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2018年2月23日 (金)

ペテロの裏切り マタイ26:69-75 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.2.25

 ユダはキリストを裏切った弟子として有名です。でも、ペテロもイエス様を裏切った弟子の一人です。なぜなら、イエス様を3度も知らないと否んだからです。イエス様はかつて、「人の前で私を知らないというような者なら、私も天におられる私の父の前で、そんな者は知らないと言う」(マタイ1033とおっしゃったことがあります。ペテロは自分こそはイエス様の一番弟子だと自負していたことでしょう。ところが、イエス様が捕えられたとき、自分の命を惜しんで、「イエスなんか知らない」と言ってしまいました。

1.ペテロへの誘惑

 ペテロは、一度は逃げました。でも、「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と豪語していました(マタイ2633。そう言った手前、ペテロは戻って来ました。マタイ2657-58「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。」周りが暗かったせいもあり、ペテロは自分の素姓を隠して中庭に入りました。中庭の真ん中には焚火がたかれ、さきほどイエス様をとらえた下役どもが火にあたっていました。ペテロは、何食わぬ顔をして、周りの人たちに加わりました。何という危険な状況でしょうか。イエス様を捕えた敵たちの真ん中に、弟子のペテロがいたのです。詩篇11「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」とあります。ペテロは、詩篇のみことばに反して、罪人の道に立ち、あざける者たちの座に着いていました。誘惑に勝利する一番良い方法とは何でしょう?それは誘惑に近づかないということです。誘惑と真正面から戦って勝てる人はいません。「君子危うきに近寄らず」、「逃げるが勝ち」とあります。でも、ペテロは遠くに逃げるのでもなく、身分を隠してその場にいました。それは、とても危険な状態でした。クリスチャンも、「自分がクリスチャンである」と言えない場所には近づかないことです。私はアリオの映画館ぐらいには行きますが、遊技場とか競輪・競馬には行きません。「先生、赤ペンを耳にはさんで、北松戸で降りたところを見ましたよ」ということはまずありません。秋葉原に行くときはありますが、パソコン店だけです。怪しげなカフェには絶対立ち寄りません。誘惑に勝利する一番の方法は、誘惑になるようなものに近づかないということです。

 何と、この誘惑は誰でもない、サタンがセットした舞台装置でした。ペテロはそのセットにはまってしまいました。ルカ福音書に書いてありますが、かつてイエス様はこのようにペテロに告げていました。ルカ2231「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」サタンが神さまに弟子たちをふるいにかけることを願いました。何とそれが聞き届けられたというのです。ヨブ記にも同じような記事があります。サタンが主なる神さまのところへ行き、「しかし、あなたの手を伸べ、ヨブのすべての持ち物を打ってください。ヨブはきっと、あなたに向かってのろうに違いありません」と進言しました。すると、主は「では、彼のすべての持ち物をお前の手に任せよう」と言われました。同じように、サタンは神さまの許しを得て、ペテロを誘惑したのです。その誘惑の仕方(策略)はとても巧妙でした。サタンは、男性ではなく女性を用いました。聖書には「女中のひとり」とありますが、原文は「若い女奴隷、若いメイドさん」です。ペテロは油断しました。もし、公の場で「あなたはあの人の弟子ですか」と聞かれたら、「その通りです」と命を駆けて答えたでしょう。でも、薄暗い中庭の焚火のそばで座っていた時、若いメイドさんから何気なく聞かれました。「あなたも、ガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」。彼女は「一緒にいましたね」と単純に聞いただけです。70節、しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。ペテロは真正面から否定してはいません。「何を言っているのか、意味がわからない」と言ったのです。ペテロはその場を去ろうとして、出口まで向かいました。でも、もう一人の女中が、彼を見て、そこにいる人々に言いました。「この人はナザレ人イエスと一緒でした」(マタイ2671)。72節、それで、ペテロは、またそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。打ち消して、誓ったのですから、もっと強い否定になりました。ああ、何ということでしょう。ペテロは出るに出られず、焚火にまた戻されてしまいました。女中さんA、焚火から出口へ、女中さんB、出口から焚火へ。ピン・ボールのように弾き飛ばされました。73節、しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。3度目はもっと強烈で「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓いました。「毒を食らわば、皿までも」であります。

 聖書で「3」は完全数です。3度もイエス様を知らないと否んだのですから、完全に否んだということです。ペテロは、サタンが仕掛けた舞台装置に完全にはまって敗北しました。鶏が鳴いて、カーテンが降りました。スポットライトの下で、イエス様の言われたことを思い出したペテロは、激しく泣きました。ペテロはなぜ、誘惑に負けたのでしょう?いくつかの原因があげられます。第一は、祈って備えていなかったということです。イエス様はゲツセマネの園で「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」(マタイ2641と命じていました。ところが、ペテロたちは目を開けていることができず、眠ってしまいました。イエス様はゲツセマネの園で十字架にかかる覚悟を決めていました。ところが、ペテロはそうではありませんでした。第二は、自分の弱さに気づいていなかったということです。イエス様が「あなたは私を三度知らないと言うよ」と予告していました。しかし、ペテロは「たとえ死んでも、あなたを知らないと決して申しません」と言っていました。そう言った手前、ペテロは大祭司の中庭に様子を見に行きました。そして、敵たちの中に座ってしまいました。つまり、信仰の欠けた中途半端な状態に身を置いていたのです。だから、サタンが設定した誘惑の罠にはまったのです。第三は、詩篇11にあるように「あざける者の座についていた」ということです。マタイ769「ペテロが外の中庭に座っていると、女中のひとりが来て言った」と書いてあります。彼はキリストをとらえた敵たちの中に座っていたのです。まさに、ロックオンです。女中さんが近づいて声をかけました。しかも「ガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」と遠回しに告げました。サタンの台本通りに、役者たちが演じました。1度否定したら、2度、3度と、止まりません。最後にはペテロはのろいをかけて誓いました。サタンのシナリオ通りに、幕は閉じました。いくら「誘惑に合わないように」と注意しても、はまる時ははまるんだなーと思います。この世でも、いわれのない罪を着せられたりします。電車の中の痴漢とか、ハニートラップとかあります。立場のある人であればあるほど、そういう誘惑がセットされたりします。

 しかし、誘惑に会うこと自体は罪ではありません。イエス様も悪魔から誘惑を受けました。マルチン・ルターは「空の鳥が頭の上を飛ぶのは妨げることはできない。それは鳥の権利だから。でも、その鳥が頭の髪の毛で巣を作るのはやめさせることができる」と言いました。誘惑は私たちの頭上を飛び交います。ビジネスマンは、電車に乗っても、会社に行っても、どこでも会うでしょう。学生だっていろんな友達がいます。また、最近はネット社会なので面識もない人たちとネットでつながっています。年若い人は、そういう被害にあっています。主の祈りにあるように、私たちは「誘惑に会わせず、悪より救い出したまえ」と日々、祈る必要があります。聖書をみますと、みんな誘惑に負けています。アブラハムも子どもが生まれないので、サラの提案を受け入れて、イシュマエルを儲けてしまいました。サムソンは、神に聖別された人でしたが、女性に弱い人でした。ダビデは理想的な王様でしたが、バテシバに目がくらみました。ヒゼキヤ王は快気祝いに訪れたバビロンの使者に宝物蔵を全部見せてしまいました。どうして誘惑が訪れるのでしょう?神さまがそうしているのでしょうか?ヤコブ11316「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」自分の中に誘惑にひかれるような欲があるということです。ペテロにとってそれは、自分が一番弟子だというプライドだったかもしれません。結構、自分の強みだと思っている部分が、誘惑のターゲットになるということはよくあることです。なぜなら、弱い部分は慎重になりますが、自信のあるものは気がゆるんでしまいます。「大丈夫だ」と過信するからです。しかし、聖書の教えは処世術とか道徳倫理ではありません。だれでも、誘惑に合うことはあるということです。大切なのは、その時、神さまからの脱出の道も備えられているということを知るべきです。Ⅰコリント10:13「あなたがたの会った試練(誘惑)はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

