« 天変地異 マタイ24:29-36 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.11.26 | トップページ | メシヤの御国 ルカ1:26-38 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.10 »

2017年12月 1日 (金)

携挙のとき マタイ24:37-51 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.12.3

 世の終わりにおける、患難時代は7年間あります。7年間なので、時代というよりも「期間」と言う方が良いかもしれません。しかし、この期間に「携挙」と言われるものが起こります。「携挙」はラテン語のrapere「つかむ」から来ており、これから「移す」という意味になりました。患難期にキリストが来られ、信仰者を天に引き上げるということです。昔、『レフト・ビハインド』という本が出ましたが、その本は地上に残された者たちの物語です。きょうは、世の終わりの出来事の1つ、「携挙」について学びたいと思います。

1.しもべのたとえ

 本来なら37節から「携挙」についてお話ししたいのですが、話のクライマックスからすると、「しもべのたとえ」を第一のポイントにした方が良いと思いました。なぜなら、これを最後に話すと盛り下がるからです。やっぱりメッセージは盛り上がるところ、クライマックスが必要です。マタイ2446節から25章全部が「再臨の備え」について記されています。ほとんどが「たとえ話」のように書かれています。元来、聖書には「章」とか「節」はないので、連続したものと捉える必要があります。「しもべのたとえ」は、主人としもべ長としもべたちがいます。しもべ長は、主人の留守中に家を任されている管理人と言えるでしょう。昔は、主人の代わりに財産や仕事を管理しているしもべ長がいました。たとえば、旧約聖書のヨセフは、奴隷でありながらもポテファルの家を管理していました。このたとえによると、しもべ長の下に、何人ものしもべたちがおり、彼は仕事の管理だけではなく、しもべたちの生活も任されていたようです。英語の聖書はHouseholdとなっており、「雇い人等を含めて家族の者たち、家事全般」という意味です。主人は、しもべ長に家事全般を任せたしばらく旅に出て、また帰ってきます。でも、いつ帰ってくるのか分からない、思いがけない時に来るということです。それで、このしもべ長はどうしたのでしょうか?48-51節「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」彼は家事全般を忠実に果たすどころか、しもべたちを打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりしていました。つまり、食事時にしもべたちに食事を与えないで、我がもの顔に暮らしていたということです。

 これを新約聖書的に考えると、主人はイエス・キリストであり、教会の創設者であり所有者です。しもべ長というのは、教役者たちであり、「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」のことです。でも、一般的に教会の牧師とか、教団の理事と考えることができます。そして、しもべたちとは教会に属している信徒、クリスチャンのことです。私は「信徒」ということばはあまり好きではありません。宗教法人法には代表役員が「住職」で信徒は「檀家」と書かれています。キリスト教会の所有者は神さまで、教役者たちは「しもべ長」ということができます。つまり、世の終わりまで、教役者たちがちゃんと教会員の世話をしているかということです。そこへ行くとプロテスタント教会は至って真面目です。羊を食べているような羊飼いはほとんどいないでしょう。でも、イエス様の時代は、ユダヤ教の指導者はちゃんとしていなかったようです。ヨハネ10章には彼らは雇われ人であって、おおかみが来ると羊を置き去りにして逃げて行きますと書かれています。教会の歴史を見ますと、中世の教会はそうではありませんでした。教皇がキリストの代行をし、一部の教役者たちが教会を所有していました。一般の信徒たちは教会の外におり、貢を納めていました。聖書はラテン語だったので、勝手に読むことができず、迷信に走っていました。霊的にも物質的にも神さまからの祝福を得ていませんでした。現代の私たちは、聖書から正しい福音を取り次ぐ必要があります。パウロはテモテにこのように命じています。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」(Ⅱテモテ215)。私は牧師また説教者として召されていますが、真理のみことばである聖書をまっすぐに説き明かすように努めています。教会によっては新聞の記事やだれかの本から語る牧師がいますが、私はそのようなことはしません。受けが良かろうと悪かろうと聖書全般から、偏ることのないようにしています。

 初代教会は牧師の他に長老や執事も教会員の世話をしていました。聖書を教えるだけではなく、彼らのために仕え、そして祈っていました。ペテロは長老たちにこのように勧めています。Ⅰペテロ52-4「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」ペテロは、再臨のキリストである「大牧者が現れるとき、しぼむことのない栄光の冠を受ける」と励ましています。イエス様もこのたとえの中で、「忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」と教えておられます。つまり、大事なのは主がいつでも来ても良いように、忠実に働いているということです。悪いしもべは「主人はまだまだ帰るまい」と思って、自分勝手なことをしていました。これは私たちの生活全般にも言えることで、私たちが神さまから任されているものに忠実であるということです。家庭でいうと親が子どもを養育するということです。また、職場でも部下たちをちゃんと面倒見るということです。自分の出世のために部下をコマのように使うのは間違っています。また、政治家とかこの世の指導者も神さまから問われるでしょう。多く任された者は、多く責任があります。私たちは再び来られるキリスト様のことを覚え、与えられた任務を忠実に果たして行きたいと思います。

