてみましょう。

●人間の愚かさ①・・・争い事が絶えない。戦争をする。

 

ヨナの時代の紀元前8世紀は、北王国はヤロブアム2世、南ユダはウジヤ王が統治していた時代です。

ヤロブアム2世の時代は非常に栄えていましたが、絶えず隣国と戦い、特に大国アッシリヤからの攻撃には悩まされていました。神は、偶像崇拝を行ない、イスラエルの民を苦しめるアッシリヤに怒りを燃やされ、首都であるニネべを滅ぼそうとされました。

 

そして、「40日後にニネべを滅ぼす」という警告を、預言者ヨナにさせました。

ヨナという名前は「鳩」という意味があります。本来は平和の象徴である鳩のような人物だったのかもしれませんが、ヨナも争いや戦争に巻き込まれ、心がすさんでいたようです。

神がニネべを滅ぼすのをおやめになったときに、ヨナは不機嫌になりました。

争いや戦争からは、なんの良いものも生まれません。

しかし、愚かな人間は争いや戦争をやめることができないのです。

 

●人間の愚かさ②・・・神から与えられた使命をないがしろにする。

 

ヨナは神の命令に逆らいました。海で溺れかけましたが大魚に飲み込まれて命救われ悔い改めました。

イタリアの作家、カルロ・コッローディの児童文学作品、『ピノッキオの冒険』は、ヨナ書をモチーフにして書かれたのではないかという説があります。確かにピノキオも大魚(クジラ)に飲み込まれました。

 

ピノキオは愚かな人間の姿をモチーフにし、ゼペットじいさんは創造主なる神を、妖精のブルー・フェアリーは奇蹟を行ない命を与えたのでイエス様を、コオロギのジミニー・クリケットはピノキオの良心を任されたので聖霊をモチーフにしているとも考えられなくもないです。

 

子どものころにこの物語を絵本で読んだ時、ピノキオはなんて我が儘で自分勝手なんだろうと思いました。

噓をつくと鼻が伸びるのですが、良い子になると約束したのに何度も嘘をついては鼻がどんどん伸びて、ゼペットじいさんを悲しませました。

ヨナの行動も、神様を悲しませたに違いありません。

私たちも、いろんな誘惑に心を奪われて、神から与えられた使命をないがしろにはしていないでしょうか。

 

●人間の愚かさ③・・・喉元過ぎればすぐに忘れる。

 

ニネべの王をはじめ、ニネべの人々は、喉元過ぎればすぐに忘れてしまい、また神に対して罪を犯しはじめました。神を信じ、断食をして、荒布を身にまとい、灰の中に座り、ひたすら神に赦しを願って悔い改めたのに、、、です。

 

神の怒りは再び燃やされ、紀元前612年ニネべはバビロンに滅ばされてしまいました。

「喉元過ぎればすぐに忘れる。」という人間の愚かな性質は、人間が歴史や過去から学ばずに同じ過ちを繰り返してきたことからも証明されます。

主はこのように忍耐強い御方ですが、ニネべへの憐みは2度目はありませんでした。

 

ヨナ書から見る人間の愚かさは、誰にでも当てはまることがあるのではないでしょうか。

聖書は、私たちがその「愚かさの縄目」から解放されるために、たくさんのメッセージを伝えてくれています。

 

次にヨナ書から、

◆②ヨナ書から見る神の愛

について考えてみましょう。

 

ヨナ書では、神様がヨナに語られたこのみことばに神の愛が集約されています。

<ヨナ4:10-11>

*********************************************

あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。

そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

*********************************************

 

神様は、人々が滅びの道を歩むことは望んでおられません。

イスラエル人ではなく、異邦人であっても、主に立ち返り、主を信じて悔い改める者には、救いの道を用意してくださっています。

 

イエス様は、このニネべに対する神の愛を十字架の贖いを通して表されました。

新約の福音書には、イエス様がヨナを引用されたことが書かれています。

 

マタイの福音書12:38-41(ルカ11:29-32)では、イエス様に敵対する律法学者やパリサイ人たちがイエス様に「しるし」を求めました。その時イエス様は、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」と言われました。

 

ヨナはイエス様の予型(予兆、前兆)です。ヨナは三日三晩大魚のお腹の中にいました。そしてニネべの人々に神のことばを宣べ伝え、そうすることによって、ニネべの人々に対する「しるし」となりました。

同じように、イエス様は十字架で死に渡され陰府にくだられ三日後に復活なさいました。後に弟子たちの宣教によってイエス様は当時の人々の「しるし」となられました。

イエス様の十字架の贖いは、神様の最大の愛です。

 

このように、ヨナ書から見る神の愛は、ひとり子であるイエス様をこの地上に遣わせてくださった、神様の大きな愛へとつながっているのです。

 

最後に、

◆③ウィット(機知)に富んだユーモアで笑って生きる。

ということについて考えてみたいと思います。

 

先ほどもお伝えしましたが、ヨナ書のストーリーには、ウィット(機知)に富んだ神のユーモアが随所に記されています。父なる神様をユーモアがある御方だとは思えない方もいると思いますが、神はユニークな方法でヨナを導いていることは確かです。

 

①神に逆らって逃げたヨナを、大魚に飲み込ませてニネべまで運びました。

②とうごまを生やしてヨナの不機嫌を直そうとされました。ヨナは喜びました。

③・・・かと思ったらとうごまを枯らしてヨナを死ぬほど怒らせました。

 

とてもユニークな方法です。しかしこの状況はヨナ本人にとってはちっとも面白くなかったと思います。

ヨナは心の余裕など皆無で、本気で怒って神に食ってかかっています。

今の若者たちの言葉で表現すると、「激おこぷんぷん丸」(かなり激しく怒っている状態)から、「ムカ着火ファイヤー」(最上級に怒っている状態)を通り越して、「カム着火インフェルノ」(爆発)になってしまった状態とも言えるでしょう。

 

しかし第三者の私たちから見ると、こんな駄々っ子のようなヨナを、神様は愛情たっぷりにユニークな方法で諭しておられる、そんなやりとりを見て、クスッと笑ってしまいながらも神の愛の深さに感嘆します。

ここで、「ヨナ」、「神」、「聖書の読者」の3つの視点に注目してみましょう。

 

一つ目の視点/ヨナの視点: 「冷静になれず、とにかく面白くない。」

二つ目の視点/神の視点: 「愛情たっぷりにヨナを諭す。」

三つ目の視点/聖書の読者の視点: 「この様子を見て、神のウィット(機知)に富んだユーモアにクスッと笑いながら、神がどれだけヨナとニネべの人々を愛しておられるかを知る。」

 

ヨナはこんなに自分の感情を神様にぶつけているのに、神は忍耐強くヨナを包んでくださっています。

もう、神様から愛され過ぎているヨナが羨ましいほどです。

 

この3つの視点を考えると、聖書の読者の視点になって物事を見ると、より鮮明に神の憐れみ深い愛を知ることができるということに気づきます。

 

神とヨナの関係を私たちが「三つ目の視点/聖書の読者の視点」で見るように、自分に起こっている出来事を客観的に見る事はとても大事なことなのです。

 

私たちは自分の人生を生きている時に、知らず知らずヨナのような駄々っ子になってしまって、一番大切な神様に与えられた使命を忘れてしまっているかもしれませんし、ただただ落ち込んで悲しんでいるかもしれません。自分の怒りにまかせて周りが見えなくなっているかもしれません。

 

神様が聖書の中で時折見せておられるウィット(機知)に富んだユーモアは、私たちの人生の中にも散りばめられています。そのユーモアは私たちが視点を変えて自分を客観的に見ることによって、初めて気付くことが出来るものではないでしょうか。

 

人生は楽しいだけではなく、苦しみもたくさんあります。

ユーモアは、人生の苦しみの時にこそ必要です。なぜなら神は、人間が危機から脱するための力を得るための知恵として、笑いやユーモアを与えてくださったからです。

 

ウィット(機知)に富んだユーモアは自らと他者との心を解放し、励まし、生かし、癒し、救う役割をも果たすポジティブ(前向き・積極的)なものです。

 

