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2018年3月30日 (金)

ここにはおられません マタイ28:1-10 2018.4.1亀有教会牧師鈴木靖尋

 こういう歌があります。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。」しかし、聖書には本当の答えがあります。「ここにはおられません。前から言っておいたように、よみがえられたからです。」きょうは、『ここにはおられません』と題して、復活祭、イースターのメッセージをお届けしたいと思います。前半は「空しい努力」後半は「復活の事実」です。

1.空しい努力

 マタイ28章の前半には、人々の空しい努力が記されています。第一は、女性たちの愛の奉仕です。彼女らは、日曜日の早朝、何のために墓に来たのでしょうか?マルコ16章には「イエスに油を塗りに行こうと思い香料を買った」と書かれています。彼女らはイエス様のご遺体に、香料を塗るために朝早くやってきたのです。しかし、それは無駄でした。なぜなら、墓は空っぽで、イエス様がよみがえられていたからです。女性たちはイエス様をとっても愛していました。男たちはみんな逃げましたが、彼女らはイエス様の十字架から離れませんでした。イエス様のために悲しみ、嘆き、墓に収められるところを見届けました。イエス様が十字架で死なれたのは金曜日の午後3時でした。ユダヤでは、土曜日の安息日は金曜日の日没からはじまります。安息日は働くことができません。彼女らは日曜日の早朝、まんじりともせず準備しておいた香料を携えて来ました。でも、それは空しい努力でした。彼女らにはイエス様に対する愛と献身はあったかもしれません。でも、イエス様が三日後によみがえるということを信じていなかったのです。ヘブル116「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と書いてあります。愛も必要ですが、信仰も必要なのです。信仰がなければ、愛のわざは的外れになってしまいます。彼女らはイエス様を愛していました。イエス様のためには何でもしたいと思っていました。でも、イエス様が死んで、よみがえるということを信じていなかったのです。そして、イエス様のご遺体に香料を塗りたいと朝早く出かけてきたのです。でも、それでは、よみがえられたイエス様は喜ばないでしょう。彼女らの愛の奉仕は空しい努力でした。

 第二は、兵士たちの努力です。マタイ27章後半に書いてありますが、ローマの兵士たちがイエス様のからだが盗まれないように寝ずの番をしていました。彼らは大きな石で墓の入口をふさぎ、封印をしました。ところがどうでしょう?日曜日の早朝、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがし、地響きになりました。番兵たちは光り輝く御使いを見て、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。ビル・ジョンソンの本を読みますと、先生は神さまの奇跡を見たとき、stunという表現をよく用います。Stun gunというのがありますが、stunは「気絶させる、肝をつぶさせる」という意味です。まさしく、ローマ兵たちはstunned気絶してしまったのです。聖歌172の二節を紹介いたします。「番し続けし、兵の努力、空しかりき、ああわが主、陰府より帰り、死と悪魔に勝ちし、君こそ勝利の主なれ、君こそまことの主なれ、ほめよ、イエスを我らの神を。」大きな石も、封印も、ローマの番兵たちも、イエス様のよみがえりを防ぐことはできませんでした。興味深いのは、大きな地震が起こった理由は、主の使いが石をわきへころがして、そこに座ったことが原因であるからと記されていることです。一体、だれがその現場を見たのでしょうか?マルコ福音書では「あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」と書かれています。ルカ福音書も女性たちが墓に着いたとき、すでに石が墓からわきにころがしてありました。おそらく、ローマ兵たちの目撃情報ではないかと思います。マタイ2811「女たちが行きつかないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起った事を全部、祭司長たちに報告した」と書かれていいます。当時の祭司長たちはそのような報告を受けても、信じようとしませんでした。ローマの番兵たちは、この世の権力と力を象徴しています。彼らが墓の前にいたのでは、弟子たちや女性も何もできなかったでしょう。でも、天の御使いが墓石をどかして、ローマ兵どもを追い散らしました。偉大なる神さまの前には、空しい努力でした。

第三は、死んだ者の中から救い主を捜すのは無駄な努力です。ルカ福音書には女性たちに対する天の御使いのことばが記されています。ルカ245,6恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」女性たちの空しい努力とは、生きている方を死人の中で捜すという行為です。「生きている方を死人の中で捜す」とは、面白い表現です。おそらく、女性たちはイエス様が死んだので、きっと墓の中に横たわっているはずだと思ったのでしょう。ヨハネによる福音書には「だれかが私の主を取って行きました。どこにおいたのか、私には分からないのです」と書かれています。なぜなら、イエス様が死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったからです。死というものはだれにでも訪れます。「人間はみな死ぬんだ。死んだらおしまいだ」という絶対的な考えがあります。それは弟子たちもイエス様を愛している女性たちも一緒でした。ところで、天の御使いは「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と言ったのでしょう。面白い表現です。英語の詳訳聖書は「なぜ、死んだ者たちの中に、生きている者を捜すのですか?」となっています。少し飛躍するかもしれませんが、宗教は死んだ者たちを拝んでいます。言い換えると、死んだ者たちの中から、救い主を捜しているということです。孔子、釈迦、マホメット、親鸞、日蓮…みんな死にました。彼らはみんなお墓の中で眠っています。シャリというか、お骨もあるでしょう。一人も肉体の死には勝てませんでした。イエス様はどういうお方でしょうか?ヨハネ黙示録1章でイエス様は「私は生きている者である。私は死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスのかぎを持っている」とおっしゃっています。日本人の宗教のほとんどが、死者を祭り、死者を拝んで、死者に助けを求めています。でも、それは人間の宗教であり、無駄な努力です。私たちは、一度は死んだけれど、よみがえり、今も生きているお方を礼拝すべきです。

 努力すること自体はとても良いことです。日本人は努力ということがとても好きです。寅さんも「奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の今日も涙の陽が落ちる、陽が落ちる」と歌っています。努力すること自体は良いことですが、それが的外れである場合は空しいです。女性たちはイエス様に香油を塗ろうと朝早く出かけて来ましたがそれは無駄な努力でした。ローマ兵たちも墓石の前で番をしていましたがそれは無駄な努力でした。また、死んだ者の中から救い主を捜すことも無駄な努力です。使徒パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰は空しい」(Ⅰコリント1517と言いました。つまり、その方が復活しなければ、いくら信じても無駄だということです。日本人は努力をすること、あるいは何かを信じること(信心)を美徳とするところがあります。でも、目的や対象を誤ってしまうと、それは無駄な努力になってしまいます。では、これまでの3つの無駄な努力をどうしたら修正できるのでしょうか?第一は女性たちの愛の奉仕でした。イエス様はよみがえられたので、ご遺体に香油を塗る必要はないということです。奉仕は愛のわざであり、美しくてすばらしいものです。しかし、信仰がなければ神さまに喜ばれることはありません。第二は番兵たちの努力でした。全能なる神さまは、その力によって、イエス様をよみがえらせました。巨大な墓石も彼をとどめることはできません。ましてや鼻から息をする人間が神と戦って勝てるわけがありません。天の御使い一人で、兵士たちは気絶してしまいました。第三は死んだ者の中から救い主を捜す無駄な努力です。イエス様は最初に死人の中からよみがえられたお方です。しかも、よみがえるとき、ハデスの門を打ちこわし、天上にパラダイスを作ってくださいました。イエス様は死と悪魔に勝たれたので、現在は死とハデスのかぎを持っておられる最高の権威者です。言い換えると、イエス・キリストは救い主であり、また神なのです。いや、死からのよみがえりによって、神であることが証明されたのです。私たちがこの方と和解して、この方に仕え、この方を求めるならば、それらの努力は報いられます。イエス様は、死が終わりではなく、よみがえりがあることを証明されました。ですから、イエス様を信じる私たちも、死が終わりではなく、よみがえりがあり、報いがあるのです。

2.復活の事実

 マタイ287-10「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」マタイによる福音書には、女性たちの感情の変化が単純に記されています。最初は、御使いを見て恐れました。その次に空の墓を見せされて恐れが生じました。そして、大喜びして弟子たちのところに向かいました。途中、復活のイエス様と出会って感激し、イエス様を礼拝しました。マルコ福音書には「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ168と書かれています。弟子たちは「それを信じなかった」と何度も書かれています。つまり、「あのとき死んだイエスさまが、よみがえるなんてありえない」と思ったのです。福音書は喜びだけではなく、恐れや疑いをそのまま書いています。それは、人があまりにも大きな奇跡を体験すると、恐れや疑いが生じるということです。だから、unbelievable, incredible 「信じられない!」と叫ぶのだと思います。その一番の出来事は、死んだ人がよみがえるということです。昔、ETという映画がありました。ETは地球の風土が合わないのか病気になって死にました。少年たちは深く悲しみました。今や、ETの体が解剖されようとしました。その時、ETは見事復活しました。それから、ものすごい力を発揮し、子どもたちは自転車に乗りながら天を舞いました。アメリカの映画の中には、一度死んだと思われたヒーローがよみがえるというのがよくあります。これは、イエス様の復活から来ているのではないかと思います。日本の映画はいさぎよく死ぬものが多いのですが、アメリカの映画には復活、大逆転があります。彼らは、イエス様は死んでよみがえられたという聖書を知っているからです。

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書はイエス様のよみがえりを率直に表現しています。しかし、聖書学的に一致していないところがあり、むしろばらばらです。「これは嘘だ、でたらめだ」と批判する人もいます。しかし、それは福音書を書いた人たちが打ち合わせをしていないという証拠です。それぞれが、それぞれの体験をそのまま書いているので、矛盾しているようなところが生じてくるのです。たとえば1つの火事の現場を見て、だれかに伝えたとします。ある人は建物がどのように燃えたのか話すでしょう。また、ある人は消防車が何台集まって、どのような消化活動をしたか話すでしょう。また、ある人は助け出された人や犠牲になった人たちのことを話すでしょう。新聞にも朝日、毎日、読売、産経…いろいろありますが、それぞれ着目点や強調点が違います。客観的とは言いながら、どうしてもその人の興味とか主観が入ります。イエス様の復活の記事においても、4つの福音書の記者たちは捉え方が微妙に違います。でも、それで良いのです。4という数字は世界を表す数字です。N,S,E,Wです。News4つの文字を組み合わせています。矛盾や食い違いがあるのは、すりあわせがないので、むしろ真実だということではないでしょうか?でも、どうして矛盾や食い違いがあるのでしょう?Ⅰコリント15章にそのヒントが記されています。Ⅰコリント1556「また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」ここに「同時に現れた」と書かれています。同時ということは、時間の経過がはっきりしないということです。その人にとっては「今」でも、他の人にとっては、「後のこと」かもしれないからです。だいたい人というのは、他の人よりも、自分が直接見たことを強調したいものです。よく調べると、ある程度の時間配列は可能です。そこに、わずかな矛盾や食い違いが残るのは、目撃者が強調したいことがあるからではないかと思います。

