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2018年4月28日 (土)

~オバデヤの幻~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: オバデヤ書1章1-4

 

1:1

オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは【主】から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」

1:2

見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。

1:3

あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか」と心のうちに言っている。

1:4

あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。

──【主】の御告げ──

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昨年からですが、「ホセア書」から始まる12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」と続きましたので、今回は「オバデヤ書」の一書説教です。

 

12預言書の中で、よく知られている書は、おそらく「ヨナ書」だと思います。預言者ヨナは神様の命令に背いて船に乗って逃げましたが、船が難破しそうになり、船から放り出され、大きな魚に飲み込まれて吐き出され、結局最初の神様の命令どおり、ニネべという町を救うために不本意ながら預言する~という内容です。

 

その次に知られているのは、ボリュームがある「ホセア書」とか「ゼカリヤ書」、また、旧約聖書最後に位置づけられている「マラキ書」あたりでしょうか。

 

さて今日の「オバデヤ書」というのは・・・「聖書のどこらへんにあったっけ?」と考えてしまう人がいるかもしれないくらい、印象が薄い預言書かもしれませんが・・・実は大きな特徴があります。

 

それは、「旧約聖書の中で一番短い書物!」・・・っということです。ちょっと印象に残りましたか?

オバデヤ書は1章しかありませんし、全部で21節しかありません。聖書も2ページで収まっています。

しかし、短い中にもギュッと、創世記からの聖書の歴史が詰まっています。

脈々と語られ続けた神様の愛と義。それに対する人間の愚かさがこのオバデヤ書には記されています。

 

さきほど読んでいただいた、オバデヤ1章1-2節をもう一度お読みします。

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1:1

オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは【主】から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」

1:2

見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。

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「オバデヤ」の名前の意味は、「主に仕える者」、もしくは「主のしもべ」です。

オバデヤ自身の経歴や人物像については、聖書からは何も知ることはできません。

神である主は、幻を通してオバデヤにご自身のご計画を語られました。

「オバデヤ=主のしもべ」は、その名前にふさわしく、神の権威をもってそれを民に伝えました。

 

オバデヤ前半1-14節はエドムが滅亡するという預言が語られ、後半15-21節はイスラエルが回復するという預言が語られています。特徴的なのは、他の預言書のように、「悔い改めなければこうなるだろう~」といった悔い改めの猶予もなく、エドムへのさばきが下っていることです。

なぜ神はここまでエドムに怒りを燃やされたのでしょうか。

 

◆①エサウ及びエドム人:神に敵対/人間の肉を象徴  (オバデヤ1:1-14)

 

エドムとは、エドム人が住む土地です。エドム人は、イサクの子どものエサウを先祖とします。

エサウは双子の兄で、弟はヤコブです。ヤコブはイスラエルという名を神からいただきました。

 

ヤコブの子孫は、モーセによってエジプトから脱出して、神の約束の地カナンに住みました。

エサウの子孫はカナンの地を出てエドムの地に住みました。

エドムの地は、死海の南からアカバ湾にいたる土地で、現在のヨルダンに位置していました。

アカバ湾からメソポタミアに通じる道があり、エジプトとアラビアを結ぶ交通の要路があったので、農耕、通商、貿易による巨額の収益があったようです。

 

エドムの都市であったペトラの遺跡は、今では世界遺産となっています。

切り立った赤色の砂岩の山地ですが、敵からの攻撃を防ぐのに役立ちました。

そのような所に住むエドム人たちに、主はこの様に言われました。

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1:3

あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか」と心のうちに言っている。

1:4

あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。

──【主】の御告げ──

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主の怒りは尋常ではありません。

切り立った山地に住むエドム人たちの心は高慢であり、神はそこから彼らを引き降ろすと言われました。

なぜでしょうか。それは、兄弟ヤコブの子孫の危機に対して傍観し、助けるどころか敵に加担したからです。

 

<オバデヤ1:10-14>

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1:10

あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。

1:11

他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。

1:12

あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。

1:13

彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。

1:14

そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。

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オバデヤが活動した時代は、紀元前9世紀説と、紀元前6世紀説など諸説あります。

どの説も、南ユダ王国にあるエルサレムが危機に陥った時にフォーカスしています。

その時エドムは兄弟を憐れむことをせず、他国に加勢し、略奪し、ヤコブの子孫たちを苦しめました。

 

エドムのヤコブの子孫に対する暴虐は、モーセの時代から繰り返し行われていました。

それゆえ、神は「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。」と言われました。

 

実際エドム人は、紀元前6世紀にエルサレムが陥落して南ユダの民がバビロンに捕囚された後、バビロニア人によってエドムの地から追い出されました。そして押し出される形で南ユダに流れて行きました。

その後エドム人は、紀元前2世紀のマカベヤ戦争の時にユダヤ人の支配下におかれ、イエス様の時代までイドマヤ人(ギリシャ語読み)として存在しました。

 

生まれたばかりのイエス様を殺そうとしたヘロデ大王はイドマヤ人でした。

このような形で、新約の時代になっても相変わらずエドム人はヤコブの子孫と敵対していましたが、紀元70年のローマによるエルサレム陥落以後は歴史から消えてしまったようです。

オバデヤの預言の通り、エドムは滅亡しました。

 

ちょっと歴史の授業のようですが、ここで重要なのは、「主が語られることは必ず実現する」ということです。

 

エドム人の祖先エサウの行為は、神に敵対する人間の肉を象徴しています。人間の肉とは、文字どおり肉体の欲求を満たすこと(食欲、性欲など)や、神に敵対するこの世の権力や権勢、地位や名誉への欲です。

エサウの罪を改めて列挙してみましょう。

 

●エサウは一時の空腹を満たすために長子の権利をヤコブに売り渡しました。

<創世記25:34>

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ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

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この行為は、神が与えてくださった権利を、食欲を満たすという肉の欲求のために放棄したことになります。

 

●エサウはヘテ人を妻にめとり、両親を悩ませました。

<創世記26:34-35>

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26:34

エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。

26:35

彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった。

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多神教で偶像崇拝を行なうカナン人の一族ヘテ人をめとったこの肉の行いは、神への背きです。

後にヤコブがアブラハムの家系の娘をめとろうとしていることを知ったエサウは、慌ててイサクの兄イシュマエルの娘をめとりましたが、ヤコブを祝福するイサクの気持ちは変わりませんでした。

 

●エサウは主なる神に信頼していませんでした。

 

エサウが神に賛美や祈りを捧げている姿は、聖書の中には見られません。

彼は常に自分の考えのみで行動しています。

エサウから逃げたヤコブと20年ぶりに再会した時、エサウはすでに怒りを忘れ涙を流して喜びました。

一見和解した美しい兄弟の姿に見えますが、エサウはエドムの地で財産を得て満足していたから気持ちに余裕があったのです。

 

エサウが約束の地カナンに住まず、エドムの地に住みついたのも、権力や財産という肉の欲を満たす行為でした。

 

このように、エサウの行いを客観的に見てみると、「愚かだなー。」と思いますが、エサウのような肉的な思いは、私たちの中にも多々あるのではないでしょうか。

 

エサウのように、

・神様から与えられている特権や賜物を、自分の肉的な欲求を満たすために放棄してはいないでしょうか。

・世の風潮に流されて、知らず知らず偶像崇拝を行なっていないでしょうか。

・主に頼らず、自分の力で物事を成し遂げようとはしていないでしょうか。

 

このようなエサウ的思考で行動すると、世の中からみれば、頑張っている人、努力している人、成功している人に見えるかもしれませんが、神様が喜ばれる姿ではありません。

神様は私たちが描いているよりも、もっと素晴らしい未来やご計画をもっておられるかもしれないのに、エサウのようにその価値を知らずに捨ててしまうことになるのです。

 

◆②ヤコブ及びイスラエル人:神とともに/いのちと御霊を象徴 (オバデヤ1:15-21)