苦しい時には、泣いたり、悲しんだり、悔んだり、怒ったりするでしょう。そういった感情を出すことはとても大事です。しかしそんな中でも、その苦しい出来事を視点を変えて見ることが出来るならば、ヨナ書を読んだ時に感じたような神の愛と憐みを、自分の人生の中にも見出すことができるのではないでしょうか。

 

医師であり、大学教授でもある、柏木哲夫(1939-)先生は、『癒しのユーモア』という著書の中で、ターミナルケアの現場でのユーモアのもたらす意義について記しています。

 

柏木先生は、欧米諸国ではターミナルケアやホスピスケアの現場に、「ユーモア療法」が積極的に導入されていることに注目し、自身もホスピスケアの現場において、できるだけユーモアのセンスを発揮するようにと心がけておられるそうです。

 

その中の一つに、患者との川柳交換があります。

柏木先生は、回診の時に患者と川柳の交換を約束します。次の回診までに少なくとも一つは川柳を作って交換します。愉快な川柳を作っては笑い、時には新聞に投稿もします。

採用されて新聞に自分の川柳が掲載されると楽しく、前向きな気持ちになれるようです。

 

柏木先生と川柳を交換していた、ある50歳代の胃癌の男性は、がんに語りかけるという詩を書いていますので、ここにご紹介します。

「ガン君に語りかけてみた」

 

お腹に手を当ててガン君に語りかけてみた。

「どうしてそんなに頑張って大きくなろうとするんだ。寄生主のボクの生命を奪ってしまえば

結局君も死んで元も子もなくなることはわかっているんだろう。もう少し考え直したらどうか。

ほどほどに大きくなるとか、いっそ小さくなって長く生きのびるとか。」

 

でもガン君は沈黙したままだ。仕方がないので、

「君が黙っているならしょうがない。ボクはこの方面ではプロのドクターに教えられ、君に正面攻撃

ではなく、からめ手から攻めるから注意しておくように」

と捨てぜりふを言った。

 

沈黙のまま。

ボクは、

「君が大きくなってボクの細胞も生きていけなくなったとき、ともに死のう。そのときボクは救い主に

よって救われ、神様のところへ行って永遠の命を与えられるから、君にありがとうを言わなければ

ならない。君はどこへ行くんだい。君も天国に来たいなら生きているうちに自分の無力を知って

神に身体をあずけたらいいんだよ。」

とそっと言った。

 

お腹にあてている手がちょっとふるえたように思えた。

 

この詩は、「男性の信仰とユーモアのセンスが見事に調和した感動的な詩である。」と柏木先生は語っています。

50代の若さで末期の胃癌に侵されているという苦しい状況の中でも、このような豊かな心を持てるとは驚きです。

 

この男性は、自分を客観的に見ることが出来ています。

おそらくキリスト教徒だと思われる信仰をもっている彼は、「永遠のいのち」への希望をもって、ガンに対して一生懸命語りかけています。ガンに、「自分の無力を知って、神に身体をあずけたらいいんだよ。」と語りかけながら、自分自身の心をも奮い立たせています。

そして、この詩を読む多くの人たち対しても確かな愛のメッセージを送っています。

 

人間はみんな、誰でも例外なく、いつかは「死」と向き合う時が来ます。この世の中には不確かなことがたくさんありますが、「人はいつか死ぬ」ということだけは、確かなものです。

 

その確かなものが現実となった時に、この男性のようにイエス様に頼ることが出来たなら大きな力になります。

現代は、少子高齢化、これからは多死社会となるので、空前の終活ブームが起こっています。

ですが、私たちキリスト者は、神がどのような思いでニネべを救おうとなさったかということを忘れずにいたいと思います。またユーモアを通してヨナにそのことを教えた主を覚えたいと思います。

そしてイエス様です。ヨナは後に来られるイエス様の予型でした。

イエス様は常にご自身を冷静に客観的に見ておられました。

 

神様のユーモアの根底には私たち人間への深い愛があります。

神様はヨナ書を通して人間の愚かさや、神様の憐み深い愛を教えてくださっています。

 

危機的な状況に陥った時こそ、冷静になって、自分を客観的に見ることを教えてくださっています。

ウィット(機知)に富んだユーモアは自らと他者の心を解放し、励まし、生かし、癒し、救う役割を果たします。

 

神に信頼して、いつも感謝と喜びの心をもって、ユーモアたっぷりに笑って人生を歩んでいきましょう。

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2018年7月20日 (金)

思いを一新する ローマ12:2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.22

 前回も学びましたが、私たちの魂は思い、感情、意志でなりたっています。思いは英語でmindであり、考え、思考、理性という意味でもあります。私たちの考え(思考)が感情にものすごく影響を与えています。考えとは、ものの捉え方です。もし、考えがゆがんでいるなら、良くない感情が結果的に出るのです。たとえば偉そうにしている先生に会うとします。自分が何か大きな力に支配される状況になります。それで、怒りと無力感が湧いてきます。この人は、自分の力では対抗できないものが、自分の世界を混乱させるという考えがあるからです。この人は、支配に対する心の傷があるので、ゆがんで捉えてしまうのです。

1.世界観とは

 「世界観」ということばを耳にすることがあると思います。広辞苑には「世界を全体として意味づける見方、人生観よりも包括的」とありましたが、あまりよく分かりません。チャールズ・クラフト師は「現実に対する私たちの見方に影響を与えるものの1つに『世界観』がある」と言っています。私たちは養育過程において「何に焦点を当てて、物事をどう解釈すれば良いか」教えられてきました。そこには一定のパターンがあり、それによって私たちの視点は方向付けられ、制限されていきます。言い換えると、世界観とは心のレンズです。現実を正しく捉えているようですが、フィルターのように、何かが取り除かれていたりします。もし、私が黄色のサングラスをかけていたなら、青空が黄緑に見えるでしょう。もし、私のメガネがゆがんでいるなら、周りの世界もゆがんで見えるでしょう。もし、自分の心のレンズがゆがんでいるならゆがんでとらえてしまうでしょう。世界観は西洋の人と東洋の人とでは全く違います。西洋人は手で触ることができ、目に見えるものしか信じません。しかし、東洋人は目に見えない霊的な存在を信じています。だから、パワースポットみたいなところに行きたがるのです。きょうは世界観を個人のものの捉え方として限定したいと思います。その根拠となるみことばがこれです。マタイ622-23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」このみことばで言われている「目」とは、心のレンズということができます。レンズが曇って入れば、良く見えないので、ぶつかって躓くでしょう。もし、心のレンズがゆがんでいるなら、物事を正しく捉えることができません。まさしく、「目」というのは、その人が持っている「世界観」と言うことはできないでしょうか?

 私たちの「世界観」を生み出しているのが、私たちの考え(思い)なのです。私たちの考えが健全であるならば、まわりの世界や人々が価値あるものに見えるでしょう。しかし、私たちの考えが不健全であるなら、まわりの世界や人々が自分を破壊するものに見えるでしょう。私たちはまわりの世界や人々のせいにするかもしれませんが、実は自分の考えがゆがんでいるのかもしれません。私たちクリスチャンはイエス様を信じて、霊的に生まれ変わった存在です。これまでは、霊的に死んでいたか、あるいは眠っていました。ところが、イエス様を信じると、聖霊が私たちの内側に宿ります。そして、私たちは霊的に新しく生まれ、神さまのことがだんだん分かるようになります。ところが、私たちの考え(思い)が相変わらず、古いままで、この世の価値や自分の心の傷に支配されているかもしれません。私たちは霊だけではなく、考えも新しくされる必要があります。そのことを教えているみことばがこれです。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」私たちはこの世と調子を合わせるのではなく、神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る必要があります。そのために必要なのは、心の一新によって自分を変えることです。日本語聖書の「心」はギリシャ語ではヌース、英語ではmindと書かれています。ですから、このこところは「心」ではなく、「思い」とか「考え」と訳すべきなのです。ローマ12章は霊的に新しく生まれたクリスチャンに対する勧めです。使徒パウロは「神のみこころは何かを知るために、思いを一新して、自分を変えなさい」と勧めています。