 もう一つ言いたいことがあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書はイエス様のよみがえりを率直に表現しています。しかし、イエス様の復活をそのまま記述しているだけで、神学的な復活の意味とか意義については全く触れていません。福音書だけしかないと、神学的に弱いように思えます。彼らが復活の意味を知り、それが福音になるのはいつから可能になったのでしょうか?マタイ2810「すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」ガリラヤに行って、イエス様と会うということは天の御使いも言っていたことでした。イエス様と会うとどうなるのでしょう?実際にお会いするのですから、復活の証人になることはできます。でも、復活の意味が分かりません。マルコ福音書は、イエス様が弟子たちに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心を責めておられます。ルカ福音書では、二人の弟子に現れ、聖書から解き明かされました。ヨハネ福音書では、11弟子に現れ、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。そうです。聖霊を受けるならば、聖霊は真理の御霊ですから、イエス様について詳しく教えてくれるでしょう。イエス様は復活後、40日間たびたび現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示されました(使徒13)。そして、ペンテコステの日、弟子たちの上に聖霊が降って、弟子たちの霊的な目が完全に開かれました。ペテロは何千人もの人たちに、イエス様がなぜ、よみがえらねばならなかったのか説教しました。ペテロは「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒224と言いました。ペテロは詩篇16篇、詩篇110篇を引用して、復活の根拠について語っています。どこからそれらの知識を得たのでしょうか?それは、よみがえられたイエス様から聞き、自分たちの上に降った聖霊によってであります。ペテロは絶対的な確信で語ったので、イエス様を十字架につけたユダヤ人が悔い改めて信じました。一日で3,000人もの人たちが信じて、バプテスマを受けました。ペテロには2つのものがありました。第一は復活の目撃者だったということです。第二はイエス様と聖霊から復活の意味を知らされたということです。

 私たちは復活祭、イースターを単なる記念日にしてはいけません。天の御使いは「ここにはおられません」と言いました、その意味は「キリストは墓の中にいない。よみがえられた」ということです。しかし、ある人たちは、死んだ人の中に救い主を捜しています。私は生協に買い物によく出かけますが、たまに、お線香の匂いがする人がいます。「それにしても強烈だな、新興宗教の人だろうか?」と寒気がします。ある人たちはご先祖を拝んでいますが、それは死者礼拝であります。「いつか自分も、ご先祖がいるところに行くんだ」と、何の疑問もありません。しかし、私たちが礼拝しているお方は、死からよみがえられたお方です。でも、本当にキリストがよみがえられたように生きているのか、もしかしたら墓の中におられると思っているかもしれません。実存的という用語がありますが、あなたが信じているイエス様は今も生きておられるでしょうか。マルチン・ルターは宗教改革者でローマ・カトリックから破門された人です。ある時、ルターは宗教改革運動で受ける激しい非難や迫害のために、すっかり意気消沈してしまい、希望を失いかけていました。その時、妻のカタリーナが、書斎に黒い喪服を着て黒い帽子をかぶって入ってきました。ルターはびっくりして、「誰が亡くなったのか?」と聞きました。妻のカタリーナは「神様がお亡くなりになりました。」と答えました。ルターは「なんだって?神様だって?バカなことを言うな!」とたしなめました。カタリーナは「もし私たちの神様が生きておられるなら、なぜあなたはそんなに失望されるのです?私たちは生ける神様の御力に頼り、どこまでも戦っていきましょう!」と励ましました。ルターははっとして再び力を得たそうであります。

 キリストが復活したことにより私たちは3つの約束を現在、手にしています。第一は、キリストが復活されたので、信じた私たちは義と認められているということです。パウロは「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(ローマ425と言いました。言い換えると、キリストの復活は、私たちが救われていることの証拠だということです。第二は、キリストは復活して今も生きておられ、私たちを日々、救ってくださるということです。教会で十字架がシンボルのように飾られています。でも、カトリック教会のようにキリストが十字架についていません。その意味は、キリストは十字架で死なれたけれど、復活して、今も生きているということです。「主は今生きておられる」、原曲のBecause He livesの直訳をご紹介します。「神はひとり子を世に送りましたが、人々は彼をイエスと呼んでいます。彼は愛と癒しと赦しを与えるために来られました。彼は私の罪を赦すために、血を流して死なれました。空の墓は私の救い主は生きていることの証拠です。彼が生きているゆえに、明日に向かって生きることができます。彼が生きているゆえに、すべての恐れが過ぎ去ります。私は彼が将来を握りしめておられるのを知っています。彼が生きているゆえに、私の人生には生きる価値があります。」アーメン。第三は、私たちはたとえ肉体的に死んでも、イエス様のように栄光のからだによみがえるということです。キリストは死者からの復活の初穂であり、私たちが後から続くということです。昔、山川千秋さんというテレビの人気キャスターがいました。彼は癌で亡くなる前にクリスチャンになり、彼の闘病記が『死は終わりではない』という本になっています。福島第一バステスト教会の牧師は「まるで キリスト教出版社から発行されたかのような、正面切っての信仰の証と天国への希望が綴られており、多くの日本人に対する宣教の機会になったと思う」と評しています。パウロはテモテにこう告げています。「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ28)。アーメン。私たちもイースターの日だけではなく、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていたいです。日曜日は特にそうです。一週間、木曜日、金曜日、土曜日と、たとえどん底に落ちるときがあっても、日曜日には復活するのです。

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2018年3月23日 (金)

わが神、わが神 マタイ27:45-61 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.3.25 

 イエス様は午前9時に十字架につけられました。そして、昼の12時から3時まで暗闇が地上を覆いました。過ぎ越しの祭りの時は、ちょうど満月ですから、日食ということはありえません。エジプトのアレキサンドリアでは、昼の12時頃から3時頃まで全地が暗くなったという記録があるそうです。どのように太陽が隠れたかはわかりませんが、十字架の回りにいた人たちは、真昼に突然、暗くなったのですから、さぞ、驚いたことでしょう。それまで、さんざん悪口をついていた長老たちや両脇の強盗も、口をつぐんでしまいました。ここで太陽が光を失ったと言うことは、父なる神が、地上のあまりの残酷な光景に対して、御顔をそむけられたとも考えられます。

1.イエスの叫び

マタイ27:46-47「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、『この人はエリヤを呼んでいる』と言った。」人々はイエス様が苦しみのあまり「預言者エリヤに助けを求めているんだろう」と言いました。しかし、それは正しくはありません。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、当時ユダヤ人が使っていたヘブル語の変形、アラム語でした。新約聖書はギリシャ語に書かれていますが、ここだけ、イエス様が発したナマの言葉を残し、すぐ後でその意味を書いています。なぜ、イエス様はこのような言葉を発したのでしょうか。4つの福音書にはイエス様が十字架上で発した7つの言葉が納められています。ところが、マタイはこれ1つしか残しませんでした。それにしても「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」とは不可解な言葉です。なぜなら、イエス様はこれまでご自分の死を弟子たちに何度も予告していたからです。『イエス伝』を書いている聖書学者ジェームス・ストーカーは、「聖書中どこを捜してもこれほど解釈に困難な箇所はない」と言っています。また、J.Cライルは「これらのことばの中には、深いミステリーがあり、普通の人間には測り知ることができない」と言っています。内村鑑三師は「イエスは十字架上で、以前からそらんじていた詩篇22篇のみことばを口に出していたのではないか」と解釈しています。確かに、詩篇22:1「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」という言葉があります。不思議なことに22篇の前半は福音書では分からない、十字架の苦しみが生々しく描写されています。ところが、後半は賛美と確信のことばが語られています。たとえば、詩篇2227 「地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。」とあります。もし、イエス様がその詩篇22篇を十字架上で引用していたならば、苦しみの中で、すでに勝利を確信していたということになります。イエス様のご生涯は預言の成就と関係がありますから、内村先生の解釈も正しいと思います。

今度は、この言葉の中身に入りたいと思います。聖書ではイエス様は神様を「父よ」と呼んでおり、他では一度も「神」とは呼んだことがありません。「神」とは御子イエス様にとっては、まことによそよそしい呼び方です。なぜでしょう。それは、ゲツセマネで恐れていたことが、ここで起こったからです。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた」とあります。この時、まさしく、イエス様が全人類の罪を負われ、罪そのものとなって、神から捨てられたのです。イエス様は永遠の昔から御父と1つでした。この地上に肉体をとってきたときも、その親しい交わりは1秒たりとも途絶えたことはありませんでした。ところが、イエス様が罪を負ったがゆえに、罪が御父とイエス様を引き裂き、イエス様は地獄に投げ落とされたのです。そのため、イエス様は「父よ」と呼べなくなってしまったのです。私たちは罪の中に生れ、罪の中で育ったので、神様から離れることの苦しみや孤独は分かりません。しかし、一度も離れたことのない御子イエス様にとって、父なる神から捨てられることが、最も苦しく、最も暗い孤独でありました。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」は、本来、罪人が地獄で叫ぶ叫びです。それを、イエス様がなさって下さったのです。歴史上、石打の刑とか火あぶりの刑などイエス様よりもむごい殺され方をした殉教者たちは多くいるでしょう。しかし、イエス様だけが、全人類でたった一人、神から捨てられ、地獄に落とされたのです。

また、もう1つどうしても十字架で語らなければならない重要なことは、イエス様の上に神の怒りが下ったということです。神様は聖なるお方ですから、1片の罪も赦すことができません。もし、「良いよ、良いよ」と、簡単に罪を赦したなら、神さまでなくなります。広島の植竹牧師が、『十字架のキリスト』という本の中でこのようにおっしゃっています。4世紀の神学者アウグスティヌスは「罪とは、赦してはならないもののことである」と定義しました。罪は、絶対赦してはならないものなのです。ですから、ただで罪を赦すと大問題になります。裁判官が勝手に凶悪犯をゆるせば、つるし上げを食うでしょう。簡単に罪をゆるせば世の中に混乱が起こります。法律は役立たなくなり、無法の社会になるでしょう。同じように聖なる神様はただでは、人類の罪を赦すことはできないのです。一方、神様は罪ある人類を愛しています。しかし、ただで罪ある人を赦していたら、神ご自身の義と聖は失われます。それではどうしたらこの矛盾が解かれるのでしょうか。父なる神様は、ひとり子イエスをこの世に遣わし、十字架につけるという痛ましい手続きによって人の罪を赦したのです。つまり、御子イエスに全人類の罪を負わせ、御子イエスを罰したのです。Ⅰヨハネ4:10「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。「なだめ」と言うと、異教的な響きがありますがそうではありません。神の罪に対する聖なる怒りが、御子の上に下されたのです。その結果、神の義が満たされたので、キリスト以降は神様の罪人に対する怒りがなだめられたのです。

