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2018年5月26日 (土)

霊と魂 ヘブル4:12-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.27

 イエス様を信じると霊的に生まれ変わり、あなたの内に聖霊が宿ります。言い換えると、クリスチャンの内側にはキリストの御霊が宿っているということです。しかし、あなたの霊を殻のように取り囲んでいるのが魂です。アダムの堕落のゆえに、異状に発達した魂が、霊の働きを阻止しようとします。きょうはあえて「心」という用語を用いません。なぜなら、日本語の「心」は曖昧だからです。きょうは、心の代わりに「魂」と呼ばせていただきます。

1.霊の解放

 ウォッチマン・ニー師がかなり前に『霊の解放』という本を書きました。最近、「日本福音書房」が訳したものを読みましたら、新たに感銘を受けました。きょうはその本から、いくつか引用しながら、お話ししたいと思います。私たち人間は3つの部分からできていると前回申し上げました。外側から順番に、肉体、魂、霊であります。イエス様を信じていない人はこの霊が死んでいるか休眠状態であり、全く機能していません。ところが、イエス様を信じると、聖霊によってこの霊が新生します。同時に、聖霊がそこに臨在されます。ローマ8章には「御霊」と書かれていますが、自分の霊なのか聖霊なのか区別がつけられません。「霊的に生まれ変わった。ハレルヤ!」とハッピーエンドになれば良いのですが、そういう訳にはいきません。ガラテヤ書5章には、内側に葛藤が起こると記されています。なぜなら、これまでは、自分自身が王様でした。しかし、内側にキリストの御霊がおり、私たちの霊とともに「神さまはこう言われます。あなたは神に従うべきですよ」と言ってきます。いわば、これはクーデターであります。ウォッチマン・ニーは「神の奉仕者は、自分の働きに対する最大の妨げは、自分自身であることを遅かれ早かれ見出します」と言っています。つまり、あなたの霊は神さまに向いていますが、あなたの魂は別の方向に向かっているからです。彼は、自分の魂が、霊の支配に服することができず、神さまの最高の要求に従って歩くことができない事を見出します。つまり、自分の魂が、霊が働かれるのを邪魔しているということです。

 魂は堅い殻のようであり、その中に実である霊があります。たとえば桃を食べるとその中に堅い種があります。私たちはそれをポイと捨てます。でも、その中に胚と呼ばれる種子があります。麦も同じで外側に堅い殻があり、内側に種子があります。イエス様はヨハネ12章で、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」と言われました。「自分のいのち」は、ギリシャ語でプシュケーであり、魂と同じことばです。「魂のいのち」と訳すことができます。一方、「永遠のいのち」は、ゾーエーであり、「神のいのち」と訳すことができます。つまり、「自分の魂のいのちを愛する者はそれを失い、この世でその魂を憎む者はそれを保って神のいのちに至るのです」となります。麦が地面の中に埋められると死にます。そのとき、堅い殻が破られ、芽が出てきます。そうすると何百もの実がなります。「死ぬのはいやだ、このままでいたい」と願うなら、ずっと1粒のままです。死ぬというのは、神さまの前に魂が砕かれるということです。私たちは神さまに「ガツン」と砕かれなければ、決して、内側から霊が出て来て、神さまの働きを行うことができません。それほど生まれつきの魂は頑固なのであります。聖書に純粋なナルドの香油をささげた女性の物語があります。ナルドの香油はとても高価で300デナリもしました。その香油は石膏の壺に入っていました。女性はその壺を割って、イエス様の頭に注ぎました。この場合、ナルドの香油が私たちの霊です。そして、その香油を入れている石膏の壺が私たちの魂です。しかし、私たちは骨董屋のように石膏の壺を何よりも大事にしています。決して割ったりしません。しかし、石膏の壺を割らなければ、ナルドの香油を注ぐことはできません。ウォッチマン・ニーは「宝は土の器の中にあります。だれがあなたの土の器を見る必要がありますか?教会が欠けているものは、宝であって、土の器ではありません。この世が欠けているものは、宝であって、土の器ではありません。土の器が砕かれなければ、だれが内側の宝を見出すでしょうか?」と言っています。アダムとエバが知識の木から実を取って食べたら、二人の目が開かれました。ウォッチマン・ニー師は、「そのとき人間の霊が死ぬ代わりに、魂が異常に発達した」と言いました。魂が砕かれなければ、内側にある霊が出てくることができないのです。