 個人個人が持っている「世界観」を述べるために、マタイ6章とローマ12章のみことばを引用しました。世の心理学者たちは、これを「認知」と言っています。1963年アーロン・ベックという人がうつ病の認知療法を発見しました。彼が言うcognitiveは、「認識」と訳すことができますが、「経験的事実に基づいた認知」です。おそらく、その人が誕生してから生きてきた過程において、認識の仕方が出来たということなのでしょう。数か月前、一人の事務次官が「相手が不快に感じるようなセクシャル・ハラスメントに該当する発言をしたという認識はない」と弁明しました。しかし、それは当人の認識であって、セクハラを受けた当事者はそうでないかもしれません。つまり、事務次官はどこからかセクハラになるのかという認識が、一般的な基準よりもずれていたということでしょう。つまり、ものごとを捉える「認識」あるいは「考え」は人によって異なるということです。でも、マタイ6章とローマ12章は、私たちの思い(考え)というレンズを健全にすれば、神のみこころは何か分かるということです。そのためには、「思いの一新」がぜひとも必要です。しかしこれは、私たちの考えがどの程度ゆがんでいるか知るところからはじまります。もしそれが曇っているなら、汚れを落として磨いてあげる必要があります。もし、修復不可能なら、レンズを交換するしかありません。最近、白内障の手術がとても簡単になったそうです。片方の目なら一日で、濁った水晶体を人工のものに取り換えることができます。その時、ついでに強度の近眼も調整できるそうです。あなたの考え、あなたの認識はどの程度、ゆがんでいるでしょうか?でも、どうしたら、自分の考え、自分の認識がゆがんでいるのか分かるのでしょう?自分としては、正しく、公平にものごとを捉えて判断しているように思っているのですが、そうでもないようです。

2.状況―考え―感情

 世界観というのは、自分の「考え」あるいは「認識」における傾向です。自分はどのような偏った見方をしているのか知らなければなりません。李光雨師はそれを「気づきawareness」と言いました。残念ながら、自分でどの程度偏っているのか、気づくことはできません。なぜなら、生まれてこの方、同じレンズをはめて生きて来たからです。だれもが「私が見えている世界が正しい」「私は間違っていない」と主張するでしょう。でも、現実において、生きづらい経験をしていないでしょうか?何かに対するこだわりがあるかもしれません。何か思いがけないことが起ったとき、過剰反応をすることはないでしょうか?李光雨師は「過剰反応とは、ある特定のステージの中で現われてくる心や体や行動。合理性を欠いた強い反応のことである」と定義しています。ステージという言い方も面白いですね。舞台設定でしょうか?ステージの上には、自分がいて、相手役がいます。特定のシナリオがあって、相手役があなたの気に障るセリフを言ったんでしょうか?そのとたん、あなたの心の奥底から「ばーっ」と悪いものが出てきます。過剰反応をぶつけられた相手も、こちらに対して過剰反応をぶつけます。これを修羅場と言います。こちらが過剰反応したために、逆切れする人、貢ぐ人、鬱になる人、逃げる人などがいます。私がこの原稿を準備する少し前に、四男の引っ越しがありました。淵野辺の大学に電車で通うと2時間は楽にかかります。そのため、私が引っ越し先のアパートを準備しました。しかし、息子は「私の意見を1つも聞いていない」と反発しました。しかし、私は息子が忙しくして時間が取れないので、あれこれ調査し、最善のアパートを探してあげたのです。息子が「そこには行かない」と言ったとき、パキーと切れてしまい、息子を罵倒してしまいました。罵倒した内容は省略しますが、過剰反応を起こしました。私の思いは「せっかく準備したのに、なんで私に従わないのか」でした。

 あなたの一か月を振り返って、何かのことで過剰反応を起こしたことはないでしょうか?実は、過剰反応は宝物であり、自分のゆがんだ世界を知る絶好のチャンスです。私たちは何か危機的なことが起こると、自動的に過剰に反応します。相手が爆弾のスイッチを押してくれたのです。こちらはスイッチを押されたのだから、ドカンと爆発するしかありません。心理学者はこれを「自動思考」と名付けています。自動的に出てくる考え(思考)だからでしょう。李光雨師は「そのとき心の叫びが出てくる」と言います。過剰反応をしているとき、心の深いところから出てくる叫びであります。どんな叫びでしょうか?私の場合は「ちゃんとやってあげているんだから、言うこと聞けよ」でした。ある人は、「自分の責任を果たせよ。ちゃんとやれよ」です。ある人は「私は何をやってもできない。私はダメ人間だ」と心の中で叫びます。しかし、私たちは過剰反応を引き起こすメカニズムを知らなければなりません。過剰反応から生じる感情は、怒り、落ち込み、恐れや不安、無力感、抑うつなどです。感情はすぐ分かります。多くの人たちは「怒ってはいけない」「恐れてはいけない」「落ち込んではいけない」と言います。しかし、感情は中立的な存在です。いわば感情は車のメーターみたいなものです。たとえば、エンジンの温度を示すメーターがあります。もし、メーターが異状に高い場合はどうするでしょうか?メーターを手で動かしてもダメです。メーターは「冷却水が足りないので、エンジンがオーバーヒートしています」と教えているのです。ですから、解決法は、冷却水を足せば良いのです。同じように、感情というメーターを動かしても無駄だということです。なぜなら、感情は中立的な存在だからです。

 では、なぜそのような感情が出てしまったのでしょうか?その感情を生み出した、メカニズムを知ることがとても重要です。順番的に言うと最初が状況です。第二が考えです。第三が感情です。本当の順番は状況―考え―感情なのですが、「考え」を特定することは不可能です。なぜなら、自動的に出ているからです。そのため実際は、その感情を生み出したのは、あなたのゆがんだ考え(思考)なのです。でも、そのとき何を考えたのか特定するのが困難です。なぜなら、あなたは無意識に反応しているからです。でも、過剰反応したのは、あなたが何かを考えた結果なのです。そのゆがんだ考えは何なのか捉える必要があります。過剰反応ダイヤリーと言うものを1か月くらいつけると、自分のゆがんだ考えに特定のパターンがあることに気づきます。ダイヤリーの一番左側には「年月日、時刻」を書きます。第一に「状況」を書きます。つまり、どんなことが起きたのか、だれかが何かを言ったり、何かをしたのでしょう。その出来事を簡単にまとめます。第二には「感情」を書きます。怒りの爆発、落ち込み、無気力感、パニック発作などです。100のうち何%だったかも書きます。たとえば、100のうち80くらい怒った。100のうち50くらい悲しくなった。100のうち30くらい恐れた。この数値はあくまでもその人の主観です。100というのは死ぬか生きるかの高レベルです。第三は「考え」です。認知や世界観とも言いますが、そのときあなたは何を考えていたかを書き記します。たとえば「最後までできなかったので、私は何をやってもダメだ」と思った。あるいは「本当はそうでないのに、誤解されてしまった」と考えた。あるいは、「自分の力では対抗できないために、自分の世界が壊れる」と思った。1か月くらいつけると、一体、自分は何に対して過剰反応を起こすかパターンが分かってきます。つまりそれは、自分のゆがんでいる考え、世界が分かるということです。

心理学者は過剰反応を起こしたときに出てくる考えを「自動思考」と呼んでいます。面白いですが、自動的に出てくるのですからどうしようもありません。李光雨師は「心の叫び」も一緒に出てくると言います。確かに過剰反応したとき、「だれもわかってくれない」「せっかくやったのに」「みんな馬鹿にしやがって」「もっとできたはずなのに」とか出てきます。自動思考とか心の叫びは、心の深いところから出ているのです。詩篇の記者は孤独の中からこのように叫んでいます。「主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。私の日は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃えていますから。私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。」(詩篇1021-5

