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2017年12月31日 (日)

油を絶やすな マタイ25:1-13 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.1.1

 「待つ」というのは大変な作業です。会衆の中には、私を含め、待つことが苦手だという方がおられるのではないでしょうか。本日の物語は、再び来られるキリストを備えて待つことを教えている譬え話です。当時の結婚式と披露宴は花婿と花嫁の両家で行なわれ、時としては1週間も続きました。この物語は、花婿の家で結婚式が行なわれ、花嫁の家で披露宴がなされようとしています。そして、習慣にならって、花嫁の友人である乙女たちがともしびを持って花婿を出迎えるというシーンです。

1.世の終わりの教会

 マタイ25:5「花婿が来るのが遅れたので」と書いていますが、キリストが来られるが、思ったよりも遅くなることが暗示されます。10人の娘は教会をたとえており、花婿であるキリストがあまり遅いもので、うとうと眠りはじめました。世の終りの教会も、信仰的にそうなりがちだということです。さて、最初にこの譬え話しの間違った解釈を1つあげたいと思います。「油を持っていなかった5人の娘は、クリスチャンであったが、準備をしていなかったために、天国から締め出しを食らった」と解釈してしまうと福音の中心からはずれてしまいます。昔こういうことがあったそうです。礼拝のときに、再臨について先生が説教し、突然こう言われました。「実は昨日、台湾から来た牧師に会いました。その有名な先生がおっしゃるのに、その先生の教会員の中で、終末にイエス・キリストが再臨された時、天にそのまま引上げられる教会員は半分いないだろう。そして、私も思うに、今日、450人の皆さんが集まっておられますが、今日、主の再臨があったとして、この中から即座に天に引上げられる人は14,5人ぐらいだろうと私は思います」とお話ししました。そのとたん、何とも言えない不安な雰囲気が、会場全体を支配したそうです。「14,5人と言えば、3人に1人。こうやって礼拝を一生懸命守っていても、3分の2は救われないのか。それでは誰が救われて、誰が油のないクリスチャンだろう。」そして互いの裁き合いが心の内側で一瞬にして始まったそうです。本当に笑えない怖いお話しです。イエス様は、そのようなことを譬え話しで教えようとされたのではありません。福音の中心は、イエス様の十字架を信じるだけで罪赦され、天国に行けるということです。信仰のみによって救われ、一度でもイエス様を受け入れた者は滅びることはありません。そうしますと、この譬え話しは、再臨を待つ信仰者の姿を教えるために語られたものと考えられます。 

 

 愚かな娘たちも賢い娘たちも、花婿を待っていたのですが、あまりに遅いので、うとうと眠り始めました。ですから、両者とも信仰があるのですが、弱さも見受けられます。しかし、決定的な違いは何でしょうか。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意していなかったということです。そして、賢い娘たちは油を入れた器を持っていました。私はある絵を見たことがありますが、5人は右手にはともしび、左手には入れ物をちゃんと持っていました。両者とも、ともしびを持っているんですから、「私はイエス様を信じます」と告白し、洗礼を受けたに違いありません。しかし、一方は再臨に備える信仰を持ち、他方はそうではなかったということです。イエス様が今から2,000 年前、この地上に初めて来られたときはどうだったでしょうか。旧約聖書の最後の預言者マラキから400年間、預言が絶えていました。その間、ギリシヤとローマによって国土が占領されました。その頃、イスラエルではキリストが来る備えをしている人はごくわずかでした。東方から博士たちが星に導かれ、ヘロデの宮殿に来ました。律法学者や祭司たちは聖書から、どこで産まれるかを知ることができました。しかし、彼らは会いに行こうとはしませんでした。むしろ「別の王が来るなんて、これはやっかいなことになるぞ」と恐れました。彼らはキリストが自分たちの所に来ても、拒絶してしまったのです。喜んで歓迎したのはほんの一握りの人たちでした。同じように、世の終り、キリストが再び来られるというとき、そのような信仰があるだろうかということです。

 世の終わり、キリストが再び来られるときどのようでしょうか。都市では、人々が政治やビジネスに励んでいます。地方では田畑を耕し、売り買いをしています。ある人は快楽を求め、ある人たちは世の注目を集めようとやっきになっています。イエス・キリストが戻ってくるとき、生きた信仰を持っている人がどれほどいるでしょうか。金持ちはぜいたくに暮らし、貧しい人たちは不平や不満でいっぱいです。教会はささいな神学の違いで論争し、分裂分派を繰り返して弱体化しています。そういうところに、イエス様が突然来られるのです。世の終りの時こそ、再び来られるイエス・キリストを迎える信仰を持たなければなりません。私たちは、イスラエルの民からも、初代教会からも、そして歴史の数々の教会からもたくさんの教訓を得ました。そこには法則があります。最初は信仰的に燃えていますが。安定期に入り、しばらくたつと眠って堕落してしまいます。神の民は罪深い世の中に何の力も発揮できないのです。そのとき、悔い改めて信仰的に燃えるのです。それを私たちはリバイバルと呼んでいます。燃えたり、消えたり、燃えたり、消えたり、そういう繰り返しを通りながら、終末がやってくるのです。

 しかし、この5人の愚かな娘と5人の賢い娘は、教会全体というよりも、一人一人の信仰者を象徴しているようです。教会が霊的に燃えている時代の信仰者は良いですが、信仰の火が消えかかっている時代の信仰者は大変です。それでも、5人の賢い娘たちのように、信仰を持続するために油を絶やしてはいけません。この物語を読んでいて、油が切れたとき、どうして、賢い娘たちが分けてあげなかったのでしょうか。賢い娘たちは少し意地悪じゃないかと思いました。おそらく他者にあげる分はなかったのでしょう。愚かな娘たちが、お店に買いに行っている間に花婿が来てしまったのです。なんだか気の毒になってしまいます。この所から考えますと、油は簡単には人には分けてあげられないもののようです。たとえば、信仰は基本的には個人的なものです。奥様が信仰を持っていたとしても、ご主人がそれで救われるわけではありません。両親が非常に熱心だからといっても、子どもたちがそのまま救われるわけではありません。もちろん、1人のクリスチャンがお家にいるだけで、ともしびがともり、祝福が家族に注がれることは確かです。しかし、人は個人的にイエス様を心にお迎えしなければ救われません。ですから、人をあてにしないで、一人一人自立した信仰を持つべきであります。そのために、神様としっかりとベルトを結ぶべきです。「たとえ、全世界の人が私を見捨てても、イエス様は私を見捨てません。イエス様は私の救い主、王の王です。」こういう信仰を持ちましょう。

 また、ここでは時があることを教えています。愚かな5人の娘たちは、昼の間、お店にでかけて油を用意する時間はいくらでもあったと思います。真夜中ですと、今と違ってお店は開いていないのでしょう。今では、セブンイレブンとかローソンにさっと行って、ちょっとした足りないものはすぐ購入できます。私は自分の子供が小さかった頃、夜中に、パンパースを買いに行かされたことがあります。紙おむつにも何種類かあって、赤ちゃんの肌に合うのと合わないのがあります。いろんなお店に行って、「あったー!」と喜び、少々高くても買うわけです。パンパースが宝物のように見えたりしました。当時は、真夜中、お店なんか開いていないので、ドンドンドンとお店の人を起こしてから売ってもらうので、手間取ってしまったのでしょう。その間に花婿が来てしまいました。ですから、イエス様を信じるのも光のある間に信じるべきなのです。今は恵みのとき、今は救いの日です。世の終りは、暗闇が覆い、惑わしの霊や迫害が強くなるので、信じたくても信じられなくなってしまいます。また、信仰を維持するために日頃から、聖書を読み祈っているべきです。この世のことに、お金やエネルギーを使い過ぎてはいけません。信仰書を読んだり、学びや訓練の場に身を置くことも必要です。信仰も体の筋肉と同じで用いないと退化してしまいます。

 ます、教会につながって信仰の火を絶やさないでいるのが一番です。よく、キャンプやクリスマスでキャンドルサービスをしますが、たまに自分のろうそくの火が消えてしまうときがあります。しかし、隣の人からすぐ貰えるから安心です。しかし、それが、人里離れた山小屋で、1本しかいないときは大変です。イエス・キリストを信じるのは確かに個人的であります。人の信仰を頼ってはいけません。イエス様と個人的に救い主としてお迎えするしかありません。毎日、神様と深い交わりを持つべきです。また、信仰を維持していくためには、信仰の火元である教会につながっているということです。一方の手にともしび、もう一方の手に油を入れた器を持ちましょう。暗い時代にあって、ともしびを燃やし続けましょう。

2.油の補充

 ともしびの油とは、聖霊を指すのではないかと思います。しかし、聖霊は神様ですから、厳密には減ったり増えたりするものではありません。ですから、私たちの信仰を燃やすところの、「聖霊の油」と言った方が良いと思います。世の終りに、必ずリバイバルが起こります。教会が信仰的に眠って、世の中が堕落していきますと、あるところからリバイバル運動が叫ばれます。リバイバルというのは霊的目覚め、覚醒であります。そのときに、初代教会のように聖霊の火を求める祈りがなされます。「主よ、火を与えて下さい」、「油を注いで下さい」と祈るわけです。「火に油を注いだら、危ないだろう!」と思うくらい過激になります。私たちの信仰はまるで生き物のようです。昨日までは、非常に燃えて生き生きしていました。ところが、今日は、失望落胆と疑いの沼地にはまっています。はまり込んでいるときは、「現実は難しい、信じていても変わらない」となるのです。先週はものすごく、燃えて信仰に満たされていた。しかし、今週は気が重くて、ビジョンも見えない。大きな失敗や罪を犯したわけでもないのに、気が滅入ってしまう。みなさんもそういうときはありませんか。なぜ、こんな風になってしまうのでしょうか。確かに私たちの中の肉の弱さもあります。それ以上に、私たちは不信仰な人々に囲まれ、悪霊がはびこっているこの世で生きているからです。この世の中に住んでいる限り、ひとりでに、信仰が冷えてしまうのです。 

   

信仰はともしびのように、たえず燃えていないとダメなんであります。10年前の信仰や昨日の信仰ではなく、今、現在の信仰が必要です。ですから、たえず、聖霊の油を補充しなければなりません。そのために、毎日、聖書を読み祈るべきです。これが一番の充電です。大きなものが一度にドーンと来るわけではありませんが、継続は力です。毎日コツコツと霊の糧を得ることに勝るものはありません。そして、その次に重要なのは、やはり礼拝出席だと思います。礼拝を1週間休んでもあまり、変わりないかもしれません。しかし、2,3ケ月休みますと、霊的な力がすっかり失せてしまいます。ピアノやバイオリンのプロは毎日、4時間から8時間練習するそうです。一日しないとまず自分がわかるそうです。三日しないとまわりの人がわかります。一週間さぼると聴衆がわかるそうです。私も講壇で毎週、説教していますが、油注ぎがないかあるかは会衆がすぐ分かるでしょう。ですから、毎週、備えて説教しています。礼拝はお参りではありませんが、神様と公に交わるときで、大変重要です。私たちは全身全霊で神を礼拝し、あるときは方向転換し生活の衿を正していただきます。礼拝に臨在しておられる神様は特別です。私たちはその中にいるだけで、神様の力をまとい、祝福をいただいているのです。そのために、礼拝はできるだけ休まない。そして遅刻をしないと良いです。遅刻をすると、だれも責めていないのに、何だか後ろめたい気持ちがして、すぐ恵みの中に飛び込むことができません。礼拝のために備えてきますと、200 %恵まれます。恵まれないのは必ずしも牧師の説教のせいではありません。礼拝をささげる会衆一人一人にも責任があるのです。アーメン。