Ⅱコリント5章の終りには「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ…神が私たちを通して懇願しておられるようです」と書かれています。つまり、神様が「キリストにあって、もう、あなたの罪はさばかない」とおっしゃっているのです。むしろ、あの放蕩息子の父のように、罪人が立ち返るように、手を差し延べて待っておられるのです。でも、「和解」には二段階あります。第一段階は、神様の方から全人類に和解の手が伸べられているということです。しかし、それだけでは人は救われません。第二段階は、私たちがキリストによってもたらされた「和解」を受け入れるかどうかです。人間に残された唯一の条件は「罪を負ってくださったキリストをどうするか」であります。「罪をどうするかではありません」、罪の問題はキリストの十字架で解決済みだからです。このお方を救い主として信じるときに、神との完全な和解が成立するのです。キリストが十字架で死なれてから、神様の人類に対する見方、そしてさばき方が変わったのです。やがて、だれでも神様の前に立つ時がきます。そのとき、神様はその人が犯した個々の罪でさばくのではありません。キリストの和解を受け入れたか、受け入れなかったかで裁くのです。御子を信じないで、神の愛を退ける、それがもっとも大きな罪なのです。罪の問題は二千年前、イエス・キリストが十字架で呪われ、罪そのものとなり、罰を受けられ解決されました。もう、神様は私たちを怒ってはおられません。罪は解決済みです。必要なのは、キリストを通して、父なる神のみもとに立ち返ることです。難しいことではありません。これが福音、喜びの訪れなのです。万物の支配者なる神様が懇願しておられます。父なる神さまは「お願いです。十字架を無駄にしないで信じて下さい。救われて下さい」と懇願しているのです。


2.イエスの贖い

 マタイ27:50 「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた」。おそらく、ヨハネ1930に記されている「完了した」という叫びでしょう。「完了した」は、ギリシャ語でテテレスタイという言葉で、「完済した、すべてを支払った」という意味です。つまり、イエス様がご自身の血によって、全人類の罪の負債を全部支払ったということです。イエス様が息を引き取られた直後、不思議なことが起こりました。マタイ2751-52「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出てきて、聖都に入って多くの人に現われた」。ジョン・ウィンバー師が『力の伝道』という本の中でこのように解説しています。「力の対決」がどのようなものであるかを理解するために、1つの自然現象を対比させましょう。温暖前線と寒冷前線が衝突するとき、気象が荒れることを私たちは知っています。雷が起こり、雨や雹が降り、竜巻やハリケーンが発生することもあります。二つの前線がぶつかるとき、そこに大きな力が解放されるのです。何が起こるかは、複雑で予想がつかず、コントロールすることは困難です。最もいい例はキリストの十字架でしょう。十字架において、私たちの罪を赦すために、永遠の犠牲が捧げられました。それによって、私たちの肉が、この世が、そして悪魔が完全な敗北を喫したのです。その日、絶大なる力が解放されました。全地が揺り動かされました。地は揺らぎ、岩々は崩れ、太陽は三時間暗くなり、神殿の幕はまっぷたつに裂けました。そればかりか、墓が開いて聖人たちがよみがえりました。キリストの死によって命が放出されたのです。またそれは、悪の支配のもとにあった天地万物を揺さぶりました。二つの前線、二つの王国、二つの組織が、頭からぶつかったのです。そして、復活と昇天によってキリストは勝利者となり、サタンは敗北者になりました(引用終わり)。アーメン。

創世記3章に「女のすえが、サタンの頭を踏み砕く」と預言されています。イエス様は十字架の死によって、サタンの頭を打ち砕いたのです。悪魔・サタンは何を持っていたのでしょう。アダムが神に逆らい堕落して以来、サタンは罪と死の力を持っていました。その最も根本的な原因である罪をイエス様が解決されたので、サタンは武装を解除されました。それまで、陰府に死んだ人の魂を自分のものとして抱えてきました。しかし、イエス様が十字架でサタンの頭をガツンと踏み砕いたのです。そのとき、サタンは「う、やられた」とばかり、陰府の魂の一部を吐き出してしまったのです。だから、52節にあるような復活が起きたのです。それまでの、バランスが崩れたのです。もっと言うと霊界に異変が生じたのです。十字架は敗北ではなく勝利なのです。

次に「神殿の幕が上から下に真二つに裂けた」ということを取り上げたいと思います。イエス様が、息を引き取られた直後、聖所と至聖所を仕切る、ぶ厚い隔ての幕が上から引き裂かれました。上からということは、人間がしたことではなく、神様がなさったことです。ヘブル人への手紙にその答えがしるされています。旧約の大祭司は年に一度、贖罪の日、きよい動物の血をたずさえて、至聖所に入りました。しかし、世の終り、主イエス・キリストが真の大祭司になられ、動物ではなく、ご自身の体をささげられました。キリストは1つの、そして永遠のささげ物をささげられたのです。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近付こうではありませんか」。ヘブル10:19 「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」。旧約においては、動物の流された血により、定められた祭司しか入ることができませんでした。他の人が勝手に入ったら、即座に神に打たれて死んでしまいます。ところが、イエス様の十字架以降はどうでしょう?隔ての幕が引き裂かれ、聖所と至聖所の区別がなくなりました。新約においては、キリストの血によってだれでも、父なる神様の所に近付くことができるようになりました。ローマ8章には「アバ、父よ、と呼ぶ霊を与えた」と書いてあります。「アバ」とはイスラエルの国で、よちよち歩く幼子が、「アバ、アバ」とお父さんを呼ぶ呼び方だそうです。日本語で言うなら「パパ」「お父さん」、時代劇なら「ちゃーん」であります。幼子は鼻やヨダレをたらしています。あごのあたりが、ベトベトなんです。「天のお父様」と呼んだら受け入れてくださいます。私たちは罪に汚れていても、神様の御座に行けるのです。

でも、私たちが神様に近付く時にどうしても感じるのは、自分の罪汚れです。「私は罪深い、汚れている」、「あの罪、あの咎がどうもきよめられていない」とか、罪責感を覚えるかもしれません。そのような罪責感をヘブル人への手紙は、「邪悪な良心」と言っています。この良心は「神さまが赦す」とおっしゃっているのに、「いや、私は自分を赦さない」と言っているのです。私たちが神さまよりも偉いのでしょうか?絶対者なる神さまが「御子イエスにあってすべての罪を赦す」と宣言しておられるのに、どうして自分を赦すことができないのでしょう?それは「邪悪な良心」であり、訴える悪魔がそこにくっついているのです。私たちは良心をきよめられる必要があります。ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」私たちの良心に、キリストの血の注ぎを受けましょう。ヘブルの手紙のように「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。


3.イエスの埋葬

 マタイ2754-66まで、イエス様の死と埋葬について記されています。本来なら、第二ポイントントの「イエス様の贖い」で終わるとメッセージ的に「盛り上がり」があります。しかし、イエス様の埋葬まで語ると、「盛り下がり」、しょんぼりして帰らなければなりません。でも、今週は受難週なので、復活の序章(プロローグ)のためには、イエス様の埋葬についても語らなければなりません。ところで、「埋葬」とはどういう意味でしょうか?埋葬とは「完全に死んだ」という意味であり、いわば人生の終止符です。イエス様は完全に死んだのです。気を失っていたのか、仮死状態ではなく完全に死んだのです。このことがなければ、復活の意義がなくなるでしょう。そばで見ていた、ローマの百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と言いました。彼は十字架刑のプロだったので、イエス様が完全に死なれたということを確認していました。ヨハネによる福音書にはローマ兵がイエス様の脇腹を槍で突き刺したと書かれています。すると、血と水が出てきました。その意味は、イエス様は心臓が破裂して死んだということです。ヨハネは「それを目撃したものがあかしをしている。このあかしは真実である」(ヨハネ1935と言っています。それは、イエス様が完全に死んだという意味です。

 そのとき、アリマタヤの金持ちで、ヨセフという人が名乗り出て、イエス様の死体を引き取りました。ヨハネ福音書にはニコデモも加わったと書かれています。この二人はサンヒドリンの議員であり、隠れキリシタンでした。でも、最後に勇気を出して、ピラトにイエス様の体の引き渡しを願い出たのです。アリマタヤのヨセフは自分が持っていた、だれも入ったことがない新しい墓を提供しました。イエス様のために使った没薬はなんと30キロであり、旧約のアサ王の埋葬のときと同じ量だったと言われています。十字架刑で死んだ囚人には全くふさわしくないような方法で、イエス様の死体が取り扱われました。イエス様は犯罪人と一緒に十字架にかかりましたが、死においては金持ちと一緒でありました。イザヤ書53:9「彼は富む者とともに葬られた」と預言されているとおりです。ガリラヤの古顔の弟子たちではなく、隠れていた、いわば裏の弟子たちがイエス様の埋葬をしたのです。「いざ、鎌倉」という言葉が日本にありますが、勇気を出して表に出てきた、立場のある人たちがいたということです。そして、自分たちが持っていた良きものをイエス様にささげました。このようにイエス様は死んで葬られました。それは私たちと同じように死なれたということです。しかし、それは復活のための序章であったことを忘れてはいけません。ヘブル214-15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」ヘブルの記者は、肉体を持っている私たちを救うために、ご自身も同じように死んで、死の力を持つ悪魔を滅ぼしたんだと述べています。

 しかし、重要なことはイエス様の肉体は死にましたが、魂はそうでなかったということです。 Ⅰペテロ318-19「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」イエス様の霊()は、陰府に下って、みことばを語られました。さらに、Ⅰペテロ46「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」と書かれています。この所は死後も救われるチャンスがあるのか、とキリスト教会でも物議をかもすところです。ペテロ第一の手紙から、イエス様の肉体は死んでも、霊においては陰府の深みまで降りて行かれたということが分かります。詩篇には度々、陰府の底にいた人にも救いに御手が延べられているみことばがあります。詩篇16:10 「まことに、あなたは、私の魂を陰府に捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません」これは、イエス様の復活の預言でもあります。詩篇30:3「主よ。あなたは私の魂を陰府から引上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました」。詩篇139:8 「私が陰府に床を設けても、そこにあなたはおられます」。これは、イエス様の恵みが、陰府の底までもあるということです。死んで陰府に下った人間は、自分を引き上げることも、他者を引き上げることもできません。しかし、イエス様は陰府にまで下られ、よみがえって下さったのです。イエス様は神様であり、どん底にいる人でも救って下さるという約束です。神学的にはキリストがよみがえられたとき、陰府の一部を携え上げられ、そこをパラダイスにされました。ですから、私たちクリスチャンは死んだら、陰府に下るのではなく、パラダイスに引き上げられるのです。やがて世の終わり、肉体が復活するときにまで、私たちの魂はパラダイスで待つのです。

