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2018年4月28日 (土)

~オバデヤの幻~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: オバデヤ書1章1-4

 

1:1

オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは【主】から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」

1:2

見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。

1:3

あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか」と心のうちに言っている。

1:4

あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。

──【主】の御告げ──

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昨年からですが、「ホセア書」から始まる12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」と続きましたので、今回は「オバデヤ書」の一書説教です。

 

12預言書の中で、よく知られている書は、おそらく「ヨナ書」だと思います。預言者ヨナは神様の命令に背いて船に乗って逃げましたが、船が難破しそうになり、船から放り出され、大きな魚に飲み込まれて吐き出され、結局最初の神様の命令どおり、ニネべという町を救うために不本意ながら預言する~という内容です。

 

その次に知られているのは、ボリュームがある「ホセア書」とか「ゼカリヤ書」、また、旧約聖書最後に位置づけられている「マラキ書」あたりでしょうか。

 

さて今日の「オバデヤ書」というのは・・・「聖書のどこらへんにあったっけ?」と考えてしまう人がいるかもしれないくらい、印象が薄い預言書かもしれませんが・・・実は大きな特徴があります。

 

それは、「旧約聖書の中で一番短い書物!」・・・っということです。ちょっと印象に残りましたか?

オバデヤ書は1章しかありませんし、全部で21節しかありません。聖書も2ページで収まっています。

しかし、短い中にもギュッと、創世記からの聖書の歴史が詰まっています。

脈々と語られ続けた神様の愛と義。それに対する人間の愚かさがこのオバデヤ書には記されています。

 

さきほど読んでいただいた、オバデヤ1章1-2節をもう一度お読みします。

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1:1

オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは【主】から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」

1:2

見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。

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「オバデヤ」の名前の意味は、「主に仕える者」、もしくは「主のしもべ」です。

オバデヤ自身の経歴や人物像については、聖書からは何も知ることはできません。

神である主は、幻を通してオバデヤにご自身のご計画を語られました。

「オバデヤ=主のしもべ」は、その名前にふさわしく、神の権威をもってそれを民に伝えました。

 

オバデヤ前半1-14節はエドムが滅亡するという預言が語られ、後半15-21節はイスラエルが回復するという預言が語られています。特徴的なのは、他の預言書のように、「悔い改めなければこうなるだろう~」といった悔い改めの猶予もなく、エドムへのさばきが下っていることです。

なぜ神はここまでエドムに怒りを燃やされたのでしょうか。

 

◆①エサウ及びエドム人:神に敵対/人間の肉を象徴  (オバデヤ1:1-14)

 

エドムとは、エドム人が住む土地です。エドム人は、イサクの子どものエサウを先祖とします。

エサウは双子の兄で、弟はヤコブです。ヤコブはイスラエルという名を神からいただきました。

 

ヤコブの子孫は、モーセによってエジプトから脱出して、神の約束の地カナンに住みました。

エサウの子孫はカナンの地を出てエドムの地に住みました。

エドムの地は、死海の南からアカバ湾にいたる土地で、現在のヨルダンに位置していました。

アカバ湾からメソポタミアに通じる道があり、エジプトとアラビアを結ぶ交通の要路があったので、農耕、通商、貿易による巨額の収益があったようです。

 

エドムの都市であったペトラの遺跡は、今では世界遺産となっています。

切り立った赤色の砂岩の山地ですが、敵からの攻撃を防ぐのに役立ちました。

そのような所に住むエドム人たちに、主はこの様に言われました。

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1:3

あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか」と心のうちに言っている。

1:4

あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。

──【主】の御告げ──

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主の怒りは尋常ではありません。

切り立った山地に住むエドム人たちの心は高慢であり、神はそこから彼らを引き降ろすと言われました。

なぜでしょうか。それは、兄弟ヤコブの子孫の危機に対して傍観し、助けるどころか敵に加担したからです。

 

<オバデヤ1:10-14>

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1:10

あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。

1:11

他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。

1:12

あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。

1:13

彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。

1:14

そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。

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オバデヤが活動した時代は、紀元前9世紀説と、紀元前6世紀説など諸説あります。

どの説も、南ユダ王国にあるエルサレムが危機に陥った時にフォーカスしています。

その時エドムは兄弟を憐れむことをせず、他国に加勢し、略奪し、ヤコブの子孫たちを苦しめました。

 

エドムのヤコブの子孫に対する暴虐は、モーセの時代から繰り返し行われていました。

それゆえ、神は「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。」と言われました。

 

