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2018年3月 9日 (金)

十字架につけろ マタイ27:11-25 2018.3.11亀有教会牧師鈴木靖尋

 私たちはイエス様に出会うとき、信じない人は3種類のいずれかになってしまいます。祭司長と民の長老はイエス様を抹殺しようとしました。意識的にイエス様を信じないというタイプです。ピラトは無関心を決め込んでいました。あまり近よらない、決断しようとしない人たちです。そして、群衆は祭司長と民の長老に扇動されて、イエス様を「十字架につけろ!」と叫びました。これは専門家の意見や考えを聞いて、自分では考えないというタイプです。

1.祭司長と民の長老

 マタイ271-2「さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。」彼らは夜が明けると形だけの裁判をしました。真夜中の裁判では、イエス様が自分を神であるしたという冒瀆罪で死刑に定めました。朝、再び集まったのは、ローマ総督に対してどのような罪状を突きつけるか協議したのです。なぜなら、当時はローマに支配されていましたので、死刑を執行することができませんでした。そのため、祭司長、民の長老たちは「イエスはカイザルに背く者、騒乱罪」として罪状をすり替えたのです。ピラトは「彼らはねたみからイエスを引き渡したことを」知りました。宗教の指導者は十戒の9番目の「偽証をたててはならない」と6番目の「殺してはならない」という重要な戒めを平気で破ったのです。とにかく、「イエスを殺さなければ、枕を高くして眠れない」という思いからでしょう。祭司長、民の長老たちから訴えがなされてもイエス様は何も答えませんでした(マタイ2712)。ピラトはイエス様に「あんなに色々とあなたに不利な証言をしているのに聞こえないのですか」と言いました。イエス様は「こんな人たちを相手にしても始まらない」とばかり、高いところにいました。私たちは何か言われると、どうしても「そうじゃない」と反論してしまいます。そうすると相手のレベルまで自分が落ちることになり、らちがあきません。何を言われても、イエス様のように高尚な態度でいたいと思います。

 さて、イエス様に対する態度というのはどういうものでしょうか?彼らは「イエスがメシヤであっても決して信じない」と決めていました。なぜなら、自分たちの生活を変えて、イエス様にひれ伏さなければならないからです。彼らは地位や名誉があり、人々から尊敬を受けていました。もし、「イエスがメシヤである」と信じたら、面目丸つぶれです。「ナザレから急に出てきた青二才がなぜメシヤなんだ。俺たちは聖書やラビたちの教えを持っているんだ」というプライドがありました。イエス様を信じるとは、プライドを捨てて、イエス様の前にぬかずくということです。私たち人間は、イエス様の前に立つと、2つに1つしか選べません。「イエスは主です。神です」と認めてぬかずくか、「お前はペテン師だ。お前なんか信じない」と唾をかけるかどちらかです。祭司長、民の長老たちは聖書からイエスがキリストであることを知っていました。でも、妬みのゆえに認めなくなかったのです。そのため、イエス様を抹殺しようと考えました。とても目障りな存在だったからです。ところで、イエス様を信じていなくても教会に来ることはできます。ゴスペル・クワイアや礼拝に出席することはだれでも可能です。私たちはそういう人たちを「求道者」と呼んでいます。「未信者」と呼ぶ教会もありますが、なんだか差別するようでイヤです。でも中には、求道していない人もおられるかもしれません。音楽や良い話を聞いたり、友達を作るために来る人もおられます。大和カルバリーでは、そういう方が毎日曜日、たくさん集っています。それだけ裾野が広いということなのかしれません。しかし、そういう人であっても、「イエスはキリストなのか?」と提示される時が来ます。別に人が言ったわけではなく、聖霊がその人の心に迫るのです。そうすると、「信じるか、信じないか」決断をしなければなりません。来るたびごとに、心が痛んで苦しくなり、やがては来なくなる人もいます。