 私たちも主の再臨が来なければ、この肉体は死ぬことになります。イエス様も「我が霊を御手にゆだねます」と息を引き取られました。そのようにイエス様が死を味わってくれたのですから、死は恐ろしいものではありません。私たちの魂は即座に天に引き上げられるからです。でも、イエス様が私たちと同じように肉体的に死なれ、墓に葬られたということは大いなる慰めです。イエス様は父なる神さまにすべてをゆだねました。同じように、私たちの肉体も死んで眠ります。でも、父なる神さまはイエス様をよみがえらせて下さいました。私たちも死んでも、神さまがよみがえらせて下さると信じます。眠るということは、いつか目覚めるということですから。

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2018年3月16日 (金)

主イエスの受難 マタイ27:26-44 2018.3.18 亀有教会牧師鈴木靖尋

 福音書を見て驚くことは、イエス様に対する鞭打ちや十字架がひとことで記され、周りの人たちによるあざけりや嘲笑に多くの紙面を費やしているということです。なぜ、福音書は前者を省略し、精神的な苦しみを多く書いているのでしょうか?考えられる理由は、鞭打ちや十字架は、周知のことで、あえて説明する必要がなかったということです。もう1つは、肉体的な苦しみよりも、精神的な苦しみの方がイエス様に対して応えたということではないでしょうか?

1.肉体的な苦しみ

 マタイ2726「そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。」その当時は、「むち打ちと十字架」はあえて説明しなくても良いくらい知られていました。しかし、後代の私たちはローマが発明した、最も残酷な死刑の道具について知らなければなりません。ギロチンや絞首刑など、死刑の道具はたくさんありますが、多くのものは苦しまないで死ぬようになっています。ところが、十字架刑は急所をはずしていますので、ジワジワと苦しんで死ぬようになっています。しかも、裸にしてさらされるので、この上ない辱めを受けるでしょう。哲学者キケロは「十字架は、最も残酷にして、最も恐るべき刑罰。決してそれをローマ市民の身体に近づけてはならない」と言いました。十字架刑は、最初は奴隷用、および最も破廉恥な種類の犯罪者用にとっておかれました。使徒パウロはⅠコリント2章で「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かである」と述べています。ユダヤ人は「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」(申命記2123と律法の書から知っていました。そんな忌むべき十字架が、時代の経過とともに、慕われるようになりました。なぜ、十字架が讃美歌で歌われ、国旗に用いられ、教会の尖塔に付けられ、光り輝くアクセサリーになったのでしょう?かつての最も残酷で忌まわしい十字架が、美しく神々しいものとなっているのが不思議です。現代の教会は伝道のため『4つの法則』を発明しました。『4つの法則』は大学生伝道のために、1952年ビル・ブライトによって作られました。数えきれない若者たちがこの小冊子によってキリストを信じる決断をしたと思います。私も25歳のとき、信仰の確認のために大川牧師が用いて下さいました。しかし、そのとき、「一丁上がり」みたいなイヤーな感じがしました。救いも「法則」にしては、困ります。その当時、献身者であった京子姉は「十字架体験がなければダメよ」と言っていました。残念ながら、「十字架が私のためだった」と分かったのは、洗礼を受けて半年くらいたってからでした。最も残酷で忌まわしい十字架が、救いの源になるなんて信じられるでしょうか?使徒パウロがこう述べています。Ⅰコリント1:24 「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」アーメン。私たちが救われる背後に、どのくらいの犠牲があったのか知るならば、簡単に救いを手放すことはないでしょう。

 もう1つはむち打ち刑です。ユダヤ人の場合は、401つ足りないむち打ち(39)と律法で決まっていました。なぜなら、それ以上、打って死ぬといけないからです。ところが、ローマの鞭は、懲らしめというよりも、「十字架で早く死ねるように」と、変な温情からのものでした。イエス様は背の低い丸太をだかされ、背中に40以上の鞭を受けたことでしょう。ローマの鞭は、先が3つか4つに分かれ、その先端に動物の骨や鉛が編み込まれ、皮膚に突き刺さるようになっていました。それを屈強なローマ兵が交代しながら鞭を放ちました。イエス様の背中がざくろのように割れて、そこから血が噴き出したでしょう。映画の『パンション』では、イエス様を裏返しにして、腹と顔面に鞭を当てていました。あまりにも残酷で、見ていられませんでした。イエス様は前の晩、裁判のため一睡もしていませんでした。その後、ローマの裁判、そしてむち打ちです。打ち傷と疲労困憊で、十字架をかつぐことはできなかったと思われます。聖書では「イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した」(マタイ2726とひとことで終わっています。おそらく福音書は、残酷なシーンを強調する意図はなかったのでしょう。でも、使徒ペテロのことばです。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」なぜ、イエス様の打ち傷が私たちの癒しと関係があるのでしょう?ペテロはイザヤ書53章のみことばをそのまま引用しています。旧約聖書はさまざまな病気があります。疫病、肺病、熱病、腫物、かいせん、弱さ、わずらいなどです。イザヤ書には「彼は私たちの病を負い」とありますが、苦難、罪、咎も含まれています。イエス様が福音書で病をことごとく癒されましたが、それはイザヤ書53章の成就であります。でも、イエス様の十字架と打ち傷は、病の原因を取り除くものであり、罪の贖いの中に病の癒しが含まれています。イエス様が鞭で打たれたということは、ご自身が病の苦しみとその原因を受けて下さったということです。結論的に、病は神さまからの恵みとか贈り物では決してなく、大胆に癒しを求めて良いということです。新約聖書において、はっきりと言えることは、十字架以降、病は懲らしめではなくなったということです。もちろん、私たちはアダムの罪のゆえに病になる可能性はあります。しかし、キリストの十字架から流れてくる癒しがあることを忘れてはいけません。このようにイエス様がローマの鞭を受け、残酷で忌まわしい十字架につけられたということは、罪の贖いと病の癒しのために必要不可欠であったということです。義なる神さまから見たならば、罪ある人間をさばかずに、ご自身の義を満たすために御子イエスの十字架の死が必要でした。一方、私たちの側から見るならば、私たちの罪の身代わりになるために、恥と苦しみを受けてくださったということです。これは、救いに至るための法則ではなく、イエス様の尊い犠牲があったということを知らなければなりません。子どもは小さい時に親の苦労はわかりません。しかし、成長して、息子になり娘になると、親の苦労が分かるようになります。私たちもイエス様の苦しみと父なる神さまの痛みを知るようになれたら、「救いの有り難さ」がもっとわかるでしょう。

2.精神的な苦しみ

 イエス様は肉体だけではなく、精神的な苦しみも受けられました。それがローマ兵と当時の宗教家たちからの扱いでした。ローマ兵の1つの楽しみは死刑囚をいたぶることでした。いわゆるリンチが行われました。当時、ローマ兵の中には「王様ごっこ」なる恐ろしい遊びがあったそうです。そのゲームに志願した人は、1日、王様になって、何でも好きなことを要求できるそうです。ところが、その日の夕方は、みんなに殺されるということです。おそらく、イエス様もそのような扱いをされたのでしょう。彼らはイエス様が「ユダヤ人の王」であると聞かされていました。ユダヤ人はプライドが高く、ローマ兵にとって扱いにくい存在でした。今回、十字架にかかるのが「ユダヤ人の王」と聞いて、少々、喜びました。なぜなら、日ごろのうっぷんが晴らせるからです。王様に必要なのは紫のガウンでしょう。ローマの兵服の裏地は赤であり、少し古くなると紫色に変色します。次に王冠ですが、だれかが刺の長い茨を丸めて王冠にしました。それをイエス様の頭に押し付けました。さらに、杓の代わりに、葦の棒を持たせました。「全部隊」は普通600人の兵士で構成されますが、この時は、200人くらいからなる小隊であったと思われます。彼らはイエス様を取り囲み、「ユダヤ人の王様、ばんざい」とからかいました。最初はイエス様の前にひざまずきましたが、イエス様につばきをかける者も出て来ました。あきてくると、イエス様の顔につばきをかけ、葦の棒を取り上げて、イエス様の頭をたたきました。叩いたというより、茨の冠を突っ突いたという方が正しいでしょう。さんざんからかった後、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出しました。

 ヨハネ1917「イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた」と書いてあります。おそらく、イエス様はむち打ちと昨夜の裁判で疲労困憊して、運べなかったと思います。聖地に行くと狭い石畳の道があり、イエス様がお倒れになった場所というのがあるそうです。十字架はきわめて不浄なもの、恥ずべきものでした。そこで、百人隊長は自分の部下ではなく、祭りで田舎から出てきた男性を見つけました。そして、「おい、お前かつげ」と、喜ばしくない仕事に雇用しました。男性は顔から火の出るような気持ちで、十字架をかついだでしょう。聖書には「クレネ人、シモン」と実名が記されています。伝説によると、彼は北アフリカの出身であり、その後、家族全員が救われたようです(参考:マルコ1521)。ローマ兵は、太い釘によってイエス様を十字架につけました。右手と左手に1本ずつ、そろえた足の甲に1本です。十字架をロープで起こしますが、立てた時、40センチくらいの穴に根本が落ちます。そのとき、全身の体重が3本の釘にかかります。横隔膜がひっぱられていますので、息を吸うときはどうしても、体を持ち上げなければなりません。フィリピンの熱心なカトリック信者がロープで結わえて実際にやってみたそうですが、数秒でギブアップしたそうです。イエス様は麻酔薬のぶどう酒を断ったということは、十字架の苦しみをまともに受けられたということです。