2.ペテロへの御手

 ペテロはサタンの誘惑に負けてイエス様を三度も知らないと言ってしまいました。人々の前で、イエス様を知らないと言ったのですから、やがて天においてもイエス様から「あなたを知らない」と言われるでしょう。ペテロは我に返って、激しく泣きました。恩師を裏切ったこと、そして自分のふがいなさに泣いたのでしょう。ここで終わると、ユダと同じです。ユダもイエス様を売ったことを後で後悔し、「私は罪を犯した」と認めました。でも、ユダと違う点がいつくかあります。まず、イエス様はペテロに「あなたは私を三度知らないという」と前もって告げていました。同時に、イエス様は何とおっしゃっていたでしょう?ルカ2232「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様はユダには「そういう人は生まれなかった方が良かった」と言いました。しかし、ペテロのためには、彼の信仰がなくならないように祈りました。さらに彼が立ち直ったら、「兄弟たちを力づけるように」とまで言われました。このことばは預言であると同時に、ペテロへのordain聖定です。確かにペテロはサタンによってふるいにかけられます。ペテロは3度、私を知らないというでしょう。でも、それで終わらない。彼はやがて立ち直り、兄弟たちを力づける人になるんだということです。このことばのごとくペテロは初代教会のリーダーになります。ペンテコステの日、人々の前で大胆に説教し、一回で3,000人の人が救われました。ペテロにはリーダーシップという良い賜物が神さまから与えられていたのです。だから、イエス様はシモンと出会ったとき、「あなたはペテロ、岩である」とおっしゃったのです。シモンは風に揺らぐ葦という意味があります。確かにペテロは恐れのゆえに、イエス様を三度も知らないと否定しました。でも、その根底には、神さまが与えた岩のように大胆なペテロがあったのです。たとえ、一時的に誘惑に負けても、神さまの賜物と召命は失われることはないのです。

 でも、イエス様はあえてサタンの誘惑、つまりは試練の火を通す必要がありました。ペテロ自身が手紙の中でこのように言っています。Ⅰペテロ1:6-7「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」そうです。ペテロは試練という火の中で精錬されたのです。イエス様がサタンに許可したのは、ペテロを滅ぼすためではなく、精錬されて金よりも尊いものとなるためです。ペテロはイエス様の弟子たちの中ではリーダー的な存在でした。イエス様が「あなたがたは私を誰と言いますか」と聞いた時、ペテロが「あなたは生ける、神の御子、キリストです」と告白しました。その時、イエス様は大変喜ばれ、「あなたに天の御国の鍵を上げます」と言われました。また、夜の荒れた湖を歩いて来られる方がイエス様だと分かると、「私にそこへ行くように、命じてください」と願いました。大胆にもペテロは舟から降りて、数歩ではありますが水の上を歩いたのです。それからヨハネ6章で、イエス様は「私の肉を食べ、血を飲むものは永遠の命を持つ」と言われました。その時、多くの弟子たちが「こんなひどい言葉を聞いていられようか」と躓いて去って行きました。イエス様も弟子たちに「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と言われました。すると、ペテロは「主よ。私たちがだれの所へ行きましょう。あなたは、永遠のいのちをもっておられます。あなたは神の聖者であることを信じています」と答えました。このように福音書には、ペテロが大胆な信仰を持ち、熱心な弟子であることがわかります。イエス様が捕えられる直前も「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言っておりました。それは嘘ではなく、ペテロの本心であったと思います。ペテロはそうできると信じていたのです。

 では、イエス様はペテロの何を取り扱う必要があったのでしょうか?ペテロの自信過剰でしょうか?それとも、何でも主張したい自我でしょうか?あるいはシモンのようにすぐ揺らいでしまう弱さでしょうか。聖め派の教会では、「ペテロの古い自我が砕かれたんだ」と言います。私もその神学校に2年通っていたので「死ね、死ね」とよく言われました。でも、死ねませんでした。後から、自分で自分を殺すことはできないとわかりました。確かに、ペテロは自分の弱さを見せつけられ、古い自我が砕かれたと思います。だけど、砕かれっぱなしというのも辛いですね。聖め派は、砕かれることは強調しますが、再生されるほうが弱いです。砕かれた後は、ずっと謙遜でいなければならないのです。しかし、ペンテコステの日のペテロは、イエス様を三度も否定したペテロとは全く別人です。人々に「悔い改めなさい。曲がった時代から救われなさい」と大胆に説教しました。彼は試練の火を通過されて、不純物が取り除かれたのです。ペテロには一番弟子になりたいという自負心、野心がありました。彼の熱心は聖霊から来たものではなく肉でした。肉でもある程度まで行きます。人間には信念、自信、克己心、根性、生まれつきの才能があります。でも、肉はすべて古い人アダムから来たものです。この世において、スポーツとかあらゆるものは肉の力に源を置いています。人に負けたくない、悔しさをバネにする。自分の夢を叶える。トップに立つ。全然、問題ではありません。しかし、イエス様はヨハネ6章でこのように言われました。ヨハネ663「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」また、パウロもこのように言っています。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません。」そうです。ペテロは肉、つまり古い人に頼るということをやめさせられたのです。「自分の肉の熱心さ、肉の頑張り、肉の信念…これじゃ無理だ。これでは神さまに仕えることはできない」とわかったのです。ペテロは激しく泣きました。それは自分の弱さ、肉の不完全さに気付いたということです。

 これで終わりだと、悔いただけで、まだ再生まで言っていません。古い人に死んだなら、こんどは新しい人に生きる必要があります。ペテロには信仰的な大胆さ、さらにはリーダーシップという良いものがありました。だから、イエス様は「あなたはシモンではなく、ペテロです」とおっしゃったのです。多くの人はペテロの弱さとか、ペテロの自我、ペテロの自信過剰について注目します。しかし、ペテロには神さまからとてもよいものも与えられていたことを忘れてはいけません。では、どうすることによって、ペテロは初代教会の大使徒になることができたのでしょうか?簡単に言うと、それはエネルギーの転換です。彼の弟子としての人生を支えていたものは肉でした。肉というのは古い人であるアダムに源を置くものです。たとえ、美しくて、能力があったとしても、そのエネルギーが間違っているなら、神さまの栄光を現すことはできません。さきほども「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません(ヨハネ663)」。「肉にある者は神を喜ばせることができません(ローマ88)。と申しあげました。肉でいくら頑張っても、何の益をもたらさないし、神さまを喜ばせることもできません。ペテロは弟子たちの中でスポークスマンのような存在で、何でも率先して行いました。しかし、今回、イエス様を三度も知らないと否定して、自分の弱さにとことん泣きました。彼は悔い改めました。どのように?これからは自分の力ではなく、イエス様の力により頼む者になると決断したのです。ユダは自分が犯した罪を後悔しまし、自分で責任を取りました。しかし、ペテロは後悔で終わらず、イエス様のところに行ったのです。ペテロは、言われたとおりガリラヤに向かいました。ガリラヤでもう一度、召命を受けなおしました。その時、イエス様から「私を愛するか?」と3度も問われました。自分がイエス様を否定した数と同じです。ペテロは心が痛くなり、「愛しますよ」とは言えず、「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。全く、受け身的な答えです。これは、「私はあなたの愛とあなたの力に、自分の源を置きますよ」ということなのです。いわば、エネルギーの転換と言うことができます。

 さらにイエス様は決定的な力の源を与えました。それは聖霊です。ルカ2449「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ペンテコステの日、ペテロをはじめ弟子たちは、上から聖霊が臨んで力をいただきました。古い人、自我が砕かれて謙遜になることはすばらしいことです。ペテロは聖められたのです。でも、それだけでは、ペテロを大使徒とすることはできませんでした。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(使徒18)。まさしく、ペテロは上から聖霊を注がれたときに、エリシャのようなマントを着たのです。ペンテコステの日、一回で3,000名の人が救われ、さらには足なえの人が歩き、5,000人が救われました。ペテロは初代教会のリーダーになり、まさしく兄弟たちを励ます人になったのです。これが神さまの計画です。誘惑に終わらず、癒され、全く新しい人になるのです。人生において誘惑に会って、ある時は敗けるかもしれません。しかし、イエス様は私たちの信仰がなくならないように祈っておられます。それだけではありません。イエス様はあなたに、成し遂げてもらいたい計画を持っておられます。かつては肉の力により頼んでいたかもしれません。しかし、立ち直ったあなたは、主により頼みながら勝利の人生を歩むことができるのです。

