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2018年5月26日 (土)

霊と魂 ヘブル4:12-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.27

 イエス様を信じると霊的に生まれ変わり、あなたの内に聖霊が宿ります。言い換えると、クリスチャンの内側にはキリストの御霊が宿っているということです。しかし、あなたの霊を殻のように取り囲んでいるのが魂です。アダムの堕落のゆえに、異状に発達した魂が、霊の働きを阻止しようとします。きょうはあえて「心」という用語を用いません。なぜなら、日本語の「心」は曖昧だからです。きょうは、心の代わりに「魂」と呼ばせていただきます。

1.霊の解放

 ウォッチマン・ニー師がかなり前に『霊の解放』という本を書きました。最近、「日本福音書房」が訳したものを読みましたら、新たに感銘を受けました。きょうはその本から、いくつか引用しながら、お話ししたいと思います。私たち人間は3つの部分からできていると前回申し上げました。外側から順番に、肉体、魂、霊であります。イエス様を信じていない人はこの霊が死んでいるか休眠状態であり、全く機能していません。ところが、イエス様を信じると、聖霊によってこの霊が新生します。同時に、聖霊がそこに臨在されます。ローマ8章には「御霊」と書かれていますが、自分の霊なのか聖霊なのか区別がつけられません。「霊的に生まれ変わった。ハレルヤ!」とハッピーエンドになれば良いのですが、そういう訳にはいきません。ガラテヤ書5章には、内側に葛藤が起こると記されています。なぜなら、これまでは、自分自身が王様でした。しかし、内側にキリストの御霊がおり、私たちの霊とともに「神さまはこう言われます。あなたは神に従うべきですよ」と言ってきます。いわば、これはクーデターであります。ウォッチマン・ニーは「神の奉仕者は、自分の働きに対する最大の妨げは、自分自身であることを遅かれ早かれ見出します」と言っています。つまり、あなたの霊は神さまに向いていますが、あなたの魂は別の方向に向かっているからです。彼は、自分の魂が、霊の支配に服することができず、神さまの最高の要求に従って歩くことができない事を見出します。つまり、自分の魂が、霊が働かれるのを邪魔しているということです。

 魂は堅い殻のようであり、その中に実である霊があります。たとえば桃を食べるとその中に堅い種があります。私たちはそれをポイと捨てます。でも、その中に胚と呼ばれる種子があります。麦も同じで外側に堅い殻があり、内側に種子があります。イエス様はヨハネ12章で、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」と言われました。「自分のいのち」は、ギリシャ語でプシュケーであり、魂と同じことばです。「魂のいのち」と訳すことができます。一方、「永遠のいのち」は、ゾーエーであり、「神のいのち」と訳すことができます。つまり、「自分の魂のいのちを愛する者はそれを失い、この世でその魂を憎む者はそれを保って神のいのちに至るのです」となります。麦が地面の中に埋められると死にます。そのとき、堅い殻が破られ、芽が出てきます。そうすると何百もの実がなります。「死ぬのはいやだ、このままでいたい」と願うなら、ずっと1粒のままです。死ぬというのは、神さまの前に魂が砕かれるということです。私たちは神さまに「ガツン」と砕かれなければ、決して、内側から霊が出て来て、神さまの働きを行うことができません。それほど生まれつきの魂は頑固なのであります。聖書に純粋なナルドの香油をささげた女性の物語があります。ナルドの香油はとても高価で300デナリもしました。その香油は石膏の壺に入っていました。女性はその壺を割って、イエス様の頭に注ぎました。この場合、ナルドの香油が私たちの霊です。そして、その香油を入れている石膏の壺が私たちの魂です。しかし、私たちは骨董屋のように石膏の壺を何よりも大事にしています。決して割ったりしません。しかし、石膏の壺を割らなければ、ナルドの香油を注ぐことはできません。ウォッチマン・ニーは「宝は土の器の中にあります。だれがあなたの土の器を見る必要がありますか?教会が欠けているものは、宝であって、土の器ではありません。この世が欠けているものは、宝であって、土の器ではありません。土の器が砕かれなければ、だれが内側の宝を見出すでしょうか?」と言っています。アダムとエバが知識の木から実を取って食べたら、二人の目が開かれました。ウォッチマン・ニー師は、「そのとき人間の霊が死ぬ代わりに、魂が異常に発達した」と言いました。魂が砕かれなければ、内側にある霊が出てくることができないのです。

 そのため聖霊は人々や環境を通して、あなたの魂を砕こうとします。これを聖霊の訓練あるいは、聖霊の按配と言います。旧約聖書のヤコブはとても狡猾な人でした。兄と父をだまして、長子の権利を得ました。ヤコブは家を出て、おじのラバンのもとに逃れました。ところがラバンはヤコブ以上に狡猾な人で、20年間、何度もだまされました。二人の妻はヤコブの愛を勝ち取ろうと次々に子どもを産みました。11番目のヨセフは最愛のラケルから生まれましたが、ラケルはベニヤミンを生むとき難産で死にました。息子たちから、「ヨセフが野の獣によって裂き殺された」と報告を受けました。ところが13年後ヨセフがエジプトの宰相であることが知らされました。死んでいたと思っていたヨセフと再会しました。彼の人生は神によって打ち砕かれた人生でした。しかし、押しのけるヤコブではなく、神の皇太子イスラエルになっていました。ヨセフ、アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロやペテロも、神によって砕かれてから用いられました。もし、あなたが神さまに自分をささげて、「神の栄光のために用いて下さい」と願うなら、聖霊は喜んであなたを訓練してくださるでしょう。聖霊は気の合わない兄弟姉妹をあなたの側に置いてくださいます。妻もしくは夫があなたを砕いてくれるでしょう。あるいは困難な環境の中で、さまざまな試練を与えて、あなたを按配してくださいます。土の器のように、一度大きく砕かれたら、二度目は簡単に砕かれます。主は砕かれた人をご自分の御用のために用いられます。砕かれた魂から、ナルドの香油のように、神の霊が流れ出てくるのです。魂である思いと感情と意志を通して、現れてきます。霊だけでは何もできません。内におられる霊は、あなたの砕かれた思いと感情と意志を通して、外に現れたいと願っています。

2.魂の三の働き

「心」と言うのが一般的ですが、感情面をあらわすheartと混同する恐れがありますので、魂と呼ぶことにします。魂は働きから言うと、思い、感情、意志に分けられます。霊は自分自身を表現するために、思い、感情、意志を必要とします。霊は封印されて触れられていない魂ではなく、砕かれた魂を必要とします。砕かれた魂は、思い、感情、意志がすぐ用いられる状態になっています。第一は思いです。英語ではmindです。知性よりも「思い」のほうが適訳です。ある時、神さまは私たちの思想に触れられます。私たちの思想は混乱しており、的外れであり、利己的であり、訓練を受けていないものです。私たちは、自分は利口であり、何でも知っており、他人が思いつかないことを思いつくことができると考えています。このため、主は私たちが何度も間違ったり、躓くことを許されます。それは私たちが自分の思想に対して用心するようになるためです。正直、私は自分には知恵があると思っています。テレビのクイズ番組ではむきになります。しかし、高慢なところがあるので家内によくいさめられます。私もたくさん失敗して砕かれたので、このみことばを大事にしています。箴言35,6「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」。ところで、私たちの霊の働きの1つに直覚というのがありました。これは理由、環境、背景に関わらず、直接的な感覚や認識を持つことを意味します。直覚は、内側で知る知識について感覚を与えます。神についての事柄は、霊の中で感じられますが、それらが理解されるのは思いの中です。ところが、私たちの思いに問題があるためにそれを理解できません。時には二、三週間、あるいは数か月もたってからはじめて霊の中で感じていることを理解できることもあります。何かに気付いてはいるのですが、それを解釈することができないのです。ですから、そのことを理解するためには、思いが新しくされる必要があります。ローマ122英語詳訳聖書は「この時代の慣習に従わないで、思いが新しくされることによって、造りかえられなさい」です。本当に救われているクリスチャンであっても、霊的な事柄を理解できない人がたくさんいます。なぜなら、あまりにも現代的になっているからです。この時代の慣習に従っていたら、霊からくる神の思いを受け取ることができません。私たちの思いを神さまに向けることがとても重要です。

