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2018年5月 4日 (金)

信仰によって歩む Ⅰヨハネ4:12-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.6

ローマ117「義人は信仰によって生きる」と書いてあります。これはマルチン・ルターが「信仰によって義とされること」(信仰義認)を発見した聖書箇所と言われています。しかし、このみことばは、救われた人、つまり「義人は信仰によって生きるべきである」ということも教えています。きょうは救われた人、クリスチャンはどのように生きるべきなのか2つのポイントで学びたいと思います。

 

1.信仰と感情

 イエス様を信じて救われた直後は、天にも昇るような喜びであります。「罪赦され、永遠のいのちが与えられた。私は新しく生まれ変わることができた。ハレルヤ!」救われた時は、たとえ人からどう言われようと、神さまと自分の体験を話したいものです。神さまは確かに、このような信仰のハネムーン期を与えてくださいます。しかし、この感激は残念ながら、数か月しか持ちません。聖書を読んでもあまり感動しなくなります。牧師のメッセージも前は、自分のために語っているような気がしましたが、今はそうではありません。喜びも薄らいで、トンネルの中を通過しているような感じがします。では、キリストを信じていないのか、自分は救われていないのかというとそうでもありません。神さまは信じているのですが、あふれるような喜び、幸福感がなくなったということです。このようなことは、洗礼を受けた人なら、だれでも体験するのではないでしょうか?落ち込んで、教会の礼拝に来なくなる人がいますが、そうしてはいけません。感情がどうであれ、信じ続けるのです。キャンパスクルセードの『4つの法則』の最後のページに汽車の絵が描いてあります。題名は「感情に頼ってはいけません」とあります。「私たちのよりどころは、自分の感情ではなく、神の約束のことば(聖書)です。クリスチャンは神ご自身と神のことばとは信頼に価するものであるという信仰(信頼)によって生きるのです。」そして、機関車と客車の絵が描かれています。ちょっと時代的に古い感じがしますが、まあ、いいでしょう。D51を見たことがあるでしょうか?機関車、石炭の貨車、客車と3つ並んでいます。それを順番でいくと、事実、信仰、感情であります。客車なしでも機関車は走ります。しかし、客車で機関車をひっぱることはできません。これと同様に、クリスチャンは感情、または気分に頼って生活するのではなく、神ご自身と神のことばの約束は信頼に価するものであると信仰(信頼)して生きるのです。アーメン。みことばの事実を信じていくと、感情がついてくるということです。

 きょうの聖書箇所、Ⅰヨハネ412「いまだかつて、だれも神を見た者はありません」と書いてあります。私たちは目に見えない神を信じています。さらに、Ⅰヨハネ413「神は私たちに御霊を与えて下さいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」と書いてあります。御霊、聖霊は目に見えません。なのに、ヨハネは「それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」と書いています。これは私たちが持っている肉体の五感では無理です。信仰よって、あるいは霊によってでしか理解できないことです。自然科学の世界ではなく、信仰の世界、霊の世界であります。だけど、イエス様を信じたら、「ああ、確かに私たちの中に神さま(イエス様)がおられる」と言うことが分かります。この世の人たちは「神さまが私の内におられるだって?そんな馬鹿な?」と言うでしょう?でも、それは神の御霊があなたに教えてくださるからです。イエス様を神の御子として告白するとき、神さまがあなたの中におり、あなたも神さまの内にいるのです。これは内にも、外にもどっぷり浸かっているイメージがあります。もう一度そのことを確認したいと思います。Ⅰヨハネ416「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」神さまの愛を受けるため、あるいは神さまの愛を知るにはどうしたら良いのでしょう?それはイエス様を神の御子として信じることからやってくるのです。すべては信仰がはじまりです。ところが、この世の人たちは「神さまを見せてくれ、その愛を見せてくれ、そうしたら信じる」と言うでしょう?しかし、それは逆なのです。なぜなら、神さまが見えて、その愛を体験したなら、信じる必要がないからです。何度も言いますが、イエス様を信じると、神さまがおられることや、神の愛が分かってくるのです。

