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2018年6月29日 (金)

積極的考え方の力 民数記13:25-33 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.1

 昔、ノーマン・ピールの『積極的考え方の力』という本がありました。ところが、キリスト教会では「それは功利主義の本だ」と否定した人たちが多くいました。ノーマン・ピールはクリスチャンなんですが、「あの人は怪しい」と言うのです。日本の教会はピューリタンの影響を受けたので、「豊かになる。富む。成功する」ということにアレルギーを示しました。残念ですが、反対する教会に限って、小さくて貧弱であるようです。もちろん、「啓発セミナー」とか「ニューエイジ」には反対です。でも、聖書に土台する「積極的考え方の力」はあると信じます。

1.「できる」と考える

 私たちの周りには、「それはできない、不可能だ」と反対する人は必ずいるものです。彼らは失敗しないかもしれませんが、成功をすることもないでしょう。私たちは否定的な人と一緒にいると、否定的になります。でも、肯定的で生産的な人といると良い影響を受けるのです。熱力学第二法則、エントロピーの法則というのをご存じでしょうか?これは簡単に言うと「熱いものは冷める」ということです。また、「エントロピーが増大する」とは、秩序から無秩序になるということです。「進化論」はまさしく、エントロピーの増大に反している学説です。だまっておいたら、部屋は散らかるし、雑草は生えるし、筋肉が衰えるのと同じです。私たちの脳みそも使わないで、否定的な考えで満たしていたなら、無能でただの人になってしまうということです。無能でただの人が悪いというわけではありませんが、クリスチャンは神さまが願う標準に達する必要があります。なぜなら、創造者なる神さまが私たちを固有なものとして造り、固有な運命divine destinyをそれぞれに与えておられるのに、「それは、できない」と座り込んではいけないということです。しかし、「主にあって、できる」と考えるなら、不思議にアイディアが浮かんできます。「一緒にやりましょう!」という協力者も与えられるでしょう。もし、あなたが何らかのリーダーであるなら、否定的な人ではなく、「主にあって、できる」という積極的な考えを持つ人にならなければなりません。そうでないと、あなたのところに人は集まってきません。世の中には、良いリーダーも、悪いリーダーもいますが、共通点は彼らが「できる」と考えることです。

 聖書に「できる」という人と「できない」と考えた二種類の人たちが出てきます。民数記13章の記事は、その例を示す典型的な箇所です。モーセは約束の地、カナンを探るために、12部族から一人ずつを任命しました。彼ら12人の偵察隊は40日間、その地をさぐりました。そして、大きなぶどうを枝ごと二人で担いできました。ざくろやいちじくも切って持って来ました。彼らはカディシュという荒野で待っていたイスラエルの人たちに告げました。くだものを見せながら、「そこにはまことに乳と蜜が流れている豊かな地です」と言いました。ところが、彼らの中の10人はこう言いました。民数記1328-31「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」カレブは「必ずできる」と主張しました。後から、ヌンの子ヨシュアも「できる。攻め上ろう」と主張しました。ところが、他の10人は、ますます否定的なことを言いました。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」ご丁寧にも、彼らが「自分たちをどのように見たか」まで、想像して言いました。「自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と言っています。神の民である自分たちが「ぴょんぴょん跳ねるいなごである」とたとえました。人々はどちらの報告を信じたでしょう?2人の「できる」という人たちの報告でしょうか?それとも10人の「できない」という報告でしょうか?残念ですが、否定的な人の考えの方が感染力、伝染力があるのです。

 民数記14章にその続きが書かれています。民数記141-4全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」何と言う不信仰でしょう。モーセは彼らを制することができず、ただ全会衆の前でひれ伏すだけでした。ところが、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いてこう主張しました。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記147-9)。ヨシュアとカレブの二人は「できる。攻め上ろう」と主張しました。なぜなら、それは主の約束であり、主がともにおられるからです。二人は巨人を見たのではなく、彼らの上におられる偉大なる主を見ました。だから「彼らは私たちのえじきとなるのだ」と言っています。彼らの積極的な考えは、神の約束に裏打ちされていました。主は人々の不信仰に怒り、「この人たちは荒野で40年間さまよって死ぬ」と言われました。約束の地を悪く言いふらした10人は、疫病に打たれて死にました。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブだけが生き残りました。

 私たちはこのような旧約聖書の出来事を教訓として受け止めなければなりません。彼らはチャンスを失っただけではなく、40年間荒野をさまよって死ぬことになりました。約束の地に入れたのは、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブだけです。あとは、当時、20才未満の人たちだけです。古い世代が滅び、次の新しい世代だけが約束の地に入ることができました。このところから、神さまの約束に土台した「積極的な考えの力」がどれほど大切かを知ることができます。もちろん、私たちはやみくもに「できる」「できる」と言えば何でも思い通りになるということではありません。また、神さまの約束がはっきりと分かるときもあれば、よく分からないときもあります。でも、どちらにしても積極的な考えを持ち、主にあって「できる」と考えることです。そうすれば道が開かれます。不思議なことに、私たちは不可能な出来事にでくわすと「できる」か「できない」かのどちらかを選択しなければなりません。常識的な判断や経験で、あるいは失敗を恐れて「できない」と言うでしょう。しかし、不可能と思えるような状況でも「できる」と考えるとどうでしょう?不思議にアイディアが浮かんできます。「できない」と考えるとすべてのアイディアがストップします。しかし、「できる」と考えると、いろんな選択肢、解決策、アイディアが次々と浮かんできます。これは、信仰を持っている、持っていない関係ありません。この世の人たちでも、大きな発見や発明、大事業で成功する人は、すべて「できる」と考える人たちだからです。

 『積極的な考え方で成功する』という本を書いたロバート・シュラー牧師がおります。彼は全面ガラス張りの「クリスタル・カセイドラル」を建てた人として有名であり、献堂式のときノーマン・ピール博士を招待しました。ロバート・シュラーがこの本の中でこのように述べておられます。「私は何も試みないで成功するよりも、むしろ何か偉大なことをして失敗したほうがよい!」「目標を持たないことは、目標に到達しないことよりももっと懸念すべきことである。」「一つの扉が閉じるたびに、他の扉が開かれる。」「偉大なアイディアはすぐれた人々を引きつける。」「神のために偉大なことを試みなさい。そして神から偉大なことを期待しなさい。」最後のことばは、「近代海外宣教の父」として知られるウィリアム・ケアリーのことばです。彼は教職者ではなく靴の職人で一般信徒でした。当時、ヨーロッパ中が福音化され「海外宣教」という考えはありませんでした。イギリスがインドを植民地化していましたが、原住民は救いの対象ではないと考えられていたのです。ところが、ウィリアム・ケアリーが「インドに宣教に行かせてください」と志願しました。教会は「馬鹿なことはやめろ」と全くサポートしませんでした。ある伝記によると、「十年間、彼は、冷笑とあざけり、遅鈍で無関心という最悪の敵意の矢面に立った」と書かれています。インドには夫の火葬の薪の上で、未亡人を焼き殺すというサティという残酷な風習がありました。33年の間、残酷な習慣を根絶することが彼に求められた改革の1つでした。少なくとも、7万人のベンガル女性が、生きたまま焼き殺されてきたからです。彼は異教の風習と戦いながら宣教を進め、やっとのことで彼の成果が認められました。やがて、イギリス・バプテスト伝道会社やロンドン宣教会が設立されました。ウィリアム・ケアリーのことばをもう一度ご紹介します。「神のために偉大なことを試みなさい。そして神から偉大なことを期待しなさい。」

2.火を燃え立たせる

ヨシュアが新しい世代のイスラエルの先頭に立ってカナンに攻め上りました。あれから40年過ぎました。ヨルダン川を渡り、エリコを攻め落とし、次々と領土を拡大していきました。ヨシュア記131ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」そして、主はそれらの地名を次々とあげました。そのとき、カレブがヨシュアにこのようなことをお願いしました。ヨシュア1410-12 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」ヨシュアも何歳か分かりませんが年を取っていました。カレブは85歳であるとはっきり書かれています。85歳と言えば、隠居して、盆栽でもいじっていても良い年です。ところが、カレブにはやり残した仕事がありました。かつて、人々は巨人アナク人と城壁の町々を恐れて戦いを断念しました。カレブはあえて、困難な場所を求めました。「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください」と願い出ました。何と言う、前向きの生き方、なんという積極的な考えの持ち主でしょうか?彼は60年前の信仰の火を消していなかったということです。今、再び、信仰の火を燃え立たせて、困難なことを求めました。サムエル・ウルマンという人の詩です。「霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ悲嘆の氷にとざされるとき20歳だろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり80歳であろうと人は青春の中にいる。」

 私たちは年を重ねると考え方が保守的になり、どうしても「守り」に入ります。しかし、現状維持であるなら、衰退していくばかりです。日野原重明氏は召される105歳まで現役でした。19953月、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起きました。83歳の日野原氏が陣頭指揮を執り、聖路加国際病院を開放し、被害者640名の治療に当たりました。ウェキペディアにこう書いてありました。「晩年の日野原は100歳を超えてスケジュールは23年先まで一杯という多忙な日々を送っていた。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたという。命の続く限り現場に立ち続けるという信念をあくまで貫いており、生前には少なくとも110歳まで現役を続けることを目標にしていると語るほどであった。」まさしく、超人であります。私は早朝、30分のウォーキング後に、ディボーションをします。その時、必ず読むのは、ジョエル・オスティーンの本です。この説教の準備のとき読んでいた本が2冊ありました。Wake up to hopeYou can, you will.です。You can, you will.7章に分けられています。すばらしいので題名だけをご紹介します。第一章「目の前のビジョンを保ち続けよ」、第二章「あなたのレースを走れ」、第三章「良いことを期待せよ」、第四章「可能性思考を持て」、第五章「すぐれたことにコミットせよ」、第六章「成長し続けなさい」、第七章「他の人に仕えよ」です。彼の本を毎朝、読んでいるので「ぐぐぐー」と力が与えられます。どの本か忘れましたが、フランク・ロイド・ライトのことを書いていました。彼はアメリカの建築家であり、日本の帝国ホテルや自由学園も設計した人物です。彼が生涯の終わりにさしかったとき、一人の記者が彼に尋ねました。「あなたがデザインされた沢山の美しい建造物で、最も気に入っているものはどれですか?」間髪入れず、フランク・ロイド・ライトがこう答えました。「次の作品だよ」。ジョエル・オスティーンは「ライトは、前に向かって継続的に体を伸ばすことの大切さを理解していました。彼は過去の成功に単純に満足しなかったのです。世界全体が、あなたの次の冒険を待っている」と書いていました。エントロピーの法則は「熱いものはさめる」「秩序から無秩序へ」であります。私たちはたまっていたら、次第に衰え、情熱も冷めて行きます。しかし、クリスチャンは死からよみがえられたキリストの命を有しているではありませんか。それは聖霊の力として今も私たちに臨んでいる、神さまからの無限の力です。

