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2018年3月23日 (金)

わが神、わが神 マタイ27:45-61 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.3.25 

 イエス様は午前9時に十字架につけられました。そして、昼の12時から3時まで暗闇が地上を覆いました。過ぎ越しの祭りの時は、ちょうど満月ですから、日食ということはありえません。エジプトのアレキサンドリアでは、昼の12時頃から3時頃まで全地が暗くなったという記録があるそうです。どのように太陽が隠れたかはわかりませんが、十字架の回りにいた人たちは、真昼に突然、暗くなったのですから、さぞ、驚いたことでしょう。それまで、さんざん悪口をついていた長老たちや両脇の強盗も、口をつぐんでしまいました。ここで太陽が光を失ったと言うことは、父なる神が、地上のあまりの残酷な光景に対して、御顔をそむけられたとも考えられます。

1.イエスの叫び

マタイ27:46-47「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、『この人はエリヤを呼んでいる』と言った。」人々はイエス様が苦しみのあまり「預言者エリヤに助けを求めているんだろう」と言いました。しかし、それは正しくはありません。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、当時ユダヤ人が使っていたヘブル語の変形、アラム語でした。新約聖書はギリシャ語に書かれていますが、ここだけ、イエス様が発したナマの言葉を残し、すぐ後でその意味を書いています。なぜ、イエス様はこのような言葉を発したのでしょうか。4つの福音書にはイエス様が十字架上で発した7つの言葉が納められています。ところが、マタイはこれ1つしか残しませんでした。それにしても「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」とは不可解な言葉です。なぜなら、イエス様はこれまでご自分の死を弟子たちに何度も予告していたからです。『イエス伝』を書いている聖書学者ジェームス・ストーカーは、「聖書中どこを捜してもこれほど解釈に困難な箇所はない」と言っています。また、J.Cライルは「これらのことばの中には、深いミステリーがあり、普通の人間には測り知ることができない」と言っています。内村鑑三師は「イエスは十字架上で、以前からそらんじていた詩篇22篇のみことばを口に出していたのではないか」と解釈しています。確かに、詩篇22:1「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」という言葉があります。不思議なことに22篇の前半は福音書では分からない、十字架の苦しみが生々しく描写されています。ところが、後半は賛美と確信のことばが語られています。たとえば、詩篇2227 「地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。」とあります。もし、イエス様がその詩篇22篇を十字架上で引用していたならば、苦しみの中で、すでに勝利を確信していたということになります。イエス様のご生涯は預言の成就と関係がありますから、内村先生の解釈も正しいと思います。

今度は、この言葉の中身に入りたいと思います。聖書ではイエス様は神様を「父よ」と呼んでおり、他では一度も「神」とは呼んだことがありません。「神」とは御子イエス様にとっては、まことによそよそしい呼び方です。なぜでしょう。それは、ゲツセマネで恐れていたことが、ここで起こったからです。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた」とあります。この時、まさしく、イエス様が全人類の罪を負われ、罪そのものとなって、神から捨てられたのです。イエス様は永遠の昔から御父と1つでした。この地上に肉体をとってきたときも、その親しい交わりは1秒たりとも途絶えたことはありませんでした。ところが、イエス様が罪を負ったがゆえに、罪が御父とイエス様を引き裂き、イエス様は地獄に投げ落とされたのです。そのため、イエス様は「父よ」と呼べなくなってしまったのです。私たちは罪の中に生れ、罪の中で育ったので、神様から離れることの苦しみや孤独は分かりません。しかし、一度も離れたことのない御子イエス様にとって、父なる神から捨てられることが、最も苦しく、最も暗い孤独でありました。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」は、本来、罪人が地獄で叫ぶ叫びです。それを、イエス様がなさって下さったのです。歴史上、石打の刑とか火あぶりの刑などイエス様よりもむごい殺され方をした殉教者たちは多くいるでしょう。しかし、イエス様だけが、全人類でたった一人、神から捨てられ、地獄に落とされたのです。