 第二は感情です。英語ではemotionです。mind と対比してheartと呼ぶ場合もあります。ある人はあまりにも感情が強いのです。「感情的に豊かだ」と言えば聞こえは良いのですが、内側の霊と連動していない感情です。喜ぶときは天にも昇る喜びですが、悲しいときはものすごく落ち込んで、だれも慰めることができません。ニール・アンダーソンは生まれつきの感情は、unstable不安定だと言っています。内側の霊が神さまへの愛と喜びで満ちあふれているのに、魂の感情は冷たく無感動ということがあります。内側の霊がとても悲しんでいるのに、魂の感情が笑っているときがあります。感情はとてもやっかいなものであり、私たちの問題のほとんどすべては感情に関係しています。そのため感情は聖霊の支配を受けなければなりません。感情が主の支配を受けるなら、主が喜べと言われたとき喜び、主が愛せよと言われたとき愛するのです。自分の感情を主人にしてはいけません。私たちはこれまで「気が向かないから」とか「好きじゃないから」と幾度も主に逆らってきました。私たちの好き嫌いが何であれ、憎んだり愛することが何であれ、主の感情に従って、私たちの感情を活用しなければなりません。また、神さまはあるとき、生まれつきの愛を砕かれるときがあります。マタイ1037-39「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」この命令は残酷のように聞こえますが、人はどんなことでも主の良しとされるまま、主の支配で愛さなければならないということです。自分には愛があると思っていても、人間的で人をダメにする愛もあるからです。私たちの感情が、主のご支配の下で保たれていますように。そうすれば、まわりを囲む環境がどうであれ、平安と喜びと満足感があります。

 第三は意志です。英語ではwillです。ウォッチマン・ニー師は本の中でこのように述べています。「私たちの意志は強いものです。それは強いだけではなく、頑固でもあります。私たちの霊が意志を必要とするとき、意志を見出すことができません。というのは、私たちの意志はあまりにも独立的に動き回っており、その手にあまりにも多くのものを持っているからです。神は私たちに強烈な一撃を与えなければなりません。神は私たちの意志を粉々にし、私たちを極度に辱めなければなりません。その時、私たちは、ちりに顔を伏し、次のように言わなければなりません。『主よ、私はあえて考えません。私はあえて求めません。私はあえて決めません。私は、すべてのことで、あなたが必要です。』私たちは、自分の意志が独立的に振る舞わないほどまでに、強く打たれなければなりません。その時になってはじめて、霊は意志を捕えて用いることができます。」この本を読んだとき、「私の家内は意志が強いなー」と思いました。家内が私の思い(知性)を砕いているように、私は家内の意志を砕いています。私は、あれやこれやと家内に反抗し、あるときはプライドを深く傷つけることさえあります。箴言2717「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」とあります。マルチン・ルターは、自己中心的な考え方をより薄め、イエス・キリストのようになる方法は2つあると言いました。「第一の方法は修道院に入ることである。そして、第二は結婚へと船出することである」と言いました。

 神さまは私たちの魂を滅ぼしません。しかし、神さまは、魂が砕かれない状態のままであることを許されません。神さまは、私たちの魂を通過したいのです。私たちの霊が私たちの魂を通して愛し、考え、決定をしてほしいのです。神さまの働きは、砕かれた私たちの魂を通してのみ達成することができます。もし、私たちが神さまに仕えたいのであれば、私たちはこの基本的な対処を経なければなりません。もし、私たちの魂が砕かれていなければ、主は私たちを通して道を持つことができません。神さまが他の人々に届くには、私たちの魂を突破しなければなりません。聖霊の訓練によって、あなたの思いと感情と意志が、正しく機能し、豊かに用いられますように。

3.管理された魂



 「管理」と言うことばが、今回引用しているウォッチマン・ニーとウィットネス・リーに良く出てきます。「聖霊の訓練」とか「聖霊の按配」とも言うようです。きよめ派の教会は、「取扱いを受ける」とか「きよめられる」と言うでしょう。詩篇5117「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。魂が砕かれると、内側から霊が流れてきます。しかし、霊自体は何もできず、思い、感情、意志を通して現れてきます。霊自体は無色透明ですが、あなたの思い、感情、意志という味付けを受けるのです。それはまるで地下から湧き出る温泉のようです。地下水自体は無色透明です。しかし、その途中岩盤を通るので、その味付けを受けます。だから温泉には、アルカリ性単純温泉から、塩化物、硫酸塩、鉄分、硫黄、二酸化炭素、放射能…様々あるのです。温泉の成分によって効能も異なります。私たち人間も同じで、霊が出てくるとき、その人のパーソナリティが一緒に出てきて、それが人々に触れます。それが一番分かるのが、人が口を開いて、言葉を発したときです。イエス様は「なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ645とおっしゃいました。私がこのように説教すると、聞いている人たちが何かを感じます。「鈴木牧師には学歴コンプレックスがある。8人兄弟で拒絶を受けた傷跡がある。不当な扱いを受けた怒りがある」と分かります。もし、聞いている自分の中に同じような傷を抱えているなら、その傷が同調して、聞くのが嫌になってきます。私の場合は、それらの問題から解放されているので、いわゆる温泉の成分になるのです。肩こり、神経痛、関節炎が癒されたりするのです。傷がなくて育ちの良い牧師の説教はアルカリ単純温泉のようにさっぱりしています。しかし、私はクセがあるので、万座や草津温泉のようにひりひりピリピリします。でも、効能があるので、不治の病も癒されます。

 魂が聖霊によって管理されるとどのようなことが起こるのでしょうか?3つ上げたいと思います。第一は、人の霊的状態が認識できるということです。私たちはその人が何かを隠そうとしているのか知らなければなりません。特に、神さまの前に奉仕し、人々を助ける働きをしている人はそうです。その人が頑固なのか謙虚なのか、その謙虚が本物なのか見せかけなのか?あるいはその人の際立った特徴を知らなければなりません。もし、神の霊が、私たちのところに来る人たちの状態を私たちの霊に示してくださるなら、彼らに適切なことばを与えることができます。イエス様はサマリヤの女性には、霊的に生まれることについては語られませんでした。また、イエス様はニコデモに、生ける水について語られませんでした。主は、ひとり一人に対して、適切なことばを持っておられました。医者が患者を診察するときには、多くの医療器具の助けを必要とします。ところが私たちはレントゲンやCTスキャンなどありません。では、どのようにして兄弟姉妹の霊的状態を知ることができるのでしょうか?私たちはどうしても、自分の主観とか得意分野があり、それで全部を理解しようとします。自分の同じ診断を押し付けて、ある場合は全く的外れで害になることもあるでしょう。正しい診断をするめには、代価を支払う必要があります。自分自身や、自分の誇りや、自分の狭さや、自分の意見や、自分の楽しみを捨てないと、自分と同じようなタイプの人には対処できません。私たちの魂が主の前で砕かれ、自分自身の特徴がなくなります。そういう状態で、問題を持った人と接するとき、相手の怒りや高ぶりや頑固さ、しっと深さをキャッチすることができます。なぜなら、自分の魂が霊と分離されているので、相手がどんな霊を持っているのか分かるのです。厳密に言うと、霊そのものではなく、その人の魂の状況です。その人の霊が温泉のように味付られて出てくるからです。

第二は、福音を宣べ伝えたり、みことばの御用ができるということです。私たちは親しい人に伝道したい、あるいはみことばを教えて元気付けてあげたいと思うでしょう。しかし、最初はおだやかでも、あとから議論になって、物別れで終わるということはないでしょうか?私たちは聖書的な知識をたくさん蓄え、話術を学べば、効果的に話すことができると思っています。しかし、それは大きな間違いです。人は感情とか知的なことばで信じるのではありません。あなたが人に向かって話すとき、実はあなたの霊も一緒に出ているのです。あなたの霊がその人の霊に触れるのです。するとどうでしょう?「この人には私を支配したいという思いがある。この人は、愛ではなく義務感でやっている。この人は本当に信じてはいない」。相手も霊をもっているので、それが分かるのです。私も講壇からメッセージをしていますが、ことばだけではなく、私の霊がひとり一人に触っているのです。すると「これは嘘っぽい」とか「これは真実だ」と霊的な印象を受けるのです。人は知的な生き物ですが、同時に霊的な生き物なので、あなどることはできないのです。私たちの霊がほとばしるなら、他の人は打たれるでしょう。福音を宣べ伝えたり、みことばを教えたりするときには、解き放たれた霊が必要なのです。