 

●ヤコブは狡猾でしたが、神への信仰心がありました。

 

エサウに比べて、ヤコブが素晴らしい人格者だったかというと、そうではありません。

エサウとヤコブは正反対の性格でした。

エサウは「巧みな猟師、野の人」となりましたが、ヤコブは「穏やかな人で天幕に住んで」いました。

豪傑なエサウは単純でお人よしな性格でしたが、ヤコブは狡猾で抜け目なく、生まれる時もエサウのかかとを掴んでいたほどです。ヤコブはエサウの弱みにつけこんで、長子の権利を奪いました。

 

神はエサウではなくヤコブを祝福されましたが、その生涯を苦難多きものとされました。

エサウから逃げて20年も叔父ラバンのもとで働き、最も愛したラケルを長い間めとることができず、最愛の息子ヨセフを失ったと聞いて長年悲しみ、最後はカナンではなくエジプトで死にました。

それでもヤコブは、いつの時も神とともにあり、その子孫は神とアブラハムとの契約の通り、祝福されました。

主に信頼したヤコブは、いのちと御霊を勝ち取ったのです。

 

<オバデヤ1:15-17>

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1:15

【主】の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。

1:16

あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう。

1:17

しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する。

1:18

ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。火と炎はわらに燃えつき、これを焼き尽くし、エサウの家には生き残る者がいなくなる、と【主】は告げられた。

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この預言の通り、エサウの家(エドム)は報いを受けて滅び、ヤコブの家(イスラエル)は回復しました。

 

◆③苦難を通して与えられる更なる輝き

 

エドムは滅亡しましたが、人の世が続く限り、終末まで、エサウとヤコブの対立は続いていくのかもしれません。オバデヤは、旧約聖書の時代から現代まで延々と続く険悪な関係について、まるで未来まで行って見てきたかのように預言しています。

 

<オバデヤ1:19-21>

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1:19

ネゲブの人々はエサウの山を、低地の人々はペリシテ人の国を占領する。また彼らはエフライムの平野と、サマリヤの平野とを占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。

1:20

イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民はカナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。

1:21

救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は【主】のものとなる。

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旧約聖書を読んでいて不思議に思うのは、仲の良い兄弟があまり出て来ないということです。

アダムの息子のカインとアベルに始まって、アブラハムの息子のイシュマエルとイサク、イサクの息子のエサウとヤコブ、ヤコブの12人の息子たち、ダビデの息子たち。兄弟仲睦まじい姿はあまり描かれていません。

 

現代に目を向けてみると、その敵対する兄弟たちの姿は、今日のユダヤ人とアラブ人の対立、パレスチナ問題として傷跡が残っているようです。現代のパレスチナ問題の原因としては、よく第一次世界大戦時の英国の「三枚舌外交」が挙げられますが、遡れば聖書の兄弟間の対立に起因しています。

 

世界中で絶えず繰り返されている宗教間の争いも、兄弟間の対立から来ます。

その根底は、神に選ばれた民の過剰な選民意識と、そうではない民との争いということになりますが、イエス様がこの地上にお生まれになってくださってからは、その構図は変わったのです。

イエス様の福音は全世界のものとなり、救いは選ばれた民だけのものではなくなったのです。

もう兄弟間で争わなくてもよいのです。

 

オバデヤ1:21で「王権は主のものとなる」と預言されているように、イエス様の出現によって、すでに神の国はこの地に到来しているのです。すべての主権はイエス様にあるのですから、私たちはこの世の肉に歩まず、御霊によって神の国の価値観で歩むことを常に意識する必要があります。

パウロは、肉に従う者と御霊に従う者について、このように語っています。

 

<ローマ8:5-8>

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8:5

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

8:6

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

8:7

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

8:8

肉にある者は神を喜ばせることができません。

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アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、みんな完ぺきな人物ではなく、欠けのある人たちでした。

しかし神を愛する心、神に従う心、神への信仰心は誰にも負けませんでした。

エサウやエドム人には、その心がありませんでした。

 

私たちもみな、完ぺきな人間ではありません。人生振り返ってみると、罪深い行い、愚かな失敗、人に傷つけられたり傷つけたり、弱さを覚えたり、苦難の中にあって嘆き、欠けだらけの人生です。

しかし主に信頼することで、苦難を通して更なる輝きが与えられるのです。

 

総会資料の巻頭言でも紹介させていただきましたが、壊れた陶器を純金で装飾して修繕する、「金継ぎ(きんつぎ)」という日本の伝統技法があります。金継ぎは、ただ修繕して傷をなかったことにする技法ではなく、傷を歴史の一部として受け入れ、美しく輝かせます。

 

金継ぎの技法で最も大切なのは、壊れた陶器を繋ぎ合わせるベースとなる部分です。

そのベースとなる部分を綺麗に平らな状態にし、その上から純金でコーティングすることにより、傷であったはずの部分が美しく際立ちます。

 

主がヤコブたちに与えた回復の方法は、壊れた陶器のようにバラバラになってしまうほどの苦難を与えるというものでした。しかしヤコブたちは苦難の中でも主への信仰心を失くすことはありませんでした。

 

アブラハムも、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデも、苦しい時こそ、ますます主を賛美し、褒め称えました。

陶器師である主は、その心に応えてくださり、彼らの欠けをも見事に修復して祝福してくださいました。

 

成長には痛みが伴います。しかしその痛みがあるからこそ、新たに輝くものへと変わることができるのです。

私たちの人生の苦難や欠けを歴史の一部として受け入れ、主に信頼し、主の栄光の証人となりましょう。

 

主に信頼する者は、必ず主が祝福してくださるということを信じます。

 

肉に頼る者はエドムのように滅びの道を歩みます。

私たちは、そのような滅びの道ではなく、いのちと御霊の道を歩んで、神様に喜んでいただきましょう!!

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2018年4月20日 (金)

神の国の福音 マルコ1:14-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.4.22

 イエス様が宣べ伝えた福音は、単なる福音ではなく、神の国の福音です。単なる福音と神の国の福音は一体どこが違うのでしょうか?伝統的な教会は、「イエス様を信じることによって罪赦され、天国に行くことができる」と教えてきました。では、天国は死んでから入るものなのでしょうか?そうではありません。天国という名称が問題です。本来は神の国なのですが、ユダヤ人は「神」ということばを使うことを恐れ、「天」と置き換えたのです。重要なのは、人は死んでから天国に入るのではなく、生きているうちに神の国に入るということです。

1.神の国の福音とは

 今から15年くらい前、五藤千代姉妹のご主人が危篤状態ということで亀有病院に駆けつけました。温泉で湯あたりをしたようで、食べることもできず意識がもうろうとしていました。数日後、五藤姉妹から「今なら、意識がはっきりしていますので、すぐ来てください」と言われました。私は「五藤さん、イエス様を信じたら、罪赦され天国に行けますよ。イエス様を信じますか?」「うん」と言いました。五藤姉妹は「行きがけに答えたのよ。もう一度聞いてみて」と言われ、もう一度福音を伝えたら、「うん」と答えました。私は救いの感謝と病の癒しの祈りをして帰ってきました。1週間後、五藤さんはめきめき回復し、「ぜひ、洗礼を」と山崎長老と病院に行きました。そのとき、五藤さんが私に文句を言いました。「先生、私は天国に行っていないよ。ちゃんと生きているよ」。私は天国のことを説明し、もう一度、信仰を確認してから洗礼を授けました。五藤さんはその後、退院し、2年後に本当に天国に旅立ちました。実は、五藤姉妹の家で1年半くらいセル集会を持ったことがあり、ご主人の五藤さんも参加していました。五藤さんは、とても理屈っぽくで「天国と極楽はつながっている」と言っていました。「これは難しい人だなー」と思っていました。しかし、病院に入院して、危機的な状況になってイエス様を信じたのです。その時、「天国に行ける」というのは、誤解を招く表現だということを学びました。なぜなら、テレビで、だれかが死ぬと「天国に旅だった」とだれでも天国に行けるかのように言っているからです。そのとき、heaven天国ということばに問題があるということが分かりました。クリスチャンも、「罪赦され救われたら、天国に行ける」と教えられています。でも、天国がゴールであるなら、洗礼を授けるとき、ずっと水の中で沈めていたら、すぐ天国に行けます。そのような教えは、どうせ天国に行けるのだから、生きているうちは何をしても良いということになります。怠け者のクリスチャンを作り出してしまいます。