 しかし、肉体の苦しみに塩を塗ったのが、祭司長たち、律法学者、長老たちのあざけりです。彼らは道行く人に交じりながら、このようにイエス様をあざけりました。マタイ2742-43「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『私は神の子だ』と言っているのだから。」ことばの暴力というのがありますが、これはとても陰湿で、宗教的なものでした。なぜなら、彼らはイエス様が半分メシヤであることを認めながら、からかっているからです。彼らはイエス様が、他人を救ったことを認めています。しかも、イエス様が「神により頼んでおり、『私は神の子だ』と言っている」と認めていました。彼らには宗教的な知識は全く役に立っておらず、むしろ、神の子をあざけるものとなっています。木曜日の宗教裁判もそうでしたが、彼らは、神の子イエスを目の前から抹殺したかったのです。そうすれば、信じなくて良いからです。私たちもイエス様を信じるか、信じないか葛藤するときがあるでしょう。しかし、何かの躓きが起こると、心が頑なになるときがあります。そして、一度、信じないと決めると、とことん信じないようになります。「頑な」という意味のことばは、皮膚が厚くなるということです。もう、感じなくなるということです。それが、当時の宗教家たちでした。ビル・ジョンソンが信仰というのは、頭・マインドではなく、心・ハートで信じるのだと言いました。では、頭・マインドが不要かと言うとそうではなく、信じたあと、それを整理するために必要なんだということです。まだ迷っている状態、つまり心が柔らかいというのは、まだ救われる可能性があります。どうぞ、静かな神の声を抹殺しないようにしましょう。

 もう1つは群衆と両脇の犯罪者のあざけりです。マタイ2738-40そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」マタイ27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。ルカ福音書には、片方の強盗が悔い改めたことを記していますが、はじめは両者ともイエス様をののしっていたようです。十字架は私たちが考えているほど、背が高いものではありませんでした。ですから、道を行く人々が、石を投げつけたり、近くでからかうことが可能だったのです。インドネシアの教会で、青年会による降誕劇がありました。ヨセフとマリヤの配役はすぐに決まりました。ところが、イエス様の役をだれにするかもめました。結局、青年会長がその役に決まりました。一方、日ごろから彼を憎んでいた青年はローマの百人隊長になりました。劇が佳境にはいり、イエス様がローマ兵によって十字架につけられました。ローマの百人隊長は、イエス様のほほを打ちたたきました。青年会長は「あれ、こんなのあったかな?」と不思議に思いました。いよいよ、十字架が立てられました。ローマの百人隊長はイエス様の顔をめがけて「ぺっ、ぺっ」と唾を吐きかけました。イエス様の顔が真っ赤になりました。そして、こう叫びました。「父よ、私は彼を絶対に赦すことはできません。なぜなら、彼は自分で何をしているか分かっているからです。私が復活した暁には、必ず復讐してやります」と言ったそうです。その先、劇がどうなったかは分かりません。このように、人からあざけりを受けるということは、普通の人だったら耐えられないということです。ところが、イエス様は、だまって彼らの、ののしりやあざけりを耐え忍ばれました。使徒ペテロはこう述べています。Ⅰペテロ223キリストはののしられても、ののしりかえさず。苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになったのです。…キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」イエス・キリストは、ののしりやあざけりに勝利されました。私たちもこの地上では、不当な扱いを受けることが多々あります。しかし、私たちのために正しくさばかれる方がおられます。詩篇3524「あなたの義にしたがって、私を弁護してください。」Judge me, Oh LORDとなっています。どうぞ、イエス様のように裁きを主にゆだね、平安のうちを歩みましょう。

3.霊的な苦しみ

 私たちは聖書から、祭司長たち、律法学者、長老たちのあざけり、そして群衆と両脇の犯罪者のあざけりを見ることができます。しかし、彼らのあざけりは単なるあざけりではなく、イエス様に対する誘惑でもありました。彼らのことばを良く見てみましょう。マタイ2740「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」マタイ2742「今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」彼らのののしりの中に、十字架の贖いを断念させるようなことばが含まれています。それは、「自分を救え、十字架から降りたら、信じる」というものです。これはイエス様に対して、恐ろしい誘惑になったのではないでしょうか?かつて悪魔はこのように誘惑しました。マタイ45-6「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」この誘惑は、「人々をあっと言わせて見ろ」ということです。イエス様は十字架から降りるつもりならば、降りることができました。御使いを呼ぶこともできたし、自分で自分を救うこともできました。もし、イエス様が怒って、「救いのために来てやったのに、こんなひどいことをされて、もうがまんできない。天国に帰る!」と言ったならば、贖いは成り立ちませんでした。ですから、イエス様を十字架につけていたのは3本の釘ではなく、イエス様ご自身だったということが分かります。イエス様は自分が死ぬために来たということを最後の最後まで忘れませんでした。日本人は精神論を唱えますが、イエス様のご意志は精神以上のものです。

 私たちは悪魔が人々の背後で働いているということを忘れてはいけません。「その人が悪魔そのものだ」というのではありません。彼らの背後に、悪魔が働いているということです。悪魔の誘惑に勝って、神のみこころを成し遂げるというのが大事なのであります。私たちは「イエス様は神の子なので、十字架で死ぬということを知っておられた」と言うでしょう。ところが、イエス様には罪はありませんでしたが、私たちと同じ肉体を持っておられました。私たちの肉体は本能を持っています。それは。自己中心であり、自己保全であります。言い換えると、「自分だけは死にたくない」ということです。イエス様はゲツセマネの園で、血の汗を流して「みこころがなるように」と既に勝利していました。ところが、十字架の最後の場面でも、誘惑の手は止みませんでした。人々は「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。そうしたら信じるから」とあざけりました。人々は悪魔にあやつられていたのです。普通の人間がそこまで言えないと思います。なぜでしょう?彼らは「自分たちはイエス様を信じない」と心を頑なにしていました。もう、聖霊様の働く余地は全くありません。だから、悪魔が彼らの思いの中に入り、あのような、付き刺すようなことばを言わせたのです。悪魔は、土壇場でイエス様をひっくり返そうと誘惑したのです。しかし、イエス様は悪魔の誘惑に勝利して、十字架にご自身を付けて忍ばれました。これは、外から見ていたのでは、全く分かりません。イエス様は静かに十字架に付けられているように見えますが、悪魔からのものすごい攻撃があったということです。それでも、イエス様は贖いを全うするために、ご自身の意志で十字架についておられたのです。

 本来、十字架の贖いを言うとき、「イエス様が私たちの罪を負ったゆえに、神から捨てられた」ことに焦点を当てるでしょう。来週はそのことを述べますが、「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか」が苦しみの絶頂と言えるでしょう。でも、福音書は十字架の前に、さまざまな苦しみがあったことを書いています。英語で苦しみを表現するいくつかのことばがあります。passion(受難)もその1つですが、私はtormentということばが相応しいと思います。tormentとは、肉体的・精神的な苦痛と言う意味です。古くは「拷問、拷問の苦痛」と意味で用いられました。ローマの鞭打ち、ローマ兵のあざけり、宗教家たちのあざけり、悪魔に用いられた群衆のあざけり…これらはtormentではないかと思います。日本人は「恥」ということを非常に恐れる国民だと思います。イエス様は罪のない神の子であり、やがては御国の王になるお方です。そのお方が人類のあがないのために十字架にかかられました。このところには、感謝する者が一人もいません。反対に、「自分を救え。十字架から降りたら信じる」とものすごいことばを浴びせました。悪魔と一緒に、罪の贖いを阻止するために誘惑したのです。聖書からこういうことを見ていくと、「十字架の贖い」とひとことで済ますことができません。十字架に至る道があまりにも厳しいからです。まさしく、イエス様は私たちの恥と苦しみを負ってくださいました。ローマ兵、宗教家たち、群衆…すべて贖いの対象である人間です。その人間たちから苦しめられているのです。私たちも一つの目的のために生きようとすると、周りの人たちからひどいことを言われたり、苦しみに合わせられるかもしれません。イエス様が私たちと同じように苦しみと悩みと恥を受けられたということは救いであります。イエス様は私たちが地上で受ける苦しみ、肉体の苦しみ、精神的な苦しみ、そして霊的な苦しみを味わってくださったことを感謝します。十字架の贖いの中に、私たちが受けるさまざまな苦しみが含まれていることを感謝します。

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2018年3月 9日 (金)

十字架につけろ マタイ27:11-25 2018.3.11亀有教会牧師鈴木靖尋

 私たちはイエス様に出会うとき、信じない人は3種類のいずれかになってしまいます。祭司長と民の長老はイエス様を抹殺しようとしました。意識的にイエス様を信じないというタイプです。ピラトは無関心を決め込んでいました。あまり近よらない、決断しようとしない人たちです。そして、群衆は祭司長と民の長老に扇動されて、イエス様を「十字架につけろ!」と叫びました。これは専門家の意見や考えを聞いて、自分では考えないというタイプです。

1.祭司長と民の長老

 マタイ271-2「さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。」彼らは夜が明けると形だけの裁判をしました。真夜中の裁判では、イエス様が自分を神であるしたという冒瀆罪で死刑に定めました。朝、再び集まったのは、ローマ総督に対してどのような罪状を突きつけるか協議したのです。なぜなら、当時はローマに支配されていましたので、死刑を執行することができませんでした。そのため、祭司長、民の長老たちは「イエスはカイザルに背く者、騒乱罪」として罪状をすり替えたのです。ピラトは「彼らはねたみからイエスを引き渡したことを」知りました。宗教の指導者は十戒の9番目の「偽証をたててはならない」と6番目の「殺してはならない」という重要な戒めを平気で破ったのです。とにかく、「イエスを殺さなければ、枕を高くして眠れない」という思いからでしょう。祭司長、民の長老たちから訴えがなされてもイエス様は何も答えませんでした(マタイ2712)。ピラトはイエス様に「あんなに色々とあなたに不利な証言をしているのに聞こえないのですか」と言いました。イエス様は「こんな人たちを相手にしても始まらない」とばかり、高いところにいました。私たちは何か言われると、どうしても「そうじゃない」と反論してしまいます。そうすると相手のレベルまで自分が落ちることになり、らちがあきません。何を言われても、イエス様のように高尚な態度でいたいと思います。

 さて、イエス様に対する態度というのはどういうものでしょうか?彼らは「イエスがメシヤであっても決して信じない」と決めていました。なぜなら、自分たちの生活を変えて、イエス様にひれ伏さなければならないからです。彼らは地位や名誉があり、人々から尊敬を受けていました。もし、「イエスがメシヤである」と信じたら、面目丸つぶれです。「ナザレから急に出てきた青二才がなぜメシヤなんだ。俺たちは聖書やラビたちの教えを持っているんだ」というプライドがありました。イエス様を信じるとは、プライドを捨てて、イエス様の前にぬかずくということです。私たち人間は、イエス様の前に立つと、2つに1つしか選べません。「イエスは主です。神です」と認めてぬかずくか、「お前はペテン師だ。お前なんか信じない」と唾をかけるかどちらかです。祭司長、民の長老たちは聖書からイエスがキリストであることを知っていました。でも、妬みのゆえに認めなくなかったのです。そのため、イエス様を抹殺しようと考えました。とても目障りな存在だったからです。ところで、イエス様を信じていなくても教会に来ることはできます。ゴスペル・クワイアや礼拝に出席することはだれでも可能です。私たちはそういう人たちを「求道者」と呼んでいます。「未信者」と呼ぶ教会もありますが、なんだか差別するようでイヤです。でも中には、求道していない人もおられるかもしれません。音楽や良い話を聞いたり、友達を作るために来る人もおられます。大和カルバリーでは、そういう方が毎日曜日、たくさん集っています。それだけ裾野が広いということなのかしれません。しかし、そういう人であっても、「イエスはキリストなのか?」と提示される時が来ます。別に人が言ったわけではなく、聖霊がその人の心に迫るのです。そうすると、「信じるか、信じないか」決断をしなければなりません。来るたびごとに、心が痛んで苦しくなり、やがては来なくなる人もいます。