 パウロが激務のために弱っているテモテにこう勧めています。Ⅱテモテ16-7「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」「再び燃え立たせる」は英語の聖書で、kindle afreshです。Kindleというのは、「熱などを燃え立たせる」という意味です。また、他の聖書はstir up「あおる、かきまぜる」というふうにも訳されています。昔は、かまどでご飯を炊いたり、七輪でおさかなを焼いたりしました。しばらくそのままにしておくと、火が弱ってきます。そうすると、火箸で燃えている炭をかきまぜます。灰が落ちて、酸素が行き渡るので、再び燃えます。テモテは按手によって与えられた神の賜物がありました。具体的にそれが何なのか分かりませんが、聖霊による賜物であります。「油注ぎ」と言っても良いかもしれません。でも、長年の伝道牧会で、疲れて弱っていたのでしょう。気落ちして、おくびょうになっていたのかもしれません。だから、パウロは神の賜物を再び燃え立させるように注意しています。まことに残念ですが、リバイバルの火は消えてしまいます。火を消す人というのは、「それはおかしい、聖霊の働きではない」と非難する人たちです。やがて、聖霊の力よりも、人間の品性とか神学を強調するようになります。確かにリバイバルは聖霊の偉大な力と混沌(カオス)が一緒にやってきます。しかし、教会は愚かにも、小さな間違いや行き過ぎばかり注目して、聖霊の偉大な力を捨ててしまうのです。リバイバルは安定期に入っているようですが、それは衰退であります。すると神さまは別のリバイバルをどこからか起こして下さるのです。神さまは幼子のように神さまに求める信仰者を求めています。神学でガチガチの人を用いません。なぜなら、神さまは私たちの頭脳よりもはるかに大きいお方だからです。J.B.フィリップスは『あなたの神は小さすぎる』という本を書いています。あなたの神は小さすぎるのではないでしょうか?

 私はもうすぐ65歳になります。「3年で100名礼拝」というのがいまだ実現していません。「あれだけ『神にはできる』と積極的信仰でやってきたのに、さっぱり証になっていないじゃないか」と言われたなら、どこかに隠れるしかありません。今、思えば、韓国のチョー・ヨンギ師のような大教会を目指してきました。「夢と信仰を持てば必ずできる」というチョー・ヨンギ師がおっしゃることをずーっと信じて来ました。チョー師は最大70万人の教会まで上り詰めました。やはりそれは偉大なことであると思います。先生を批判する人ももちろんいますが、偉大な人の銅像は立っても、批判する人の銅像は立ちません。批判する人、否定的な人は必ずいるものです。でも、そういう人たちは「偉大な神さまの働き」を実現することはできません。まさしく、10人の偵察隊であり、イスラエルの第一世代の人たちです。私は人が何と言おうと、「神にはできる」「夢と信仰を持てば必ずできる」と、最後の一息まで言い続けたいと思います。2年くらい前になりますが、80歳を超えた、チョー・ヨンギ師がサントリー・ホールで開かれた特別集会で話されました。普段はキリスト教のために決して用いられない場所です。チョー・ヨンギ師はパーキンソン病のため歩くときは介助が必要でした。しかし、チョー師が講壇に立って、話し始めたら、昔の力がよみがえってきました。チョー師は私たちを激励するつもりでこう言われました。「もし、私が今から教会開拓をはじめたなら、1年で1万人の教会を作ることができます」。私は胸が打たれました。80歳を過ぎているのに、「なんという霊力、なんという情熱だろう」と感銘しました。昔、私はホームページに尊敬する人の中に、チョー・ヨンギ師の名前をあげていました。そうしたら、ある団体から講師として招待されていたのに、御断りが来ました。私がチョー・ヨンギ師を尊敬しているということが理由だったそうです。「なんと愚かな団体だろう」と悲しくなりました。これが日本の教会の現状です。「ちょっと神学が違う」「ちょっと立場が違う」それで、プイであります。

 今も、「積極的考え方の力」を否定する教会やクリスチャンはたくさんいます。もちろん、積極的に考えたら何でもできるとか言っているわけではありません。しかし、聖書の神さまは、イエス様は積極的考え方の持ち主であったことは間違いありません。イエス様はマルコ福音書でこのように言われました。マルコ1027「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」、マルコ1122「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」私たちは現実から神さまを見るのではなく、イエス様のことばからものごとを見るのです。そうすれば、エントロピーの法則に打ち勝ち、霊に燃え、主に仕えることができるのです。

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2018年6月22日 (金)

うつを理解する 詩篇42:1-5 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.6.17

 不景気で社会的な抑圧が強くなるとうつになる人が増えると言われています。厚生労働省によりますと、うつ病など気分障害で医療機関を受診している人は約112万人(2014年)いるそうです。でも、どこからがうつ病でどこからが、うつ的な気分なのか線引きが難しいと思います。多くの人たちはうつ的な気分をなんとか克服しながら生きています。「信仰があるから大丈夫」ということはありません。なぜなら、私たちは不完全な感情と肉体を持っているからです。私は専門家でも医者もありませんが、聖書的な立場を踏まえて「うつ」を理解したいと思います。

1.聖書的な理解

 欽定訳聖書、あるいは初期の聖書には「うつになる」とか「うつ」ということばは全く発見できません。うつdepressionは、19世紀の中ごろから広く一般に使用されるようになったようです。もちろん、うつの症状そのもの「気分の落ち込み」として、はるか昔からあったことでしょう。「うつ」と言うと、すぐ「うつ病」を連想するかもしれませんが、私たちは「気分の落ち込み」をしょっちゅう体験しているのではないでしょうか?第一のポイントでは、どんな環境や状況が人を「うつ」にしてしまうのでしょう?聖書の人物たちを取り上げながら学びたいと思います。今回は、ブレンダ・ポインセット著『うつになった聖徒たち』という本を参考にしました。

第一は負いきれない重荷、あるいは使命から来るものです。生きるために、あるいは立場上、自分をひっぱってでもやらなければならない仕事や任務があります。その代表人物がモーセです。彼は100万人の以上の民をエジプトから脱出させました。ところが、彼らは荒野で「水が飲みたい。飢えて死にそうだ。エジプトには墓がないので、私たちをここに連れて来て、この荒野で、死なせるのですか?」と不平をもらしました。モーセは神さまに何と言ったでしょう。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。… 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。…私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」(民数記11章抜粋)。モーセは神さまに不満をぶっつけました。彼の正直な祈りの中に、彼が抱えていた「うつ」の症状を読み取ることができます。モーセは、正直に自分のありのままの感情を神さまに告げました。すると神さまは重荷を分かち合うために70人の長老たちを与えてくれました。主は天からマナを降らせ、うずらを与え、水を与えてくれました。モーセのように、神さまに心を開いて、頭にあること、心にあることを打ち明けることが重要です。

第二は働き過ぎから来る、燃え尽きと「うつ」です。その代表は預言者エリヤです。エリヤはアハブ王の前に立って「偶像礼拝をやめないなら、雨も露も降らないぞ!」と警告しました。3年も雨が降らないので、イスラエルは大干ばつに襲われました。エリヤは再び、王のところへ行き、バアルの預言者たちと勝負を持ちかけました。それぞれ、祭壇を築き、「天から火が降った方がまことの神である」としました。結局、エリヤの祭壇に火が降りました。勝利したエリヤは450人のバアルの預言者たちを剣で切り殺しました。それから雨が降るように七度祈ると、大雨が降りました。エリヤは、これでアハブ王がまことの神に立ち返ると思いました。ところが、妃のイゼベルに脅され、王の前を立ち去りました。エリヤは荒野に逃れてこう言いました。「主よ。もう十分です。私のいのちを取って下さい。私は先祖たちにまさっていませんから」(Ⅰ列王記195)。一人で450人のバアルの預言者を倒した同じエリヤだとは思えません。彼は完全に燃え尽きとうつになりました。大きなプロジェクトを成し遂げた人たちが燃え尽きて、うつになったということを良く聞きます。主がエリヤのためにしたことは、「うつ」になった人の癒しになります。エリヤが回復するためには、睡眠、食物、飲み物だけでは不十分でした。運動とひとりになることが必要でした。エリヤは4040夜かけて神の山ホレブに向かいました。ホレブの洞穴で、主に訴えました。大風や地震や火ではなく、かすかな細い主の御声が、エリヤの癒しになりました。

 第三は喪失からくるうつです。ヨブはすべての財産と10人の子どもたちを一瞬にして失いました。さらには肉体に腫物が生じて、かゆくてたまりませんでした。妻は「神を呪って死になさい」と言うし、友人たちはよってたかって「お前に罪があるからだ」と言います。ヨブは1年以上、喪失の悲しみと病を負いつつ、友人たちと議論を交わしました。ヨブは灰をかぶりながら自分が生まれた日を呪いました。ヨブはうつのために体調に変化が表われました。食欲が減退し、眠ることができなくなりました。ヨブ324-26「実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私のうめき声は水のようにあふれ出る。私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」突然、主があらしの中からヨブに語られました。ヨブが癒されたのは、何故そうなったのか「理由を知る」のをやめた時からでした。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福されました。いつか訪れる祝福の日々が必ずあるということです。

 『うつになった聖徒たち』の著者ブレンダ・ポインセットの証しです。「私はクリスチャンですが、今まで幾度もうつを経験しています。あるときは、あまりにも落ち込みがひどくて、これ以上歩みを進めるのをやめたくなったこともあります。つまり、生きることを、そして神に仕えることをあきらめてしまいたくなったのです。私は谷の奥底におり、そこから見上げる山に登るのは、あまりにも険しくて無理なように感じました。」彼女は、日々のディボーションを欠かさず、聖書をよく学び、たゆみなく祈り、熱心にキリストに従っていました。それを聞いた人たちは「なぜ、そんなあなたがうつになったりするの?」と言いました。強い人、信仰者がうつにならないのでしょうか?もし、うつになったら不名誉で恥ずかしいことなのでしょうか?モーセ、エリヤ、ヨブ、エレミヤ、ナオミ、ヨナ、パウロ、詩篇42篇の作者みんなうつを経験しました。彼らは絶望という人生の谷間のような日々を過ごした人たちです。でも、彼らは神によって用いられた勇気ある人物でもありました。聖書を読むと、彼らが私たちの仲間であることが分かります。

