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2017年12月 8日 (金)

メシヤの御国 ルカ1:26-38 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.10

 イエス様は「御国が来ますように祈れ」とおっしゃいました。また、イエス様の教えの中心は御国でした。御国kingdomというとき、3つのものが必要です。第一は王権(王様)です。第二は治めるべき領土(領域)です。第三は領民(国民)です。父なる神さまは私たちが御国に移り住むことができるように、備えてくださいました。それがクリスマスです。きょうは、聖書の記述の順番ではなく、逆からメッセージをしたいと思います。 

1.御国とは

 ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」33節に「その国」とありますが、ギリシャ語ではバシレイアーであります。バシレイアーは、王権、支配、統治という意味です。そこには、領土とか国土という意味は含まれていません。しかし、冒頭でも申し上げましたが、王国は王様ひとりだけではダメで、領土と領民が必要です。イエス様は「父のみもとにはたくさんの住まいがある。…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く」(ヨハネ142と言われました。よく見ると、まだ住むべき場所はできていないようです。父なる神さまの御国のもたらし方は、私たちが考える順番とは違うようです。第一は御国の王様を立て、第二は人々を集め、第三は住むべき領域を作るというものです。私たちは「御国はどこにあるのですか?見せてください。そうしたら信じますよ」と言いたくなります。でも、肉眼で見えたならば、信仰は必要ありません。神さまは「まだ準備はできていません。でも、きっと来るので入国の手続きを済ませてください」とおっしゃるでしょう。でも、ここに「その国」とありますので、だれかが王として治める国なのであります。英語の聖書ではhis kingdom、「彼の国」となっています。彼とはだれなのでしょうか?そのヒントが32-33節に記されています。

 このところに、日本人にはなじみのない名前が出てきます。それは、ダビデとヤコブであります。つまり、彼がおさめる国は、ダビデの王位であり、ヤコブの家のようなものだということです。御使いは「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」と言いました。イエス様が公に姿を現したとき、人々は「ダビデの子、イエスよ」と言いました。おそらく、「ダビデの子孫」という意味でしょう。実際、メシヤはダビデの子孫から生まれる予定でした。でも、イエス様はダビデの子ではありません。霊的には永遠からおられた神の子であったからです。でも、イエス様はダビデのような王様であるということは確かです。実は、主なる神はダビデに約束をしていました。どんな約束でしょうか?Ⅰ歴代誌1714「わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」これは、ダビデ契約と言われています。ここで言う「彼は」はソロモンであり、その王国とはユダとイスラエル王国でした。歴史をみますと、ソロモンの死後、国は分裂し、アッシリアとバビロンによって滅ぼされました。地上的にはこの契約は実現しませんでした。もう一度、御使いがこれを引用したということは「彼は」ソロモンではなく、イエス・キリストにおいて実現すると言ったのです。ダビデはイスラエルの王様の中では最も忠実な王でした。神さまから最も愛され、王様の模範でした。そのところが、イエス・キリストと似ているということです。

 もう1つは、「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」です。ヤコブというのは別名、イスラエルです。彼には12人の息子がいました。その息子たちが、イスラエル12部族になりました。神さまはイスラエルを選んだのには訳がありました。イスラエルを祭司の国として立て、その後、全世界の人たちを導くということです。でも、イスラエルは堕落し、その務めを果たすことができなくなりました。それでイエス様が12弟子を選び、新しいイスラエルにしました。でも、神さまはイスラエルを捨てないで、世の終わりもう一度、集めると言われました。つまり、御国は私たち異邦人のものであると同時に、イスラエルのものでもあるということです。イエス様はペテロたちにこう約束されました。マタイ1928「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」御国は失われたイスラエルのためにもあるのです。聖書は「イスラエルの子らが集められ、神さまの選びは変わることがない」と預言しています。本来はイスラエルが祭司になって、全国民に伝道するはずでした。しかし、私たちクリスチャンが王的な祭司として選ばれたのです(参考:Ⅰペテロ29)。私たちは考え方を大きくしなければなりません。どのくらい?世界規模です。今は、ユダヤ人であるイスラエルはイエス・キリストを受け入れていません。2000年前に来られたイエス様を拒絶しています。その代り、世の終わりに来られるメシヤを待ち望んでいます。しかし、そのメシヤこそが再臨のキリストであります。

 御国は永遠です。「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と書いてあるからです。地上の国々は栄枯盛衰、「建っては滅びる」の繰り返しでした。でも、イエス様が王として治める御国は、永遠であり終わることがありません。天文学者たちは、「地球も太陽も永遠でない」と言うでしょう。私たちのことを「非科学的で幼稚な人たちだ」と馬鹿にするかもしれません。ヨハネ黙示録21章と22章には御国の完成図が書かれています。御国というよりも「新しい天と新しい地」であります。黙示録211「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」、黙示録225「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」完成された御国は、現在の地球とか太陽ではないようです。私たちは全く、新しい世界に移り住むということです。どこかの星に移住するようなSF映画がありますが、そのようなことが実現するということです。神さまが造られた宇宙は広いです。銀河系が数えきれないくらいあるのですから、私たちが永遠に住むことができる御国を用意しておられます。アーメン。

