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2018年1月26日 (金)

最後の晩餐 マタイ26:17-29 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.28

 「最後の晩餐」と聞くと、レオナルド・ダビンチの壁画を連想するかもしれません。しかし、あの絵は一同がテーブルにこっち向きに座っている構図になっています。実際は、体を横にして、食べ物を囲んで円形になっていたと思われます。イエス様の右隣りにはヨハネがいましたが、左隣りにはユダがいたと思われます。ダビンチの壁画ではヨハネの向こう隣りで金袋を握っている人物がユダです。この食事は旧約聖書の出エジプトの出来事を忘れないための「過越しの食事」でした。イエス様ご自身が、過ぎ越しの羊となるということを預言している出来事です。

1.ユダの裏切り

 最後の晩餐の席に、イスカリオテのユダもいました。ユダはなぜ、イエス様を裏切ったのでしょう?イエス様はユダが裏切ることを知っていたのに、なぜ破門しなかったのでしょうか?いろんな疑問がありますが、時間の経過とともに考えたいと思います。イエス様は12弟子を選ぶ前に、一晩祈られたとルカ福音書に書かれています。そんなに長く祈ったのに、ご自身を裏切るユダを選ぶとは何事でしょう。実は、12はイスラエルの部族の数です。イエス様は新しいイスラエルを形成するために、12人の弟子を呼び寄せ、彼らに「使徒」という名前をつけました。「使徒」は、派遣された者、「使者」という意味」です。旧約聖書を見るとわかりますが、イスラエルはソロモンの後、北と南に分かれました。北の10部族は神から離れ、偶像礼拝をしました。南のユダも結局、罪を犯してバビロンに滅ぼされました。イスラエルは主への反逆と裏切りの歴史と言っても過言ではありません。ですから、イエス様がユダを選んだのは、そのイスラエルの代表であり、できれば回復したかったからではないでしょうか?イエス様が捕えられたとき、他の弟子たちはみんな逃げ去りました。一番弟子のペテロはイエス様を三度も知らないと否みました。イエス様が「この中のだれかが私を裏切る」と告げました。その時、弟子たちは「主よ、まさか私ではないでしょう」とかわるがわる言いました。本当は、ユダだけではなく、弟子全員がイエス様を裏切ったのです。しかし、ユダは直接、イエス様を売ったということで罪が重かったのです。でも、ユダにもイエス様は悔い改めるチャンスを与えていたことは確かです。

 でも、どうしてユダはイエス様を裏切ったのでしょうか?いろんな説があります。弟子たちのすべてが、「イエス様がイスラエルを再建してくださる王様だ。王国ができた暁には、大臣になって仕えるんだ」と思っていたのです。そのため、仕事も持ち物も捨てて、従って来たのです。ところが、イエス様は「エルサレムで苦しみを受けて、死ぬ」と何度も予告されました。これを聞いたユダは、「それじゃ、元も子もないじゃないか!人生を賭けて従ってきたのに!」という怒りと憎しみが湧いてきたのでしょう。なぜなら、ユダは会計係りを担当するくらい、計算高い人だったからです。実際はそのお金をくすねていたのですから、神の国というよりは、打算でついてきたのです。彼に裏切りを働かせるために、2つの力が働いていたと思われます。第一は祭司長や長老たちです。第二はサタンの誘惑です。263,4節に書いてありますが、祭司長や民の長老たちが、イエス様をだまして捕え、殺そうと相談していました。ルカ福音書を見ますと、もっと詳しく書かれています。ルカ223-6「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」このところには、「ユダに、サタンが入った」と書かれています。ユダは彼らと取引をして、機会を狙っていました。その後、最後の晩餐でイエス様と一緒に食事をします。イエス様がこれらのことを超自然的に理解していたと思われます。