 第三は、環境に関係なく、神の臨在を享受できるということです。ブラザー・ローレンスは、炊事場で働きました。多くの人がやって来ては、彼に仕事を要求しました。彼の周りでは、至るところで騒音が聞こえました。しかし、ブラザー・ローレンスは、これらのことには影響されませんでした。彼は祈る時、神の臨在を感じました。また、忙しく働いている時も神の臨在を感じていました。彼は山と積まれた仕事をこなす最中に、どのようにして神の臨在を保つことができたのでしょう?その秘訣は、外側のいかなる騒音も、彼の内なる存在に影響を与えなかったことにあります。神さまを知らない人たちは、「皿のけたたましい音」のない環境をさがします。彼らは人々や活動から遠く離れれば離れるほど、神の臨在にますます近くなると考えます。問題は、皿でもなく、人々でもありません。問題は彼ら自身の中にあるのです。私たちの周囲のものはみな混乱のるつぼの中にありますが、私たちは内側では影響されないままでいることができます。ひとたび魂が砕かれれば、人は神さまに立ち返る必要はありません。というのは、彼は神さまといつも一緒にいるからです。魂が砕かれていると、外側の出来事が内側の霊に影響しません。完全に分離されているので、霊は神さまと交わっています。私たちもブラザー・ローレンスのように、外側のことで忙しくても、霊においては神さまと共にある生活を喜びたいと思います。

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2018年5月18日 (金)

人間の霊 創世記2:7-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.20

 教会では、「人間は霊的な生き物であり、動物とは違う」と良く言われます。しかし、霊とは何なのか詳しく説明されることはありません。そのため人々は、ニューエイジや新興宗教の霊的な世界へと誘惑されるのです。新約聖書時代には、「グノーシス」という霊的体験を強調するキリスト教の異端がありました。そういうこともあり、教会は霊的なことは危険なので、あまり取り扱わないできました。そのために、今日は礼拝でこのテーマを扱うことにしました。 

1.霊の起源と堕落

 人間には、どうして霊があるのでしょうか?霊の起源はどこなのでしょうか?それは聖書の創世記まで遡ります。創世記126-27「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」このところには、「神のかたち」という言葉と、「神に似る」という言葉があります。神学者たちはこの2つはそれぞれ違うとも言うし、いやこれは1つのことだと言う人もいます。とにかく人間は神と似ているところlikeness、神のかたちimageがあると言うことです。さらに進んで創世記2章に別のアプローチで人間創造のことが記されています。創世記27「主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」人間の肉体は、土で造られました。パウロも私たちは「土の器」であると言っています(参考;Ⅱコリント57)。しかし、それだけではありません。主なる神さまは、ご自分の息をその鼻に吹き込まれました。ヨブ273「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」と書いてありますので、そのとき神自身の霊を入れてくださったのです。一方、動物は神のことばによって造られました。動物にも魂(心)はありますが、霊はありません。イザヤ313「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない」と書かれています。人間と動物の決定的な違いは、人間は神のかたちに似せて造られ、その中に霊が宿っているということです。だから、人間には発明する力、愛する力、そして神のように動物や自然界を支配する力があるのです。社会学者たちは進化論に立ち、創造主なる神を認めないので、迷路にはまっています。この世の教育も、進化論の影響を受けているので、人間の尊厳を見失っているのです。

 ここで終われば良いのですが、この物語の続きがあります。神である主はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記216-17と言われました。善悪の知識の木は、神の主権を象徴しています。その木から取って食べるということは、自分が神になるということです。ところが、アダムとエバはヘビに化けたサタンによって誘惑され、その木から取って食べてしまいました。創世記37-8「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」彼らは「それを取って食べたら死ぬ」と言われていました。ところが、すぐには死にませんでした。「アダムは930年生きて、そうして死にました」(創世記55)。すぐに死んだのはアダムの霊であります。霊である神さまとの交わりが途絶えてしまいました。そのため、アダムには恐れと恥がやってきたのです。創世記37「二人の目は開かれた」と書いてあります。ウォッチマン・ニー師は、「そのとき人間の霊が死ぬ代わりに、魂が異常に発達した」と言っています。そうです。それまで、アダムは神さまと親しく交わり、神さまが言われることに何でも従ってきました。アダムにとって善悪の基準は神さまのことばに従うことでした。ところが、神と交わる霊が喪失し、その代り自分の魂で何でも考えるようになったのです。アダム以来の人間は、みな霊的に死んでおり、自分の魂で生きて、「それが良いことなんだ」と思っています。創世記主6章で、主は「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられました。ノアの後、人間の寿命はだんだん短くなり、120歳が限度になりました。人間の霊が死んだので、それが肉体の寿命、自然界の支配力、正しい生き方にも影響を及ぼしてしまったのです。旧約聖書の歴史は神さま対する不従順の歴史です。肉にある者は、神さまの戒めに従い通すことができないのです。

 しかし、旧約聖書にも希望が記されています。エゼキエル3626-27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」これはイエス・キリストによってなされる霊的生まれ変わりを預言している箇所です。従来の心はかたくなで、石のような頑固な心です。でも、石の心を取り除き、柔らかい肉の心を与えると預言されています。でも、その中心は「あなたがたのうちに新しい霊を授ける」という約束です。これまで多くの神学者たちが、人間の堕落性はどの程度なのか議論してきました。宗教改革者たちは「人間は完全に堕落したので、自分では神を見出すことができない」と言いました。しかし、カトリックと自由主義神学者たちは、「自然主義」を訴え、人間には神を見出す力、理性があると言いました。つまり、いくらか神のかたちが残っているという考えです。私たちは自然界、たとえば宇宙や動植物、人間の体を見るとき、「これは偶然ではない」と思います。そこには不思議な秩序、緻密さ、一定の法則があるからです。人間は自然界を見て、「ああ、神さまがいるのではないだろうか?」と思うでしょう。しかし、それはsomething greatであって。キリストの神さまではありません。ニューエイジは、大自然の見えざる力、サムシング・グレートと言います。しかし、それは人格のない大宇宙の霊であります。私たちは私たちを愛しておられる人格的な、キリストの神と出会わなければなりません。

2.霊の新生

イエス様は山上の説教で「心の貧しい人は幸いである」(マタイ53と言われました。しかしキング・ジェームス訳はこうなっています。"Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.「霊において貧しい人は祝福される」というのが正しい訳です。言い換えると、神さまと交わることができないので、貧しさを覚えている人、霊なる神さまを慕っている人であります。そういう人が祝福されるのです。残念ですが、この世の人たちは神さまなしでも平気で生きています。物質の豊かさや、良好な人間関係ばかり求めています。その証拠に、テレビのCMのほとんどが食べ物、着る物、持ち物です。そして、とても多いのがスマホのCMです。新聞には「スマホの通信代が家計を悪化されている」と書かれていました。クリスチャンも、本当は聖書を読み、神さまと交わるべきなのですが、インターネットやテレビを見たりしています。確かに水平的な情報は得られるかもしれませんが、時間や空間を超えた垂直の情報は、まことの神さまからしかやってきません。生まれつきの人間であっても、「これで良いのだろうか?」と飢え渇きを覚えるときがあります。まさしく、「霊において貧しい人は祝福される」ということです。

ヨハネ3章にはニコデモが夜、イエス様を訪ねてきたことが記されています。彼はイスラエルの教師、サンヒドリン議員、宗教的な人物、そして金持ちでありました。ユダヤ人から見たら、彼みたいな人が天国に行ける一番ふさわしい人物でした。ところがイエス様は「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ35,6と言われました。人間は母の胎内から肉体的に生まれます。しかし、それだと霊的に死んでいる状態であり、神さまのことが分かりません。イエス様は「神の国に入ることができないし、神さまを見ることもできない」と言われました。ヨハネ9章には「生まれつきの盲人の癒し」が記されています。そこでは「私たちは見える」と言い張る人は、「本当は見えていないのです」と言われています。では、どうすれば良いのでしょうか?イエス様はエゼキエル書で言われていたことを実現させるために来られました。バプテスマのヨハネは、「その方は、聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と言いました。そうです。イエス様はご自分を信じる人に、聖霊による生まれ変わりを与えるお方なのです。ここでは聖霊は「風」にたとえられています。聖霊も風のように目には見えませんが、その人の心に吹くと、その人が霊的に生まれ変わるのがわかります。創世記に行われていたことが、キリストを信じる人になされるのです。その人は霊的に生まれ変わるのです。テトス35-6「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」アーメン、これこそが聖書が言う救いであります。