 イエス様は単なる福音ではなく、神の国の福音を宣べ伝えられました。マルコ114-15「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」神の国は、ギリシャ語でバシレイアですが、「王権、統治、支配」という意味です。神の国では神さまが王様であり、その方に服従することが求められます。つまり、神の国に入るためには、悔い改める(方向転換する)必要があるということです。自分が王ではなく、神さまが王様だということです。神の国に入る条件は、罪が赦され、義と認められる必要があります。そのため、イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれて、代価を払ってくださいました。イエス様が道であり、真理であり、いのちなのです。このお方を通して私たちは父なる神さまのところに行けるのです。つまりは、神の国にはいり、神の国の臣民(国民)になるということです。神さまが王様であるならば、国民である私たちの命を保証し、領土を与え、必要と守りを与えてくださるのは当然であります。もし、「死んだら天国に行く」という概念しかないなら、この地上の人生は自分の力で生きていくしかありません。この地上はおまけの人生であり、そこには生きる目的も使命も存在しません。「この世の誘惑に負けないで、貧しさと病気に堪え、なんとか天国に入る」という生き延びる人生であります。かつてはそういう信仰者がたくさんいました。一昔前は、「酒タバコ飲ま吸わぬの耶蘇教は、あぁ面倒な宗旨なり」と揶揄されました。禁欲的で世離れした人生です。クリスチャンは信じたときから、この世でありながら、神の国で生きているのです。確かに神の国の領土は目に見えません。ただ、神の支配だけが来ています。でも、イエス様を信じることによって、神の国に入ることができるのです。この世はやがて終わりますが、それから目に見えるかたちでやってきます。イエスさまは「あなたがたのために、私は場所を備えに行くのです。私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。」(ヨハネ142,3と言われました。

 パウロは救いを得ることをこのように表現しています。使徒2618「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」救われることが「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ…御国を受け継ぐ」と書かれています。コロサイ113「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」このところには、暗闇の圧政から救い出されて、今度は、御子の支配の中に移されると書かれています。「御子の支配」はギリシャ語で、「御子のバシレイア」です。つまり、私たちは、かつては暗闇とサタンの支配で苦しんでいた存在です。しかし、イエス様を信じたことにより、そこから光の御子の支配にtransfer移されたということです。私たちはイエス様を信じたあとも、日本という地上で、同じ番地で暮らしていると思っています。ところがそうではありません。私たちは御子の支配、神の国で暮らしているということなのです。私たちはこの世というものが、サタンの支配下にあることをご存じでしょうか?もちろん、地上は、もともとは私たち人間のものでした。しかし、アダムが罪を犯してから支配権を失い、サタンがそれを横取りしてしまいました。イエス様が40日間断食した後、悪魔から誘惑を受けました。第二番目の誘惑です。ルカ45-6「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。』」もし、これが嘘であれば、イエス様は「馬鹿こけ!これは神さまのものだ」と一蹴したはずです。でも、イエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさいと書いてある」と答えただけです。多くの人たちは、「神さまがいるのにどうして災害とか、病気、ひどいことが起こるのですか?」と言います。その原因は、人間が自然界の支配権を失い、サタンが横取りしているからです。罪ある人間は霊的に死んだ状態であり、悪魔と悪霊によって支配されているとエペソ2章に書かれています。

 イエス様は私たちを救うために天から降りてこられました。福音書にはそのことが物語のように書かれています。ルカ1120-22「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」イエス・キリストはこの地上に、神の国を持って来られました。その証拠に、悪霊を追い出し、病を癒されました。この物語を解釈すると、「強い人」というのはサタンのことです。「自分の家」とはこの世であり、「持ち物」とは罪の中にある人間です。「もっと強い者」とはイエス・キリストのことです。イエス様はサタンの国を襲って、打ち勝ち、虜を解放するということです。サタンが持っている最大の武具は、人間の罪を告発することです。もし、イエス様が人間の罪を贖うならば、サタンは告発することは不可能です。イエス様は十字架で死ぬことにより、サタンのかしらを打ち砕いてくださいました。現在、サタンの国は武装解除された状態であり、悪霊どもが勝手に戦っているのです。もし、私たちが悪魔と悪霊と戦わなければならないと思うなら、欺かれて敗北するでしょう。そうではなく、彼らはすでに負けているのです。私たちはキリストにあってすでに勝利を得ているのです。私たちの戦いとは、勝利が既に決まっている戦いなのです。ルカ11章のみことばからも分かるように、イエス・キリストが神の国を持って来られたということです。福音書の時代は、その入口が狭くてよく分かりませんでした。そのため、マタイ1112「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」でも、十字架と復活以降、神の国の門が大きく開かれ、だれでも自由に入ることが可能になりました。

 私たちはクリスチャンになっても、この世の中に住んでいます。この世には不条理があふれており、いつ私たちも巻き添えになるか恐れているかもしれません。テレビや新聞のニュースは、悲惨な事件にあふれているので、ついつい恐れがやってくるかもしれません。しかし、私たちはこの世にありながら、神の国に住んでいるのです。父なる神さまが王であり、私たちはその臣民(国民)です。神の民であるならば、その保証として、守りと助けが与えられることを信じます。詩篇236「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」やがて、主の家に住むのではなく、既に主の家に住んでいるのです。私たちは地上において、どこで、どの家に住むか問題ではありません。私たちはすでに神の国の中にあるので、主の家に住んでいるのです。

2.神の国の福音とその現れ

 イエス様は神の国の福音を伝えただけではありません。「もうすでに神の国があなたがたのところに来ていますよ」ということを現されました。その証拠として、イエス様は福音宣教をしながら、病を癒し、悪霊を追い出し、ある時は死人さえよみがえらせました。言い換えると、福音宣教と奇跡としるしが伴っていたということです。残念ながら、教会の中には「聖書が完成した今は、目覚ましい奇跡やしるしは必要でなくなった」と教えているところがあります。とんでもありません。20世紀にはインドネシア、アルゼンチン、中国、韓国にリバイバルが起きました。そして、現在はアフリカに大いなるリバイバルが起こっています。そこでは、病の癒しはもちろん、盲人が見え、足なえが歩き、耳の聞こえない人がどんどん癒されているのです。さらには、死んだ人さえ生き返っています。まさしく「四福音書」や「使徒の働き」の中で起きていることが継続しているということです。どうぞ、神さまを私たちの神学や経験に押し下げないようにしてください。神さまは私たちよりも、ずっと高いお方であり、今も奇跡やしるしを起こすことができます。そのためには、私たちは聖書から「神の国の福音とその現れ」について知る必要があります。マタイ11章に書いてありますが、バプテスマのヨハネが獄中から「おいでになるはずの御方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方をまつべきでしょうか」と聞いています。イエス様はこのように言われました。マタイ114,5「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」これはどういう意味でしょう?イエス様は神の国を地上に持ってこられたメシヤであるということです。イザヤ35章に完成された神の国がどのようなものか書かれています。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(イザヤ355これは千年王国の預言であり、将来の出来事です。しかし、イエス様は将来起るであろうことを、この地上に持ってこられたのです。それは「今、ここに神の国が来ていますよ。神の国とはこういうものですよ」ということを証明しているのです。

 マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」イエス様は3年半、ガリラヤからはじまり、エルサレムなど、パレスチナ全体を歩き回って、福音を宣べ伝えました。しかし、ただ福音を宣べ伝えただけではありません。必ず、病を癒し、悪霊を追い出し、さまざまな障害を回復してあげました。イエス様の福音宣教と癒しや悪霊追い出しはセットであったということです。ところが現代の教会は福音宣教だけしかやっていません。これまで、映画伝道、英会話伝道、喫茶店伝道、音楽伝道、ランチョン…いろいろやってきました。しかし、イエス様と弟子たちが行った福音宣教と同じではありません。病の癒しと悪霊追い出しが全く入っていません。なんと、スマートで上品な福音宣教になっているのでしょう。現在、アフリカやインドに行くと、福音宣教には必ず、病の癒しと悪霊追い出し、しるしと奇跡が行われます。そこでは盲人が見え、足なえが歩き、松葉杖の山ができたりします。日本ではまず、そういう集会はありません。あまりにもスマートで上品になりすぎています。戦後、新興宗教がたくさん出ました。天理教、霊派の光、立正佼成会、創価学会…みな癒しを行います。しかし、日本のキリスト教会は「そんなのご利益で低級だ」と馬鹿にしました。世の人たちは「教会はインテリの行くところだ。庶民の行くところじゃない」と思ったのです。本当にキリスト教会はミッションスクールに力を注ぎましたが、教会はさっぱり伸びませんでした。なぜでしょう?教えが知的すぎて、普段の生活への適用が全くありません。教会は観念的で頭でっかちの信者を製造してきました。理屈ばっかり述べて、かつてのパリサイ人や律法学者のようになっています。イエス様は一般民衆のところへ出かけ、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出されました。さらに、イエス様は弟子たちにもそうせよ、と命じておられます。ルカ91,2「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」このみことばからも、福音宣教と病の癒しと悪霊の追い出しはセットであったということがわかります。言い換えるなら、神の国を宣べ伝えるならば、当然、病を癒し、悪霊を追い出さなければならないということです。なぜなら、それらの出来事は、「神の国が今、ここに来ていますよ」という証明だからです。

 では、日本において、なぜ福音宣教がはかどらないのでしょうか?それは、奇跡としるしの伴わない福音を宣べ伝えているからです。神の国の福音ではなく、ただの福音であります。使徒パウロがギリシャのアテネに行って福音を宣べ伝えました。でも、その効果はさっぱりでした。なぜでしょう?彼らと神さまのことで議論したからです。コリントの教会の人たちにこう言っています。Ⅰコリント24「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」使徒パウロの宣教には、御霊と御力の現れが伴っていたということです。これは、パウロが聖霊による様々な賜物を用いたということです。Ⅰコリント12章には「知恵のことば、知識のことば、信仰、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊の見分け、異言、異言を解き明かす力」などが掲げられています。他には悪霊の追い出しもあります。これらの賜物はすべてのクリスチャンが持つことができる聖霊の賜物です。この賜物を用いて、神の国が来ていることを証明するのです。これは、しるしと奇跡の伴う福音宣教です。神さまに出会うなら、人々の頑なな心が開かれ、福音を簡単に受け入れられるようになるでしょう。まずは、神の国の前味を体験してもらう必要があります。それは、スーパーなどの試食コーナーと同じです。おばさんが、「あなたも1つどうですか?」と言いながら、ウィンナーとか焼肉のたれ、ヨーグルトなど、新商品を販売しています。私たちも神の国がどのようなものなのか、人々に「あなたも1つどうですか?」と試食させる必要があります。おいしければ、信じます。

 これまで教会は天国に行くだけのクリスチャンを作ってきました。しかし、本来はそうではありません。神の国を拡大するという使命を帯びながら、この世に出ている存在であります。どんな仕事をしながらでも、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、様々なしるしと奇跡を行なうことは可能です。それらは牧師だけが行うミニストリーではありません。普通のクリスチャンが行うべき標準的な事柄であることを再認識すべきです。そのためには、上からの油注ぎ、権威と力が必要です。それがないとこの世にやられてしまいます。イエス様の弟子たちは、その力を上からいただいたので、あのような働きができたのです。ルカ2449 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」この約束はペンテコステの日に実現しました。ペンテコステの日、120人の弟子たちは11人を除いて、聖霊の新生と聖霊のバプテスマを両方体験しました。11人はイエス様が復活した夜、聖霊を内側に受けていました。現代においてはイエス様を信じたら、だれでも聖霊を内にいただいて生まれ変わります。しかし、聖霊を上からいただいて油注ぎを受けるという次の経験が必要であります。いろんな経験があり一概には言えませんが、とにかく上から聖霊を着せられる必要があるのです。これはきよめ派が言う、内側が聖霊に満たされる意味ではありません。まるで水の中にどっぷり浸かるように、外側から聖霊に覆われるということです。そうすれば、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、様々なしるしと奇跡を行なうことが普通になります。これまでそういうことがなかったということは、標準以下のクリスチャンであったということです。どうぞ、聖霊を上からいただいて、かつての弟子たちのようになりましょう。

 日本にはキリスト教が西洋周りでやってきました。西洋の教会は、啓蒙主義、合理主義の影響を受けてしまいました。だから、「病の癒しや奇跡はない」という理性的な教えです。奇跡を行なえないような神さまは本当の神さまではありません。この世は閉ざされた世界ではありません。神さまは今もこの世に介入してくださいます。問題は、私たちクリスチャンがその橋渡しになる必要があるということです。イエスの御名を用いて祈り、あるいは命じるならば、神の国がこの地上にやってきます。ビル・ジョンソンは、『天がこの地にinvade侵略するとき』という本を書きました。イエス・キリストが2000年前、この世に来て以来、この地は侵略されています。この地は悪魔のものではありません。私たち人間が本来、支配すべきものです。私たちはこの地を私たちのもとに取り戻す必要があります。この地を悪魔から奪い返し、神の国の拡大のためにクリスチャンがいるのです。クリスチャンは礼拝を守り、ただ天国に行く存在ではありません。この礼拝は神さまを見上げ、神さまを第一にするという行為です。そして、神さまから聖霊の力をいただいて、この世に派遣されていくのです。警察官には国家権力がついているのでなめてはいけません。同じように私たちの背後には、神の国の強力なバックがついています。男性、女性、信徒、牧師、老人、若者、子ども、すべてに神の国の強力なバックがついていることをお忘れなく。

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2018年4月13日 (金)

希望を持て Ⅰコリント13:13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.4.15

 私たちは希望を持つことがとても重要です。ところが、いくら望んでもかなわないと、諦めが支配して、希望を持てなくなります。世の中には病気や事業の失敗を苦にして自らの命を絶つ人がたくさんいます。私たちは希望が持てないような状況でも、何とか希望を持たなければなりません。その証拠に、Ⅰコリント1313「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と書いてあります。きょうは希望を持つことの重要性についてメッセージしたいと思います。 

1.希望と信仰

 ヘブル111「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」残念ながら、この日本語訳では分かるようで分かりません。キングジェームス訳は、Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.となっています。このsubstanceとは何なのでしょうか?辞書によれば、実質とか本質、実体という意味です。ウォッチマン・ニーは「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と解釈しています。でも、きょうは信仰についてではなく、希望について学ぼうとしています。ヘブル111をよく見ると、信仰の前に、望むことが必要であることがわかります。つまり、何かを望むところから、信仰がやってくるということではないでしょうか?言い換えると、信仰が生まれるための温床は希望であるということです。希望を持てば、やがて信仰が与えられ、それが現実のものとなるということです。でも、多くの人たちは、最初に希望を持つことをしません。すでに諦めて希望を持たないので、信仰がやってきません。考えてみれば、希望を持つことはタダであり、税金もかかりません。どれだけ大きな希望を持っていてもその人の勝手です。凡人は、「そんなのドンキ・ホーテのようだ」と馬鹿にするでしょうが、それが実現したとき「あなたは天才です」と賞賛するでしょう。発明王のエジソンのことばです。「私は決して失望などしない。どんな失敗も、新たな一歩となるからだ。」