また、もう1つどうしても十字架で語らなければならない重要なことは、イエス様の上に神の怒りが下ったということです。神様は聖なるお方ですから、1片の罪も赦すことができません。もし、「良いよ、良いよ」と、簡単に罪を赦したなら、神さまでなくなります。広島の植竹牧師が、『十字架のキリスト』という本の中でこのようにおっしゃっています。4世紀の神学者アウグスティヌスは「罪とは、赦してはならないもののことである」と定義しました。罪は、絶対赦してはならないものなのです。ですから、ただで罪を赦すと大問題になります。裁判官が勝手に凶悪犯をゆるせば、つるし上げを食うでしょう。簡単に罪をゆるせば世の中に混乱が起こります。法律は役立たなくなり、無法の社会になるでしょう。同じように聖なる神様はただでは、人類の罪を赦すことはできないのです。一方、神様は罪ある人類を愛しています。しかし、ただで罪ある人を赦していたら、神ご自身の義と聖は失われます。それではどうしたらこの矛盾が解かれるのでしょうか。父なる神様は、ひとり子イエスをこの世に遣わし、十字架につけるという痛ましい手続きによって人の罪を赦したのです。つまり、御子イエスに全人類の罪を負わせ、御子イエスを罰したのです。Ⅰヨハネ4:10「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。「なだめ」と言うと、異教的な響きがありますがそうではありません。神の罪に対する聖なる怒りが、御子の上に下されたのです。その結果、神の義が満たされたので、キリスト以降は神様の罪人に対する怒りがなだめられたのです。

Ⅱコリント5章の終りには「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ…神が私たちを通して懇願しておられるようです」と書かれています。つまり、神様が「キリストにあって、もう、あなたの罪はさばかない」とおっしゃっているのです。むしろ、あの放蕩息子の父のように、罪人が立ち返るように、手を差し延べて待っておられるのです。でも、「和解」には二段階あります。第一段階は、神様の方から全人類に和解の手が伸べられているということです。しかし、それだけでは人は救われません。第二段階は、私たちがキリストによってもたらされた「和解」を受け入れるかどうかです。人間に残された唯一の条件は「罪を負ってくださったキリストをどうするか」であります。「罪をどうするかではありません」、罪の問題はキリストの十字架で解決済みだからです。このお方を救い主として信じるときに、神との完全な和解が成立するのです。キリストが十字架で死なれてから、神様の人類に対する見方、そしてさばき方が変わったのです。やがて、だれでも神様の前に立つ時がきます。そのとき、神様はその人が犯した個々の罪でさばくのではありません。キリストの和解を受け入れたか、受け入れなかったかで裁くのです。御子を信じないで、神の愛を退ける、それがもっとも大きな罪なのです。罪の問題は二千年前、イエス・キリストが十字架で呪われ、罪そのものとなり、罰を受けられ解決されました。もう、神様は私たちを怒ってはおられません。罪は解決済みです。必要なのは、キリストを通して、父なる神のみもとに立ち返ることです。難しいことではありません。これが福音、喜びの訪れなのです。万物の支配者なる神様が懇願しておられます。父なる神さまは「お願いです。十字架を無駄にしないで信じて下さい。救われて下さい」と懇願しているのです。


2.イエスの贖い

 マタイ27:50 「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた」。おそらく、ヨハネ1930に記されている「完了した」という叫びでしょう。「完了した」は、ギリシャ語でテテレスタイという言葉で、「完済した、すべてを支払った」という意味です。つまり、イエス様がご自身の血によって、全人類の罪の負債を全部支払ったということです。イエス様が息を引き取られた直後、不思議なことが起こりました。マタイ2751-52「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出てきて、聖都に入って多くの人に現われた」。ジョン・ウィンバー師が『力の伝道』という本の中でこのように解説しています。「力の対決」がどのようなものであるかを理解するために、1つの自然現象を対比させましょう。温暖前線と寒冷前線が衝突するとき、気象が荒れることを私たちは知っています。雷が起こり、雨や雹が降り、竜巻やハリケーンが発生することもあります。二つの前線がぶつかるとき、そこに大きな力が解放されるのです。何が起こるかは、複雑で予想がつかず、コントロールすることは困難です。最もいい例はキリストの十字架でしょう。十字架において、私たちの罪を赦すために、永遠の犠牲が捧げられました。それによって、私たちの肉が、この世が、そして悪魔が完全な敗北を喫したのです。その日、絶大なる力が解放されました。全地が揺り動かされました。地は揺らぎ、岩々は崩れ、太陽は三時間暗くなり、神殿の幕はまっぷたつに裂けました。そればかりか、墓が開いて聖人たちがよみがえりました。キリストの死によって命が放出されたのです。またそれは、悪の支配のもとにあった天地万物を揺さぶりました。二つの前線、二つの王国、二つの組織が、頭からぶつかったのです。そして、復活と昇天によってキリストは勝利者となり、サタンは敗北者になりました(引用終わり)。アーメン。

