« 油を絶やすな マタイ25:1-13 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.1.1 | トップページ | 羊と山羊のたとえ マタイ25:31-46 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.14 »

2018年1月 5日 (金)

タラントのたとえ マタイ25:14-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.7

日本では「タレント」というと、歌手や俳優などの芸能人のことを言います。もともとは「タラント」と言って、重さや貨幣の単位でした。ところが、だんだん「才能、技量、才能のある人」という意味に変化していったようです。世の終わり、キリストが来られるとき、預けられていたタラントに忠実であったかどうか問われています。広い意味でタラントは、地上での人生、お金、財産、能力、チャンス、神からの賜物ということができるでしょう。

1.良い忠実なしもべ

 その当時は主人が自分の財産をしもべたちに任せて運用させていました。彼らは単なる奴隷ではなく、家令とか執事と呼ばれていたようです。「主人が自分の財産をしもべたちに預けて、旅に出て行く」と書かれていますが、王権をいただいて戻ってくるキリストをたとえています。しもべたちとはこの世の人たちのことではなく、信仰者、つまりクリスチャンです。15節「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」このところに「タラント」がお金の単位として出てきます。1タラントは6,000日分の給与ですから、今ですと6,000万円です。5タラントだと3億円、2タラントだと12,000万円です。1タラント預けられたしもべでも、6,000万円ですから、決して少額ではありません。このところで注目する表現は「おのおのその能力に応じて」であります。ある人は不公平だと思うかもしれませんが、おのおのその能力に応じて分配されています。ある人には5タラント、ある人には2タラント、そしてある人には1タラントです。これは人と比べる必要はありません。なぜなら、神さまはこの人はどれくらいのタラントを運用できるか、その能力を良くご存じだからです。5タラント預けられた人をうらやんではいけません。なぜなら、神さまから多く任された人は、それなりの大きな責任が伴うからです。私は1万人の教会を任されても無理です。でも、450人ぐらいだったら牧会できるような気はします。大和カルバリーで説教したことがありますが、あの半分位だったら大丈夫なような信仰はあります。

 「良い忠実なしもべだ」と主人からほめられた人たちには共通点があります。16,17節「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。」「同様に」とありますので、確かに共通点があったということです。良い忠実なしもべの特徴とは何なのでしょうか?それは、「すぐに行って、それで商売をして…もうけた」ということです。原文にもエウスースが最初にきています。これは「すぐ、即座に、早速」という意味です。このことばはマルコによる福音書に多く出てきます。マルコ福音書ではイエス様がすぐに行動したことが強調されています。「すぐに、イエスがお呼びになった」「そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた」「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて」。このように行動する神のしもべとしてのイエス様が描かれています。「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をした」とあります。「時は金なり」という諺のごとく、彼は時間を無駄にしませんでした。「商売をする」は、英語でtradeです。Tradeというのは、「商う、売買する、取引する、貿易をする」という意味があります。つまり、持っているお金で何かを仕入れて、それを他の人に売るのであります。商社の人たちは、どこかの国から大量に何かを買って、地方の会社に分配して儲けているようです。でも、tradeは一種の投資ですから、相場が変動して損するときもあるでしょう。海上貿易などでは、船が難破した場合、全部失う恐れがあります。日本では紀伊国屋文左衛門という人が有名ですが、ミカンとか塩鮭を江戸に運んだ商人です。商売は一種の賭けですから、うまくいかないときもあるでしょう。交易で国を栄えさせたソロモンがこのように言っています。伝道者の書1146「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。…朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」商売をするというのは、一種の賭けであります。だから、大損するときもあるでしょう。でも、この主人はそのことも覚悟の上で、しもべたちにタラントを預けたのです。5タラントと2タラント預けられたしもべたちは主人の信頼に応えようと励んだのであります。