 しかし、私たちは霊の存在を魂との関係ではっきりと知る必要があります。なぜなら、西洋から来たキリスト教は霊と魂の区別がないからです。一番問題なことばは、soulであります。英語の辞書によると「霊魂、魂、霊。人間の肉体に宿り、生命・思考・行動・心の根源で、肉体から離れても不滅で存在すると考えられる」と書かれています。簡単に言うと、西洋の人にはspiritsoulの区別があまりないということです。また、しばしば、「心」と言いますが、それが魂なのか、霊なのかよく分かりません。心理学はサイコロジーと言いますが、元来、プシュケー(魂)から来たものです。そのため心理学者は魂(心)の存在は認めますが、霊の存在は認めません。彼らには霊的な神が存在しません。「心理学は無神論者によってはじめられた」と言っても過言ではありません。もちろん、彼らによって心の多くの分野が解明されたことは確かです。でも、先在意識は認めても、霊の存在を認めていないのは残念です。使徒パウロは、人間は3つのものでできていると言いました。Ⅰテサロニケ523「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」と祈りました。きょうは話しませんが、たましいは3つのものでできています。それは、知性(思い)、感情、意志です。しかし、これだけだと霊との関係がよく分かりません。

 私たちが霊的に生まれ変わる時、どのようなことが起こるのでしょうか?それは、エペソ4章とコロサイ3章に記されています。エペソ422-24「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」ここには、3つのことが記されています。救いの3段階と言っても良いかもしれません。第一は、古い人を脱ぎ捨てることです。古い人とは、生まれつきの心です。エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」人間の心は改善不可能であり、十字架によって死ぬしかありません。キリストにあって私たちは古い人に死んだ存在です。第二は、心の霊において新しくされるのです。これは心の中にある霊が新しくされるということです。英語の聖書はrenewであり、再び新しくする、更新する、新品のようにするという意味があります。このところから、人間の霊は全く死んでいたということよりも、「かすかに生きているが貧しい状態である」と暗示しています。とにかく、霊が生まれ変わり、活動を再開したということです。第三は、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るということです。コロサイ3章には「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と書かれています。心理学的にいますと、人格であります。私たちはクリスチャンになって霊的に生まれ変わっても、裸、ありのままではいけないということです。霊的に生まれ変わったら、そこにキリストに似た新しい人、品性を身に着るということです。このように聖書は「救い」ということを霊的にもはっきりと説明しています。

3.霊の機能

 キリスト教会では「人間の霊」の存在を認めてきました。また、福音派ではよく「霊的だとか霊的でない」とか言われます。また新約の書簡には「御霊」ということばがよく出てきますが、原文はぴプニューマであり、人間の霊なのか神の霊なのかはっきりしません。日本語の聖書は聖霊を「御霊」と訳していますが、あきらかに解釈が入っています。実際のところ、はっきりしないのです。なぜかと言うと、生まれ変わった霊の場所に、聖霊が臨在するからです。第三のポイントでは霊の機能、働きについて学びたいと思います。ウィットネス・リー師が『神の永遠のご計画』という本の中で、このことを詳しく述べています。ある人は、「それは仮説ではないだろうか」と言うかもしれませんが、彼はウォッチマン・ニー師と並んで、神からの知恵を豊かに受けた人です。その本の中に、霊には3つの部分があると書かれています。3つとは、良心、交わり、直覚です。少し彼の本を引用しながら、述べたいと思います。「良心」は容易に理解できます。私たちにはだれでもこれをよく知っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とすることは、良心の別の働きです。「交わり」を理解するのも容易なことです。交わりとは神と私たちが交わることです。私たちの霊の内でこのような機能によって神に触れることができます。簡単に言って、交わりとは神に触れることです。しかし、「直覚」を理解することはそんなに簡単ではありません。直覚とは、直接的な感覚、あるいは直接的な認識を持つことを意味します。私たちの霊には理由、環境、背景に関わらず、直観なるものがあります。それは理由のない感覚、すなわち「理由づける」ことのできない感覚です。それは神からの直観であり、神からじかに知らされることです。この機能がいわゆる霊の直覚です。このように良心、交わり、直覚の機能によって霊というものが分かります。

 今言われたことから以下のことが考えられるのではないでしょうか?良心の弱い人というのは、善悪の区別がつきません。頭では悪いと知っても、それが心の意志まで届きません。だから分かってはいるけど、ついつい悪事にはまってしまうのです。人間にはある程度の良心がありますが、霊的に生まれ変わっていないと非常に弱いということです。絶対的な基準がないので、時代や人々の考えに流されてしまいます。でも、霊的に生まれ変わると、誘惑に対して強くなり、悪の道にはまらなくなるということも確かです。使徒パウロは「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています」(ローマ91と言っています。良心が霊の中にあるという事実は偉大ではないでしょうか?第二の「神との交わり」は、祈りということができます。クリスチャンになる前は、どの神さまに祈って良いか分かりませんでした。また、一方的で漠然的だったかもしれません。しかし、霊的に生まれ、父なる神さまに対して、だんだん話せるようになります。まるで生まれた赤ちゃんが成長していくと、話すことばを覚えるのと同じです。霊的に成長すると神さまが共におられることが分かり、神さまとの交わりが楽しくなります。パウロは「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」(エペソ618と言いました。しかし、これは、冠詞がないので、「御霊」ではなく、私たちの「霊」です。私たちは霊によって神さまと交わるのです。第三は、「直覚」ですが、これは90度のことではありません。英語でintuitionと言いますが、すばやく見抜くこと、洞察力、直観であります。女性は生まれつき直観が強いと言われています。理性や常識が、直覚のじゃまになることがあります。神さまが直接、私たちの霊に語りかける時があります。それを正しくキャッチすることができたら幸いです。パウロは「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう」(Ⅰコリント211と言いました。私たちの霊は魂が識別し得ないことを識別することができます。

 今日、三一の神さまはどこにおられるのでしょうか?父なる神さまは天におられます。イエス様は父なる神の右の座におられます。でも、それだけではありません。父なる神の霊とキリストの御霊と聖霊が、私たちの霊の中におられるのです。旧約聖書には神の幕屋、あるいは神殿について記されています。外庭にあたるものが私たちの肉体です。聖所にあたるものが私たちの魂です。そして、至聖所にあたるものが私たちの霊です。旧約時代、神さまは至聖所に臨在されました。至聖所こそが神ご自身が住まわれる場所でした。しかし、新約時代では、キリストに贖われた者の中に神さまが住んでくださるようになりました。私たちの至聖所である霊にであります。三一の神さまは私たちの奥底、霊の中に住んでおられるのです。パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。そうです。キリストが私たちの霊の中に住んでおられるのです。「内住のキリスト」と言いますが、私たちはこのお方に注意を向けなればなりません。この「内住のキリスト」という目標からそれてはなりません。ウィットネス・リーが『神の永遠のご計画』の中でこう勧めています。「良くなろうとか、良い行いをすることについてもう忘れてしまいなさい。それらの良い物事すべてを捨てて、至聖所に入りなさい。外庭で忙しく働いているクリスチャンが多いのです。彼らは自分に対する神の計画は、神に触れることのできる至聖所に入り、神に満たされ、神に占有され、あらゆる事で神と一つとなり、自分のすべてとして神を得ることを知らないのです。あなたの霊を識別して、内にいますこのお方と交わりを持ってください。このお方にあなたを譲り渡して、あなたを占有させなさい。」アーメン。キリストの内住を占有させなさい、妨げるものがあります。それは宗教的なものです。私たちは救われた後、自分は弱いと感じるので、もっと力が与えられるように聖霊が私たちの上に注がれるように祈ります。それよりも、私たちの霊によって、三一の霊に従うことにあるのです。また、私たちの魂は神さまに従うことを喜びません。ですから、最も重要なことは、私たちが自分の霊を知り、魂を否むことにあります。私たちは自分の魂を否んで、自分の霊に従って歩む必要があります。なぜなら、三一の神は、私たちの霊の中におられるからです。ジュピターの歌詞は、Every day I listen to my heart(自分の心に聞く)です。しかし、私たちは自分の霊に聞くのです。なぜなら、そこには三一の神の霊が臨在しておられるからです。

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2018年5月12日 (土)

信仰を用いる ヘブル11:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.13

 人はイエス・キリストを信じことによって義と認められ救われます。次に神さまは信仰を用いて生活することを願っておられます。ヘブル116「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と書かれています。つまり、救われて天国に行くだけではなく、「地上で信仰を用いて豊かな生活を送るように」ということです。信仰を用いなければ、それは「宝の持ち腐れ」です。では、どうしたら信仰を用いて生きることができるのでしょうか?

