« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »

2018年1月26日 (金)

最後の晩餐 マタイ26:17-29 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.28

 「最後の晩餐」と聞くと、レオナルド・ダビンチの壁画を連想するかもしれません。しかし、あの絵は一同がテーブルにこっち向きに座っている構図になっています。実際は、体を横にして、食べ物を囲んで円形になっていたと思われます。イエス様の右隣りにはヨハネがいましたが、左隣りにはユダがいたと思われます。ダビンチの壁画ではヨハネの向こう隣りで金袋を握っている人物がユダです。この食事は旧約聖書の出エジプトの出来事を忘れないための「過越しの食事」でした。イエス様ご自身が、過ぎ越しの羊となるということを預言している出来事です。

1.ユダの裏切り

 最後の晩餐の席に、イスカリオテのユダもいました。ユダはなぜ、イエス様を裏切ったのでしょう?イエス様はユダが裏切ることを知っていたのに、なぜ破門しなかったのでしょうか?いろんな疑問がありますが、時間の経過とともに考えたいと思います。イエス様は12弟子を選ぶ前に、一晩祈られたとルカ福音書に書かれています。そんなに長く祈ったのに、ご自身を裏切るユダを選ぶとは何事でしょう。実は、12はイスラエルの部族の数です。イエス様は新しいイスラエルを形成するために、12人の弟子を呼び寄せ、彼らに「使徒」という名前をつけました。「使徒」は、派遣された者、「使者」という意味」です。旧約聖書を見るとわかりますが、イスラエルはソロモンの後、北と南に分かれました。北の10部族は神から離れ、偶像礼拝をしました。南のユダも結局、罪を犯してバビロンに滅ぼされました。イスラエルは主への反逆と裏切りの歴史と言っても過言ではありません。ですから、イエス様がユダを選んだのは、そのイスラエルの代表であり、できれば回復したかったからではないでしょうか?イエス様が捕えられたとき、他の弟子たちはみんな逃げ去りました。一番弟子のペテロはイエス様を三度も知らないと否みました。イエス様が「この中のだれかが私を裏切る」と告げました。その時、弟子たちは「主よ、まさか私ではないでしょう」とかわるがわる言いました。本当は、ユダだけではなく、弟子全員がイエス様を裏切ったのです。しかし、ユダは直接、イエス様を売ったということで罪が重かったのです。でも、ユダにもイエス様は悔い改めるチャンスを与えていたことは確かです。

 でも、どうしてユダはイエス様を裏切ったのでしょうか?いろんな説があります。弟子たちのすべてが、「イエス様がイスラエルを再建してくださる王様だ。王国ができた暁には、大臣になって仕えるんだ」と思っていたのです。そのため、仕事も持ち物も捨てて、従って来たのです。ところが、イエス様は「エルサレムで苦しみを受けて、死ぬ」と何度も予告されました。これを聞いたユダは、「それじゃ、元も子もないじゃないか!人生を賭けて従ってきたのに!」という怒りと憎しみが湧いてきたのでしょう。なぜなら、ユダは会計係りを担当するくらい、計算高い人だったからです。実際はそのお金をくすねていたのですから、神の国というよりは、打算でついてきたのです。彼に裏切りを働かせるために、2つの力が働いていたと思われます。第一は祭司長や長老たちです。第二はサタンの誘惑です。263,4節に書いてありますが、祭司長や民の長老たちが、イエス様をだまして捕え、殺そうと相談していました。ルカ福音書を見ますと、もっと詳しく書かれています。ルカ223-6「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」このところには、「ユダに、サタンが入った」と書かれています。ユダは彼らと取引をして、機会を狙っていました。その後、最後の晩餐でイエス様と一緒に食事をします。イエス様がこれらのことを超自然的に理解していたと思われます。

 いよいよ、夕食が始まりました。その中の会話が問題です。マタイ2623-25「イエスは答えて言われた。『わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。』すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。『先生。まさか私のことではないでしょう。』イエスは彼に、『いや、そうだ』と言われた。」もし、イエス様がこれらのことを大声でおっしゃっていたなら、他の弟子たちは「ああ、裏切り者はユダなんだ」と分かったでしょう。私たちはもう少し映像化する必要があります。イエス様が「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです」とおっしゃいました。これは右隣にいたヨハネに伝えたのです。なぜなら、ペテロが「だれが裏切るのか知らせてくれ」とヨハネに合図をしたからです。「主よ、それはだれですか」とヨハネが聞いたので、イエス様が小声で答えられました。そして、イエス様はパン切れを浸して、ユダに与えました。ユダが「先生。まさか私のことではないでしょう」と言うと、イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われました。このやり取りを知っているのは、イエス様とヨハネとユダの三人だけです。でも、何故このようなことをしたのでしょう?それは、ユダに悔い改めるチャンスを与えるためです。でも、サタンによって思いが捕えられていたので、変更不可能でした。

 ある人たちは「ユダの裏切りがなければ、十字架はなかったであろう。ユダも救われたのではないだろうか?」と言います。バルトという神学者も「ユダの行為が世の救いにとって不可欠であった、神の摂理であった」と論じているようです。『沈黙』を書いた、遠藤周作氏もユダを擁護しています。中川健一牧師は「ユダのような人は、ユダを弁護しがちである」とおっしゃいました。私は「ユダがいなければ、十字架の贖いが成し遂げられなかった。ユダも救われる可能性がある」とは考えません。イエス様ははっきりと「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とおっしゃっているからです。イエス様がこの世に来られたのは十字架で贖いの死を成し遂げるためでした。でも、イエス様を直接、裏切る人は災いです。なんとイエス様は「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とまで言い切りました。おそらく、世界中、このようなことばを受けるのはユダだけでしょう。それだけ、ユダの罪は重いと言うことです。ユダは後から「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と後悔しました。でも、イエス様のところには戻りませんでした。その代り、首をつって死にました。罪を贖うイエス様を信じていなかったので、自分で解決しようとしたのです。まさしく、ユダは神さまから捨てられた人です。でも、もう一度言いますが、イエス様は最後の最後まで、チャンスを与えておられたということです。ヨハネ13章には「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」文語訳は「極みまで愛された」と書いてあるからです。その中にはユダも含まれていたのです。

 パウロは「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ1129と言いました。これは、「神がイスラエルを選んだ」という文脈で語られていることばです。神がイスラエルを選んだように、ユダも選ばれていたのです。イエス様が一晩祈ったのですから、葛藤があったと思われます。でも、イエス様は御父のみこころに従い、ご自分を裏切るであろうユダをも選びました。イエス様の中に、三年半ずっとこの思いがあったでしょう。ユダは、胸に突き刺さっている刺のようだったかもしれません。それでも、弟子たちと同様、最後まで愛し通されました。なぜなら、ご自身と御父が使徒として選んだからです。「神の賜物と召命とは変わることがない」というのは、私たちに対する主のことばでもあります。でも、勘違いしてはいけません。「神の賜物と召命」が自動的に続くかというとそうではありません。「神の賜物と召命」にあぐらをかいて、神さまに反逆して、神さまを試みたりしてはいけません。まさしく、それがイスラエルであり、ユダでした。「主の恵みあわれみは尽きることがない」というのは本当です。神さまは常に私たちを無条件に一方的に愛しておられます。しかし、神さまは私たちに自由意志も与えておられます。私たちが「神の賜物と召命」に応える必要が残されているのです。たとえそれが完璧でなくても、いくらかあれば、神さまは「十分である」とみなしてくださるでしょう。それこそが愛でありあわれみなのです。「全くない、そんなの結構です」という人には、届かないと思います。たとえば、ペットボトルがあります。ある人は、その蓋を閉じているかもしれません。このようにして私のメッセージを聞いていても、その蓋を閉じている可能性はあります。大人は、子どもと違って聞いているふりをすることができるからです。でも、ちょっとだけでも口が開いているなら、わずかずつですが入ります。