2.ノアの日のように

 マタイ2439「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」イエス様はご自分のことを「人の子」と呼んでいます。ところが、旧約のダニエル書においては、再来するメシヤのことを指しています(参考.ダニエル713)。世の終わりにイエス・キリストが再び来られますが、それはいつなのでしょうか? 1つ前の38節には「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と書いてありました。でも、これまでマタイ24章から「世の終わりの前兆」そして「患難時代」について語ってきました。だから、全く分からないということではありません。私たちはある程度のことを学びました。ただ、ここで言われているのは「人の子が来る」、つまりキリストの再臨のことであります。キリストが再臨されるとき反キリストと信じない者へのさばきがなされます。しかし、同時に、キリストを信じている人たちを天に引き上げる「携挙」も起るということです。

 イエス様はご自分が来るのは「ちょうど、ノアの日のようだ」と言われました。創世記にはノアの洪水について記されています。主は、地上に人の悪が増大しているのをご覧になり、地の面から、すべての生き物を消し去ろうとしました。そして、ノアに箱舟を作るようにお命じになりました。ノアは神さまから示され図面通りに、タンカーのような三階建ての巨大な箱舟を作りました。ペテロ第一の手紙によると、ノアは仕事の合間に人々に大洪水が来ることを知らせていたことがわかります。ところが、だれ一人その警告に耳を貸そうとしませんでした。それから突然、大雨が4040夜、地の上に降りました。ノアとその家族と動物たちが入った後、「主は、彼のうしろの戸を閉ざされました」(創世記716)。ノアが閉じたのではなく、主ご自身が閉ざしたのです。それから大洪水が覆って、地のすべての生き物を地から消し去りました。ノアの時代には何百万人もの人たちが住んでいたと思われます。彼らはやがて来る大洪水にどうして備えなかったのでしょう?イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。」と、おっしゃいました。飲んだり食べたりすることは、別に悪いことではありません。めとったり、とついだりすることも生活上大切なことです。でも、肝心なことを忘れていました。「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかった」のです。この世でも道徳的な生活をしている人たちがたくさんおられるでしょう。でも、ノアの時代のように、この世が終わることを知って備えている人たちがどれくらいいるでしょうか?ピリピ3章でパウロはこう述べています。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ319

 聖書で「救い」と言うとき、いろんな意味があります。罪とさばきからの救い、そして永遠のいのちをいただくことです。また、病の癒しや問題解決も救いと言えるでしょう。しかし、世の終わりのさばきから救われることも忘れてはいけません。特に、終わりの時代に住んでいる私たちはそうであります。だから、イエス様は「用心していなさい」「目をさましていなさい」と命じているのであります。地上のことは大切です。私たちは食べ物、飲み物、着る物や住むところが必要です。家庭や仕事、趣味や楽しみ、結婚や子育て、社会的な活動もあるでしょう。それらは決して悪くはありません。でも、私たちは地上のことだけを思って暮らしてはいけません。イエス様は「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ2435とおっしゃったからです。ノアの時代の人たちは洪水に対して全く備えていませんでした。また、ノアの警告にも耳を貸そうとしませんでした。ただただ、地上のことがらに心を奪われ、日々、暮らしていたのです。私たちは終末の時代に生きていますが、やはり地上のことがらに100%向けている人たちがたくさんおられます。テレビのニュースを見ていますと、政治やスキャンダル、食べ物や着る物、趣味や楽しみ、お化粧品やサプリメント…この地上のことのみです。初代教会でも世の終わりなんか来ないと言っている人たちがいました。Ⅱペテロ34「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」これに対してペテロは、「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」と言いました。

私たちは永遠に地上で暮らすことはできません。1つは肉体的な寿命があります。私たちは必ず死にます。もう1つは、この天地は滅び去るので、滅びから免れどこかに移り住むことが必要だということです。聖書は肉体の死と世の終わりの滅びから救われる道をはっきり示しています。それは神への道であるイエス・キリストを救い主として信じるということです。イエス様はヨハネ14章でこのようにおっしゃいました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ141-3)。私たちにとって、イエス様が再び来られるとは、「ああ、住むべき場所が完成したんだなー」と分かることであります。イエス様は私たちを迎えるために、来られるのです。ハレルヤ!世の終わりは恐ろしいという見方もありますが、同時に、イエス様が天から迎えに来られるすばらしい時でもあるのです。そのためには、世の人々のように、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすること」だけに専念してはいけません。キリストを信じて神さまと和解し、やがて来られるイエス様に目を向ける必要があります。この天地は滅び去ります。しかし、イエス様のことばは決して滅びることがありません。アーメン。

3.携挙のとき

 マタイ2440-42「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」「取られる」のギリシヤ語は「連れて行く、連れ去る」という意味があります。ラテン語でrapereと言いますが、ここから英語のrapture「携挙」という言葉が生まれました。イエス様は当時のライフスタイルで説明していますので、ちょっと古いかもしれません。「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」とありますが、おそらく二人が畑仕事をしていたのでしょう?すると急に、1人は天に引き上げられ、1人は残されるということです。それは、あっという間の出来事であり、一人は地上から消えたということです。次には「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」とあります。さっきは屋外でしたが、今度は室内にいて働いている人たちです。急に、1人は天に引き上げられ、1人は残されるということです。一人は一瞬に栄光のからだに変えられるので、建物とか屋根には左右されません。復活のイエス様が閉じられていた部屋に入ったときと同じです。確率的には二分の一ですが、クリスチャンのうち二人に一人なのでしょうか?それとも一人は未信者で一人はキリスト信者だったのでしょうか?