 二人は「良い忠実なしもべ」だとあとからほめられています。忠実というのは、ただ、タラントを保管しておくのではありません。それを元手にして商売をする、運用をするということです。私たちも神さまから様々なものが与えられています。体力のある人、計算ができる人、発明する人、何かを作る人、ものを書く人、歌ったり踊ったり人、私のようにしゃべったりする人がいます。また、クリスチャンになって霊的な賜物が開花するかもしれません。癒しとか奇跡、預言、教えることもタラントです。私たちは人と比べないで自分が与えられたものに忠実であるべきです。1タラントの人は、他の人たちと比べて「自分のは、少ない」と思ったかもしれません。それでも、現代のお金で6,000万円ですから、結構な額です。エペソ47「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」「恵み」は「カリス」であり、霊的な賜物です。だれが、それぞれに与える量を決めるのでしょう。教会のかしらであるイエス・キリストです。同じ伝道でも、大講堂で話す人もおれば、個人の伝道もあります。未来を預言する預言者もいれば、励ましを与える程度の預言もあります。同じ賜物でも、キリストの賜物の量りによって違います。2タラントは2タラント分やれば良いのです。5タラントの人が2タラントしかもうけなかったなら、怠けていると言われるかもしれません。1タラントの人は5タラントやらなくても良いのです。それぞれ与えられたタラントの量に忠実であれば良いのです。どうか他の人と比べてうらやんだりしませんように。ペテロはヨハネを見て、「主よ。この人はどうですか」と聞きました。イエス様は「それがあなたと何のかかわりがありますか?あなたは私に従いなさい」と言われました。ですから、私たちは自分に与えられたレースを走れば良いのです。どうぞ、自分に与えられたタラントを発見し、それを神さまの栄光のために忠実に用いましょう。

2.悪いなまけもののしもべ

 1タラント預けられていたしもべは、主人から「悪いなまけ者のしもべだ」と叱られましたがどうしてでしょうか?まず、彼は預けられた1タラントをどうしたでしょうか?マタイ25:18 「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」他の二人は、すぐに行って、それで商売をしました。しかし、彼は出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠しました。当時は、地面に穴を掘って、お金や宝ものを隠したようです。彼は主人のお金を運用する気は全くありません。さっさと、地面に埋めてしまいました。これは、神さまから与えられたタラントを全く用いないクリスチャンのことであります。冒頭でタラントとは、地上での人生、お金、財産、能力、チャンス、神からの賜物と申し上げました。いや、彼はそれらを使ったと思います。でも、神さまのためではなく、全く自分自身のためでした。J.Cライルという人が1タラントのしもべのことをこのように解説しています。「タラントを隠したということは、神さまの栄光を現す機会を放棄したということである。聖書には祈りを怠る人、安息日を破る人、快楽を求める人、地上のことに心を配る人、金を愛する人、よくばり、怠け者、彼らはみな、主のお金を地面に埋めるような人である。」私たちは神さまからいろんなタラントを任されているという自覚が必要であります。自分の健康、人生の時間、親から譲り受けた財産、さまざまな能力、神さまからの賜物、そしてチャンスであります。伝道者の書には、「すべての営みには時がある」(伝道31とありますので、好機も神さまが与えたタラントと言えるでしょう。さきほどの、5タラントと2タラント預けられたしもべたちは、好機を逃さなかったということが想像できます。だから、それだけ儲けることができたのでしょう。箴言には「怠け者は手を皿に入れても、それを口に持っていこうとしない」(箴言1924と書いてあります。

 一番の問題は、1タラントのしもべの主人に対する見方であります。これは信仰者の神さまがどういうお方かという神概念と共通しています。1タラントのしもべは主人をどのように見ていたのでしょう?彼はぬけぬけと、主人の前でこのように告白しています。マタイ2524,25『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』これはどういう意味でしょう?彼は、主人は自分でちっとも働かないで、しもべたちを働かせていると考えていました。彼はタラントを預けられたとは考えず、無理やり押し付けられたと考えていました。もし、それを失ったら、ひどい目に合うので、地面を掘って隠しておいて、そのまま戻そうと考えたのです。なんと、彼は「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」と断言しています。それでも彼は1タラント、今ですと6,000万円も任されていたのですから、決して少ない額ではありません。ラーメン屋さんとか弁当屋さんくらいはできたのではないでしょうか?彼は「神さまはケチで、冷たい方、エジプトの主人のようだ」と考えていたのです。それは、自分が奴隷であるということであり、家令とか執事では全くないということです。主人のお金を預かるなんて、全く迷惑なことだと思っていたのです。だから、責任逃れをするために地面を掘って隠したのです。彼は元金をそのまま返せば良いだろうと思っていました。ところが、主人は何と言ったでしょう?