 聖歌に「ユダにはなるまじ」という黒人霊歌があります。その賛美は、私を弟子として召されたからには、主を裏切る者にはなりたくないという内容です。イエス様はユダのことで、とても悲しみました。そして、深く嘆きました。私たちを愛しているイエス様を悲しませてはいけません。私たちを極みまで愛されるイエス様の愛にお答えしたいと思います。「神の賜物と召命とは変わることがない」という神さまの真実にお答えしたいと思います。そのために、いつもヨハネのようにイエス様と親しく交わり、イエス様の愛と恵みをいただきながら生活いたしましょう。

2.過ぎ越しの食事

 最後の晩餐は、「過越しの祭り」の中で行われました。過越しの祭りというのは、イスラエルがエジプトから救い出された偉大なる出来事を記念するためでした。四百年間もエジプトに捕えられていたイスラエルは、10番目の奇跡によってパロ王から解放されました。エジプト中の人をはじめ家畜に至るまで、一晩のうちにことごとく初子(長子)が殺されたからです。「過ぎ越す」というのは神の怒りが過ぎ越すと言う意味です。では、どうしたら神の怒りから免れることができるのでしょうか?イスラエルの人たちは傷のない一歳の雄の羊を殺しました。そして、その血を家の門柱とかもいに塗りました。その晩、イスラエルの人たちは家の中に入って、ほふられた羊の肉と種入れないパンに苦菜を添えて食べました。その夜、主がエジプトの地を巡りました。主は家々の血を見て、通り過ぎました。しかし、血を塗っていない家は、人から家畜にいたるまで、その初子が打たれて死にました。パロ王の息子も死んで、エジプトには激しい泣き叫びが起こりました。イエス様が最後の晩餐で行われたのは「過越しの食事」でありました。しかし、ただ旧約聖書の出来事を記念したのではありません。ご自身が過越しの羊であり、罪と滅びから解放するメシヤであることを示されたのです。このところでは、パンがイエス様のからだであり、ぶどう酒がイエス様の血であると言われています。これは旧約聖書の成就であり、キリストによる新しい契約と言うことができます。

 もう少し、福音書から詳しく学びたいと思います。マタイ2626-28「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」これは私たちが月一度やっている聖餐式の起源であります。でも、「このことをしなさい」とは、マタイ福音書にもマルコ福音書にも書かれていません。ルカだけが「わたしを覚えてこれを行いなさい。」(ルカ2219)と命じています。あとは、使徒パウロがコリントの教会で、ルカに書かれていることばを引用しています。つまり、過越しの食事の第一の意味は、イエス様と弟子たちとの間で交わされた新しい契約だということです。そして、聖餐式は私たちがその新しい契約を思い出して、その契約の中に生きる決断をするということです。ローマ・カトリックが言うように、パンがイエス様の肉で、ぶどう酒がイエス様の血ということではありません。また、聖餐式のパンとぶどう酒に魔術的な力があるわけでもありません。では、それはどういう意味なのでしょうか?イエス様はパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』と言われました。これは先ほども申し上げましたが、イエスさまが「傷のない一歳の雄の羊」だということです。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ129と言いました。つまり、イエス様はご自分が十字架に死ぬ前に、裂かれるご自分のからだと流す血の意味を教えたのです。ヨハネ6章にも同じことが書かれていますが、食べるあるいは飲むということは、イエス様と一体になるということです。もし、体に入れるものが毒であるならば、死んでしまいます。イエス様は「私はいのちのパンである。私を食べる者は死んでも生きる」とおっしゃいました。それは信仰を意味しており、イエス様をまるごと受け入れるということです。

 私たちは聖餐式のとき、2つのことを確認し、思い出す必要があります。第一は裂かれたパンは、十字架の上で裂かれたキリストのからだだということです。旧約聖書の動物は裂かれなければなりませんでした。イエス様も釘を打たれ、最後に脇腹をやりで刺されました。私たちは信じるだけで救われますが、その背後にはイエス様の尊い犠牲があったということを忘れてはいけません。もちろん、イエス様は「感謝しろ」とはおっしゃいません。私たちがイエス様の支払われた代価を考えるとき、簡単に信仰を捨ててしまおうとは思わなくなります。ただでもらったものは、簡単に手放してしまいます。私たちも信じるだけで救いを受けるのですから、手放してしまう傾向があります。そうではなく、私たちが救われるために、イエス様がどれだけ苦しまれ、どれだけの代価を支払ってくださったか、聖餐式を通して体験的に理解するのです。第二はぶどう酒は流された血潮だということです。イエス様の時代はぶどう酒が水のように日常的なものでした。ところが、現代は会衆の中に元アルコール中毒の人もいますので、ジュースにしています。もちろん、ぶどう酒にしている教会もあります。しかし、流された血の意味が重要です。イエス様は「わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」と言われました。旧約時代、きよい動物が身代わりに殺され、祭壇にその血を注ぎました。血はいのちであり、血でしか罪をあがなうことができません。本来は罪を犯した人が血を流すべきなのですが、動物が殺され血を流しました。世の終わり、イエス様が来られ、永遠で一回の犠牲となり、血を流してくださいました。そのため、私たちのすべての罪が赦されているのです。でも、イエス様は「わたしの契約の血です」とも言われました。この意味はイエス様が死をもって旧約の律法に対する罪の清算をして、今度は新しい契約を結ぶためにご自身の血を流されたということです。つまり、新約時代を開始するため流された血なのです。

 日本人は契約というこ

とを理解できません。なぜなら、単一民族で生きているからです。今日会った人は、明日も会うので、堅苦しい契約はしません。「顔なじみ」でやってしまうところがあります。しかし、重要なものは「証文」とか「売買契約」を交わしています。世の中にいろんな契約がありますが、それがどのくらい重いか分かりません。結婚も契約なのですが、簡単に破ってしまいます。しかし、大陸の人たちは、私たちと違います。国境がつながっており、いろんな民族が行き来しています。今日会った人は、明日も会うという保証がありません。顔なじみという考えはなく、すべてのものが契約になります。旧約聖書では契約を交わすとき、動物を二つに切って、その間を両者が通りました。それはどういう意味かと言うと、「契約を破ったらこのようになるよ」ということなのです。まさに、命がけであります。昔は、契約書は血判を用いたようです。日本でもそういうことがありました。現代の朱印がそのなごりです。つまり、契約は安易なものではなく、生命に関わることだということです。一度契約を結んだら、命を賭けてでも守らなければなりません。現代は「契約社員」などと言うと、社員よりも責任が軽い意味で使われているようです。とんでもありません。「契約」はとても重いことばです。そんなふうに用いてもらいたくありません。本題に戻りたいと思いますが、聖餐式は神との契約を思い出す時でもあります。私たち人間は本当にいい加減であり、10個契約を結んでも、10個破ってしまうでしょう。旧約聖書にはたくさんの神との契約が記されています。最初のものはアダム契約でした。ノア契約があります。アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約もあります。しかし、人間はことごとくそれらの契約破り、失敗しました。罪ある人間が聖なる神さまと対等に契約を交わすことは不可能です。そのため、神が人となられたイエス様が、私たちの代表として契約を交わしてくださいました。ヘブル人への手紙には、イエス様は神からの大祭司、完全な仲保者と書かれています。イエス様は真実であり、失敗しません。そのイエス様が私たちの代わりに父なる神さまと契約を結んでくださったのです。その時、私たちはどこにいたのでしょうか?イエス様を信じるとイエス様と一体になるとローマ人への手紙に書かれています。そうです。私たちはそのとき、イエス様のからだの中にいたのです。かしらであるキリストとからだである教会を考えてください。かしらなるイエス様がからだの代表として、父なる神さまと契約を結んでくださったのです。