 また、私のように奉仕する者は、時々、聖会に行って恵みをいただく必要があります。1時間も叫んで賛美してから、みことばをいただき、時間をかけて祈ります。そしてメッセージのあと按手してもらったりすると本当に良いです。最近の聖会は、「油注ぎの受けたい方(インパーティーション)のために祈ります」とはっきりおっしゃいます。私は恵みの座に行き、個人的に手を当てて祈ってもらうと霊的に満たされます。ですから、どこへ行っても招きがあれば、祈ってもらうことにしています。10数年前、兵庫県の高砂教会の水曜祈祷会に出たときがあります。一斉にお祈りしている間に、だれかが頭をスッと触って行きました。だれかな!と思って目をあげると、手束先生が一人一人、頭に按手して祈っておられました。私はそのとき、温かいものを感じました。韓国の祈祷会や聖会も、先生が按手してくれないと、信徒は寂しいと感ずるようです。ある焼き肉やのおかみさんは、先生をお店に招いて、お肉が焼ける前に、先生「チョットチョット」と言って、隅っこで按手してもらうそうです。不思議なことに、「牧師が祈ると牧師の分がなくなるか」というとそうではありません。また、新たな油が上から補充されるでしょう。エリヤのやもめの物語と同じです。空の器に注いでも、注いでも次から次とあふれてくるのです。しかし、例外もあります。注ぎ過ぎると枯渇するときがあります。昔、兵庫県の井上牧師のところに招かれ、日曜日、かなりの人たちを預言し按手して祈りました。すると月曜日、体が重たくて起きられませんでした。霊的に重たい人に、按手して霊力を注いだので、こちらが枯れてしいました。私たちは聖霊の管でありますから、私たちを通して注がれるように願いたいと思います。

按手をするのは聖書的なのだろうかという方に対して、みことばを1箇所お開きします。パウロがテモテにあてた手紙、Ⅱテモテ15-7「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい。神が私たちに与えて下さったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」テモテは信仰がなかったわけではなく、純粋な信仰がちゃんとありました。彼は神様から、群れを任せられていました。しかし、テモテは度重なる激務によって、おそらく胃潰瘍になり、少量のぶどう酒を飲むのも良いとも勧められていました。そして、この所でパウロは、おくびょうになりがちなテモテに注意をしています。パウロは神の賜物、力と愛と慎みの霊が再び燃え立たせるように按手してあげたいと言っているのです。  

 テモテの神の賜物が具体的に何であるのかわかりません。しかし、それが奉仕の源であることは確かです。奉仕する者には、この「油注ぎ」が本当に必要なのです。私はペンテコステ派がこのことを早くから理解し、聖会のミニストリーでよく行われていることを感謝しています。これまで、申賢均師、チョーヨンギ師、ベニー・ヒン、カルロス・アナコンディア、エディ・レオ、メル・ボンドなど、よく日本に来ては奉仕して下さいました。私は、この「油注ぎ」が来るときに、悪霊を追い出し、病を癒す権威が上から与えられると信じます。大和カルバリーの大川牧師は、神の器がいるところには、アルゼンチンであろうと、トロント、ペンサコーラ、レディングどこでも行かれるようです。そして、「油注ぎ」をいただいてから、ご自分のところで、ミニストリーをするわけです。私も昔は、シンガポールやインドネシアの教会研修に行きました。5000人とか1万人の集会にいると、天国にいるみたいです。ヘブル11章には「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と書いてあります。霊的に燃えている場所にいくと、やはり燃やされて帰ってきます。

 それでは、そういう聖会や集会にいかなければダメかというと必ずしもそうとはいえません。当教会に来られたことのある松岡欣也先生は少し考え方が違います。「何でも外国人の世話になって、リバイバルも外国の先生を呼んできてやってもらおうとしている。日本人はどこまで甘えたら気がすむんじゃ。そういう聖会をめぐっている人がいるけど、1,2ケ月たったら冷めて、また新しい講師を呼んで祈ってもらう。同じことの繰り返しだ」と言います。確かに当たっていないわけではありません。松岡先生がおっしゃりたいことは、「イエス様がどこにいるか知らなければならない。聖霊、聖霊と言うが、その方はイエス・キリスト様のことである。私たちの内側にすでに、イエス様がおられる、これを再発見すべきだ」ということでしょう。パウロもテモテに純粋な信仰があるのを認めています。パウロは別の信仰を与えようとしておられるのではなく、再び燃え立たせるようにとおっしゃっているのです。つまり、内側をかき回していただき、「聖霊の炎に満たされよ」ということなのです。ですから、いろんな集会に行くもの良い方法ですが、だれでもできるのは、祈って賛美することです。祈りと賛美は、ソーラー発電みたいに、神様の光をエネルギーに変えることができるのです。マーリン・キャロザーズも言っていますが、賛美には力があります。ある人は異言だと言いますが、賛美は、聖霊と信仰に満たされていく最もすぐれた方法です。賛美したあと、何か肩の荷が軽くなったということを良く経験します。みなさん、クリスチャンの内側にはすでに、イエス様がおられるのです。私たちの内におられるキリストが栄光の望みであることを信じましょう。

 また、イエス様は一人の中にもおられますが、23人イエスの名によって集まるところにも臨在されます。ですから、共に集まり、賛美し祈っているところにも、すばらしいみわざが現わされるのです。ヘブル10:25 「ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近付いているのを見て、ますますそうしようではありませんか」、と書いています。「かの日が近付いている」とは世の終り、キリストが再び来られる日が近付いているから、という意味です。ですから、世の終り、共に集って励まし合う小グループが必要だということです。ある外国の講師が預言をされました。「日本には確かに暗闇が覆っている。しかし、よーく見ると、小さなあかりが点々と見える。非常にかぼそくて消えそうだけど、しかし、消えない。やがて、そのあかりの数が増してきて、日本のあちこちに大きな光となります。」アーメン。使徒の働き1章では、おのおの上に舌のような火がとどまった、と書いていますから、一人一人がともし火になったのです。世の終り、私たちもともし火となり、再び来られるイエス様を待ちましょう。そして油があるかどうか点検しましょう。信仰的に枯れていたら、祈って賛美して、イエス様から聖霊の油注ぎを受けましょう。イエス様は飢え渇く人々に、豊かに油を注いで下さいます。日本中の教会、クリスチャンに油注ぎが与えられますように。そして、当教会の兄弟姉妹に注がれますように。

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2017年12月30日 (土)

~アモスが見た幻~    亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: アモス書8章1-3

 

8:1

神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。

8:2

主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです」と言うと、【主】は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。

8:3

その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。──神である主の御告げ──多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」

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2017年12月31日、1年の締めくくりの日にメッセージを語らせていただける恵みを心から感謝いたします。

今年はヨハネの福音書からと、「ルツ記」と「ホセア書」「ヨエル書」の一書全体を取り上げる一書説教をさせていただきました。本日は「ヨエル書」の次の「アモス書」を取り上げていきたいと思います。

 

「アモス書とか、読んだことないし!」とか、「読んだけど解らないし!」とか思ってらっしゃる方!

今日は良い機会です!頑張りましょう!

 

私は神学校時代に、ヘブライ語の授業でアモス書を学び、さっぱり解らなかった想い出があります。

ヘブライ語を教えてくれたのは、アメリカ人の旧約学者の教授だったんですが、アモス書は日本語訳の聖書でも解りづらい預言書なのに、ヘブライ語の授業のテキストに選ぶとは、ずいぶんマニアックだなーと思っていました。

 

あとで判明したのですが、その先生は「アモス書大好き♡ アモス書ラブ♡」の人だったようです。

先生はひとりでハイテンションになってエスカレートし、「あ~みなさん。私良いことを思いつきました!朝のチャペルの礼拝説教をアモス書から順番に語ろうではありませんか。」と提案。

アモス書は半強制的に先生と学生とで割りふられ、私は6章を担当することになりました。

 

先日久しぶりにその原稿を読み返してみましたが、もう「ひっどい!」のひと言でした。

今となっては良い想い出ですが、今回はその反省を生かして、取り組みたいと思わされた次第です。

 

さて、私たちがこのアモス書から受け取る神様からのメッセージは何でしょうか。

 

アモス書は全体で9章からなる小預言書で、聖書に出てくる預言書の中では初めて預言者の名前で記された「記述預言書」だと考えられています。預言者はアモス以前にもモーセやエリヤなどたくさんいましたが、モーセ書とかエリヤ書などはありません。

 

アモスが活躍した時代は、アモス1章1節の記述によると、南ユダ王国ではウジヤ王の時代(前792―740年)、北イスラエル王国ではヤロブアム2世の時代(前793―753年)のようです。

アモスが預言した時期は、前760―750年頃ではないかと言われています。

 

アモスは南ユダの人でしたが、神様から突然、北イスラエルに行って北イスラエルの滅亡について預言するように言われました。

北イスラエルの王ヤロブアム2世はソロモン王に匹敵するほど領土を広げ、北イスラエルの全盛期を築いた王です。繁栄の最中にアモスが滅亡を預言しても聞き入れるわけがありません。しかし、アモスの預言からわずか30-40年後の紀元前720年に北イスラエルはアモスの予言通り滅亡しました。

 

◆①アモスのように重荷を負う者となる。

 

アモス書には、「公義=〈ヘ〉ミシュパート」と「正義=〈ヘ〉ツェダーカ」という言葉が何箇所かに出てきます。アモスの神観は、「愛なる神」よりも、「義なる神」の方が強く、アモス書全体が神の公義と正義が基盤となっています。預言書のパターンとしては、畏れ多い神のさばきの宣告の後に、愛なる神の救いの祝福が語られるのですが、アモス書は祝福の部分は他の預言書に比べてとても少ないのが特徴です。

 

アモス個人について解ることは、1章1節と、7章14-15節のことばからの情報しかありません。

まとめると、アモスはこのような人です。

 

1. ベツレヘムの南東にある小さな町テコア出身(南ユダ出身)だった。

2. 牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。

3. もともと預言者ではなかった。

(他の預言書に出てくる「預言者のともがら」という職業的な預言者集団には属していなかった。)

4. 系図については不明である。

5. 神から突然召命を受けた。

 

加えて、「アモス」という名前は、「重荷」「重荷を負う者」という意味があるそうです。その名前の通り、アモスは突然預言者として召されて、神様から大変な使命を授かり、「重荷を負う者」となりました。

 

しかしアモスが預言者として立ったのは、名誉や野心のためではありませんでした。おそらく、牧者としては裕福で充実した生活をしていたことと思われます。平和な南ユダのテコアで幸せに生きていたアモスに、神はその働きの場から預言者として北イスラエルに行くように命じました。

 

もし、私たちにそのような神の召命があったならみなさんはどうしますか。

今の平穏な生活を捨てて神の召しに従うことができるでしょうか。

 

アモスが繁栄の最中にある北イスラエルに行って、「この国は滅亡する。」という預言を語ることは、簡単なことではありません。反逆罪となって捕えられてしまうかもしれません。自分のいのちと引き換えになることも覚悟のうえでのぞまなければなりません。

 

それでもアモスが神の命令に従ったのは、神への畏敬と信仰があったことはもちろんですが、アモス自身の目から見ても、北イスラエルが間違った方向に歩んでいることが解ったからではないでしょうか。

 

アモスはテコアの牧者としてユダの荒野の近くに住み、都会の喧騒とは離れた所で暮らしていました。

いつも自然の中で、神との時間を持っていたので、神の御心が理解できたのではないでしょうか。

 

そのせいか、アモス書は他の預言書と違って自然とか、動物、音のイメージがつまった書物となっています。

1章の預言のはじまり方もユニークです。ここは新共同訳で読んだ方が臨場感があります。

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1:2

彼は言った。主はシオンからほえたけり/エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き/

カルメルの頂は枯れる。

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いきなり、「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる。」です。

けっして静かな始まりではありません。ずいぶんファンキーなはじまりです。独創的です。

 

しかしアモスはけっして単純で無知な人ではなく、アモス書の文体は詩文として書かれており、情緒があります。またアモスは、語り方に長けており、豊かな想像力で様々なイメージを作って預言しています。

その視野は広く、北イスラエルや南ユダに限らず、ダマスコ、ペリシテ、ツロ、エドム、アモン、モアブなどの近隣諸国から、エジプト、メソポタミヤに至るまで、犯した罪とさばきの預言を語っています。

 

