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2018年1月13日 (土)

羊と山羊のたとえ マタイ25:31-46 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.14

 マタイは、世の終わりの出来事について、24章と25章でまとめています。きょうは、その最後ですが、永遠の刑罰と永遠のいのちについて書かれています。まさしく、「最後の審判」が記されています。一番の問題は、これが行いによってさばかれているということです。マルチン・ルターは「信仰義認」ということをローマ書とガラテヤ書から発見しました。信仰義認は、私たちプロテスタント教会の神学的な土台です。しかし、きょうの箇所はその土台が揺るがされるような内容になっています。聖書に矛盾はないと信じますが、一体どうなっているのでしょうか?

1.証拠となる行い

 マタイ2531-34「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」これは「羊と山羊のたとえ」と言われていますが、単なるたとえではありません。なぜなら、「世の終わりの審判」について記しているからです。人の子であるイエス・キリストご自身が王であり裁判官です。ソロモンもそうでしたが王様が裁判官になるということは、旧約聖書時代よくありました。マタイ16章にも「世の終わりに、イエス様ご自身が御国の王となって、おのおのの行いによってさばく」と書かれていました。さらにマタイ19章には「弟子たちもイエス様と一緒にさばきの座につく」と書かれています。ミケランジェロがダンテの神曲からインスピレーションを得て『最後の審判』という壁画を描きました。イエス様の周りには、使徒パウロが加えられた弟子たちが描かれています。詩人ゲーテがその壁画の前で「一人の人間の成しうる偉業の大きさを知りたいと思う者は、この絵の前に立つがいい。と言ったそうです。この壁画はイエス様から見て右側が天国へ昇る人々、左側が神に背いて呪われた人たちが地獄に落ちる様子が描かれています。聖書のたとえでも、羊を右側に、山羊を左側に分けられています。

 裁判のときに最も重要なものは、証拠であります。では、どのような証拠が永遠の刑罰と永遠のいのちの根拠となるのでしょうか?信仰を告白していたことでしょうか?どこかの地上の教会に属していたことでしょうか?あるいは、尊い奉仕をしていたことでしょうか?マタイ25:35-36「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』ここには、空腹な人に食べ物を与え、渇いた人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人をたずねるという6つの良い行いが書かれています。重要なことは、「わたし」というのが、王であるイエス・キリストだということです。最後にイエス様は「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ2540と言われました。ということは、彼らがしたことが、「イコール、イエス様」ではなく、「イエス様にしたことと同じだ」ということでしょう。ところが、マザーテレサは「道端に倒れている人の中にイエスを見る」「いや、小さなイエスだ」とまで言いました。比喩ととらないで、イエス様そのものと捉えているようです。でも、彼女がなさった愛のわざに対して、プロテスタント教会は脱帽するでしょう。なぜなら、プロテスタントは「愛のわざよりも、信仰告白に導くことが重要だ」と言ってしまうからです。でも、このマタイ25章の記事を読むなら、信仰告白がすべてではないと思わされます。プロテスタント教会は、