 Ⅱテモテにすばらしいみことばがあります。Ⅱテモテ213「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」英語で真実は、faithfulです。字義どおりに見ると「信仰でいっぱい」という意味です。私たちの信仰がいい加減でも、私たちが信じているイエス様が真実、信仰でいっぱいならば大丈夫なのではないでしょうか?でも、私たちになすべき課題が残されています。それは、真実なキリストのうちに留まるということです。言い換えるなら、イエス様によってなされた契約の内を歩むということです。契約の外に出てはなりません。それは、ユダのようにイエス様を試すことになるからです。私たちは自分をセーブ、制限しなければなりません。制限とはどういう意味でしょう。イエス様はヨハネ15章でこのように言われました。ヨハネ155「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」私たちは、イエス様から離れて生きてゆけないということです。言い換えると、自分の肉の力により頼まず、御霊によって歩むということです。ついつい私たちは古い人のなごりで、肉や知恵に頼ってしまいます。肉はアダムから来たものです。私たちは古い人に一度、死んだ存在です。今はキリストと結ばれていますので、キリストからすべてのものを得なければなりません。大事なことは、キリストにつがなっていれば、血潮によっておおわれ罪の赦しを歩むことができます。ハレルヤ!キリストにつながっていれば、死に至るまで忠実に歩むことができるのです。

|

2018年1月20日 (土)

高価な香油 マタイ26:1-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.21

 世の終わりについての教えが終わりました。マタイ26章のはじめに「イエス様を捕えて、殺そう」という不遜な動きがしるされています。ところが、その前に一服の清涼とも思えるような出来事がありました。イエス様はベタニヤで親しい人たちと食卓に着いていました。当時は体を横たえて食事をしていました。おそらく、左手で体を支えながら、右手をのばして食べ物を取ったと思われます。そういうところに、香油を携えた女性がイエス様のそばにやってきました。ヨハネによる福音書から、この女性はマルタの妹、マリヤであることがわかります。

1.マリヤの信仰と献身

 この女性はイエス様の母マリヤではありません。新約聖書にマリヤは少なくとも4人登場します。マリヤの弟はラザロであり、イエス様からよみがえらされた男性です。ヨハネによる福音書には、ラザロも一緒に食卓についていたと書かれています。前半のポイントは「マリヤの信仰と献身」ですが、弟ラザロに対する感謝の気持もあったに違いありません。このマリヤの捧げものから、イエス様に対する愛、信仰、そして献身を読み取ることができます。マリヤは何をイエス様にささげたのでしょう?マタイ267「ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」マルコによる福音書には「純粋で、非常に高価なナルド油」と詳しく書かれています。つまり、マリヤがささげたものは品質、qualityが高かったということです。現代の私たちも、qualityが高かいとか、低いとか言います。金などは純度何%と問われます。また、食べ物や飲み物も品質管理がうるさいです。たまに不純物が入っていたということで、全製品を回収したりします。最近は音楽や芸の世界でも、qualityが高いとか低いとか言います。では、神様の前にささげる物や奉仕はどのレベルであるべきなのでしょうか?旧約聖書では、はじめて採れた「はつなり」を主にささげなさいと言われていました。創世記にアベルとカインの物語があります。カインは地の作物から主へのささげ物を持ってきました。一方、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主はアベルとそのささげ物とに目をとめられました。だが、カインとそのささげ物には目をとめられませんでした(創世記43-5)。おそらくカインは作物の中の1つ、one of themを持ってきたのでしょう。一方、アベルは羊の初子の中から、それも最上のもの、the best of allを持ってきました。主はアベルとアベルのささげ物に目をとめました。英語の聖書はrespect重んじたと書かれています。注目すべきことは、ささげた物の品質がその人自身を象徴しているということです。彼女は純粋で、非常に高価なナルド油イエス様にささげました。それはマリヤ自身の信仰と献身を象徴しています。

 もう1つはその量であります。英語ではquantityと言います。Qualityもすごかったけど、quantityもすごかったのです。ところで、ナルドとはどのような香油なのでしょうか?ナルドは、おみなえし科の宿根草で、今ではすでに古典的香料の一つとなっており、簡単に入手できなくなっています。今日ではヒマラヤ山中の村々で栽培されているということです。おそらく、とても高価な香油なのでしょう。ところが、マリヤは香油を壺ごと注いだのであります。マルコ福音書は「その壺を割り、イエスの頭に注いだ」と書かれています。どれくらいの価値かと申しますと、「その量は300グラムで売ったら、300デナリになる」とヨハネ福音書に書かれています。1デナリが今日で約1万円ですから、300万円ということになります。一滴や二滴ではありません。300CC300万円分です。だから、弟子たちは「何のために、こんな無駄なことをするのか」と憤慨しました。高価な香油を壺ごと全部注いだというところにも、マリヤの信仰と献身を見ることができます。旧約聖書でアブラハムが御使いたちをもてなした記事があります。「ちょっとだけ」と言いながら、「三セアの上等の小麦粉でパン菓子を作り、おいしそうな子牛一頭を料理しました(創世記186-8)。三セアの小麦は約22リットルです。すごい量です。では、ロトはどうでしょうか?彼は「どうぞ」としきりに勧めましたが、パン種の入っていないパンでした。堅くて食べられないですね。神様に対する信仰と献身がアブラハムとロトとは明らかに違います。私たちは神様のささげるとき、「もったいない」とけちる時はないでしょうか。「献金はお金をどぶに捨てるようなものだ」と考えるなら寂しいですね。

ところが、弟子たちはそう思ったのです。マタイ268-9「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。』」一見、正論のように聞こえますが、これは貧しい人たちのことを思っているのではありません。ヨハネ福音書にはこのことを言ったのは、ユダであると書かれています。ヨハネ12:6 「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」この頃、ユダは「いつイエス様を売ろうか」と、機会をねらっていました(参考.ヨハネ621)。なぜなら、イエス様がこの世の王になることを諦め、エルサレムで死ぬと言っているからです。ユダはイエス様に対する望みが消えうせると同時に憎しみが湧き上がってきました。ユダは会計係りを任されていることを良いことに、その中から盗んでいました。彼が「それを売れば、貧しい人たちに施しができたのに」と言ったのは、自分の懐に入らないからです。しかし、「何のために、こんなむだなことをするのか」と思ったのは、ユダだけではなく、他の弟子たちも同じでした。なぜなら、マリヤのようにイエス様に対する信仰と献身がなかったからです。だれが一番偉いか争っていたのですから、イエス様を利用していたのと同じです。

 私は洗礼を受けて、半年後、献身しました。しかし、動機は純粋ではありませんでした。私を導いてくれた先輩はアメリカの神学校に行く予定でした。しかし、私にはそのようなコネはありません。そのため、「日本の神学校だったら」と大川牧師に頼んだのです。大川牧師はそのことを見抜いておられたのか、私を志願兵として受け入れて下さいました。志願兵というのは、上から召されたのではなく、自分から申し出たという感じがします。もちろん、その時はイエス様の弟子になりたいと思っていましたが、「日本でも、しょうがないか」という気持ちもありました。神学校の入試も「落ちる人なんかいないんだ」と、非常に舐めてかかっていました。それに、私から見ると神学校の学生たちは、ボンボンで世間知らずに見えました。「何が神様からの召命だ、賜物もないくせに」と半分馬鹿にしていました。また、大川牧師のもとでスタッフが何人かいました。特に、口うるさい副牧師のことが気に障り、ライバル心がメラメラ燃えていました。だれが説教うまいか競い合っていました。ですから、イエス様の弟子たち、そしてユダのことを馬鹿にてきません。動機の不純さから言えば、50100歩だったからです。でも、イエス様の贖いによって救われたことがだんだんわかり始めました。罪赦され、永遠のいのちが与えられたことを思うとありがたくて涙が出ました。その頃、『ちいろば先生物語』の榎本保朗牧師が有名でした。榎本牧師は「人々は自分を見ていると思っていたけど、お乗せしているイエス様なんだ」と分かったそうです。私もだんだんと聖められ、「イエス様のしもべ」になることを決意しました。弟子ではなく、「しもべで良いんだ」と思えるようになったのです。でも、33歳で亀有に赴任したときは、大教会を目指していましたので、まだまだギラギラしていました。教会も当初、宣言したように、成長しなかったので、ずいぶんと砕かれました。でも、若い時に、神様に献身できたということは、今、思えばすばらしい特権であると思います。