3.コア世界観

コアというのは核という意味です。世界観を生み出しているのが、「コア世界観」です。言い換えるとゆがんだ考えを生み出している、信念の塊みたいなものがあなたの中にあるということです。心の叫びはそこから出ているのです。丸屋真也先生はこれを「核信念(core belief)」と呼んでいます。心理学者は自動思考の根底に核信念があると言います。核信念からゆがんだ自動思考が湧き上がってくるのです。でも、核信念はほとんど無意識です。しかし、これを発見しないと、思いの一新にはつながりません。李光雨師は「コア世界観」、丸屋真也師は「核信念」と呼んでいます。みなさんはどちらを使っても結構です。私は両者から学びましたが、二つをちゃんと統合しています。私は統合integrateということばが大好きです。「コア世界観」「核信念」どちらでも良いのですが、地球のマグマと同じです。地球の核にはマグマがあります。マグマは大体1,000度と言われています。時々、火山が噴火することがありますが、そこからマグマが飛び出してきます。過剰反応はマグマの噴火みたいなものです。地質学者に言わせると、噴火するところは地表の弱いところだと言われています。とにかく、地球の核、マグマにあたるのが「コア世界観」あるいは「核信念」と呼ばれるものです。

丸屋真也先生は、「核信念には三種類ある」と言っています。第一は脅迫的信念(完璧主義)です。このタイプの人は白か黒かで考えます。自分の失敗を赦すことができません。受け入れるということが難しい人です。だから、どうでも良いことに何時間も時間をかけてしまいます。聖書的に言うと、これは律法主義的な思考です。行動によって自分の価値が決まるという考え方です。この人は、神の恵みをいただくためには、私は完璧でなければならないと思うのです。パウロは、最初はそうでいう人でしたが、それにまさる主の恵みを知りました。第二は適合的信念です。この人はたえず人の顔色を伺います。そして、その人に合わせようとします。きわめて日本的です。クラスの子が良い学校に入ったので、自分の子どももそうでなくてはならない。みんながナイキのシューズを履いているので、自分もナイキでないと良くナイキがする。箴言2925,26「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。」と書いてあります。第三は支配的信念です。自分や他人を支配するような信念です。自分へのコントロールだと「事が自分の思うように進まなければ、自分はもうだめだ」と考えます。他人へのコントロールだと「人が私の望むようにしなければ、私のことを大事にしていないんだ」と考えます。この人は、人が自分の望むようにしてもらえるように、必死でいろんなことをします。それで疲れ果ててしまいます。「自分は強くなければならない。なぜなら強いものだけが好かれるから」「何かうまく行かなければ自分のせいである」「悪い人は罰されるべきである」。このように自分や他人をコントロールします。ある程度、コントロールできているうちは良いですが、必ず、自分のコントロールが利かなくなるときが来るでしょう。

 核信念は子供時代の体験が根底にあります。そういうものから影響を受けて、核信念が形成されていくのです。核信念はどこから来ているのか?究極的には、神から離れた人間が持つ、心理的な不完全さであります。李光雨師はそれを「存在不安」と名付けています。文字通り、存在が不安なのです。罪を犯したアダムとエバは、いちじくの葉で存在不安を隠そうとしました。私たちもいちじくの葉で、自分の存在不安を隠そうとしているのではないでしょうか?学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、職業、結婚、家系、名誉、すべて人工的ないちじくの葉です。しょせんいちじくの葉ですから、いつか破れが生じるでしょう。私たちは、アダム以来から持っている「存在不安」と、それぞれの成育史で培った核信念のパターンがあります。つまり、それはその人が持っている「コア世界観」であります。コア世界観は人によってヴァリエーションがあります。丸屋師は脅迫的信念(完璧主義)、適合的信念、支配的信念と3つに分けました。この「コア世界観」から心の叫びが生じてきます。それが、ゆがんだ考え(自動思考)であります。そのゆがんだ考えがさまざまな悪感情をもたらします。さらに、それが行動になるとパニック発作、うつ病、関係遮断、傷害事件、摂食障害、ひきこもりになります。だけど、すべての原因を作り出しているのは、コアの部分、核の部分であることを忘れてはいけません。多くの場合それは、幼少期に体験したトラウマと結びついています。何かショッキングなことがあったのでしょう。そこから悲しみや怒りや喪失感が噴き出してくるのです。

 根本的な解決と継続的訓練による解決が2つ必要です。根本的な解決とは、イエス様を幼少期に体験した現場に迎えることです。神さまの無条件の愛と受け入れと赦しをそこにいただくのです。継続的訓練とはゆがんだ思いを聖書のみことばの真理に置き換える作業です。アダムとエバは後で、神さまから皮の衣を着せていただきました。皮の衣は主イエス・キリストの贖いを象徴しています。イエス様はあなたの心の叫びを受け止めてくださいます。そして、心の叫びを完了させてくださいます。あなたは、その声を聞かなければなりません。脅迫的信念の人には、主は「私は不完全な人を愛している。私の恵みは十分である。私の御手の中で安らぎなさい」とおっしゃって下さるでしょう。適合的信念の人には主は「私の目であなたは高価で尊い、私はあなたを愛している。誇りに思っているよ」とあなたの存在を喜んでくださるでしょう。支配的信念の人には「私がすべてを支配する主である。私にすべてをゆだねなさい。私の力のもとで安心しなさい」とおっしゃるでしょう。これは大人になったときの表現ですから、小さな子どもはもっと単純かもしれません。でも、大人のあなたが小さな子どもにやさしく言い聞かせるのです。癒されていない子どもを人生の主人公にしてはいけません。救われたあなたが意志をもって、指導していくしかありません。私たちを動かしているのはコア世界観です。コア世界観を修正していくことも1つの方法です。でも、一番良い方法は、全く別のコア世界観に取り換えることです。パソコンのハードディスクは使っていると古くなります。ハードディスクを新しいものに取り換えるのが一番です。「思いの一新」とは、新しいものに取り換えるという意味です。その次に、聖書のみことばから、神さまがくださる新しい思い、新しい考え、新しい認識をいただきましょう。

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2018年7月13日 (金)

自分のレースを走る ヘブル12:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.15

 数多くの臨終に立ち会った看護師の興味深い報告があります。彼女は死に直面している何百人もの患者さんたちに「あなたが最も後悔していることは何ですか?」と聞きました。その中で最も多かったものは、「他の人たちの期待に沿うためではなく、自分に正直に生きたかった」という後悔のことばだったそうです。イエス様はI am the way「私が道である」と言われました。クリスチャンは神さまから召された存在です。人々に気に入られるためではなく、神さまを喜ばせるために、自分のレースを走るべきではないでしょうか?

1.使命よりも賜物で

 ケン・ロビンソンという人がこう言いました。「世界中を渡り歩いていると1つ驚愕することがあります。地球上どこの教育制度も科目の優劣があります。数学と語学がトップで、次が人文系です。一番評価されてないのは芸術系です。そして、芸術科目の中でまた順位があります。美術と音楽は演劇やダンスより上です。数学みたいにダンスを毎日教える教育制度はありません。私は、ダンスは非常に重要だと考えています。数学もダンスも同じくらい大事です。」ケン・ロビンソンは「学校教育は創造性を殺してしまっている」と言っています。19世紀、イギリスおいて、現在の義務教育が始まりました。産業革命により近代工業化が進み、労働者を生み出せる仕組みが必要となったからです。そのため、国家をあげて読み書きと計算ができる学校を建てました。本来人間には個性があり、独創性があるので、工場の労働に合わない人も当然出てくるはずです。日本では学校で「おちこぼれ」のレッテルが張られたりしますが、多くの場合5教科のペーパー・テストの成績が低い生徒です。私が中学のとき、「自分は何に向いているか」という適性検査がありました。しかし、自分が何に向いているのかさっぱりわかりませんでした。ブラスバンド部も陸上部も1週間持ちませんでした。中学1年と3年のとき、弁論大会に2回推薦されたことがあります。クラスで一番うるさかったので、先生が「お前出ろ」と言ったのです。子どものときは、いろんな夢を持っています。でも、親や先生から「それで食っていけると思っているのか」と言われ、その夢を捨ててしまうのではないでしょうか?