 そのため聖霊は人々や環境を通して、あなたの魂を砕こうとします。これを聖霊の訓練あるいは、聖霊の按配と言います。旧約聖書のヤコブはとても狡猾な人でした。兄と父をだまして、長子の権利を得ました。ヤコブは家を出て、おじのラバンのもとに逃れました。ところがラバンはヤコブ以上に狡猾な人で、20年間、何度もだまされました。二人の妻はヤコブの愛を勝ち取ろうと次々に子どもを産みました。11番目のヨセフは最愛のラケルから生まれましたが、ラケルはベニヤミンを生むとき難産で死にました。息子たちから、「ヨセフが野の獣によって裂き殺された」と報告を受けました。ところが13年後ヨセフがエジプトの宰相であることが知らされました。死んでいたと思っていたヨセフと再会しました。彼の人生は神によって打ち砕かれた人生でした。しかし、押しのけるヤコブではなく、神の皇太子イスラエルになっていました。ヨセフ、アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロやペテロも、神によって砕かれてから用いられました。もし、あなたが神さまに自分をささげて、「神の栄光のために用いて下さい」と願うなら、聖霊は喜んであなたを訓練してくださるでしょう。聖霊は気の合わない兄弟姉妹をあなたの側に置いてくださいます。妻もしくは夫があなたを砕いてくれるでしょう。あるいは困難な環境の中で、さまざまな試練を与えて、あなたを按配してくださいます。土の器のように、一度大きく砕かれたら、二度目は簡単に砕かれます。主は砕かれた人をご自分の御用のために用いられます。砕かれた魂から、ナルドの香油のように、神の霊が流れ出てくるのです。魂である思いと感情と意志を通して、現れてきます。霊だけでは何もできません。内におられる霊は、あなたの砕かれた思いと感情と意志を通して、外に現れたいと願っています。

2.魂の三の働き

「心」と言うのが一般的ですが、感情面をあらわすheartと混同する恐れがありますので、魂と呼ぶことにします。魂は働きから言うと、思い、感情、意志に分けられます。霊は自分自身を表現するために、思い、感情、意志を必要とします。霊は封印されて触れられていない魂ではなく、砕かれた魂を必要とします。砕かれた魂は、思い、感情、意志がすぐ用いられる状態になっています。第一は思いです。英語ではmindです。知性よりも「思い」のほうが適訳です。ある時、神さまは私たちの思想に触れられます。私たちの思想は混乱しており、的外れであり、利己的であり、訓練を受けていないものです。私たちは、自分は利口であり、何でも知っており、他人が思いつかないことを思いつくことができると考えています。このため、主は私たちが何度も間違ったり、躓くことを許されます。それは私たちが自分の思想に対して用心するようになるためです。正直、私は自分には知恵があると思っています。テレビのクイズ番組ではむきになります。しかし、高慢なところがあるので家内によくいさめられます。私もたくさん失敗して砕かれたので、このみことばを大事にしています。箴言35,6「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」。ところで、私たちの霊の働きの1つに直覚というのがありました。これは理由、環境、背景に関わらず、直接的な感覚や認識を持つことを意味します。直覚は、内側で知る知識について感覚を与えます。神についての事柄は、霊の中で感じられますが、それらが理解されるのは思いの中です。ところが、私たちの思いに問題があるためにそれを理解できません。時には二、三週間、あるいは数か月もたってからはじめて霊の中で感じていることを理解できることもあります。何かに気付いてはいるのですが、それを解釈することができないのです。ですから、そのことを理解するためには、思いが新しくされる必要があります。ローマ122英語詳訳聖書は「この時代の慣習に従わないで、思いが新しくされることによって、造りかえられなさい」です。本当に救われているクリスチャンであっても、霊的な事柄を理解できない人がたくさんいます。なぜなら、あまりにも現代的になっているからです。この時代の慣習に従っていたら、霊からくる神の思いを受け取ることができません。私たちの思いを神さまに向けることがとても重要です。