聖書には、全く希望がない状況なのに、希望を持った人たちにあふれています。アブラハムはまもなく100歳、サラは90歳。子どもが与えられると約束を受けていましたが、その兆候は全くありませんでした。創世記には二人とも疑ってしまい、いたずらに時が過ぎてしまったことが記されています。ところが、ローマ人への手紙には信仰に満ちたカップルとして記されています。ローマ418-19 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」このところで重要なのは「彼は望みえないときに望みを抱いて信じた」ということです。原文は「望みを超えて(反して)、望みを抱いて信じた」となっています。普通の望みだったら消えてなくなります。それ以上の望みを抱いて信じたということです。このところからも、信仰の前に望むことが必要であることがわかります。聖書には望みを抱いて、イエス様に近づいて行った人たちにあふれています。

 マルコ福音書には盲人で物乞いをしていたバルテマイの記事があります。彼はイエス様の噂を耳にして、「あのイエス様が私の目を開いてくれるのでは?」という希望を持ちました。ある日、そのイエス様がエリコの町を通過するところでした。バルテマイは声を張り上げて、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」とイエス様の足を止めようとしました。他の人々から「うるさい、だまれ!」と言われても、ますます、「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と叫び立てました。イエス様が「あの人を呼んで来なさい」と言われ、バルテマイが連れてこられました。イエス様が彼に何とおっしゃったでしょう?「私に何をしてほしいのか?」。とっても意地悪な質問ですが、あえて彼の口から願いを聞きたかったのです。バルテマイは「先生。目が見えるようになることです」。するとイエス様は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。すると、すぐさま彼は見えるようになりました。このところからも分かりますように、バルテマイは最初「イエス様によって目が見えるようになるかもしれない」と望んだのです。そして、通り過ぎようとされるイエス様を呼びとめました。イエス様から「何をしてほしいのか」と問われ、信仰をもって「目が見えるようになることです」と答えました。「目が見えるようになれば良いなー」と希望だけで終わっていたなら、目は見えませんでした。バルテマイは希望を持ち、その次に、信仰をもってイエス様に近づいたのです。希望から、信仰になったのです。そして、イエス様から目の癒しをゲットしたのです。ハレルヤ!このように、信仰の前に、望むことが必要なのです。

 でも、多くの人たちは望んでも叶えられなかったという経験を多く重ねます。すると、もう望まない、そして、絶望してしまいます。その方が傷つかなくて良いからです。絶望してしまうと、もう信仰も生まれません。『夜と霧』を書いた、ヴィクトール・フランクルの本があります。彼は第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に入れられました。その過酷な体験を速記の記号を使い、小さな紙に書き残していました。終戦後の1947年、この記録は『夜と霧』として刊行されます(原題は『強制収容所における一心理学者の体験』です)。これはある人の書評です。本書には、過酷な状況を生きる人々の姿が冷静な眼で記録されています。あまりにも悲惨な出来事には、思わず目を逸らしたくなるかもしれません。しかし絶望のふちに立たされてもなお、人間性や希望を失わなかった人たちがいました。それは、なぜでしょうか。一つには、美しさやユーモアなどで内面性を豊かに保ち続けたことがありました。また未来に対して諦めずに目的を持ち続け、行動したことも精神的な破綻を防ぐことになったといいます。私もその本を昔、買いました。収容所の人たちは「あの日に、解放される」などと何度も裏切られ、絶望していきます。しかし、「根拠はないけど、きっと家族に会える」と希望を捨てなかった人が生き延びたということです。希望が過酷な環境の中で、生きる力を与えたことが分かります。

 私は6年前にジョエル・オスティーンの原書を読みました。私は自慢ではありませんが、英語の本を最後まで読み終えたことがありません。3ページも読んだら良いほうです。多くの本が読まれないまま眠っています。彼の『あなたの出番です』という日本語訳を読んで、関西風の軽い訳なので原書を買って読んでみました。英語とあまりにも違うので愕然としました。一冊、読み終えたら「やればできる!」と思い、気が付いたら10冊くらい読んでいました。今は少し難しい、ビル・ジョンソンの本を読んでいます。ジョエル・オスティーンは神学校も出ていません。大学中退後、テレビのカメラマンとして17年間、お父さんの教会で働いていました。でも、牧師であるお父さんが突然召され、38歳から4000人くらいの会衆の前で話すことになりました。人々は無理だと噂していましたが、見事、乗り越え、現在では2万人の会衆になっています。ところが、ジョエル・オスティーンに対する非難は止みません。その人たちは「彼は正しい福音を語っていない。繁栄の神学だ。偏っている」と非難しました。ジョエル・オスティーンはある本で、このように弁明しています。「人々が何と言おうと私は構わない。なぜなら、私は人々に希望を与えるために神さまから召されたのだから」。彼はあるメッセージでこのように語っています。「希望の種は、私たちの生活におけるすべての良きことの始まりです。希望は人生に打ち勝つための命を与えます。希望はたとえ最悪な環境に直面しても、常に最善を信じます。キリストを信じている者にとって、希望は『願い』や『あこがれ』『積極的な展望』よりも勝るものです。希望は神のことばに見出される約束に基づいているものだからです。神の約束があなたを動かすのです。」アーメン。私は今も、毎朝、彼の本を数冊読み続けています。なぜなら、私は元来、悲観的で否定的な者だったからです。だから、毎日、彼の本から励ましてもらわないと希望が持てません。

ジョエル・オスティーンの本からです。ある会社の重役が、自分のオフィスにちょっと変わった絵画を飾っていました。それは岸辺に打ち上げられた一艘の大きな手漕ぎボートの絵でした。絵の中のボートは、波打ち際から7,8メートルほども陸側に乗り上げていて、二本のオールは深いところまで砂に埋もれた状態です。その絵は人が見て「ほう、これは美しい!」とは言えないような代物でした。それどころか、見ている方が「憂うつ」になるようなたぐいの絵でした。大海原の波に乗って踊るのがふさわしい船が、その本来の活躍場所ではない「砂地の上」に寂しく囚われているからです。しかし、よくよくその絵を見ると、絵の一番下の部分に、何やら絵のタイトルのような文章がありました。『潮の流れは、必ず戻ってくる。』その実にシンプルな一言が添えられただけで、その絵は新しい命を吹き込まれたように眺めることができます。この絵の持ち主である重役は、過去に大変な失望と挫折の中を通る体験をしました。ある時、彼は小さな画廊でこの絵画に出会って、たった数ドルで手に入れたのです。彼はこの絵をのぞき込む度に、自分に言い聞かせました。「潮の流れは、必ず戻ってくる!」その絵画は、ある意味、重役に「信仰を植え付けた」のだ、と言って良いでしょう。絵画の下にあったあの言葉は、「物事はきっと良い方向に向かっていくのだ」という希望を彼に与えたのです。

2.希望を与える神

 希望とは私たちが頭の中から無理やりひねり出すものではなく、神さまが心の中に吹き込んでくださるものです。善なる神さまはあなたに希望を与えたいと願っておられます。ローマ1513「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」このみことばから、神さまご自身が希望の神さまであることがわかります。そして、聖霊がご自身の力によって私たちに希望をあふれさせてくださるということです。聖霊はいわば、神さまから私たちに望みを与える管であります。日本語の聖書は、望みと希望と使い分けているようです。しかし、英語の聖書はすべてhopeです。ギリシャ語でhopeは、エルピスと言います。Elvis Presleyというロック歌手がアメリカにいました。ああ、エルビスでした。エルピスは、「良いことへの期待、希望」という意味です。私たちは希望というと空にかかった虹を連想するかもしれません。でも、そのルーツがどこから来たかご存じでしょうか?ノアの箱舟が1年間も大洪水をさまよい、アララテ山のふもとに漂着しました。ノアは最初、カラスを放ちました。出たり、戻ったりしていました。それから鳩を放ちました。戻ってきました。それからなお7日待って、再び鳩を放ちました。すると、オリーブの若葉をくわえて戻ってきました。これはピースというたばこの絵柄になっています。箱舟のおおいを取り去って眺めてみると、地の面がかわいていました。神さまはノアとすべての動物と契約を結びました。「もはや、大洪水が地をほろぼすことはない」と言われました。そのとき、雲の中に虹が現れました。それ以来、虹は、希望を表すようになりました。