 いよいよ、夕食が始まりました。その中の会話が問題です。マタイ2623-25「イエスは答えて言われた。『わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。』すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。『先生。まさか私のことではないでしょう。』イエスは彼に、『いや、そうだ』と言われた。」もし、イエス様がこれらのことを大声でおっしゃっていたなら、他の弟子たちは「ああ、裏切り者はユダなんだ」と分かったでしょう。私たちはもう少し映像化する必要があります。イエス様が「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです」とおっしゃいました。これは右隣にいたヨハネに伝えたのです。なぜなら、ペテロが「だれが裏切るのか知らせてくれ」とヨハネに合図をしたからです。「主よ、それはだれですか」とヨハネが聞いたので、イエス様が小声で答えられました。そして、イエス様はパン切れを浸して、ユダに与えました。ユダが「先生。まさか私のことではないでしょう」と言うと、イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われました。このやり取りを知っているのは、イエス様とヨハネとユダの三人だけです。でも、何故このようなことをしたのでしょう?それは、ユダに悔い改めるチャンスを与えるためです。でも、サタンによって思いが捕えられていたので、変更不可能でした。

 ある人たちは「ユダの裏切りがなければ、十字架はなかったであろう。ユダも救われたのではないだろうか?」と言います。バルトという神学者も「ユダの行為が世の救いにとって不可欠であった、神の摂理であった」と論じているようです。『沈黙』を書いた、遠藤周作氏もユダを擁護しています。中川健一牧師は「ユダのような人は、ユダを弁護しがちである」とおっしゃいました。私は「ユダがいなければ、十字架の贖いが成し遂げられなかった。ユダも救われる可能性がある」とは考えません。イエス様ははっきりと「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とおっしゃっているからです。イエス様がこの世に来られたのは十字架で贖いの死を成し遂げるためでした。でも、イエス様を直接、裏切る人は災いです。なんとイエス様は「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とまで言い切りました。おそらく、世界中、このようなことばを受けるのはユダだけでしょう。それだけ、ユダの罪は重いと言うことです。ユダは後から「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と後悔しました。でも、イエス様のところには戻りませんでした。その代り、首をつって死にました。罪を贖うイエス様を信じていなかったので、自分で解決しようとしたのです。まさしく、ユダは神さまから捨てられた人です。でも、もう一度言いますが、イエス様は最後の最後まで、チャンスを与えておられたということです。ヨハネ13章には「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」文語訳は「極みまで愛された」と書いてあるからです。その中にはユダも含まれていたのです。

 パウロは「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ1129と言いました。これは、「神がイスラエルを選んだ」という文脈で語られていることばです。神がイスラエルを選んだように、ユダも選ばれていたのです。イエス様が一晩祈ったのですから、葛藤があったと思われます。でも、イエス様は御父のみこころに従い、ご自分を裏切るであろうユダをも選びました。イエス様の中に、三年半ずっとこの思いがあったでしょう。ユダは、胸に突き刺さっている刺のようだったかもしれません。それでも、弟子たちと同様、最後まで愛し通されました。なぜなら、ご自身と御父が使徒として選んだからです。「神の賜物と召命とは変わることがない」というのは、私たちに対する主のことばでもあります。でも、勘違いしてはいけません。「神の賜物と召命」が自動的に続くかというとそうではありません。「神の賜物と召命」にあぐらをかいて、神さまに反逆して、神さまを試みたりしてはいけません。まさしく、それがイスラエルであり、ユダでした。「主の恵みあわれみは尽きることがない」というのは本当です。神さまは常に私たちを無条件に一方的に愛しておられます。しかし、神さまは私たちに自由意志も与えておられます。私たちが「神の賜物と召命」に応える必要が残されているのです。たとえそれが完璧でなくても、いくらかあれば、神さまは「十分である」とみなしてくださるでしょう。それこそが愛でありあわれみなのです。「全くない、そんなの結構です」という人には、届かないと思います。たとえば、ペットボトルがあります。ある人は、その蓋を閉じているかもしれません。このようにして私のメッセージを聞いていても、その蓋を閉じている可能性はあります。大人は、子どもと違って聞いているふりをすることができるからです。でも、ちょっとだけでも口が開いているなら、わずかずつですが入ります。

 聖歌に「ユダにはなるまじ」という黒人霊歌があります。その賛美は、私を弟子として召されたからには、主を裏切る者にはなりたくないという内容です。イエス様はユダのことで、とても悲しみました。そして、深く嘆きました。私たちを愛しているイエス様を悲しませてはいけません。私たちを極みまで愛されるイエス様の愛にお答えしたいと思います。「神の賜物と召命とは変わることがない」という神さまの真実にお答えしたいと思います。そのために、いつもヨハネのようにイエス様と親しく交わり、イエス様の愛と恵みをいただきながら生活いたしましょう。