それでは北イスラエルが犯した罪とは具体的になんなのでしょうか。

2章7-8節にはこう書かれています。

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2:7

彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。

2:8

彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。

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ここには、「弱者や貧しいものに対する暴力や搾取」、「道徳的な堕落」、「偶像崇拝」、「間違った礼拝」の様子が記されています。

 

アモスはこれらを厳しく非難し、アッシリヤの侵略による北イスラエルの破壊と捕囚が起こるという神のさばきが避けられないことを警告しました。そして、悔い改めて主に立ち返って公義と正義を行うように勧めました。

 

しかし北イスラエルの民は聞き入れませんでした。

結果として、アモスのミッションは失敗だったのかもしれませんが、神はそのことも含めてすべてご存知でした。アモスはもしかしたら失意のどん底に陥って故郷の南ユダに帰ったのかもしれませんが、神がアモスに望んでおられたことは、アモスが北イスラエルに行って神のことばを伝える事、その事のみでした。

 

その神のことばは現実のものとなりました。

アモスの預言から30-40年後に、北イスラエルがついにアッシリアに制圧され陥落しました。

その時アモスがまだ生きていたかどうかは解りませんが、アモスは確かに主の命令に聞き従い、重荷を負う者となって命がけで北イスラエルに出向き、神のことばを伝え、使命を果たしたのです。

 

私たちはどうでしょうか。アモスのように重荷を負う者となれるでしょうか。

もしかしたらそれ以前に、日々の生活に追われ、神の声を聞き逃し、北イスラエルの民のようになってしまっているかもしれません。

 

アモスのように、いつ主の語りかけや召命があったとしても、その御声に応えることができるように、賢く世界を見渡しながら、静まって神様との交わりの時を持つように心がけましょう。

 

◆②アモスが見た幻から神のご本質を知る。

 

アモスは、7章~8章では、4つの幻を見たことを語っています。

それぞれの幻は、神とアモスとのやり取りです。

神様は時には慈悲深く、しかし厳しく、時にはユーモラスに深い愛を示されます。

このアモスが見た幻は、是非注目していただきたいところです。

●第1の幻は、「いなごの幻」<7章1‐3節>です。

7:1に「二番草が生え始めたころ」と書かれていますが、これは春を表し、この季節にいなごの災害が起こると、来るべき収穫への絶望と飢饉の脅威を意味することになります。

 

そのいなごの幻を見たアモスは、「ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」と神に訴えて、

とりなしました。神はアモスの嘆願を聞き入れて、その考えを変えていなごの災害を取り消されました。

 

●第2の幻は、「火の幻」<7章4‐6節>です。

アモスは、神が地上に燃える火を呼び寄せておられるのを見ました。

7:4の「大淵」というのは、珍しい言い方ですが、水の源、水源となるところです。この水源が干上がってしまうと、当然すべての作物は枯れてしまいます。

 

その幻を見たアモスは、いなごの時と同じように、神に訴えてとりなしました。

神は再びアモスの嘆願を聞き入れて、火の災害を取り消されました。

 

第1、第2の幻では、神は慈悲深さを示されました。

 

●第3の幻は、「重りなわの幻」<7章7‐9節>です。

「重りなわ」とは、建築などで使う「下げ振り」のことです。この計りで神は何を計るのでしょうか。

それはイスラエルの義です。イスラエルの民たちが神の目にかなった行いをしているかどうかをこの「重りなわ」で計ると神は言われたのです。

 

ここではもはやアモスのとりなしもなく、神の忍耐は尽き、イスラエルの滅びは避けられない状況です。

第3の幻では、神は厳しさを示されました。

 

続く7章の後半は、幻から現実の出来事へと一時話は展開します。

 

北イスラエルのベテルの祭司アマツヤと、アモスとのやり取りが挟まれています。

アマツヤはヤロブアム2世に、アモスが謀反を企てていると報告し、アモスに南ユダに帰るように言いました。

アモスは祭司アマツヤについて、このように預言しました。

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7:17

それゆえ、【主】はこう仰せられる。『『あなたの妻は町で遊女となり、あなたの息子、娘たちは剣に倒れ、あなたの土地は測りなわで分割される。あなたは汚れた地で死に、イスラエルはその国から必ず捕らえられて行く。』

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これは恐ろしいですね。容赦ないですね。

主のことばを語る預言者を受け入れない人には、このような恐ろしいさばきが待っているのです。

 

そして、次の幻です。

●第4の幻は「ひとかごの夏のくだものの幻」です。本日の聖書箇所です。

 

<8章1-3節>

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8:1

神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。

 

8:2

主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです」と言うと、【主】は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。

8:3

その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。──神である主の御告げ──多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」

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この幻は、大きな災いによってイスラエルに終りが来ることを象徴しています。

ここの神のことばにはヘブライ語の語呂合わせがあります。

「夏のくだもの」は、<ヘ>カイツ と言います。「終わり」は、<へ>ケーツという言います。

神はアモスに「夏のくだもの=カイツ」の幻を見せ、 わたしの民イスラエルに、「終わり=ケーツ」が来たと語っておられます。

 

この語呂合わせは神様のジョークなのでしょうか。この差し迫った状況の幻を見せながら、「カイツとケーツ」といったオヤジギャクのような駄洒落を言われても、アモスはぜんぜん笑えなかっただろうとは思います。

「義なる神」を強調するアモスには、むしろ余計に恐ろしく感じたかもしれません。

 

このような神様の語呂合わせは、エレミヤ書の1章11-12節にも出てきます。

エレミヤはアモスより後の時代の預言者ですが、神はエレミヤを召される時に幻を見せ、アモスの時と同様、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」と問いかけました。エレミヤは、「アーモンドの枝を見ています。」と答えました。それに対して神様は、「私は見張っている。」と言われました。

 

これは、「アーモンド」は<へ>シャーケード、「見張っている」は<へ>ショーケード、の語呂合わせです。

加えてアーモンドはもともと他の草花に先立って1月か2月ごろに白い花を咲かせることから、「見張り」の象徴的意味を持つ木だと言われています。それとエレミヤの出身地アナトテはアーモンドの名産地ということで、神様は、神の召しになかなか良い返事をしないエレミヤにいろいろ含めたユーモアで語りかけています。

 

こういった神様の語呂合わせのユーモアには、アイロニー(皮肉・反語・逆説)が込められています。しかし神が使うアイロニーは人間が使うアイロニーとは全く違う逆説的なアイロニーです。

 

人間のアイロニーは、時には愛情からくるものもあるかもしれませんが、しばしば人を鋭く刺すような嘲笑的なものだったり、自己を正当化して相手を貶(おとし)めるような闘争的なものが多いです。

 

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、ひとつの教育法として逆説的なアイロニーを使いました。わざと皮肉めいた問答を繰り返して相手を自己矛盾に陥らせ、自らの無知を思い知らせて知識を深める教育法です。

 

しかし神のアイロニーはそういった教育とも異なっています。

神のアイロニーは、人間の知識を深めるようなものではなく、もっと人間の根源的な部分に響くものです。

神の霊と、人間の霊が触れ合うような感覚です。

 

「夏のくだもの」<ヘ>カイツ と、「終わり」<へ>ケーツの語呂合わせも、「アーモンド」<へ>シャーケード、「見張っている」<へ>ショーケードの語呂合わせも、「こんなにも私はあなた方を愛しているのに、なぜ聞き入れようとしないのか?」という、神様の悲しみやジレンマから来る愛のアイロニーを含んでいます。

 

幻を見せて語られる神のご本質は、アモスやエレミヤとのやりとりを通して深く知ることができます。

神様は、本当はこんなやりとりをしなくても、駄洒落のような語呂合わせなどを言わなくても、あっという間に私たちを滅ぼし尽してしまうことが出来る御方です。

それなのに幾度となく猶予をくださるその御姿を思うと、「ああ主よ愛しています!」とひれ伏したくなります。

 

神は忍耐強くイスラエルの民を愛してくださり、滅びの道に行くことがないようにと導いてくださっています。

私たち異邦人にもその愛を示してくださいました。その証として、ひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださったのです。これが福音です。良き知らせです。アモスが見た幻から神様の深いご本質を知りましょう。

 

◆③一瞬の時の中にも神の恵みがある。

 

アモスが預言者として活動した期間は、他の預言者と比べてとても短かったと考えられます。

しかし、それは私たちの時間の感覚であって、アモスの預言者としての活動は短くても、後に続く数々の預言者たちに「重荷を負う者」としての姿勢を見せ、影響を与え、預言者として主に従う姿をつないで行ったという点では、彼の活動期間は私たちが思っているよりはるかに長かったのかもしれません。

 

さて、みなさんはこの一年間、どのような歩みをなさったでしょうか。

あっと言う間に過ぎ去った一年だった方もいるでしょう。長ーく長ーく感じた一年だった方もいるでしょう。

よくメッセージの中で「時間」について語る時に使われる言葉があります。

 

ギリシャ語の「クロノス(χρόνος)」と「カイロス(καιρός)」の二つです。

クロノスは、「絶対的な時間」つまり、日常私たちが過ごしている一日24時間の物理的な時間です。

カイロスは、「相対的な時間」つまり、一年が百年のように感じたり、ほんの数分のように感じたりする「主観的な時間」です。このカイロスは神様が介入される時とも言えます。

 

私たちはこのカイロスという時間を意識して、どの瞬間にも神様の豊かな介入が確かにあるということを認識していたいと思います。人生の荒波にもまれている時も、苦難の時も、神様との豊かな時間があります。

私たちがイエス様を呼び求める時、イエス様は時空を超えて、私たちに恵みを与えてくださいます。

 

「永遠」に比べれば、私たちのこの世の人生はほんの一瞬だとよく言われますが、その一瞬の中にも神の恵みは豊かに満ち溢れています。

 

先日、学生時代の友人の結婚式に参列したのですが、その時の新郎側の友人代表の祝辞がなかなか面白かったのでご紹介したいと思います。

 

友人代表の男性が新郎に対して、「Y君。神の永遠が、例えばこのくらい(両手を広げたくらいの幅)だとしたら、この世の人生はどのくらいだと思う?」と聞いたら、Y君はおもむろにテレフォンカードを出してきてそれを縦にして、「これくらい。」と言ったそうです。

 

そのエピソードを受けて友人代表の彼は、「まずY君が今どきテレフォンカードを持っていることに驚きました。でも今は、スイカやパスモもあるのでチャージできます。テレフォンカードほど薄いこの世の人生だとしても、チャージしながら結婚生活を充実させていってください。」と、エールを送っていました。

 

チャージ。それは、神様との時間から得るものです。

私たちは聖書からのメッセージを紙に書かれた歴史のように思わないで、今も生きておられる神様をリアルに感じながら受け取りたいものです。そして神の恵みを存分にチャージしましょう。

 

2018年を迎えるにあたり・・・。

アモスのように重荷を負う者となるために、神様のご本質を深く知るために、一瞬の時の中にも神様の恵みを感じられるようになるために、神様との静まりの時間をしっかり持って、チャージして、気持ちを新たにして、豊かな一年を歩んで行きましょう。

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2017年12月23日 (土)

世界的なメシヤ ルカ2:1-14 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.24

 ヨハネによる福音書はキリストの出生を宇宙的に描いています。「はじめにことばがあった。すべてのものはこの方によってできた。ことばが人になった」となっています。一方、ルカによる福音書はどうでしょうか?ルカ21「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」となっています。ルカは、キリストの出生を世界的なものとして描いています。イエス・キリストは架空の人物ではなく、歴史の中で誕生したということです。 