 

1.信仰を受け取る

 ヘブル111「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」このところに「信仰とは何か」、はっきり定義されています。しかし、残念ながら、この日本語訳は「いまいち」です。キングジェームス訳は、Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.となっています。信仰はsubstanceだと書かれています。Substanceとは何なのでしょう?辞書には、「(物の構成要素としての、または特定の性質か化学的成分を有する)物質」と書いてあります。あるいは、実質、本質、実体となっています。ウォッチマン・ニー師は「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と訳しています。人間は生まれつき、ある程度の信仰を持っています。人は何かを夢見て、何かを信じて、努力しています。発明や発見も「きっとそうなる」と信じて、たゆまぬ努力を重ね、やがて実体化します。でも、聖書が言う「信仰」は生まれつきのものではありません。この信仰は、神さまが与えた賜物です。重要なのは、先に神さまのことばや約束があり、それを私たちが信じるということです。神さまから何の約束も受けていないのに、自分勝手に信じるというのは愚かなことです。私も韓国のチョー・ヨンギ牧師のような大教会を目指して、信じて必死に祈り求めました。「夢を抱いて、信じれば、必ずそうなる」と言われたのに、「そうならないのはどうして?」と失望落胆しました。もちろん、信じて与えられたものもあります。でも、それは「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」という確率の低いものでした。なぜか、それは神さまのことばや約束を都合よく解釈し、ただ求めたからです。ジョージ・ミュラー5万回の祈りが聞かれたそうです。まさしく彼は信仰の人でした。私も彼のようになりたいと望んで彼の本を読みました。しかし、ストレスがたまり嫌になって、結局はその本を捨てました。「ああ、彼は信仰の賜物を持った特別な人だったんだ」と結論を下しました。

信仰を語るときに最も有名な箇所は、マルコ11章のみことばでしょう。マルコ1122-24イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。日本語の聖書には「神を信じなさい」となっていますが、ギリシャ語や英語の聖書は「神の信仰を持ちなさい」となっています。つまり、この信仰は自分から得たというよりも、神さまがあなたに与えた信仰を持つということです。たとえば、神さまが「お金の入った財布をあげます」とおっしゃったとします。「ああ、そうですか、ありがとうございます」と言っただけでは、自分のものになりません。手を出して、その財布を受け取らなければなりません。その手にあたるものが信仰です。旧約聖書でイスラエルがカナンの地を征服するように命じられました。その時、モーセの後継者であるヨシュアがこのように言われました。ヨシュア12-4「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。」ヨシュアはこれからヨルダン川を渡って、約束の地に入ろうとしていました。主は「イスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所は、モーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」と言われました。だからと言って、自動的にそれらの土地がイスラエルのものになったのではありません。ヨシュアたちが攻め上って、原住民を追い払う必要がありました。この先、ヨシュアは信仰に立ってカナンに攻め上りました。でも、その前に、神さまの約束のことばがありました。ヨシュアはそれを信仰によって受け止めたのです。

 信仰を得るためには、神さまからの語りかけを聞く必要があります。ある時、神さまは「あなたはこれを求めなさい。あなたに与えるから」とおっしゃるでしょう。もちろん、神さまの御声は肉体的な耳では聞き取れません。私たちは聖書を読んでいると、「ああ、これは神さまが私に語っている約束ではないだろうか?」と思うことがよくあります。その約束をつかまえて祈るのです。そうするとそれが信仰になります。私はこのような姿勢を取るようになってから、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」から確率がぐっとアップしました。Ⅰヨハネ514-15 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」私にとって、最初、このみことばは脅威を与えるみことばでした。なぜなら、マタイ77「求めなさい。そうすれば与えられます。だれであれ、求める者は受ける」と矛盾するように思えたからです。「そんな簡単に神のみこころが分かるだろうか?求めるのが先ではないだろうか?」という反発心がありました。でも、イエス様の行動を福音書から見ると、「確かにそうだな」と思います。たとえば、死んで四日もたったラザロの墓の前で、イエス様はこのようにおっしゃいました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」(ヨハネ1141,42)。まだ、ラザロは生き返っていないのに、既に感謝しています。イエス様はいちかばちかで「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれたのではありません。父が願いを聞いてくださることを確信して叫ばれたのです。同じように、イエス様がわずかなパンで5000人以上の人たちを養ったときも、前もって感謝しています。

 私たちは信仰を得るためには、神さまから何を求めたら良いのか聞かなければなりません。神さまから約束のみことばをいただく必要があります。もちろん、私たちの方からも求める必要があります。でも、矛盾しているようですが、神さまから「いいよ。それを求めなさい」という約束もいただく必要があるということです。弟子たちが夜のガリラヤ湖で漕ぎ悩んでいました。するとイエス様が湖の上を歩いて、自分たちの舟に近づいてくるではありませんか。最初は幽霊だと思って恐れましたが、その方がイエス様だとわかりました。マタイ1428-30 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そのとき、ペテロは水の上を歩いてイエス様のところに近づきたいと思いました。そして、「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願いました。ペテロはマタイ7章のみことばのように「求めた」のです。すると、イエス様が「来なさい」と言われました。これはイエス様の約束のことば、レーマであります。ペテロは信仰によって、舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に向かいました。神からの信仰が与えられ、奇跡が起きたのです。ところが、風を見て、怖くなり、沈みかけました。ペテロは疑ってしまい、それで沈んでおぼれたのです。でも、ここから学べることは、ペテロの「行きたい」という願いとイエス様からの「来なさい」がマッチして、信仰となったということです。ペテロには欠点もありましたが、信仰の人でした。神さまはペテロのように信仰のある人を喜ばれます。

 では、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」式の求めではなく、確率を上げるためにはどうしたら良いのでしょう?ローマ1017「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とあります。ペテロがそうであったように、聞くことが重要です。聖書のことばを読んでいると、神さまが語ってくださるときがあるということです。神さまはあなたに「これを求めなさい」とおっしゃるのです。それを捕まえて、祈ったならば、それは山をも動かす神からの信仰になります。もちろん、聖書のことばを読んでいないときでも、神さまは語ってくださいます。ピリピ213口語訳「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」神さまはあなたに願いを起こさせて、「これを求めなさい」とおっしゃってくださいます。「願い」は英語でdesireと言います。ビル・ジョンソン師は、ラテン語のsireは「父親」で、deは「下る」という意味であると言いました。つまり、父なる神さまから下ってくる願いがあるんだということです。その約束のことば、あるいはビジョンこそが、神からの信仰になるのです。信仰は目に見えないものを掴む手であります。父なる神さまがあなたにこれをあげようとしています。手を差し出さないのはもったいないです。どうぞ、信仰の手を差し出して、神さまが与えたいと願うものをいただきましょう。