できたら、このたとえ話を聖書から切り取りたいと願うでしょう。なぜなら、信仰義認に真っ向から反対しているように思えるからです。

 裁判で最も重要なのは、証拠であります。私は法律の専門家ではありませんが、証拠というのは実際にどういうことをしたということでしょう。その人が「信仰告白をしていた」ということよりも、「自分の信仰告白のとおり生きていた」ことが裁判の証拠になるのではないでしょうか?つまり、「空腹な人に食べ物を与え、渇いた人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人をたずねる」ということが、信仰を持っている証拠だということです。「いやいや、私は日曜日、神さまを礼拝していましたよ。献金をささげ、奉仕もしていましたよ」と反論するかもしれません。イザヤ書58章には、宗教行事よりも重要なことが記されています。リビングバイブルから引用します。イザヤ586-7「私の喜ぶ断食とは、労働者をいじめることをやめ、公平な扱いをし、彼らの給料をピンはねしないことではないか。空腹の物には食べ物を分け与え、身寄りのない者、暮しに困っている者を家へ迎えること、それがおまえに望むことだ。寒さに震えている者には着物をきせ、親族が助けを求めているのに姿をくらましてはならない」とあります。イザヤ書58章は「神殿に来て、いかにも神さまを敬っているように振舞っているけど、日々の生活はどうなんだ」と問うています。日曜日、神さまを礼拝し、献金をして、奉仕をすることはもちろん良いことです。でも、それは牧師から見た良いことかもしれません。神さまは、日曜日だけではなく、日々の生活の行いをご覧になっておられるのではないでしょうか?つまり、本当に神さまを愛して礼拝している人は、自分の兄弟たち、しかも最も小さい者たちを行いによって愛するということです。

 この世の中には「有言実行」「不言実行」というのがあります。どちらが良いとは申しませんが、プロテスタント教会は信仰告白をとても重要視します。ヤコブ書には「舌は全身を支配する小さな器官である」と書かれています。端的に言うと、口で告白するならば、そのような行いが出てくるということです。私たちは神さまを賛美し礼拝します。同時に、日々の生活の中で隣人を愛し、祝福するものでありたいと思います。証拠としての良い行いが出るとは、私たちが心から神さまを礼拝し、愛している結果であります。良い行いは上からやってくるのです。

2.実である行い

 マタイ2537-39「すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』このところで注目したいのは、本人たちは自分がしていることを自覚していなかったということです。言い換えると、兄弟たちや小さい者たちにしたことが、イエス様にしたのだとは思っていなかったということです。一方、左側の人たちは、「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか」と文句を言っています。つまり、「イエス様、あなたのためにやりましたよ」ということです。右側の人たちには自覚がなく、左側の人たちは自覚があったということです。ところで、「パフォーマンス」ということばがあります。Performanceは一般的に演奏、演技という意味で使われます。しかし、元来は、実行、動作、善行という意味です。良い行いが人から歓心を買うためのみせかけということもありえるのです。パリサイ人や律法学者たちがそうでした。だから、イエス様は人前での、施しや祈り、断食などを注意しています。善行は、人前ではなく、隠れたところで行いなさいと言われました。おそらく、右側の人たちは、人からの報いを期待せず、隠れたところで行っていたと思われます。でも、隠れた所におられる神さまは良くご存じでした。

 一方、左側の人たちは、「良いことをしなけばならない」とがんばっていたのではないと思います。「一日一善」ということを聞いたことがあります。それだと、「きょうは善いことを1つしたから、もうやらなくても良い」となります。「一日何善」でも良いし、あるときは「一日ゼロ善」の日があっても良いのではないかと思います。左側の人たちは、「永遠のいのちに入るため、善いことをしなければならない」と考えていたのではないでしょうか。もし、そういう動機だったら、良い行いは汚れていることになります。新約聖書の考えは、私は神さまの恵みによって救われているので、良いことをするのです。良い行いは多大な罪の負債に対する償いではありません。何故、私たちは良い行いをするのでしょうか?それは良い行いをするように新たに作り変えられたからです。もっと言うと、救われたので良い行いが実として生じてくるのです。英語ではproduceです。ヨハネ15章にぶどうの木のたとえがあります。ヨハネ15:5,8「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。… あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」アーメン。良い行いは私たちががんばって行うということよりも、イエス様からくる愛とエネルギーによって生産されるということです。良い行いの源はイエス様で、私たちはその管(チャンネル)です。私たちを通して、イエス様の良いわざが現れるというのが本当です。そうなると、「がんばって良い行いをしなければ!」とはなりません。私たちは、良い行いをしなくても神さまから既に愛されているのです。私たちは「しなければならない」という律法から解放されています。むしろ、「恵みによってそうさせていただきます」となるのです。非常に能動的であり、そこには気負いや緊張感はありません。