2.心理学的な理解

 第二のポンイントは心理学の立場から「うつ」を理解するということです。今回は岡田尊司(たかし)氏が書いた『うつと気分障害』が大変参考になりました。この本の書き出しがとても興味深いです。「うつ」は心の風邪といわれるほど、誰にでも起こりうるものである。気分障害のうち、いわゆる「うつ」の中でも、重症なものである大うつ病だけをとってみても、生涯において一度は大うつ病に罹患(りかん)する人の割合は、全人口の15%にも上る。…ということです。うつの症状が現れる気分障害には大きく分けて4種類あります。第一は大うつ病(単極性うつ病major depressive disorder)です。大うつ病もいくつか分かれるようですが、「大」というくらいですから、症状が重いということでしょう。昔から律儀で、几帳面で、責任感の強い性格の人がかかりやすいとされてきました。第二は小うつ病で、少々軽いものです。社会学者マックス・ウェーバーも、うつで苦しんだそうです。彼は33歳のとき、新進気鋭の学者で、大学教授であり、教育者また政治家として上昇の最中にありました。しかし、引っ越しと父親の死がきっかけでうつ病になり、39歳で大学教授を引退しました。ご存じかもしれませんが、俳優の竹脇無我という人もうつ病で苦しみました。ヘミング・ウェイが自殺したのはうつ病の薬が合わなかったせいであると言われています。第三は双極性障害(躁うつ病bipolar disorder)です。文字通り、躁とうつを極端に繰り返すタイプです。躁になったときに対人トラブル、浪費や借金なとのトラブルを起こします。躁状態が終わったとき、ものすごい罪悪感に襲われます。作家の北杜夫がその病気で、躁状態のときは朝早くから起きて、慌ただしく株式の売買を繰り返し、うつ状態のときは、夕方まで寝ていたそうです。第四は双極性Ⅱ型障害です。軽躁とうつを繰り返すタイプです。いわゆる「うつ」とは違うということが分かったのが、1970年代以降です。この障害の生涯発生率は、511%であり、きわめて身近な疾病だそうです。他には、季節性のものがあります。

 
さて、こういう病気の治療法ですが、古くはフロイトではじまった精神分析です。元来、過敏で不安を感じやすい性格の持ち主が、内面に強い葛藤を抱えることにより心身の異常を引き起こします。抑圧した葛藤が、症状となって「神経症」として現れると考えました。もう一つはフロイトと同時代、クレペリンという人が体の中に何かがあると考えました。それがやがて、脳内の伝達物質が何かの理由で多くなったり、足りなくなっていると考えるようになりました。セロトニンなどの薬物投与が「うつ」に効果があることが分かりました。しかし、双極性障害(躁うつ病)の人には、全く別の薬でなければならないことが分かりました。現在、精神科とか心療内科に行くと、ほとんどが薬物療法です。患者の症状を聞きながら、薬の調合を変えていくというものです。統合失調症の場合もそうですが、薬が強すぎると、いつもぼーっとして過ごすことになります。さらには正常な脳細胞まで破壊してしまいます。最近では、薬で少し安定させた後、「認知行動療法」というカウンセリングが「うつ」に対して、効果を発揮しているそうです。その人のネガティブな思考を変えることによって、感情が変えられていくということです。

 では、どうしてうつになるのでしょう?心理学的な見地から少し考えたいと思います。さきほどの、岡田尊司氏の本から少し引用したいと思います。女性がうつ病になる生涯有病率は、4分の1を超え、男性のおよそ2倍です。女性は思春期から更年期までの生殖年齢において、とりわけうつ病になりやすい。また、軽躁とうつを繰り返す「双極Ⅱ型障害」や、気分の起伏と強い自己否定を特徴とする「境界性パーソナリティ」も女性に多い。女性ホルモンは、気分や意欲に関係し、うつや気分障害の発症に絡んでいる。女性がうつになりやすい最も危険な時期は、女性ホルモンが、急激に変動する時期、つまり、お産をした直後の産しょく期と、閉経に向かう更年期である。このとき、多くの女性が、多少なりとも精神的に不安定になりやすい。周囲の支えが重要になる。一方、男性ホルモンの分泌が低下してくる中高年期に男性も危険にさらされる。この時期(男性更年期)は、男性にとって体力も低下する一方で、責任や重圧がさまざまな意味でのしかかってきやすく、上手に防御を行わないと、うつ病に取り憑かれやすい。『生まれ出ずる悩み』や『或る女』などの優れた作品で知られる作家の有島武郎は、何度か重い憂鬱症に苦しんだことで知られている。生真面目で、潔癖で、几帳面な有島の性格は、まさにうつを引きつけやすいメランコリー親和型性格であった。…作家として行き詰まった彼の結末は、不倫と心中であった。

 心理学的な見地から癒しを考えたいと思います。第一は、社会的なつながりが乏しく、社会的な支えを受けにくい人は、うつ病にかかりやすいということです。今は、一人で過ごすことが当たり前のライフスタイルになっています。家父長的で、共同体的な人間関係を基本とするノルウェーでは自殺が少なく、核家族化し個人の経済的な自立を優先するデンマークは自殺が多いそうです。教会は神の家族という共同体あり、適度な関係を持つことができます。「ちょっと変わっている」という人も、主にあって受け入れることができたら癒しと回復につながるでしょう。第二は、落ち込むこともあるという心構えです。人々は、常に気分が下がることを警戒し、元気に強気に行動することを重視します。たとえ、相手が親しい友人であっても、弱みや暗い面を見せることは躊躇してしまうでしょう。落ち込みそうになれば、カラオケで歌ったり、居酒屋で盛り上がったり、時には薬物の力を借りて、気分を持ち上げようとします。しかし、挫折や失敗、不完全さも人生にはあることを認めることが重要です。第三は、焦らず十分な休養を取るということです。新渡戸稲造は、35歳のときに、うつになり、黒板に文字を書くことすら満足にできなくなってしまいました。その時、札幌農学校の教授をはじめ要職をいくつも抱えていましたが、そのすべてを辞して、二年余りの療養生活を送りました。マックス・ウェーバーは33歳の時に、うつになり、それから回復まで7年にわたる闘病生活を経験しました。満足な薬物療法もなかった時代でしたが、二人は完全に回復し、病気になる以前にも増して、華々しい活躍をしました。ただし、二人とも、病気になる前と後では、ライフスタイルを大きく変えています。また、二人の回復について共通していることは、十分な療養期間を持つことができたこと、元の仕事にしがみつかなかったこと、家族の愛情深い支えに恵まれたことです。

3.うつからの解放

 私たちはたとえうつになっても、どん底から神さまに呼びかけることが必要です。詩篇42篇はそのことを教えてくれます。まず、彼は第一に自分の状況を神さまに知らせました。自分の思いを神さまに注ぎ出していると言った方が良いかもしれません。詩篇421-3「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。」聖書を調べてみると、彼は琴の演奏者で、歌手であり音楽家であるコラの一族のひとりでした。ところが、彼らはバビロンに捕え移され、現地の人たちからあざけられていました。「おまえの神はどこにいるのか」と言われました。第二に、彼は気分が落ち込んでいますが、自分の魂に語りかけています。詩篇425 「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」同じようなことばが、6節、11節、そして435節にもあります。ちなみに詩篇4243篇はセットの歌です。自分の魂に語るということがとても重要です。そして、「神を待ち望め」と励ましています。第三は、意志をふるい起こして、神さまに誓っているということです。「私はなおも神をほめたたえる」3度も告白しています。少し前に、魂は思いと感情と意志の3つでできていると申し上げました。うつというのは感情がダメになっている状態です。もしかしたら、脳もダメになっているかもしれません。そのため私たちは思いと意志を用いなければなりません。クリスチャンは霊が生きていますので、霊が魂にあふれ出てくることを期待すべきです。結果的にそれは信仰となります。

 私たちは肉体、魂、そして霊でできています。うつはこれら3つが関係していると考えられます。まず、肉体ですが、私たちの肉体は土の器でできています。だから、弱った時はゆっくり休む必要があります。マックス・ウェーバーは現職を続けようと、発症してから2年間も頑張り続け、結局うまくいかず、辞職することになりました。一方、新渡戸稲造は医者から「長引きそうだ」と言われ、ただちに、すべての職を退いて、完全な療養生活に入りました。その思いっきりの良さが、早い回復をもたらしたということです。また、脳内の伝達物質の異状という医学者の言うことを無視できません。しかし、それは結果的にそうなったのであって、原因究明には至っていません。薬の力を借りることも必要ですが、その人のライフスタイル、その人の考え方を変えなければなりません。ですから、次は魂のことになります。魂というギリシャ語からサイコロジー(心理学)が生まれました。心理学者たちは「ボジティブな感情や姿勢が、心身の健康に良い影響を及ぼし、ストレスに対する耐性を高める」と言っています。また、うつに対して、認知行動療法が大変効果があることが分かってきました。最大の原因は、その人がゆがんだ考え方、間違った認知をしているからです。李光雨師は「うつとは、抑圧された怒り(心の叫び)が引き起こす束縛されたライフスタイルです。抑圧された怒りが、自己の中で行き来して、最終的には自分自身に向かっていく力になるのです。怒りを十字架に持って行って、新しい世界観をいただきましょう。」と教えています。ローマ122「心の一新(変革)によって自分を変えなさい」とあります。最後は霊でありますが、いのちの源なるお方は神であり、主イエス・キリストです。イエス様は「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者はたとえ死んでもいきるのです」(ヨハネ1125と言われました。ですから、私たちは神のみことばを読み、いのちの源なるお方とたえず交わり、神のいのちと健康が魂と肉体に流れ出すように祈り求める必要があります。