 希望はクリスチャンであろうとなかろうと、すべての人に神さまが与えた賜物です。どんな人でも希望を持つことが可能です。でも、その希望がかなうまで、希望を持ち続ける人は少ないと思います。何故かと言うと、この世の中には希望を失わせるものが満ちているからです。むしろ、人々は絶望の中に生きています。もう何度も裏切られたので、希望なんか持つのも嫌になるのです。旧約聖書で「希望のメッセージ」を与えてくれる最も有名な箇所をご存じでしょうか?それはエレミヤ書にあります。エレミヤ2911「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」しかし、「平安を与える計画、希望と将来を与えるもの」とは何なのでしょうか?11節だけでも十分なのですが、29章全体を読むと、意外なことが書かれています。神さまの希望と将来を計画とは何でしょう?当時、南ユダはバビロンに滅ぼされようとしていました。それは南ユダが犯してきた罪の結果であります。預言者エレミヤは「神のさばきを受けるためにバビロンに囚われて行きなさい。70年たったら戻って来られるから」と人々に告げました。しかし、エルサレムに残った民たちは耳を傾けようとしませんでした。今の時代は見てくれが勝負みたいなところがあり、贈り物のパッケージさえもお金をかけます。「バビロンに囚われて行け」というのは、希望が全くなくて、良い知らせではありません。ところが、それは神の平安を与えるすばらしい計画だったのです。

 私たちの人生においても、希望なんか全く持てないという時期があります。あんなことがなければ良かったと思える過去の出来事がいくつかあるものです。私の最大の失敗は、秋田工業高校土木科に入ったことです。授業も面白くなくて、クラスの人たちとも馬が合いませんでした。6月に強さにあこがれてボクシング部に入りましたが、12月のデビュー戦でTKO負けて退部。それからひどい劣等感に陥り、ノイローゼになりました。学校の帰り、スーパーで万引きし、捕まりました。翌日、母と私が学校に呼び出されました。担任が母に言いました。「この子は将来、強盗、殺人を犯しかねない。ムショからムショの生活を送るかもしれない」と言われました。日々、麻雀に明け暮れていました。その時に吸っていたタバコがshort-hope短い希望でした。なんとか卒業でき、兄と同じ建設会社に入りました。住む場所を変える現場生活がいやなので、23歳で退社しました。小さな貿易会社に入り、職場の先輩に導かれ、25歳のとき洗礼を受けました。まもなく直接献身し、神学校に入りました。28歳でめでたく結婚。33歳の時、この教会の牧師として招かれました。就任6年後、新しい会堂を建てることになりました。私が基本設計をし、土木の現場監督の経験が役に立ちました。ボクシングで挫折しましたが、今はボクシです。かつてはトランペットを挫折したものですが、現在はヨベルのラッパを吹いています。ヨベルとは解放と回復の「喜びの訪れ」の知らせです。私自身、全く希望のない者でありましたが、人々に聖書から希望を伝える者になったことは神さまの奇蹟です。

 私が今、自信を持って言えることは、神さまはどんな人にも希望を与えてくださるということです。パウロは「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」と祈っています。クリスチャンになったら、日々、希望にあふれているかというと、なかなかそうではありません。イエス様が「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです」(ヨハネ1633でおっしゃいました。つまり、天国に行くまで、戦いがあり、希望を失うこともありえるということです。では、どのようにしたら、希望の火を燃やし続けることができるのでしょうか?第一は、望みを与える神さまと和解するということです。生まれつきの私たちには罪があり、神さまと離れている状態です。罪が神とのへだてとなっています。この世の多くの人たちは、色んな神さまに祈っています。商売繁盛、無病息災、結婚、安産、入学、厄除け…。それぞれ、神さまに専門があるようで、願いに行く場所が違います。でも、まことの神さまは唯一であり、万能なるお方です。私たちはこの神さまと和解しなければなりません。イエス様がおっしゃいました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ146)。生まれつきの人間は神から離れ、罪があるために、父なる神さまはその祈りを聞く理由がありません。しかし、神の子イエスが私たちの罪を贖ってくれたので、神さまが私たちの父となり、私たちは神さまの子どもになりました。だから、クリスチャンは、父なる神さまに、イエス様のお名前によって何でも求めることができるのです。そうすれば、望みの神さまが、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいます。望みが信仰を生み出し、やがてそれが実体化するのです。

 第二は、神さまを一度信じるだけではなく、継続的に神さまを礼拝し、神さまのみこころに留まる必要があるということです。そのためには聖日礼拝、日々のディボーションが重要です。私は朝、聖書だけではなく、信仰と希望を与えてくれる本を何冊も読んでいます。そうしないと、この世の心配や恐れが侵入してくるからです。神さまを礼拝すると、様々な問題よりも神さまが大きくなってきます。イエス様が「主の祈り」を教えてくださいました。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」その後に、日ごとの糧、罪の赦し、悪からの救いが続きます。でも、一番大事なのは、神さまがあがめられ、御国があなたのところにやってくることです。御国とは「神の支配」と言う意味です。何よりも先に、神の支配があなたの心に来なければなりません。神さまの支配があなたの心にやってきたら、心配や恐れが締め出されるでしょう。マタイ633もすばらしいみことばです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神さまとその義を第一に求めていくなら、他のものはどうでもよくなります。たとえ病があっても、お金がなくても、問題があったとしても、大丈夫、なんとかなると思えてくるのです。一見、開き直りのように思えますが、愛なる神さまがなんとかしてくださるという信仰と希望がやってきます。

 第三は、私たちには絶対的な希望があります。この希望はイエス・キリストを信じている人でなければ与えられないThe hopeです。それは復活の希望です。イエス様は十字架で死んで、三日目によみがえられました。イエス様は贖いを完成してくださったので、信じる者は罪赦され、義と認められます。私たちの罪は贖われましたが、まだ肉体は贖われていません。この肉体が復活するときに、贖いが完了するのです。つまり、イエス様が栄光のからだによみがえられたように、私たちもよみがえるということです。復活の希望こそが、究極の希望と言えます。この世の人には、この希望がありません。「死んだらおしまい。死んだ先は、どこかで魂が生きているかもしれない」くらいの希望です。私たちはそうではありません。私たちには、死に打ち勝つ希望、復活の希望があります。使徒パウロがこのように述べています。ピリピ320-21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」世の終わり、イエス様が再びこの地上に来られます。その時、私たちの朽ちるべき卑しいからだが、イエス様のような栄光のからだに変えられるのです。その人に、どんなにマイナスが多い人生であったとしても、ぜんぶひっくり返り、よみがえって永遠の御国に住まうことができるのです。

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2018年4月 7日 (土)

最後の命令 マタイ28:11-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.4.8

 いよいよ、本日はマタイによる福音書の最後の説教になりました。なんとNo.103になります。満二年間かかりました。今後は、テーマ別の説教をしばらくしたいと思いますので、ご期待ください。イエス様が天にお帰りになる前の「最後の命令」ですから、とっても大事なものに違いありません。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書にも「最後の命令」がありますが、それぞれ異なっています。マタイ福音書における「最後の命令」とは何なのでしょうか?