 でも、ある人たちは「私はキリスト信じない」と決めて、教会に来られている人もいるでしょう。まさしく、そういう人は祭司長、民の長老たちのように、イエス様を心の中で抹殺しているわけです。「もう感じない、考えない、聞き流すしかない」ということです。それだったら来るのを辞めれば良いように思いますが、それもできない。当教会の良いところは、「しつこく迫らない」ということです。ま、泳がしておくということです。でも、個人伝道の賜物のある兄姉は、ついつい迫って行きます。それで信じる人もおれば、教会に来なくなる人もいます。私は職場の先輩がクリスチャンだったので、朝、昼、晩、社長がいないときに福音を語られました。きわめつけは、1979415日のイースターです。先輩が私のアパートに訪ねてきて、9時間も延々と話すんです。夜の9時半「じゃ、信じるよ」と言って救われました。朝起きたら、アパートの生垣が輝いて見えました。しかし、後日談があります。私は彼女と親友に、福音を熱心に語りました。反発を喰らって、二人は去って行きました。英語でdecision ということばがあります。これは決断するという意味です。しかし、decisionは一方を選んだら、他方は殺すという強い意味がありあます。たとえば、ここに牛乳とコーラーがあるとします。牛乳を飲むなら、コーラーは飲みません。「いや。牛乳とコーラーと混ぜて飲みます」という人はまずいません。生かすか、殺すか、生殺与奪そのものです。

使徒信条という告白文があります。「イエスは…天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死にたるものを裁きたまわん」とあります。その当時のイエス様は人間と同じ大きさで簡単に拒絶することもできました。祭司長、民の長老たちは「こんな人間イエス、怖くないぞ」と死に渡しました。でも、それが逆転するときがきます。こんど私たちが裁判官であるイエス様の前に立たなければなりません。あのときは謙遜なお姿で、うとんじても大丈夫だったかもしれません。でも、世の終わりはそういう訳にいきません。どうぞ、この地上において、イエス様が謙遜なお姿のときに、神さまと和解しましょう。イエス様は無理強いしません。でも、ある人たちは愛する余り無理強いするかもしれません。でも、それはあなたを裁くためではなくて、「何とかあなたもイエス様を信じて救われていただきたい」という愛なのです。キリストの愛が私たちに強く迫っているので、そうならざるを得ないのです。

2.総督ピラト

 総督ピラトの特徴は何でしょうか?無関係、無関心と言うことができます。後で彼は手を洗ってこのように言いました。マタイ2724「そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」手を洗うとは、「自分には関係がない」ということを示す行為です。その前に、ピラトはイエス様を何とか赦そうと努力しました。彼らがねたみからイエス様を引き渡していたことを知っていたからです。でも、彼の妻が悪い夢を見たというのです。「あの正しい人には関わり合わないでください。夕べ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いました」と人を介して言わせました。どんな夢でしょう?たぶん、イエス様の肩を持つということは、カイザルに背く行為であり、何等かの迫害を受けるということでしょうか?ピラトも自己保身でありますが、彼の妻も自己保身でありました。目の前にキリストがいらっしゃるのに、関わることをしなかったのです。ヨハネ18章にはピラトとイエス様の問答が記されています。イエス様が「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」と言われました。ピラトは「真理とは何です」と、イエスに言いました(ヨハネ1837-38)。ピラトが「真理とは何ですか?」と聞きました。ここでは裁判官がピラトではなく、イエス様に逆転しています。ピラトはイエス様の前に立ちました。本来なら、「あなたこそ真理です」と跪くべきでした。ところがピラトは「真理とは何です?」とはぐらかしたのであります。目の前に、真理そのものであるイエス様がいるに、無関心を装っていました。

 イエス様を信じるか、信じないかという決断に迫られたとき、「無関心」も可能なのでしょうか?聞こえないふりをする。あるいは、「何のことなのかさっぱり分かりません」ととぼけるのも有ります。かなり前ですが、遠田姉の友達が教会に誘われたことがあります。彼女はとても外交的で、明るく多くの友人を持っていました。岩本姉も友人の一人でした。その当時は、コンサートとかいろんなイベントを開いていました。その姉妹が、コンサートには来ますが、「あまり、私に関わらないでください」と言いました。なぜかと言うと、「人間関係ができてしまうと、断りきれないからだ」と言うことでしょう。日本人というのはNoというのはとても勇気がいります。ですから、決断する前に、行かないようにするということです。私も電話のセールスでとても弱く、ついつい話を聞いてしまいます。コピー機とか電話会社がそうであります。新聞の勧誘もすぐ断ることができません。その点、私の家内は毅然としており、「いいえ、結構です」ときっぱり断ります。私も最近は家内に真似て、話を聞かないうちに断ることにしています。でも、「そういう彼女が私との結婚をよく承諾したものだなー」と思います。「いいえ、結構です」とは言いませんでした。ハレルヤ!ひとえに、神さまのお導きだなーと思います。ところで、ルカ16章には金持ちと貧乏人ラザロの物語が出てきます。金持ちはいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。一方、ラザロは全身おできで、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。金持ちは神さまにも無関心、この貧乏人ラザロにも無関心でした。おそらく、ラザロは貧しいながらも神さまを礼拝していたのでしょう。だから、名前が憶えられていたのです。ところが、金持ちは陰府に下り、炎の中で苦しんでいました。彼は「アブラハムのふところにいだかれている、ラザロを遣わして、指先を水に浸して、私の舌を冷やすようにしてください」お願いしました。アブラハムは「子よ。思い出してみなさい。お前は生きている間、良い物を受け、ラザロは悪いものを受けていました。しかし、今、ここで彼は慰められ、お前は苦しみもだえているのです」と言いました。ここから分かることは、陰府とは神さまから見放されているところと言うことができます。彼が生前、神さまに無関心だったので、そのような陰府に落とされたのです。とっても厳粛な思いがします。やはり、生きているうちに神さまとコネクションを持たなければなりません。そうすれば、永遠の御住まいに迎えてくれるでしょう。