実際エドム人は、紀元前6世紀にエルサレムが陥落して南ユダの民がバビロンに捕囚された後、バビロニア人によってエドムの地から追い出されました。そして押し出される形で南ユダに流れて行きました。

その後エドム人は、紀元前2世紀のマカベヤ戦争の時にユダヤ人の支配下におかれ、イエス様の時代までイドマヤ人(ギリシャ語読み)として存在しました。

 

生まれたばかりのイエス様を殺そうとしたヘロデ大王はイドマヤ人でした。

このような形で、新約の時代になっても相変わらずエドム人はヤコブの子孫と敵対していましたが、紀元70年のローマによるエルサレム陥落以後は歴史から消えてしまったようです。

オバデヤの預言の通り、エドムは滅亡しました。

 

ちょっと歴史の授業のようですが、ここで重要なのは、「主が語られることは必ず実現する」ということです。

 

エドム人の祖先エサウの行為は、神に敵対する人間の肉を象徴しています。人間の肉とは、文字どおり肉体の欲求を満たすこと(食欲、性欲など)や、神に敵対するこの世の権力や権勢、地位や名誉への欲です。

エサウの罪を改めて列挙してみましょう。

 

●エサウは一時の空腹を満たすために長子の権利をヤコブに売り渡しました。

<創世記25:34>

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ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

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この行為は、神が与えてくださった権利を、食欲を満たすという肉の欲求のために放棄したことになります。

 

●エサウはヘテ人を妻にめとり、両親を悩ませました。

<創世記26:34-35>

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26:34

エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。

26:35

彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった。

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多神教で偶像崇拝を行なうカナン人の一族ヘテ人をめとったこの肉の行いは、神への背きです。

後にヤコブがアブラハムの家系の娘をめとろうとしていることを知ったエサウは、慌ててイサクの兄イシュマエルの娘をめとりましたが、ヤコブを祝福するイサクの気持ちは変わりませんでした。

 

●エサウは主なる神に信頼していませんでした。

 

エサウが神に賛美や祈りを捧げている姿は、聖書の中には見られません。

彼は常に自分の考えのみで行動しています。

エサウから逃げたヤコブと20年ぶりに再会した時、エサウはすでに怒りを忘れ涙を流して喜びました。

一見和解した美しい兄弟の姿に見えますが、エサウはエドムの地で財産を得て満足していたから気持ちに余裕があったのです。

 

エサウが約束の地カナンに住まず、エドムの地に住みついたのも、権力や財産という肉の欲を満たす行為でした。

 

このように、エサウの行いを客観的に見てみると、「愚かだなー。」と思いますが、エサウのような肉的な思いは、私たちの中にも多々あるのではないでしょうか。

 

エサウのように、

・神様から与えられている特権や賜物を、自分の肉的な欲求を満たすために放棄してはいないでしょうか。

・世の風潮に流されて、知らず知らず偶像崇拝を行なっていないでしょうか。

・主に頼らず、自分の力で物事を成し遂げようとはしていないでしょうか。

 

このようなエサウ的思考で行動すると、世の中からみれば、頑張っている人、努力している人、成功している人に見えるかもしれませんが、神様が喜ばれる姿ではありません。

神様は私たちが描いているよりも、もっと素晴らしい未来やご計画をもっておられるかもしれないのに、エサウのようにその価値を知らずに捨ててしまうことになるのです。

 

◆②ヤコブ及びイスラエル人:神とともに/いのちと御霊を象徴 (オバデヤ1:15-21)

 

●ヤコブは狡猾でしたが、神への信仰心がありました。

 

エサウに比べて、ヤコブが素晴らしい人格者だったかというと、そうではありません。

エサウとヤコブは正反対の性格でした。

エサウは「巧みな猟師、野の人」となりましたが、ヤコブは「穏やかな人で天幕に住んで」いました。

豪傑なエサウは単純でお人よしな性格でしたが、ヤコブは狡猾で抜け目なく、生まれる時もエサウのかかとを掴んでいたほどです。ヤコブはエサウの弱みにつけこんで、長子の権利を奪いました。

 

神はエサウではなくヤコブを祝福されましたが、その生涯を苦難多きものとされました。

エサウから逃げて20年も叔父ラバンのもとで働き、最も愛したラケルを長い間めとることができず、最愛の息子ヨセフを失ったと聞いて長年悲しみ、最後はカナンではなくエジプトで死にました。

それでもヤコブは、いつの時も神とともにあり、その子孫は神とアブラハムとの契約の通り、祝福されました。

主に信頼したヤコブは、いのちと御霊を勝ち取ったのです。

 

