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2018年6月29日 (金)

積極的考え方の力 民数記13:25-33 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.1

 昔、ノーマン・ピールの『積極的考え方の力』という本がありました。ところが、キリスト教会では「それは功利主義の本だ」と否定した人たちが多くいました。ノーマン・ピールはクリスチャンなんですが、「あの人は怪しい」と言うのです。日本の教会はピューリタンの影響を受けたので、「豊かになる。富む。成功する」ということにアレルギーを示しました。残念ですが、反対する教会に限って、小さくて貧弱であるようです。もちろん、「啓発セミナー」とか「ニューエイジ」には反対です。でも、聖書に土台する「積極的考え方の力」はあると信じます。

1.「できる」と考える

 私たちの周りには、「それはできない、不可能だ」と反対する人は必ずいるものです。彼らは失敗しないかもしれませんが、成功をすることもないでしょう。私たちは否定的な人と一緒にいると、否定的になります。でも、肯定的で生産的な人といると良い影響を受けるのです。熱力学第二法則、エントロピーの法則というのをご存じでしょうか?これは簡単に言うと「熱いものは冷める」ということです。また、「エントロピーが増大する」とは、秩序から無秩序になるということです。「進化論」はまさしく、エントロピーの増大に反している学説です。だまっておいたら、部屋は散らかるし、雑草は生えるし、筋肉が衰えるのと同じです。私たちの脳みそも使わないで、否定的な考えで満たしていたなら、無能でただの人になってしまうということです。無能でただの人が悪いというわけではありませんが、クリスチャンは神さまが願う標準に達する必要があります。なぜなら、創造者なる神さまが私たちを固有なものとして造り、固有な運命divine destinyをそれぞれに与えておられるのに、「それは、できない」と座り込んではいけないということです。しかし、「主にあって、できる」と考えるなら、不思議にアイディアが浮かんできます。「一緒にやりましょう!」という協力者も与えられるでしょう。もし、あなたが何らかのリーダーであるなら、否定的な人ではなく、「主にあって、できる」という積極的な考えを持つ人にならなければなりません。そうでないと、あなたのところに人は集まってきません。世の中には、良いリーダーも、悪いリーダーもいますが、共通点は彼らが「できる」と考えることです。

 聖書に「できる」という人と「できない」と考えた二種類の人たちが出てきます。民数記13章の記事は、その例を示す典型的な箇所です。モーセは約束の地、カナンを探るために、12部族から一人ずつを任命しました。彼ら12人の偵察隊は40日間、その地をさぐりました。そして、大きなぶどうを枝ごと二人で担いできました。ざくろやいちじくも切って持って来ました。彼らはカディシュという荒野で待っていたイスラエルの人たちに告げました。くだものを見せながら、「そこにはまことに乳と蜜が流れている豊かな地です」と言いました。ところが、彼らの中の10人はこう言いました。民数記1328-31「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」カレブは「必ずできる」と主張しました。後から、ヌンの子ヨシュアも「できる。攻め上ろう」と主張しました。ところが、他の10人は、ますます否定的なことを言いました。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」ご丁寧にも、彼らが「自分たちをどのように見たか」まで、想像して言いました。「自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と言っています。神の民である自分たちが「ぴょんぴょん跳ねるいなごである」とたとえました。人々はどちらの報告を信じたでしょう?2人の「できる」という人たちの報告でしょうか?それとも10人の「できない」という報告でしょうか?残念ですが、否定的な人の考えの方が感染力、伝染力があるのです。

 民数記14章にその続きが書かれています。民数記141-4全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」何と言う不信仰でしょう。モーセは彼らを制することができず、ただ全会衆の前でひれ伏すだけでした。ところが、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いてこう主張しました。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記147-9)。ヨシュアとカレブの二人は「できる。攻め上ろう」と主張しました。なぜなら、それは主の約束であり、主がともにおられるからです。二人は巨人を見たのではなく、彼らの上におられる偉大なる主を見ました。だから「彼らは私たちのえじきとなるのだ」と言っています。彼らの積極的な考えは、神の約束に裏打ちされていました。主は人々の不信仰に怒り、「この人たちは荒野で40年間さまよって死ぬ」と言われました。約束の地を悪く言いふらした10人は、疫病に打たれて死にました。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブだけが生き残りました。