 でも、ある人たちは「私はキリスト信じない」と決めて、教会に来られている人もいるでしょう。まさしく、そういう人は祭司長、民の長老たちのように、イエス様を心の中で抹殺しているわけです。「もう感じない、考えない、聞き流すしかない」ということです。それだったら来るのを辞めれば良いように思いますが、それもできない。当教会の良いところは、「しつこく迫らない」ということです。ま、泳がしておくということです。でも、個人伝道の賜物のある兄姉は、ついつい迫って行きます。それで信じる人もおれば、教会に来なくなる人もいます。私は職場の先輩がクリスチャンだったので、朝、昼、晩、社長がいないときに福音を語られました。きわめつけは、1979415日のイースターです。先輩が私のアパートに訪ねてきて、9時間も延々と話すんです。夜の9時半「じゃ、信じるよ」と言って救われました。朝起きたら、アパートの生垣が輝いて見えました。しかし、後日談があります。私は彼女と親友に、福音を熱心に語りました。反発を喰らって、二人は去って行きました。英語でdecision ということばがあります。これは決断するという意味です。しかし、decisionは一方を選んだら、他方は殺すという強い意味がありあます。たとえば、ここに牛乳とコーラーがあるとします。牛乳を飲むなら、コーラーは飲みません。「いや。牛乳とコーラーと混ぜて飲みます」という人はまずいません。生かすか、殺すか、生殺与奪そのものです。

使徒信条という告白文があります。「イエスは…天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死にたるものを裁きたまわん」とあります。その当時のイエス様は人間と同じ大きさで簡単に拒絶することもできました。祭司長、民の長老たちは「こんな人間イエス、怖くないぞ」と死に渡しました。でも、それが逆転するときがきます。こんど私たちが裁判官であるイエス様の前に立たなければなりません。あのときは謙遜なお姿で、うとんじても大丈夫だったかもしれません。でも、世の終わりはそういう訳にいきません。どうぞ、この地上において、イエス様が謙遜なお姿のときに、神さまと和解しましょう。イエス様は無理強いしません。でも、ある人たちは愛する余り無理強いするかもしれません。でも、それはあなたを裁くためではなくて、「何とかあなたもイエス様を信じて救われていただきたい」という愛なのです。キリストの愛が私たちに強く迫っているので、そうならざるを得ないのです。

2.総督ピラト

 総督ピラトの特徴は何でしょうか?無関係、無関心と言うことができます。後で彼は手を洗ってこのように言いました。マタイ2724「そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」手を洗うとは、「自分には関係がない」ということを示す行為です。その前に、ピラトはイエス様を何とか赦そうと努力しました。彼らがねたみからイエス様を引き渡していたことを知っていたからです。でも、彼の妻が悪い夢を見たというのです。「あの正しい人には関わり合わないでください。夕べ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いました」と人を介して言わせました。どんな夢でしょう?たぶん、イエス様の肩を持つということは、カイザルに背く行為であり、何等かの迫害を受けるということでしょうか?ピラトも自己保身でありますが、彼の妻も自己保身でありました。目の前にキリストがいらっしゃるのに、関わることをしなかったのです。ヨハネ18章にはピラトとイエス様の問答が記されています。イエス様が「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」と言われました。ピラトは「真理とは何です」と、イエスに言いました(ヨハネ1837-38)。ピラトが「真理とは何ですか?」と聞きました。ここでは裁判官がピラトではなく、イエス様に逆転しています。ピラトはイエス様の前に立ちました。本来なら、「あなたこそ真理です」と跪くべきでした。ところがピラトは「真理とは何です?」とはぐらかしたのであります。目の前に、真理そのものであるイエス様がいるに、無関心を装っていました。

 イエス様を信じるか、信じないかという決断に迫られたとき、「無関心」も可能なのでしょうか?聞こえないふりをする。あるいは、「何のことなのかさっぱり分かりません」ととぼけるのも有ります。かなり前ですが、遠田姉の友達が教会に誘われたことがあります。彼女はとても外交的で、明るく多くの友人を持っていました。岩本姉も友人の一人でした。その当時は、コンサートとかいろんなイベントを開いていました。その姉妹が、コンサートには来ますが、「あまり、私に関わらないでください」と言いました。なぜかと言うと、「人間関係ができてしまうと、断りきれないからだ」と言うことでしょう。日本人というのはNoというのはとても勇気がいります。ですから、決断する前に、行かないようにするということです。私も電話のセールスでとても弱く、ついつい話を聞いてしまいます。コピー機とか電話会社がそうであります。新聞の勧誘もすぐ断ることができません。その点、私の家内は毅然としており、「いいえ、結構です」ときっぱり断ります。私も最近は家内に真似て、話を聞かないうちに断ることにしています。でも、「そういう彼女が私との結婚をよく承諾したものだなー」と思います。「いいえ、結構です」とは言いませんでした。ハレルヤ!ひとえに、神さまのお導きだなーと思います。ところで、ルカ16章には金持ちと貧乏人ラザロの物語が出てきます。金持ちはいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。一方、ラザロは全身おできで、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。金持ちは神さまにも無関心、この貧乏人ラザロにも無関心でした。おそらく、ラザロは貧しいながらも神さまを礼拝していたのでしょう。だから、名前が憶えられていたのです。ところが、金持ちは陰府に下り、炎の中で苦しんでいました。彼は「アブラハムのふところにいだかれている、ラザロを遣わして、指先を水に浸して、私の舌を冷やすようにしてください」お願いしました。アブラハムは「子よ。思い出してみなさい。お前は生きている間、良い物を受け、ラザロは悪いものを受けていました。しかし、今、ここで彼は慰められ、お前は苦しみもだえているのです」と言いました。ここから分かることは、陰府とは神さまから見放されているところと言うことができます。彼が生前、神さまに無関心だったので、そのような陰府に落とされたのです。とっても厳粛な思いがします。やはり、生きているうちに神さまとコネクションを持たなければなりません。そうすれば、永遠の御住まいに迎えてくれるでしょう。

 先ほども使徒信条を引用しましたが、ある教会では毎日これを唱えています。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と告白します。何と言う不名誉でしょう。ポンテオ・ピラトはイエス様を十字架につけたのではありません。どちらかと言うと、イエス様を救いたかったのです。そのため祭りの恩赦のために、「バラバかイエスか?選べ」と提案しました。しかし、その妥協案はかえって悪くなりました。手の下しようがなく、暴動になるところでした。私たちは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と彼の名前を上げます。ピラトがこれを聞いたなら、不名誉ことであり、煮え切らない思いをするでしょう?これが決断をしないで、無関心を装っていた末路です。

朝鮮動乱の頃このようなことがあったそうです。奥さんは熱心なクリスチャンでした。しかし、ご主人は奥さんが教会に熱心になればなるほど、奥さんを迫害しました。ご主人が奥さんを酒の酔いにまかせて、なぐったり蹴ったりしました。すると、奥さんは「主よ。みもとに近付かん」と泣きながら讃美します。日曜日、教会から帰ってくるたびに、奥さんを殴ります。すると、奥さんは「主よ。みもとに近付かん」と、また泣いて讃美します。そういうことが続きました。ある時、ご主人は北朝鮮の兵士として出兵しました。ところが、ご主人が属している部隊が全滅し、捕らえられた兵士たちが並べられ、今、銃殺刑にされようとしていました。「ちょっと待て」と、アメリカ兵の隊長が言いました。「この中にクリスチャンはおるか。もし、クリスチャンがいたら助けてあげる」と。すると、かの婦人のご主人がハイハイ!と手をあげました。隊長は「そうか、クリスチャンだったら讃美歌ぐらい知っているだろう。讃美歌を歌って証拠を見せなさい」と言いました。その男は教会など1度も行ったことがなく、1瞬、家内がよく歌っていたあの歌を思いだしました。「主よーみもとに近付かん」先がわからないけど、どうせ朝鮮語だからいいやと「その先わかないけど、助かりたい。なんとか主よ、助かりたい。なんでもいいから助かりたい」。それで、その男は助かり、あとから熱心なクリスチャンになったそうです。天国の場合は、讃美歌を知っているくらいじゃだめですが、イエス様と個人的に関わりを持つということが重要です。

3.群衆

 最後に群衆です。彼らは祭司長や長老たちに扇動されて「イエスを十字架につけろ!」と叫びました。せっかく、ピラトが「バラバとイエス、どちらを釈放してほしいのか」と助け舟を出したのに、聞く耳持たないという状況です。バラバは死刑になるような犯罪人です。なのに、「バラバを釈放し、イエスを十字架につけろ!」と叫びました。彼らは「一斉に言いました」。ピラトは「あの人がどんな悪いことをしたと言うのか」と問いました。なのに、彼らはますます、激しく「十字架につけろ!」と叫びました。ピラトは自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、手を洗いながら「この人の血について、私は責任がない」と言いました。すると、民衆は「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と言いました。ユダヤ人たちは、自ら呪いを受けることを選びました。ありえないことです。イエス様は十字架で「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないからです」(ルカ2334と祈られました。つい一週間前までは「ダビデの子にホサナ」とイエス様を歓迎した同じ人たちです。これが群衆です。群衆の特徴は、深く考えないということです。だれか権威ある人の言ったことを鵜呑みにします。群衆は「祭司長や長老たちに権威がある」と考えていました。ひとり一人、ちゃんと考えないということはとても恐ろしいことです。インターネットに「信用できると思う評論家トップ5」が載っていました。上位から池上彰、森永卓郎、尾木直樹、宮崎哲弥、マツコ・デラックスでした。知識が豊富で歯切れのよいコメントをするからでしょう。この世の人たちは聖書について知りたいならミッション・スクールの大学教授を招くでしょう。専門家が言うと「ああ、そうなのか」と鵜呑みにするでしょう。でも、当時の祭司長や長老たちというのは、そういう大学教授であります。残念ながら、専門家がイエス様を十字架につけたのです。