2.イエスとは

 ルカ131「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」もう一箇所、引用いたします。マタイ121「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」多くの人たちは、イエス・キリストは普通の名前だと思っているかもしれません。「イエス」は名前ですが、キリストは「油注がれた者、メシヤ」という意味です。その当時、イエスは普通につけられた名前でした。もともとは旧約聖書のヨシュアから来たものです。ヨシュアは「主は救い」という意味です。神さまはあえてその子を「イエス」と名づけるように言われました。マタイはその意味を書いています。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」何から救うか?というと、罪から救うということです。そうです。キリスト教で、「救い」というとき、一番の意味は「罪からの救い」です。この罪が解決することが最も重要なことだからです。第一のポイントで、御国とは何かということを説明しました。父なる神さまは御国に私たちを住まわせたいのです。でも、入国を妨げるものがあります。成田空港に行くと、入国審査があります。パスポートを提出するとき、いくつかの質問を受けます。「どのくらい滞在しますか?」「滞在目的は何ですか?」「どこに泊まりますか?」「帰りのチケットは持っていますか?」「この国に来たのは初めてですか?」その後、門をくぐらなければなりません。「ビー」となったらダメです。もちろん、私たちは御国は初めてであり、帰りのチケットは不要です。でも、パスポートが必要です。罪があると「ビー」と鳴ります。これはたとえですから、全部あてはまらないかもしれません。でも、言えることは、生身のままでは御国に入れないということです。罪の赦しと、「良いよ」という証明が必要です。日本では死んだらみんな天国に行けるようなことを言いますが、そうではありません。

 父なる神さまは罪ある人間が、御国に入れるようにあることをしてくださいました。それは、御子イエスを与えたということです。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。でも、神さまは大人としてのイエス様を地上に与えたのではありません。なんと、神の子をひとりの人間として誕生させました。あがないのためには、罪を犯さない完全な人が必要だったのです。「あがない」とは、正しい人に、悪い人の罪を負わせて、代わりに赦すと言う意味です。イエス様は全き神、全き人であり、私たち全人類の罪を負って下さったのです。Ⅰペテロ22224「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。…そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」アーメン。そうです。十字架の死は私たちの罪の身代わりでした。この方を信じる時、私たちの罪が赦され、神さまから義と認められるのです。神さまから義と認められた者だけが、神の御国に入ることができるのです。これは狭き門であります。イエス様こそ、救いにいたる門であります。十字架による罪のあがないがなければ、だれひとり、御国に入ることはできません。私たちはだれでも成田空港に行くことはできます。展望デッキからジェット機の離発着を見ることができます。でも、入国審査を通過しなければ、ジェット機に乗ることは不可能です。

 
イエスと言う意味は何だったでしょう?「この方こそ、ご自分の民をその罪から
救ってくださる方です。」英語の聖書には、he shall save his people from their sins.となっています。直訳すると「彼の人々を彼らの罪から救って下さる」という意味なります。これを見ると、もともとはイエス様のものであったことがわかります。あるいは選ばれていたという意味かもしれません。つまり、もともとは、神さまのこどもであったのに、罪の中で失われていたということです。「あがなう」とは「買い戻す」という意味ですから、罪の代価を払って、もう一度、神のこどもにするということです。こういうことを言うと異端と言われるでしょうか?ルカ15章には「ほうとう息子のたとえ」が記されています。弟息子は父のもとを離れ、身を持ち崩して、豚飼いになっていました。では、そのとき弟息子は父の子どもではなかったのでしょうか?息子でした。お父さんは帰ってきた息子を無条件に迎え入れました。でも、何と言ったでしょうか?お父さんはただの気の良いお父さんではありません。ルカ1524「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と言いました。父なる神のもとを離れた人間は、死んでいるのと同様だということです。ルカ19章には取税人ザアカイの物語が記されています。イエス様は木の上で隠れているザアカイの名前を呼びました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは急いで降りてきて、大喜びでイエス様を迎えました。イエス様は何とおっしゃったでしょう?ルカ199-10「「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」このところから、わかることは、ザアカイは信じる前からイエス様のものであったということです。でも、イエス様の招きに応じたときに、ザアカイは救われたのです。ザアカイはイエス様を信じる前から、見出されていたのです。

 私たちは偶然に、たまたまイエス様を信じて救われたのではありません。イエス様は確かに全人類ために十字架で死なれました。でも、罪のあがないが成立するためには、信じて、受け取らなければなりません。キリストを信じた人がはじめて「主イエスは私の罪のために死なれました」と告白できるのです。この告白こそが、御国にはいるパスポートです。告白が正しければ、「ビー」とも鳴りません。ある人たちは天国は死んでから入るものだと思っています。そうではありません。私は天国ということばはまぎらわしくて使いたくありません。神の御国は生きている内に、イエス様を救い主として信じなければなりません。生命保険が生きているうちに入るのと同じように、信仰告白も生きている内にしなければなりません。イエス様は私とあなたを私たちの罪から救うために来られた救い主です。アーメン。