 他にも携挙について記している箇所があります。使徒パウロがⅠテサロニケ4章とⅠコリント15章でこのことを詳しく述べています。Ⅰテサロニケ416-17「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」Ⅰコリント1552「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」この二つの箇所からはっきり分かることは、主が来られたときキリストにある死者が最初によみがえります。「キリストにある死者」とは、キリストの神さまを信じて、その魂がパラダイスにある人です。キリスト教は肉体の復活をもって、救いの完成としています。おそらく、復活したからだと先に天に行っていた魂が合体するのだと思います。その次に、生きている人たちが一瞬に変えられて、天に引き上げられるということです。つまり、その人は肉体の死を経ないで、栄光のからだに変えられるということです。初代教会の人たちは、ぜひ、この祝福に預かりたいと望んでいました。

 問題とされるのは、携挙がいつ起こるかということです。20世紀根本主義が台頭し、時代区分説(ディスペーションナリズム)の考えが出回るようになりました。彼らは、患難期の前に「教会」が天に引き上げられると主張しました。冒頭で引用した『レフト・ビハインド』はこの説に基づいて書かれたものです。それを唱える有名な人は、根本主義のハル・リンゼル師、日本では福音派の高木慶太師です。久保有政師はこの考えに異論を唱えています。「キリストの再臨は、患難時代末期、あるいは終わり頃に起きます。空中と地上再臨との間に7年もの歳月は経過しません。両者は短期間のうちに、ほぼ連続的に行われるでしょう」と言っています。私は奥山実師の考えが妥当であると信じます。奥山先生は元インドネシアの宣教師ですが、現在では宣教師訓練センターの所長です。世界で起きているリバイバルを日本に紹介している使徒的な存在の先生です。『世の終わりが来る!』という先生の本から少し引用いたします。もし教会がすべて携挙されるのなら、大患難時代に苦難を味わう僅かの残されたクリスチャンについて、聖書がこんなに長く説明する必要はないでしょう。しかし、実際には、携挙の時には残される人が多いのです。世界には20億のクリスチャンがいると言われていますが、その中には携挙を否定したり、携挙さえも知らない人もいます。ヘブル115をもう一度よく読んでください。「信仰によってエノクは死を見ることのないように移されました」とあるように、携挙は信仰なのです。携挙されるという信仰がないと携挙されないのです。患難時代前に教会が全部携挙されるわけではなく、携挙の信仰のあるものだけが携挙されるのです。

マタイ福音書に「ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とありますが、これは両者ともクリスチャンであると思います。何が違うのでしょう?一人は、いつでもキリストが来られても良いように霊的に目覚めている人です。言い換えると、「携挙」の信仰がある人です。もう一人は、信仰があるのですが「世の終わりとか、再臨なんてないんだ」と地上にべったり腰を降ろして生活している人です。この人は「携挙」の信仰がない人です。つまり、こういう人が残されて、患難時代に信仰を試されて、ある者は天に引き上げられ、あるものは背教者になるということです。つまり、教会(クリスチャン全部)が携挙されるのではなく、携挙の信仰のある人が天に引き上げられるということです。もう一度、奥山師のメッセージを引用します。「残されるクリスチャンとは、洗礼を受けただけの名ばかりのクリスチャン。洗礼を受けたあとに信仰を離れ、神はいない、罪はないと言う人たちがいる。そのようなクリスチャンは皆残される。再臨の日に天に挙げられるという信仰を持たなければならない。携挙は信仰!ホンモノのクリスチャンは三分の一、携挙される人は少なく残される人が多い!教会全体が挙げられるわけではない!今のままだと危険!みなさん備えましょう」。昭和5年頃、きよめ派の教会にリバイバルが起こり、携挙をとても強調しました。しかし、その時はイエス様が来ませんでした。そのため分裂し、今ではほとんど携挙のことを語りません。「羹に懲りて膾を吹く」とありますが、再臨を説きません。初代教会はなぜ信仰が生き生きしていたのでしょうか、それは「イエス様がまもなく来られ、そのとき私たちは変えられる」という信仰があったからです。イエス様は「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」とおっしゃいました。私たちは霊的に目をさまし、イエス様がいつでも来ても良いように備えましょう。

|

« 天変地異 マタイ24:29-36 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.11.26 | トップページ | メシヤの御国 ルカ1:26-38 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.10 »