1.嘘の福音

 イエス様が墓からいなくなったことを番兵たちは目撃しました。彼らは、女性たちよりも早く、起った事を全部、祭司長たちに報告しました。普通だったら、神を畏れ、本当によみがえったのか調べる必要があります。もし、それが事実なら、イエス様をメシヤとして信じなければなりません。ところがどうでしょう?12-15節そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。ローマ兵が任務を遂行できなかったならば、死刑であります。使徒の働き16章には、看守が責任を取って自害しようとしたことが書かれているからです。でも、「『眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言え」と言われても、そんな嘘が通るのでしょうか?第一、弟子たちがイエス様の死体を盗んでも何の価値があるでしょう?死んだ方を「イエスはよみがえりました」と命賭けで言う訳がありません。しかし、ペンテコステの日以来、死をも恐れずに、弟子たちはキリストの復活を全世界に宣べ伝えに行きました。かつては部屋に隠れていた弟子たちが、あの変わりようは何だったのでしょう?人は嘘のために命を駆けたりはしません。

 祭司長と長老たちはローマ兵を買収して、嘘の報告をさせました。「もし、総督の耳に入っても、心配するな、なんとかするから」と保証しました。「そこまでやるなら、どうしてよみがえられたイエス様を信じないのか?」と言いたくなります。でも、どうでしょう?「彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる」とマタイが記しています。「今日とは」おそらく、紀元後60年から80年くらいかと思われます。教会が誕生し、キリストがよみがえられたという福音がローマにも伝えられていました。同時に、嘘の福音も伝わっていたということです。実は青森県に行くと「キリストの墓」という名所があるそうです。私たちは、「そんな馬鹿なことがあるはずがない」と一笑したくなります。しかし、実際にあるのです。青森県新郷村にその資料館があります。古文書の『竹内文書』が元ネタで、最高裁判所でもその真偽が争われた謎の文書です。「ゴルゴダの丘で磔刑となったのは、実はキリストではなく弟のイスキリでした。キリストは弟子と日本に逃れ、青森県において十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と名を改めました。後にユミ子という名の女性と結婚し三女をもうけ、106歳の天寿を全うしてこの地に葬られました。」もちろん、これは嘘でありますが、なぜ、こんな嘘が極東の日本にあるのでしょうか?それは、ユダヤ人が日本にまでやってきた事の証拠です。6世紀頃だと言われています。その時、ヘブライ語やイスラエルの神事も伝えられました。何とユダヤ人たちは、マタイ28章に記されている、嘘の福音まで伝えたのでしょう。それはユダヤ人が何故イエス様を信じなかったという自己弁護的な嘘です。かえって、このような奇想天外な物語の存在が、マタイ28章の真意を証明していると言うことができます。

 祭司長たちや民の長老たちは、兵士の報告を受けても信じようとしませんでした。逆に嘘の福音を流布させました。ということは、キリストを信じない人は、どんな証言を持ってきても信じないということです。キリスト教会では「不信仰」と言いますが、正しくはそうでありません。そういう人たちは、「神はいない。キリストは救い主ではない」ということを信じているということです。なぜなら、聖書の預言や人々の証明がなされているにも関わらず、「私はそれを信じません」言っているからです。ある人たちは「キリスト教は非科学的で、妄想を信じている」と笑うかもしれません。でも、彼らが本当に聖書の預言を調べ、当時の人たちの証言、弟子たちの変化について調べたのか、というと恐らくそうではないでしょう。科学的というのは、自然科学のことだけではありません。自然科学はおもに目に見えるもの、重さがあって測れるものが対象であります。しかし、世の中には目に見えないものがたくさんあります。神さまも霊であり、私たちにも霊があります。科学的というのは、客観的な出来事を集めて、実験を重ねながら、論証していくことです。自ら調べることもしないで、「神はいない。キリストは救い主ではない」というのは、むしろ非科学的です。ルー・ウォーレスは、かつては無神論者で、キリスト教を完全に否定するための書物を書こうと思い立ちました。そして、欧米の主要な図書館を巡り歩き、研究を重ねました。二年間に亘る熱心な研究を終えて、いよいよ本を書きはじめましたが、その執筆の途中で、突然彼はひざまずいて、主イエスに向かって、「わが主よ、わが神よ」と叫んだそうです。キリストを否定しようとして研究を始めたのですが、逆にキリストが神であるということを否定できなくなってしまったのです。その結果書かれたのが「ベン・ハー」です。この小説の正式な題は「ベン・ハー、キリストの物語」です。この題からも分かるように、この本の本当の主人公は、ベン・ハーではなくて主イエスです。私もテレビで映画を見ましたが、評論家は「いやー、戦車の戦いのシーン、ものすごく迫力がありましたね」と言っていました。

私が高校3年生のとき、映画が封切されたのですが、全く、興味がありませんでした。24歳の時、職場の先輩が「ベン・ハー」について教えてくれました。先輩は「ベン・ハー」の副題は、The tale of Christ「キリストの物語なんだよ」と教えてくれました。ああ、高校生の時に「ベン・ハー」を見ていたなら、もっと人生変わっていたのになー」と思いました。無神論も1つの信仰です。よみがえられたキリストを神さまとして信じるのも1つの信仰です。でも、信じる者たちには、数えきれないほどの実が生まれます。信仰は天国に行くことだけではありません。目に見えない神と共に歩むことにより、目に見える多くの果実を享受することができます。見えるものは一時的ですが、見えないものが永遠に続きます。でも、もう1つ言えることは、見えないものが見える現実を生み出すということです。なぜなら、私たちが信じたものが、やがて見える現実となるからです。目に見えるものしか信じない人は、この世の一時的なものしか得られません。しかし、キリストの神さまを信じる者には、豊かな報いが今からとこしえにいたるまで与えられるのです。ハレルヤ!

2.最後の命令

 イエス様は天にお帰りになられる前、弟子たちを再びガリラヤに呼び出しました。ガリラヤは特別な場所であり、多くの弟子たちはここでイエス様から弟子として召されました。彼らは十字架の前に逃げ出しました。ペテロなどは、イエス様を3度も知らないと否定しました。トマスは他の弟子たちが復活したイエス様に会ったと言っても最初は信じませんでした。おそらく全員が、イエス様の死によって、失望落胆し、生きる目的も失っていたことでしょう。復活した夜のことがヨハネ福音書に記されていますが、今後どうすれば良いかは分からなかったと思います。一度、挫折した者たちが、「分かりました」と、簡単に出直すことなどできません。マタイ2816-20 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」このところに「ある者は疑った」と書いてありますが、トマスのことでしょうか?あるいは他にだれかいたのでしょうか?このところで、弟子たちはイエス様を「礼拝した」と書かれています。ギリシャ語の「礼拝した」はプロスキュネオーであり、神さまや王様の前に、ひざまずいて拝む行為であります。つまり、よみがえられたイエス様は神さまだということです。ピリピ2章には、「すべてがひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白する」と書いてあります。礼拝はよみがえられたイエス様にふさわしいということです。

 後半は、「最後の命令」と題して、詳しく学びたいと思います。まず、イエス様が弟子たちに与えた命令の内容は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」です。しかし、ギリシャ語の聖書を見ますと、正しい命令構成が分かります。この命令の主動詞は「弟子としなさい」です。他は「〇〇することによって」という動名詞になっています。もし、この命令を正しく訳すとするなら、こうなります。「あらゆる国の人々を弟子としなさい。行くことによって、父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授けることによって、彼らに教えることによって、すべてのことを守らせることによって」となります。つまり。「弟子としなさい」という命令に、行くこと、バプテスマを授けること、教えること、守らせることと4つのことが形容されているということです。ですから、ある人たちは、これは大宣教命令ではなく、「大弟子作り命令である」と言います。これまで、教会は人々に福音を伝え、バプテスマを授けて教会員にすることを第一の目的にしてきました。言い換えると、「その人がイエス様を信じて救われる」ことがゴールでした。洗礼を受けて救われたあとは、礼拝を守り、献金をささげ、教会につながるようにとやってきました。残念ながら、キリストの弟子となることがオプションであり、「クリスチャンになっても、キリストの弟子にはなりたくない」という人がたくさん出ることになりました。しかし、本来はクリスチャンになることは、キリストの弟子になるのと同じ意味でありました。なぜなら、イエス様は救い主だけではなく、主であり、王様だからです。でも、教会は人を躓かせたくないために、優しくいたわってきました。