 聖歌338番は、「いとも良きものを君にささげよ、熱きなが心、若き力よ」と賛美します。「若き力をささげよ」となっています。献身も年をとってからではなく、若くてまだエネルギーがあふれているときが良いと思います。会社にエネルギーを全部吸い取られたあと、出がらしを捧げても「何だかなー?」と思います。牧師のような直接献身だけが道ではありませんが、マリヤの信仰と献身は学ぶべきではないかと思います。彼女はイエス様を本当に愛していました。ある学者は「300デナリのナルド油は、家宝であり、彼女の嫁入り道具ではなかっただろうか」と言っています。ということは、マリヤは結婚を後回しにして、イエス様に「純粋で、非常に高価なナルド油」を壺ごとささげたのです。女性にとって、結婚こそが人生で最も重要なイベントかもしれません。しかし、マリヤはそうではありませんでした。その後、マリヤが結婚したかどうかは分かりませんが、主イエス様に対する愛は、男女の愛を超えた、次元の違う愛です。さきほど、アベルのことを取り上げました。ヘブル114「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」何を語っているのでしょう?アベルは兄に殺され、短い人生でしかありませんでした。でも、神様は豊かに報いでくださるということを語っているのです。神様は私たちの精一杯の捧げものを軽んじることなく、価値あるものとして喜んでくださいます。

2.マリヤの霊的理解力

 マタイ26:12-13「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」イエス様はマリヤのしたことをとても喜ばれました。そして、「わたしの埋葬の用意をしてくれたのです」と解釈しました。マルコ14章には「前もって油を塗ってくれたのです」と書いてあります。おそらく、マリヤはイエス様がまもなく死んで葬られるということを知っていたのでしょう。マリヤは「油を注ぐのは今しかない」と決断したのです。十字架の死の後、復活の朝ですが女性たちが油を塗るために出かけました。でも、どうだったでしょうか?マルコ161-2「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。」すると、御使いが「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」と言いました。すでに復活していたので、油を塗る必要がなかったのです。マタイ26章後半になると、イエス様はゲツセマネの園で捕えられ、ユダヤ人とローマの裁判にかけられます。そして、十字架を背負わされて、ゴルゴタの丘で死にます。ということは、この時以外に油を塗ることはできなかったということです。あとから、婦人たちがイエス様のおからだに油を塗ろうと出かけましたが、Its too late.遅かったのです。つまり、マリヤはチャンスを逃さなかったということです。でも、どうして、マリヤはイエス様がまもなく捕えられ、十字架で死ぬということを知っていたのでしょう?

 ルカ1039「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」とあります。姉のマルタはイライラして「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」とイエス様に言いました。イエス様は「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」と言われました。マリヤは普段からイエス様のそばに座って、みことばに聞き入っていました。つまり、マリヤは他の人たちには分からないことが分かっていたのです。主のみことばに聞き入って、この先どうなるか理解していたのです。でも、他の弟子たちは目に霞がかかって分かりませんでした。私たちは叱られた姉のマルタを同情します。「あれだけ働いているのに、ひどいじゃないか。それに比べ、だまって座っているマリヤは何なんだろう」と思うかもしれません。ベターはベストの敵であると言われます。マルタはベターでしたが、マリヤはベストを選んでいたのです。ベストと言っても春日が来ているチョッキvestではありません。Bestです。私たちは不思議なもので、体を動かすと思考がストップします。体を動かしながら、深く考えることができません。私もかつて現場で走り回っていました。「事務のやつらはエアコンが効いている部屋で楽だなー」と思いました。ところが転職してデスクの前に座る仕事になりました。お尻が痛くて、しょうがありませんでした。私も教会内でいろんな作業をしますが、体を動かすと深く考えることができなくなります。詩篇46篇にすばらしいことばがあります。詩篇46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と書かれています。英語の聖書はbe still「静まれ」ですが、日本語の聖書は「やめよ」です。こちらの方が厳しく感じます。現代的に言うなら、「いたずらに動かないで、みことばを読んで瞑想せよ」ということなのでしょう。

 伝道者の書には「すべてに時がある」と記されています。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」最後に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者311と書いてあります。神さまは永遠なのですべてのことをご存じです。だから、「一番良い時はいつでしょうか?」と神さまに聞くしかありません。そうすれば、私たちを愛しておられる父なる神さまが打ち明けてくださるに違いありません。私も自分の人生を振り返ると、「ああ、神さまが導いてくださったんだなー」と感謝が湧き上がってきます。マリヤの「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」というのは、まさしく弟子の姿です。だから、彼女はイエス様の「十字架の時」を知っていたのです。私たちの人生にはいくつかの大事な時があります。その決定的な時を逃さないように、主の足もとでみことばに聞く者となりたいと思います。

3.マリヤの記念物

 マタイ2613 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」「まことに」とは、「アーメン、本当に」という意味です。確かに私たちはこの聖書をもっており、聖書からマリヤのしたことを知ることができます。マタイもマルコも「世界」ということばを使っています。彼らは「この福音が世界中に伝わるので、そのときマリヤのことも語られる」と確信していたのでしょう。でも、わからないのは「この人の記念となる」という意味です。ギリシャ語は「記念物」という意味です。その動詞形は「思い出す」「覚えている」ですから、英語ではmemoryです。それがmemorialとなります。つまりそのことを思い出すための「記念物」であります。ナルドの香油はとても強い香りがするそうです。それを300グラム、壺ごとささげたのですから、部屋いっぱいに香りが満ちたでしょう。イエス様のおからだ全部に注がれたのですから、その香りは、裁判所、ゴルゴタの道、十字架の死までも続いたに違いありません。しかし、それだけではありません。私たちは福音書からマリヤのしたことを見ると、聖書からかおりがしてくるのです。ナルドの香油はまぼろしの香油なので、私たちは想像するしかありません。でも、それは良きかおり、福音のかおりです。まさしくそれは「マリヤの記念物」となっています。

 まわりの弟子たちは「ああ、もったいないことをしている」とマリヤをさばきました。ところが、イエス様はそれを受け入れ、それが彼女の記念物となるとおっしゃいました。壺の香油は金額にして、300デナリです。弟子たちは「無駄なことをする」と思っていましたが、イエス様は価値あるものとして尊んでくださいました。これらのことから察すると、イエスさまにしたことは無駄ではなく、神さまがちゃんと報いてくださることがわかります。JC.ライルという聖書学者はこう述べています。「神の前での裁きの日、キリストのためになしたことは1つとして忘れられることはない。その日、これまでの議会での多くの演説、戦士たちの功績、詩人や画家の作品は取り上げられないであろう。しかし、最も小さいクリスチャンの女性がキリストにしたことは、永遠の書物に記されていることを発見できるであろう。ひとつの親切なことばや行い、冷たい水一杯、あるいは壺の香油もその記録から割愛されることがない。」アーメン。

昨年、1118日、芳賀英昭兄がご病気のため天に召されました。私が18日午後2時前、お見舞に行きましたが、どの病室をさがしてもいません。ようやく看護師さんと出会い、「食堂にご家族がおられますよ」と言われました。奥様とご長男とご長女の3人がおられ、「1時間前に亡くなりましたよ。でも、どうして来られたんですか?神さまが知らせてくださったんですか?」と驚いて言いました。その場で葬儀の打ち合わせが始まりました。芳賀兄は前から、「家族葬でしたい」と申し上げていたそうです。おそらく、教会の葬儀が大変だということを見ていたのでしょう。だから人に迷惑をかけるのがいやだからというのです。「芳賀さんらしいなー」と思いました。13名しか入らない葬儀場の一室で、オルガンもない、マイクもないところで葬儀をさせていただきました。限られた時間の中で、芳賀さんがこれまでなしたことを語りました。51才のとき、突然、半徹夜祈祷会に来られ、名刺を差し出して「これから教会に来ます」と言いました。15年間、教会の役員と会計をなさってくださいました。また、自営業をしながら、たくさんのご奉仕をしてくださいました。ギデオン聖書協会、日曜日朝の送迎、男性セルの食事、流しそうめんの機材、教会設備の営繕などもなさり手がとても器用な方でした。うちの息子たち、とくに3男の有悟が大変お世話になりました。5歳のときアリオに連れて行ってもらい、おもちゃを買ってもらいました。店員さんが「この人はだれなの?」と聞きました。有悟は、一瞬考えたあと「相棒!」と答えたそうです。その頃、テレビで『相棒』が放映されていたからでしょう。有悟は中学、高校と演劇部に入りました。運動会のときもそうですが、劇の発表会があるときは、いつでも駆けつけてくださいました。まるで自分の孫のようにかわいがって下さいました。芳賀兄は物静かな方でしたが、信仰に満ちて謙遜な方でした。きょうはマリヤが香油をささげたことをお話ししました。同時に、芳賀兄のなさったことをきょうの説教の中で不十分ながら、分かち合えたことを感謝します。しかし、神さまはご自分の書物にちゃんと記録しておられます。マリヤのようにイエス様が豊か報いてくださると信じます。私たちのイエス様の小さな弟子として、いとも良きものをささげていきましょう。主のためにしたことは決して無駄ではありません。神さまは豊かに報いてくださいます。御国においても、この地上においても、です。アーメン。

|

2018年1月13日 (土)