2.過ぎ越しの食事

 最後の晩餐は、「過越しの祭り」の中で行われました。過越しの祭りというのは、イスラエルがエジプトから救い出された偉大なる出来事を記念するためでした。四百年間もエジプトに捕えられていたイスラエルは、10番目の奇跡によってパロ王から解放されました。エジプト中の人をはじめ家畜に至るまで、一晩のうちにことごとく初子(長子)が殺されたからです。「過ぎ越す」というのは神の怒りが過ぎ越すと言う意味です。では、どうしたら神の怒りから免れることができるのでしょうか?イスラエルの人たちは傷のない一歳の雄の羊を殺しました。そして、その血を家の門柱とかもいに塗りました。その晩、イスラエルの人たちは家の中に入って、ほふられた羊の肉と種入れないパンに苦菜を添えて食べました。その夜、主がエジプトの地を巡りました。主は家々の血を見て、通り過ぎました。しかし、血を塗っていない家は、人から家畜にいたるまで、その初子が打たれて死にました。パロ王の息子も死んで、エジプトには激しい泣き叫びが起こりました。イエス様が最後の晩餐で行われたのは「過越しの食事」でありました。しかし、ただ旧約聖書の出来事を記念したのではありません。ご自身が過越しの羊であり、罪と滅びから解放するメシヤであることを示されたのです。このところでは、パンがイエス様のからだであり、ぶどう酒がイエス様の血であると言われています。これは旧約聖書の成就であり、キリストによる新しい契約と言うことができます。

 もう少し、福音書から詳しく学びたいと思います。マタイ2626-28「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」これは私たちが月一度やっている聖餐式の起源であります。でも、「このことをしなさい」とは、マタイ福音書にもマルコ福音書にも書かれていません。ルカだけが「わたしを覚えてこれを行いなさい。」(ルカ2219)と命じています。あとは、使徒パウロがコリントの教会で、ルカに書かれていることばを引用しています。つまり、過越しの食事の第一の意味は、イエス様と弟子たちとの間で交わされた新しい契約だということです。そして、聖餐式は私たちがその新しい契約を思い出して、その契約の中に生きる決断をするということです。ローマ・カトリックが言うように、パンがイエス様の肉で、ぶどう酒がイエス様の血ということではありません。また、聖餐式のパンとぶどう酒に魔術的な力があるわけでもありません。では、それはどういう意味なのでしょうか?イエス様はパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』と言われました。これは先ほども申し上げましたが、イエスさまが「傷のない一歳の雄の羊」だということです。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ129と言いました。つまり、イエス様はご自分が十字架に死ぬ前に、裂かれるご自分のからだと流す血の意味を教えたのです。ヨハネ6章にも同じことが書かれていますが、食べるあるいは飲むということは、イエス様と一体になるということです。もし、体に入れるものが毒であるならば、死んでしまいます。イエス様は「私はいのちのパンである。私を食べる者は死んでも生きる」とおっしゃいました。それは信仰を意味しており、イエス様をまるごと受け入れるということです。

 私たちは聖餐式のとき、2つのことを確認し、思い出す必要があります。第一は裂かれたパンは、十字架の上で裂かれたキリストのからだだということです。旧約聖書の動物は裂かれなければなりませんでした。イエス様も釘を打たれ、最後に脇腹をやりで刺されました。私たちは信じるだけで救われますが、その背後にはイエス様の尊い犠牲があったということを忘れてはいけません。もちろん、イエス様は「感謝しろ」とはおっしゃいません。私たちがイエス様の支払われた代価を考えるとき、簡単に信仰を捨ててしまおうとは思わなくなります。ただでもらったものは、簡単に手放してしまいます。私たちも信じるだけで救いを受けるのですから、手放してしまう傾向があります。そうではなく、私たちが救われるために、イエス様がどれだけ苦しまれ、どれだけの代価を支払ってくださったか、聖餐式を通して体験的に理解するのです。第二はぶどう酒は流された血潮だということです。イエス様の時代はぶどう酒が水のように日常的なものでした。ところが、現代は会衆の中に元アルコール中毒の人もいますので、ジュースにしています。もちろん、ぶどう酒にしている教会もあります。しかし、流された血の意味が重要です。イエス様は「わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」と言われました。旧約時代、きよい動物が身代わりに殺され、祭壇にその血を注ぎました。血はいのちであり、血でしか罪をあがなうことができません。本来は罪を犯した人が血を流すべきなのですが、動物が殺され血を流しました。世の終わり、イエス様が来られ、永遠で一回の犠牲となり、血を流してくださいました。そのため、私たちのすべての罪が赦されているのです。でも、イエス様は「わたしの契約の血です」とも言われました。この意味はイエス様が死をもって旧約の律法に対する罪の清算をして、今度は新しい契約を結ぶためにご自身の血を流されたということです。つまり、新約時代を開始するため流された血なのです。