1.世界的なメシヤ

 キリストが地上にお生まれになったとき、ローマがその世界を支配していました。皇帝アウグストが「全世界の住民登録をせよ」と勅令を出しました。おそらく、税金の徴収のためでありましょう。日本では秀吉が年貢を徴収するために、太閤検地というのをやりました。ローマは人頭税というものを取るために、人々を生まれ故郷に一度帰らせ、そこで登録させました。このところにヨセフとマリヤが登場しますが、イエス様の両親になる人たちです。人々は、マリヤがだれかによって懐妊したと思っていました。ヨセフは天使から御告げを受けて、聖霊によるものだと信じていたことでしょう。問題は、マリヤが臨月なのにナザレからベツレヘムに旅することでした。直線距離でも110キロくらいあります。ベツレヘムは山地でありますから、結構きつかったと思われます。聖画などを見ますと、マリヤはロバに乗っていました。亀有から北ですと、水戸までが約100キロ、南だと小田原までの距離です。ロバだと3日以上かかったのではないでしょうか?聖書を見ると、キリストがローマ皇帝やシリヤの総督に振り回されている感じがします。彼らがイエス・キリストよりも権威と力があるみたいです。でも、ルカはあえて、その当時の皇帝や総督の名前を書きました。その理由は、キリストが歴史の中でちゃんとおられたということです。ローマやギリシャの神々は出生がはっきりしていません。それは、神話だからです。他の神さまも「永遠からいた」と言うかもしれません。しかし、歴史の中にいたかは不明です。

 アポロ11号が人類史上初の月面着陸を成し遂げました。それは、センセーショナルな出来事でした。アポロ15号に乗ったジェームズ・アーウィンも月面着陸を果たしました。その時、持ち帰って来た石は「創世記の石」と名付けられました。彼はビー玉のような青い地球を見て、ヨハネ316節の言葉が浮かんだそうです。「神はひとり子を与えるほど、地球を愛された。地球に住む私たち人類を、神の御子イエス・キリストは命がけで愛してくださった。」彼は、月で出会ったイエスさまとその愛を、地球に住む人々に伝えなければならないと思いました。そして、NASAを離れて伝道者となりました。彼は日本にも来たことがありますが、インタビューでこのように答えたそうです。「人が月を歩いたという事実は偉大です。しかし、それよりもはるかに大切なことは、神の御子イエス・キリストが地球上を歩かれたという事実なのです」。アーメン。私がこれに加えさせていただきたいと思います。「人が月に降りたちましたが、人類の歴史は変わりませんでした。しかし、神が人となって地球に降りたちました。その時から人類の歴史が変わりました」。アーメン、アーメン(二回言いました)。

 一見、キリストが当時のローマ皇帝や総督にふりまわされているように思えます。なぜなら、これから生まれるというのにナザレからベツレヘムまで110キロも移動させられたからです。命の危険を冒すような旅でした。でも、これにはわけがありました。なぜなら、メシヤはベツレヘムで生まれなければならなかったからです。マタイ2章にそのことが書かれています。東から訪ねてきた博士たちが、エルサレムでこう尋ねています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか?」民の祭司長や長老たちがこう答えました。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」(マタイ26)。これは、ミカ書の引用ですが、紀元前700年前後に発せられた預言です。イエス様がお生まれになる700年も前から、「メシヤはユダヤのベツレヘムから出る」と預言されていました。つまり、神さまはイエス様をベツレヘムで生まれさせるために、ローマ皇帝や総督を用いたということではないでしょうか?ローマ皇帝が「全世界の住民登録をせよという」と勅令を発したので、ヨセフとマリヤはユダヤのベツレヘムに旅立ったのです。ハレルヤ!そして、イエス様はベツレヘムでお生まれになられたのです。でも、ベツレヘムにはそんなに長く滞在していませんでした。8日目、エルサレムで割礼を受けた後、まもなくエジプトに逃れました。なぜなら、ヘロデ王が命を狙っていたからです。しかし、ヘロデ王が死んだ後、ナザレに戻って、そこで30歳までおられました。そのため、イエス様はナザレ人と呼ばれました。ナタナエルはピリポがメシヤと出会ったと言うと「ナザレから何の良いものが出るだろう」と答えました。ほとんどの人は、イエス様がベツレヘムでお生まれになったという事実を知らなかったと思います。だから、マタイとルカはイエス様がベツレヘムで生まれたことを書きたかったのでしょう。

 その人がどこで生まれたのか、だれの子として生まれたのか、とても気になります。この世では、出生が人生を決めてしまうところがあります。だいたい、「どこの出身です」と言うと、「ああ、あなたはこういう人ですね」みたいに枠の中に入れられます。「ああ、秋田の田舎ですか?秋田から何の良いものが出るだろう」。多くの人たちは、出生に対して、何等かの劣等感を持っているかもしれません。ここからは適用ですが、あの神の子、イエス様ですら、一人間として生まれる必要がありました。本来なら世界的なメシヤなのに、ローマ皇帝と総督に動かされて、ベツレヘムで生まれました。その後、ナザレで育ちました。イエス様は、30歳まで全く無名でした。私も、あなたも、あそこで、あの親で生まれる必要があったのです。エペソ14-5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」私たちの誕生も神のご計画でした。

2.家畜小屋のメシヤ

 イエス・キリストは神の子なのに、ちゃんとしたところでお生まれになりませんでした。ルカ26-7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」なぜ、マリヤとヨセフは馬小屋で子どもを産み、飼葉おけに寝かせたのでしょうか?その前に、本当に「馬小屋だったのか」ということです。あるホームページを見たら「イエスは馬小屋で生まれたのではない」と書いてありました。英語ではstable、「家畜小屋」となっています。文語訳聖書が「飼葉おけ」を「馬槽(うまぶね)」と訳したことから「馬小屋」と解釈したのかもしれません。とにかく、ちゃんとした宿屋ではなく、離れにあるむさくるしい家畜小屋だったのでしょう。先週までテレビで黒柳徹子さんのドラマ「トットちゃん」が放映されていました。お母さんと青森に疎開したとき、家ではなく、畑の中に立っていた小屋に移り住みました。まるでそれは掘立小屋でした。本題に戻りますが、なぜ、「マリヤとヨセフは家畜小屋だったのか?」ということです。人口調査のために生まれ故郷に帰るのですから、親戚が多かったと思います。親戚同士は助け合うものです。なのに、マリヤとヨセフには部屋がありませんでした。おそらく、マリヤは私生児を懐妊していると思われていたのでしょう?もし姦淫であるならば「石打ちの刑」ですが、ちゃんとした証拠がなかったのかもしれません。しかし、親戚中に噂は広がっていたと思います。第二は、宿屋が本当にごったがえしていたからです。宿屋の主人は、もし、マリヤとヨセフを入れるなら、他の客を追い出さなければなりません。しかも、その妻が産気づいているなら、めんどうです。だから、彼らは締め出しを喰らったのかもしれません。

 皆さんの中にベッドが飼い葉おけであったという人がいるでしょうか?伝説によると、聖徳太子は馬小屋で生まれたそうです。だから、「厩(うまや)戸の皇子」と名乗ったと言うことです。しかし、聖徳太子のブレーンであった秦河勝が渡来系であり、景教(ネストリウス派)の教えを持ち込んだのではとも言われています。それはともかく、神の御子が、飼い葉おけに寝かされていたというのは、すばらしい福音ではないかと思います。もし、イエス様が宮殿に生まれたのであれば、普通の人は会いに行くことはできません。もし、衛生的で最新設備の病院だったらどうでしょう?ガラス張りで仕切られ、羊飼いや東の博士たちも無理だったかもしれません。ばい菌いっぱいで、ほこりまみれの人たちは無理です。飼い葉おけだったら、人間も動物も面会できます。聖画を見ると、羊飼いの少年が小羊を抱いて訪れている場面もあります。当時、羊飼いは安息日を守れないので、汚れた人たちの中に入りました。なのに、一番先に訪れたのは、野宿で夜番をしていた羊飼いでした。主の使いが彼らにメシヤの誕生を知らせたというのは、すばらしいことだと思います。大手の新聞やテレビ会社ではありません。そんなに影響力もなさそうな、羊飼いたちであります。でも、彼らは伝道しました。ルカ217-18「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。」でも、あまり知れ渡ると、ヘロデ王から命を狙われるので、それくらいが限界だったのでしょう。

 家畜小屋、飼葉おけ、羊飼いの訪問…みんな謙遜であります。この世の王子誕生なら、宮殿、衛生設備、偉い人の訪問が相応しいでしょう。しかし、神の子イエスは、とても謙遜なお姿でお生まれになられました。そもそもの原因は、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とルカが記しています。英語の聖書はno roomです。no roomは他にも使います。たとえば、だれかに呼ばれてごちそうをいただいたとします。招いてくれた人が、もっとお食べくださいとお替りを出したとします。食後のデザートかもしれません。そのとき、食べられなければ、no roomと答えるそうです。Roomは部屋のほかに、場所、空間、余地という意味があります。ある人たちは、イエス様を信じる「心の余地」がありません。もし、イエス様を心にお迎えするならば、今あるものを捨てるか、追い出す必要があります。自分の考え、自分の夢、自分のライフスタイルかもしれません。だから、「このままで良いです。結構です、大丈夫です。」とイエス様を迎え入れないのです。私も25歳のとき、苦労しましたが、一番の問題は自我でした。「もし、イエス様を信じたら、自分はどうなるんだ?俺には俺の人生がある。そんなことできない」でした。高校生の頃、友達が加藤諦三の『俺には俺の生き方がある』(大和書房1966)という本を貸してくれました。その当時、ニッポン放送のテレフォン人生相談で活躍していた早稲田大学の教授でした。彼は今、思うと聖書のことばを結構引用していました。数えてみたらこれまで230冊くらい本を書いているようです。日本人が陥りやすい問題を取り扱っているように思います。

その当時、「私はやっと人と比べない、自分の生き方ができるんだ」と自負していました。でも、心の中は混乱と劣等感で満ちていいました。ところが415日のイースター、職場の先輩から9時間も伝道されて、降参しました。お勧めくらいじゃ絶対信じなかったでしょう。夜の9時半頃、根負けして「じゃ、信じるよ」と言っただけです。その時、先輩が話してくれたのが、今思うとヨハネ黙示録320でした。イエス様が私の名を呼んで心のドアをたたいているというのです。外側には取っ手がなく、内側にしかないというのです。イエス様は紳士なので、ドアを蹴飛ばして入らない。「鈴木君がドアのノブを回してドアを開けるしかない」と言われました。私の心の中は町田のアパートのような6畳一間で、半畳のキッチンでした。カーテンに閉ざされた薄暗い部屋でした。先輩は片付けてからでなく、ありのままjust way you areで良いと言いました。「ああ、そうなのか?」と降参して、イエス様を心の中にお迎えしました。そうすると、狭い天井が取り去られ、光が入ってきたような感じがしました。次の朝、部屋のカーテンを開けると、生垣の葉っぱ一枚、一枚が輝いていました。イエス様がむさくるしい家畜小屋でお生まれになられました。悪臭漂う、不衛生な場所です。私たちの心も罪と汚れに満ちています。でも、イエス様はありのままの私たちを受け入れ、私たちが心のドアを開くなら、入ってくださいます。イエス様はあなたの名前を呼んで「一緒に食事をしよう」と招いておられます。開けるしかないでしょう。

3.あなたのメシヤ

 ルカ29-11「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』」このところに、「恐れ」と「喜び」ということばが出てきます。羊飼いたちは主の栄光が照らしたので、ひどく恐れました。何故、恐れたのでしょう?創世記3章に恐れの起源があります。創世記3:8-10「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」最初、アダムとエバは神さまを恐れたことがありませんでした。造り主であり、親のような神さまと親しく交わっていました。なぜ、神さまの顔を避けなければならなかったのでしょう?それは、食べてはいけない木の実から取って食べたからです。その木の実に毒があったのではありません。「自ら神のようになって善悪を判断したい」と神さまから離れたからです。表現を替えると、神さまと二人の間に、罪が入ったので、彼らは恐れたのです。恐れは罪の結果です。私たちもだれから教えられなくても、悪いことをすると恐れがやってきます。不思議です。だれが見ていなくても、神さまが見ているような感じがするからです。それは本能かもしれないし、神さまが与えた良心かもしれません。でも、その良心も悪い事をしていると、麻痺して何とも思わなくなります。恐れがなくなったならば、それは最悪の状態です。