 先ほども使徒信条を引用しましたが、ある教会では毎日これを唱えています。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と告白します。何と言う不名誉でしょう。ポンテオ・ピラトはイエス様を十字架につけたのではありません。どちらかと言うと、イエス様を救いたかったのです。そのため祭りの恩赦のために、「バラバかイエスか?選べ」と提案しました。しかし、その妥協案はかえって悪くなりました。手の下しようがなく、暴動になるところでした。私たちは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と彼の名前を上げます。ピラトがこれを聞いたなら、不名誉ことであり、煮え切らない思いをするでしょう?これが決断をしないで、無関心を装っていた末路です。

朝鮮動乱の頃このようなことがあったそうです。奥さんは熱心なクリスチャンでした。しかし、ご主人は奥さんが教会に熱心になればなるほど、奥さんを迫害しました。ご主人が奥さんを酒の酔いにまかせて、なぐったり蹴ったりしました。すると、奥さんは「主よ。みもとに近付かん」と泣きながら讃美します。日曜日、教会から帰ってくるたびに、奥さんを殴ります。すると、奥さんは「主よ。みもとに近付かん」と、また泣いて讃美します。そういうことが続きました。ある時、ご主人は北朝鮮の兵士として出兵しました。ところが、ご主人が属している部隊が全滅し、捕らえられた兵士たちが並べられ、今、銃殺刑にされようとしていました。「ちょっと待て」と、アメリカ兵の隊長が言いました。「この中にクリスチャンはおるか。もし、クリスチャンがいたら助けてあげる」と。すると、かの婦人のご主人がハイハイ!と手をあげました。隊長は「そうか、クリスチャンだったら讃美歌ぐらい知っているだろう。讃美歌を歌って証拠を見せなさい」と言いました。その男は教会など1度も行ったことがなく、1瞬、家内がよく歌っていたあの歌を思いだしました。「主よーみもとに近付かん」先がわからないけど、どうせ朝鮮語だからいいやと「その先わかないけど、助かりたい。なんとか主よ、助かりたい。なんでもいいから助かりたい」。それで、その男は助かり、あとから熱心なクリスチャンになったそうです。天国の場合は、讃美歌を知っているくらいじゃだめですが、イエス様と個人的に関わりを持つということが重要です。

3.群衆

 最後に群衆です。彼らは祭司長や長老たちに扇動されて「イエスを十字架につけろ!」と叫びました。せっかく、ピラトが「バラバとイエス、どちらを釈放してほしいのか」と助け舟を出したのに、聞く耳持たないという状況です。バラバは死刑になるような犯罪人です。なのに、「バラバを釈放し、イエスを十字架につけろ!」と叫びました。彼らは「一斉に言いました」。ピラトは「あの人がどんな悪いことをしたと言うのか」と問いました。なのに、彼らはますます、激しく「十字架につけろ!」と叫びました。ピラトは自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、手を洗いながら「この人の血について、私は責任がない」と言いました。すると、民衆は「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と言いました。ユダヤ人たちは、自ら呪いを受けることを選びました。ありえないことです。イエス様は十字架で「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないからです」(ルカ2334と祈られました。つい一週間前までは「ダビデの子にホサナ」とイエス様を歓迎した同じ人たちです。これが群衆です。群衆の特徴は、深く考えないということです。だれか権威ある人の言ったことを鵜呑みにします。群衆は「祭司長や長老たちに権威がある」と考えていました。ひとり一人、ちゃんと考えないということはとても恐ろしいことです。インターネットに「信用できると思う評論家トップ5」が載っていました。上位から池上彰、森永卓郎、尾木直樹、宮崎哲弥、マツコ・デラックスでした。知識が豊富で歯切れのよいコメントをするからでしょう。この世の人たちは聖書について知りたいならミッション・スクールの大学教授を招くでしょう。専門家が言うと「ああ、そうなのか」と鵜呑みにするでしょう。でも、当時の祭司長や長老たちというのは、そういう大学教授であります。残念ながら、専門家がイエス様を十字架につけたのです。