3.おとめマリヤ

 ルカ128-32「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」マリヤはヨセフと婚約していました。なのに、一方的に「みごもって子を産みます」と言われました。処女降誕はキリスト教の躓きの1つです。「処女からは子どもは生まれない」と言います。そのためキリスト教会は、「処女降誕が信じられなくても、キリストの贖いを信じていれば救われる」と言うところもあります。でも、それは1つの妥協です。もちろん、絶対的なものではないかもしれませんが、キリストが罪を負わないで誕生するためには必要なことでした。もし、ヨセフとの関係で自然にイエス様が誕生したなら、アダムの罪が転化されます。だから、マリヤ一人でなければなりません。でも、マリヤには罪がないのでしょうか?ローマ・カトリックは否定するかもしれませんが、マリヤにも罪があります。では、どうやって神さまは罪のないお体として御子イエスを誕生させたのでしょうか?そのことは、マリヤにとっても理解できないことでした。

 ルカ134-35「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」マリヤにも常識がありました。でも、御使いが答えています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言いました。私はこのみことばを見たとき、2つのことを思い出しました。1つは創世記第1章、もう1つは使徒の働き第1章です。創世記11-2「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」神の霊、聖霊が「水の上を動いていた」と書かれています。しかし、ヘブル語の意味は、「動いていた」ではありません。回復訳聖書には「覆い抱いていた」と書いてあります。チョーヨンギ師は「めんどりが卵を孵化させようと翼をばたばたさせている様子と同じだ」と言いました。つまり、聖霊は、父なる神のおことばが発せられるならば、無から有を生み出すということです。聖霊が全宇宙を父なる神さまと創造したのだったら、処女マリヤの胎を用いて、ひとり子イエスを誕生させることも可能であります。神さまの全能の力をみくびってはいけません。御使いもこのように言いました。「神にとって不可能なことは一つもありません。」それに対してマリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」アーメン。マリヤは救い主の誕生のために、自分をささげたのです。結婚や姦淫の汚名、人々からの誤解や嘲笑よりも、主のみこころに従ったのです。ハレルヤ!

 もう1つは使徒の働き1章です。使徒18 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」これもルカ1章と同じことばです。ルカ135「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」なぜ、同じなのでしょう?ルカ福音書も使徒の働きも、同じルカが書いたからです。ルカは弟子たちが新しく造り変えられるときと、マリヤの受胎を重ね合わせたのではないでしょうか?聖霊だったら可能だ、聖霊にはできると思ったのです。私たちはイエス様を信じるとき、霊的に新しく生まれます。私たちが神の国に入るためには、神のいのちをいただかなければなりません。イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネ36,7と言われました。つまり、私たちはこのままでは、御国に入ることはできません。聖霊によって新しく生まれる必要があります。マリヤは聖霊によってイエス様をみごもることができました。私たちは聖霊によって神のいのちをいただくことができるのです。これを「新生」と呼びます。この新生の体験がある人は、「ああ、聖霊によってマリヤが懐妊したこともありえることだ」と信じられるのです。だって、自分が新しく生まれ変わったのですから。奇跡を体験したのですから、わかるはずです。このように考えると、クリスマスも遠い昔のことでないことが分かります。あのとき聖霊がマリヤの上に臨み、弟子たちの上に臨みました。同じように、私たちの上にも聖霊が臨んでくださるということです。

ある人たちは、死ぬ前にイエス様を信じて、御国に入れば良いと思っている人がいます。ということは、それまで古い自分のままで生きているということです。なんともったいないことでしょうか?聖霊によって新しく生まれて、この地上でも神さまのいのちをいただきながら生きた方がはるかにすばらしいはずです。昔、仮面ライダーの「変身」というのが流行りました。変身していると超人的な能力があります。でも、普通の姿だと、ダメです。だったら、ずっと変身していた方が良いのではないでしょうか?そこへ行くと、クリスチャンは信じて新生したはずですが、外見はほとんど変わりありません。背中に羽がはえたら良さそうなものです。イエス様は「あなたがたは地の塩です。また、世の光です」と言われました。共通している概念は、この世の中に出てみて、違いがわかるようです。いや、私たちはこの世に出て行くと、違いをもたらすことができるのです。人々に御国はどこか案内するだけではありません。なんと、人々のところに御国をもたらすものとして用いられるということです。御国は将来、はっきりと目に見えるかたちとしてやってきます。でも、今は目に見えませんが、御国は私たちと共にあります。イエス様は「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ1721と言われました。まだ、不完全かもしれませんが、神の支配として、御国が私たちの所に来ているのです。クリスマスは遠い昔のおとぎ話ではありません。クリスマスはデパートのセールのためにあるものでもありません。クリスマスはイエス様が聖霊によって乙女マリヤに宿り、人間として生まれたことです。イエス様が十字架で代わりに死なれたので、私たちが罪赦され、御国に入れるようになりました。今も、聖霊が働いておられ、キリストを信じた人が御国に入れるようにしてくださいます。

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