 羊飼いたちは、主の栄光が照らしたので、ひどく恐れました。自分たちの罪があらわにされたからでしょう。また、神を見ると滅びるというモーセの教えを信じていたからかもしれません。ある人たちは、「恐れ」と「畏れ(畏敬)」は違うと言います。でも、聖書にはこの2つには区別がありません。畏敬の意味での「畏れ」は宗教臭いような感じがします。よく日本人は、神的なものと遭遇すると、「畏れ多い」と言うからです。これは、自分が汚れているという前提があるからでしょう。日本人は罪ではなく、汚れがあると言います。聖書では汚れも罪の1つですが、罪は汚れ以上に悪く本質的なものです。それは、神さまから離れていることを表しているからです。聖い神さまから離れ、自分勝手な道を歩んでいる。あるいは、いのちの神さまから離れ、霊的に死んでいる状態です。だから、生まれつきの罪人は、「畏れ(畏敬)」ではなく、「恐れ」であります。でも、恐れは罪の結果であり、クリスチャンになるなら、恐れなくて良いのです。Ⅰヨハネ418「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」アーメン。その証拠に、神の御子イエスさまは、父なる神さまをちっとも恐れていませんでした。イエス様が全き愛を持っておられたからです。私たちもイエス様のように、全き愛を持ったならば、神さまを恐れなくても良いし、またこの世の何ものをも恐れなくても良くなります。使徒パウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ831と言いました。

 恐れと対局にあるものが喜びであると思います。なぜなら、御使いが「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と言ったからです。「すばらしい喜び」は原文ですと、「メガレーンの喜び」となっています。ギリシャ語のメガスは、英語のmegaになったと言われています。Megaは「巨大な、特別大きい、最大級の」という意味です。マクドナルドではmegaマックがあります。なんと、ビーフパティが4枚も入っています。また、メガは106乗、100万倍という単位でもあります。よく、メガヘルツとか、メガトンなどと言われます。直訳するなら、「メガトン級の喜びを知らせに来たのです」となります。でも、私が不満足なのは「この民全体のための」という訳です。「この民全体の」になるなら、イスラエルかユダヤ人です。そうなると、異邦人である私たちは「蚊帳の外」となります。しかし、ギリシャの聖書や英語の聖書にはそういう表現はありません。“I bring you good tidings of great joy, which shall be to all people. For unto you is born this day ”となっています。一番重要なのは、I bring youfor unto youであります。「あなたに、あなたのために」であります。他のだれのためでもない、「あなたのために」です。これを大多数のだれか分からない人たちのためだと思ってはなりません。イエス様はあなたのためにお生まれになったのです。御使いは「あなたのためにメガトン級の喜びを知らせに来たのです」アーメン。私は8人兄弟の7番目に生まれたので、自分の分がありませんでした。お盆とお正月は座る席がありませんでした。なぜなら、結婚した兄や姉の伴侶がお客さんだからです。私の妹はお客さんがくると隠れていました。英語で一人分のことをportionといいます。portionは「分け前」という意味です。しかし、神さまはイザヤ61章でこうおっしゃっています。「あなたがたは恥に変えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に変えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる」(イザヤ617)。イザヤ書には「二倍の分け前double portion」と「とこしえの喜びeverlasting joy」と書かれています。これが他のだれかではなく、「あなたに与えられる」のです。みんなではありません。「あなたです」。

 日本人は「他の人のことを考えなさい。他の人に迷惑をかけてはいけません。みんなで分け合いなさい。みんな仲良くしなさい」と教えられてきました。日本人は「自分がない、みんな」です。だから、不安で恐れがあるのです。自分に自信がなく、自分が満たされていません。そういう人が、他の人を考えて分け合うことができるのでしょうか?できません。できたとしても喜びがありません。なんとなく悲壮感があります。私たちはいっぱい神さまから愛され、いっぱい与えられ、いっぱいいただいているのです。だから、他の人にも与えることができるのです。御使いは、あなたのために、私のために「メガトン級の喜びを知らせに来たのです」。アーメン。

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2017年12月15日 (金)

ヘブル書のクリスマス ヘブル8:6-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.12.17

 紀元前を表すB.CBefore Christ 「キリスト以前」という意味です。また、紀元後を表すA.Dはラテン語から来ており「主の年において」という意味です。歴史が2つに分けられたと同じように、キリストを境にして、聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれています。聖書の「約」は契約の「約」です。キリストは、古い契約を終わりにして、新しい契約を打ち立てるために来られたのです。そのため、古い契約を終わりにするため、キリストは死ぬ必要がありました。クリスマス、神が人となってこの地上に生まれたのは、死ぬためでありました。

1.古い契約

 ヘブル人への手紙はキリストが来られた理由を独特な表現で述べています。キリストは古い契約を終わりにして、新しい契約を打ち立てられました。そのため、大祭司・キリストは十字架で血を流し、一回で永遠の贖いを成し遂げられました。今や律法の行ないや犠牲や儀式は不要だということです。私たちはキリストの血を通して、いつでも神さまに近づくことができるようになりました。私たちは異邦人ですので、古い契約における様々な人間の要求については知りません。ところが、古い契約の中で生きて来た人たちは、納得がいきませんでした。律法の行ないや犠牲や儀式を無視したり、軽んじることは罪だと思っていたからです。そのため、ある人たちはせっかく恵みによって救われたのに、古い契約に戻ろうとしました。なぜなら、ユダヤ教から救われた人たちが、「律法の行ないや犠牲や儀式も必要だ」と言い出したからです。一方、私たち異邦人は、あまりにも簡単に救いが得られるので、恵みに慣れっこになってしまう危険性があります。英語で、easy come, easy goということ諺があります。直訳すると「得やすいものは失いやすい」です。でも他に「あぶく銭は身につかない」という訳もあります。せっかく、キリストがご自身の尊い血潮によって買い取られたのに、粗末にしてしまったら申し訳ありません。私たちは恵みの背後にどのような犠牲があったのか、また、私たちが置かれている立場がどんなにすばらしいのかを知る必要があります。そうすれば、easy come, easy goにはならないと思います。

 まず、第一に私たちは古い契約とは何なのかということを学びたいと思います。古い契約とは主である神さまがイスラエルと結んだ契約です。出エジプト記19章にそのことが書かれています。エジプトを脱出したイスラエル人はシナイ山のふもとに集まりました。だからシナイ契約とも呼ばれています。でも、この契約は律法を守るという条件付きでした。出エジプト記20章から23章まで、十戒をはじめとするたくさんの律法が記されています。それを聞いたイスラエルの民は何と答えたでしょうか?「主の仰せられたことは、みな行います」と答えました。ところが、モーセがなかなか帰ってこないので、人々はアロンに「私たちのために神を造って下さい」とお願いしました。モーセが山から下りてくると、人々が金の子牛に全焼のいけにえをささげ、飲み食いし、踊っているではありませんか。モーセは怒って、主からいただいた石の板を投げ捨てて砕いてしまいました。旧約聖書はこの先、ずっと続きますが、イスラエルはモーセの律法を守ることができませんでした。そればかりか、主なる神さまを忘れて、カナンの偶像を拝んでしまいました。旧約聖書はイスラエルの神への背きの歴史と言っても過言ではありません。北イスラエルが滅,び、さらには、南ユダも滅ぼされようとしたとき、主は預言者エレミヤとエゼキエルに語られました。そのことばが、ヘブル8章にあります。ヘブル87-9「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。」ヘブル書は、古い契約に欠けがあったとはっきり言っています。イエスラエルも悪かったのですが、古い契約にも欠けがあったというのです。そもそも、イスラエルに律法が与えられたのは何故でしょうか?

 律法の必要性は人類の先祖、アダムとエバが神さまに背いたところまで遡ります。最初、アダムとエバは主なる神さまと親しく交わりを持っていました。親しい交わりのもとで、何をしたら良いのか、何をしたら悪いのか判断していました。ところが、二人は知識の木から実を取って食べました。それは神さまに聞かないで、自分たちで善悪を決めるということを選んだということです。それ以来、人類は神さまから独立し、自分で考え、自分で行動し、自分の力で生きるようになりました。しかし、それでも人間は自分の行いで神さまの正しさに到達できると自負していました。残念ながら、それは不可能でした。神さまはイスラエルを選び、祭司の国にしようと考えました。イスラエルを通して、世界の国々を救おうとされたのです(出エジプト195)。彼らと契約を結ぶとき、律法を与えました。民たちは「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と何度も答えました。しかし、イスラエルの民は律法を守らず、偶像の神に仕えました。しかし、この律法はイスラエルだけではなく、自分の行いによって神に受け入れてもらおうとするすべての人に与えられたものです。パウロはこのように述べています。ローマ3:20 「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」だれでも自分は正しいと思っています。多くの場合、それは自分よりも悪い人と比べています。どのくらいで良いのかという絶対的な基準はありません。ところが、神の律法をその人にあてるとどうでしょう?みんな罪人です。だれひとり神の前に義と認められないのです。つまり、肉で生まれた者はだれひとり、神の前に立って義とされるがなく、さばかれるのです。律法を行うことよって得られる救いの道はゼロであり、すべての人が神にさばれ、御国には入れないということです。しかしパウロは律法とは別の道が与えられると書いてあります。ローマ321-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

2.新しい契約

 第一のポイントの結論のところで、イエス・キリストのお名前が出て来ました。行いによる神の義ではなく、信仰による神の義があるということでした。これはイスラエルだけではなく、すべての人に与えられる約束です。もう一度、ヘブル人への手紙に戻りたいと思います。ヘブル810-12「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」かつて、律法は石の板に記されていました。律法自体は完璧であり間違いはありません。それを行なえない人間に問題がありました。神さまは、不完全な人間と契約を結んでしまいました。だから、主ご自身「初めの契約には欠けがあった」(ヘブル88と認めているのです。そのため神さまは契約の結び方を新たに変える必要がありました。第一は、石の板によって外から与える律法ではダメだったということです。第二はモーセなどのような人間ではなく、もっと完全な仲介者が必要であったということです。まず、第一の方から取り上げたいと思います。神さまは石の板ではなく、心の板に律法を書きつけることを考えました。もし、心が新たに変えられるなら、他の人から「主を知れ」と言われなくても、分かるということです。同時に、律法を守る力も内側に与えられるということです。つまり、外からの律法では人間はダメで、内側が変えられることによって律法を守ることができるということです。ローマ82-3「いのちの御霊の原理が罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」とあります。人は聖霊によって生まれ変わることによって、自然に律法を守れるようになるのです。

 第二は仲介者の問題です。旧約聖書には「契約」と言われるものがたくさんあります。聖書は契約に満ちています。アダム契約、ノア契約、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約などです。シナイ契約の時は、モーセが仲介者となりました。このとき、イスラエルに守るべき律法が与えられたのです。一方、新しい契約は、キリストが仲介者になりました。キリストは神の子であり、1つの罪も犯しませんでした。そして、キリストが大祭司となり、ご自身をいけにえとしてささげられました。両者が契約を交わすときは必ず、きよい動物を2つに分けて、血を流す必要がありました。神の子であるキリストは、一回で永遠の贖い成し遂げられたのです。キリスト以降は、動物のいけにえは不要となったのです。ヘブル912「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」アーメン。私たち人間が仲介者として契約を結ぶなら、完全に守るという保証はありません。アダムも、ノアも、アブラハムも、モーセも、ダビデもみんな不完全でした。だから、完全な仲介者になることができませんでした。しかし、罪のない、まことの大祭司であるキリストが仲介者になってくださったのです。イエス・キリストは真実なるお方です。父なる神さまもそのことをお認めになっておられます。つまり、新しい契約は不完全な人間ではなく、完全なるキリストが仲介者になって結んでくださったのです。その時、私たちはどこにいたのでしょう?「教会はキリストのからだである」とパウロが言いました。私たちがイエス様を信じると、キリストのからだに組み入れられます。キリストが神さまと契約を結んだ時、私たちはキリストのからだの中にいたのです。神さまは永遠なるお方なので、2000年間の隔ては問題でありません。キリストが私たちの代わりに、私たちの代表となって、神さまと契約を結んでくださったのです。私たちは不真実であっても、キリストはどこまでも、いつまでも真実なお方です。私たちは「イエス様を信じることによって救われる」と言います。しかし、私たちの信仰はいい加減です。本当は、イエス様の信仰、イエス様の真実が私たちを救ってくださるのです。だから、「自分の信仰がどの程度純粋なのだろうか?この信仰で救われるだろうか?」と内省しないでください。それよりも、「私たちが信じているイエス様の真実が私たちを救ってくれている」と考えてください。自分の信仰ではなく、イエス様の信仰を見上げて下さい。そうすれば、信仰が後からやってきます。聖書が啓示している契約の事実をそのまま受け止めるとき、信仰がやってくるのです。