 第二は感情です。英語ではemotionです。mind と対比してheartと呼ぶ場合もあります。ある人はあまりにも感情が強いのです。「感情的に豊かだ」と言えば聞こえは良いのですが、内側の霊と連動していない感情です。喜ぶときは天にも昇る喜びですが、悲しいときはものすごく落ち込んで、だれも慰めることができません。ニール・アンダーソンは生まれつきの感情は、unstable不安定だと言っています。内側の霊が神さまへの愛と喜びで満ちあふれているのに、魂の感情は冷たく無感動ということがあります。内側の霊がとても悲しんでいるのに、魂の感情が笑っているときがあります。感情はとてもやっかいなものであり、私たちの問題のほとんどすべては感情に関係しています。そのため感情は聖霊の支配を受けなければなりません。感情が主の支配を受けるなら、主が喜べと言われたとき喜び、主が愛せよと言われたとき愛するのです。自分の感情を主人にしてはいけません。私たちはこれまで「気が向かないから」とか「好きじゃないから」と幾度も主に逆らってきました。私たちの好き嫌いが何であれ、憎んだり愛することが何であれ、主の感情に従って、私たちの感情を活用しなければなりません。また、神さまはあるとき、生まれつきの愛を砕かれるときがあります。マタイ1037-39「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」この命令は残酷のように聞こえますが、人はどんなことでも主の良しとされるまま、主の支配で愛さなければならないということです。自分には愛があると思っていても、人間的で人をダメにする愛もあるからです。私たちの感情が、主のご支配の下で保たれていますように。そうすれば、まわりを囲む環境がどうであれ、平安と喜びと満足感があります。

 第三は意志です。英語ではwillです。ウォッチマン・ニー師は本の中でこのように述べています。「私たちの意志は強いものです。それは強いだけではなく、頑固でもあります。私たちの霊が意志を必要とするとき、意志を見出すことができません。というのは、私たちの意志はあまりにも独立的に動き回っており、その手にあまりにも多くのものを持っているからです。神は私たちに強烈な一撃を与えなければなりません。神は私たちの意志を粉々にし、私たちを極度に辱めなければなりません。その時、私たちは、ちりに顔を伏し、次のように言わなければなりません。『主よ、私はあえて考えません。私はあえて求めません。私はあえて決めません。私は、すべてのことで、あなたが必要です。』私たちは、自分の意志が独立的に振る舞わないほどまでに、強く打たれなければなりません。その時になってはじめて、霊は意志を捕えて用いることができます。」この本を読んだとき、「私の家内は意志が強いなー」と思いました。家内が私の思い(知性)を砕いているように、私は家内の意志を砕いています。私は、あれやこれやと家内に反抗し、あるときはプライドを深く傷つけることさえあります。箴言2717「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」とあります。マルチン・ルターは、自己中心的な考え方をより薄め、イエス・キリストのようになる方法は2つあると言いました。「第一の方法は修道院に入ることである。そして、第二は結婚へと船出することである」と言いました。

 神さまは私たちの魂を滅ぼしません。しかし、神さまは、魂が砕かれない状態のままであることを許されません。神さまは、私たちの魂を通過したいのです。私たちの霊が私たちの魂を通して愛し、考え、決定をしてほしいのです。神さまの働きは、砕かれた私たちの魂を通してのみ達成することができます。もし、私たちが神さまに仕えたいのであれば、私たちはこの基本的な対処を経なければなりません。もし、私たちの魂が砕かれていなければ、主は私たちを通して道を持つことができません。神さまが他の人々に届くには、私たちの魂を突破しなければなりません。聖霊の訓練によって、あなたの思いと感情と意志が、正しく機能し、豊かに用いられますように。

3.管理された魂



 「管理」と言うことばが、今回引用しているウォッチマン・ニーとウィットネス・リーに良く出てきます。「聖霊の訓練」とか「聖霊の按配」とも言うようです。きよめ派の教会は、「取扱いを受ける」とか「きよめられる」と言うでしょう。詩篇5117「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。魂が砕かれると、内側から霊が流れてきます。しかし、霊自体は何もできず、思い、感情、意志を通して現れてきます。霊自体は無色透明ですが、あなたの思い、感情、意志という味付けを受けるのです。それはまるで地下から湧き出る温泉のようです。地下水自体は無色透明です。しかし、その途中岩盤を通るので、その味付けを受けます。だから温泉には、アルカリ性単純温泉から、塩化物、硫酸塩、鉄分、硫黄、二酸化炭素、放射能…様々あるのです。温泉の成分によって効能も異なります。私たち人間も同じで、霊が出てくるとき、その人のパーソナリティが一緒に出てきて、それが人々に触れます。それが一番分かるのが、人が口を開いて、言葉を発したときです。イエス様は「なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ645とおっしゃいました。私がこのように説教すると、聞いている人たちが何かを感じます。「鈴木牧師には学歴コンプレックスがある。8人兄弟で拒絶を受けた傷跡がある。不当な扱いを受けた怒りがある」と分かります。もし、聞いている自分の中に同じような傷を抱えているなら、その傷が同調して、聞くのが嫌になってきます。私の場合は、それらの問題から解放されているので、いわゆる温泉の成分になるのです。肩こり、神経痛、関節炎が癒されたりするのです。傷がなくて育ちの良い牧師の説教はアルカリ単純温泉のようにさっぱりしています。しかし、私はクセがあるので、万座や草津温泉のようにひりひりピリピリします。でも、効能があるので、不治の病も癒されます。