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2018年2月17日 (土)

真夜中の裁判 マタイ26:57-68 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.2.18

 弟子のペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ1616と告白したことがあります。イエス様はその告白を聞かれ、大変喜ばれました。しかし、その直後、イエス様は「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受ける」と弟子たちに予告しました。まさに、本日の聖書箇所はそのことが記されています。イエス様はどのような苦しみを受けられたのでしょうか?きょうは、「偽証」「拒絶」「辱め」の3つのポイントで学びたいと思います。

1.偽証

 イエス様はゲツセマネの園において、下役どもによって捕えられました。何と弟子のユダが彼らを先導していました。イエス様は彼らを蹴散らすこともできましたが、聖書のことばを実現させるために、あえて捕えられました。残念ながら、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいました。マタイ2657-59「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。」これは、いわば宗教裁判です。キリスト教会の歴史の中で忌まわしい宗教裁判が数えきれないほど開かれましたが、きょうのものがその原型と言えるでしょう。まず、裁判は夜が明けてから開くというのが決まりでした。ところが、彼らは真夜中、非公式に集まったのです。59節に「祭司長たちと全議会」とありますが、これは70人で構成させるサンヒドリン議会です。議長が大祭司のカヤパでした。ヨハネ福音書には元大祭司のアンナスも関わっていたことが記されています。もっと不当なのは審議する前から結論が出ていたということです。仮にも神さま仕える人たちが、神の子イエスを死刑にするために、裁判をするとは何事でしょう。しかも、弁護人もいません。パウロはイエス様のことを「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエス」(Ⅱテモテ41と言っています。生殺与奪の権を持っておられるお方を、人間が裁こうとしています。しかし、まだ、この時は王なる権威を受けていませんでした。そのため、人間イエスとして不当な裁判を甘んじて受けられました。

 それにしても、人を死刑にするために偽証をたてるとは一体何事でしょう。十戒の6番目は「人を殺してはならない」です。そして、9番目は「偽りの証言をしてはならない」です。最低でも十戒の2つは破っていることになります。彼らは「なりふり構わず」と申しましょうか、妬みのゆえに目の前の邪魔者を殺そうとしました。60-61節、偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」「偽証者がたくさん出てきた」ということは、議員の中に「嘘つき」がたくさんいるということです。残念ながら、だれもイエス様に罪を見出すことができませんでした。最後にふたりの者が進み出て、「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」このことはヨハネ2章にありますが、「イエス様はご自分のからだの神殿のことを言われた」と解説されています。まさしくこれは、キリストのからだなる教会のことです。弟子たちはイエス様が復活した後で分かりました。でも、これが死刑になるような罪ではありません。『ガリバー旅行記』という本があります。リリパットという小人の国に捕えられます。横たわっているガリバーを細い糸で縛っている絵を見たことがあります。実はこれはイギリスの政治を風刺したものだそうです。当時、イギリスは「大英帝国」として世界を支配していました。でも、それは神さまから見たら小人に等しいということでしょう。長老、祭司長、律法学者たちがこぞって、イエス様を死刑にするために罪をでっちあげようとしています。でも、目の前のお方は、神の子イエス、全く罪のないお方です。でも、イエス様はひとことも答えず、ただ黙っておられました。なぜなら、イエス様はご自身が罪となることを覚悟しておられたからです。

 偽証をたてられても黙って耐えるイエス様は、私たちの模範でもあります。山上の説教でイエス様なこのように言われました。マタイ510-11「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」私は、テレビ・ドラマはほとんど見ません。特に韓国のドラマは絶対に見ません。なぜかと言うと、そこには主人公を陥れる人が必ず出てくるからです。嫉妬深い人や意地悪をする人も出てきます。彼らは嘘偽りを言ったり、何か策略を設けるのです。私はドラマに入り込み、現実との区別ができなくなり、胸が締め付けられる思いがします。だから、テレビ・ドラマは見ないのです。例外として、時代劇の勧善懲悪ものは良く見ていました。遠山の金さん、大岡越前、必殺仕掛け人、隠密同心…。でも、最近は馬鹿らしくなりました。ストーリーがあまりにも単純だからです。前半は、理不尽にも人が殺されます。最後に仕返しがあり、正しい報いを与えます。昔は良く見ましたが、心が癒されたせいか「もういいや」と思えるようになりました。イエス様が何を言われてもだまっておられたのは何故でしょう?それは、ご自分の中にしっかりとした義と真実があったからです。人間イエスにとって裁判官は父なる神さまでありました。イエス様は、正しく裁く父なる神さまにゆだねておられました。だから、偽証をたてられるようなひどい裁判をも耐え忍ぶことができたのです。そのため、イエス様は不当な扱いを受ける私たちの苦しみを良く御存じであり、私たちを必ず救ってくださいます。しかし、今はどういうお方でしょう?復活・昇天されたイエス様は王なるキリストです。父なる神さまはイエス様に天においても地においてもいっさいの権威をお与えになられました。現在はイエス・キリストがさばき主であられます。しかし、同時にイエス様は救い主であられます。私たちのために十字架ですべての罪をあがなってくださったからです。このイエス様が私たちの罪を赦し、同時に神のみ前で弁護してくださるのです。

2.拒絶

 マタイ2662-66そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。大祭司カヤパは事件を審理する裁判官であり、同時に検事側の指導者でもありました。証人たちの間に一致が見られず、罪が現れない場合には、裁判を放棄するのが法廷の義務でした。ところが、カヤパは有罪判決をするために裁判長の地位を占めていました。かつてカヤパは「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策である」(ヨハネ1150と言っていました。裁判官は自ら先頭に立って、囚人となられた方に質問をし始めました。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」最後に、カヤパはとっておきの質問をイエス様に与えました。イエス様はこれまで、律法学者、パリサイ人、サドカイ人らから罠にかけられるような質問を度々、受けて来ました。この時も、もちまえの知恵によってかわすことも可能だったはずです。もし、このように答えたなら、死刑にされるというということを百も承知だったと思います。大祭司カヤパから伝家の宝刀を抜かれてしまったので、もう答えるしかありません。

 64節、イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」「あなたの言うとおりです」とは、ご自分が神の子キリストであることをお認めになられたということです。そして、その後のことばはそのことを預言しているダニエル書7章のことばです。ダニエル書7章では、「人の子」というのは、主権と栄光と国が与えられるメシヤのことです。難しいことばで言うなら、「人の子」は終末論的なメシヤの表現であります。ですから、同じことばがヨハネ黙示録1章にも記されています。黙示録17「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」聖書で「雲」というのは、神の栄光を比喩していることばです。再臨のキリストは、栄光に包まれてやって来られるということです。大祭司カヤパも、そのことぐらいは知っていました。イエス様は二重の意味でご自分が神の子キリストであることを証しました。第一は、大祭司のことばに「あなたの言うとおりです」と答えたこと、第二はダニエル書から、ご自分が世の終わりにやって来るメシヤ、「人の子」であることを言ったからです。この2つを言われたなら、「ははー」と床にひれ伏すのが本当です。なぜなら、イエス様はご自分が神の子キリストであると宣言しておられるからです。

 しかし、どうでしょう?カヤパはそれを死刑の判決をくだすための最大の証言にしました。65節、すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。そうです。当時の考えでは、人が自分を神と言ったならば、冒瀆罪であり死刑になります。カヤパは演技なのかどうか分かりませんが、自分の衣を引き裂いて言いました。自分の衣を裂くときというのは、よっぽど悲しいことや、忌まわしいことが起きた時です。旧約聖書ではエステルのおじ、モルデカイも同じことをしました。すべてのユダヤ人が殺害され、滅ぼされるという勅令を知った時です。モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びました(エステル41)。おそらく、議会には「してやったり」という歓喜があったのではないでしょうか。「神の子キリストに死刑宣告を下して、何と言うことでしょう。どっちが神を冒瀆しているのでしょう」と言いたくなります。しかし、これが当時のイスラエルだったのです。一番最初引用しましたマタイ16章と同じことばが、マルコ8章にも記されています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ」(マルコ831)とあります。「捨てられ」はマタイ福音書には書いていませんが、マルコとルカ福音書には書かれています。「捨てられ」は英語ではbe rejectedです。Rejectは拒絶であり、イエス様は「拒絶された」ということです。何を拒絶されたのでしょうか?そうです。ご自分が「神の子キリストである」と証言したにも関わらず、ユダヤ人の指導者たちから拒絶されたということです。彼らは当時のイスラエルのいわば代表でした。イエス様は、宗教と政治と学問の指導者たちから拒絶されたのです。