 心理学者たちはボランティア活動をすることを勧めています。ジョエル・オスティーンの妹、リサが夫が突然、家を出てからうつになりました。彼女は自分の本(You are made for More)でこのように証しています。「私は離婚後、壊れてしまって、自分自身の必要を見ることができなくなりました。自分は全く傷ついていると感じました。ストレスの満ちた日々、私はひどい不安と意気消沈で苦しみました。私の体は私の思いと感情に影響を及ぼし始めました。私は自分が消耗し、疲労困憊していると感じました。私は食べることもできず体重が減りました。十分に休むこともできませんでした。私はすべてのことに衰弱し、楽観主義であったかつての私とは全く違っていました。私が元気であったときは、拒絶の思いや心の傷、失望落胆を払いのけました。でも、今は感情とエネルギの不足によって拷問のような苦しみを味わっています。それらの思いが私を混乱させ、自分を他の人たちから遠ざけてしまいます。私は信じられないほど悲しんでいました。」…このようなうつの状態が半年くらい続きました。ところがある日、教会の姉妹がやって来てこう言いました。「リサ、私は傷ついているの。私も離婚しかけているの。私のために祈ってくれる?」リアの最初の思いは「冗談を言っているの?私こそ、だれかから祈ってもらいのよ。私は適任じゃないと感じるわ」でした。ところが、祈っていると神さまのご計画がそこにあるように思えてきました。神さまは、自分自身の傷や痛みに焦点を当てて行き詰まるのではなく、他の人を助けることに焦点を当てて、その人たちを助けるように仕向けているようでした。リサは人生の方向転換をし始めました。それは、テキサスの高速道路を走っている18輪のトラックのようでした。その大型トラックがコーナーを曲がるために減速し、曲がるための十分なスペースを捜しているのと似ていました。もし、減速せずに曲がるなら、トラックは転倒し大惨事になります。ところが、逆も真なりで、彼女が困っている人を助け始めたときから、彼女のうつが治り始めたのです。彼女は他の人の祈りをするための新しい冒険を発見しました。彼女は自分の時間を彼らのために与え、彼らを私の翼の下にかくまい、傷と痛みの中にある彼らを、まるで自分のことのように愛しました。彼女は彼らが感じている痛みを理解し、彼らの混乱と傷がよく分かりました。長い話を短くすると、リサは自分が教師として召されていることを発見しました。そして、小グループで大会衆の前で教える人になったのです。うつになるのも、良いことがあるのです。マイナスも神さまのご計画の一つだということです。ころんでもただでは起きない。なぜなら、イエス様ご自身が死からよみがえられたからです。

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2018年6月15日 (金)

人間関係の整理整頓 ヘブル12:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.6.17

 先週は「バウンダリー」についてお話ししました。きょうは、その適用編であります。つまり、「人間関係をどうするか」ということです。新松戸教会の清澤先生が「バウンダリー」のクラスを水道橋で開いていますが、一般の人たちが学びに来ているそうです。丸屋真也師のカウンセリングは、3か月待ちだそうです。それだけ人間関係に関するニーズが多いということでしょう。「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てる」ということは、人間関係にも言えることです。そうしないと、私たちは神さまから与えられた信仰のレースを全うすることができないからです。

 

1.人間関係の優先順位

 マタイ633 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」このみことばは、私たちの人間関係にも言えることだと思います。バウンダリーの概念で、一番の中心は神さまとの関係です。ウェンコディーロは「聖なる囲い」と言いました。私たちは朝起きたら、聖書を読んで、ディボーションを持つべきです。神さまとの交わりを何よりも大切にすべきです。私たちはこの方だけを崇め、この方だけに忠誠を誓います。この中心部分にどんな人も入ることはできません。旧約聖書では神さま以外のものを礼拝することを偶像礼拝と言いました。偶像は英語でアイドルと言いますが、若者たちはアイドルを慕って、この日曜日もどこかのコンサートに行っているかもしれません。現代人はメール、ツイッター、ラインを用いて、常にだれかとつながっています。電車はもちろん、自転車に乗りながら、歩きながら、お風呂に入りながら携帯をいじくっています。もし、10分過ぎても返事を返さないなら、「絶交だ」と言われるかもしれません。それが怖いために、携帯を肌身離さず身に着けている人もいます。何度も言いますが、私たちが最も慕うべきお方は主イエス・キリストであり、この方が私たちの救い主、助け主、王の王なのです。人の心は変わりますが、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、変わることがありません(ヘブル138)。私たちは人間関係においても、優先順位が必要です。イエス様も群衆、70人、12人、3人、1人とサークルを小さくしていました。あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。もし、あなたの大切な時間とエネルギーをだれかから吸い取られているならば、それは大問題です。

 日本人は人間関係が下手だと言われています。なぜでしょう?1つは文化的なものです。日本人は内と外、本音と建て前で生きて来ました。内、つまり家族や親しい人には本音で語ります。しかし、外、つまり近所、職場、学校ではよそよそしく、丁寧になります。土居健郎(たけお)という人は、『甘えの構造』を書きました。彼は「日本社会において人々の心性の基本にある『甘え』『甘えさせる』人間関係が潤滑油となって集団としてのまとまりが保たれ、発展が支えられてきた」と述べています。私は彼の本を読んだわけではありませんが、日本人は内、つまり親しい家族や親しい人には遠慮会釈なく甘えてしまうのではないでしょうか?つまり、「内と外」という考え方は、人間関係にも言えることで、「好きな人か嫌いな人か」、「敵か味方か」、白黒はっきり分けてしまいます。そうすると、人間関係がとても単純になりすぎて、どっぷり甘えるか、関係を全く遮断するか2つに1つになります。パーソナル障害を持った人は、これが強度になり、大変生きづらい人生を送ることになります。つまり、人のせいではなくて、自分のゆがんだ考えによって苦しくなっていることです。ジョエル・オスティーンは周りの人を2種類ではなく、4種類に分けるように勧めています。第一は自分を無条件で受け入れてくれる人、あるいはサポートしてくれる人です。第二は私を受け入れてくれるけれど、こっちが気を使わないと去る人です。第三は私を受け入れてくれない人であり、こっちが気を使う人です。第四は私に批判的で、苦しみを与える人です。ジョエル・オスティーンはあるカップルの面倒をよく見ました。お話しを聞き、できることは何でもしました。しかし、二人はいつも否定的でした。やがて、遠くへ引っ越しましたが、そこでジョエル・オスティーンのことを批判しているという噂を聞きました。第四の人は、こっちがいくら親切にしても、離れて行く人です。そういう人は、追いかけてはいけないということです。つまり、好きか嫌いか、味方か敵か、2つに1つではなく、それぞれ中間帯を設けるということです。

 あなたにまとわりつく人で、常に愚痴や悩みごとをぶちまける人はいませんか?緊急を装い、「車を貸してくれ」「お金を貸してくれ」「手を貸してくれ」と頼ってくる人はいませんか?たまには良いかもしれませんが、常に緊急事態では困ります。なぜなら、あなたは「レスキュー部隊」ではありません。あなたには果たすべき神さまの目的、使命があるはずです。ですから、あなたは「ノー」とはっきり言うべきです。「いや、そんなことをしたら嫌われます」と言うかもしれません。でも、その人は真の友達ではありません。先週、学んだ「蛭」かもしれません。あなたの大切な時間とエネルギーを吸い取られているのではないでしょうか?では、なぜ、あなたは「ノー」と言えないのでしょうか?実は人のお世話を良くする人には、「人から認められたい」「人から必要とされたい」という願望があるからです。もちろん、それは悪いことではありません。でも、自分の欠けた穴を埋めるために、良いことをするのは間違っています。それは、人のためではなく、自分のためにやっているのです。朝5時過ぎに、野良猫に餌をあげているおばさんを見ることがありますが、「自分が彼らから必要とされている」と満足しているのかもしれません。いいのです。嫌われても。いいのです。「冷たい」と言われても。なぜでしょう?あなたにはあなたの走るべきレースがあるからです。イエス様は「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とおっしゃいました。あなたは人々から認められなくても、神さまが認めてくれたらそれで良いのです。ジョエル・オスティーンは「神さまとあなたで大多数majority」と言っています。父なる神さまは「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ111とあなたを既に是認しておられるからです。人からの是認を求めるのは偶像崇拝です。人からの是認は神さまを第一にしていくときに実として与えられるものです。

2.心の傷から来る障害

人間関係が築きにくい人というものが必ずいるものです。たとえば、急に泣き出す人や、怒り出す人がいます。そんなつもりで言ったんじゃないのに、曲げて捉えます。その人の頼みごとをきかないとプイとされるか、罪責感が与えられる。もし、言うことを聞かなければ、後で大変なことになる。周りの人たちは、腫物に触るように気を使います。やがて、そういう人にはだれも近づきたくなくなります。まず、客観的に、どうしてそのような人が私たちの周りに存在するのか考えてみたいと思います。一口で言うなら、そういう人は心に深い傷がある人です。あることを言われたり、されたりすると、癒されていない傷を刺激するのです。だから、過剰に反応し、怒ったり、悲しんだり、落ち込んだりするのです。人間だれしもそういう傾向はあります。でも、心の傷があまりにも大きく、それが癒されていない場合は、人間関係を築くのがとても困難になります。1970年代アメリカで「境界性パーソナリティ障害」という病名が付けられました。岡田尊司(たかし)という人がその手の本をたくさん書いています。彼のある本の帯に「自傷行為、自殺企画、対人依存、うつ、過食…周囲を振り回してしまう『心』の問題にどう向き合い、克服するか」と書いてありました。境界性borderlineというのは、精神病と神経症の境界という意味です。私は、いわゆる「心の傷」の代表的なものが、これではないかと思います。もし、相手があるいは自分が、「境界性パーソナリティ障害」の傾向があると気付いたなら、とても対処しやすく、癒されるスピードも速くなるでしょう。

 では、どうしてそのような病気になってしまうのでしょう?この手の病気は遺伝ではなく、生育史にとても深い関係があります。人がゼロ歳から2歳まで、身に着けなければならないのが「基本的信頼感」です。これはあらゆる人間関係における基礎となるものです。基本的信頼感があると、人生に対して心を開いて接することができます。「自分はこのままで大丈夫、人から受けいらられるのだ」という安心感です。ですから、これを「基本的安心感」と呼んだりします。岡田氏は「基本的安心感は、幼いうちに母親らとの関わりの中で育まれますが、そのとき、十分な安心感や喜び、自己肯定を味わえずに過ごすと、生きることは喜びよりも、不安や苦痛ばかりが大きいものとして、その人の脳に刷り込まれてしまうのです」と言っています。エリヤ・ハウスではこのように習いました。「02歳までの赤ちゃんは、いくらだっこしても十分過ぎるということはない。病気に対する抵抗力がアップし、いつも健康でいられる。しかし、家庭において父親が不在で生まれ育った子ども、もしくはいつも怒っている両親、問題があり、愛情表現が欠けた家庭で育った子ども、なぐられ虐待された子どもは、基本的信頼を持つのが困難である。」岡田氏は「境界性パーソナリティ障害の人は、父親に見捨てられていたり、一緒に暮らしていても、父親の存在感が希薄な傾向がみられます。父親との絆が不安定になっていることも重要な要因だとも考えられます」と言っています。

 では、境界性パーソナリティ障害の人と接しているとどのような気持ちになるのでしょうか?

その人と関わっている時、自分の気持ちをはっきり出せない。正直に自分の気持ちを言ってしまったら、すごい喧嘩になったり、あるいは自分がものすごく傷ついたりするんじゃないか?いつも卵の殻の上を歩いているようで、何か気に食わないことがあると、すごいことになるんじゃないか?そこに触れると、今までの関係が全部壊れてしまったり、曲解されたり、攻撃されたりするんじゃないだろうか?