2.信仰を行動に移す

 前のポイントでは「神さまから信仰をいただく」という受動的なことを言いました。後半は、「その信仰を行動に移す」という能動的なことをお話ししたいと思います。旧約聖書にも新約聖書にも、神の人々が信仰を行動に移すことによって偉大なわざを行うことができた例が見られます。偉大な奇跡は、神のことばに基づき、すなおな信仰をもって行動した人々によってなされました。第一のポイントでヨシュアのことをお話ししましたが、信仰を行動に移すときがやってきました。ヨシュア6:2-5主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」主はヨシュアに「エリコをあなたの手に渡した」と言われました。これは神さまからの約束であり、神さまからの信仰です。でも、このことは、ヨシュアとイスラエルの民が何もしないでくつろいでいた時に、その町が自動的に彼らのものとなったという意味ではありません。主は、彼らにお与えになったその地を、どのようにやって所有すればよいか、はっきり指示されました。彼らは主のことばを信じ、それに基づいて行動しなければなりませんでした。彼らはその町の周りを一日一周、六日間、行進しなければなりませんでした。七日目は、その町の周りを七回行進しなければなりませんでした。その後、角笛を吹き鳴らす時、彼らは叫び声をあげなければなりませんでした。注意すべきことは、城壁がまだそびえ立っている時に、彼らが叫び声を上げたということです。城壁がくずれ落ちた時なら、だれでも叫び声を上げることができます。そうするには、どんな信仰もいりません。しかし、彼らは信仰を行動に移したのです。「大きな叫び声を上げた」のです。すると、城壁は落ちました。

 ケネス・ヘーゲン師が『信仰による歩み』という本の中でこのようなことを証しています。20世紀のペンテコステ運動の初期、ある女性伝道者が4人の車椅子の人たちに奉仕していました。彼女はとても静かな声で、こう言いました。「イエスの御名により、起きて歩きなさい」。その人たちのうち3人が起きて歩きました。4人目の人は、「私は歩けません」と言いました。「他の人たちも歩けなかったのに、歩いたんですよ」と、その伝道者が言いました。足の不自由なその婦人は「彼らが歩いたことは、わかっています。でも、私は歩けません。お分かりのように、私は長年、歩いたことがないのです」と答えました。その伝道者は、座っているままのその婦人を残して立ち去らなければなりませんでした。他の3人は自分の信仰を行動に移し、その結果を刈り取ったのです。私がある教会で奉仕していた時、下半身にやけどを負ったために歩くことができずにいた男性がいました。ある日の晩のいやしの集会で、彼は祈りを求めて前に出てきました。主は、私が何をすべきか、私に語っておられました。私は彼のところに来た時、「あなたは走れますか?」と彼に尋ねました。彼は、そんな質問をされてびっくりし、こう言いました。「いいえ、できません。私は歩くこともできません。まして、走ることなど、できません」。それから私はこう言いました。「主は私に、あなたに走るように告げなさいと語られました」。すると、その男性は、そのことをもう一度考えてみようともしませんでした。彼はすぐに向き直って、通路を全力疾走し始めたのです。こうして彼は教会内を三周か四周走りました。そして、再び戻って来た時、彼は正常に歩いていました。彼は完全に癒されました!彼は自分の信仰を行動に移したのです。

 新約聖書にも同じようなことがいくつも記されています。ルカ5章に、中風をわずらっている人を4人の人が床の上に載せて運んで来た記事があります。何とかして、家の中に運び込み、イエス様の前に置こうとしました。ところが、戸口まで人々があふれており、どうにも病人を運ぶ方法が見つかりませんでした。しかし、彼らはあきらめませんでした。屋根に上り、瓦に穴を開け、そこから寝たきりの人を部屋の主の御前につり下ろしました。イエス様は「彼らの信仰を見て」とおっしゃいました。では、だれの信仰によって、この奇跡がもたらされたのでしょうか?その寝床の上に横たわっている人の信仰でしょうか?彼を主のもとに連れて来た友人たちの信仰でしょうか?「彼ら」というのは複数形です。それは、彼ら全員の信仰でした。その人の友人たちが、戸口まで人々があふれているのを見て、「やることはやってみた。私たちは最善を尽くした」と言って、あきらめて家に帰るのは簡単なことでした。しかし、彼らは友人をイエス様のもとに連れ出す方法を見つけました。病人自身も、偉大な信仰を現しました。もし、彼が日本人ならこう言うかもしれません。「人の屋根に穴をあけるなんて迷惑をかける」「床に寝たままでは恥ずかしい。もう帰ろうか」。でも、彼は素直に人々の前につり降ろされたのです。イエス様は「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。「ああ、そうですか。アーメン」。その次に、イエス様は彼に「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。彼はそれまで自分では何もできませんでした。彼はこういうことも可能でした。「『起きて歩け』だって?起き上がることができないので、この人たちが運んでくれたんじゃないですか」。しかし、彼はそうはしませんでした。イエス様が彼に「起きなさい」と言われた時、彼は体を動かし始めました。そして、彼がそうした時、その結果、癒しが起こったのです。彼は主のことばを信仰によって受け、そして行動しました。その結果、奇跡を受け取ることができたのです。

 私たちは特別な信仰がなくても、生活することができます。どこの学校に入るか、どんな仕事につくか、どんな人と結婚するか、何人子どもを産むか、どこに住み、どんな家を建てるか、どんなお墓を建てるか?この世の人たちは、自分の知識や経験、この世の常識、時には専門家の意見を聞きながら決定するでしょう?でもそれは、きわめて安全かもしれませんが一般的な生き方しかできません。英語ではそれをordinary life「普通の生き方」と呼びます。でも、私たちは神から与えられた信仰を用いて生活するように召されています。そうするなら、この世にあっても、御国の奇跡を味わいながら生活することができるからです。英語ではそれをextraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」と呼びます。御国では、奇跡は普通のことです。足なえが歩き、目の見えない人が見え、口のきけない人が歌います。御国が完成してから、奇跡をもたらすような信仰は必要でありません。なぜなら、そこでは普通だからです。私たちはこの世において、神からの信仰を用いて生きるように召されています。そうすることによって、人々は「ああ、神さまは生きておられる。御国がこのところに来ている」と知ることができるからです。クリスチャンとして恥をかかない、常識的な生き方も良いかもしれません。この世でもノーベル賞、オリンピックメダルなど、偉大なことを自分の力でやる人はいるでしょう。しかし、それはごく一部の限られた人にしかできません。神さまはごく普通のクリスチャンに、偉大なことをして、「御名があがめられ、御国が来るように」したいのです。そのためには私たちはたえず聖書を読み、約束のことばをいただく必要があります。父なる神さまから下る、願いdesireを信仰の手でキャッチする必要があります。その次に信仰によって一歩進み出すのです。手を伸ばすのです。立ち上がるのです。そうすると、奇跡が、神さまのみわざが現れるのです。あなたは、ordinary life「普通の生き方」を送りたいでしょうか?それとも、extraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」を送りたいでしょうか?

 ヨシュアたちが、ヨルダン川を渡る時も信仰を行動に移すことが必要でした。モーセのときは、モーセが杖を伸べたとき、海が別れたので、海の底を渡ることができました。しかし、川は川上からどんどん水が流れてくるので、これもまた大変なことでした。川が枯れてから渡るのはだれでもできます。しかし、主はヨシュアにこう言われました。ヨシュア38 「あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」ヨシュアは主の約束のことばを信じて、祭司たちにそうするように命じました。箱をかつぐ者がヨルダンまでに来たとき、川の水がせき止められて道ができたとは書いていません。そのときは、普段よりもヨルダン川の水が岸一杯まであふれていました。現実的には無理です。でも、祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川の水がせきとめられました。イスラエルの民は、かわいた地を通り、ヨルダン川を渡りました。このところでも、神からの信仰を受けたこと、そして信仰を行動に移したことが記されています。イエス様が「手を伸ばせ」と命じたら、伸ばすのです。イエス様が「立って歩め」と命じたら、立って歩くのです。イエス様が「病を癒されよ」と言われたら、何の変化が感じられなくても、健康な生活をするのです。聖歌539「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし。何をも見ず、また聞かずとも、神のみ約束に立ち。歩めよ、信仰により、歩め歩めうたがわで。歩めよ信仰により、見ゆるところにはよらで。あなたは、自分の知識や経験、この世の常識、時には専門家の意見を聞きながら「普通の生き方」を送りたいでしょうか?それとも、神から与えられた信仰を用いてextraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」を送りたいでしょうか?