 イエス様は拒絶を味われました。それは罪の贖いのためでありましたが、同時に私たちの慰めでもあります。あのイエス様が拒絶を味わったのです。私たちも人生において親や兄弟、先生、友人、仲間から拒絶されるときがあるでしょう。アイドルから拒絶されて、キレて、殺害にいたる人がいます。「こっちが真心からプレゼントしたのに、無視するとは何だ!」と怒るわけです。拒絶ほど深い傷はありません。それも親や信頼のおける親しい人からの拒絶です。それを何度も味わうと、過剰な反応をして、殺人まで犯すかもしれません。人を殺さない人は、自分を殺すかもしれません。それほど、拒絶は重くて、暗くて、辛い出来事です。しかし、私たちの救い主、イエス・キリストは拒絶を味われました。ヨハネ11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」とあります。でも、イエス様が「神の子キリストである」と受け入れた人にはどうなるのでしょうか?慰めと共に救いが与えられます。ヨハネ1:12 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」神さまの愛は無条件の愛であり、私たちの拒絶の傷を癒してくださいます。

3.辱め

 マタイ2626-70そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。次週の聖書箇所まで読んでしまいましたが、イエス様が長老、祭司長、下役どもから辱めを受けているそのときです。なんと弟子のペテロは「イエスなんか知らない」と否認していたのです。イエス様はあとでローマ兵たちからさんざん馬鹿にされ嘲弄されますが、その前にユダヤ人たちからこのようなひどい扱いを受けました。つまり、イエス様は十字架にかかる前、2度にわたって辱めを受けたということです。第一はユダヤ人から、第二は異邦人たちからです。しかし、同胞のユダヤ人から、しかも神さまに仕える人たちから、このような辱めを受けるとは何ということでしょうか?私は福音書からメッセージするとき、JCライルの本を読むことにしています。彼は今から約200年前、1816年生まれのイギリスで活躍した説教者でした。この箇所の解説において、ライルはたくさんの表現を用いています。mockery侮り、ridiculeあざけり、insult辱め、contempt侮辱、indignity不面目などです。Indignityの反対は、dignity「尊厳」「高貴」「気高さ」という意味です。イエス様は神の子キリストであり、dignityが相応しいお方です。「尊厳」「高貴」「気高さ」を受けるべきお方が、不面目とは何事でしょう。もし、人から顔につばきをかけられたらどうしますか?こぶしでなぐりつけられたり、平手で打たれたらどうしますか?

 昨年の末、テレビやニュースを騒がせたのは横綱の暴力事件です。最初はビール瓶で殴打されたとスポーツ新聞に載りましたが、本当はリモコンで殴ったということでした。白鵬関が「物で殴ってはいけない」と制止したそうです。数分間、手で殴っていたのは黙認されていたということです。リモコンで頭が切れたので問題になったということでした。結果的に「暴力は絶対ダメ」ということになったようですが、大分、基準がいい加減だったということです。殴られた力士がかなり経ってから「地元高校の関係者の前で暴行を受け、恥ずかしかった」と述べていました。稽古場ならともかく、公衆の面前で叩かれたわけです。親方が怒ったのは「我が子のように可愛がっている弟子が、他の部屋の人たちから辱めを受けた」という感情があったからではないかと思います。日本人だけではないかもしれませんが、公の面前で恥をかかされるというのは、嫌なものです。私も学校ではしょっちゅうみんなの前で叱られました。私の場合は、見せしめであり、私を叱ったら、他の生徒が黙るという構図だったのかもしれません。「私を叱っても良い」と顔に書いてあったのかもしれません。indignity不面目ということばは、ジーンと心に響いてきます。日本では面目丸つぶれと言いますが、そういうことです。イエス様も人々から叩かれましたが、肉体の痛みよりも、心(感情)が傷ついたのではないでしょうか?何度も申し上げていますが、イエス様はすぐ十字架にかかって死なれたわけではありまでん。その前に、弟子たちから裏切られ、不当な裁判を受け、このような辱めを受け、鞭で打たれた後、ゴルゴタの丘に上ったのです。十字架の直前まで、人々は「もし、神の子なら十字架から降りて、自分を救ってみろ」とあざけりました。私だったら「こんなのやっていられるか!」とケツを割るところでしょう。表現はゲスですが、「救い主なんかやめて帰りたい」ということです。イエス様はよく我慢しておられたなーと思います。

 でも、イエス様はそうなることを地上に来る前からご存じだったのかもしれません。イザヤ書53章は「苦難のメシヤ」と言われています。地上に来られるメシヤがこのような苦しみを受けるという預言が記されています。イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」このところから、イエス様が受けた拒絶と辱めと不面目を知ることができます。つまり、イエス様はたまたまではなくて、そういうことがあることをちゃんと覚悟して来られたということです。だから、だまって何もおっしゃらなかったのです。イエス様の本当の強さがそういうところにあるのだと思います。すぐ、かーっとなったり切れたりするのは、弱い証拠なのかもしれません。自分の世界が壊れそうなので、反抗したり、防御するのです。イエス様の場合は、だれから何を言われても、何をされても揺るがない「世界」があったのではないかと思います。「世界」と聞くと、ちょっと聞きなれない方もおられると思います。言い換えると「自分はだれであり、何のために生きているか」ということです。私たちの場合は、父なる神さまによって「自分はだれであり、何のために生かされているか」と言うふうになります。イエス様は神さまなので、だれからも承認される必要のない「ある」というお方でした。「ある」はヘブライ語で「ハヤー」であり、ヤーウェ(主)と関係があることばです。つまり、「自存性」と言って、だれからも存在させられないお方です。でも、イエス様は地上にあっては、人間イエスであったので、そうではありませんでした。父なる神さまがご自分を支持し、ご自分を認めておられました。ですから、このときは、父なる神さまに全幅の信頼を置いて、罪の贖いのために自分をささげておられました。だから、人々から偽証をたてられ、拒絶され、辱めを受けても耐え忍ぶことができたのです。もちろん人間イエスとしては、辛いし、悲しいし、悔しいし、嫌な思いはしたはずです。でも、「自分はだれであり、何のために生きているか」ということを知っていたのです。

私たちはイエス様と全く同じではありません。しかし、イエス様が父なる神さまに全幅の信頼を置いていたからこそこれらの試練を乗り越えることができました。みなさんは自分の揺るがない世界を持っておられるでしょうか?主にあって「自分はだれであり、何のために生きているか」ということを知っておられるでしょうか?もし、そのことがはっきりしているならば、人々から偽証をたてられたり、拒絶されたり、あるいは辱めを受けたとしても、乗り越えられます。平気ではないかもしれませんが、イエス様のように勝利をすることはできると信じます。アーメン。

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2018年2月 9日 (金)

ユダの裏切り マタイ26:47-56 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.2.11

 過ぎ越しの祭りのときは満月なので、その夜は月が煌々と照っていたと思われます。イエス様は敵たちが近づいてきたことを超自然的にご存じでした。だから、「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」と弟子たちに告げました。しかし、残念なのは弟子のユダが彼らの手引きをするために先頭に立っていたということです。まもなく、イエス様は犯罪人のように捕えられてしまいます。十字架の前にこのような悲しいことがあったのです。