②その人と関わっていると、いつも何か操られているような、支配されているような、あるいは何か嘘をつかれているような気持ちになる。私がすばらしく完全な人か、あるいは最悪な人かどちらかで、その中間がない。ある時はものすごく優しくて気がきくが、別なときは、同じ人かと思うくらいねたみ深く、とても攻撃的である。そして、どっちが本当なのかと思ってしまう。

 マーク・サンフォード師の奥さんがその障害を乗り越えた人でした。彼はこのようなのことを「感情的な血友病」と呼んでいます。「血友病というのは、血が止まらない状態であり、血液を凝固させる機能が欠如している病気である。同じように、この人は、感情が表れていくときに、その流れを止めることがでない。感情を押しとどめる機能が低下しているか、あるいは欠如しているから。もちろん、感情的な自己コントロールができない。また、自分の感情をことばで表すことができない。あるいは他の人に対して、時間とか、場所の適切な判断とか見解を下すことができない。また、『慰められた』という感じ、あるいは『慰めを受ける』ということが出来ない。たいてい、青年期ぐらいになって、こういう症状が現れて、みんなに分かるようになる。だから、この人の世界と言うのは、社会との関わりにおいて、ものすごいフラストレーションがある。」そのように教えてくださいました。

 では、どうしたら心の傷を持った境界性パーソナリティ障害の人が癒されるのでしょうか?

①ひとことで言うならこの人は「愛着障害」です。見捨てられる不安から相手にしがみついてしまいます。川や海でおぼれている人を助けるというのは大変です。ガッシッとしがみつかれ、助けに行った人も一緒におぼれ死んでしまいます。「へたに近づかない」というのも1つの方法です。でも、キリスト教会においては、その人の安全基地になることができます。具体的には、本人の安全を脅かさない。本人の立場で気持ちを汲む。ルールや道筋を示してあげるということです。

②境界性パーソナリティ障害の人は相手を本当に信じていいのか不安なのです。そのため、困らせ行動や挑発行動によって相手の反応を見ようとします。だから、傷つける言葉や挑発を真に受けないということです。こっちは、「一生懸命にやってあげたのにプライドを傷つけられた。責められては立つ瀬がない」と思うかもしれません。でも、表面の行動ではなく、背後の気持ちを汲んだ冷静な対応が重要だということです。

 幼いときに得られなかった基本的信頼感を完全に取り返すことは不可能です。私たち人間にできることも限界があります。一番重要なことは父なる神さまの無条件の愛を知ることです。主が言われます。「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ434

3.人間関係を整理する

 第二のポイントでは、自分もしくは、接する人が心の傷をもっている場合でした。私たちは医者ではないので、「あの人は境界性パーソナリティ障害だ」と診断を下すことはできません。しかし、「ああ、そういう障害もあるんだ」と分かると、「なんでだろう?」と裁く気持ちがなくなります。でも、大なり小なり、私たちは愛の欠乏症であり、なんとか折り合いをつけながら生きているのではないでしょうか?問題は、愛を人からではなく、神さまからいただくということです。人からいただこうとするので、いろんな問題が起こるのです。聖書が言う愛とは、受けるという愛ではなく、こちらが愛するという愛です。イエス様は「受けるより与える方が幸いである」と言われました。でも、「自分がないのに、愛を与えるのも無理だろう?」という理論もなりたちます。「どれくらい愛されていたらなら、人を愛せるようになるのか?」という答えはありません。きょう、ここで確認したいのは、「聖なる囲い」とか「インナーサークル」です。イエス様は「あなたの隣人を愛しなさい」と言われたのであり、「世界のすべての人たちを愛しなさい」と言われたのではありません。我がままと批判されるかもしれませんが、人間関係の優先順位をつけながら、愛していくということが懸命なことではないでしょうか?何度も言っていますが、イエス様も群衆、70人、12人、3人、1人とサークルを小さくしていました。あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。もし、あなたの大切な時間とエネルギーをだれかから吸い取られているならば、それは大問題です。私たちは神さまから与えられた目的(使命)があります。私たちは神さまから与えられた自分のレースを走るべきなのです。そのために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる必要があるのです。

 ジョエル・オスティーンは「否定的なものを注意深く評価せよevaluate」と言っています。知っているパイロットが「飛行機を飛ばすためには主要な4つの法則がある」と教えてくれたそうです。その4つというのは、揚力lift、推進力thrust、重力weight、引力dragです。これら4つの法則は、人々にもあてはめることができます。第一のグループ、あなたの一日の気分を晴れやかにする揚力を与える人たちです。彼らはあなたを励まして、あなたの気持ちを良くしてくれます。第二の推進力の人たちというのは、あなたにinspire霊感を与えたり、動機付けを与えたり、夢を追い求めてチャレンジするように前に押してくれる人です。第三のグループとはあなたに重力を加える人です。あなたを下に引き下げ、あなたをよりヘビーな気持ちにさせ、否定的に失望落胆にさせるため、自分たちの問題を投げ込んで行きます。最後のグループは、あなたを引きずり回す人たちです。彼らはいつも悲しい歌を歌っています。彼らは穴にはまって動けません。彼らはあなたが励ましてくれて、自分たちの問題を解決してくれて、重荷を運んでくれることを期待しています。私たちが会うすべての人たちはこれらの4つのグループに分けることができます。あなたは、あなたの揚力者と推進力者たちと大半の時間を過ごすべきです。もし、あなたが重力者と引力者とぶらぶら時を過ごしているなら、神さまがあなたを造られた姿になることはできません。あなたは彼らを幸せにする責任はありません。しかし、人生の季節においては、彼らの悩みに耳を傾けたり、健全になるように手助けする必要もあります。しかし、来る日も来る日も、彼らがあなたに否定的なことを言ったり、したりすることを許してはいけません。なぜなら、あなたにはあなたの走るべきレースがあるからです。

 ジョエル・オスティーンは20代前半の頃、パーマ屋さんの若い女性から髪を切ってもらいました。彼女はとても素敵な人でした。優しい心の持ち主でしたが、とても否定的な人でもありました。毎回、私がヘアー・カットに行くと、ずぅと自分の問題を話しました。そのことが来る月も、来る年も続きました。彼女は残業をしても、店主が正当な賃金をくれないと文句を言いました。また彼女は妹が自分の問題の種であると不平をもらしました。彼女は部屋代を払えないとか、お父さんが自分に良くしてくれないと言いました。毎回、私は意気消沈してお店から帰ってきました。ある日、私は彼女にこのように言うべきだと悟りました。「あなたと一緒に私の人生を行くことはできません。私はあなたを愛しています。あなたのためにもお祈りをします。しかし、私は毎月毎月、あなたの重力と引力を負っていたら、自分の運命を全うすることはできません」。ジョエル・オスティーンは人生を変えました。それは難しいことでした。これは、ジョエル・オスティーンのメッセージです。「私は人の感情を傷つけたくありません。しかし、私の課題はあまりにも重要なので、私の価値ある時間を人々が私を引きずり落とさせてはいけないのです。あなたは仕事において変える必要があるかもしれません。どこでだれと遊ぶか、どこでだれと働くか。だれの電話を取るべきか変える必要があるかもしれません。毎晩、夜中の電話で、だれかの悲嘆や悲しい歌を何時間も聞くべきではありません。もう終わりにしましょう。親切で尊敬される人になることは良いことです。でも、それらをあなたの重力にする必要はありません。」アーメン。

 きょうのメッセージは人間関係の整理整頓でした。棚卸inventoryということばをご存じでしょうか?決算や毎月の損益計算などのため、手持ちの商品・原材料・製品などの種類・数量などを調査し、価格を評価することです。このことを人間関係に適用するということです。つまり、それは、あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。イエス様でさえも12人、3人と絞りました。彼らと一緒に時間を過ごし、彼らと一緒に活動しました。ある人は「12人の中にユダがいましたよ」と言うでしょう。でも、それが良いことなのです。イエス様が一晩、祈った結果だったのです。それは、自分の願いではなく、父なる神のみこころを優先させたということです。つまり自分の好みや願いを絶対的なものにするのではなく、神さまの御手を求めるゆとりを持つということです。家内はおそらく私をインナーサークルに入れたくないと思ったでしょう?負けず嫌いの私も「そうだ」と言うでしょう。でも、神さまのみこころに譲歩したら、意外に良かったということもあるのです。神さまのご支配、神さまの御手を認めるインナーサークルが良いと思います。それは閉鎖的なものではなく、冒険と寛容と愛が伴ったものです。より良い神さまからの出会いを期待するオープンなものです。

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2018年6月 8日 (金)

バウンダリー 箴言4:23 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.6.8

 Boundaryは「境界」とか「限界」という意味です。しかし、最近は心理学において、共依存に対する解決法として知られるようになりました。箴言で「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」と言われています。心にはドアがあると思います。ドアの機能は、良いものは入れて、悪いものは排除するということです。何でも構わず入れたら、心の中がダメになります。バウンダリーとは「自分の中に何を入れて、何を排除するのか」、境界線のことです。きょうは「人間関係において」「宝物において」「責任において」の3つの観点から学びたいと思います。

1.人間関係において

 ウェン・コディーロの本に『聖なる囲い』ということが書かれていました。カルフォルニアのヨセミテには80メートルも超えるセコイアという巨木が生い茂っています。ところが、ある年、その木が轟音とともに地面に倒れてしまいました。森林局は専門家を派遣して調査をしましたが、最初、その原因がわかりませんでした。暴風も、火災も、落雷もありませんでした。倒れた木を調べてみても、動物や虫によるダメージを受けた形跡もありません。しかし、調査を続けた専門家たちは、驚くべき結論に達しました。原因は、ハイカーの通行だったのです。倒れた原因は、長年にわたって木の根元を大勢の人が歩いたために根が傷ついてしまったことでした。公園では、このように古くて大きく、歴史的にも貴重な木々の周りに囲いを作り、これらの巨木の根が踏みつけられないようにする方針を固めたということです。ウェン・コディーロは「あなたは毎日どのような通行人(あなたの根を踏むもの)にさらされていますか?何時間もかかる毎日の通勤で身をすり減らしている人もいるでしょう。果てしなく続くメール、携帯端末の呼び出しに追い回されている人も多いのではないでしょうか?「心を守るために、聖書読んで静まる時を持ちましょう」と勧めています。しかし、私は彼の本から、人間関係においても、「聖なる囲い」を設ける必要があるのではないだろうかと思いました。