 

 ところが1990年代より、弟子訓練ブームが日本に訪れました。その発端は、アメリカで起きた、学生伝道団体であるキャンパスクルセード、あるいはナビゲータでした。1985年(日航機が墜落した年)、アメリカの教会が日本人5人を招いてくれて、2か月間、学生たちと共に弟子訓練の学びを受けさせてくれました。私たち5人は、「マタイ28章のみことばに、こんな命令があったのか!これこそ地上最大の命令だ!」と目を開かれました。私が日本に帰って、大川牧師に「弟子訓練が必要です」と告げました。その後、まもなく亀有赴任が決まりました。おそらく、「それだけいうなら、まず、お前がやってみろ」ということなのでしょう。1989年から、韓国のサラン教会に見学ツアーが始まりました。日本の牧師たちがたくさん参加して、火を付けられて帰ってきました。私は1990年から「小牧者訓練会」に属して学びました。「日本の教会成長は、これしかない」とみんな思っていました。ところが弟子訓練を行う教会で、信徒との不協和音が起こり、思った結果がでませんでした。私は2000年でその訓練会を離れ、セル・チャーチに移行しました。ところが、2010年に日本で弟子訓練を指導していた宣教師がセクハラ問題で逮捕されました。福音派の教会で、ものすごいスキャンダルになり、「弟子訓練は悪い。カルトになる」と言われるようになりました。ですから、今では「弟子訓練」はほとんど死語になり、良い響きではありません。私も弟子訓練会に属していたとき、いくつか問題を感じました。第一は、韓国のカルチャーが色濃く入っているということです。それは儒教の精神と徴兵制度による絶対服従です。第二は、教会員を群衆と本当の弟子に分けるという考えです。使徒パウロは「すべての人が聖徒である」と言っており、2つに分けることをしていません。第三は、訓練のための訓練になり、いつまでも弟子になることができない。ゴールが見えないということです。しかし、礼拝のメッセージで「弟子訓練は悪であり、聖書的でない」と言ったなら、このマタイ28章を否定することになります。イエス様のご命令に対して、否を唱えてしまうことになりかねません。では、本当の「弟子を作りなさい」と意味は何なのでしょうか?

3.本当の弟子となるために

 私は弟子訓練で最も苦しんだ者の一人なので、「本当の弟子となるために」ということをお伝えすることが可能だと思っています。私は2000年頃、インドネシアのエディ・レオ師に出会いました。その時、目が開かれた思いがしました。エディ・レオ師は「イエス様を信じたら、みなイエス様の弟子なんだ。ただし、本当の弟子になる必要がある」とおっしゃっていました。使徒パウロもコリントの教会の人たちに「あなたがたは聖徒である」と言っています。コリントの教会内はこの世の罪にあふれていましたが、身分的には聖徒なんであります。問題は、身分だけではなく、中身がそうなる必要があるということです。弟子も同じで、イエス様を信じたら弟子なのですが、本当の弟子になる必要があるということです。では、どうしたなら本当の弟子になることができるのでしょうか?イエス様の弟子の特徴というものがあるはずです。イエス様はルカ福音書で「自分の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子になることはできません」とおっしゃいました。このことはルカ14章に記されていますが、「自分のすべてをイエス様に明け渡す」ということです。十字架とはだれかのために苦労することではなく、自分自身がかかる十字架です。言い換えると、従うべき者は自分ではなくて、主イエス様なんだということです。イエス様を信じても、相変わらず自分が主人で、イエス様をしもべにしている人がいます。困った時だけ、イエス様を神さまにするのは、弟子の姿ではありません。調子が良いときも、悪いときもイエス様を主として従っていく人生こそが弟子の姿です。みなさんは、自分自身をイエス様に明け渡す祈りをなさったことがあるでしょうか?一度でも、そういう祈りをしたなら、信仰のアップダウンはなくなります。

 忘れてはならないことは、この命令の前後にすばらしいresource資源があるということです。イエス様は何も与えないで、命令だけを与えるようなお方ではありません。この命令が守れるようにすばらしい資源も与えておられます。その第一は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ」となっています。イエス様は復活されたとき、すべての権威、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられました。その権威を弟子たち、そして私たちに与えてくださったということです。大切なのは、11弟子たちだけではなく、今の私たちにもその権威が与えられているという自覚です。イエス様の権威は死と悪魔にも打ち勝つ偉大な権威です。私たちは警察を恐れています。彼らをからかったり、石を投げたりしません。なぜなら、彼らの背後には国家権力があるからです。サタンや悪霊も同じで、胸にバッチがついているクリスチャンを恐れています。胸にバッチがついていない隠れクリスチャンは恐れません。悪魔は「イエスは主です」と告白している人が怖いのです。私たちはイエス様からこの権威を受け取って、イエスの御名によって祈り、イエスの御名によって命じることができます。お願いばかりしてはいけません。サタンや悪霊にはイエスの御名によって、命じる必要があります。そうすれば彼らはあなたから退くでしょう。第二の資源は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」です。これは「私があなたと共にいますよ、守ってあげますよ」ということです。言い換えると「主の臨在」と言います。でも、これは自動的になされるものではありません。ビル・ジョンソンが『神の臨在をおもてなす』という本を書きました。私たちはイエス様を人格のあるお方として丁重に歓迎する必要があるということです。教会の礼拝はもちろんそうですが、日常のささいなことの中にも主を歓迎するのです。そうすれば、決して敗北ではなく、恵みにあふれた勝利的な人生を送ることができます。

 最後にだれが一体、本当の弟子にするのでしょうか?牧師でしょうか?もし、牧師だけがそのことをしたなら偏ることになります。エペソ4章には「キリストが5人の指導者を与えた」と書かれています。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ…」「整える」とは弟子として、聖徒として建て上げることです。そのためキリストが5人の指導者をお立てになりました。第一は使徒です。使徒は「すべての国民を」と視野を広げるように常にチャレンジします。亀有や葛飾だけではなく、すべての国民を弟子にするのです。第二は預言者です。預言者は「あなたに権威を授けます。主があなたと共にいますよ」と行くべき道を示してくださいます。第三は伝道者です。伝道者は「行きなさい」と命じます。私たちは住み慣れたところにじっとしていたいのですが、「行って、福音を伝えよ」と魂の救いを強調します。第四は牧師です。牧師は「すべてのことを守るように」指導します。みことばの糧を与えながら、守るように育てます。第五は教師です。教師は「キリストの教えはこうですよ。聖書を勉強しなさい」と教えながら形を整えます。この5人は自分の持っている賜物に色づけしたがります。たとえると、すべての人には聖霊のソーダーが与えられています。しかし、5人はそれぞれ、ぶどう、コーラー、セブンアップ、メロン、カルピスのflavor味を持っています。まるでドリンクバーです。共通して持っているのが聖霊の命です。でも、5人の指導者は自分の味を持っています。重要なのはこれらの5人からバランス良く、整えてもらうということです。でも、日本の教会の多くは牧師しかいません。だから、この牧師は自分にない、他の4つの賜物を学びながら、使徒的な、預言者的な、伝道者的な、教師的な、牧師として指導することが大切なのです。しかし、現実は、一人の牧師がそのようにバランス良くできるわけではありません。牧師の重要な役目はイエス様を見上げ、イエス様につながり、イエス様から学ぶことを教えることです。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」

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