1.ユダの裏切り

 何故、ユダがイエス様を裏切ったのでしょう?J.Sスチュアートは『受肉者イエス』という本の中でこのように解説しています。「ペテロ、アンデレ、その他の弟子たちと同様、ユダがキリストへの服従のためにすべてを投げ打った時があった。イエスのために、ユダは家庭、親族を捨てた。この決断には、確かに地上の王国への望みが働いていた。それよりも重大な事実は、ユダに対するイエスの評価への事実である。ユダの中に真の使徒の素質を見出していた。」ある人たちは、「イエス様はあえて自分を裏切るユダを選だのだと」言います。「ユダがいないと十字架の贖いもない」と言うなら、安っぽい舞台劇になるでしょう。そうではなく、イエス様は他の11人を召されたのと同じ理由で、ユダを弟子として召したのです。ユダは、最初、弟子となったとき、可能性を持った神の人でした。では、どこからおかしくなったのでしょうか?ヨハネ6章には、わずかなパンで5000人の人たちを養った奇跡が記されています。その時、人々は「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、イエス様を王にしようとしました。直後、イエス様は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちをもっています」と告げました。それを聞いた弟子たちの多くは「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と躓いて去って行きました。ペテロは「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたが神の聖者であることを知っています」と告白しました。しかし、ユダは「ああ、絶好の機会は永遠に失われてしまった。これまで何度も『エルサレムで死ぬ』と告げていたけれど、やっぱり本当だったんだ」とがっかりしたでしょう。その時からユダは心に怒りと憎しみと敵意を抱くようになったのでしょう。これが忌まわしい裏切り行為の、真の動機を暗示するものです。ある人は「動機は金銭欲だった」と言うかもしれません。でも、銀30枚は安すぎます。当時、銀30枚は奴隷を売る時の額でした。お金よりも憎しみと復讐心であったことは間違いありません。

 しかも、このところには、はっきりとユダのイエス様に対する裏切りの動機が見えます。何とユダは、当時の社会で信愛の情を表す「口づけ」で裏切ったからです。マタイ2648-50「イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、『私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ』と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、『先生。お元気で』と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。」他の方法もあったでしょう。でも、あえてユダは、口づけを合図にしたのです。イエスさまは「友よ。何のために来たのですか」と言われました。なんと、自分を裏切る者を「友よ」と言うなんてありえるでしょうか?ローマのカエサルは「ブルータス、お前もか?」と言ったそうです。しかし、イエス様は最後までユダを信じていました。つまり、イエス様は最後まで悔い改めのチャンスを与えておられたのです。もちろん、イエス様はユダの心を知っていました。最後の晩餐のときも「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と言われました。でも、ユダの心には既にサタンが入っており、もう引き返すことはできませんでした。イエス様はゲツセマネで十字架にかかる覚悟を決めました。一方、ユダはイエス様を裏切るために敵に渡す覚悟を決めたのです。「確信犯」のように、ユダは平気な顔をして、「先生、お元気ですか」と言って、口づけしたのです。ユダはその時、裏切りにおける快感を覚えたのではないでしょうか?「こいつのおかげで、俺の人生が無駄になった。3年間、いや俺の一生を返せ!」という、憎しみと復讐心でいっぱいでした。後でユダは「義人を売った」と後悔します。でも、この時は、してやったりという、裏切りの快感を味わったのではないでしょうか?私たちの人生において、人を裏切ってしまったり、裏切られたりすることが何度かあったと思います。裏切ってしまったことは忘れても、裏切られたことは良く覚えているものです。なぜでしょう?裏切ったのは自分なりの正統な理由があったからです。たとえば、「私が裏切るのは、相手がその前に私を裏切ったからだ」と考えることもあるでしょう。ユダも「私もイエスから裏切られたので、これでお相子だ」と思ったのではないでしょうか?

 しかし、私たちはこのところから、弟子の一人から裏切られたイエス様の思いがいかばかりなのか知る必要があります。なぜなら、イエス様は可能性と期待を持ってユダを弟子の一人として選んでいたからです。この世では子どもが悪いことをすると「親の教育が悪いからだ」と批判します。同じように弟子が悪いことをすると、「ああ、その師匠も大したことないなー」と思うでしょう。後代の人たちも、「あの神の教師であられるイエス様でも、12人をまともに訓練できなかったんだ」と言うでしょう。良く見ると、イエス様を残して、全員の弟子が見捨てて、逃げたのですから、「え?」と思います。イエス様の心の痛みは、逃げ去った11人よりも、直接、裏切ったユダにあったのではないでしょうか?イエス様はかつて、「しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」とおっしゃっていました(マタイ2624)。イエス様がそのようにおっしゃるのは全人類でそんなにいないのではないでしょうか?イエス様はほとんどの人たちを「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ434とおっしゃっているでしょう。でも、ユダは「そういう人は生まれなかったほうがよかった」とおっしゃいました。これはよっぽどのことであります。つまり、それほどイエス様にとって大きな悲しみであったということです。イエス様は、すぐ十字架に付けられて殺されたのではありません。ユダの裏切り、それに続く捕縛、不当な裁判、嘲笑、ローマの裁判、むち打ち刑、ゴルゴタへの行進、それから十字架の死です。十字架だけでも大変なのに、このようにして、悲しくて嫌な思いをするというのは何故でしょう?イザヤ533「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」と書かれています。この「悲しみの人」というところに、「ユダの裏切り」があるのではないかと思います。

 私たちも人生を振り返ると、「ああ、裏切られたなー」という経験があるのではないでしょうか? 昨年の12月の半ば、夜散歩をしながら、牧師になってから、何人から裏切られたか数えていました。そういう人というのは名前をちゃんと覚えているものです。もちろん、「あれでも牧師か?」と私に躓いて去った人たちもたくさんいるでしょう。でも、先ほども申しましたように、人を裏切ったことは忘れても、裏切られたことは残っています。なぜでしょう?そこには悲しみや痛みがあるからです。その人に対する怒りとか憤りは、すぐ消えるかもしれません。しかし、悲しみや痛みというものは、なかなか消えないものです。「心がうずく」と言いますが、そういう痛みがあります。でも、イエス様は人から裏切られ、言葉で言い表せないほど、ひどい目に会われました。イエス様が「悲しみの人で病を知っていた」というのは何と言う慰めでしょう。その病は肉体だけではなく、心の病も含むのではないでしょうか?この世にはすばらしいカウンセラーの先生方がおられると思います。そういう先生に聞いてもらって、癒される道もあります。でも、もう一度、人の前で再現するのも辛いものです。でも、イエス様はこれまでのことと自分の悲しみと痛みを良くご存じです。やっぱり、イエス様に話すのが一番です。

詩篇568-9「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。」この詩はダビデが書いたものと思われますが、はっきりと「敵」がいることを書いています。同時に、神さまが「味方なんだ」とも書かれています。私たちはヒューマニズム、人本主義に陥ってはいけません。人生においては自分を裏切るような「敵」はいるということです。でも、いつまでも憤って、苦味を持っているならば、自分が参ってしまいます。ですから、そういう出来事を神さまにお委ねするのが一番です。そして、自分の悲哀と申しましょうか、その涙は、イエス様が皮袋にたくわえてくださいます。つまり、ちゃんと覚えておられ、慰めてくださるということです。イエス様はずっと一緒だった弟子のユダから口づけで裏切られました。確かに、悲しいことですが、私たちにとっては大きな慰めです。イエス様が私たちの痛みをご存じだからです。

2.イエスの捕縛

 イエス様を捕えに来た人たちはどんな人たちだったでしょうか?彼らはローマ兵ではなく、神殿警察とその手下です。聖書には「祭司長、民の長老たちから差し向けられた群衆。剣や棒を手にした大勢の群衆」と書かれています。ヨハネ福音書には「一隊の兵士」と書かれていますが、ローマの軍隊では600人です。そんなに大勢でイエス様お一人を捕えに来たのでしょうか?おそらく、彼らはイエス様には奇跡を行なう力があると知っていたかもしれません。「もし、抵抗されても600人もいれば、大丈夫だ」と思ったのでしょう。しかし、イエス様は人を傷つけるために抵抗するような人でしょうか?あえて、剣や棒を持って来たのは、「イエスは犯罪者だ」ということをアピールしたかったのでしょう。その時、弟子の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落としました。ヨハネによる福音書には「弟子とはシモン・ペテロである」と書かれています。「すごい勇気があるなー」と思います。相手の耳を切り落としたのは下手だったのかもしれません。なぜなら、彼の本職は漁師だったからです。でも、殺さなくて良かったです。イエス様は、剣を収めるように命じてから、その人の耳を癒されました(ルカ2251)。それからどうおっしゃったでしょう?マタイ2653-54「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」イエス様を捕えに来た人たちの数は、1軍団、600人でした。イエス様がおっしゃる御使いの数は12軍団以上であります。単純に計算すると、7,200人であります。天使一人でもかなわないのに、12レギオン、12軍団です。旧約聖書に、アラムの軍隊がエリシャを取り囲んだという記事があります。エリシャは召使の目を開けてあげました。「彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」(Ⅱ列王617とあります。イエス様は父なる神さまに、天使を遣わして下さるように願うこともできました。でも、それをしませんでした。なぜなら、聖書のみことばが実現されなくなるからです。イエス様は56節で「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」と繰り返されました。