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2018年5月 4日 (金)

信仰によって歩む Ⅰヨハネ4:12-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.6

ローマ117「義人は信仰によって生きる」と書いてあります。これはマルチン・ルターが「信仰によって義とされること」(信仰義認)を発見した聖書箇所と言われています。しかし、このみことばは、救われた人、つまり「義人は信仰によって生きるべきである」ということも教えています。きょうは救われた人、クリスチャンはどのように生きるべきなのか2つのポイントで学びたいと思います。

 

1.信仰と感情

 イエス様を信じて救われた直後は、天にも昇るような喜びであります。「罪赦され、永遠のいのちが与えられた。私は新しく生まれ変わることができた。ハレルヤ!」救われた時は、たとえ人からどう言われようと、神さまと自分の体験を話したいものです。神さまは確かに、このような信仰のハネムーン期を与えてくださいます。しかし、この感激は残念ながら、数か月しか持ちません。聖書を読んでもあまり感動しなくなります。牧師のメッセージも前は、自分のために語っているような気がしましたが、今はそうではありません。喜びも薄らいで、トンネルの中を通過しているような感じがします。では、キリストを信じていないのか、自分は救われていないのかというとそうでもありません。神さまは信じているのですが、あふれるような喜び、幸福感がなくなったということです。このようなことは、洗礼を受けた人なら、だれでも体験するのではないでしょうか?落ち込んで、教会の礼拝に来なくなる人がいますが、そうしてはいけません。感情がどうであれ、信じ続けるのです。キャンパスクルセードの『4つの法則』の最後のページに汽車の絵が描いてあります。題名は「感情に頼ってはいけません」とあります。「私たちのよりどころは、自分の感情ではなく、神の約束のことば(聖書)です。クリスチャンは神ご自身と神のことばとは信頼に価するものであるという信仰(信頼)によって生きるのです。」そして、機関車と客車の絵が描かれています。ちょっと時代的に古い感じがしますが、まあ、いいでしょう。D51を見たことがあるでしょうか?機関車、石炭の貨車、客車と3つ並んでいます。それを順番でいくと、事実、信仰、感情であります。客車なしでも機関車は走ります。しかし、客車で機関車をひっぱることはできません。これと同様に、クリスチャンは感情、または気分に頼って生活するのではなく、神ご自身と神のことばの約束は信頼に価するものであると信仰(信頼)して生きるのです。アーメン。みことばの事実を信じていくと、感情がついてくるということです。

 きょうの聖書箇所、Ⅰヨハネ412「いまだかつて、だれも神を見た者はありません」と書いてあります。私たちは目に見えない神を信じています。さらに、Ⅰヨハネ413「神は私たちに御霊を与えて下さいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」と書いてあります。御霊、聖霊は目に見えません。なのに、ヨハネは「それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」と書いています。これは私たちが持っている肉体の五感では無理です。信仰よって、あるいは霊によってでしか理解できないことです。自然科学の世界ではなく、信仰の世界、霊の世界であります。だけど、イエス様を信じたら、「ああ、確かに私たちの中に神さま(イエス様)がおられる」と言うことが分かります。この世の人たちは「神さまが私の内におられるだって?そんな馬鹿な?」と言うでしょう?でも、それは神の御霊があなたに教えてくださるからです。イエス様を神の御子として告白するとき、神さまがあなたの中におり、あなたも神さまの内にいるのです。これは内にも、外にもどっぷり浸かっているイメージがあります。もう一度そのことを確認したいと思います。Ⅰヨハネ416「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」神さまの愛を受けるため、あるいは神さまの愛を知るにはどうしたら良いのでしょう?それはイエス様を神の御子として信じることからやってくるのです。すべては信仰がはじまりです。ところが、この世の人たちは「神さまを見せてくれ、その愛を見せてくれ、そうしたら信じる」と言うでしょう?しかし、それは逆なのです。なぜなら、神さまが見えて、その愛を体験したなら、信じる必要がないからです。何度も言いますが、イエス様を信じると、神さまがおられることや、神の愛が分かってくるのです。

 私は25歳のときイエス様を信じました。その日は、1979415日でした。座間キリスト教会のイースター礼拝からアパートに戻ってきました。その時、職場の先輩も訪ねて来たんです。彼は、12時半頃から、延々と神さまとイエス様のことを話してくれました。半年前、私は「神さまを見せてくれ、そうじたら信じるよ」と言っていました。先輩はたとえ話がとても上手で、職場でも良く話してくれました。彼は「イエス様が鈴木君の部屋の前に立って、呼んでいるよ」と言うのです。住んでいた町田のアパートは6畳一間で、半畳のキッチンです。薄暗い私の心の部屋と同じでした。さらに、「外のドアには、取っ手がないので、君が開けるしかないんだ。イエス様はヤクザじゃないので、ドアを蹴破って入ったりしないよ」と言うのです。「ふうーん」と聞いていました。それはヨハネ黙示録320のことばでした。「ありのままで良いんだよ」とも言われました。その頃、ビリー・ジョエルのjust the way you areが流行っていました。「へー、ありのままで良いのか?」そして、彼が決定的なことを私に言いました。「いくら証明しても、どうしてもギャップは埋められないんだ。あとは君が飛ぶしかないんだよ。神さまを信じて、もしも、いなかったなら、何か損するものがあるだろうか?『ああ、いなかった』と僕に言っても良いよ。鈴木君、信仰は賭けみたいなものなんだ。賭けてみないか?」と迫られました。夜の9時半頃でした。私は「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩はびっくりして、「じゃあ、今から大川先生のところに行こう」と言うのです。「遅から良いよ。もう、信じたから」と答えました。朝、起きました。アパートは一階でしたが、カーテンを開けると生垣の緑が輝いて見えました。一枚、一枚の葉脈がとても精巧に見えました。私の心は6畳一間のようでした。暗い部屋の片隅にうずくまっていました。「人は何のために生きているんだ。人生に目的はあるのか?」というのが、テーマでした。でも、イエス様が私の心の中に入って来られました。部屋の天井が打ち破られ、光が入って来たような体験をしました。救いの喜びが溢れてきて、「神さまはいる、神さまはいる」と友達にも話すようになりました。聖書の言うとおり、信じてからわかったのです。今、牧師になってこのように話していますが、分かってから信じるのではなく、信じたら分かるのです。

 感情の話に戻りますが、魂は3つに分けられます。知性、感情、意志です。女性は感情がとても豊かです。それに比べ、男性は感情を殺して、理性で生きようとします。でも、ときどき爆発します。いつも押さえているからです。女性は感情が豊かな分、それだけ浮き沈みが激しいのではないでしょうか?私たちは毎日、生きていると、いろんな人に出会います。ことばや行いによって、傷ついたり、悲しくなったり、憤りを覚えたりすることが多々あります。もちろん、楽しいことや嬉しいこともあります。でも、感情を害されて、落ち込むこともあります。現代は精神科や心療内科に通っている人がたくさんおられます。あるデーターによると、10人に一人は、うつと戦いながら、なんとか生きているということです。放送大学で、100人に一人近くは、統合失調症の疑いがあると言っていました。原因はいろいろあるとして、感情を正しく受け止めていないからではないでしょうか?でも、きょうはそのテーマではありません。言いたいのは、感情の浮き沈みはあるということです。最初、事実を信仰によって受け止めると、感情があとから着いてくるとお話ししました。つまり、知性と意志を用いるということです。神のことば、聖書は何と言っているだろうか?神さまは私を愛しているとおっしゃっている。神さまの愛をあまり感じない時もあるけど、私は愛されているんだ。だから、感謝しよう。感謝します。聖書はどんなときにも、神が共にいるのだから喜べと命じておられる。だから、喜ぼう。喜びます。聖書は神さまが私の中におり、私も神さまの中にいると書いてある。ああ、すべての出来事も神さまの中にあるんだ。だから、ゆだねよう。主よ心配事をゆだねます。気持ち的にはそうしたくありません。でも、聖書がそういうのだから、そう信じて、実行します。するとどうでしょう。時間差はありますが、気持ちが平安になってくるではありませんか。なんとなく希望も湧いてきて、嬉しくなります。これこそ、義人は信仰によって生きると言うことです。