 私は25歳のときイエス様を信じました。その日は、1979415日でした。座間キリスト教会のイースター礼拝からアパートに戻ってきました。その時、職場の先輩も訪ねて来たんです。彼は、12時半頃から、延々と神さまとイエス様のことを話してくれました。半年前、私は「神さまを見せてくれ、そうじたら信じるよ」と言っていました。先輩はたとえ話がとても上手で、職場でも良く話してくれました。彼は「イエス様が鈴木君の部屋の前に立って、呼んでいるよ」と言うのです。住んでいた町田のアパートは6畳一間で、半畳のキッチンです。薄暗い私の心の部屋と同じでした。さらに、「外のドアには、取っ手がないので、君が開けるしかないんだ。イエス様はヤクザじゃないので、ドアを蹴破って入ったりしないよ」と言うのです。「ふうーん」と聞いていました。それはヨハネ黙示録320のことばでした。「ありのままで良いんだよ」とも言われました。その頃、ビリー・ジョエルのjust the way you areが流行っていました。「へー、ありのままで良いのか?」そして、彼が決定的なことを私に言いました。「いくら証明しても、どうしてもギャップは埋められないんだ。あとは君が飛ぶしかないんだよ。神さまを信じて、もしも、いなかったなら、何か損するものがあるだろうか?『ああ、いなかった』と僕に言っても良いよ。鈴木君、信仰は賭けみたいなものなんだ。賭けてみないか?」と迫られました。夜の9時半頃でした。私は「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩はびっくりして、「じゃあ、今から大川先生のところに行こう」と言うのです。「遅から良いよ。もう、信じたから」と答えました。朝、起きました。アパートは一階でしたが、カーテンを開けると生垣の緑が輝いて見えました。一枚、一枚の葉脈がとても精巧に見えました。私の心は6畳一間のようでした。暗い部屋の片隅にうずくまっていました。「人は何のために生きているんだ。人生に目的はあるのか?」というのが、テーマでした。でも、イエス様が私の心の中に入って来られました。部屋の天井が打ち破られ、光が入って来たような体験をしました。救いの喜びが溢れてきて、「神さまはいる、神さまはいる」と友達にも話すようになりました。聖書の言うとおり、信じてからわかったのです。今、牧師になってこのように話していますが、分かってから信じるのではなく、信じたら分かるのです。

 感情の話に戻りますが、魂は3つに分けられます。知性、感情、意志です。女性は感情がとても豊かです。それに比べ、男性は感情を殺して、理性で生きようとします。でも、ときどき爆発します。いつも押さえているからです。女性は感情が豊かな分、それだけ浮き沈みが激しいのではないでしょうか?私たちは毎日、生きていると、いろんな人に出会います。ことばや行いによって、傷ついたり、悲しくなったり、憤りを覚えたりすることが多々あります。もちろん、楽しいことや嬉しいこともあります。でも、感情を害されて、落ち込むこともあります。現代は精神科や心療内科に通っている人がたくさんおられます。あるデーターによると、10人に一人は、うつと戦いながら、なんとか生きているということです。放送大学で、100人に一人近くは、統合失調症の疑いがあると言っていました。原因はいろいろあるとして、感情を正しく受け止めていないからではないでしょうか?でも、きょうはそのテーマではありません。言いたいのは、感情の浮き沈みはあるということです。最初、事実を信仰によって受け止めると、感情があとから着いてくるとお話ししました。つまり、知性と意志を用いるということです。神のことば、聖書は何と言っているだろうか?神さまは私を愛しているとおっしゃっている。神さまの愛をあまり感じない時もあるけど、私は愛されているんだ。だから、感謝しよう。感謝します。聖書はどんなときにも、神が共にいるのだから喜べと命じておられる。だから、喜ぼう。喜びます。聖書は神さまが私の中におり、私も神さまの中にいると書いてある。ああ、すべての出来事も神さまの中にあるんだ。だから、ゆだねよう。主よ心配事をゆだねます。気持ち的にはそうしたくありません。でも、聖書がそういうのだから、そう信じて、実行します。するとどうでしょう。時間差はありますが、気持ちが平安になってくるではありませんか。なんとなく希望も湧いてきて、嬉しくなります。これこそ、義人は信仰によって生きると言うことです。