 私たちはこのところから、イエス様は無理やり捕えられたのではなく、自ら進んで捕えられたということを知るべきです。でも、感情的にはイヤーな思いがあったと思います。イエス様はあとから「私は毎日、宮で座って教えていたのに、どうして私を捕えなかったのか」とおっしゃっています。彼らは人々の目を恐れ、真夜中に、大勢でイエス様を捕えに来たのです。この兵士たちはどう人たちだったでしょう?祭司長、民の長老たちから差し向けられた、神殿警察や役人たちです。おそらく腕に自信のあるユダヤ人も一緒だったでしょう。彼らのトップは神さまに仕え、人々に律法を説く人たちでした。「人を殺してはならない」とか「偽証を立ててはならない」と教える人たちが、逆のことをしているのです。神をも恐れないというか、イエス様に対する嫉妬心と怒りで、正義なんかどうでも良くなったのです。ペンテコステの後、ステパノが説教しました。その時「あなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました」と彼らに説教しました。人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯切りしました。そして、ステパノを町の外に連れ出して、石で打ち殺しました。彼らはイエス様にしたことをステパノにもやったのです(使徒752-58抜粋)。宗教的指導者たちはイエス様に対する嫉妬心と怒りで、とにかく捕えて、殺してしまおうと思っていたのです。もし、私だったら「神に仕える者が、何ということを!赦せない!」と思うでしょう。イエス様は不当な扱いを受け、言わば不条理の真ん中におられたのです。ユダの裏切りには、悲しみと痛みがあったことでしょう。また、兵士を遣わした指導者たちには、怒りと憤りを持っても当然だと思います。私たちは警察など国家権力から不当な扱いを受けることがあるかもしれません。でも、逆らったらもっと罪が重くなります。彼らは権力を持っていることを良いことにもっと横暴な振る舞いをするかもしれせん。その怒りと憤りをどこに持っていったら良いのでしょうか?幸い私などは交通違反の切符ぐらいですが、ある人たちは濡れ衣を着せられる人もいるでしょう。今はそんなにないかもしれませんが、取調室でひどい扱いを受ける場合だってあるでしょう。しかし、相手が大きすぎると、どうにもなりません。日本には「お上には逆らえない」とか「長いものには巻かれろ」という諺があります。日本人はそうやって、自分なりに納得して生きているのではないでしょうか?では、イエス様は「長いものには巻かれろ」風だったのかと言うとそうではありません。何という低くて温和な物越しなんでしょう。一言も反論したり、罵倒する言葉さえありません。本来なら、十二軍団よりも多くの御使いを、ご自分の配下に置いていただくことができたのに、それをしませんでした。自分から進んで捕えられたという感じです。その理由はイエス様に対するみことばの成就です。54節「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう」。56節「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現されるためです」。アーメン。

 そうです。イエス様は、御父に願って12軍団の御使いを遣わしていただいて、兵士たちを一網打尽にすることも可能でした。もし、それをしたなら、ご自分が人類の贖いをするために来られたという神のみこころが実現しなくなります。既に、ゲツセマネでの祈りで「杯を飲みます」と決断されていたので、覚悟ができていたのです。でも、十字架の前に、このような不当な使いを受けるということはイヤだったのではないでしょうか?いや、それらも覚悟していたのです。これから受ける不当な裁判、嘲笑、ローマの裁判、鞭打ち、ゴルコタまで十字架を運ぶこと、全部です。私たちはすぐ「イエス様は十字架にかかって死なれた」と言うかもしれません。でも、すぐではありませんでした。そこまで神の子としてのプライド、権威、立場、さんざんでした。ペテロはそのことを後で手紙に書いています。なぜなら、ポント、ガラテヤ、カパドキヤに散って寄留していた人たちがひどい試練に会っていたからです。ペテロが彼らにこう勧めています。Ⅰペテロ222-24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」ペテロも、イエス様が十字架の前にさんざんな目にあったことを書き記しています。でも、イエス様は「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」。本来なら、神の子の権威を行使することができました。間違ったことをしている宗教家たちをめちゃめちゃにすることもできたのです。でも、それをしなかったということは私たちの慰めであり、また救いではないでしょうか?イエス様は「長いものには巻かれろ」と泣き寝入りしたのではありません。人間イエスですから、不当な使いを受けることの怒りや憤りの感情もあったでしょう。でも、それらを克服して、「正しくさばかれる方にお任せになりました」。興味深いことに、イエス様は「彼らを赦す」とはおっしゃっていません。正しくさばかれる神さまにお任せになったということです。つまり、その不当な扱いをしている人たちの罪を神さまのさばきに委ねたということです。ここが重要です。多くの教会は「キリストのゆえに赦しなさい」と勧めます。もちろん、私たちは「主の祈り」のように、人の罪を赦さなければなりません。でも、順番というか、手続きがあることを忘れてはいけません。まず、「正しくさばかれる方にお任せする」ということです。そうすると、自分の中にあったどうしようもない怒りと憤りが消えて、赦すことができるようになるのです。不当な扱いを受けて生じてしまった怒りと憤りを押さえつけてはいけません。押さえつけるので、他のだれらに転化するか、自分が病気になるのです。ちゃんとさばいてくださる神さまに訴え、神さまからさばいていただくのです。その後、赦すという選択を取るのです。そうすると、赦すことができます。どうしても私たちの正統性を認めてほしいという感情があるので、赦すことができません。赦すためには順番が必要です。旧約聖書には「主はvindicator弁護者である」と何度も書かれています。Vindicateには「…に対する非難や汚名を取り去る。汚名や嫌疑などから免れさせるという意味があります。

きょうのメッセージは、イエス様が弟子のユダによって裏切られるという記事からでした。私たちはイエス様の悲しみと痛みを多少なりとも知ることができました。問題は、私たちがある人から裏切られたことを今も根を持っていないか?ということです。言い換えると、心から赦していないということです。そのため、時々、思い出しては憤慨や悲しみがぶりかえすかもしれません。私は高校3年生のときですが、母が一階から二階にいる私に吐き捨てるように言いました。「やす。お前が一番親不孝者だった。他の兄弟はみんな我慢したのに、なんでお前は我慢できないのか。ああ、情けない」と言われました。私は友達が持っている同じものを買ってくれと母を困らせました。母は隣からお金を借りたりしていました。「ああ、情けない」と言われたとき、「あれだけ田んぼや畑、家のことを手伝ったのに…」裏切られたなと思いました。他にも「ああ、裏切られたな」という痛みを覚えることがいくつかありました。思い出す度に辛くなります。みなさんの中にも信頼していた人から裏切られたという心の傷がうずいている人がいるのではないでしょうか?イエス様は悲しみの人で病を知っていました。イエス様も人から裏切られ、捨てられました。イエス様が、あなたにおっしゃっているかもしれません。「私に免じて、赦してやりなさい。もう、その怒りと悲しみを手放しなさい」と。「はい、わかりました。私を裏切ったあの人を赦します。私にひどいことをしたあの人を赦します」。そのような祈りをしようではありませんか。主の愛が今、あなたを包み、打たれた傷がいやされますように。嘆きや悲しみが逃げ去りますように。

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2018年2月 3日 (土)

ゲツセマネの祈り マタイ26:30-46 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.2.4

 最後の晩餐の後、イエス様と弟子たちは、オリーブ山のゲツセマネの園に向かいました。ゲツセマネは「油しぼり」という意味です。園にはオリーブの木があり、果実から油をしぼる圧搾所があったことから、そう呼ばれたのでしょう。イエス様は小一時間、苦しみ悶えて祈りますが、まさしく「油しぼり」でありました。その後、イエス様は捕えられて、裁判にかけられ、十字架に向かいます。つまり、ゲツセマネはイエス様が十字架にかかる前に、ご覚悟を決められた場所でもありました。きょうは、ペテロに対する預言は後回しにして、36節からお話しいたします。