 ダニー・シルクは「親しさのレベル」Levels of intimacyということを言っています。クリスチャンにとって親しさの中心点は、神さまとの関係God spotです。イエス様は地上におられたとき、いつでも父なる神さまと交わっておられました。私たちも心の中心にイエス様(聖霊)がおられます。だれにも打ち明けたことのない事柄をイエス様に分かち合うことができます。私たちはこの方だけを崇め、この方だけに忠誠を誓います。この中心部分にどんな人も入ることはできません。まさしく、I and thou「我と汝」の関係です。しかし、きょう申し上げたいのは人間関係です。イエス様は多くの人々の中から12人だけを選びました。彼らを身近に置いて訓練するためです。群衆にはたとえで教えましたが、彼らには奥義を解き明かしました。その中の3人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネとは特に親しく交わりました。変貌山、ヤイロの娘のよみがえり、ゲツセマネの園にも同行させました。また、ヨハネには自分の母、マリヤを任せました。つまり、イエス様は3人の弟子というコアを持っていたということです。あなたも伴侶以外に、信頼できるコアの人たちを持つ必要があります。親友であったり、同僚であったり、メンターであったりします。あなたをサポートしてくれる叔父とか叔母であるかもしれません。さらに、イエス様には70人の弟子たちもいました。コアよりもさらに広い範囲の人たちが必要です。あなたを応援する親しい友人、同労者、霊的な兄弟姉妹が何人かおられるでしょう。ダニー・シルクは一番外側に、アルカイダを置いています。彼らは危険な人物であり、自分のサークルの中に決して入れてはいけない人たちです。だれでも危害を加える人を家の中には入れないでしょう。ヨーロッパでは町を作るときは、必ず外側に城壁を巡らしました。侵略者たちから自分たちを守るためです。

私は20年近く、セルチャーチに関わってきました。セルチャーチ・ムーブメントは、人間関係を強調します。香港のベン・ウォン師は「教会の7つの本質の筆頭は関係である」と教えました。同師は日本に来ていたときは、必要のある人たちと夜の12時までマックなどで話していました。私たちは一生懸命、伝道牧会のために関係作りに励みました。ある牧師は奉仕者たちを自分の家に泊まらせて、冷蔵庫を開けて自由に食べることを許しました。イエス様のように寝食を共にしたのです。しかし、数年で疲れて、やめたそうです。松戸の岡野牧師ご夫妻は、刑期を終えた人たちを家庭に泊めていました。今も保護士として刑務所のだれかを訪問しています。また、家庭に問題がある子どもたちを教会でお世話しています。岡野牧師や息子さんたちも、子どもたちと一緒に遊んだり、勉強を教えています。そのため子どもたちがたくさん教会に来ています。また川崎の『家の教会』では、一週間に一度、夕食を持ち寄って交わっています。近所の未信者と友達になり、やがて教会の礼拝に連れて行くのだそうです。私は牧師たちのコーチングをしましたが、練馬教会の先生方は何時間も電話で話を聞いていました。たとえそれが夜中であっても応対します。私は20171月にセルチャーチをやめました。なぜでしょう?私にはそういう賜物がないと言うことが分かりました。関係はエネルギーを使うし、ストレスがたまります。人によって外向性と内向性のバランスが異なることは知っています。でも、私は人間関係においてバウンダリーが必要であることを発見しました。親しさのレベルと言っても良いかもしれません。

 ほとんどのキリスト教会では、「すべての人を愛し、だれにでも仕えるように」と教えているようです。しかし、イエス様は「あなたの隣人を愛しなさい」と言われました。イエス様もたくさんの人を助けましたが、すべては父なる神さまの指示のもとでした。いくらその町に働きがあっても、「近くの別の村里へ行こう」と言われました。イエス様はパレスチナにとどまり、ギリシャやローマには行きませんでした。イエス様は多くの弟子たちと時間を裂き、120人がペンテコステの日に聖霊を受けました。彼らが世界を変える火種になりました。現代はネット社会で、フェイスブックで1000人も友人がいるという人がざらにいます。でも、本当に信頼のおけるコアの人を持っているのでしょうか?うわべだけの人間関係はストレスがたまり、燃え尽きてしまう可能性があります。私たちは深く交わることのできる「聖なる囲い」コアの人たちを持つ必要があると思います。あなたにとって12弟子、あるいはペテロ、ヤコブ、ヨハネはだれでしょう?

2.宝物において

 イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ76と言われました。バウンダリーは、私たちの大切な宝物を守るための大切な考え方です。あなたの大切な宝物とは何でしょうか?時間、お金、持ち物、知力、体力、精神力、霊力、神からの賜物などです。最も偉大な宝物は神さまが与えた運命、divine destiny です。私たちには神さまから与えられた偉大な目的があります。それを他のことにエネルギーを使って、神さまの目的を果たせなくしてしまったら、神さまからお叱りを受けるでしょう。あなたはどのような友人を持っているでしょうか?あなたにはどのような親戚がいるでしょうか?岡田尊司(たかし)氏の本に書いてありました。彼女は真面目な努力家で、短大を出た後、保育士として働いていました。そんな堅実な女性が、カードローンでできた数百万円の借金を抱えて、自己破産寸前の状態にありました。彼女はうつになって、精神科の岡田氏のところを訪ねて来たわけです。中心的な原因は、昔の友人とばったり出会い、彼に貢ぐようになってしまったことです。男友達は、今も就職せずに、ミュージシャンを目指していました。遊びの金もホテル代も、すべて彼女が出しました。所持金がなくなると、カードでキャッシングしました。男友達が、海外で勉強したいと言うと、「そのお金、私がどうにかするから」とまとまった金を用立てたりもしました。しかし、やがて分かったのは、男友達には、別に付き合っている女がいるということでした。そのことを知った頃から、再び重いうつが、襲ってきたということです。生々しくて、礼拝のメッセージではどうかと思いました。でも、そういう人は本当の友達ではありません。

もしだれかがあなたのところに来て「お金を貸してください」「手を貸してください」「車を貸してください」と言ったとします。クリスチャンとして、「はい」と言うべきでしょう。それが恵みだからです。もちろん、与えることによって自分の人生が危機に陥って、破産してしまったりするようなことがあれば困ります。でも、そうでない限り、私たちに与えるものがある限りは、与えるべきではないかと思います。でも、ここで重要なポイントがあります。あなたが与えた恵みを、その人がどのように用いるかによって、その人の人格を知ることができます。あなたが差し出した恵みを、その人がどうするかによって、その人がどういう人であるか知ることができます。その人が「ありがとう」と言って、独り立ちをして、より成長できるのであれば、あなたは良いことをしたことになります。しかし、あなたが恵みによってあげると「もっとくれ」とさらに要求してくるような人たちもいます。箴言3015「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ。』と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、『もう十分だ。』と言わない。」あなたは愛のあふれた人に与えているでしょうか。それともこの箴言30章に出てくる蛭のような人に与えているのではないでしょうか。私たちは、私たちが与えることが生む実についての責任があります。イエス様は「あなたの真珠を豚に与えてはいけない」と言われました。

ジョエル・オスティーンは「あなたの幸福をコントロールせよ」と教えています。多くの人たちは、自分たちの幸福を、だれかの幸福のために犠牲にしています。友達の機嫌をそこねないように、自分から近づいて「こんにちは、元気?」と挨拶をします。上司の機嫌をそこねないように、夜遅くまで仕事をします。ある人は、友人がトラブルに遭わないように、ローンを肩代わりしています。友人が困っているなら、なんとか問題を解決してあげようと助けます。しかし、神さまはすべての人が幸福になるために、あなたを召していません。親切で、気前良く、愛すべき人になるのは良いことです。しかし、他の人が幸福になるための責任は、あなたにはありません。あなたはあなた自身の幸福に責任があります。あなたは彼らの必要と要求を満たさなければならないと思うかもしれません。もし、彼らを救わなければ、借金を返してあげなければ、あなたに対して怒るかもしれません。しかし、この場合は、あなたの代わりに彼らが不幸になるべきなのです。もし、彼らが憤慨するなら、彼らはmanipulatorsあなたを操る人たちなのです。もし、あなたが駆けつけて来なければ、彼らはあなたに罪責感を与えるでしょう。波風が立たないように、保釈金を与えて解放してあげることは簡単なことです。しかし、あなたが彼らを助けてあげればあげるほど、あなたが彼らを喜ばせ続けるなら、あなたは彼らの松葉杖crutchなのです。あなたのお蔭で、彼らは自分の問題を取り扱いません。あなたは彼らの機能不全を手伝っているのです。依存的な人に対する唯一の解決は、あなたが彼らの松葉杖になることをやめることです。彼らが「緊急事態だ」と言っても、駆けつけないことです。「あなたを愛しています。でも、私はあなたにコントロールされたくありません」とはっきり言いましょう。

 私の父は酒乱でした。私が夕方、村外れのお店に行って、父のお酒を買って来ました。母はどうして、酒乱の父に酒を飲ませたのでしょうか?今思うと、「共依存の家庭だったんだなー」と思います。母が酒乱の父を助けていたということです。李光雨先生は「サポート資源」ということを教えてくれました。本人は何らかの悪循環パターンに陥っています。依存症、自責の念、抑うつ、他者を責める怒り、無力感で悩んでいます。でも、私たちは問題を解決するのではなく、悪循環パターンを回すエネルギーとして使われている場合があります。問題解決は、本人が変わることにあるのに、他のもので埋め合わせてしまうのです。周りの人たちは悩み事を聞いて祈ってあげます。品物やお金の援助も惜しみません。李光雨先生は「教会や牧師も悪循環を回していくサポート資源になっている」とおっしゃっていました。そうです。本人が困るべきなのに、私たちが何かを与えるので、問題が先送りされてしまうということです。よく「動物にエサを与えるな」という看板があります。ある人たちは、鳩、野良猫、サル、かもめなどにエサを与えます。そうすると、彼らは自分でエサを取らなくなります。そのため人家の近くに群がるようになり、いろんな害を与えます。イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」と言われました。神さまから与えられた宝物を正しく管理しましょう。それらは神さまがあなたに与えた偉大な目的を果たすためにあるのです。

3.責任において

バウンダリーとは、所有地の境界線のことです。「どこまでが自分の所有地で、どこからか隣の家の所有地なのか?」これがバウンダリーのもともとの意味です。私たちが使うバウンダリーというのは、自分自身の境界線であり、どこまでが自分の領域なのかを示すものです。それは、自分ということの領域はこれで、ここからは他人の領域ということです。あるいは、これは自分の責任の範囲で、ここからは相手の責任の範囲ということです。簡単に言うなら、「自分がどこまでで、どこからが他人の責任なのか?」ということです。たとえば、あなたがアパートに住んでいるとします。アパートはそれぞれ壁で仕切られています。部屋の壁の内側にあるものはすべてあなたの責任です。もし、あなたの部屋にネズミが入って来たとしたら、それはあなたの責任でしょうか?それとも隣人の問題でしょうか?それは私の問題です。私が住んでいる場所は、私の問題であり、私のネズミです。私の隣人がネズミを私の家から取り除いてくださるでしょうか?いいえ。私の家に入って来たネズミを退治するのは、私の責任です。なぜならそこには境界線があるからです。でも、ネズミは私の境界線を越えて隣人のアパートに入って行きました。では今は、誰の問題でしょう。私の隣人のネズミは、隣人の問題です。クリスチャンはどうもそのことが分からないようです。クリスチャンはあたかも、世界のすべてについて責任を持っているかのように感じています。そのため、私たちはあちこちに飛んで行って、他の人たちの問題を助けてあげようとします。そうしている間に、私は家の中のネズミをどうするでしょう。依然として、私の内側、私の心には問題があります。