羊と山羊のたとえ マタイ25:31-46 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.14

 マタイは、世の終わりの出来事について、24章と25章でまとめています。きょうは、その最後ですが、永遠の刑罰と永遠のいのちについて書かれています。まさしく、「最後の審判」が記されています。一番の問題は、これが行いによってさばかれているということです。マルチン・ルターは「信仰義認」ということをローマ書とガラテヤ書から発見しました。信仰義認は、私たちプロテスタント教会の神学的な土台です。しかし、きょうの箇所はその土台が揺るがされるような内容になっています。聖書に矛盾はないと信じますが、一体どうなっているのでしょうか?

1.証拠となる行い

 マタイ2531-34「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」これは「羊と山羊のたとえ」と言われていますが、単なるたとえではありません。なぜなら、「世の終わりの審判」について記しているからです。人の子であるイエス・キリストご自身が王であり裁判官です。ソロモンもそうでしたが王様が裁判官になるということは、旧約聖書時代よくありました。マタイ16章にも「世の終わりに、イエス様ご自身が御国の王となって、おのおのの行いによってさばく」と書かれていました。さらにマタイ19章には「弟子たちもイエス様と一緒にさばきの座につく」と書かれています。ミケランジェロがダンテの神曲からインスピレーションを得て『最後の審判』という壁画を描きました。イエス様の周りには、使徒パウロが加えられた弟子たちが描かれています。詩人ゲーテがその壁画の前で「一人の人間の成しうる偉業の大きさを知りたいと思う者は、この絵の前に立つがいい。と言ったそうです。この壁画はイエス様から見て右側が天国へ昇る人々、左側が神に背いて呪われた人たちが地獄に落ちる様子が描かれています。聖書のたとえでも、羊を右側に、山羊を左側に分けられています。

 裁判のときに最も重要なものは、証拠であります。では、どのような証拠が永遠の刑罰と永遠のいのちの根拠となるのでしょうか?信仰を告白していたことでしょうか?どこかの地上の教会に属していたことでしょうか?あるいは、尊い奉仕をしていたことでしょうか?マタイ25:35-36「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』ここには、空腹な人に食べ物を与え、渇いた人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人をたずねるという6つの良い行いが書かれています。重要なことは、「わたし」というのが、王であるイエス・キリストだということです。最後にイエス様は「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ2540と言われました。ということは、彼らがしたことが、「イコール、イエス様」ではなく、「イエス様にしたことと同じだ」ということでしょう。ところが、マザーテレサは「道端に倒れている人の中にイエスを見る」「いや、小さなイエスだ」とまで言いました。比喩ととらないで、イエス様そのものと捉えているようです。でも、彼女がなさった愛のわざに対して、プロテスタント教会は脱帽するでしょう。なぜなら、プロテスタントは「愛のわざよりも、信仰告白に導くことが重要だ」と言ってしまうからです。でも、このマタイ25章の記事を読むなら、信仰告白がすべてではないと思わされます。プロテスタント教会は、

できたら、このたとえ話を聖書から切り取りたいと願うでしょう。なぜなら、信仰義認に真っ向から反対しているように思えるからです。

 裁判で最も重要なのは、証拠であります。私は法律の専門家ではありませんが、証拠というのは実際にどういうことをしたということでしょう。その人が「信仰告白をしていた」ということよりも、「自分の信仰告白のとおり生きていた」ことが裁判の証拠になるのではないでしょうか?つまり、「空腹な人に食べ物を与え、渇いた人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人をたずねる」ということが、信仰を持っている証拠だということです。「いやいや、私は日曜日、神さまを礼拝していましたよ。献金をささげ、奉仕もしていましたよ」と反論するかもしれません。イザヤ書58章には、宗教行事よりも重要なことが記されています。リビングバイブルから引用します。イザヤ586-7「私の喜ぶ断食とは、労働者をいじめることをやめ、公平な扱いをし、彼らの給料をピンはねしないことではないか。空腹の物には食べ物を分け与え、身寄りのない者、暮しに困っている者を家へ迎えること、それがおまえに望むことだ。寒さに震えている者には着物をきせ、親族が助けを求めているのに姿をくらましてはならない」とあります。イザヤ書58章は「神殿に来て、いかにも神さまを敬っているように振舞っているけど、日々の生活はどうなんだ」と問うています。日曜日、神さまを礼拝し、献金をして、奉仕をすることはもちろん良いことです。でも、それは牧師から見た良いことかもしれません。神さまは、日曜日だけではなく、日々の生活の行いをご覧になっておられるのではないでしょうか?つまり、本当に神さまを愛して礼拝している人は、自分の兄弟たち、しかも最も小さい者たちを行いによって愛するということです。

 この世の中には「有言実行」「不言実行」というのがあります。どちらが良いとは申しませんが、プロテスタント教会は信仰告白をとても重要視します。ヤコブ書には「舌は全身を支配する小さな器官である」と書かれています。端的に言うと、口で告白するならば、そのような行いが出てくるということです。私たちは神さまを賛美し礼拝します。同時に、日々の生活の中で隣人を愛し、祝福するものでありたいと思います。証拠としての良い行いが出るとは、私たちが心から神さまを礼拝し、愛している結果であります。良い行いは上からやってくるのです。

2.実である行い

 マタイ2537-39「すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』このところで注目したいのは、本人たちは自分がしていることを自覚していなかったということです。言い換えると、兄弟たちや小さい者たちにしたことが、イエス様にしたのだとは思っていなかったということです。一方、左側の人たちは、「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか」と文句を言っています。つまり、「イエス様、あなたのためにやりましたよ」ということです。右側の人たちには自覚がなく、左側の人たちは自覚があったということです。ところで、「パフォーマンス」ということばがあります。Performanceは一般的に演奏、演技という意味で使われます。しかし、元来は、実行、動作、善行という意味です。良い行いが人から歓心を買うためのみせかけということもありえるのです。パリサイ人や律法学者たちがそうでした。だから、イエス様は人前での、施しや祈り、断食などを注意しています。善行は、人前ではなく、隠れたところで行いなさいと言われました。おそらく、右側の人たちは、人からの報いを期待せず、隠れたところで行っていたと思われます。でも、隠れた所におられる神さまは良くご存じでした。