1.誘惑に陥らないように

 夜なのにユダはどこかに出かけました。イエス様は11人の弟子たちを連れて、オリーブ山に向かい、ゲツセマネと呼ばれる園に着きました。さらに、イエス様は3人の弟子たちを園の奥に連れて行きました。3人とはペテロとヤコブとヨハネです。この3人は変貌の山、ヤイロの娘のよみがえりのときも同行しました。聖書には「証人は、2人あるいは3人が必要である」と書かれているからです。彼らは寝てしまいましたが、チラッ、チラッと見ていたのです。だから、この記事を書けたのです。もし、1時間ずっと寝ていたら、イエス様の祈りの内容は記録されていません。ゲツセマネの園は、いわば奥座敷であり、普通の信仰では近づくことができません。なぜなら、イエス様が十字架を覚悟をする大事な時であったからです。また、サタンもイエス様に対して強烈に働いたので、弟子たちもその影響を受けることになりました。聖画では、イエス様が大きな石に寄りかかり、天を見上げて祈っています。何と、イエス様が悲しみもだえ始められるではありませんか。弟子たちはそんな姿を一度も見たことがありません。確信と平安と力で満ちていた、いつものイエス様とは全く違います。イエス様は3人の弟子たちにこのように願いました。38節「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、私と一緒に目をさましていなさい」。イエス様は石を投げて届くくらいの場所に跪いて、苦しみもだえて祈りました。

 何故、イエス様は弟子たちと一緒にゲツセマネに行ったのでしょうか?しかも、3人の弟子たちに「目をさましているように」要請しました。これは「目をさまして、私のためにとりなしていてほしい」ということです。言い換えると、一人では誘惑に負けそうなので、私を助けてほしいということです。「そんな馬鹿な?」とお思いでしょうか?いや、それほどイエス様にとって悲しくて、辛い出来事がこの先に待っているからです。だから、イエス様は自分のために祈ってほしかったのです。ところが、どうでしょう?40-41節「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』」このところに、1時間とありますので、イエス様がゲツセマネで祈っていた時間は小1時間ではないかと思います。1時間、祈るって、結構大変ですね。昔、リバイバルゼミナールに出席し、愛知県民の森で祈ったことがあります。1月の寒い朝、5時半に宿舎を出て、朝食開始まで山で祈ります。真っ暗で寒いし、ちょっと怖いので、叫んで祈ります。あれはみんなだからできるのであり、ただ一人、山に入って祈ることは不可能です。しかし、滝元明先生は、一晩、山に入って祈ることもあるそうです。動物を追い払うための杖を一本持って、まるでエリヤのようでありました。しかし、1時間、叫んで祈ると、「本当に祈り尽くした」という爽やかな気持ちになります。今は、そんなに集中して祈っていません。だから、エリヤのような力がないのかもしれません。でも、弟子たちには励まされます。1時間も祈っていられなかったからです。44-45節「イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。』」イエス様のおことばから、弟子たちは目をさまして祈り続けることができなかったことが分かります。イエス様は彼らのふがいなさを嘆いています。

 でも、弟子たちは何故、祈り続けることができなかったのでしょうか?それはサタンがイエス様を妨げるために強烈に働いたからです。イエス様は公生涯に入る前、サタンから誘惑を受けました。しかし、イエス様は聖書のみことばでことごとく退けました。口語訳聖書のルカ413「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。」「一時」ですから、また戻って来ることを暗示しています。では、イエス様にとって、最も大きな誘惑はいつだったでしょうか?それは、十字架にかけられる直前です。イエス様は弟子たちに「人の子はエルサレムで苦しみを受け、殺される」と何度も予告していました。ところが、いざ、捕えられて十字架に渡される前夜、どうなったでしょう?イエス様は「この杯を私から過ぎ去らせて下さい」と必死に祈り求めました。しかし、そのときサタンが隣にいたのです。昔、広島の植竹牧師が当教会の特別伝道集会でご用されたことがあります。旧会堂に90人くらい集まり満席でした。山崎長老が、銀行員とかお茶屋さん、洗濯屋さん、保険屋さん、近所の人、合計60人くらい誘ってきました。聖書の話など聞いたことのない未信者です。植竹先生が「ゲツセマネの園」からメッセージしました。その杯とは、全人類の罪が溢れている杯です。イエス様は1つの罪も知らないお方。それを飲むことができるでしょうか?植竹先生はまるで歌舞伎のように熱演しました。「その杯には、真っ赤に熱した鉛が縁まで満ちてプツプツ音をたてていました。唇を近づけただけで、火傷をするでしょう。サタンが側にいて、『イエスよ。その杯を飲めるか?のーめーるーかー?』」とやりました。会衆はドン引き状態でした。植竹先生は「サタンに対するイエス様への誘惑があまりにも強かったので、近くにいた弟子たちは目を開けていることができなかった」というのです。イエス様は「できれば、十字架にかからずに、贖いのわざを成し遂げることができないだろうか?」と誘惑を受けたのです。それほど、人類の罪を負って、神さまから捨てられるのが怖かったからです。

 イエス様は誘惑を退けるために必死に祈りました。ルカ福音書には何と書いてあるでしょう?ルカ2243,44「すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」弟子たちは頼りにならなかったので、御使いが助けてくれました。イエス様が苦しみもだえて、いよいよ切に祈られましたが、その汗が血のしずくのように地面に落ちました。汗に血が混じっていたとも考えられますが、おそらく血のようにボタボタと落ちたということでしょう。イエス様はサタンの誘惑を退け、杯を飲む決心をされました。でも、弟子たちはどうだったでしょう?また、寝入っていました。「お祈りが、おい寝り」になっていたのです。徹夜祈祷会ではよくあることです。イエス様は「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と命じておられました。でも、弟子たちは眠って、祈り続けることができませんでした。どうなったでしょう?やがて来る誘惑に負けました。この後、イエス様は祭司長が遣わした人たちに捕えられます。ペテロはちょっとだけ抵抗しました。マタイ2656「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」と書いてあります。少し前、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と誓っていました。しかし、「イエス様を知らない」と3度も否定しました。ペテロは自分も捕えられて殺されるのではないかと恐れたからです。ペテロは一生の不覚、大失敗、大失態を犯してしまいました。なぜなら、ゲツセマネで十分に祈っていなかったからです。他の弟子たちも同じです。

 イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と言われました。私たちはどのような誘惑に遭遇するでしょうか?サタンは私たちの弱点を知っています。お金に弱い人がいます。性的な誘惑に弱い人がいます。他には、怒りの爆発、プライド、臆病、諦め、嘘やごまかし…。サタンは「今が良ければいいじゃないか」と誘惑します。「後にどうなるかは」言ってくれません。大体、誘惑に負けて何かをしでかした後、「ああ、何てことをしたんだ」と頭をかかえることになります。つまり、誘惑に会ったときは、サタンにやられて自動的に反応することが多いのです。だから、誘惑に会うその前に、祈っておく必要があるのです。だれかと会う前、何かを始める前に、ちょっと静まって祈ると大分違います。イエス様の場合は、十字架に付けられるとても重要な局面でした。だから、サタンも全力で妨げようとしたのでしょう。私たちも普段から、誘惑に陥らないように祈っている必要があります。私たちは聖日礼拝の最後に主の祈りを賛美します。その時、「試みに会わせず、悪より救い出しー」と賛美します。一週間、一回でも、そのように心をこめて賛美するならば、何と幸いでしょう。みなさんが、「試みに会わせず、悪より救い出しー」と賛美する瞬間、私たちの生活全部が聖霊様によって点検される時ではないでしょうか?あの賛美は私たちの願いであり、祈りです。賛美した直後、忘れるかもしれませんが、神さまには届いています。「目をさまして祈っていなさい」とは、イエス様につながっているということです。つまり、それは私たちが気づかないところを、イエス様が守って、誘惑から遠ざけてくださるということです。誘惑に負けない方法は、アルソックやセコムではありません。イエス様の名前で祈ることです。そうすれば、イエス様が共にいて守ってくださいます。