 もし、良い行いが信仰の実であるとしたなら、信仰義認と矛盾することはありません。信仰義認を強調した、当時のマルチン・ルターはヤコブ書を「藁の書である」と卑下しました。しかし、信仰義認はもしかしたら、口先だけかもしれません。ことばでは信仰を告白しても、その行いで否定するかもしれません。ヤコブの手紙には、「もし信仰があるなら、良い行いを見せてくれ」とチャレンジしています。ヤコブ2:15-17 「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」ヤコブはイエス様の肉の兄弟ですから、イエス様の教えを理解していました。ですから、マタイによる福音書と矛盾していません。むしろ、良く似ています。マルチン・ルターは信仰義認という救われることの重要さを説きましたが、ヤコブはその後のことを書いているのです。つまり、本当にイエス様を信じているなら、このような良い行いも生じてくるということです。

 私は1987年に当亀有教会に赴任しました。その頃は、古い会堂で本当に庶民的でした。ある朝、酔っ払いが会堂で寝ていた時もりました。また、脳梗塞で倒れていた男性を1か月くらい泊めてあげたこともありました。救急車で運ばれて子どもを生んだ女性と家内が産院で知り合いになりました。その身元不明の親子を教会で面倒見たこともあります。その当時は、困っている人がよく訪ねてきました。お金を貸しても帰ってきませんでした。私も若かったので、体当たりで世話をしました。でも、私はイエス様にしたとは思っていません。その時、1つだけ発見したことがあります。古い会堂のときはいろんな人たちがやってきました。28名の礼拝から、たちまち56名くらいになりました。でも、良い普通の人もやってきましたが、訳ありの人もやってきました。こちらとしては、良い普通の人だけ来てほしいのですが、神さまのみこころはそうでもなかったようです。私たちは自分の目で「この人は救われる人」、「この人は救われないのではないか」と外見で判断しがちです。このたとえ話には、羊と山羊が登場します。当時の牧畜は、羊と山羊を両方飼っていたようです。言い換えると、両者が混じっていたということです。私たちの時代も、両者が混じっています。ですから、さばきは王なるイエス様にゆだねて、ただ良い行いをすべきだと思います。良い行いは神さまが愛してくださった感謝と、救われたことによる実であります。イエス様は私たちを通して、ご自身の愛を表わしたいと願っておられます。ですから、しぶしぶではなく、喜んで愛の器となるように自分たちをささげたいと思います。

3.永遠の報い

 マタイ25:45-46「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」私たちは「報い」と聞くと悪い方に捉えがちですが、そうではありません。聖書には、報いには良い報いと悪い報いが記されています。一方は永遠の刑罰に入り、もう一方は永遠のいのちに入ります。私たちは、ここに中間がないということを注意しなければなりません。こういう、どちらかのさばきがあると他のところにも書かれています。ヨハネ527-29「また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」しかし、ここでも問題になるのが、さばきの基準です。マタイ25章においても、ヨハネ5章においても、行ないが基準になっています。でも、どのくらい善をおこなった者がよみがえっていのちを受けるのでしょう?また、どのくらい悪を行った者がよみがえってさばきを受けるのでしょう?人間の一生はそんなに単純ではありません。良いことをしたときもあれば、悪いことをしたこともあります。それらを足し引きしてみて、良いとか悪いと決めるのでしょうか?