 キリスト教は、いわば啓示の宗教です。いくら知識が豊富でも、上から解き明かしてもらわないと分かりません。パウロはⅠコリントでこう述べてます。Ⅰコリント120-21「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」アーメン。私がこの説教を準備したときは熱が38.2あって、頭ががんがんしていました。でも、神さまが私のような者にみことばを語るように召しておられることに震えが来ました。寒気と震えと一緒でした。そうです。聖霊様が開示してくださらなければ、聖書は単なる道徳書です。上から示されるときはじめてメッセージをすることができるのです。「もったいない。有り難いことだなー」と感動しました。でも、この時の群衆は完全に狂っています。聞く耳持たないという感じです。かつてイエス様は「人々は私を何と言う」と弟子たちに聞かれました。彼らは「バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤだとか、他の預言者のひとりだとも言っている」と答えました。イエス様は「あなたがたは私をだれと言うか」と聞かれました。ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。イエス様は大変喜ばれ、「あなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいます私の父です」と言われました。言い換えると、神の霊、聖霊によって告白できたのです。ですから、神の霊、聖霊をシャットアウトするなら、悟りのない動物と同じです。群衆は完全に狂っています。おそらく、そこにはサタンも加勢しているのではないかと思います。彼らの振る舞いは尋常ではないからです。

 私たちは教会に多くの人々が来ることを願います。「アフリカのように何万人、何十万人も集まったらどんなにすばらしいか。それこそリバイバルだ」と思います。しかし、そこに落とし穴もあることも確かです。群衆は一人ひとりがイエス様につながっていません。だから、何かあるとすぐ散らされてしまうのです。私も朝、散歩をしますが、中川の上にカモメが浮いています。一羽が飛ぶと、他の鳥も一斉に飛びます。それは群れを守るための本能かもしれません。でも、私たちは烏合の衆になってはいけません。群衆はいわばイエス様のフアンです。牧師のファンもいるかもしれません。でも、ファンは何かあるとさっと去って行きます。スポーツ界でも調子が良い時は、ファンになりますが、調子が悪くなるとさっと去って行きます。人数が多く集まることは確かに魅力があります。でも、一人ひとりがイエス様につながっているか?イエス様に命を投げ出しているかであります。聖書を見ると数の多さは問題ではありません。そこに神の人がいるかどうかです。神さまがエリヤやエリシャを用いられたのはそのためです。数の多さは1つの魅力です。でも、群衆ではなくひとり一人イエス様につながったクリスチャンを作るべきです。

 祭司長や長老たちは、イエス様をあえて信じようとしませんでした。ピラトは無関心を装いました。群衆は祭司長や長老たちから扇動されて「十字架につけろ!」と叫びました。これはすべては人間の罪です。このような形で十字架に渡されたイエス様がなぜ、救い主なのか難しいです。パウロは「イエス様が私たちの罪を贖うために十字架で死なれた」と言っています。生まれつきの人間は、「イエスを必要としない。イエスなんかいない方が幸せなんだ」と考えるでしょう。その罪がイエス様を十字架につけたのです。ということは、神から離れている人間は、消極的にも積極的にも、イエス様を十字架に渡しているということです。クリスチャンとはどういう人たちでしょうか?もちろん、イエス様を救い主として信じた人たちです。でも、その前、神さまに降参するというステップがあるのではいでしょうか?「どうせ、このままの人生だったら、たかが知れている。もし、イエスとやらが神さまであるなら賭けてみようか」。そして、その人は神さまに降参するのです。信じない人というのは、神さまに降参しない人です。信じるためには、どうしても神さまに降参しなければなりません。降参は英語でsurrenderと言います。「主よささぐ、われささぐ」という賛美があります。元の歌はI surrender allであります。あなたはイエス様を信じたくないので、イエス様十字架につける人でしょうか?それとも、降参してイエス様を信じる人でしょうか?イエス様は「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ1039と言われました。ここに偉大な逆説があります。自分の命を捨てると、神さまから本当の命が与えられるのです。

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2018年3月 2日 (金)

後悔先に立たず マタイ27:1-10 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.3.4

 ユダがイエス様を裏切った理由については、先月の礼拝で既にお話ししました。今日は、その後のユダについてです。正直、このような箇所は憂鬱になるので避けたいところですが、これが講解説教の醍醐味であります。伝道集会や特別集会では「ユダの裏切り」というテーマは絶対取り上げないでしょう。実はこういう暗いテーマの中に、キラリと光るものがあるのです。ダイヤとか金は地面にころがっていません。南アフリカのある金鉱は地下3,700メールもあるそうです。きょうは、鉱夫になったつもりで、暗い話題から宝を発見したいと思います。

1.イエスを売ったユダ

 1節と2節の内容は次週お話しいたします。マタイ273「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して…」とあります。日本語の聖書は「イエスを売ったユダ」と書いてあります。英語の聖書はbetray「裏切る」です。ギリシャ語は「敵に渡す、売る」という意味のことばが用いられています。実際、ユダは銀貨30枚でイエス様を売ったわけです。でも、それは当時の奴隷一人の代価ですから、ユダはお金欲しさに売ったということではありません。そこには、イエス様に対するあざけりや恨みがこめられています。なぜなら、「この方がイスラエルの王になる」と信じて、従って来たからです。ユダに言わせると、「裏切ったのは俺ではなく、イエスだ。俺の夢は消え去ってしまった。俺の人生返してくれ」ということでしょう。「盗人にも三分の理」と言いますが、それなりの理由はあったのでしょう。でも、ユダの裏切りは間違いや失敗ではなく、確信犯であったということです。マタイ2616「そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。」と書いてあります。そのときとは、銀貨30枚を受け取った後であります。そして、ユダは最後の晩餐に加わり、パンとぶどう酒を受けました。イエス様は「あなたがたのうちのひとりが、私を裏切ります」さらに「私と一緒に鉢に手を浸した者が、私を裏切るのです」と言いました。前者は12弟子みんなに、後者はヨハネとユダに言いました。「ユダよ。お前が私を裏切ることを知っているよ。それでもやるのか?」と言わんばかりです。そうです。イエス様は何度も、引き返すチャンスを与えていました。でも、彼は心を頑なにして、聞こうとしなかったのです。箴言2814「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」

 主を裏切るとは、主の愛と信頼を裏切るということです。かつて、イエス様は一晩祈って、12弟子を選びました。ユダは他の11弟子と同じように、主から愛され、信頼されていました。では、イエス様は初めから、ユダがご自分を裏切るということを知っていたのでしょうか?その可能性があるとは思っていたでしょう?でも、12弟子全員がその可能性を持っていたということは確かです。人間は生まれた時から罪があるので、だれにでもその可能性があるのです。問題は「罪を捨てて、主の愛と信頼を選んで従っていくか」ということです。『スター・ウォーズ』という映画がありますが、一つの一貫したテーマがあるように思えます。ジェダイというのはフォースを正しく使うヒーロー的な存在です。一方、ダース・ベーダーのような帝国軍に仕える悪者はどうなんでしょうか?彼も元はジュダイであり、フォースを操ることができました。ところが、魂が暗黒面に魅せられたのでそうなったのです。つまり、悪への誘惑に負けて堕落したのです。どの映画や小説にも「裏切り者」が登場します。でも、最初から彼らがそうであったということではありません。何かの躓きによって、そうなったのです。そこには裏切るだけの正統な理由はあったかもしれません。でも、自分の魂を悪に売ってしまったのです。つまり、人を裏切る前に、自分の魂を裏切っているということかもしれません。一度、魂が頑なになると、引き返すのがだんだん困難になります。イエス様は、ある時からユダがはっきりとご自分を裏切ることを知りました。彼の心がサタンに乗っ取られていることも知りました。普通だったら、ユダを破門し、自分から遠ざけるでしょう。でも、そうしなかったのは、主のご愛が永遠であり、変わらない信頼を持っているということの現れではないでしょうか?同じ恵みが、私たち全員にも向けられていると信じます。でも、それが届かないところがあります。それは死んで、魂が陰府に下ったときです。ルカ16章には金持ちと貧乏人のラザロが死んで陰府に下ったことが記されています。金持ちは陰府の底でもだえ苦しんでいました。しかし、彼の願いは1つもきかれませんでした。父アブラハムとの間には大きな淵があり、渡ることも、越えることもできませんでした。イエス様が十字架の上で「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。その叫びは、神から捨てられた者の叫びです。まだ、生きているうちは希望があります。主は立ち返るチャンスを常に与えておられるからです。でも、一旦、死んで陰府に下ったならば、そこには希望はありません。もう、どんな願いも叫びも届きません。

 私たちはユダのことから教訓を得なければなりません。ユダはイエス様を裏切りました。言い換えると、イエス様の愛と信頼を裏切ったということです。英語でembrace(エンブイス)という言葉があります。第一の意味は「抱擁する」「抱きしめる」ということです。しかし、もう1つの意味は「思想などを受容する」「信条などを奉じる」という意味です。ただ単に受け入れるというのではなく、「自分の中に取り込んで離さない」ということです。イエス様は私たちを愛し、私たちを信頼しておられます。裏切るとは、その愛と信頼を捨て去る、拒絶するということです。そうではなく、embrace(エンブイス)、私たちの方も主の愛と信頼を抱きしめるのです。自分の中に取り込んで離さない。これこそが、誘惑に勝つ秘訣ではないでしょうか。もちろん、私たちの愛や信頼には限りがあります。信仰は気力とか頑張りではありません。でも、私たちの方も主にすがりつくような姿勢が必要です。この地上に御国(神のご支配)が来ていることは確かですが、完全ではありません。私たちの信仰が上がったり、下がったりするのはそのためです。イエス様の私たちに対する愛と信頼は永遠で変わることがありません。それらを受け取る私たちに問題があるのです。私たちもただ受けるだけではなく、embrace(エンブイス)、主の愛と信頼を抱き締めましょう。そうすれば、決して主を裏切ることはありません。