創世記3章に「女のすえが、サタンの頭を踏み砕く」と預言されています。イエス様は十字架の死によって、サタンの頭を打ち砕いたのです。悪魔・サタンは何を持っていたのでしょう。アダムが神に逆らい堕落して以来、サタンは罪と死の力を持っていました。その最も根本的な原因である罪をイエス様が解決されたので、サタンは武装を解除されました。それまで、陰府に死んだ人の魂を自分のものとして抱えてきました。しかし、イエス様が十字架でサタンの頭をガツンと踏み砕いたのです。そのとき、サタンは「う、やられた」とばかり、陰府の魂の一部を吐き出してしまったのです。だから、52節にあるような復活が起きたのです。それまでの、バランスが崩れたのです。もっと言うと霊界に異変が生じたのです。十字架は敗北ではなく勝利なのです。

次に「神殿の幕が上から下に真二つに裂けた」ということを取り上げたいと思います。イエス様が、息を引き取られた直後、聖所と至聖所を仕切る、ぶ厚い隔ての幕が上から引き裂かれました。上からということは、人間がしたことではなく、神様がなさったことです。ヘブル人への手紙にその答えがしるされています。旧約の大祭司は年に一度、贖罪の日、きよい動物の血をたずさえて、至聖所に入りました。しかし、世の終り、主イエス・キリストが真の大祭司になられ、動物ではなく、ご自身の体をささげられました。キリストは1つの、そして永遠のささげ物をささげられたのです。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近付こうではありませんか」。ヘブル10:19 「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」。旧約においては、動物の流された血により、定められた祭司しか入ることができませんでした。他の人が勝手に入ったら、即座に神に打たれて死んでしまいます。ところが、イエス様の十字架以降はどうでしょう?隔ての幕が引き裂かれ、聖所と至聖所の区別がなくなりました。新約においては、キリストの血によってだれでも、父なる神様の所に近付くことができるようになりました。ローマ8章には「アバ、父よ、と呼ぶ霊を与えた」と書いてあります。「アバ」とはイスラエルの国で、よちよち歩く幼子が、「アバ、アバ」とお父さんを呼ぶ呼び方だそうです。日本語で言うなら「パパ」「お父さん」、時代劇なら「ちゃーん」であります。幼子は鼻やヨダレをたらしています。あごのあたりが、ベトベトなんです。「天のお父様」と呼んだら受け入れてくださいます。私たちは罪に汚れていても、神様の御座に行けるのです。

でも、私たちが神様に近付く時にどうしても感じるのは、自分の罪汚れです。「私は罪深い、汚れている」、「あの罪、あの咎がどうもきよめられていない」とか、罪責感を覚えるかもしれません。そのような罪責感をヘブル人への手紙は、「邪悪な良心」と言っています。この良心は「神さまが赦す」とおっしゃっているのに、「いや、私は自分を赦さない」と言っているのです。私たちが神さまよりも偉いのでしょうか?絶対者なる神さまが「御子イエスにあってすべての罪を赦す」と宣言しておられるのに、どうして自分を赦すことができないのでしょう?それは「邪悪な良心」であり、訴える悪魔がそこにくっついているのです。私たちは良心をきよめられる必要があります。ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」私たちの良心に、キリストの血の注ぎを受けましょう。ヘブルの手紙のように「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。


3.イエスの埋葬

 マタイ2754-66まで、イエス様の死と埋葬について記されています。本来なら、第二ポイントントの「イエス様の贖い」で終わるとメッセージ的に「盛り上がり」があります。しかし、イエス様の埋葬まで語ると、「盛り下がり」、しょんぼりして帰らなければなりません。でも、今週は受難週なので、復活の序章(プロローグ)のためには、イエス様の埋葬についても語らなければなりません。ところで、「埋葬」とはどういう意味でしょうか?埋葬とは「完全に死んだ」という意味であり、いわば人生の終止符です。イエス様は完全に死んだのです。気を失っていたのか、仮死状態ではなく完全に死んだのです。このことがなければ、復活の意義がなくなるでしょう。そばで見ていた、ローマの百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と言いました。彼は十字架刑のプロだったので、イエス様が完全に死なれたということを確認していました。ヨハネによる福音書にはローマ兵がイエス様の脇腹を槍で突き刺したと書かれています。すると、血と水が出てきました。その意味は、イエス様は心臓が破裂して死んだということです。ヨハネは「それを目撃したものがあかしをしている。このあかしは真実である」(ヨハネ1935と言っています。それは、イエス様が完全に死んだという意味です。