 話はぜんぜん違いますが、ルカ福音書23章にふたりの犯罪者が登場します。一人はイエス様の右に一人はイエス様の左に十字架に付けられました。両者とも最初はイエス様に悪口を言っていました。ところが、犯罪者のひとりは「われわれは、自分のことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。彼はイエス様の「父よ。彼らをお赦しください」という祈りを隣で聞きました。続けて、隣におられるイエス様に言いました。「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と。彼はイエス様がいつか御国の位に着いてさばきを下される王であることを信じていました。彼は犯罪者ですから、死刑になるような悪いことをしたのでしょう。ですから、「自分が犯した罪を赦してください」とは願わず、「ああ、隣にいたヤツだなーと、私を思い出してください」と願っただけです。彼は、信仰義認によって救われるプロテスタント教会の基準には達していません。教会に行ったこともないし、罪を悔い改めて洗礼も受けていません。むしろ、マタイ25章やヨハネ5章に言われている、悪を行った者の典型です。彼が、旅人に宿を貸したとか、飢えている者に食べさせたなんてことはしなかったでしょう。逆に、人のものを奪って、弱い人たちを虐待してきたのではないでしょうか?しかし、彼は自分がしてきた悪を認めていました。だから、「救って下さい」とか、「赦してください」と口はばったくて、言えなかったのです。でも、彼にイエス様は何とおっしゃったでしょう。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます。」永遠の御国に入る善、そして永遠のさばきを受ける悪の基準が分かりません。

 報いということを考えると、ものすごく救われる人の範囲が広くなります。マタイ10章には12弟子を派遣する記事が書かれています。その最後に何と書かれているでしょう。マタイ1042「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」ここに記されている良い行いは「水一杯」です。イエス様の弟子ということで、水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れることはないと言われています。「まことに、あなたがたに告げます」ですから、間違いない、本当にということです。私たちは「水一杯」くらいはだれかに差し上げたのではないでしょうか?私が教会でお昼を食べるとき、「コーヒー、一杯」を差し上げて下さる姉妹がおられます。「その人は決して報いに漏れることはありません」アーメン。「そんなに御国に入る基準を下げて良いのですか?」と文句が出そうです。聖書を見ると、良い行いをして堂々と御国に入ったという人は少ないです。ザアカイは取税人で人々から嫌われていました。ザアカイは木の上に登り、イエス様を待ち伏せしている小賢しい人でした。でも、イエス様は「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。ザアカイは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を迎えました。人々はそれを見て、「あの方は罪人のところに行って客となった」とつぶやきました。ザアカイは取税人ですから、良いことよりも、悪いことをたくさんしていたでしょう。彼は、後から「私がだましとった物は、4倍にして返します」と言っているからです。でも、それは彼が救われたので、良い行いが出てきたのです。

 「良いと悪い」の基準は何でしょうか?もちろん、私たちの行いも重要です。神さまは私たちが行ったすべてのことを書物に書いていると信じます。でも、「良い行い」の最高のものは何でしょう。それは、イエス様を信じて、心にお迎えすることではないでしょうか?なぜなら、イエス様を信じるとすべての悪が帳消しにされ、神の義がその人に与えられるからです。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪を帳消しにするためです。もう、ご自身の血によって、前払いされたのですから、私たちに罪はありません。神さまは私たちを悪い行いによってさばきません。神さまがさばく最も悪い事とは何でしょう?「悪い行い」の最高のものは何でしょう?それは、人類の救いとして与えた御子イエスを信じなかったことです。「御子イエスによって、あなたの罪を贖い、義とする」という神からの最大の贈り物を拒絶することです。神からの愛を拒絶すること、これこそが最大の罪であり、悪です。神さまの目から見たなら、不信仰こそ最も悪いことなのです。その他のさまざまな悪い行いは、不信仰と比べたら微々たるものです。あなたはだれかにプレゼントをあげたことがあるでしょうか?それはあなたの純粋な気持ちからあげたものです。しかし、「こんなものはいらない」とつっかえされたら、どんな気持ちになるでしょうか?心で思うのは勝手だけど、せめて受け取ってほしいと思うでしょう。父なる神さまも同じです。私たちの悪い行いは御子イエスの十字架ですべて帳消しになりました。すべてイエス様の贖いを受け取る人は、義なる人であり、父なる神さまからの報いを受けることができるのです。

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