 私たちは自分の責任範囲ということを知るべきです。同時に、他の人の責任範囲ということもわきまえるべきです。優先順位としては、まず自分の責任範囲をちゃんと治めるべきです。そして、他の人の責任範囲に、必要以上に干渉しないことです。もちろん、必要とあらば、援助させていただくこともあるでしょう。でも、その人の責任範囲は、その人が主人公であることを忘れてはいけません。絶対してはいけないことは、その人の代わりに、自分が決断するということです。もし、そんなことをすれば、失敗した場合、「あなたがそう言ったので」と責任を取らされるでしょう。その家のネズミは、その家主が退治すべきなのです。私たちは子どものときから、自分で決断し、自分で責任を取るということを学ぶ必要があります。ある親たちは、あまりにもお世話し過ぎです。学校のかばんを開けて、忘れ物がないか1つ1つチェックしてあげます。毎日、着る物を母親が決めて、それを着せてあげます。やがて子どもが大きくなると、進学する学校、就職する会社まで決めてあげます。もし、結婚相手までも親が決めたらどうするでしょう?そうすると離婚だけが、子どもの決断になります。子どもは忘れものをして、遅刻をして、いたずらをして叱られ、痛みを通して学びます。それを親が全部、取り除くならば、なんでも人のせいにする子どもになります。自分で決断や選択をしたことがないので、自分が責任を取るということができないのです。親が子どもにしてあげられる最も重要なことは、自分自身で決断して、自分自身が責任を取るということです。

ヘンリー・クラウド氏が導くセミナーで、一人の婦人が質問のために手をあげました。「私の息子は19歳で薬物を使っています。そして逮捕されてしまいました。もう7回目です。私は大変な問題を抱えています。彼は助けを拒み続けて、ついに刑務所に入ってしまった。私は6回目まで保釈金を払って彼を刑務所から助け出してあげたのです。なぜなら、息子のことをとても愛しているからです。この7回目、もう一回保釈金を払って出してあげるべきでしょうか。」これが共依存の問題です。クラウド氏は「この問題に対して答えを持っている人はいますか」とグループの人たちに聞きました。20代の半ばくらいの男性が手をあげました。彼は言いました。「私はあなたのことを個人的に知らないですけれど、私はあなたの息子と同じ問題を持っています。私も何年も薬物の問題を持っていました。そして、私の母親は私を刑務所から何回も保釈金を払って出してくれました。だから、刑務所に入る度に母親が助けてくれるのだから、薬物を続けてもいいじゃないかと思っていました。ところがあるとき、ついに母親は、私が刑務所に入ったときに、私を助け出してくれなかったのです。そして、私は刑務所に行きました。それはとても嫌な経験でした。刑務所は楽しい所ではありません。私はそこに6ヶ月間入っていました。刑務所にいる間に2つの出来事が私の人生を変えました。刑務所では色々ものを考える時間があるので、私はそこにいる間、遂に自分の人生について考え始めることをしました。それで気がついたのは、私には助けが必要であるということでした。そこで、刑務所の中で行なわれている12のステップという回復プログラムに参加するようになりました。もう1つのことは、刑務所にいる間に、他の人が私にイエス様の必要を語ってくださり、そして私はイエス様を信じて受け入れてクリスチャンになりました。なぜなら、自分に問題があるということに気がついたからです。そこで私はその刑務所にいる間に、薬物からも解き放たれ、きれいになって、またイエス様の話を聞いて、イエス様を信じて受け入れて、今、刑務所から出て来て、新しい人生のステップを始めました。私は25才ですが、妻がいて、2人の子どもがいて、今、私は自分の人生をとても愛しています。もし、私の母親が何度も繰り返し刑務所から私を助け出していたなら、このようなすばらしいことは、決して私には起きていなかったでしょう。」そして、この男性はお母さんに向かって、こう言いました。「私はあなたのことを知りません。でも、あなたがあなたの息子さんを愛しているのであれば、そのまま刑務所にいさせてください。」このように、境界線を引くことこそが、問題の解決になるということです。

ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」とあります。私たちは、相手の重荷を負って助けてあげることも必要です。ガラテヤ6:5 「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」これは、その人しか負えない重荷があるということです。それを他の人が代わりに負ったならば、その人がダメになるということです。私たちは、互いの重荷を負い合うけれど、人にはおのおの、負うべきその人自身の重荷があるのです。

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2018年6月 2日 (土)

肉と肉体 ローマ7:17-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.6.3

 これまで霊と魂について学びました。最後は肉体です。肉体は魂から受けた命令を行う器官です。手、足、目、口などの器官を用いて神さまと人々に仕えます。ところが、問題があります。パウロは「私のからだの中には異なった律法があって、善をしたいと思っているのに、かえって悪を行っている」と悩んでいます。これを私たちは「肉」と呼んでいます。肉は肉体のことではなく、肉体の中に住んでいる罪であります。私たちはこの肉をなんとかしなければなりません。

1.肉とは

アダムが堕落したことのゆえに、すべての人間は死ぬようになりました。しかし、それだけではありません。ウィットネス・リーは『神の永遠のご計画』という本でこのように述べています。ご存じのように、アダムは誘われて第二の源である知識の木を、自分の中に取り入れてしまいました。これはただ単に何か悪いことをしたという問題ではありません。いいえ、これは神の律法と規則を犯すことよりずっと重大なことです。アダムが知識の木の実を取ったという意味は、サタンを自分の中に受け入れたということです。アダムはその木の枝を取らないで、その木の実を取りました。実は命を再生する力を含んでいます。たとえば、桃の木の実が地中に植えられると、やがて別の小さい桃の木が芽を出すでしょう。アダムは「土」でした。アダムが土である自分に知識の木の実を取り入れた時、サタンを受け入れました。それからサタンは彼の中で成長しました。サタンはアダムが園で堕落した時に、アダムの中へと入ってきただけではなく、今もなお人類の中に残っています。彼は人類の中でどこにいるのでしょうか?私たちは霊、魂、体の三部分から成っています。もちろん、それはアダムの肉体の中に入りました。なぜなら、彼はそれを食べたからです。サタンの何かが私たちの肉体の中にいるという聖書の裏付けが必要となります。

ローマ7章の日本語訳聖書は、あるところでは「律法」、またあるところでは「原理」と訳していますが、本来はすべてlawです。Lawは「法則」と訳すべきです。なぜなら、「律法」ということばを使うと、神の律法と同じように考えてしまうからです。また、「心」は、mind「思い」です。これらのことを配慮して、ローマ723「私のからだの中には異なった法則があって、それが私の思いの法則に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の法則のとりこにしているのを見いだすのです。」このところに、2つの法則があることが分かります。第一はからだの中にある罪の法則です。第二は思いの法則です。からだの中ある罪の法則が、思いの法則に対して戦いをいどみ、思いの法則をとりこにしてしまうということです。「罪の法則」とは何でしょう?パウロは「もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪です」(ローマ720と言っています。聖書学者たちは、ローマ7章の「罪」は人格化されていると言います。罪は人のように私たちの中に住み、私たちの欲しないことをさせることができます。そして罪は私たちの主人になることができます。しかし、ガラテヤ書2章は全く逆のことが記されています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ220)。私が死んでキリストが住んでいるということです。ウィットネス・リーはさらに、こう述べています。「キリストは神を具体化したものであり、罪はサタンを具体化したものです。罪は私たちの主人になることができます。したがって、罪とは邪悪な者、すなわちサタンに違いありません。人の堕落を通して、サタンは罪となって人の中に入って来て、人を治め、傷つけ、堕落させ、支配しています。どの部分においででしょうか?サタンは人の肉体の肢体(手足)の中にはいります。」サタンが肉体の中にはいっている、それが「肉」であるという考えです。一般的に、神学者はこれを単数形の罪、「原罪」と呼んでいます。アダムから受け継いだ罪の性質が、救われたクリスチャンにも宿っているということです。ローマ人への手紙は「古い人」と言っています。あとからパウロは「肉」に言い換えています。簡単に言えば、肉は古い人の表れたものであって、二つは一つのものです。客観的な事実から言えば私たちは古い人でありました。ローマ6章で「古い人はキリストと共に十字架につけられた」と言っています。これは2000年前に成就された事実です。しかし、そのとき私たちはまだ生まれていませんでした。生まれてからの私たちにはまだ罪が残っています。つまり、主観的な経験から言えば、私たちは肉なのです。そのため今度、私たちが、私たちの肉を十字架につけるという主観的な経験が残されているのです。つまり、霊的に新生し、魂が砕かれ、最後に肉を対処する必要があるのです。

 「肉」の第一は邪悪な罪の性質です。これはガラテヤ5章に「肉の働き」としてあげられています。聖霊により肉を十字架につける主観的な経験が必要です。第二は「自己」です。きよめ派では、「自我に死ね」「自我の磔殺(たくさつ)」と言われます。ローマ6章によると「古い人に死んだ」のですが、「日々、十字架に自分を渡す」ことが必要だということです。第三は「天然の性質」です。生まれつき柔和な人もいます。しかし、それは肉から来たものです。賢くて手腕や才能を発揮する人もいます。しかし、それらの能力は古い人アダムに源を置くものです。つまり、肉は醜いものだけではなく、美しい肉もあるということです。これも十字架に行かなければなりません。結論から言えば、肉を対処するのは、十字架であるということです。ローマ88 「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いてあるからです。

2.腐敗した肉

 肉の一面は「腐敗した肉」です。ガラテヤ書5章に「肉の行い」として出ています。私たちはクリスチャンになると、罪のない生活を慕い求めるようになります。そして、自分で意識して、「罪を犯さないように」努力します。しかし、結果は失望に終わります。気がつくと、口が勝手なことを言い、目が勝手なものを見て、手足が勝手なことをしています。WJWD、「イエス様だったらどうする?」というリスト・バンドをしている人をたまに見ます。あれは御霊によってではなく、自分の意思で自分を制御するのですから、結構、疲れると思います。「罪を犯さないように」と意識すると、かえってしてしまいます。「するな」と言えば、したくなる。「触るな」と言えば、さわりたくなるのです。それが、罪の法則であり、腐敗した肉です。子どもを育てるとき、あまり肉を刺激しないようにすべきです。律法的ではなく、励まして育てるという恵みの道があると思います。これは指導者が人を動かすための鉄則ではないでしょうか? 真面目なパウロは「罪を犯さないように」、一生懸命努力しました。しかし、自分の中に腐敗した肉があることを発見しました。最後に「私は、ほんとうにみじめな人間です」と告白しました。私たちはパウロ以上のものなのでしょうか?徹底的な肉の対処がなければ、罪のない生活を送ることは不可能です。