きょうはこの世の価値観を脇に置いて、創造主なる神さまの観点から自分の賜物や適正について考えてみたいと思います。箴言226口語訳「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることはない。」英語の詳訳聖書はヘブル語の聖書から「with his individual gift or bent」と訳しました。「個人的なgift or bentをキープしながら指導しなさい」と言う意味です。これは個人的なgift or bentが生まれる前から備えられているというニュアンスがあります。では、giftとは何でしょうか?辞書には「贈り物、天賦の才能、適正、タレント」とあります。私はgiftを「賜物」と訳したいと思います。また、bentとは何でしょうか?本来bentは、「曲り」という意味です。しかし、「好み、性癖、適正」という意味もあります。個人的な賜物と適正は一体だれが与えたのでしょうか?もちろん、祖父母や両親からの遺伝もあるでしょう?でも、創造主なる神さまがその子に与えたということが真実ではないでしょうか?詩篇13913「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」と書いてあります。「組み立てた」は英語の聖書ではknit「編む」と書いてあります。神さまは母の胎内で、私たちの神経や細胞組織を編んでくれたのであります。そして、そこに賜物と適正をしこんでくれたと考えるべきではないでしょうか?この世の教育者は「子どもは白紙の状態で、親や教師が教えなければならない」と考えています。確かに知的にはそうかもしれませんが、その子に賜物と適正がはじめから備わっているのであります。私たちは神の作品です。エペソ210「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書かれています。この作品という本当の意味は「製品ではなく、手作りである」ということです。手作りですから、ひとり一人違うように創られているはずです。

 画家のヴィンセント・ゴッホの生涯を簡単にご紹介します。1853330日、オランダ南部の生まれ。祖父と父は牧師で、ヴィンセントは6人兄弟の長男。彼は少年時代から思い込みの激しい性格で、熱烈な片想いと失恋を繰り返し、就職しては客や上司と衝突。16歳から22歳まで美術商で働く。23歳から小学校の教師になり、その後、書店に務めながら伝道活動に身を投じる。キリスト教への情熱が加速し神学校に入るが、語学教科のギリシャ語で挫折。25歳ブリュッセルの伝道師養成学校に入ったが、見習い期間が終わっても伝道の仕事が与えられず。同年暮れ、聖職者の仕事を探してベルギー南部の炭鉱地帯へ向かう。伝道師として認められ、劣悪な環境で働く炭鉱夫に心から同情し、懸命に伝道活動を行う。顔は炭で汚れ、落盤事故で負傷者が出ると下着を引き裂き包帯にした。これらが聖職者の権威を傷つけると判断される。伝道師として人々に光を与えることが出来なかった為、27歳、絵によって光を与えようとした。奇行が目立ち精神病院に入れられる。生きている間に描いた絵は800余りほどあったが、生前は一度しか絵が売れたことがなく、その一つも友だちの妹がたった400フランク(約5700円)で買った。ゴッホが死んだとき、ポケットの中に最後の手紙が入っていた。「弟よ。これまで僕が常々考えてきたことをもう一度ここで言っておく。僕は出来る限り良い絵を描こうと心に決めて、絶対に諦めることなく精進を重ねてきたつもりだ。…ともかく、僕は自分の絵に命を賭けた。そのため、僕の理性は半ば壊れてしまった。」ヴィンセント・ゴッホは伝道師にはなれませんでしたが、画家として神の栄光を現しました。ゴッホの作品は彼が亡くなってから脚光を浴びました。損保ジャパンが1987年に『ひまわり』を58億円で買ったことは有名です。ゴッホは37歳で亡くなりましたが、「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい」と言ったそうです。彼の人生は、天国で報いられる人生を象徴しているようです。

 人生はまさしく紆余曲折であります。はじめから「私の賜物と適正はこれだ」と分かる人はそんなにいないと思います。もし、自分の賜物を知りたければ、少なくともそれが好きだということではないでしょうか?そのことをしても疲れない、そのことをいつまでもやっていたい。そのことをしているとどんどんアイディアが湧いて来る。最初は、きわめて主観的なものかもしれません。でも、それをずっとやり続けていると、他の人たちが「あなたには確かに才能がある」と認めてくれるかもしれせん。でも、一番のネックは「それで食べていけるか?」という現実問題です。私はそのことに対して異議を唱える一人であり、「食べていけるか、いけないか」という問題は夢と希望を食うアメーバーでないかと思います。独身のときは自分の夢に向かって走り続けます。でも、結婚と同時に、どうしても現実的になります。家庭をささえ、子どもを育てなければならないからです。職業が自分の賜物と適正が合えば良いのですが、趣味に押しやる人もいるでしょう。たとえ趣味であっても、それを貫き通すところにロマンがあるのかもしれません。小説を書く人にそういう人が多くいます。芥川賞とか直木賞をもらえれば良いのですが…。

 信仰者として、賜物と使命のバランスを考えることが大事です。使命とはやらなければならないことです。職業もそうですが、主婦ならば家事や子育てです。教会の奉仕でも、使命でやる人と賜物でやる人とに別れます。特に神さまに献身を表明した人は、両者のジレンマに陥るでしょう。もちろん、私たちクリスチャンは全員、神さまに献身をすべきです。献身とはどんな仕事や立場であっても神さまを第一にするということですから。その中に「どのように神さまに仕えるべきか」という課題があります。特に教会内の奉仕は無報酬が多いので問題になります。私は長年牧師をしてみて「使命感ではなく、賜物で行なうべきだ」と考えています。神さまの前ではプロもアマチュアもありません。どうでも良いものではなく、ちゃんとしたものをささげるべきです。でも、使命感だけでやると疲れて、燃え尽きてしまいます。やはり神さまが与えた賜物と適正、聖霊の賜物があるはずです。もちろん、十字架によって一度きよめられる必要はありますが、自分の賜物と適正に合ったものが長続きすると思います。当教会の奉仕組織は、賜物と適正、そして神さまからの召命と3点から成り立っていると信じます。互いに牧会する理想的なセルチャーチではありませんが、賜物にあった奉仕で支える教会になっていると思います。総会資料を見ると一目瞭然ですが、たくさんの奉仕グループがあります。数か月前、「バディ・カフェ」というのがありました。お店のようにデコレーションされていました。私は「クッキーはお店で買うもの」と思っていましたが、びっくりしました。「やっぱり賜物なんだなー」と思いました。

 私たちは仕事とか家事、なすべきことがあります。それらの中にも神さまが下さった賜物と適正を生かすべきであります。不幸にもそういう度合が少なければ、神さまはあなたに奉仕の場を与えてくださるでしょう。音楽家の夢も神さまの前では叶います。カウンセラーの夢も神さまの前では叶います。スポーツの夢も神さまの前では叶います。神さまの前では、プロもアマチュアもありません。創造主なる神さまから与えられた賜物と適正を生かして、あらゆるところで、神さまの栄光を現わせるように、自分のレースを走りましょう。使徒パウロのことばです。Ⅱテモテ47-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」

2.人よりも神の運命を

私たちは自分の与えられた道、レースを走るべきです。ある人は親のレースを走っているかもしれません。また、ある人は他の人たちが良いと勧めるレースを走っているかもしれません。その人たちは決して悪い人たちではなく、親切でおっしゃっているのでしょう。でも、あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。それは、人ではなく、神さまが定めたdivine destiny神意です。ピリピ213「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」と書かれています。「願い」は英語の聖書ではdesireです。ビル・ジョンソンがラテン語でdeは「上から下る」、sireは「父の」という意味があると言っていました。つまり自分の願望だけではなく、父なる神さまから来る願いもあるということです。クリスチャンになると霊的に目覚め、パウロのように「目標を目ざして一心に走り」(ピリピ314たくなります。あなたはそれを「無理だ。できない」と、とっくの昔に土に埋めたのではないでしょうか?この際、掘り起こしたらどうでしょうか? 神さまはあなたに願いを与えて、divine destiny神意を完成させたいと願っておられるからです。あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。と言うことは、あなた自身の中に、「これは神が与えてくれたものだ」という確信、あるいは信仰がなければなりません。divine destiny神意、神さまの計画から目を離してはいけません。ヘブル121いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と書いてあります。私たちが神さまから与えられたレースを走るときに妨げるものがあります。それは、重荷とまとわりつく罪であります。あなたはdivine destinyを妨げるいっさいのものを排除しなければ、あなたのレースを走り抜くことは決してできないでしょう。ランナーがウェアーや靴をできるだけ軽くして走っているのはそのためです。神さまから与えられたあなたのレースを邪魔するものは何でしょう?