 私たちはこのような旧約聖書の出来事を教訓として受け止めなければなりません。彼らはチャンスを失っただけではなく、40年間荒野をさまよって死ぬことになりました。約束の地に入れたのは、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブだけです。あとは、当時、20才未満の人たちだけです。古い世代が滅び、次の新しい世代だけが約束の地に入ることができました。このところから、神さまの約束に土台した「積極的な考えの力」がどれほど大切かを知ることができます。もちろん、私たちはやみくもに「できる」「できる」と言えば何でも思い通りになるということではありません。また、神さまの約束がはっきりと分かるときもあれば、よく分からないときもあります。でも、どちらにしても積極的な考えを持ち、主にあって「できる」と考えることです。そうすれば道が開かれます。不思議なことに、私たちは不可能な出来事にでくわすと「できる」か「できない」かのどちらかを選択しなければなりません。常識的な判断や経験で、あるいは失敗を恐れて「できない」と言うでしょう。しかし、不可能と思えるような状況でも「できる」と考えるとどうでしょう?不思議にアイディアが浮かんできます。「できない」と考えるとすべてのアイディアがストップします。しかし、「できる」と考えると、いろんな選択肢、解決策、アイディアが次々と浮かんできます。これは、信仰を持っている、持っていない関係ありません。この世の人たちでも、大きな発見や発明、大事業で成功する人は、すべて「できる」と考える人たちだからです。

 『積極的な考え方で成功する』という本を書いたロバート・シュラー牧師がおります。彼は全面ガラス張りの「クリスタル・カセイドラル」を建てた人として有名であり、献堂式のときノーマン・ピール博士を招待しました。ロバート・シュラーがこの本の中でこのように述べておられます。「私は何も試みないで成功するよりも、むしろ何か偉大なことをして失敗したほうがよい!」「目標を持たないことは、目標に到達しないことよりももっと懸念すべきことである。」「一つの扉が閉じるたびに、他の扉が開かれる。」「偉大なアイディアはすぐれた人々を引きつける。」「神のために偉大なことを試みなさい。そして神から偉大なことを期待しなさい。」最後のことばは、「近代海外宣教の父」として知られるウィリアム・ケアリーのことばです。彼は教職者ではなく靴の職人で一般信徒でした。当時、ヨーロッパ中が福音化され「海外宣教」という考えはありませんでした。イギリスがインドを植民地化していましたが、原住民は救いの対象ではないと考えられていたのです。ところが、ウィリアム・ケアリーが「インドに宣教に行かせてください」と志願しました。教会は「馬鹿なことはやめろ」と全くサポートしませんでした。ある伝記によると、「十年間、彼は、冷笑とあざけり、遅鈍で無関心という最悪の敵意の矢面に立った」と書かれています。インドには夫の火葬の薪の上で、未亡人を焼き殺すというサティという残酷な風習がありました。33年の間、残酷な習慣を根絶することが彼に求められた改革の1つでした。少なくとも、7万人のベンガル女性が、生きたまま焼き殺されてきたからです。彼は異教の風習と戦いながら宣教を進め、やっとのことで彼の成果が認められました。やがて、イギリス・バプテスト伝道会社やロンドン宣教会が設立されました。ウィリアム・ケアリーのことばをもう一度ご紹介します。「神のために偉大なことを試みなさい。そして神から偉大なことを期待しなさい。」