 残念ながら、キリスト教会においてモーセの律法をキリストの恵み抜きに読んで、自分を苦しめています。安息日をどう守るべきだろうか?汚れた動物、たとえば「うなぎ」を食べて良いのか?身体に障害のある者や女性が神さまの前で奉仕ができるだろうか?死んだ人にさわったら、夕方まで汚れるのだろうか?ある教団は、異端ではないにしても、土曜日を安息日として公の礼拝をささげています。しかし、「何を食べて良いのか、何を食べたら悪いのか」旧約聖書のような規定があります。では、福音派の教会はどうなのかと言うと、やはり、恵みよりも律法が強調されている教会があります。その証拠に説教の最後が「〇〇しましょう」「〇〇してはいけません」「〇〇を守りましょう」などと、行ないの勧めで終わります。つまり、「今のままでは神に受け入れられていないので、もっと正しく生きなさい」ということなのです。そうすると人々に律法の呪いがかけられ、束縛された信仰生活を送るようになるのです。第二ポイントの結論として、Ⅱコリントから二か所引用させていただきます。Ⅱコリント3:6 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント314-17「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」アーメン。

3.旧約から新約へ

ヘブル813「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」ヘブル人への手紙は、「新しい契約が来たからには、古い契約は消えて行くべきである」と言っています。では、いつから新しい契約が履行されるようになったのでしょうか?ある人たちは、「キリストが来られた時からだ」と言っています。またある人は、「福音書が書かれている新約聖書からだ」と言います。イエス様は地上に来られ、神の国を宣べ伝え、さまざまな奇跡を行ないました。また、山上の説教など実行不可能と思われる教えを説かれました。よく見ると、モーセの律法よりも実行不可能なレベルになっています。人を憎んだだけで殺人だとか、情欲を抱いて異性を見たら姦淫だと言われています。これを生身の人間が守り行おうとしたなら、全く不可能です。しかし、ある事が起こると、イエス様の教えを実行できるようになるのです。その証拠が、全く変わってしまったイエス様の弟子たちです。彼らは最後の晩餐の時まで、だれが一番偉いか、競い合っていました。しかし、エルサレムで聖霊を待ち望んでいた彼らは、「みな心を合わせ、祈りに専念していました」(使徒114)。あの臆病な弟子たちが、死も恐れず「イエスはキリストである」と告白しました。いつから、新しい契約が履行されたのでしょうか?そのヒントとなるみことばが、ヘブル9章にあります。ヘブル915-18 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」

なぜ、このみことばがそんなに重要なのでしょうか?ここには、古い契約が終わり、新しい契約が履行されるターニング・ポイントが書かれているからです。厳密に言うと、イエス様がこの地上に来られた時から、新しい契約が始まったのではありません。私たちが福音書を読むとき、山上の説教を読んで躓くのはそのためです。イエス様が教えた教えは、新しい契約のもとで、新しいいのちを受けて、初めて実行可能になるからです。一番重要なのは、イエス様の死であります。この死が古い契約を終らせ、新しい契約を発動させる要となったのです。私たちは旧約聖書の神さまは恐ろしい神さまだと思っています。なぜなら、律法を破ったイスラエルの民は殺され、滅ぼされました。もし、私たちが旧約時代に生きていたならいのちがいくつあっても足りないでしょう。ところが、新約聖書になると神さまのイメージがぐっと変わります。放蕩息子のお父さんに象徴される、無条件で愛してくださる父なる神さまです。イエス様も神さまは善なる神さまであるとおっしゃっています。でも、旧約聖書の神さまは恐ろしくて、新約聖書の神さまは優しいとしたなら、神さまは精神が分裂しているとしか思えません。「神さまにそんなことを言うなんて!」と叱られそうですが、旧約と新約の矛盾を克服しておられるでしょうか?しかし、私が名誉を挽回しなくても、神さまは一貫した神さまであり、精神が分裂しているわけではありません。まず、父なる神さまとイエス様がしなければならなかったことは、旧約のけじめをつけるということでした。ヘブル書には「初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受ける…初めの契約も血なしに成立したのではありません。」と書いてありました。このみことばから分かるように、イエス様が死なれたのは、人類の律法の違反を贖うためでした。イエス様がまことの仲介者として、十字架で罪を負って死なれたのです。Ⅱコリント531「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」アーメン。父なる神さまは古い契約を終わらせるために、御子イエスを罰する必要があったのです。それで、父なる神さまの人類の罪に対する怒りがなだめられたのです。その結果、神さまはご自身に対する人間の立場を変えられたのです。これを「和解」と呼んでいます。和解はギリシャ語でカタラッソ―と言いますが、もともとの意味は「変える、取り換える」です。神さまは永遠に義なるお方です。罪に対しては必ずさばかなければなりません。でも、キリストの十字架の死によって、罪の代価が支払われたので、変わったのです。どう変わったかと言うと、キリストを信じる者に、ご自身の義を与えることにしたのです。ローマ321-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」アーメン。

最後に、いつから新しい契約が発動(履行)されたのでしょうか?キリストが死んでからです。「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって…」と書かれているとおりです。新約聖書を英語で、New Testament と呼びます。Testamentは「遺言書」という意味です。それが、「契約」とも呼ばれているのです。新約聖書は、「キリストによる新しい遺言」とも言えるのです。なぜなら、キリストが古い契約をご自身の死によって終わらせ、ご自身の血によって新しい契約を結んでくださったからです。ハレルヤ!神さまは変わりません。旧約時代も神さまは愛であり、善であったのです。でも、人間が自分の行いによって神さまに近づこうとしたので、律法の呪いを受けてさばかれたのです。しかし、私たちは新約時代に生まれました。もし、自分の行いで神さまに近づこうとしたなら、同じように律法の呪いを受けるでしょう。もう律法はキリストによって成就され、その要求が満たされたのです。私たちはキリストを信じることによって神の義が与えられました。神に受け入られるための良い行いは一切、不要なのです。良い行いは、信じた後にちゃんと与えられます。なぜなら、聖霊によって生まれ変わったなら、その人に神の種が宿るからです。その人は罪を犯すのが不自然になり、良いことをすることが自然になるのです。しかも、父なる神さまはその人に良い行いを備えてくださっています。なぜなら、その人は神の息子、娘だからです。あなたは律法の流れの中にはいません。すでに、恵みの中にいるのです。恵みを味わいつつ、神さまに従っていけるのです。

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2017年12月 8日 (金)

メシヤの御国 ルカ1:26-38 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.10

 イエス様は「御国が来ますように祈れ」とおっしゃいました。また、イエス様の教えの中心は御国でした。御国kingdomというとき、3つのものが必要です。第一は王権(王様)です。第二は治めるべき領土(領域)です。第三は領民(国民)です。父なる神さまは私たちが御国に移り住むことができるように、備えてくださいました。それがクリスマスです。きょうは、聖書の記述の順番ではなく、逆からメッセージをしたいと思います。 

1.御国とは

 ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」33節に「その国」とありますが、ギリシャ語ではバシレイアーであります。バシレイアーは、王権、支配、統治という意味です。そこには、領土とか国土という意味は含まれていません。しかし、冒頭でも申し上げましたが、王国は王様ひとりだけではダメで、領土と領民が必要です。イエス様は「父のみもとにはたくさんの住まいがある。…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く」(ヨハネ142と言われました。よく見ると、まだ住むべき場所はできていないようです。父なる神さまの御国のもたらし方は、私たちが考える順番とは違うようです。第一は御国の王様を立て、第二は人々を集め、第三は住むべき領域を作るというものです。私たちは「御国はどこにあるのですか?見せてください。そうしたら信じますよ」と言いたくなります。でも、肉眼で見えたならば、信仰は必要ありません。神さまは「まだ準備はできていません。でも、きっと来るので入国の手続きを済ませてください」とおっしゃるでしょう。でも、ここに「その国」とありますので、だれかが王として治める国なのであります。英語の聖書ではhis kingdom、「彼の国」となっています。彼とはだれなのでしょうか?そのヒントが32-33節に記されています。

 このところに、日本人にはなじみのない名前が出てきます。それは、ダビデとヤコブであります。つまり、彼がおさめる国は、ダビデの王位であり、ヤコブの家のようなものだということです。御使いは「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」と言いました。イエス様が公に姿を現したとき、人々は「ダビデの子、イエスよ」と言いました。おそらく、「ダビデの子孫」という意味でしょう。実際、メシヤはダビデの子孫から生まれる予定でした。でも、イエス様はダビデの子ではありません。霊的には永遠からおられた神の子であったからです。でも、イエス様はダビデのような王様であるということは確かです。実は、主なる神はダビデに約束をしていました。どんな約束でしょうか?Ⅰ歴代誌1714「わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」これは、ダビデ契約と言われています。ここで言う「彼は」はソロモンであり、その王国とはユダとイスラエル王国でした。歴史をみますと、ソロモンの死後、国は分裂し、アッシリアとバビロンによって滅ぼされました。地上的にはこの契約は実現しませんでした。もう一度、御使いがこれを引用したということは「彼は」ソロモンではなく、イエス・キリストにおいて実現すると言ったのです。ダビデはイスラエルの王様の中では最も忠実な王でした。神さまから最も愛され、王様の模範でした。そのところが、イエス・キリストと似ているということです。

 もう1つは、「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」です。ヤコブというのは別名、イスラエルです。彼には12人の息子がいました。その息子たちが、イスラエル12部族になりました。神さまはイスラエルを選んだのには訳がありました。イスラエルを祭司の国として立て、その後、全世界の人たちを導くということです。でも、イスラエルは堕落し、その務めを果たすことができなくなりました。それでイエス様が12弟子を選び、新しいイスラエルにしました。でも、神さまはイスラエルを捨てないで、世の終わりもう一度、集めると言われました。つまり、御国は私たち異邦人のものであると同時に、イスラエルのものでもあるということです。イエス様はペテロたちにこう約束されました。マタイ1928「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」御国は失われたイスラエルのためにもあるのです。聖書は「イスラエルの子らが集められ、神さまの選びは変わることがない」と預言しています。本来はイスラエルが祭司になって、全国民に伝道するはずでした。しかし、私たちクリスチャンが王的な祭司として選ばれたのです(参考:Ⅰペテロ29)。私たちは考え方を大きくしなければなりません。どのくらい?世界規模です。今は、ユダヤ人であるイスラエルはイエス・キリストを受け入れていません。2000年前に来られたイエス様を拒絶しています。その代り、世の終わりに来られるメシヤを待ち望んでいます。しかし、そのメシヤこそが再臨のキリストであります。

 御国は永遠です。「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と書いてあるからです。地上の国々は栄枯盛衰、「建っては滅びる」の繰り返しでした。でも、イエス様が王として治める御国は、永遠であり終わることがありません。天文学者たちは、「地球も太陽も永遠でない」と言うでしょう。私たちのことを「非科学的で幼稚な人たちだ」と馬鹿にするかもしれません。ヨハネ黙示録21章と22章には御国の完成図が書かれています。御国というよりも「新しい天と新しい地」であります。黙示録211「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」、黙示録225「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」完成された御国は、現在の地球とか太陽ではないようです。私たちは全く、新しい世界に移り住むということです。どこかの星に移住するようなSF映画がありますが、そのようなことが実現するということです。神さまが造られた宇宙は広いです。銀河系が数えきれないくらいあるのですから、私たちが永遠に住むことができる御国を用意しておられます。アーメン。