 感情は中立です。自動車にはエンジンの温度計があります。「温度を下げよう」とメーターを手で動かす人はいません。オーバー・ヒートしそうだと警告しているんです。クーラント液を補充すれば良いのです。私たちもある時、「感情がおかしいな?」と思うときがあるでしょう?怒り、悲しみ、無気力感、心配、いらいら…そのとき、何が原因かあなたの知性で突き止めましょう。ああ、あのことで私は感情的におかしくなっているんだ。その後、聖書的にどうすべきか考えるのです。そして、赦すべき人を赦したり、問題をゆだねたり、希望が叶うように祈ります。最後に、神さまの最善を信じるのです。「私は愛されている。神さまはすべての必要を与えて下さる。イエス様が私の救い主、助け主、癒し主、大丈夫。主よ。あなたの助けと導きを信じます。」そうすると、平安があなたの心を支配します。このように義人は信仰によって生きるのです。

2.信仰と恐れ

 信仰と反するものが恐れです。そして、信仰と恐れには共通するものがあります。両者ともまだ起きていないことを起きたことのように考えるからです。信仰も恐れも、まだ見えていないのに、まるでそこにあるかのように見ています。この世の多くの人たちは恐れと戦っています。中には恐れによって普通の生活ができない人たちもおられます。特定なものに対するものを恐れと言い、特定されていないものを不安と定義するようです。心理学者たちはたくさんの病名をつけています。多くの人たちが不安障害で苦しんでいます。皆さんもパニック障害、強迫神経症、ストレス障害という名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?今は脳の化学物質が足りないからそうなるのだと薬を投与するのが主流なようです。李光雨先生は「神から離れた人間にはだれしも存在不安があり、存在不安をバリヤーで覆い隠してなんとか生きている」とおっしゃっています。きょうは病気について話すのではなく、信仰と恐れの関係について聖書から学びたいと思います。日本人は本当に恐れに満ちています。癌などの病気、不慮の事故、強盗殺人、地震、火災、放射能汚染、北朝鮮のミサイル…テレビのニュースは恐れを掻き立ててくれます。日本人ほど保険にお金をかけている国も他にないでしょう。昔は健康保険とか生命保険くらいでしたが、今はがん保険、介護保険が当たり前のようになっています。私はブラジルで数年、暮らした人のお話しを聞いたことがあります。私自身もインドネシアに数回行きました。南米とか東南アジアの人たちは、明日のことを心配していません。おそらく、日本ほど保険に入っていないのではないかと思います。もちろん、私たちは危機管理が必要です。交通事故に遭わないように、盗難や火災に遭わないように気をつけなければなりません。特に、都市ではいろんなことが起こりますので、守りが必要です。でも、恐れすぎて、神さまが与えてくれた人生をエンジョイできないのも問題です。ある学者は「恐れていることの5%しか実現しない。95%は実際に起きていないことを恐れている」と言いました。

 でも、私は数えたことがありませんが、聖書には365回「恐れるな」と書いてあるそうです。だから、一日、一回は「恐れるな」ということを聞かなければなりません。それだけ、人間は恐れやすいということでしょう。では、恐れは一体どこからやって来たのでしょう?アダムとエバはエデンの園にいたとき、神さまと親しく交わっていました。二人は、神さまの臨在の中で守られていたので、恐れる必要は全くありませんでした。ところがサタンの言うことを聞いて、食べてはならない木から取って食べました。サタンは「神のようになる」とだましましたが、すでに二人は「神のようだった」のです。なぜなら、神のかたちに造られていたからです。二人は神さまに背いて罪を犯しました。いつものように神さまは、そよ風の吹くころ、園を歩き回り、二人に声をかけました。ところが、二人は主の御顔を避けて園の木の間に身を隠しました。主は「あなたはどこにいるのか」と聞きました。アダムは「私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。アダムが堕落したと時から、恐れがやってきました。Ⅰヨハネ4:18後半「なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」と書いてあります。生まれつきの人間は、アダムの罪を背負っており、恐れの支配から免れることはできません。イエスさまの弟子たちも度々、恐れていました。ある時、弟子たちはイエス様を舟にお乗せして、ガリラヤ湖の向こう岸を目指していました。マルコ437-40すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」弟子たちは「舟が沈んで、自分たちはおぼれ死ぬ」と恐れました。一方、イエス様は嵐の中でも、平然として眠っておられました。何が違うのでしょう?あとで、イエス様は「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と叱られました。信仰があれば、嵐の中でも平気なのでしょうか?このところに、恐れから解放されるヒントが隠されています。イエス様はどんなときでも、父なる神さまとご一緒でした。人間イエスは父なる神さまの懐で安らいでおられたのです。もちろん、イエス様には嵐を静めることのできる神の子としての権威がありました。でも、安心と権威はアダムとエバが罪を犯す前に持っていたものです。かつてのアダムとエバは、神さまとの親しい交わり、そして自然界を支配できる力を持っていたので、恐れる必要が全くありませんでした。

 ヨハネは何と言っているでしょう?Ⅰヨハネ416-18「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」このところに、恐れから解放される道が少なくとも2つ示されています。第一は、私たちは神のうちにおり(住み)、神も私たちの中におられる(住んでおられる)ということです。イエス様はヨハネ14章で、「私が父におり、父が私におられる」とおっしゃいました。ヨハネは「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです」と言いました。ということは、私たちはイエス様と同じように、神さまと一体であるということです。イエス様は神さまと一体であったので、恐れがありませんでした。キリストと同じような者とは、私たちもそうなんだということです。第二は、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」ということです。イエス様はヨハネ福音書で「私は世の光である」と度々おっしゃいました。一方、闇は恐れを象徴しています。暗い部屋の闇を追い払うためにはどうしたら良いでしょう?電気を灯すならば、闇は出て行きます。同じように、光なるイエス様をお迎えするなら、闇である恐れは出て行くのです。ここに「全き愛」と書かれています。英語の詳訳聖書は「完成し、完全に成し遂げる愛」と訳しています。この愛は、人間的なものではなく、父なる神とイエス様との間にあった愛です。完全なる愛を持っておられる、神さまが私たちの内に住んでおられるならどういうことが起こるでしょう。恐れは締め出されます。信仰とは、私の内に完全なる愛をもっておられる神さまを認めることです。弟子たちはイエス様が舟に一緒に乗っておられるのに恐れました。だから、イエス様は「信仰がないのは、どうしたことです。」と弟子たちを叱ったのです。

 私たちは地上に住んでいるので、どうしても恐れがやってきます。「恐れるな」と聖書で365回記されているのはそのためです。主の祈りで「私たちを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。この世に、私たちを滅ぼそうと待ち構えている敵がいることを無視できません。ダチョウは非常に恐れると、砂の中に頭を埋めるそうです。恐れに対して目をつぶれば良いということでは全くありません。現実的には、日々、恐れを招くようなことが起こるということです。では、どうしたら恐れに打ち勝ち、信仰によって歩むことができるのでしょうか?まず、恐れや不安があるということは何かが原因しているということです。これはあらゆる感情についても言えますが、私は何を恐れ、何に不安を感じているのか特定する必要があります。私も月末には不安と恐れがあります。なぜなら、月の初めには役員会があるからです。「また、何か言われるんじゃないだろうか?」そのため資料を整え、「私は指揮者ヨセフである」と祈ると大丈夫です。「この先、どうすべきだろうか」という不安もあります。マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。「伝道牧会をしっかりやっていれば、神さまが養ってくださる」と平安になります。船はたえず水圧と戦っています。目には見えませんが、海水が船を押しつぶして、「入ろう、入ろう」としています。一方、船は海水を逆に押し戻して、海水を入れないようにしています。信仰も船と同じです。もし、恐れを私たちの心に入れてしまうなら、私たちの人生は沈没してしまうでしょう。主要な解決は「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」のみことばに立つということです。私の中に神さまが住み、私も神さまの中に住んでいる。すべてのことは神さまの大いなる御手の中にあります。全能の神さまにとって、とんでもないことなど、ありません。絶対的な神さまの愛が魂を支配するように願うのです。そうすれば、魂に圧力が蓄えられ、恐れに対抗することができます。個々の解決は1つ1つの問題を特定して、神さまの前に差し出すのです。神の霊である、聖霊が知恵と解決と脱出の道を与えてくださいます。たとい、この世に敵がいたとしても私たちは恐れる必要がありません。詩篇23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」ダビデは、敵に囲まれていても、主と共に食事を楽しむことができました。一番重要なことは、イエス様との親しい交わり、親密な関係を保つことです。義人は信仰によって生きるとは、目に見えないイエスさまを目に見えるお方として歓迎し、親しく交わり、イエス様と共に歩むということです。

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