<オバデヤ1:15-17>

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1:15

【主】の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。

1:16

あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう。

1:17

しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する。

1:18

ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。火と炎はわらに燃えつき、これを焼き尽くし、エサウの家には生き残る者がいなくなる、と【主】は告げられた。

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この預言の通り、エサウの家(エドム)は報いを受けて滅び、ヤコブの家(イスラエル)は回復しました。

 

◆③苦難を通して与えられる更なる輝き

 

エドムは滅亡しましたが、人の世が続く限り、終末まで、エサウとヤコブの対立は続いていくのかもしれません。オバデヤは、旧約聖書の時代から現代まで延々と続く険悪な関係について、まるで未来まで行って見てきたかのように預言しています。

 

<オバデヤ1:19-21>

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1:19

ネゲブの人々はエサウの山を、低地の人々はペリシテ人の国を占領する。また彼らはエフライムの平野と、サマリヤの平野とを占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。

1:20

イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民はカナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。

1:21

救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は【主】のものとなる。

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旧約聖書を読んでいて不思議に思うのは、仲の良い兄弟があまり出て来ないということです。

アダムの息子のカインとアベルに始まって、アブラハムの息子のイシュマエルとイサク、イサクの息子のエサウとヤコブ、ヤコブの12人の息子たち、ダビデの息子たち。兄弟仲睦まじい姿はあまり描かれていません。

 

現代に目を向けてみると、その敵対する兄弟たちの姿は、今日のユダヤ人とアラブ人の対立、パレスチナ問題として傷跡が残っているようです。現代のパレスチナ問題の原因としては、よく第一次世界大戦時の英国の「三枚舌外交」が挙げられますが、遡れば聖書の兄弟間の対立に起因しています。

 

世界中で絶えず繰り返されている宗教間の争いも、兄弟間の対立から来ます。

その根底は、神に選ばれた民の過剰な選民意識と、そうではない民との争いということになりますが、イエス様がこの地上にお生まれになってくださってからは、その構図は変わったのです。

イエス様の福音は全世界のものとなり、救いは選ばれた民だけのものではなくなったのです。

もう兄弟間で争わなくてもよいのです。

 

オバデヤ1:21で「王権は主のものとなる」と預言されているように、イエス様の出現によって、すでに神の国はこの地に到来しているのです。すべての主権はイエス様にあるのですから、私たちはこの世の肉に歩まず、御霊によって神の国の価値観で歩むことを常に意識する必要があります。

パウロは、肉に従う者と御霊に従う者について、このように語っています。

 

<ローマ8:5-8>

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8:5

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

8:6

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

8:7

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

8:8

肉にある者は神を喜ばせることができません。

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アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、みんな完ぺきな人物ではなく、欠けのある人たちでした。

しかし神を愛する心、神に従う心、神への信仰心は誰にも負けませんでした。

エサウやエドム人には、その心がありませんでした。

 

私たちもみな、完ぺきな人間ではありません。人生振り返ってみると、罪深い行い、愚かな失敗、人に傷つけられたり傷つけたり、弱さを覚えたり、苦難の中にあって嘆き、欠けだらけの人生です。

しかし主に信頼することで、苦難を通して更なる輝きが与えられるのです。

 

総会資料の巻頭言でも紹介させていただきましたが、壊れた陶器を純金で装飾して修繕する、「金継ぎ(きんつぎ)」という日本の伝統技法があります。金継ぎは、ただ修繕して傷をなかったことにする技法ではなく、傷を歴史の一部として受け入れ、美しく輝かせます。

 

金継ぎの技法で最も大切なのは、壊れた陶器を繋ぎ合わせるベースとなる部分です。

そのベースとなる部分を綺麗に平らな状態にし、その上から純金でコーティングすることにより、傷であったはずの部分が美しく際立ちます。

 

主がヤコブたちに与えた回復の方法は、壊れた陶器のようにバラバラになってしまうほどの苦難を与えるというものでした。しかしヤコブたちは苦難の中でも主への信仰心を失くすことはありませんでした。

 

アブラハムも、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデも、苦しい時こそ、ますます主を賛美し、褒め称えました。

陶器師である主は、その心に応えてくださり、彼らの欠けをも見事に修復して祝福してくださいました。

 

成長には痛みが伴います。しかしその痛みがあるからこそ、新たに輝くものへと変わることができるのです。

私たちの人生の苦難や欠けを歴史の一部として受け入れ、主に信頼し、主の栄光の証人となりましょう。

 

主に信頼する者は、必ず主が祝福してくださるということを信じます。

 

肉に頼る者はエドムのように滅びの道を歩みます。

私たちは、そのような滅びの道ではなく、いのちと御霊の道を歩んで、神様に喜んでいただきましょう!!

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