2.火を燃え立たせる

ヨシュアが新しい世代のイスラエルの先頭に立ってカナンに攻め上りました。あれから40年過ぎました。ヨルダン川を渡り、エリコを攻め落とし、次々と領土を拡大していきました。ヨシュア記131ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」そして、主はそれらの地名を次々とあげました。そのとき、カレブがヨシュアにこのようなことをお願いしました。ヨシュア1410-12 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」ヨシュアも何歳か分かりませんが年を取っていました。カレブは85歳であるとはっきり書かれています。85歳と言えば、隠居して、盆栽でもいじっていても良い年です。ところが、カレブにはやり残した仕事がありました。かつて、人々は巨人アナク人と城壁の町々を恐れて戦いを断念しました。カレブはあえて、困難な場所を求めました。「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください」と願い出ました。何と言う、前向きの生き方、なんという積極的な考えの持ち主でしょうか?彼は60年前の信仰の火を消していなかったということです。今、再び、信仰の火を燃え立たせて、困難なことを求めました。サムエル・ウルマンという人の詩です。「霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ悲嘆の氷にとざされるとき20歳だろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり80歳であろうと人は青春の中にいる。」

 私たちは年を重ねると考え方が保守的になり、どうしても「守り」に入ります。しかし、現状維持であるなら、衰退していくばかりです。日野原重明氏は召される105歳まで現役でした。19953月、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起きました。83歳の日野原氏が陣頭指揮を執り、聖路加国際病院を開放し、被害者640名の治療に当たりました。ウェキペディアにこう書いてありました。「晩年の日野原は100歳を超えてスケジュールは23年先まで一杯という多忙な日々を送っていた。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたという。命の続く限り現場に立ち続けるという信念をあくまで貫いており、生前には少なくとも110歳まで現役を続けることを目標にしていると語るほどであった。」まさしく、超人であります。私は早朝、30分のウォーキング後に、ディボーションをします。その時、必ず読むのは、ジョエル・オスティーンの本です。この説教の準備のとき読んでいた本が2冊ありました。Wake up to hopeYou can, you will.です。You can, you will.7章に分けられています。すばらしいので題名だけをご紹介します。第一章「目の前のビジョンを保ち続けよ」、第二章「あなたのレースを走れ」、第三章「良いことを期待せよ」、第四章「可能性思考を持て」、第五章「すぐれたことにコミットせよ」、第六章「成長し続けなさい」、第七章「他の人に仕えよ」です。彼の本を毎朝、読んでいるので「ぐぐぐー」と力が与えられます。どの本か忘れましたが、フランク・ロイド・ライトのことを書いていました。彼はアメリカの建築家であり、日本の帝国ホテルや自由学園も設計した人物です。彼が生涯の終わりにさしかったとき、一人の記者が彼に尋ねました。「あなたがデザインされた沢山の美しい建造物で、最も気に入っているものはどれですか?」間髪入れず、フランク・ロイド・ライトがこう答えました。「次の作品だよ」。ジョエル・オスティーンは「ライトは、前に向かって継続的に体を伸ばすことの大切さを理解していました。彼は過去の成功に単純に満足しなかったのです。世界全体が、あなたの次の冒険を待っている」と書いていました。エントロピーの法則は「熱いものはさめる」「秩序から無秩序へ」であります。私たちはたまっていたら、次第に衰え、情熱も冷めて行きます。しかし、クリスチャンは死からよみがえられたキリストの命を有しているではありませんか。それは聖霊の力として今も私たちに臨んでいる、神さまからの無限の力です。