 そのとき、アリマタヤの金持ちで、ヨセフという人が名乗り出て、イエス様の死体を引き取りました。ヨハネ福音書にはニコデモも加わったと書かれています。この二人はサンヒドリンの議員であり、隠れキリシタンでした。でも、最後に勇気を出して、ピラトにイエス様の体の引き渡しを願い出たのです。アリマタヤのヨセフは自分が持っていた、だれも入ったことがない新しい墓を提供しました。イエス様のために使った没薬はなんと30キロであり、旧約のアサ王の埋葬のときと同じ量だったと言われています。十字架刑で死んだ囚人には全くふさわしくないような方法で、イエス様の死体が取り扱われました。イエス様は犯罪人と一緒に十字架にかかりましたが、死においては金持ちと一緒でありました。イザヤ書53:9「彼は富む者とともに葬られた」と預言されているとおりです。ガリラヤの古顔の弟子たちではなく、隠れていた、いわば裏の弟子たちがイエス様の埋葬をしたのです。「いざ、鎌倉」という言葉が日本にありますが、勇気を出して表に出てきた、立場のある人たちがいたということです。そして、自分たちが持っていた良きものをイエス様にささげました。このようにイエス様は死んで葬られました。それは私たちと同じように死なれたということです。しかし、それは復活のための序章であったことを忘れてはいけません。ヘブル214-15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」ヘブルの記者は、肉体を持っている私たちを救うために、ご自身も同じように死んで、死の力を持つ悪魔を滅ぼしたんだと述べています。

 しかし、重要なことはイエス様の肉体は死にましたが、魂はそうでなかったということです。 Ⅰペテロ318-19「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」イエス様の霊()は、陰府に下って、みことばを語られました。さらに、Ⅰペテロ46「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」と書かれています。この所は死後も救われるチャンスがあるのか、とキリスト教会でも物議をかもすところです。ペテロ第一の手紙から、イエス様の肉体は死んでも、霊においては陰府の深みまで降りて行かれたということが分かります。詩篇には度々、陰府の底にいた人にも救いに御手が延べられているみことばがあります。詩篇16:10 「まことに、あなたは、私の魂を陰府に捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません」これは、イエス様の復活の預言でもあります。詩篇30:3「主よ。あなたは私の魂を陰府から引上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました」。詩篇139:8 「私が陰府に床を設けても、そこにあなたはおられます」。これは、イエス様の恵みが、陰府の底までもあるということです。死んで陰府に下った人間は、自分を引き上げることも、他者を引き上げることもできません。しかし、イエス様は陰府にまで下られ、よみがえって下さったのです。イエス様は神様であり、どん底にいる人でも救って下さるという約束です。神学的にはキリストがよみがえられたとき、陰府の一部を携え上げられ、そこをパラダイスにされました。ですから、私たちクリスチャンは死んだら、陰府に下るのではなく、パラダイスに引き上げられるのです。やがて世の終わり、肉体が復活するときにまで、私たちの魂はパラダイスで待つのです。

 私たちも主の再臨が来なければ、この肉体は死ぬことになります。イエス様も「我が霊を御手にゆだねます」と息を引き取られました。そのようにイエス様が死を味わってくれたのですから、死は恐ろしいものではありません。私たちの魂は即座に天に引き上げられるからです。でも、イエス様が私たちと同じように肉体的に死なれ、墓に葬られたということは大いなる慰めです。イエス様は父なる神さまにすべてをゆだねました。同じように、私たちの肉体も死んで眠ります。でも、父なる神さまはイエス様をよみがえらせて下さいました。私たちも死んでも、神さまがよみがえらせて下さると信じます。眠るということは、いつか目覚めるということですから。

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