 魂が聖霊によって管理されるとどのようなことが起こるのでしょうか?3つ上げたいと思います。第一は、人の霊的状態が認識できるということです。私たちはその人が何かを隠そうとしているのか知らなければなりません。特に、神さまの前に奉仕し、人々を助ける働きをしている人はそうです。その人が頑固なのか謙虚なのか、その謙虚が本物なのか見せかけなのか?あるいはその人の際立った特徴を知らなければなりません。もし、神の霊が、私たちのところに来る人たちの状態を私たちの霊に示してくださるなら、彼らに適切なことばを与えることができます。イエス様はサマリヤの女性には、霊的に生まれることについては語られませんでした。また、イエス様はニコデモに、生ける水について語られませんでした。主は、ひとり一人に対して、適切なことばを持っておられました。医者が患者を診察するときには、多くの医療器具の助けを必要とします。ところが私たちはレントゲンやCTスキャンなどありません。では、どのようにして兄弟姉妹の霊的状態を知ることができるのでしょうか?私たちはどうしても、自分の主観とか得意分野があり、それで全部を理解しようとします。自分の同じ診断を押し付けて、ある場合は全く的外れで害になることもあるでしょう。正しい診断をするめには、代価を支払う必要があります。自分自身や、自分の誇りや、自分の狭さや、自分の意見や、自分の楽しみを捨てないと、自分と同じようなタイプの人には対処できません。私たちの魂が主の前で砕かれ、自分自身の特徴がなくなります。そういう状態で、問題を持った人と接するとき、相手の怒りや高ぶりや頑固さ、しっと深さをキャッチすることができます。なぜなら、自分の魂が霊と分離されているので、相手がどんな霊を持っているのか分かるのです。厳密に言うと、霊そのものではなく、その人の魂の状況です。その人の霊が温泉のように味付られて出てくるからです。

第二は、福音を宣べ伝えたり、みことばの御用ができるということです。私たちは親しい人に伝道したい、あるいはみことばを教えて元気付けてあげたいと思うでしょう。しかし、最初はおだやかでも、あとから議論になって、物別れで終わるということはないでしょうか?私たちは聖書的な知識をたくさん蓄え、話術を学べば、効果的に話すことができると思っています。しかし、それは大きな間違いです。人は感情とか知的なことばで信じるのではありません。あなたが人に向かって話すとき、実はあなたの霊も一緒に出ているのです。あなたの霊がその人の霊に触れるのです。するとどうでしょう?「この人には私を支配したいという思いがある。この人は、愛ではなく義務感でやっている。この人は本当に信じてはいない」。相手も霊をもっているので、それが分かるのです。私も講壇からメッセージをしていますが、ことばだけではなく、私の霊がひとり一人に触っているのです。すると「これは嘘っぽい」とか「これは真実だ」と霊的な印象を受けるのです。人は知的な生き物ですが、同時に霊的な生き物なので、あなどることはできないのです。私たちの霊がほとばしるなら、他の人は打たれるでしょう。福音を宣べ伝えたり、みことばを教えたりするときには、解き放たれた霊が必要なのです。

 第三は、環境に関係なく、神の臨在を享受できるということです。ブラザー・ローレンスは、炊事場で働きました。多くの人がやって来ては、彼に仕事を要求しました。彼の周りでは、至るところで騒音が聞こえました。しかし、ブラザー・ローレンスは、これらのことには影響されませんでした。彼は祈る時、神の臨在を感じました。また、忙しく働いている時も神の臨在を感じていました。彼は山と積まれた仕事をこなす最中に、どのようにして神の臨在を保つことができたのでしょう?その秘訣は、外側のいかなる騒音も、彼の内なる存在に影響を与えなかったことにあります。神さまを知らない人たちは、「皿のけたたましい音」のない環境をさがします。彼らは人々や活動から遠く離れれば離れるほど、神の臨在にますます近くなると考えます。問題は、皿でもなく、人々でもありません。問題は彼ら自身の中にあるのです。私たちの周囲のものはみな混乱のるつぼの中にありますが、私たちは内側では影響されないままでいることができます。ひとたび魂が砕かれれば、人は神さまに立ち返る必要はありません。というのは、彼は神さまといつも一緒にいるからです。魂が砕かれていると、外側の出来事が内側の霊に影響しません。完全に分離されているので、霊は神さまと交わっています。私たちもブラザー・ローレンスのように、外側のことで忙しくても、霊においては神さまと共にある生活を喜びたいと思います。

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