 感情は中立です。自動車にはエンジンの温度計があります。「温度を下げよう」とメーターを手で動かす人はいません。オーバー・ヒートしそうだと警告しているんです。クーラント液を補充すれば良いのです。私たちもある時、「感情がおかしいな?」と思うときがあるでしょう?怒り、悲しみ、無気力感、心配、いらいら…そのとき、何が原因かあなたの知性で突き止めましょう。ああ、あのことで私は感情的におかしくなっているんだ。その後、聖書的にどうすべきか考えるのです。そして、赦すべき人を赦したり、問題をゆだねたり、希望が叶うように祈ります。最後に、神さまの最善を信じるのです。「私は愛されている。神さまはすべての必要を与えて下さる。イエス様が私の救い主、助け主、癒し主、大丈夫。主よ。あなたの助けと導きを信じます。」そうすると、平安があなたの心を支配します。このように義人は信仰によって生きるのです。

2.信仰と恐れ

 信仰と反するものが恐れです。そして、信仰と恐れには共通するものがあります。両者ともまだ起きていないことを起きたことのように考えるからです。信仰も恐れも、まだ見えていないのに、まるでそこにあるかのように見ています。この世の多くの人たちは恐れと戦っています。中には恐れによって普通の生活ができない人たちもおられます。特定なものに対するものを恐れと言い、特定されていないものを不安と定義するようです。心理学者たちはたくさんの病名をつけています。多くの人たちが不安障害で苦しんでいます。皆さんもパニック障害、強迫神経症、ストレス障害という名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?今は脳の化学物質が足りないからそうなるのだと薬を投与するのが主流なようです。李光雨先生は「神から離れた人間にはだれしも存在不安があり、存在不安をバリヤーで覆い隠してなんとか生きている」とおっしゃっています。きょうは病気について話すのではなく、信仰と恐れの関係について聖書から学びたいと思います。日本人は本当に恐れに満ちています。癌などの病気、不慮の事故、強盗殺人、地震、火災、放射能汚染、北朝鮮のミサイル…テレビのニュースは恐れを掻き立ててくれます。日本人ほど保険にお金をかけている国も他にないでしょう。昔は健康保険とか生命保険くらいでしたが、今はがん保険、介護保険が当たり前のようになっています。私はブラジルで数年、暮らした人のお話しを聞いたことがあります。私自身もインドネシアに数回行きました。南米とか東南アジアの人たちは、明日のことを心配していません。おそらく、日本ほど保険に入っていないのではないかと思います。もちろん、私たちは危機管理が必要です。交通事故に遭わないように、盗難や火災に遭わないように気をつけなければなりません。特に、都市ではいろんなことが起こりますので、守りが必要です。でも、恐れすぎて、神さまが与えてくれた人生をエンジョイできないのも問題です。ある学者は「恐れていることの5%しか実現しない。95%は実際に起きていないことを恐れている」と言いました。

 でも、私は数えたことがありませんが、聖書には365回「恐れるな」と書いてあるそうです。だから、一日、一回は「恐れるな」ということを聞かなければなりません。それだけ、人間は恐れやすいということでしょう。では、恐れは一体どこからやって来たのでしょう?アダムとエバはエデンの園にいたとき、神さまと親しく交わっていました。二人は、神さまの臨在の中で守られていたので、恐れる必要は全くありませんでした。ところがサタンの言うことを聞いて、食べてはならない木から取って食べました。サタンは「神のようになる」とだましましたが、すでに二人は「神のようだった」のです。なぜなら、神のかたちに造られていたからです。二人は神さまに背いて罪を犯しました。いつものように神さまは、そよ風の吹くころ、園を歩き回り、二人に声をかけました。ところが、二人は主の御顔を避けて園の木の間に身を隠しました。主は「あなたはどこにいるのか」と聞きました。アダムは「私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。アダムが堕落したと時から、恐れがやってきました。Ⅰヨハネ4:18後半「なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」と書いてあります。生まれつきの人間は、アダムの罪を背負っており、恐れの支配から免れることはできません。イエスさまの弟子たちも度々、恐れていました。ある時、弟子たちはイエス様を舟にお乗せして、ガリラヤ湖の向こう岸を目指していました。マルコ437-40すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」弟子たちは「舟が沈んで、自分たちはおぼれ死ぬ」と恐れました。一方、イエス様は嵐の中でも、平然として眠っておられました。何が違うのでしょう?あとで、イエス様は「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と叱られました。信仰があれば、嵐の中でも平気なのでしょうか?このところに、恐れから解放されるヒントが隠されています。イエス様はどんなときでも、父なる神さまとご一緒でした。人間イエスは父なる神さまの懐で安らいでおられたのです。もちろん、イエス様には嵐を静めることのできる神の子としての権威がありました。でも、安心と権威はアダムとエバが罪を犯す前に持っていたものです。かつてのアダムとエバは、神さまとの親しい交わり、そして自然界を支配できる力を持っていたので、恐れる必要が全くありませんでした。