 日本人は契約というこ

とを理解できません。なぜなら、単一民族で生きているからです。今日会った人は、明日も会うので、堅苦しい契約はしません。「顔なじみ」でやってしまうところがあります。しかし、重要なものは「証文」とか「売買契約」を交わしています。世の中にいろんな契約がありますが、それがどのくらい重いか分かりません。結婚も契約なのですが、簡単に破ってしまいます。しかし、大陸の人たちは、私たちと違います。国境がつながっており、いろんな民族が行き来しています。今日会った人は、明日も会うという保証がありません。顔なじみという考えはなく、すべてのものが契約になります。旧約聖書では契約を交わすとき、動物を二つに切って、その間を両者が通りました。それはどういう意味かと言うと、「契約を破ったらこのようになるよ」ということなのです。まさに、命がけであります。昔は、契約書は血判を用いたようです。日本でもそういうことがありました。現代の朱印がそのなごりです。つまり、契約は安易なものではなく、生命に関わることだということです。一度契約を結んだら、命を賭けてでも守らなければなりません。現代は「契約社員」などと言うと、社員よりも責任が軽い意味で使われているようです。とんでもありません。「契約」はとても重いことばです。そんなふうに用いてもらいたくありません。本題に戻りたいと思いますが、聖餐式は神との契約を思い出す時でもあります。私たち人間は本当にいい加減であり、10個契約を結んでも、10個破ってしまうでしょう。旧約聖書にはたくさんの神との契約が記されています。最初のものはアダム契約でした。ノア契約があります。アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約もあります。しかし、人間はことごとくそれらの契約破り、失敗しました。罪ある人間が聖なる神さまと対等に契約を交わすことは不可能です。そのため、神が人となられたイエス様が、私たちの代表として契約を交わしてくださいました。ヘブル人への手紙には、イエス様は神からの大祭司、完全な仲保者と書かれています。イエス様は真実であり、失敗しません。そのイエス様が私たちの代わりに父なる神さまと契約を結んでくださったのです。その時、私たちはどこにいたのでしょうか?イエス様を信じるとイエス様と一体になるとローマ人への手紙に書かれています。そうです。私たちはそのとき、イエス様のからだの中にいたのです。かしらであるキリストとからだである教会を考えてください。かしらなるイエス様がからだの代表として、父なる神さまと契約を結んでくださったのです。

 Ⅱテモテにすばらしいみことばがあります。Ⅱテモテ213「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」英語で真実は、faithfulです。字義どおりに見ると「信仰でいっぱい」という意味です。私たちの信仰がいい加減でも、私たちが信じているイエス様が真実、信仰でいっぱいならば大丈夫なのではないでしょうか?でも、私たちになすべき課題が残されています。それは、真実なキリストのうちに留まるということです。言い換えるなら、イエス様によってなされた契約の内を歩むということです。契約の外に出てはなりません。それは、ユダのようにイエス様を試すことになるからです。私たちは自分をセーブ、制限しなければなりません。制限とはどういう意味でしょう。イエス様はヨハネ15章でこのように言われました。ヨハネ155「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」私たちは、イエス様から離れて生きてゆけないということです。言い換えると、自分の肉の力により頼まず、御霊によって歩むということです。ついつい私たちは古い人のなごりで、肉や知恵に頼ってしまいます。肉はアダムから来たものです。私たちは古い人に一度、死んだ存在です。今はキリストと結ばれていますので、キリストからすべてのものを得なければなりません。大事なことは、キリストにつがなっていれば、血潮によっておおわれ罪の赦しを歩むことができます。ハレルヤ!キリストにつながっていれば、死に至るまで忠実に歩むことができるのです。

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