第一に、それはあなたに助言を与える親切な人たちです。彼らは悪い人では決してありません。あなたを心配している人たちです。でも、彼らは自分の思ったことをあなたにそうしてもらいたくてプレッシャーをかけます。親かもしれないし、先生やコーチ、あるいは上司かもしれません。牧師でないことを願います。ローマ122「あなたがたはこの世と妥協してはならない」と書かれています。JB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。彼らは親切で良い人たちかもしれませんが、あなたを自分の鋳型に押し込めたいのです。もちろん、私たちは人からの意見や助言を聞く心の広さを持つべきであります。でも、彼らの期待に沿うように、彼らが願うように生きるのは限界があります。もし、それが自分の賜物や適性、divine destiny神意に合っていなかったならば一大事です。私たちは人に認められるのではなく、何よりも神さまから認められる必要があります。こんな笑話があります。田舎から町に向かって、おじいちゃんが、ロバに孫を乗せ、自分はその脇を歩いていました。通りすがりの人が言いました。「なんとわがままな子どもだ。老人を歩かせるなんて!」。それを聞いたおじいちゃんは、孫をロバから降ろして、今度は自分がロバに乗り、孫にロバを引かせました。しばらく歩いて行くと、ある人が「子どもを歩かせて、自分だけが乗るなんて、ひどい大人だ」と言いました。それを聞いたおじいちゃんは、孫を引き上げてロバに乗せました。しばらく歩いて行くと、他の人が「なんて残酷なんだ。二人を乗せてロバが重たがっているだろう」と言いました。町に着くころどうなっていたでしょう。おじいちゃんと孫がロバをかついて歩いていたそうです。言いたいことはこれです。あなたはすべての人を喜ばせることはできないということです。あなたが「それがベストである」と受け入れて実行したとします。しかし、他の人はあなたの欠点を見つけ出して、別なことを言うでしょう。彼らが自分たちの意見を述べる権利はあります。しかし、あなたには彼らの意見を無視する権利もあるのです。兵庫県の姫路市に井上眞一牧師がおられます。彼が神学生のとき5年間、この亀有で奉仕をしていました。私も大変助けられましたが、同時にいろんな聖会に連れていきました。彼は大変素直で、私が勧めた本とか資料をよく学んでくれました。ある時、赴任先の教会で分裂が起こりました。私がかつて預言していたことが当たったと言われました。彼のためを思って、私は「こういうところに連絡しておくから、こうしたら良い」と助言しました。すると彼は「いや、それはしなくて結構です。自分で解決します」と言われました。その時は、ちょっとカチンときましたが、「ああ、先生も一人前になったんだなー」と喜びました。私たちは人に認められるのではなく、神さまが望まれる自分のレースを走るべきであります。

第二は、あなたに対してとても依存的な人です。ヘブル121いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とありました。英語の詳訳聖書には、clings to entangles usと書かれています。Clingは「べったりくっつく、くっついて離れない、しがみつく」という意味です。Entangleは「もつれさせる、混乱させる、まごつかせる」という意味です。子どもは親に依存します。そのため成人するまではどうしても世話しなければなりません。でも、大きくなったら手放す必要があります。また、救わればばかりの人や病気の人は、お世話をしなければなりません。でも、信仰的に成長し、健康になったら自立させるべきです。しかし、残念ですが、私たちからエネルギーと時間を奪う依存的な人はいるものです。互いに助け合う、相互依存は問題ありません。問題なのは共依存、一方的に依存してくる人です。あなたからお金を借りても、決して返しません。「緊急なので来てくれ」といろんな頼みごとをされます。もし、断ったならば、あとで「薄情者」とか言われます。ジョエル・オスティーンは「High-maintenanceの人には気を付けなさい」と言っています。High-maintenanceとは、「手がかかる、世話のやける」という意味です。ジョエル・オスティーンは続けてこう言っています。「それらの人を幸せにし続けることは不可能です。あなたは彼らのスケジュールに合わせて訪問して、元気付け、用件を果たすために走り回り、彼らの要求を満たします。でも、あなたができなかったなら、彼らは怒って、あなたに罪責感を与えるでしょう。ハイ・メンテナンスの人々というのはあなたをコントロールする人です。彼らはあなたに興味があるのではなく、あなたが自分たちのために何ができるかに興味があるのです。もし、あなたが彼らを喜ばせるために一生懸命になるなら、罠に陥るでしょう。あなたは常にフラストレーションがたまり、いつかは疲れ果てるでしょう。彼らを幸せにするためにあなたの時間を費やすのは貴重過ぎます。彼らは彼ら自身の夢とゴールを目指すべきであり、あなたはあなた自身の夢とゴールを目指すべきなのです。彼らはあなたの友人ではなく、manipulator(操る人)です。あなたは彼らのパペット(操り人形)ではありません。パペットの糸を切って下さい。」アーメン。

第三は、あなたのあこがれの人です。人生の恩師というものがいるはずです。あるいは、その道で尊敬する人がいるでしょう。出会いはとても重要です。私たちはあこがれの人から学び、彼らのようになりたいと努力します。でも、まもなく気が付きます。「ああ、あの人とは違うんだなー」と。私も大川牧師やチョーヨンギ師、安海靖郎師、エディ・レオ師、ウェンコディーロ師から学びました。彼らのように説教したいと思いました。でも、私には「私のスタイルがあるんだなー、これで良いや」と思えるようになりました。もちろん、常にだれかから学ぶ必要はあります。でも、だれかの借り物ではうまくいかないということです。ダビデがゴリアテと戦うとき、サウルは自分のよろいとかぶとを着せました。そのとき、ダビデは「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです」(Ⅰサムエル1738-39)と言いました。彼はそれを脱ぎ、自分の杖と石投げを手にして立ち向かいました。ダビデは使い慣れているものを用いました。私はテレビの『何でも鑑定団』を良く見ます。画家とか彫刻家があるとき、すばらしい人に出会って、作風が全く変わります。しかし、やがて自分固有の作風を見出すというものです。名前は忘れましたが、日本では珍しい鉄の彫刻家がいました。鉄は他の金属と違い、とても加工しづらいものです。そのため作品は、数えるくらいしかありません。彼はロダンに会って助言をきただこうとしました。記憶をたどっているので正確ではありません。ロダンは自分の芸術スタイルを1つも教えてくれず、「あなたの心にあるものをかたちにしなさい」と言ったそうです。私たちの人生においてすばらしい人との出会いがあります。その人にあこがれ、その人に追従し、その人から影響を受けるでしょう。でも、最終的にはあなた自身のものを生み出す必要があります。それは芸術だけではなく、どの世界においても言えることだと思います。

私は統合する、integrateということばが大好きです。学校では微分積分でいやな思い出がありますが、本来は「部分や要素を統合する、一体化する」という意味です。私たちはいろんな人と出会って、彼らから学び「私はこれで行こう」と決断するのではないでしょうか?ユダヤ人哲学科マルチン・ブーバーが「人生は出会いで決まる」と言いました。しかし、私たちの人生で最も偉大で価値ある出会いとは、主イエス・キリストとの出会いではないでしょうか?私たちはこの方によって私たちの創造主である神さまを知ることができました。私たちは偶然ではなく、神さまの御手によって固有に造られたことを発見できました。キリストにあって人生には意味があること、そして走るべきレースがあることを知りました。パウロのように後ろの物を忘れ、前のものに向かって進み、神の栄冠を得るために、目標をめざして一心に走りましょう。

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2018年7月 6日 (金)

あなたはだれか 創世記1:26-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.8

 「あなたはだれですか?」と聞かれたら、名前と職業を答えるでしょう。必要であれば、年齢とか既婚か独身か、家族構成を答えるでしょうか?日本ではあまりないですが、国籍も問われます。最近は自分が男なのか女なのかも分からない人がいます。「あなたはだれか?」「自分はだれなんだろう?」これはアイディンティテイの問題であり、多くの人たちが混乱しています。なぜなら、何ができるか、何を持っているかで、自分のアイディンティテイを決めているからです。しかし、本来のアイディンティテイは存在そのものではないかと思います。 