2.みこころがなるように

 後半はゲツセマネでのイエスさまの祈りについて学びたいと思います。他の福音書よりも、マタイの方が詳しく書かれています。イエス様は3回同じことばで祈りましたが、マタイ福音書にはその2回が記されているからです。1回目と2回目は微妙に違います。おそらく、3回目はもっと違っていたのではないかと思います。「杯を飲みます!」と迷いのない祈りだったのではないでしょうか。まず、最初の祈りを見て行きたいと思います。マタイ2639「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」英語では、if it possibleとなっています。この祈りから福音書のある記事を思い出します。一人のお父さんが悪霊につかれた息子を癒してくださるようにイエス様にお願いしました。その時「ただ、もし、おできになるものなら」と願いました(マルコ922)。英語の聖書はIf you can doです。イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と答えました。ある聖書はAll things are possibleとなっています。イエス様は「もし、できるなら?」という中途半端で不信仰な祈りはお嫌いだったようです。しかし、イエス様ご自身がこのところで、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と御父に祈っています。おそらく、イエス様は父の御心を100%ご存じだったでしょう。なぜなら、そのためにこの地上に来られたからです。これまでも、何度か、ご自分が苦しみを受けて死ぬと弟子たちに予告しています。この期に及んで、何故、そのような気弱な祈りをするのでしょうか?しかも、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。私たちはイエス様がなぜ、中途半端で、迷っているような祈りをここでしているのか知る必要があります。

 まず、「杯を飲む」とはどういう意味か知る必要があります。聖書辞典には、このように書かれていました。「杯」という表現は、普通は杯の内容を指し、しかも、それを飲み干すべきものとして用いられる。旧約、新約両方において、象徴的に用いられる場合、「分け前」「分配」「運命」の意味を持つが、多くの場合、神のさばき、怒り、災い等、悲しみや苦しみを表すのに用いられる。そのように書いてありました。つまり、イエス様にとって杯を飲むとは、人類の代わりに罪を負って、神にさばかれて死ぬということです。私たちは罪の概念がそんなにありません。なぜなら、初めから罪の中で生まれ、知らずに罪を犯してきたからです。でも、イエス様は罪を知らないお方であり、常に御父と親しく交わっていました。でも、そこに罪が入ると、交わりが断たれ、御父から捨てられてしまうのです。おそらく、イエス様が一番怖かったのは、十字架刑の苦しみではなく、罪のゆえに父から断絶されて、地獄に落とされることだったのではないでしょうか?パウロはそのことをこう説明しています。Ⅱコリント521「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」パウロは「人類の罪を背負ったのではなく、罪そのものとなった」と言っているのです。それは、私たちがとても体験できないことです。たとえば、赤ちゃんの皮膚と大人の皮膚は全く違います。もし、赤ちゃんの皮膚に熱湯がかかったならば、どうなるでしょう?大やけどになり、治っても、傷が残るかもしれません。大人はどうでしょう?「あっち!」と叫んで、耳たぶにあてます。その後、水道水で冷やすでしょう。ちょっと赤くなるか、ひどくて水ぶくれです。でも、赤ちゃんほどではないでしょう。それと同じで、1つの罪も経験したことがないイエス様が、全人類の罪をかぶるとなるとどうなるでしょうか?当然、他に方法はないのか、祈りたくなるでしょう。イエス様も、ありのままで、御父に祈ったのではないでしょうか?

 こういうことを言うと、「イエス様を冒瀆しているんじゃないか」とお叱りを受けるかもしれません。イエス様が躊躇した、もう1つ理由があります。それは、イエス様が私たちと同じ肉体を持っておられたということです。それは私たちと同じような感情や意志を持つということでもあります。私たち人間の生まれつきの性質は何でしょう?「自分だけは楽をしたい。自分だけは生き延びたい。自分だけは嫌われたくない。自分だけが良いと思われたい」ではないでしょうか?もちろん、私たちには理性がありますので、「いや、いやそうじゃない」と切り替えるでしょう。イエス様には私たちのような罪の性質はありませんでしたが、自由意志だけはあったと思います。それは神さまが与えた人間が持っている最高のものです。イエス様はその自由意志をどうしたのでしょうか?「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈りました。イエス様ははじめから「みこころがなるように」とは祈っていません。「杯を飲むのは嫌です。別の方法はないのでしょうか?」と自分の気持ちをそのままぶつけました。その後に、「みこころがなるように」と祈られたのです。二度目の祈りは何となっているでしょう?マタイ2642「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」2度目の祈りは、your will be done.父なる神さまに明け渡しているような祈りです。つまりこういうことです。人間としてのイエス様の願いや考えがありました。もう1つは、父なる神の願いや考えがありました。人間イエスとしては、「杯を飲むのは嫌です。何も悪いことをしていないのに、他の人の罪なんか負いたくありません」です。しかし、御父の願いは「お前が身代わりに罪を負ってさばきを受けないと、人類の罪を赦すことはできない」であります。イエス様は頭では分かっていましたが、人間としての性質上、葛藤がありました。でも、最後に自分の願いを諦め、御父の願いに譲ったのです。これを「明け渡し」と言います。英語ではsurrender「降参、降伏」です。つまり、イエス様は父の御心に降参したのです。

 旧約と新約聖書一日一章を書いた榎本保郎師がこのように言っておられます。イエス様は「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」と祈られました。この「しかし」は偉大な「しかし」です。もし、イエス様が「私の願うように」と、どこまでも要求していたらな、人類の贖いはなされなかったからです。「しかし」とご自分の願いを捨てて、御父のみこころを選び取ったので、人類の贖いがなされたのです。アーメンです。でも、イエス様ですら、ご自分を明け渡すまで、血のしたたりのような汗を流し、小一時間祈る必要がありました。人間の意志がどれだけ頑固なのか、このところから知ることができます。私たちはイエス様が人間性に必死に格闘して、「しかし、みこころがなるように」とご自分を明け渡して下さったことを感謝しなければなりません。ヘブル人への手紙にはイエス様がまことの大祭司となるために、苦しまれたということが何か所にも記されています。ヘブル57-10「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」このところに記されている「大きな叫び声と涙とをもって祈り」は、ゲツセマネの祈りのことを言っているのではないかと思います。あのイエス様ですら、多くの苦しみによって従順を学ぶ必要があったということです。イエス様は私たちが受ける苦しみや誘惑を通られたので、まことの大祭司になることができたのです。

 あなたにとってのゲツセマネは何でしょうか?父なる神のみこころが聖書からはっきりと知っているにもかかわらず、「いやです」と自分の意思や願いを曲げないところはないでしょうか?もし、それが人生を左右するものであったら、大変なことであります。イエス様は「大きな叫び声と涙とをもって祈り」ました。ゲツセマネの祈りには、恥も外聞も、体裁もありません。イエス様は身を投げ出して、自分の思いをぶちまけました。あなたは、そのような神さまと親しい関係を持っているでしょうか?もしかしたら、「あなたのみこころがなりますように」と良い子ぶった祈りをしているのではないでしょうか?そのような祈りは、表面的なものであって、誘惑に会ったら全部吹き飛んでしまうでしょう。そうではなく、心の奥そこにあるものをぶちまけるのです。大きな叫び声と涙とをもって祈るのです。もし、自分の意思や願いが間違っていると分かったなら、その時、「あなたのみこころがなりますように」と父の御心を選択しなければなりません。イエス様は十字架を前にして、このように祈る必要がありました。イエス様はご自分の願いを捨てて、「杯を飲み干す」と決断されました。言い換えると、罪をかぶって十字架で死ぬ覚悟ができたのです。この後、イエス様は捕えられ、不当な裁判を受け、鞭でたたかれ、十字架を背負わされてゴルゴタまで行進します。ローマ総督のピラトが驚きました。「ひとことも」言わないからです。普通、十字架刑を受ける人は「やめろ!俺は悪くない。助けてくれ」と願うものです。ピラトはユダヤ人の妬みが原因であり、この人には罪がないことを知っていました。なのに、イエス様は「ひとことも」言いませんでした。それは、イエス様が十字架で身代わりに死ぬ覚悟ができていたからです。十字架の前に、ゲツセマネの祈りがあったからです。あなたのゲツセマネは何でしょうか?お産する直前、手術を受ける直前、あるいは重大なことに備えるためでしょうか?何にしても覚悟が必要です。それは、父なる神に完全に明け渡したときに与えられるものです。

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