 マタイ25:2627 「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。』」当時、今のような銀行があったかどうかは分かりません。原文には、両替人と書かれています。ギリシャ人は海上貿易のために保険組合を作っていました。おそらく、お金をだれかから預かって、それを運用するシステムもあったのかもしれません。もし、そうであれば元金に対してそれなりの利息がつきます。だから、この主人は「私をそんなにひどい人物だと思ったなら、「銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ」と言ったのです。1タラントのしもべは、そのまま返せば、責任を果たせると思いました。でも、そうではありませんでした。彼は主人のお金を日々、浪費していたのです。当時も、今のような物価指数というのがあったと思います。10年前の1万円と今の1万円では全く、価値が違います。6,000万円を10年後に、6,000万円返してもらったなら、損していることになります。だから、せめて、銀行に預けておいたなら、なんとか言い逃れができたでしょう。でも、このしもべは、全くやる気がなかったのです。なぜなら、主人を「ひどい方だ」と恨んでいたからです。「主人のために骨を折って、危険を犯して、働くなんてまっぴらごめんだ」と考えていたのです。

 もし、これがクリスチャンの神さまに対する考え方だとしたらどうでしょうか?私たちの神さまはエジプトの王様であり、私たちはその奴隷なのでしょうか?ある人が祈りをささげますが、「天の神さま」とは呼べても、「天のお父様」と呼べない人がいます。みんながそうだとは申しませんが、自分を愛してくれる気前の良いお父さんだという体験がないからです。地上のお父さんがケチで、愛がなく、独裁者みたいだったらどうでしょう?天の神さまもそのように思えるかもしれません。あるいは「他の人にはたくさんあげて、自分にはたった1タラントしかくれない」と妬みやひがみがあるのかもしれません。「何で、私が神さまのために仕えなければなららないんだ。私は私の人生を楽しんで何が悪い」。そういうクリスチャンもあるいはおられるかもしれません。神さまにささげるお金、時間、奉仕が、まるでどぶに捨てるようなものだと考えるならとても悲しいことです。その人は「神さまはひどい方だ」と思っているからです。私たちは神さまに対する見方を変えなければなりません。心のメガネが曇っているか、ゆがんでいるのです。神さまは愛なるお方です。なぜなら、御子イエス・キリストを私たちに与えてくださったからです。ローマ832「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

3.神さまの報い

 私たちはいずれキリストの前に立って、清算をする時が来ます。一方は良い報いが、他方は悪い報いが与えられます。パウロがこう述べています。Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」このさばきは、黙示録で言われている「神の白いさばき」とは異なります。キリストのさばきとは、キリスト信者が生前行って来たことに対する報いであります。これでさばかれたからと言って、地獄に落ちるわけではありません。なぜなら、どんな人でもキリストを信じるだけで救われるからです。信仰義認、恵みによる救いは失われることがありません。ただし、この地上の後に訪れる千年王国(御国)において、報いがなされるということです。千年王国は名のとおり、1000年ですから、長いでしょうか?短いでしょうか?その後に、新天新地がおとずれ、このところにはキリストを信じている人ならば、だれでも入ることができます。千年王国においては不平等があるかもしれませんが、新天新地においてはみなが平等です。なぜなら、救いは行いではなく、恵みだからです。私は救いは二段階で来ると信じます。なぜなら、旧約聖書の預言書には千年王国(御国)の存在が、数多く記されているからです。そこでは、イスラエルの回復、自然の回復、障害者の回復、そして忠実に生き方における報いがあります。ある者は命の冠、朽ちない冠、義の冠が与えられるでしょう。また、ある者は10の町を治め、またあるものは5つの町を治めるでしょう(ルカ1917,18)。しかし、その祝福に預かれない人もいます。それが、きょう描かれている1タラントのしもべの末路です。彼は地獄に落とされたわけではありません。御国における報いがなかったということです。当然、彼も信仰者なら新天新地に行くことができると信じます。