 聖書は、どう肉を対処すべきなのか教えているでしょうか?ローマ6章では「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。…私たちの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。義の器として神にささげなさい。」と言われています。これは、「私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられた」(ローマ66ということを認めることから始まります。私たちがキリストを信じたときに、神さまがなさって下さった客観的な事実です。もし、これですべてが解決していたなら、ローマ7章の経験をしなくて良いでしょう。確かに私たちの古い人は十字架につけられました。でも、肉が残っています。人が罪を犯すその原因は人が肉につくものだからです。この肉が対処されてはじめて、罪の縄目から自由にされるのです。ですから、私たちの古い人が十字架でキリストと共に死んだという事実、プラスもう1つの主体的な経験が必要です。私たちは聖霊によって、この事実を私たちの内側で執行してもらわなければなりません。ガラテヤ524「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」この聖句は、救われてキリストに属する者は肉を率先して十字架につける者であることを言っています。ここでは、主が私たちの肉を十字架につけたとは言わないで、私たち自身が肉を十字架につけたと言っています。つまり、古い人を十字架につけるのは神さまの責任であり、肉を十字架につけるのは、私たちの責任です。 

 でも、肉を十字架につけることは、聖霊によって私たちが経験することであります。ローマ8:13-14「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」「御霊によって、からだの行いを殺す」とは、まさしく、私たちの肉を十字架につけるという行為です。ウォッチマン・ニーは『命の経験』(後編)でこのように述べています。本来なら、キリスト・イエスに属する者は、聖霊によって肉を十字架につけていなければ、その人は異状なのです。当時、ガラテヤの多くの聖徒たちはこのような異状な段階にいました。彼らは救われてキリストに属していたけれども、なお肉によって生き、聖霊によって肉を十字架につけていませんでした。そこで使徒パウロはガラテヤ人に対して、「ガラテヤ人よ、あなたはキリストに属する者であるのに、まだ肉によって生きているのですか。神はすでにあなたの古い人をキリストと共に十字架につけたのだから、あなたも聖霊によって肉を十字架につけてしまうべきです。あなたはもはや肉によって生きてはなりません。肉の情欲を満たすべきではありません」と言いました。どうぞ、私たちも、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに十字架につけましょう。そして、今度は一歩、一歩、聖霊によって歩みましょう。神との交わり、つまり聖霊の中で生きるならば、肉にやられることはありません。私たちが聖霊の交わりの中で生きるなら、肉は殺され、主の命が豊かに働いてくださいます。そして、結果的に罪を犯さなくなるのです。

3.自己

 肉の2つ目は「自己」です。「自我」あるいは「エゴ」と言うべきでしょうか?ウォンチマン・ニーの『命の経験』(後編)がとても参考になりましたので、ところどころ参考にしました。自己とは、人間の思想や主張に重きを置いた魂の命です。自己の強い典型的な人物を3人あげることができます。まず、弟子のペテロを取り上げたいと思います。マタイ16章で、イエス様が「あなたがたは、私をだれと言うか」と弟子たちに聞きました。すると、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白し、イエス様から大変ほめられました。そして、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示し始められました。すると、ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。イエス様から「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」と叱られました。ペテロは、よく意見を言う人であり、変貌山では「三つの幕屋を造りましょうか?」と提案しました。また、イエス様が最後の晩餐の席で、たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどと決して申しません」と誓いました。でも、その後イエス様を3度も知らないと言ってしまいました。このように、意見が自己の表れであり、化身です。でも、マタイ16章では「サタン」が隠されていました。彼の意見は神の御旨の敵であり、十字架に敵対していました。 

  

ペテロの次にあげられる人物はヨブです。聖書全体で最も多く語った人はヨブです。彼は友人たちに対して、「私は間違ったことをしていない」と主張しました。最後に主が現れヨブに対して、「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」(ヨブ382と言いました。確かにヨブの問題は、罪や、この世や、良心ではありません。真の彼の問題は彼自身です。彼の砕かれていない自己が、神を知ることを妨げている、それが彼の問題です。さらに女性では、マリヤの姉、マルタは意見の多い人でした。ラザロが死んで4日もたってから、イエス様が彼らの家を訪れました。マルタはイエス様に「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ1120)と文句ありげに言いました。イエス様が「あなたの兄弟はよみがえります」と言われると「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」と答えました。さらに、マルタは「あなたが世に来られるキリストである」と信じていますと告白しました。マルタはとても多くの意見を持っており、自己が非常に強い人であることが分かります。ウォンチマン・ニーはこのように語っています。自己で満ちている人はいつも教会に多くの困難をもたらします。今日キリスト教の中でこんなに多く分裂しているその理由は、人の罪やこの世的なことだけではありません。それ以上に人の自己によります。マルチン・ルターは「私の内には、ローマ法王より偉大な法王がいる、それはわたしの自己だ」と言いました。

 では、どのようにして自己は対処されるのでしょうか?私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられました。自己が古い人の表れの一部ですから、古い人に属する自己もすでに解決されているのです。でも、肉の対処と同様に、主観的な経験が必要だということです。私たちは日常生活の中で、自分の考えや意見の表われを見出した時はいつでも、聖霊によって十字架の死をこれらに適用させ、殺さなければなりません。これが自己を対処するときの主観的な経験です。ペテロはイエス様から「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱られました。その後、イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました(マタイ1624)。十字架を負うとは、だれかのために苦しむことではありません。十字架の強調点は苦しみではなく、死です。人が十字架に行く主要な目的は苦しむためではなく、死ぬためです。その意味は、十字架の死を信仰によって受け入れ、聖霊によって十字架の死を私たちに適用するのです。つまり、私たちの自己を死に渡すということです。これは、ただ一度ではなく、朝昼晩適用しなければなりません。例えるとこのようなものです。農夫は雑草を抜くのですが、きょう雑草を取り除いても、あすまた伸びてきます。だから、農夫はまた雑草を取り除かなければなりません。私たちは、日々、自分の十字架を負って、十字架の死を適用してイエス様について行くのです。


4.生来の性質

 肉の3つ目は「生来の性質」です。ウォッチマン・ニーは「天然の性質」と呼んでいます。ある人たちはかんしゃくを起こしてすぐ腹を立てます。それは短気だということであり、腐敗した肉の性質です。ある人たちはとてもおしゃべりでいつも自分の意見を足します。それは彼らの自己が非常に強いということです。しかし、他の人たちは腹も立てなければ、おしゃべりもしないけれど、自分が始めたことなら何であれ、かんであれやってのけるのです。これは彼らがとても強い生来の性質を持っていることを示します。生来の性質とは、人間の才能、能力、知恵、賢明さ、計画や手腕に関係のある古い人が生かし出す表現です。旧約聖書のヤコブはその代表的な人物です。彼は有能で策略にたけ、計画に富み、非常に才能があり、大の手腕家でした。彼は実に、生来の性質の強い人でした。エサウから長子の権をだまし取り、その後、父から長子の祝福を獲得しました。彼が家を出てさまよっている時に、神はベテルで現われ、彼を祝福することを約束されました。その時ヤコブは「無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、…すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」と誓いました。神さまは無条件に祝福しようと約束されたにもかかわらず、ヤコブは条件付きで神さまと取引きしました。彼が叔父のラバンのもとにいた間も、自分の生来の能力によって策略と手腕を用いました。やがて彼は非常に富む人になりました。神さまはヤボクの渡しで、ヤコブのもものつがいに触って彼を対処されました。それによってヤコブは足をひきずるようになりました。それでも、兄エサウに会うとき、彼はまだ自分の手腕と陰謀を遂行しようとしました。群れと家族を二つの組に分け、自分の愛する妻と息子ヨセフを最後に置き、万一攻撃されても彼らが逃げることができるように取り計らいました。ですから、神さまはヤコブの全生涯を通して、ヤコブの生来の性質を対処されました。ヤコブを取り巻いた困難、苦しみや問題は、ヤコブの生来の性質を砕くためでした。

 このところで、生来の性質を、人間の能力、才能、知恵、賢さに属するものと定義しました。なぜなら、これらすべては、私たちの生来の命から出ているのであって、神の復活の命から出ているのではないからです。これらはもともと持っているものです。生来の性質の対処とは、それらがキリストの十字架の死を経て復活し、そして神に受け入れられ、用いられるようになるということです。ある人々は、神さまは私たちの能力や才能を必要としていないのかと考えます。そうではありません。神さまに用いられるためには、私たちは確かに能力や才能が必要です。たとえば、モーセは才能、洞察力、知恵と聡明さを備えた人でした。だから、神さまは彼を用いて、イスラエル人をエジプトから救い出すことができました。旧約聖書の中で最も重要な書、モーセ五書が彼によって書かれました。また、パウロも偉大な教養と豊富な思想を持った有能な人でした。ですから彼は神さまから啓示を受けて、新約聖書の中で深く高い真理を書くことができました。神さまは何でもすることができますが、すべてのことにおいて神は人の協力を必要とされます。何も知らない人や無能で何もやる気のない人々は神さまに用いられるはずがありません。

しかし、神は単に生来有能な人を用いることはできません。生来の才能は砕かれない限り、神さまにとっては妨げです。それらは神に用いるためには砕かれ、死を通過し、復活しなければなりません。生来の能力は未加工の鉄に似ています。未加工の鉄はあまりにも固くてもろいので使用に適していませんし、容易に折れてしまいます。復活した能力は、堅いけれども順応性があり、使用に適して容易に割れない錬鉄のようです。腐敗した肉と自己の対処のときと同じで、まず、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたことを見ます。その次には、私たちは聖霊の力によってキリストの十字架を私たちの生来の表現の上に適用します。これは、生来の性質を対処するときの主観的な経験です。一旦、これを受け入れて適用するなら、私たちのすべての生来の能力は死の印を押されて、だんだんとしおれていくでしょう。私たちは以前のように意のままに自分の能力や才能を使うことができなくなります。このようにして私たちは生来の性質の対処の関門を通過します。私たちは私たちの生来の上に十字架を毎日、適用しなければなりません。私たちの生来に属するあらゆるものは、次第に死を通過して復活に至る段階に来るでしょう。

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