1.アイディンティテイの混乱

 自分はだれなのかを知りたければ、自分の製造元に尋ねる必要があります。神のことばである聖書にそのことが書かれています。創世記126-28神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」この箇所には「人間とはだれなのか」「人間のなすべきことは何なのか」はっきりと書かれています。人間は自然から偶然に発生したのではなく、創造主なる神によって造られた存在です。他の動物と違って人間は、神さまのかたちに似せてつくられました。言い換えると、人間はすでに神のようであったということです。後で蛇に化けたサタンが「あなたがたが神のようになる」と誘惑していますが、人間は既に神のようであったのです。詩篇85「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」このみことばからも分かるように、人間は自然の一部ではなく、神のように自然を治めるように造られた存在です。神さまは私たちにあらゆる生き物を支配するように命じられました。さらに、神さまは「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と命じていますが、それは人口が増えるということだけではなく、「神のかたちを持った人を増やして、地上を支配するように」という願いがこめられています。アダムとエバは、堕落以前は、自分がだれであり、何のために生きているか理解していました。彼らは何ができるとか、何を持っているかで自分のアイディンティテイを決める必要がありませんでした。なぜなら、神のかたちに造られた存在であり、神の栄光と誉れの冠がかぶらせられていたからです。

 しかし、創世記3章で起きた堕落により、人間のアイディンティテイが混乱してしまいました。サタンに誘惑されて、食べてはいけない木から取って食べてしまいました。それはどういう意味かというと、神の主権を認めないで、神から独立して生きるということです。その代り、人間には恐れと恥がやってきました。それまでは二人が裸で暮らしても何の問題もありませんでした。堕落後の人間は神を恐れ、いちじくの葉で自分の恥を覆い隠しました。いちじくの葉というのは、現代的には、職業、学歴、何を持ち、何ができるか、どこに属しているかであります。さらには、容姿、結婚、家、子ども、財産、車、資格も人工的ないちじくの葉ということができます。牧師でも、博士号とか、名刺にたくさんの肩書を並べている人がいますが、アイディンティテイに問題があるのかもしれません。私のようにない人が言うと、やっかみに聞こえるかもしれません。それはともかく、私たちに罪が入ったために、思い、感情、意志という魂の分野に混乱が生じました。自分の弱さや欠点を隠し、人と比較し、人と争いながら生きています。単一民族である日本人は、人との和が必要なので、個人のアイディンティテイが持ちにくいと言われています。もし「あなたはだれですか?」と聞かれたら、まわりを見てから、答えるのではないでしょうか?

 実はアイディンティテイがしっかりしていないと、クリスチャンになっても頑張る人になってしまいます。ガラテヤの教会は「福音を信じるだけで救われる」ということをパウロから聞かされて信じて救われました。ところが、あとからユダヤ人がやってきて、「モーセの律法を守り、割礼を受けなければダメだ」と主張しました。「ああ、そうなのか?」とガラテヤの教会は宗教的なことを一生懸命守るようになりました。パウロは「霊ではじまったことを肉で仕上げるのか」(ガラテヤ33)と怒っています。肉でも美しい肉があります。人間は生まれつき、宗教という肉を持っています。神さまに受け入れられるため、何かをしなければならないと考えます。罪を悔い改め聖書を読むこと、祈り、献金、奉仕、断食…みな良いことです。しかし、それらが神に近づくために必要だとするなら、この世のパフォーマンス指向と同じです。パフォーマンス指向とは、神さまの愛を受けるために何かをしなければならないと考えることです。そのため、「まだ自分は足りない」「まだ自分はふさわしくない」と恐れと不安がたえずつきまといます。良い行いが神に受け入れられるためのものであるなら、それは汚れた間違った動機です。なぜなら、キリストが流された血潮によって、恵みの座に大胆に近づけることを信じていないからです。イエス様にはアイディンティテイの混乱は全くありませんでした。マルコ111「そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」これは、イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたとき、天の神さまからのイエス様に対することばでした。イエス様はまだ何もしていないのに、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と是認されました。後で、サタンが「もし、あなたが神の子なら」と誘惑していますが、イエス様はすでに神の子だったのです。イエス様は「自分はだれか、何をするために来たのか」分かっていたので、サタンの誘惑を退けることができました。イエス様は、毎朝、父なる神さまと交わっていました。一日が始まるとき「父よ、きょうはカペナウムに行って宣教します。病の人を癒し、盲人の目を開けてみせます。死んだ人がいたらよみがえらせます。どうか私を見ていてください」。そんな風には祈りませんでした。イエス様は父の御目のもとで生活し、父を見ながら、父がしなさいと言うことだけをしました。別に、父なる神さまから認められたくてしたのではありません。私たちはイエス様のように、正しいアイディンティテイを持つ必要があります。

 こういう私はアイディンティテイの乏しい人でありました。8人兄弟の7番目で生まれ、おまけのような存在でした。我が家では、長女と長男がとても優秀で、他の兄弟はまったく褒めてもらえませんでした。その当時の私の趣味は賞状を集めることでした。夏休みや冬休みの課題も賞状をもらいました。運動会ではいつも3位で悔しい思いをしました。高校も行きたくなかった学校に入り、建設会社で働いても自分はだれかという誇りは全くありませんでした。英語の仕事がしたくて、23歳で会社を辞めて失業しました。町田の英文タイピングスクールで勉強し、百合ヶ丘のバッテングセンターでバイトをしました。自分が失業しているので、肩身が狭い思いがしました。24歳であこがれの貿易会社に就職できました。小さな会社でしたので、いきなり係長になることができました。Export-divisionという名刺もできました。用事のため社長のクラウンに乗ることがありましたが、自分が偉くなった感じがしました。しかし、クリスチャンになり社長のやり方についていけないので、先輩と一緒に辞めました。私は直接献身して、聖書学院に入学しました。信仰歴が浅かったせいもあり、1年の基礎科で卒業しました。それから二度目の失業をしました。しかし、不思議なことに、自分がだれであるかを知っていたので、前のような空虚感がありませんでした。自分は神の子、クリスチャンであるということが分かっていたからです。

男性の場合は職業が自分の身分、自分のアイディンティテイになりがちです。一流会社に入って入るときは良いでしょうが、失業してしまったら全部砕けるでしょう。運良く定年まで勤めたとしても、やがては退職しなければなりません。退職したとたん、鬱になる人が多いと聞いています。そのため最近は「社友」というOB会を作っています。年一回どこかに集まって、所属意識がなくならないようにしているのです。女性の場合は、自分がだれと結婚しているか、自分の子どもがどの大学を卒業したかが、自分のアイディンティテイになるようです。もし、自分の夫が失業でもしたなら、子どもが退学でもしたなら、自分がだれか分からなくなります。そういう「いちじくの葉」で、自分を覆い隠すというのをおやめになったら良いと思います。でも、多くの人たちは自分の身分を確かなものにしようと、頑張っています。モーリス・ワグナーという人が『誰かになるセンセーション』という本でこのように述べています。「たとえ外見や振る舞いや社会的地位によって、それなりの人になろうと試みようとしても、人は満足することはできない存在です。どんなに自己存在の頂点に達したとしても、すぐに敵意のある拒絶や批判、自己反省や罪意識、恐れ、心配などのプレッシャーの下敷きになり、粉々に砕かれてしまうものです。私たちは無条件に惜しみなく愛されるという副産物を得るために何もすることができないのです。」ソロモンはイスラエルの歴史において最も繁栄した時代の王でした。権力、地位、富、物質、女性、すべてを手にしました。もし意義のある人生とは、外見、賞賛、行動、成功、地位、名声の結果、得られるものだとすればソロモン王はこの世で最も幸福な男だったということになります。しかし彼は、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(伝道者の書12と言いました。自分の正しいアイディンティテイは外見や振る舞いや社会的地位によって得られないのです。