 パウロが激務のために弱っているテモテにこう勧めています。Ⅱテモテ16-7「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」「再び燃え立たせる」は英語の聖書で、kindle afreshです。Kindleというのは、「熱などを燃え立たせる」という意味です。また、他の聖書はstir up「あおる、かきまぜる」というふうにも訳されています。昔は、かまどでご飯を炊いたり、七輪でおさかなを焼いたりしました。しばらくそのままにしておくと、火が弱ってきます。そうすると、火箸で燃えている炭をかきまぜます。灰が落ちて、酸素が行き渡るので、再び燃えます。テモテは按手によって与えられた神の賜物がありました。具体的にそれが何なのか分かりませんが、聖霊による賜物であります。「油注ぎ」と言っても良いかもしれません。でも、長年の伝道牧会で、疲れて弱っていたのでしょう。気落ちして、おくびょうになっていたのかもしれません。だから、パウロは神の賜物を再び燃え立させるように注意しています。まことに残念ですが、リバイバルの火は消えてしまいます。火を消す人というのは、「それはおかしい、聖霊の働きではない」と非難する人たちです。やがて、聖霊の力よりも、人間の品性とか神学を強調するようになります。確かにリバイバルは聖霊の偉大な力と混沌(カオス)が一緒にやってきます。しかし、教会は愚かにも、小さな間違いや行き過ぎばかり注目して、聖霊の偉大な力を捨ててしまうのです。リバイバルは安定期に入っているようですが、それは衰退であります。すると神さまは別のリバイバルをどこからか起こして下さるのです。神さまは幼子のように神さまに求める信仰者を求めています。神学でガチガチの人を用いません。なぜなら、神さまは私たちの頭脳よりもはるかに大きいお方だからです。J.B.フィリップスは『あなたの神は小さすぎる』という本を書いています。あなたの神は小さすぎるのではないでしょうか?

 私はもうすぐ65歳になります。「3年で100名礼拝」というのがいまだ実現していません。「あれだけ『神にはできる』と積極的信仰でやってきたのに、さっぱり証になっていないじゃないか」と言われたなら、どこかに隠れるしかありません。今、思えば、韓国のチョー・ヨンギ師のような大教会を目指してきました。「夢と信仰を持てば必ずできる」というチョー・ヨンギ師がおっしゃることをずーっと信じて来ました。チョー師は最大70万人の教会まで上り詰めました。やはりそれは偉大なことであると思います。先生を批判する人ももちろんいますが、偉大な人の銅像は立っても、批判する人の銅像は立ちません。批判する人、否定的な人は必ずいるものです。でも、そういう人たちは「偉大な神さまの働き」を実現することはできません。まさしく、10人の偵察隊であり、イスラエルの第一世代の人たちです。私は人が何と言おうと、「神にはできる」「夢と信仰を持てば必ずできる」と、最後の一息まで言い続けたいと思います。2年くらい前になりますが、80歳を超えた、チョー・ヨンギ師がサントリー・ホールで開かれた特別集会で話されました。普段はキリスト教のために決して用いられない場所です。チョー・ヨンギ師はパーキンソン病のため歩くときは介助が必要でした。しかし、チョー師が講壇に立って、話し始めたら、昔の力がよみがえってきました。チョー師は私たちを激励するつもりでこう言われました。「もし、私が今から教会開拓をはじめたなら、1年で1万人の教会を作ることができます」。私は胸が打たれました。80歳を過ぎているのに、「なんという霊力、なんという情熱だろう」と感銘しました。昔、私はホームページに尊敬する人の中に、チョー・ヨンギ師の名前をあげていました。そうしたら、ある団体から講師として招待されていたのに、御断りが来ました。私がチョー・ヨンギ師を尊敬しているということが理由だったそうです。「なんと愚かな団体だろう」と悲しくなりました。これが日本の教会の現状です。「ちょっと神学が違う」「ちょっと立場が違う」それで、プイであります。

 今も、「積極的考え方の力」を否定する教会やクリスチャンはたくさんいます。もちろん、積極的に考えたら何でもできるとか言っているわけではありません。しかし、聖書の神さまは、イエス様は積極的考え方の持ち主であったことは間違いありません。イエス様はマルコ福音書でこのように言われました。マルコ1027「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」、マルコ1122「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」私たちは現実から神さまを見るのではなく、イエス様のことばからものごとを見るのです。そうすれば、エントロピーの法則に打ち勝ち、霊に燃え、主に仕えることができるのです。

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