 ヨハネは何と言っているでしょう?Ⅰヨハネ416-18「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」このところに、恐れから解放される道が少なくとも2つ示されています。第一は、私たちは神のうちにおり(住み)、神も私たちの中におられる(住んでおられる)ということです。イエス様はヨハネ14章で、「私が父におり、父が私におられる」とおっしゃいました。ヨハネは「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです」と言いました。ということは、私たちはイエス様と同じように、神さまと一体であるということです。イエス様は神さまと一体であったので、恐れがありませんでした。キリストと同じような者とは、私たちもそうなんだということです。第二は、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」ということです。イエス様はヨハネ福音書で「私は世の光である」と度々おっしゃいました。一方、闇は恐れを象徴しています。暗い部屋の闇を追い払うためにはどうしたら良いでしょう?電気を灯すならば、闇は出て行きます。同じように、光なるイエス様をお迎えするなら、闇である恐れは出て行くのです。ここに「全き愛」と書かれています。英語の詳訳聖書は「完成し、完全に成し遂げる愛」と訳しています。この愛は、人間的なものではなく、父なる神とイエス様との間にあった愛です。完全なる愛を持っておられる、神さまが私たちの内に住んでおられるならどういうことが起こるでしょう。恐れは締め出されます。信仰とは、私の内に完全なる愛をもっておられる神さまを認めることです。弟子たちはイエス様が舟に一緒に乗っておられるのに恐れました。だから、イエス様は「信仰がないのは、どうしたことです。」と弟子たちを叱ったのです。

 私たちは地上に住んでいるので、どうしても恐れがやってきます。「恐れるな」と聖書で365回記されているのはそのためです。主の祈りで「私たちを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。この世に、私たちを滅ぼそうと待ち構えている敵がいることを無視できません。ダチョウは非常に恐れると、砂の中に頭を埋めるそうです。恐れに対して目をつぶれば良いということでは全くありません。現実的には、日々、恐れを招くようなことが起こるということです。では、どうしたら恐れに打ち勝ち、信仰によって歩むことができるのでしょうか?まず、恐れや不安があるということは何かが原因しているということです。これはあらゆる感情についても言えますが、私は何を恐れ、何に不安を感じているのか特定する必要があります。私も月末には不安と恐れがあります。なぜなら、月の初めには役員会があるからです。「また、何か言われるんじゃないだろうか?」そのため資料を整え、「私は指揮者ヨセフである」と祈ると大丈夫です。「この先、どうすべきだろうか」という不安もあります。マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。「伝道牧会をしっかりやっていれば、神さまが養ってくださる」と平安になります。船はたえず水圧と戦っています。目には見えませんが、海水が船を押しつぶして、「入ろう、入ろう」としています。一方、船は海水を逆に押し戻して、海水を入れないようにしています。信仰も船と同じです。もし、恐れを私たちの心に入れてしまうなら、私たちの人生は沈没してしまうでしょう。主要な解決は「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」のみことばに立つということです。私の中に神さまが住み、私も神さまの中に住んでいる。すべてのことは神さまの大いなる御手の中にあります。全能の神さまにとって、とんでもないことなど、ありません。絶対的な神さまの愛が魂を支配するように願うのです。そうすれば、魂に圧力が蓄えられ、恐れに対抗することができます。個々の解決は1つ1つの問題を特定して、神さまの前に差し出すのです。神の霊である、聖霊が知恵と解決と脱出の道を与えてくださいます。たとい、この世に敵がいたとしても私たちは恐れる必要がありません。詩篇23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」ダビデは、敵に囲まれていても、主と共に食事を楽しむことができました。一番重要なことは、イエス様との親しい交わり、親密な関係を保つことです。義人は信仰によって生きるとは、目に見えないイエスさまを目に見えるお方として歓迎し、親しく交わり、イエス様と共に歩むということです。

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