 キリスト教は、いわば啓示の宗教です。いくら知識が豊富でも、上から解き明かしてもらわないと分かりません。パウロはⅠコリントでこう述べてます。Ⅰコリント120-21「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」アーメン。私がこの説教を準備したときは熱が38.2あって、頭ががんがんしていました。でも、神さまが私のような者にみことばを語るように召しておられることに震えが来ました。寒気と震えと一緒でした。そうです。聖霊様が開示してくださらなければ、聖書は単なる道徳書です。上から示されるときはじめてメッセージをすることができるのです。「もったいない。有り難いことだなー」と感動しました。でも、この時の群衆は完全に狂っています。聞く耳持たないという感じです。かつてイエス様は「人々は私を何と言う」と弟子たちに聞かれました。彼らは「バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤだとか、他の預言者のひとりだとも言っている」と答えました。イエス様は「あなたがたは私をだれと言うか」と聞かれました。ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。イエス様は大変喜ばれ、「あなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいます私の父です」と言われました。言い換えると、神の霊、聖霊によって告白できたのです。ですから、神の霊、聖霊をシャットアウトするなら、悟りのない動物と同じです。群衆は完全に狂っています。おそらく、そこにはサタンも加勢しているのではないかと思います。彼らの振る舞いは尋常ではないからです。

 私たちは教会に多くの人々が来ることを願います。「アフリカのように何万人、何十万人も集まったらどんなにすばらしいか。それこそリバイバルだ」と思います。しかし、そこに落とし穴もあることも確かです。群衆は一人ひとりがイエス様につながっていません。だから、何かあるとすぐ散らされてしまうのです。私も朝、散歩をしますが、中川の上にカモメが浮いています。一羽が飛ぶと、他の鳥も一斉に飛びます。それは群れを守るための本能かもしれません。でも、私たちは烏合の衆になってはいけません。群衆はいわばイエス様のフアンです。牧師のファンもいるかもしれません。でも、ファンは何かあるとさっと去って行きます。スポーツ界でも調子が良い時は、ファンになりますが、調子が悪くなるとさっと去って行きます。人数が多く集まることは確かに魅力があります。でも、一人ひとりがイエス様につながっているか?イエス様に命を投げ出しているかであります。聖書を見ると数の多さは問題ではありません。そこに神の人がいるかどうかです。神さまがエリヤやエリシャを用いられたのはそのためです。数の多さは1つの魅力です。でも、群衆ではなくひとり一人イエス様につながったクリスチャンを作るべきです。

 祭司長や長老たちは、イエス様をあえて信じようとしませんでした。ピラトは無関心を装いました。群衆は祭司長や長老たちから扇動されて「十字架につけろ!」と叫びました。これはすべては人間の罪です。このような形で十字架に渡されたイエス様がなぜ、救い主なのか難しいです。パウロは「イエス様が私たちの罪を贖うために十字架で死なれた」と言っています。生まれつきの人間は、「イエスを必要としない。イエスなんかいない方が幸せなんだ」と考えるでしょう。その罪がイエス様を十字架につけたのです。ということは、神から離れている人間は、消極的にも積極的にも、イエス様を十字架に渡しているということです。クリスチャンとはどういう人たちでしょうか?もちろん、イエス様を救い主として信じた人たちです。でも、その前、神さまに降参するというステップがあるのではいでしょうか?「どうせ、このままの人生だったら、たかが知れている。もし、イエスとやらが神さまであるなら賭けてみようか」。そして、その人は神さまに降参するのです。信じない人というのは、神さまに降参しない人です。信じるためには、どうしても神さまに降参しなければなりません。降参は英語でsurrenderと言います。「主よささぐ、われささぐ」という賛美があります。元の歌はI surrender allであります。あなたはイエス様を信じたくないので、イエス様十字架につける人でしょうか?それとも、降参してイエス様を信じる人でしょうか?イエス様は「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ1039と言われました。ここに偉大な逆説があります。自分の命を捨てると、神さまから本当の命が与えられるのです。

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