2.後悔したユダ

 マタイ273-4「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。」このところで、驚くべきことは、裏切り者のユダがイエス様を「罪のない人である」と告白していることです。イスカリオテのユダは三年半、師であるイエス様と寝食を共にしました。一緒に旅をし、教えをそばで聞き、数々の奇蹟を見ることもできました。ユダはイエス様が罪に定められたのを知って後悔しました。でも、なぜ、もっと前に進まなかったのでしょうか?ユダはポンテオ・ピラトの前に進み出て、「あの裁判は間違っていた。でっち上げだ。イエスには罪はない」と言えたでしょう。彼の問題は、後悔はしたけれど、それ以上前に進まなかったということです。後悔は英語でrepentですが、悔い改めと同じ時に用いることばです。でも、ギリシャ語の場合は幾分か違います。「後悔する」と、「悔い改める」というのは違います。ギリシャ語で「悔い改める」は、メタノエオウで「考え直す、心を変える、悔い改める」という意味です。つまり、罪を悔いただけで終わらず、向きを換える、神に立ち返るというニュアンスがあります。残念ながら、ユダは罪を後悔はしましたが、神に立ち返ることはしなかったということです。私たちは頭ではいつでも、神に立ち返ることができると思うかもしれません。でも、立ち返らせてくださるためには、聖霊の働きが不可欠だということを忘れてはいけません。ユダがなぜ、後悔したけれど、それ以上前に進めなかったのか?それは、聖霊の助けがなかったからです。

 イエス様を裏切ったことではペテロも同罪です。ユダの場合は、イエス様を売り渡す手引きをしました。ペテロの場合は、人々の前でイエス様を知らないと3度も否定したことです。ユダの味方になるわけではありませんが、遅かれ早かれ、イエス様は祭司長たちに捕えられていたでしょう。ペテロの場合は、「たとえ死んでも」と言ったのに、イエスなんか知らないと呪いをかけて誓いました。両者とも甲乙つけがたい裏切り行為です。でも、決定的な違いは、イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈ってあげたということです。一方、ユダに対しては「あのような人は生まれなければよかった」と言われました。一見、不公平ですが、ペテロにはとりなしがあり、ユダにはなかったということです。ペテロも後悔しました。鶏が鳴いたとき、イエス様のことばを思い出し、激しく泣きました(マタイ2675)。でも、ペテロはそれで終わってはいません。イエス様はペテロたちに「よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」(マタイ2632と前もっておっしゃっていました。ペテロはその言葉を信じて、復活後、ガリラヤへ行きました。「どの面下げて」と申しましょうか?イエス様から「私を愛するか」と3度も問われ、心が痛くなりました。でも、ペテロはイエス様のところへ行ったのです。そして、罪の赦し、心の傷の癒し、そして弟子としての再召命をいただきました。その頃は、助け主であられるイエス様がペテロにお相手しています。しかし、現在は別の助け主、聖霊様が私たちのために働いておられるのです。ですから、罪を悔いることはだれでもできますが、方向転換して神さまに立ち返ることができるのは助け主、聖霊の働きだということです。アーメン。ですから、ユダのように、聖霊から見放されてしまったなら、救いがないということです。

 「後悔先に立たず」と申しますが、これまでの私の人生、後悔ばかりでした。入りたくなかった高校の土木科に入ったこと。ボクシング部に入り、デビュー戦で敗れてノイローゼになったこと。土木の建設現場に入って、辛い思いをしたこと。しかし、25歳にクリスチャンになりました。今思えば、あれが人生の方向転換でした。ローマ828のみことばのごとく、万事が益になることを知るようになりました。では、クリスチャンになって後悔したことがなかったというと、いっぱいありました。特に交通違反で切符を切られた時がそうでした。「ああ、あそこでスピード出し過ぎたんだ。なぜ、あんなところを曲がったんだろう。それにしても警察は陰険じゃないか!」結婚については全く後悔していません。感謝しております。亀有に赴任したことも後悔していないですね。小牧者訓練会、セルチャーチにも長い間、所属しました。あまりうまくいかなかったけど後悔はしていません。やはり、25歳のとき大きく方向転換したので、小さい失敗は余り気にならなくなりました。その時は「ああ!」と嘆きますが、少し時間がたつと「まっ、良いか」となります。でも、聖め派の神学校に入った時、やたら「悔い改め」を迫られました。自分の弱さ、罪深さをさんざん見せつけられました。そこでは、「罪を悔い改めて、きよめられる」というのが、中心的なテーマでした。「ゴールはきよめられることであり、それが何なんだ!」と思いました。そのせいもあって、「私はあまりきよめられていないんだなー」と思います。しかし、私は別のルートを発見しました。Ⅱコリント317,18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。そうです。自分の弱さや罪を見ること以上に、私を造られた神さま、私を贖われたイエス様を見るのです。すばらしいことに、聖霊様が私を栄光から栄光へと変えてくださるのです。もちろん自分の弱さや罪深さに気付くことは必要です。でも、それ以上に重要なことはイエス様、主の御霊を仰いで生きることです。そうすれば、自然に弱さや罪深さが消えて、良い方向に行くのです。

 私もいろんな癒しや解放の集会に出かけました。結論として言えることは、天国に行くまでは完全じゃないということです。どこかしこ、弱さや罪が残っているということです。でも、それ以上に主の恵みが私を支え、私を導いてくださるということです。中には過去の失敗に打ちひしがれて、座り込んでいる人もいるかもしれません。イザヤ書601,2「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」いのちの光があなたを照らすとき、あなたは暗い場所から立ち上がることができるのです。

3.自殺したユダ

 マタイ27:4 -6「『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。祭司長たちは銀貨を取って、『これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。』」この先は、省略しますが、あまり芳しくないところであることは確かです。しかし、このところにも宝が隠されていることを信じます。ユダは自分が犯した罪を後悔しました。そして、銀貨30枚を返すために、祭司長や長老たちのところへ行きました。すると彼らは「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言いました。「これが神さまに仕える人たちの言い方だろうか!」と怒りを覚えます。本来なら、「ああ、そうなんだ」と懺悔の告白を聞くべきです。しかし、彼らが言ったことばが大変、興味深いです。英語の聖書を直訳すると「それが私たちに何なのだ。あなたがそれを見なさい」となります。「見る」というギリシャ語にはいろんな意味があります。「君自身が始末をつけるがよい。自分で始末をせよ。それは君の問題だ」と訳されています。ユダは自分が犯した罪をどうすべきなのか、祭司長や長老たちのところに相談に行きました。彼らが本当に神さまに仕える人たちだったら、「罪を贖ってくださる神さまのところに持っていきましょう」と言うべきであります。でも、「自分で始末をせよ。それは君の問題だ」とは何事でしょう?「彼らは救い主・キリストを十字架につけたやつらなんだなー」と思わざるをえません。

 そのため、ユダはその罪をどうしたのでしょうか?銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去りました。そして、外に出て行って、首をつりました。「外」というのは、神殿の敷地から出たということなのでしょう。そして、大きな木を見つけて、そこで首を吊ったのです。使徒1章にはもっと詳しく書かれています。使徒118「ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。」木さえもユダを嫌って、その枝を折ってしまいました。そのため、ユダはまっさかさまに落ちて、ひどい状況になったのです。「何もそこまで書かなくても」と思いますが、旧約聖書のイゼベルの死と似ています。本当に呪われているという感じがします。しかし、問題は「自分の罪を自分で始末する」ことがいかに悲惨かということです。私たちは決して負ってはいけないものがあります。ヨハネ3章にはニコデモが、夜、イエス様を訪ねてきたシーンが記されています。彼はイスラエルの指導者でしたから、人目を避けて、夜こっそりイエス様を訪ねて来たのでしょう。大川牧師はそのところから『夜の訪問者』という題のメッセージを語ったことがあります。大川牧師は「私たち人間が負ったらだめになるもの、それは罪と死である。ニコデモは罪と死という夜をぶら下げてイエスさまのところに来たのだ。あなたにも夜がある」とおっしゃっていました。そうです。自分で始末をつけないで、イエス様のところに持ってくるのが一番だということです。自分で何かできるなら、救い主は必要ありません。自分で負うことができないので、救い主がいらっしゃるのです。

 昨年もいろんなニュースがありました。中には取り返しのつかない罪を犯した人も何人もおりました。電動自転車に乗った女子大学生(20)と歩道を歩いていた近くに住む無職女性(77)が衝突する事故が発生しました。女性は転倒して頭を強く打ち病院に搬送されましたが、2日後、死亡しました。女子大生は当時、左耳にイヤホンをつけ、左手にスマホを、右手には飲み物を持っていたました。女子大生は「ぶつかるまで気付かなかった」と話しているということです。まだ、人生これからなのに、あまりにも重い十字架を背負わされました。十字架と言って良いのか分かりませんが、本当に気の毒だと思います。ずっとこれから先も、人を死なせてしまったという罪責が心から離れないでしょう。後悔しても後悔しきれないでしょう。しかし、自分で始末をつけるのではなく、罪と死を持って行けるお方がいらっしゃいます。自分で負えないからこそ、救い主イエス様がいらっしゃるのです。取り返しのつかない失敗や罪を犯した人こそ、救い主イエス様に出会ってもらいたいと思います。使徒16章にありますが、大地震が起こり、看守は囚人たちがみな逃げたと思いました。彼は剣を抜いて自殺しようとしました。そこで、パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。看守はパウロとシラスの前に震えながらひれ伏してこう言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」。ふたりは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。もし、看守が自らの命を絶ったなら、彼も彼の家族も滅びます。そうではなく、主イエスを信じるなら、彼も彼の家族も救われるとは、ものすごい逆転勝利です。

旧約聖書には「逃れの町」について記されています。イスラエルの山地6か所に設けられていました。故意ではなく、過失のゆえに人を殺してしまった場合、近い逃れの町に逃れることが許されました。その人は正当な審判を受けることができましたが、過失と言っても、復讐者が追いかけて来るでしょう。その町の大祭司が死ねば、過失殺人者は家に戻ることができました。この制度は後に来るキリストの贖いを指し示しています。ユダは自分の罪を始末するために自殺しました。一方、ペテロは復活の主に会うためにガリラヤに向かいました。第一のポイントでembrace(エンブイス)、主の愛と信頼を抱きしめるということを申し上げました。私たちの人生で、取り返しのつかない過ちを犯すとき、後悔しても後悔しきれないことがあるかもしれません。でも、私たちは罪と死の重荷を負ってはいけません。「逃れの町」であるイエス様の懐に逃れるのです。イエス様は私たちの罪を赦すために十字架にかかって、命を捨ててくださいました。十字架の血潮によって赦されない罪など1つもありません。韓国の金賢姫(キム・ヨンヒ)は大韓航空機爆破事件の被告で、死刑の判決を受けた人です。彼女は、クリスチャン捜査官のすすめで、はじめてキリストの福音に触れました。聖書を読み、キリストと出会って神の愛を知ったのです。十字架に示された神の愛、これこそ、極限の神の自己啓示です。キリストにある人生は、決して後悔では、終わりません。すべての罪が赦され、万事が益となる逆転勝利の人生が与えられます。

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