2.イエスとは

 ルカ131「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」もう一箇所、引用いたします。マタイ121「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」多くの人たちは、イエス・キリストは普通の名前だと思っているかもしれません。「イエス」は名前ですが、キリストは「油注がれた者、メシヤ」という意味です。その当時、イエスは普通につけられた名前でした。もともとは旧約聖書のヨシュアから来たものです。ヨシュアは「主は救い」という意味です。神さまはあえてその子を「イエス」と名づけるように言われました。マタイはその意味を書いています。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」何から救うか?というと、罪から救うということです。そうです。キリスト教で、「救い」というとき、一番の意味は「罪からの救い」です。この罪が解決することが最も重要なことだからです。第一のポイントで、御国とは何かということを説明しました。父なる神さまは御国に私たちを住まわせたいのです。でも、入国を妨げるものがあります。成田空港に行くと、入国審査があります。パスポートを提出するとき、いくつかの質問を受けます。「どのくらい滞在しますか?」「滞在目的は何ですか?」「どこに泊まりますか?」「帰りのチケットは持っていますか?」「この国に来たのは初めてですか?」その後、門をくぐらなければなりません。「ビー」となったらダメです。もちろん、私たちは御国は初めてであり、帰りのチケットは不要です。でも、パスポートが必要です。罪があると「ビー」と鳴ります。これはたとえですから、全部あてはまらないかもしれません。でも、言えることは、生身のままでは御国に入れないということです。罪の赦しと、「良いよ」という証明が必要です。日本では死んだらみんな天国に行けるようなことを言いますが、そうではありません。

 父なる神さまは罪ある人間が、御国に入れるようにあることをしてくださいました。それは、御子イエスを与えたということです。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。でも、神さまは大人としてのイエス様を地上に与えたのではありません。なんと、神の子をひとりの人間として誕生させました。あがないのためには、罪を犯さない完全な人が必要だったのです。「あがない」とは、正しい人に、悪い人の罪を負わせて、代わりに赦すと言う意味です。イエス様は全き神、全き人であり、私たち全人類の罪を負って下さったのです。Ⅰペテロ22224「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。…そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」アーメン。そうです。十字架の死は私たちの罪の身代わりでした。この方を信じる時、私たちの罪が赦され、神さまから義と認められるのです。神さまから義と認められた者だけが、神の御国に入ることができるのです。これは狭き門であります。イエス様こそ、救いにいたる門であります。十字架による罪のあがないがなければ、だれひとり、御国に入ることはできません。私たちはだれでも成田空港に行くことはできます。展望デッキからジェット機の離発着を見ることができます。でも、入国審査を通過しなければ、ジェット機に乗ることは不可能です。

 
イエスと言う意味は何だったでしょう?「この方こそ、ご自分の民をその罪から
救ってくださる方です。」英語の聖書には、he shall save his people from their sins.となっています。直訳すると「彼の人々を彼らの罪から救って下さる」という意味なります。これを見ると、もともとはイエス様のものであったことがわかります。あるいは選ばれていたという意味かもしれません。つまり、もともとは、神さまのこどもであったのに、罪の中で失われていたということです。「あがなう」とは「買い戻す」という意味ですから、罪の代価を払って、もう一度、神のこどもにするということです。こういうことを言うと異端と言われるでしょうか?ルカ15章には「ほうとう息子のたとえ」が記されています。弟息子は父のもとを離れ、身を持ち崩して、豚飼いになっていました。では、そのとき弟息子は父の子どもではなかったのでしょうか?息子でした。お父さんは帰ってきた息子を無条件に迎え入れました。でも、何と言ったでしょうか?お父さんはただの気の良いお父さんではありません。ルカ1524「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と言いました。父なる神のもとを離れた人間は、死んでいるのと同様だということです。ルカ19章には取税人ザアカイの物語が記されています。イエス様は木の上で隠れているザアカイの名前を呼びました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは急いで降りてきて、大喜びでイエス様を迎えました。イエス様は何とおっしゃったでしょう?ルカ199-10「「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」このところから、わかることは、ザアカイは信じる前からイエス様のものであったということです。でも、イエス様の招きに応じたときに、ザアカイは救われたのです。ザアカイはイエス様を信じる前から、見出されていたのです。

 私たちは偶然に、たまたまイエス様を信じて救われたのではありません。イエス様は確かに全人類ために十字架で死なれました。でも、罪のあがないが成立するためには、信じて、受け取らなければなりません。キリストを信じた人がはじめて「主イエスは私の罪のために死なれました」と告白できるのです。この告白こそが、御国にはいるパスポートです。告白が正しければ、「ビー」とも鳴りません。ある人たちは天国は死んでから入るものだと思っています。そうではありません。私は天国ということばはまぎらわしくて使いたくありません。神の御国は生きている内に、イエス様を救い主として信じなければなりません。生命保険が生きているうちに入るのと同じように、信仰告白も生きている内にしなければなりません。イエス様は私とあなたを私たちの罪から救うために来られた救い主です。アーメン。

3.おとめマリヤ

 ルカ128-32「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」マリヤはヨセフと婚約していました。なのに、一方的に「みごもって子を産みます」と言われました。処女降誕はキリスト教の躓きの1つです。「処女からは子どもは生まれない」と言います。そのためキリスト教会は、「処女降誕が信じられなくても、キリストの贖いを信じていれば救われる」と言うところもあります。でも、それは1つの妥協です。もちろん、絶対的なものではないかもしれませんが、キリストが罪を負わないで誕生するためには必要なことでした。もし、ヨセフとの関係で自然にイエス様が誕生したなら、アダムの罪が転化されます。だから、マリヤ一人でなければなりません。でも、マリヤには罪がないのでしょうか?ローマ・カトリックは否定するかもしれませんが、マリヤにも罪があります。では、どうやって神さまは罪のないお体として御子イエスを誕生させたのでしょうか?そのことは、マリヤにとっても理解できないことでした。

 ルカ134-35「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」マリヤにも常識がありました。でも、御使いが答えています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言いました。私はこのみことばを見たとき、2つのことを思い出しました。1つは創世記第1章、もう1つは使徒の働き第1章です。創世記11-2「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」神の霊、聖霊が「水の上を動いていた」と書かれています。しかし、ヘブル語の意味は、「動いていた」ではありません。回復訳聖書には「覆い抱いていた」と書いてあります。チョーヨンギ師は「めんどりが卵を孵化させようと翼をばたばたさせている様子と同じだ」と言いました。つまり、聖霊は、父なる神のおことばが発せられるならば、無から有を生み出すということです。聖霊が全宇宙を父なる神さまと創造したのだったら、処女マリヤの胎を用いて、ひとり子イエスを誕生させることも可能であります。神さまの全能の力をみくびってはいけません。御使いもこのように言いました。「神にとって不可能なことは一つもありません。」それに対してマリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」アーメン。マリヤは救い主の誕生のために、自分をささげたのです。結婚や姦淫の汚名、人々からの誤解や嘲笑よりも、主のみこころに従ったのです。ハレルヤ!

 もう1つは使徒の働き1章です。使徒18 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」これもルカ1章と同じことばです。ルカ135「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」なぜ、同じなのでしょう?ルカ福音書も使徒の働きも、同じルカが書いたからです。ルカは弟子たちが新しく造り変えられるときと、マリヤの受胎を重ね合わせたのではないでしょうか?聖霊だったら可能だ、聖霊にはできると思ったのです。私たちはイエス様を信じるとき、霊的に新しく生まれます。私たちが神の国に入るためには、神のいのちをいただかなければなりません。イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネ36,7と言われました。つまり、私たちはこのままでは、御国に入ることはできません。聖霊によって新しく生まれる必要があります。マリヤは聖霊によってイエス様をみごもることができました。私たちは聖霊によって神のいのちをいただくことができるのです。これを「新生」と呼びます。この新生の体験がある人は、「ああ、聖霊によってマリヤが懐妊したこともありえることだ」と信じられるのです。だって、自分が新しく生まれ変わったのですから。奇跡を体験したのですから、わかるはずです。このように考えると、クリスマスも遠い昔のことでないことが分かります。あのとき聖霊がマリヤの上に臨み、弟子たちの上に臨みました。同じように、私たちの上にも聖霊が臨んでくださるということです。

ある人たちは、死ぬ前にイエス様を信じて、御国に入れば良いと思っている人がいます。ということは、それまで古い自分のままで生きているということです。なんともったいないことでしょうか?聖霊によって新しく生まれて、この地上でも神さまのいのちをいただきながら生きた方がはるかにすばらしいはずです。昔、仮面ライダーの「変身」というのが流行りました。変身していると超人的な能力があります。でも、普通の姿だと、ダメです。だったら、ずっと変身していた方が良いのではないでしょうか?そこへ行くと、クリスチャンは信じて新生したはずですが、外見はほとんど変わりありません。背中に羽がはえたら良さそうなものです。イエス様は「あなたがたは地の塩です。また、世の光です」と言われました。共通している概念は、この世の中に出てみて、違いがわかるようです。いや、私たちはこの世に出て行くと、違いをもたらすことができるのです。人々に御国はどこか案内するだけではありません。なんと、人々のところに御国をもたらすものとして用いられるということです。御国は将来、はっきりと目に見えるかたちとしてやってきます。でも、今は目に見えませんが、御国は私たちと共にあります。イエス様は「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ1721と言われました。まだ、不完全かもしれませんが、神の支配として、御国が私たちの所に来ているのです。クリスマスは遠い昔のおとぎ話ではありません。クリスマスはデパートのセールのためにあるものでもありません。クリスマスはイエス様が聖霊によって乙女マリヤに宿り、人間として生まれたことです。イエス様が十字架で代わりに死なれたので、私たちが罪赦され、御国に入れるようになりました。今も、聖霊が働いておられ、キリストを信じた人が御国に入れるようにしてくださいます。

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2017年12月 1日 (金)

携挙のとき マタイ24:37-51 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.12.3

 世の終わりにおける、患難時代は7年間あります。7年間なので、時代というよりも「期間」と言う方が良いかもしれません。しかし、この期間に「携挙」と言われるものが起こります。「携挙」はラテン語のrapere「つかむ」から来ており、これから「移す」という意味になりました。患難期にキリストが来られ、信仰者を天に引き上げるということです。昔、『レフト・ビハインド』という本が出ましたが、その本は地上に残された者たちの物語です。きょうは、世の終わりの出来事の1つ、「携挙」について学びたいと思います。

1.しもべのたとえ

 本来なら37節から「携挙」についてお話ししたいのですが、話のクライマックスからすると、「しもべのたとえ」を第一のポイントにした方が良いと思いました。なぜなら、これを最後に話すと盛り下がるからです。やっぱりメッセージは盛り上がるところ、クライマックスが必要です。マタイ2446節から25章全部が「再臨の備え」について記されています。ほとんどが「たとえ話」のように書かれています。元来、聖書には「章」とか「節」はないので、連続したものと捉える必要があります。「しもべのたとえ」は、主人としもべ長としもべたちがいます。しもべ長は、主人の留守中に家を任されている管理人と言えるでしょう。昔は、主人の代わりに財産や仕事を管理しているしもべ長がいました。たとえば、旧約聖書のヨセフは、奴隷でありながらもポテファルの家を管理していました。このたとえによると、しもべ長の下に、何人ものしもべたちがおり、彼は仕事の管理だけではなく、しもべたちの生活も任されていたようです。英語の聖書はHouseholdとなっており、「雇い人等を含めて家族の者たち、家事全般」という意味です。主人は、しもべ長に家事全般を任せたしばらく旅に出て、また帰ってきます。でも、いつ帰ってくるのか分からない、思いがけない時に来るということです。それで、このしもべ長はどうしたのでしょうか?48-51節「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」彼は家事全般を忠実に果たすどころか、しもべたちを打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりしていました。つまり、食事時にしもべたちに食事を与えないで、我がもの顔に暮らしていたということです。