 一方、左側の人たちは、「良いことをしなけばならない」とがんばっていたのではないと思います。「一日一善」ということを聞いたことがあります。それだと、「きょうは善いことを1つしたから、もうやらなくても良い」となります。「一日何善」でも良いし、あるときは「一日ゼロ善」の日があっても良いのではないかと思います。左側の人たちは、「永遠のいのちに入るため、善いことをしなければならない」と考えていたのではないでしょうか。もし、そういう動機だったら、良い行いは汚れていることになります。新約聖書の考えは、私は神さまの恵みによって救われているので、良いことをするのです。良い行いは多大な罪の負債に対する償いではありません。何故、私たちは良い行いをするのでしょうか?それは良い行いをするように新たに作り変えられたからです。もっと言うと、救われたので良い行いが実として生じてくるのです。英語ではproduceです。ヨハネ15章にぶどうの木のたとえがあります。ヨハネ15:5,8「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。… あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」アーメン。良い行いは私たちががんばって行うということよりも、イエス様からくる愛とエネルギーによって生産されるということです。良い行いの源はイエス様で、私たちはその管(チャンネル)です。私たちを通して、イエス様の良いわざが現れるというのが本当です。そうなると、「がんばって良い行いをしなければ!」とはなりません。私たちは、良い行いをしなくても神さまから既に愛されているのです。私たちは「しなければならない」という律法から解放されています。むしろ、「恵みによってそうさせていただきます」となるのです。非常に能動的であり、そこには気負いや緊張感はありません。

 もし、良い行いが信仰の実であるとしたなら、信仰義認と矛盾することはありません。信仰義認を強調した、当時のマルチン・ルターはヤコブ書を「藁の書である」と卑下しました。しかし、信仰義認はもしかしたら、口先だけかもしれません。ことばでは信仰を告白しても、その行いで否定するかもしれません。ヤコブの手紙には、「もし信仰があるなら、良い行いを見せてくれ」とチャレンジしています。ヤコブ2:15-17 「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」ヤコブはイエス様の肉の兄弟ですから、イエス様の教えを理解していました。ですから、マタイによる福音書と矛盾していません。むしろ、良く似ています。マルチン・ルターは信仰義認という救われることの重要さを説きましたが、ヤコブはその後のことを書いているのです。つまり、本当にイエス様を信じているなら、このような良い行いも生じてくるということです。

 私は1987年に当亀有教会に赴任しました。その頃は、古い会堂で本当に庶民的でした。ある朝、酔っ払いが会堂で寝ていた時もりました。また、脳梗塞で倒れていた男性を1か月くらい泊めてあげたこともありました。救急車で運ばれて子どもを生んだ女性と家内が産院で知り合いになりました。その身元不明の親子を教会で面倒見たこともあります。その当時は、困っている人がよく訪ねてきました。お金を貸しても帰ってきませんでした。私も若かったので、体当たりで世話をしました。でも、私はイエス様にしたとは思っていません。その時、1つだけ発見したことがあります。古い会堂のときはいろんな人たちがやってきました。28名の礼拝から、たちまち56名くらいになりました。でも、良い普通の人もやってきましたが、訳ありの人もやってきました。こちらとしては、良い普通の人だけ来てほしいのですが、神さまのみこころはそうでもなかったようです。私たちは自分の目で「この人は救われる人」、「この人は救われないのではないか」と外見で判断しがちです。このたとえ話には、羊と山羊が登場します。当時の牧畜は、羊と山羊を両方飼っていたようです。言い換えると、両者が混じっていたということです。私たちの時代も、両者が混じっています。ですから、さばきは王なるイエス様にゆだねて、ただ良い行いをすべきだと思います。良い行いは神さまが愛してくださった感謝と、救われたことによる実であります。イエス様は私たちを通して、ご自身の愛を表わしたいと願っておられます。ですから、しぶしぶではなく、喜んで愛の器となるように自分たちをささげたいと思います。

3.永遠の報い

 マタイ25:45-46「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」私たちは「報い」と聞くと悪い方に捉えがちですが、そうではありません。聖書には、報いには良い報いと悪い報いが記されています。一方は永遠の刑罰に入り、もう一方は永遠のいのちに入ります。私たちは、ここに中間がないということを注意しなければなりません。こういう、どちらかのさばきがあると他のところにも書かれています。ヨハネ527-29「また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」しかし、ここでも問題になるのが、さばきの基準です。マタイ25章においても、ヨハネ5章においても、行ないが基準になっています。でも、どのくらい善をおこなった者がよみがえっていのちを受けるのでしょう?また、どのくらい悪を行った者がよみがえってさばきを受けるのでしょう?人間の一生はそんなに単純ではありません。良いことをしたときもあれば、悪いことをしたこともあります。それらを足し引きしてみて、良いとか悪いと決めるのでしょうか?

 話はぜんぜん違いますが、ルカ福音書23章にふたりの犯罪者が登場します。一人はイエス様の右に一人はイエス様の左に十字架に付けられました。両者とも最初はイエス様に悪口を言っていました。ところが、犯罪者のひとりは「われわれは、自分のことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。彼はイエス様の「父よ。彼らをお赦しください」という祈りを隣で聞きました。続けて、隣におられるイエス様に言いました。「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と。彼はイエス様がいつか御国の位に着いてさばきを下される王であることを信じていました。彼は犯罪者ですから、死刑になるような悪いことをしたのでしょう。ですから、「自分が犯した罪を赦してください」とは願わず、「ああ、隣にいたヤツだなーと、私を思い出してください」と願っただけです。彼は、信仰義認によって救われるプロテスタント教会の基準には達していません。教会に行ったこともないし、罪を悔い改めて洗礼も受けていません。むしろ、マタイ25章やヨハネ5章に言われている、悪を行った者の典型です。彼が、旅人に宿を貸したとか、飢えている者に食べさせたなんてことはしなかったでしょう。逆に、人のものを奪って、弱い人たちを虐待してきたのではないでしょうか?しかし、彼は自分がしてきた悪を認めていました。だから、「救って下さい」とか、「赦してください」と口はばったくて、言えなかったのです。でも、彼にイエス様は何とおっしゃったでしょう。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます。」永遠の御国に入る善、そして永遠のさばきを受ける悪の基準が分かりません。

 報いということを考えると、ものすごく救われる人の範囲が広くなります。マタイ10章には12弟子を派遣する記事が書かれています。その最後に何と書かれているでしょう。マタイ1042「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」ここに記されている良い行いは「水一杯」です。イエス様の弟子ということで、水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れることはないと言われています。「まことに、あなたがたに告げます」ですから、間違いない、本当にということです。私たちは「水一杯」くらいはだれかに差し上げたのではないでしょうか?私が教会でお昼を食べるとき、「コーヒー、一杯」を差し上げて下さる姉妹がおられます。「その人は決して報いに漏れることはありません」アーメン。「そんなに御国に入る基準を下げて良いのですか?」と文句が出そうです。聖書を見ると、良い行いをして堂々と御国に入ったという人は少ないです。ザアカイは取税人で人々から嫌われていました。ザアカイは木の上に登り、イエス様を待ち伏せしている小賢しい人でした。でも、イエス様は「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。ザアカイは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を迎えました。人々はそれを見て、「あの方は罪人のところに行って客となった」とつぶやきました。ザアカイは取税人ですから、良いことよりも、悪いことをたくさんしていたでしょう。彼は、後から「私がだましとった物は、4倍にして返します」と言っているからです。でも、それは彼が救われたので、良い行いが出てきたのです。

 「良いと悪い」の基準は何でしょうか?もちろん、私たちの行いも重要です。神さまは私たちが行ったすべてのことを書物に書いていると信じます。でも、「良い行い」の最高のものは何でしょう。それは、イエス様を信じて、心にお迎えすることではないでしょうか?なぜなら、イエス様を信じるとすべての悪が帳消しにされ、神の義がその人に与えられるからです。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪を帳消しにするためです。もう、ご自身の血によって、前払いされたのですから、私たちに罪はありません。神さまは私たちを悪い行いによってさばきません。神さまがさばく最も悪い事とは何でしょう?「悪い行い」の最高のものは何でしょう?それは、人類の救いとして与えた御子イエスを信じなかったことです。「御子イエスによって、あなたの罪を贖い、義とする」という神からの最大の贈り物を拒絶することです。神からの愛を拒絶すること、これこそが最大の罪であり、悪です。神さまの目から見たなら、不信仰こそ最も悪いことなのです。その他のさまざまな悪い行いは、不信仰と比べたら微々たるものです。あなたはだれかにプレゼントをあげたことがあるでしょうか?それはあなたの純粋な気持ちからあげたものです。しかし、「こんなものはいらない」とつっかえされたら、どんな気持ちになるでしょうか?心で思うのは勝手だけど、せめて受け取ってほしいと思うでしょう。父なる神さまも同じです。私たちの悪い行いは御子イエスの十字架ですべて帳消しになりました。すべてイエス様の贖いを受け取る人は、義なる人であり、父なる神さまからの報いを受けることができるのです。

|

2018年1月 5日 (金)