2.アイディンティテイの回復

 私たちは「自分は何ができるか」と問う前に、「自分はだれか」を知ることがとても重要です。なぜなら、自分の存在が行いを決定していくからです。言い換えると、beingdoingを決定していくということです。私たちは自分がだれなのか、神さまからのメッセージを聞く必要があります。イザヤ書434「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」神さまは「あなたを高価で尊い存在である」とおっしゃっています。なぜなら、イザヤ431には「あなたを造り出し、あなたを形造ったからだ」と理由が述べられています。このみことばは、最初のポイントで引用した創世記1章と全く同じです。日本人は親が「子どもを作る」と言いますが、それは正しくはありません。親は子どもを生むことはできますが、造ることはできません。正確には、神さまがあなたを造ったのです。このみことばから、「私は神の傑作品、masterpieceである」と自負して結構なのです。あなたは「いや、もうちょっと背が高い方が良かった」と言うかもしれません。しかし、神さまが「あなたが、背が高い方が良い」と考えていたら、背が高かったでしょう。あなたは不満かもしれませんが、ちょうど良い背の高さなのです。アーメン。イザヤ書に「主は陶器師であり、私たちは粘土である」と書かれています。神さまがあなたの背の高さ、容姿、性格までもお決めになられたので文句を言うことはできません。あなたが自分をどう思っているか分かりませんが、神さまの目では「高価で尊い」のです。なぜなら、あなたは神さまによって造られ、形造られた存在だからです。明日、鏡を見たとき、自分にこうおっしゃってください。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 この世では、外見や持ち物、行いや業績によって自分のアイディンティテイを決めてしまいます。残念ですが、イエス様を信じて、クリスチャンになったのに、その考えが抜けません。だから、もっときよめられ、もっと働いて、もっと勉強して、もっと成果を出さなくてはという恐れがあります。もちろん、それらのことは重要です。でも、そうしなれば、「神さまは私を愛してくれない」「神さまは私を受け入れてくれない」と考えるのは大間違いです。日本の教会の特徴は、律法主義であり、パフォーマンス指向です。日本のクリスチャンは、「まだダメだ」「まだダメだ」とがんばっています。それらの行ないは、恐れから来るものです。喜びとか満足ではありません。だから、いつも緊張しています。特に献身者になると、大変であります。信徒のときはだれも文句を言わなかったのに、献身者になったとたん、「それでも献身者?」「それでも牧師?」と言われるようになります。だから、そう言われないように一生懸命頑張ります。その結果、偽善者になるか、燃え尽きるか2つに1つです。ローマ86「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません。」ここに良い知らせがあります。私たちは肉で神さまを喜ばせる必要はないのです。なぜなら、私たちがイエス様を信じたときから、父なる神さまは十分、満足しておられるからです。父なる神さまがイエス様に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われました。その同じことばが、あなたにも私にも向けられているのです。父なる神さまは、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」とおっしゃっています。神さまから認められるため頑張る必要はありません。なぜなら、イエス様にあってすでに認められているからです。

 私たちは主にあってどういう存在でしょうか?Ⅰコリント11「あなたがたは聖徒である」と言われています。このことばは、パウロがコリントの教会員に言ったことばです。コリントの教会は非常に肉的で、この世の罪に満ちていました。当時「コリントする」とは、「みだらなことをする」という意味でした。パウロはそういう教会の人たちを「あなたがたは聖徒である」と言いました。聖徒とは英語でsaintです。ローマカトリック教会では、特別な功績をあげ、教会が認定した人でなければなれません。勝手にsaintと言うことは許されません。しかし、それは聖書的ではありません。イエス様を信じている人はだれでも、聖徒saintなんです。でも、どうか「セイント青木」とか名乗らないでください。当教会には青木さんがとても多いのでつい出してしまいました。ニール・アンダーソン師がVictory over the darknessという本の中でこう述べています。「ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイディンティテイなのでしょうか?そうではありません。神は私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし自分のことを罪人と考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、『聖徒』なのです。どうか次のことを覚えておいてください。どう生きるかが存在そのものを左右するのではなく、どういう存在であるのかが生き方を決定していくのです。」アーメン。

 私たちは子どものときに親から「あなたは〇〇ですよ」言われました。学校に入ると先生から「あなたは〇〇ですよ」と言われました。友達からも「お前は○○だ」と言われました。不器用、のろま、役立たず、馬鹿、のっぽ、ちび、でぶ、やせ、だらしない、集中力がない、あきっぽい、音痴、理屈っぽい、魅力がない、素質がない、泣き虫…そのほとんどが否定的なものです。客観的に当たっているものもあるかもしれません。もし、だれかが言った同じことを自分に言うなら、そこから脱却することはできません。あなたは呪いのもとで生きることになります。私たちはそういうラベルをはがして、あたらしいラベルに張り替える必要があります。ラベルは英語ではlabelで、札、レッテルとも言われます。レコード会社を示すレーベル(商標)でもあります。ジョエル・オスティーンがThink better Live betterという本の中で「否定的なラベルをはがせ」と言っています。ウォールト・ディズニは10代のとき、「彼はクリェイテブでない、イマジネーションもいまいちだ」と新聞社から言われました。ルシル・ボール(米のコメディアン、モデル、女優、存命中アメリカで最も人気があり影響力のある人物の1人)は、「演技力がないので他の仕事に就くべきだ」と言われました。ウィンストン・チャーチルは「大学入試を2度も失敗し、良い学生でない」と考えられました。この三人が成功した共通要素は、否定的なラベルをはがしたということです。今日も同じで、人々は常に私たちにラベルを貼りたがります。「なれる」とか「なれない」とか、「できる」とか「できないとか」とか言います。多くの場合、それらのラベルは神さまが私たちにおっしゃっていることとは違います。もし、彼らの言うことが真実かのように、受け止めていたなら、私たちの中に深く染み込んでしまうでしょう。ある男性が高校生のとき、スクール・カウンセラーが「君は際立った賜物がないので、技術を要しない仕事についた方が良い」と彼にラベルを貼りました。彼は来る年も来る年も「私は平均以下で頭が良くない。自分が望むような人にはなれない」と思い続けてきました。ある日、彼が勤めていた工場が閉鎖になり、彼は他の町に行って工場を探しました。その会社は新しく入った人にIQテストをする決まりがありました。社長が彼を呼び出して「どうしてあなたは低い地位にいたんだ。創業60年来、あなたほどIQの高かった人はいない」と言いました。その日、彼の心の要塞が取り壊されました。彼は7年間貼られていたラベルをはがしました。結果的に彼は、自分の会社を興し、たくさんの製品を発明し、市場において特許まで取りました。

 人々から言われてきた否定的なラベルをはがしましょう。そして、創造主なる神さまから新しいアイディンティテイをいただきましょう。そして、そのアイディンティテイを自分の口で、自分に言い聞かせるべきです。すなわちそれは、新しいラベルを自分に貼るということです。聖書はあなたにどういっているでしょうか?ジョエル・オスティーンがThe power of I am、「私は〇〇であるという力」という本を書いています。あなたが悟るか悟らないに関わらず、「私は〇〇である」と言うならば、「私は〇〇である」という力が働き、あなたの人生がそれに従ってくるのです。「私は不器用だ」と言えば、不器用がやってきます。「私は年だ」と言えば、年がやってきます。なぜなら、あなたが言ったことが、扉を開けて、人生に許可を与えることになるからです。ですから、私たちは聖書から積極的で正しい、宣言を自分自身にすべきであります。今から私たちが言うべきことをいくつかあげたいと思いますので、みなさんも後から宣言してください。「私は神の子で、特別に愛されている」「私は神さまの傑作品であり、とても価値がある」「私は幸せであり、これから先もずっと幸せである」。「私はとてもかしこい。とても役に立つ存在である」。「私はロイヤルファミリーの一員で、王子、王女である」。「私は魅力的で、良い影響を与えることができる」。「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない」。「私には復活のいのちがあるので、倒れそうで倒れない」。「私は若い。鷲のように何度も若返る」。「私は神さまの栄光を現し、神さまに用いられる」。「私には偉大な神がついているので、人を恐れない」。「私の内にはキリストが住んでいる。だから愛があり、寛容である」。「人にはできないが神にはできる。だから、私にもできる」。「主が共におられるので、私には希望がある」。「私は赦されている。これからも赦されている。永遠の御国に住まうことができる」。アーメン。

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