 これを新約聖書的に考えると、主人はイエス・キリストであり、教会の創設者であり所有者です。しもべ長というのは、教役者たちであり、「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」のことです。でも、一般的に教会の牧師とか、教団の理事と考えることができます。そして、しもべたちとは教会に属している信徒、クリスチャンのことです。私は「信徒」ということばはあまり好きではありません。宗教法人法には代表役員が「住職」で信徒は「檀家」と書かれています。キリスト教会の所有者は神さまで、教役者たちは「しもべ長」ということができます。つまり、世の終わりまで、教役者たちがちゃんと教会員の世話をしているかということです。そこへ行くとプロテスタント教会は至って真面目です。羊を食べているような羊飼いはほとんどいないでしょう。でも、イエス様の時代は、ユダヤ教の指導者はちゃんとしていなかったようです。ヨハネ10章には彼らは雇われ人であって、おおかみが来ると羊を置き去りにして逃げて行きますと書かれています。教会の歴史を見ますと、中世の教会はそうではありませんでした。教皇がキリストの代行をし、一部の教役者たちが教会を所有していました。一般の信徒たちは教会の外におり、貢を納めていました。聖書はラテン語だったので、勝手に読むことができず、迷信に走っていました。霊的にも物質的にも神さまからの祝福を得ていませんでした。現代の私たちは、聖書から正しい福音を取り次ぐ必要があります。パウロはテモテにこのように命じています。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」(Ⅱテモテ215)。私は牧師また説教者として召されていますが、真理のみことばである聖書をまっすぐに説き明かすように努めています。教会によっては新聞の記事やだれかの本から語る牧師がいますが、私はそのようなことはしません。受けが良かろうと悪かろうと聖書全般から、偏ることのないようにしています。

 初代教会は牧師の他に長老や執事も教会員の世話をしていました。聖書を教えるだけではなく、彼らのために仕え、そして祈っていました。ペテロは長老たちにこのように勧めています。Ⅰペテロ52-4「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」ペテロは、再臨のキリストである「大牧者が現れるとき、しぼむことのない栄光の冠を受ける」と励ましています。イエス様もこのたとえの中で、「忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」と教えておられます。つまり、大事なのは主がいつでも来ても良いように、忠実に働いているということです。悪いしもべは「主人はまだまだ帰るまい」と思って、自分勝手なことをしていました。これは私たちの生活全般にも言えることで、私たちが神さまから任されているものに忠実であるということです。家庭でいうと親が子どもを養育するということです。また、職場でも部下たちをちゃんと面倒見るということです。自分の出世のために部下をコマのように使うのは間違っています。また、政治家とかこの世の指導者も神さまから問われるでしょう。多く任された者は、多く責任があります。私たちは再び来られるキリスト様のことを覚え、与えられた任務を忠実に果たして行きたいと思います。

2.ノアの日のように

 マタイ2439「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」イエス様はご自分のことを「人の子」と呼んでいます。ところが、旧約のダニエル書においては、再来するメシヤのことを指しています(参考.ダニエル713)。世の終わりにイエス・キリストが再び来られますが、それはいつなのでしょうか? 1つ前の38節には「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と書いてありました。でも、これまでマタイ24章から「世の終わりの前兆」そして「患難時代」について語ってきました。だから、全く分からないということではありません。私たちはある程度のことを学びました。ただ、ここで言われているのは「人の子が来る」、つまりキリストの再臨のことであります。キリストが再臨されるとき反キリストと信じない者へのさばきがなされます。しかし、同時に、キリストを信じている人たちを天に引き上げる「携挙」も起るということです。

 イエス様はご自分が来るのは「ちょうど、ノアの日のようだ」と言われました。創世記にはノアの洪水について記されています。主は、地上に人の悪が増大しているのをご覧になり、地の面から、すべての生き物を消し去ろうとしました。そして、ノアに箱舟を作るようにお命じになりました。ノアは神さまから示され図面通りに、タンカーのような三階建ての巨大な箱舟を作りました。ペテロ第一の手紙によると、ノアは仕事の合間に人々に大洪水が来ることを知らせていたことがわかります。ところが、だれ一人その警告に耳を貸そうとしませんでした。それから突然、大雨が4040夜、地の上に降りました。ノアとその家族と動物たちが入った後、「主は、彼のうしろの戸を閉ざされました」(創世記716)。ノアが閉じたのではなく、主ご自身が閉ざしたのです。それから大洪水が覆って、地のすべての生き物を地から消し去りました。ノアの時代には何百万人もの人たちが住んでいたと思われます。彼らはやがて来る大洪水にどうして備えなかったのでしょう?イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。」と、おっしゃいました。飲んだり食べたりすることは、別に悪いことではありません。めとったり、とついだりすることも生活上大切なことです。でも、肝心なことを忘れていました。「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかった」のです。この世でも道徳的な生活をしている人たちがたくさんおられるでしょう。でも、ノアの時代のように、この世が終わることを知って備えている人たちがどれくらいいるでしょうか?ピリピ3章でパウロはこう述べています。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ319

 聖書で「救い」と言うとき、いろんな意味があります。罪とさばきからの救い、そして永遠のいのちをいただくことです。また、病の癒しや問題解決も救いと言えるでしょう。しかし、世の終わりのさばきから救われることも忘れてはいけません。特に、終わりの時代に住んでいる私たちはそうであります。だから、イエス様は「用心していなさい」「目をさましていなさい」と命じているのであります。地上のことは大切です。私たちは食べ物、飲み物、着る物や住むところが必要です。家庭や仕事、趣味や楽しみ、結婚や子育て、社会的な活動もあるでしょう。それらは決して悪くはありません。でも、私たちは地上のことだけを思って暮らしてはいけません。イエス様は「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ2435とおっしゃったからです。ノアの時代の人たちは洪水に対して全く備えていませんでした。また、ノアの警告にも耳を貸そうとしませんでした。ただただ、地上のことがらに心を奪われ、日々、暮らしていたのです。私たちは終末の時代に生きていますが、やはり地上のことがらに100%向けている人たちがたくさんおられます。テレビのニュースを見ていますと、政治やスキャンダル、食べ物や着る物、趣味や楽しみ、お化粧品やサプリメント…この地上のことのみです。初代教会でも世の終わりなんか来ないと言っている人たちがいました。Ⅱペテロ34「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」これに対してペテロは、「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」と言いました。

私たちは永遠に地上で暮らすことはできません。1つは肉体的な寿命があります。私たちは必ず死にます。もう1つは、この天地は滅び去るので、滅びから免れどこかに移り住むことが必要だということです。聖書は肉体の死と世の終わりの滅びから救われる道をはっきり示しています。それは神への道であるイエス・キリストを救い主として信じるということです。イエス様はヨハネ14章でこのようにおっしゃいました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ141-3)。私たちにとって、イエス様が再び来られるとは、「ああ、住むべき場所が完成したんだなー」と分かることであります。イエス様は私たちを迎えるために、来られるのです。ハレルヤ!世の終わりは恐ろしいという見方もありますが、同時に、イエス様が天から迎えに来られるすばらしい時でもあるのです。そのためには、世の人々のように、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすること」だけに専念してはいけません。キリストを信じて神さまと和解し、やがて来られるイエス様に目を向ける必要があります。この天地は滅び去ります。しかし、イエス様のことばは決して滅びることがありません。アーメン。

3.携挙のとき

 マタイ2440-42「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」「取られる」のギリシヤ語は「連れて行く、連れ去る」という意味があります。ラテン語でrapereと言いますが、ここから英語のrapture「携挙」という言葉が生まれました。イエス様は当時のライフスタイルで説明していますので、ちょっと古いかもしれません。「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」とありますが、おそらく二人が畑仕事をしていたのでしょう?すると急に、1人は天に引き上げられ、1人は残されるということです。それは、あっという間の出来事であり、一人は地上から消えたということです。次には「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」とあります。さっきは屋外でしたが、今度は室内にいて働いている人たちです。急に、1人は天に引き上げられ、1人は残されるということです。一人は一瞬に栄光のからだに変えられるので、建物とか屋根には左右されません。復活のイエス様が閉じられていた部屋に入ったときと同じです。確率的には二分の一ですが、クリスチャンのうち二人に一人なのでしょうか?それとも一人は未信者で一人はキリスト信者だったのでしょうか?

 他にも携挙について記している箇所があります。使徒パウロがⅠテサロニケ4章とⅠコリント15章でこのことを詳しく述べています。Ⅰテサロニケ416-17「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」Ⅰコリント1552「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」この二つの箇所からはっきり分かることは、主が来られたときキリストにある死者が最初によみがえります。「キリストにある死者」とは、キリストの神さまを信じて、その魂がパラダイスにある人です。キリスト教は肉体の復活をもって、救いの完成としています。おそらく、復活したからだと先に天に行っていた魂が合体するのだと思います。その次に、生きている人たちが一瞬に変えられて、天に引き上げられるということです。つまり、その人は肉体の死を経ないで、栄光のからだに変えられるということです。初代教会の人たちは、ぜひ、この祝福に預かりたいと望んでいました。

 問題とされるのは、携挙がいつ起こるかということです。20世紀根本主義が台頭し、時代区分説(ディスペーションナリズム)の考えが出回るようになりました。彼らは、患難期の前に「教会」が天に引き上げられると主張しました。冒頭で引用した『レフト・ビハインド』はこの説に基づいて書かれたものです。それを唱える有名な人は、根本主義のハル・リンゼル師、日本では福音派の高木慶太師です。久保有政師はこの考えに異論を唱えています。「キリストの再臨は、患難時代末期、あるいは終わり頃に起きます。空中と地上再臨との間に7年もの歳月は経過しません。両者は短期間のうちに、ほぼ連続的に行われるでしょう」と言っています。私は奥山実師の考えが妥当であると信じます。奥山先生は元インドネシアの宣教師ですが、現在では宣教師訓練センターの所長です。世界で起きているリバイバルを日本に紹介している使徒的な存在の先生です。『世の終わりが来る!』という先生の本から少し引用いたします。もし教会がすべて携挙されるのなら、大患難時代に苦難を味わう僅かの残されたクリスチャンについて、聖書がこんなに長く説明する必要はないでしょう。しかし、実際には、携挙の時には残される人が多いのです。世界には20億のクリスチャンがいると言われていますが、その中には携挙を否定したり、携挙さえも知らない人もいます。ヘブル115をもう一度よく読んでください。「信仰によってエノクは死を見ることのないように移されました」とあるように、携挙は信仰なのです。携挙されるという信仰がないと携挙されないのです。患難時代前に教会が全部携挙されるわけではなく、携挙の信仰のあるものだけが携挙されるのです。

マタイ福音書に「ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とありますが、これは両者ともクリスチャンであると思います。何が違うのでしょう?一人は、いつでもキリストが来られても良いように霊的に目覚めている人です。言い換えると、「携挙」の信仰がある人です。もう一人は、信仰があるのですが「世の終わりとか、再臨なんてないんだ」と地上にべったり腰を降ろして生活している人です。この人は「携挙」の信仰がない人です。つまり、こういう人が残されて、患難時代に信仰を試されて、ある者は天に引き上げられ、あるものは背教者になるということです。つまり、教会(クリスチャン全部)が携挙されるのではなく、携挙の信仰のある人が天に引き上げられるということです。もう一度、奥山師のメッセージを引用します。「残されるクリスチャンとは、洗礼を受けただけの名ばかりのクリスチャン。洗礼を受けたあとに信仰を離れ、神はいない、罪はないと言う人たちがいる。そのようなクリスチャンは皆残される。再臨の日に天に挙げられるという信仰を持たなければならない。携挙は信仰!ホンモノのクリスチャンは三分の一、携挙される人は少なく残される人が多い!教会全体が挙げられるわけではない!今のままだと危険!みなさん備えましょう」。昭和5年頃、きよめ派の教会にリバイバルが起こり、携挙をとても強調しました。しかし、その時はイエス様が来ませんでした。そのため分裂し、今ではほとんど携挙のことを語りません。「羹に懲りて膾を吹く」とありますが、再臨を説きません。初代教会はなぜ信仰が生き生きしていたのでしょうか、それは「イエス様がまもなく来られ、そのとき私たちは変えられる」という信仰があったからです。イエス様は「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」とおっしゃいました。私たちは霊的に目をさまし、イエス様がいつでも来ても良いように備えましょう。

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