タラントのたとえ マタイ25:14-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.7

日本では「タレント」というと、歌手や俳優などの芸能人のことを言います。もともとは「タラント」と言って、重さや貨幣の単位でした。ところが、だんだん「才能、技量、才能のある人」という意味に変化していったようです。世の終わり、キリストが来られるとき、預けられていたタラントに忠実であったかどうか問われています。広い意味でタラントは、地上での人生、お金、財産、能力、チャンス、神からの賜物ということができるでしょう。

1.良い忠実なしもべ

 その当時は主人が自分の財産をしもべたちに任せて運用させていました。彼らは単なる奴隷ではなく、家令とか執事と呼ばれていたようです。「主人が自分の財産をしもべたちに預けて、旅に出て行く」と書かれていますが、王権をいただいて戻ってくるキリストをたとえています。しもべたちとはこの世の人たちのことではなく、信仰者、つまりクリスチャンです。15節「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」このところに「タラント」がお金の単位として出てきます。1タラントは6,000日分の給与ですから、今ですと6,000万円です。5タラントだと3億円、2タラントだと12,000万円です。1タラント預けられたしもべでも、6,000万円ですから、決して少額ではありません。このところで注目する表現は「おのおのその能力に応じて」であります。ある人は不公平だと思うかもしれませんが、おのおのその能力に応じて分配されています。ある人には5タラント、ある人には2タラント、そしてある人には1タラントです。これは人と比べる必要はありません。なぜなら、神さまはこの人はどれくらいのタラントを運用できるか、その能力を良くご存じだからです。5タラント預けられた人をうらやんではいけません。なぜなら、神さまから多く任された人は、それなりの大きな責任が伴うからです。私は1万人の教会を任されても無理です。でも、450人ぐらいだったら牧会できるような気はします。大和カルバリーで説教したことがありますが、あの半分位だったら大丈夫なような信仰はあります。

 「良い忠実なしもべだ」と主人からほめられた人たちには共通点があります。16,17節「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。」「同様に」とありますので、確かに共通点があったということです。良い忠実なしもべの特徴とは何なのでしょうか?それは、「すぐに行って、それで商売をして…もうけた」ということです。原文にもエウスースが最初にきています。これは「すぐ、即座に、早速」という意味です。このことばはマルコによる福音書に多く出てきます。マルコ福音書ではイエス様がすぐに行動したことが強調されています。「すぐに、イエスがお呼びになった」「そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた」「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて」。このように行動する神のしもべとしてのイエス様が描かれています。「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をした」とあります。「時は金なり」という諺のごとく、彼は時間を無駄にしませんでした。「商売をする」は、英語でtradeです。Tradeというのは、「商う、売買する、取引する、貿易をする」という意味があります。つまり、持っているお金で何かを仕入れて、それを他の人に売るのであります。商社の人たちは、どこかの国から大量に何かを買って、地方の会社に分配して儲けているようです。でも、tradeは一種の投資ですから、相場が変動して損するときもあるでしょう。海上貿易などでは、船が難破した場合、全部失う恐れがあります。日本では紀伊国屋文左衛門という人が有名ですが、ミカンとか塩鮭を江戸に運んだ商人です。商売は一種の賭けですから、うまくいかないときもあるでしょう。交易で国を栄えさせたソロモンがこのように言っています。伝道者の書1146「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。…朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」商売をするというのは、一種の賭けであります。だから、大損するときもあるでしょう。でも、この主人はそのことも覚悟の上で、しもべたちにタラントを預けたのです。5タラントと2タラント預けられたしもべたちは主人の信頼に応えようと励んだのであります。

 二人は「良い忠実なしもべ」だとあとからほめられています。忠実というのは、ただ、タラントを保管しておくのではありません。それを元手にして商売をする、運用をするということです。私たちも神さまから様々なものが与えられています。体力のある人、計算ができる人、発明する人、何かを作る人、ものを書く人、歌ったり踊ったり人、私のようにしゃべったりする人がいます。また、クリスチャンになって霊的な賜物が開花するかもしれません。癒しとか奇跡、預言、教えることもタラントです。私たちは人と比べないで自分が与えられたものに忠実であるべきです。1タラントの人は、他の人たちと比べて「自分のは、少ない」と思ったかもしれません。それでも、現代のお金で6,000万円ですから、結構な額です。エペソ47「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」「恵み」は「カリス」であり、霊的な賜物です。だれが、それぞれに与える量を決めるのでしょう。教会のかしらであるイエス・キリストです。同じ伝道でも、大講堂で話す人もおれば、個人の伝道もあります。未来を預言する預言者もいれば、励ましを与える程度の預言もあります。同じ賜物でも、キリストの賜物の量りによって違います。2タラントは2タラント分やれば良いのです。5タラントの人が2タラントしかもうけなかったなら、怠けていると言われるかもしれません。1タラントの人は5タラントやらなくても良いのです。それぞれ与えられたタラントの量に忠実であれば良いのです。どうか他の人と比べてうらやんだりしませんように。ペテロはヨハネを見て、「主よ。この人はどうですか」と聞きました。イエス様は「それがあなたと何のかかわりがありますか?あなたは私に従いなさい」と言われました。ですから、私たちは自分に与えられたレースを走れば良いのです。どうぞ、自分に与えられたタラントを発見し、それを神さまの栄光のために忠実に用いましょう。

2.悪いなまけもののしもべ

 1タラント預けられていたしもべは、主人から「悪いなまけ者のしもべだ」と叱られましたがどうしてでしょうか?まず、彼は預けられた1タラントをどうしたでしょうか?マタイ25:18 「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」他の二人は、すぐに行って、それで商売をしました。しかし、彼は出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠しました。当時は、地面に穴を掘って、お金や宝ものを隠したようです。彼は主人のお金を運用する気は全くありません。さっさと、地面に埋めてしまいました。これは、神さまから与えられたタラントを全く用いないクリスチャンのことであります。冒頭でタラントとは、地上での人生、お金、財産、能力、チャンス、神からの賜物と申し上げました。いや、彼はそれらを使ったと思います。でも、神さまのためではなく、全く自分自身のためでした。J.Cライルという人が1タラントのしもべのことをこのように解説しています。「タラントを隠したということは、神さまの栄光を現す機会を放棄したということである。聖書には祈りを怠る人、安息日を破る人、快楽を求める人、地上のことに心を配る人、金を愛する人、よくばり、怠け者、彼らはみな、主のお金を地面に埋めるような人である。」私たちは神さまからいろんなタラントを任されているという自覚が必要であります。自分の健康、人生の時間、親から譲り受けた財産、さまざまな能力、神さまからの賜物、そしてチャンスであります。伝道者の書には、「すべての営みには時がある」(伝道31とありますので、好機も神さまが与えたタラントと言えるでしょう。さきほどの、5タラントと2タラント預けられたしもべたちは、好機を逃さなかったということが想像できます。だから、それだけ儲けることができたのでしょう。箴言には「怠け者は手を皿に入れても、それを口に持っていこうとしない」(箴言1924と書いてあります。

 一番の問題は、1タラントのしもべの主人に対する見方であります。これは信仰者の神さまがどういうお方かという神概念と共通しています。1タラントのしもべは主人をどのように見ていたのでしょう?彼はぬけぬけと、主人の前でこのように告白しています。マタイ2524,25『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』これはどういう意味でしょう?彼は、主人は自分でちっとも働かないで、しもべたちを働かせていると考えていました。彼はタラントを預けられたとは考えず、無理やり押し付けられたと考えていました。もし、それを失ったら、ひどい目に合うので、地面を掘って隠しておいて、そのまま戻そうと考えたのです。なんと、彼は「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」と断言しています。それでも彼は1タラント、今ですと6,000万円も任されていたのですから、決して少ない額ではありません。ラーメン屋さんとか弁当屋さんくらいはできたのではないでしょうか?彼は「神さまはケチで、冷たい方、エジプトの主人のようだ」と考えていたのです。それは、自分が奴隷であるということであり、家令とか執事では全くないということです。主人のお金を預かるなんて、全く迷惑なことだと思っていたのです。だから、責任逃れをするために地面を掘って隠したのです。彼は元金をそのまま返せば良いだろうと思っていました。ところが、主人は何と言ったでしょう?