 人間すべては、神さまの前に立つことを覚悟しなければなりません。伝道者の書119「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」ヘブル927「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。しかし、今日、申し上げるのは、「キリストのさばき」ですから、これは信者のためものもです。テキストはどうなっているのでしょうか?マタイ25:19「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」とあります。これは、キリストの再臨が思ったよりも遅くなることを暗示しています。でも、キリストが来られたとき、各自が清算をするということです。5タラントもうけたしもべに対する報いとは何でしょう?マタイ25:21「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」あきらかに2つの報いがあります。第一は、御国においてたくさんの物が任されるということです。なぜなら、地上でこの人は忠実であったことが認められたからです。第二は、主人の喜びを一緒に喜ぶということです。これは、キリスト様との豊かな交わりや祝会ではないかと思います。「ねぎらい」と言っても良いかもしれません。韓国のハレルヤおばさんという伝道者がこのようなことを言いました。一人は洗礼を受けても、ほとんど教会に行かなかったクリスチャン、もう一人は汗水流して、神と人々に仕えたクリスチャンがイエス様のところに行きました。前者の人が来たとき、イエス様は「あっそ」とそっけない顔でした。後者の忠実なクリスチャンには「まま、こっちに座って、お茶でも飲みましょう。地上での苦労話しを伺いたいです」とイエス様がおっしゃったそうです。それはどうか分かりませんが、2タラントもうけたしもべも同様に報いを受けました。ところが、1タラントを地面の中に隠しておいたしもべに対してはどうでしょう?マタイ25:28 「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」やはり、2つの報いがあります。第一は持っているタラントが取り上げられてしまいました。もともと主人のものだったからです。そして、忠実にもうけた十タラントの人にやりました。第二は外の暗やみに追い出され、そこで泣いて歯ぎしりすることになります。これは、1つ手前の5人の愚かな娘、2つ手前の不忠実なしもべたちに対する処遇と似ています。つまり、良い報いもあれば、悪い報いもあるということです。これが、千年王国(御国)においてなされるということです。もし、どんな人でも天国に入って、平等で暮らすというなら、それこそ不平等です。死後、ちゃんと報いがあるのです。

 ですから、私たちはこの地上の生活とやがて来る千年王国(御国)とつながっているということを自覚すべきであります。この地上で神さまから預けられたタラントに対して、いかに忠実であるかが、御国の生活を決定するのです。この地上では5タラント預けられた者、2タラント預けられた者、そして1タラントしか預けられない者と確かに不平等のような感じがします。はっきり言ってこの地上は不平等であり、アンフェアです。生まれた時から財産があって金持ちもいれば、生まれた時から貧しい人がいます。生まれた時から頭も良く、才能豊かな人がいます。でも、生まれた時から体が不自由で日常の生活もままならない人もいます。また、クリスチャンになって豊かな賜物が与えられ、大きく用いられる人がいます。牧師でも山奥に遣わされ、一生に一人しか導けなかったという人もいます。でも、だれにでもチャンスがあります。それは与えられたものに対して、いかに忠実であるかということです。神さまからたくさん任された人は、それなりの責任があります。わずかなものしか任されない人は1タラントのしもべのように腐ってはいけません。なぜなら、神さまは「能力に応じて」それぞれにタラントを渡しておられるからです。一番重要なことは、神さまから預けられたものに対して、忠実であることです。忠実とはどこか棚にしまっておくのではありません。リスクを犯してでも、それを用いるということです。あなたが忠実に、神さまの栄光と御国の拡大のため用いるなら豊かな報いがあるでしょう。

|

« 油を絶やすな マタイ25:1-13 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.1.1 | トップページ | 羊と山羊のたとえ マタイ25:31-46 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.14 »