 マタイ25:2627 「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。』」当時、今のような銀行があったかどうかは分かりません。原文には、両替人と書かれています。ギリシャ人は海上貿易のために保険組合を作っていました。おそらく、お金をだれかから預かって、それを運用するシステムもあったのかもしれません。もし、そうであれば元金に対してそれなりの利息がつきます。だから、この主人は「私をそんなにひどい人物だと思ったなら、「銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ」と言ったのです。1タラントのしもべは、そのまま返せば、責任を果たせると思いました。でも、そうではありませんでした。彼は主人のお金を日々、浪費していたのです。当時も、今のような物価指数というのがあったと思います。10年前の1万円と今の1万円では全く、価値が違います。6,000万円を10年後に、6,000万円返してもらったなら、損していることになります。だから、せめて、銀行に預けておいたなら、なんとか言い逃れができたでしょう。でも、このしもべは、全くやる気がなかったのです。なぜなら、主人を「ひどい方だ」と恨んでいたからです。「主人のために骨を折って、危険を犯して、働くなんてまっぴらごめんだ」と考えていたのです。

 もし、これがクリスチャンの神さまに対する考え方だとしたらどうでしょうか?私たちの神さまはエジプトの王様であり、私たちはその奴隷なのでしょうか?ある人が祈りをささげますが、「天の神さま」とは呼べても、「天のお父様」と呼べない人がいます。みんながそうだとは申しませんが、自分を愛してくれる気前の良いお父さんだという体験がないからです。地上のお父さんがケチで、愛がなく、独裁者みたいだったらどうでしょう?天の神さまもそのように思えるかもしれません。あるいは「他の人にはたくさんあげて、自分にはたった1タラントしかくれない」と妬みやひがみがあるのかもしれません。「何で、私が神さまのために仕えなければなららないんだ。私は私の人生を楽しんで何が悪い」。そういうクリスチャンもあるいはおられるかもしれません。神さまにささげるお金、時間、奉仕が、まるでどぶに捨てるようなものだと考えるならとても悲しいことです。その人は「神さまはひどい方だ」と思っているからです。私たちは神さまに対する見方を変えなければなりません。心のメガネが曇っているか、ゆがんでいるのです。神さまは愛なるお方です。なぜなら、御子イエス・キリストを私たちに与えてくださったからです。ローマ832「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

3.神さまの報い

 私たちはいずれキリストの前に立って、清算をする時が来ます。一方は良い報いが、他方は悪い報いが与えられます。パウロがこう述べています。Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」このさばきは、黙示録で言われている「神の白いさばき」とは異なります。キリストのさばきとは、キリスト信者が生前行って来たことに対する報いであります。これでさばかれたからと言って、地獄に落ちるわけではありません。なぜなら、どんな人でもキリストを信じるだけで救われるからです。信仰義認、恵みによる救いは失われることがありません。ただし、この地上の後に訪れる千年王国(御国)において、報いがなされるということです。千年王国は名のとおり、1000年ですから、長いでしょうか?短いでしょうか?その後に、新天新地がおとずれ、このところにはキリストを信じている人ならば、だれでも入ることができます。千年王国においては不平等があるかもしれませんが、新天新地においてはみなが平等です。なぜなら、救いは行いではなく、恵みだからです。私は救いは二段階で来ると信じます。なぜなら、旧約聖書の預言書には千年王国(御国)の存在が、数多く記されているからです。そこでは、イスラエルの回復、自然の回復、障害者の回復、そして忠実に生き方における報いがあります。ある者は命の冠、朽ちない冠、義の冠が与えられるでしょう。また、ある者は10の町を治め、またあるものは5つの町を治めるでしょう(ルカ1917,18)。しかし、その祝福に預かれない人もいます。それが、きょう描かれている1タラントのしもべの末路です。彼は地獄に落とされたわけではありません。御国における報いがなかったということです。当然、彼も信仰者なら新天新地に行くことができると信じます。

 人間すべては、神さまの前に立つことを覚悟しなければなりません。伝道者の書119「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」ヘブル927「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。しかし、今日、申し上げるのは、「キリストのさばき」ですから、これは信者のためものもです。テキストはどうなっているのでしょうか?マタイ25:19「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」とあります。これは、キリストの再臨が思ったよりも遅くなることを暗示しています。でも、キリストが来られたとき、各自が清算をするということです。5タラントもうけたしもべに対する報いとは何でしょう?マタイ25:21「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」あきらかに2つの報いがあります。第一は、御国においてたくさんの物が任されるということです。なぜなら、地上でこの人は忠実であったことが認められたからです。第二は、主人の喜びを一緒に喜ぶということです。これは、キリスト様との豊かな交わりや祝会ではないかと思います。「ねぎらい」と言っても良いかもしれません。韓国のハレルヤおばさんという伝道者がこのようなことを言いました。一人は洗礼を受けても、ほとんど教会に行かなかったクリスチャン、もう一人は汗水流して、神と人々に仕えたクリスチャンがイエス様のところに行きました。前者の人が来たとき、イエス様は「あっそ」とそっけない顔でした。後者の忠実なクリスチャンには「まま、こっちに座って、お茶でも飲みましょう。地上での苦労話しを伺いたいです」とイエス様がおっしゃったそうです。それはどうか分かりませんが、2タラントもうけたしもべも同様に報いを受けました。ところが、1タラントを地面の中に隠しておいたしもべに対してはどうでしょう?マタイ25:28 「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」やはり、2つの報いがあります。第一は持っているタラントが取り上げられてしまいました。もともと主人のものだったからです。そして、忠実にもうけた十タラントの人にやりました。第二は外の暗やみに追い出され、そこで泣いて歯ぎしりすることになります。これは、1つ手前の5人の愚かな娘、2つ手前の不忠実なしもべたちに対する処遇と似ています。つまり、良い報いもあれば、悪い報いもあるということです。これが、千年王国(御国)においてなされるということです。もし、どんな人でも天国に入って、平等で暮らすというなら、それこそ不平等です。死後、ちゃんと報いがあるのです。

 ですから、私たちはこの地上の生活とやがて来る千年王国(御国)とつながっているということを自覚すべきであります。この地上で神さまから預けられたタラントに対して、いかに忠実であるかが、御国の生活を決定するのです。この地上では5タラント預けられた者、2タラント預けられた者、そして1タラントしか預けられない者と確かに不平等のような感じがします。はっきり言ってこの地上は不平等であり、アンフェアです。生まれた時から財産があって金持ちもいれば、生まれた時から貧しい人がいます。生まれた時から頭も良く、才能豊かな人がいます。でも、生まれた時から体が不自由で日常の生活もままならない人もいます。また、クリスチャンになって豊かな賜物が与えられ、大きく用いられる人がいます。牧師でも山奥に遣わされ、一生に一人しか導けなかったという人もいます。でも、だれにでもチャンスがあります。それは与えられたものに対して、いかに忠実であるかということです。神さまからたくさん任された人は、それなりの責任があります。わずかなものしか任されない人は1タラントのしもべのように腐ってはいけません。なぜなら、神さまは「能力に応じて」それぞれにタラントを渡しておられるからです。一番重要なことは、神さまから預けられたものに対して、忠実であることです。忠実とはどこか棚にしまっておくのではありません。リスクを犯してでも、それを用いるということです。あなたが忠実に、神さまの栄光と御国の拡大のため用いるなら豊かな報いがあるでしょう。

|

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »