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2017年11月24日 (金)

天変地異 マタイ24:29-36 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.11.26

 ある人たちは「聖書は崇高な道徳倫理について書かれている」と称賛するかもしれません。そして、「クリスチャンというのは正直で真面目な人たちだ」と言うでしょう。だから、ミッションスクールに入れたがる親御さんたちが多いのです。でも、聖書には、世の終わりが来ることとキリストが再び来られることが書かれています。そのことをミッションスクールでちゃんと教えているでしょうか?キリスト教は危険で非常識な宗教と思われているのではないでしょうか?

1.天変地異

 マタイ2429「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」「これらの日の苦難」とは、反キリストによる迫害です。宗教が1つにまとめられ、獣を拝まない者は買うことも売ることもできなくなります。そういう中で信仰を守るというのは命がけであります。おそらく殉教さえも覚悟しなければならないでしょう。黙示録1412-13「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」アーメン。殉教した人たちには、白い衣が与えられ、直通で小羊の婚宴の席に招かれるでしょう。私たちはその前に天に引き上げられていることを願いますが、どうなんでしょうか?「教会は大患難を受けないんだ」という神学がありますが、あまり楽観的に捉えない方が良いと思います。なぜなら、イエス様は「いつの日なのか分からないので、目をさましていなさい」(マタイ2442とおっしゃっているからです。私たちはこの地上の生活がいつまでも続くと考えてはいけません。世の中の地質学者や天体物理学者が何と言おうと「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」とイエス様がおっしゃったからです。

 世の終わりの順番ですが、患難の時代は7年間続きます。前半は比較的おだやかですが、後半は反キリストの現れと共に激しい苦難が起こります。苦難に続いてすぐに天変地異が起こるのです。イエス様は「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」とおっしゃいました。ヨハネ黙示録と突き合わせるとどうなるのでしょうか?黙示録8章には7つのラッパ」について記されていますが、ラッパを吹く度に、地上にいろんな災害がもたらされます。ヨハネ黙示録811「大きな星が天から落ちて来て、川の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ」。ある人たちは、これは核爆発ではないかと解釈します。「苦よもぎ」はロシア語で「チェルノブイリ」と言いますが、放射能による川の汚染が今も続いているようです。今日の箇所と同じようなみことばが黙示録812に記されています。「第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。」しかし、時間的には、反キリストがその正体を現す前であります。マタイのみことばは、キリストが再臨される直前のように書かれています。さらに調べていくと、黙示録15章から17章には「最後の7つの災害」と書いてあります。これらは、反キリストと獣の刻印を受けている人たちに対する災害です。海や川の生き物が死に絶え、太陽の火で人々が焼かれます。獣の国は暗くなり、大地震が起き、重さ35キロの雹が空から落ちてきます。ルカ福音書にはこのように書かれています。ルカ21:25-26「そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」そのとき、この地上には、安全に住むべき場所がありません。これまで、何十本もの「世の終わり」に関する映画が作られましたが、それが現実となるということです。かなり前に『アルマゲドン』という映画を見ましたが、主人公はロケットで隕石の上に軟着陸し、それを破壊しました。しかし、隕石のかけらが地球に降って来て大災害が起こりました。昔、『幻魔大戦』という石ノ森章太郎の漫画を見たことがあります。最後は、月が血の色に染まっている絵でした。世の終わりは、SFの世界ではなく、そういうことが現実に起るということです。聖書は世の終わりについてはっきり預言しています。私たちの科学や常識では、全くついて行けません。クリスチャンというのは、個人の罪からの救いを得ているだけではありません。人生の終わりだけではなく、この世の終わりを乗り越えられるというのですから、ロマンの極みではないでしょうか?でも、ロマンではなく隠されていたことが露わにされる、黙示録の世界です。

ジョン・バニヤンが『天路歴程』をという本を書きました。基督者が一冊の書物を読んでいました。するとそこに「この都は天からの火で焼かれる。その恐ろしい破滅では、逃げ道が分からない限り、みじめな最後を遂げる」と書いてありました。この都が滅びると告げても、妻や子どもたちから「頭が狂った」と思われて相手にされませんでした。それで、彼ひとり「救われるためにはどうしたら良いか」と旅に出るのです。彼はいろんな試練を乗り越えて、天のエルサレムに到達します。そのジョン・バニヤンが『天路歴程』の続編も書いています。基督者の妻が、ある時、「救われるためにはどうしたらよかろう」という夫の叫びが耳に響いてきました。そして、息子たちに言いました。「私はお父さんに罪を犯しました。みんな一緒に行こうと言ったけど、私自身が行こうとしませんでした。その上、お前たちの命を得るのも妨げました」。それを聞くと息子たちは皆泣き出して、父の後に着いて行くと叫びました。妻は悔い改めて、4人の息子たちと旅立つのです。2つの本に共通しているのは、「世の滅びから救われるためにどうしたら良いか?」ということでした。しかし、彼らの旅を支えるものは、天のエルサレムにたどり着きたいという信仰と憧れでした。確かに聖書は「世の終わりが来る」と告げています。でも、それ以上に、「自分がどこから来て、どこへ行くのか」、救いへの道が知りたいのではないでしょうか?イエス・キリストこそが、道であり、真理であり、いのちなのです。

2.キリストの再臨

 マタイ2430「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」マタイによる福音書は、短いけれどもキリストの再臨について語っています。「キリストが患難時代の終わりに現れる」というのはどの神学者も一致しています。「再臨」とは「再び臨む」と書きますが、初臨はキリストが肉体をとってこられたクリスマスです。キリストは「平和の君」として地上に来られ、最後に十字架にかかって贖いのわざを成し遂げられました。そして、3日目に復活し、40日間、地上におられた後、天に昇られました。そのとき、天使が弟子たちにこう告げました。使徒111「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」パウロもそうですが、初代教会の人たちは、「イエス様はすぐ戻って来る」と期待していました。パウロなどは、「時が縮まっているので、結婚しないで、そのままでいるのが良い」(Ⅰコリント726-29と勧めています。ところが、すぐに来ませんでした復活の目撃者たちも、死んで天に帰っていきました。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」(Ⅱペテロ34と言う人たちも出て来ました。後の人のため、文書に残す必要があります。イエス様が天にお帰りになってから、25年後に3つの福音書、パウロや使徒たちの書簡、最後にヨハネ福音書と黙示録が書かれました。それらが、今日、私たちが持っている新約聖書です。あれから約2,000年たちました。イエス様は「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰がみられるでしょうか」(ルカ188と語ったことがあります。

 キリストが世の終わり、それも患難時代の終わりに来られます。キリストが世の終わり来られますが、教会ではいろんな表現を用いています。現れ、顕現、啓示、来臨、その日、イエス・キリストの日、主イエスの日、主の日、そして再臨です。再臨は英語でsecond comingと言いますが、今日ではこの表現が最も多く用いられています。キリストが再臨されるとき何が起こるのでしょうか?また、何の目的でキリストが再臨されるのでしょうか?このことを話し出したら、時間が足りません。でも、2つだけ取り上げたいと思います。第一は選ばれた者たちが集められます。マタイ24:31「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」そのときキリストにあって死んだ者はよみがえり、主のみものとに引き上げられるでしょう。パウロは「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(Ⅰコリント1552と書いています。第二は反キリストと不信仰な者たちを滅ぼすためです。黙示録1911「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる」。黙示録1915「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」おそらく、選民を集めるのが先で、その後、反キリストと獣を拝んでキリストを信じない者がさばかれるのではないかと思います。不信仰な者たちは、「何故、キリストが来たんだ」と嘆くのであります。マタイ2430「すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」私たちは「主よ、来てください」(黙示録2217と喜んで待つ者となりたいと思います。

 昭和のはじめ、中田重治監督のもとで、ホーリネスの教会にリバイバルが起きました。ところが、再臨信仰がものすごく加熱し、イスラエルの救いのために祈るようになりました。来る日も来る日も、教会で熱く祈り、大声で賛美して、主が来られるのを待っていました。ある人たちは、白い衣を着て屋根に上って旗を振りました。ところが来ませんでした。そのため、ホーリネス系の教会は3つもしくは4つに分裂しました。ホーリネス系の教会には信仰の特色が4つありました。「新生、聖化、神癒、再臨」です。新生はキリストを信じて新たに生まれることであり、回心の経験を強調しました。聖化は罪から離れ、聖い生活をすることです。神癒は癒しですが、あまり強調しなくなりました。そして、再臨はもっと強調しなくなりました。なぜなら、一度、しくじったからです。頭では再臨信仰は大切だと思っていますが、二の足を踏むと言いましょうか、弱くなりました。聖教団の小笠原牧師は「自分たちの団体は中田重治監督の直系です」と自負しており、再臨信仰とイスラエルの救いを強調しています。現在、中川健一先生が、この2つを強調するセミナーを独自で開いています。9月の半ば、真っ赤な夕焼けを見ました。ちょうど、生協に買い物に行く途中でしたが、涙がどっと出て来ました。思わず「夕べ雲やくる」という聖歌を口ずさんでいました。「夕べ雲やくる空を見れば、主のきたりたもう日のしのばる。ああ、神の前に我いそしまん。わざやむる時のまぢかきいま。」

 初代教会はなぜ力があったのでしょうか?それはイエス様の十字架と復活を目撃した人たちがまだたくさんいたからです。もう1つは、イエス様がまもなく戻って来られるという再臨信仰があったからでした。ところが、20年たち、30年たって目撃した人たちが、だんだん召されてしまいました。そして、すぐ来ると言われていたイエス様も来ません。「どうしたんだろう?」という疑いも出て来ました。教会の歴史をたどりますと、「世の終わりが来た」という急進的な信仰者が度々現れました。カルト的な教会は「世の終わり」を過度に強調します。恐れによって人を支配しようとします。不信者たちにとって世の終わりにキリストが来ることは、良い知らせではありません。ノストラダムスが「空から恐怖の大王が来る」と預言しましたが、彼にとっては恐ろしい存在でした。しかし、私たちはそうではありません。花嫁なる教会は、花婿なるイエス様を心待ちにしている存在です。ヨハネ黙示録の最後を見ると分かりますが、御霊と花嫁が「来てください」を主に呼びかけています。私たちは主が再び来られることを、喜びと期待と憧れをもって待つ存在でありたいと思います。

3.再臨の兆候

 マタイ2432-36「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」世の終わりの前兆については、すでにお話ししました。しかし、マタイはもう一度、キリストの再臨がいつなのか述べています。いちじくは、昔からイスラエルを象徴する木です。イエス様は「枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります」と言われました。これはたとえなので、歴史的な事柄にあてはめる必要があります。終末論を学ぶと、いちじくの木の枝が柔らかくなって芽が出るのは「あの時のことだ」と分かります。ご存じのとおり、西暦70年、ローマ軍によってエルサレムが攻撃を受け、神殿が跡形もなく破壊されました。何千人ものユダヤ人が殺され、残った人たちは国外へと逃亡しました。それ以来、ユダヤ人は世界中に散らばって、ユダヤ商法によってしぶとく生きています。『ベニスの商人』には、悪名高いユダヤ人の金貸しが出てきます。しかし、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによって大迫害が起こりました。ユダヤ人は強制収容所に入れられ、約600万人が殺されました。「ホロコースト」というのは「焼かれたいけにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉です。その時、教会は見て見ぬふりをしました。なぜなら、彼らがイエス様を十字架につけたとき「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかっても良い」(マタイ2725と言ったからです。

 しかし、1948514日、イスラエルが建国しました。そのいきさつはひとことでは言えませんが、ある資料から引用いたします。第二次大戦でのユダヤ人資金の協力及びそれまでのナチス始めとするヨーロッパでのユダヤ人虐殺の罪悪感により、連合国側は1947年に国連による決議でパレスチナ分割案(ユダヤ人に有利)を示しましたが、アラブ側はこれを拒否。1948年イスラエル建国宣言と同時に、アラブ各国のイスラエル侵攻による第一次中東戦争が勃発しました。終戦後にパレスチナはイスラエル、エジプトのガザ地区、ヨルダン(ヨルダン川西岸)の三者によって分割され、パレスチナ人の土地は一切無くなってしまいました、これがパレスチナ難民の発生原因です。195610月第二次中東戦争勃発、19675月第三次中東戦争勃発、197310月第四次中東戦争勃発…今も不安定であります。シオニズムというのがありますが、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教の文化の復興運動を興そうとするユダヤ人の近代的運動のことです。世界に散らばっていたユダ人がイスラエルに帰還しました。しかし、シオニズム運動はすべてのユダヤ人に歓迎されているわけではありません。ユダヤ人に共通しているのは、世の終わりメシヤが来てイスラエルを建て直すということです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストというメシヤはすでに来たと信じています。しかし、彼らはキリストの初臨を認めないで、キリストの再臨だけを待っているのです。

 とにかく、イスラエルが1900年以来、建国したということは奇蹟であります。イエス様が「枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります」とおっしゃいました。夏というのは、キリストの再臨でありましょう。世の終わりの前兆については、前に学びましたが、もう1つはイスラエル情勢であります。今後、多くの国がイスラエルを囲み、混乱をきたすでしょう。しかし、一人の人物が立ち上がり平和をもたらします。エルサレムに神殿が建てられると、その人物は豹変し、自分こそ神であると言うでしょう。彼こそが「荒らす憎むべき者」であり、大患難が始まります。きびしい迫害と苦難の中で信仰を守るのは大変です。天変地異が起こり、キリストがやってくるのです。その第一の目的は、選びの民を四方から集めることです。第二は反キリストと不信仰の者たちを滅ぼすためです。旧約聖書で何度も「主の日」と預言されているのは、その日のことです。イエス様はいつ来られるのでしょう?マタイ2436「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」これはイエス様が地上におられたときのことばでした。その時は、完全に父なる神さまにゆだねていました。しかし、現在、イエス様は神の右の座に座っておられます。つまり、その時がいつであるか知っておられるということです。父なる神さまとイエス様はちゃんとその日を決めておられます。その日が近づいたなら聖霊によって教えてくださるでしょう。

キリストの再臨に関して私たちはバランスが必要です。再臨信仰だけを強調すると、この世に対する使命がないがしろにされます。なぜなら、私たちは神の大使として、御国の福音を宣べ伝え、あらゆるところに神の国をもたらす使命があるからです。私たちは神の支配による祝福が、家庭、政治、経済、教育、医療、芸術、あらゆる所にもたらされるように遣われています。もし、この世がまもなく終わるならば、家を建て直したあとすぐ壊すような愚かな行為です。しかし、矛盾するようでありますが、イエス様は「この時代は過ぎ去る。この天地は滅び去ります」とはっきりおっしゃっています。神さまのタイムテーブルと私たちのタイムテーブルは必ずしも一致しません。ひょっとしたら、今晩もしくは明日にでも、イエス様が再臨なさるかもしれません。そういう意味で、この世の中で活動しつつ、霊的には目覚めていなければなりません。深酒をあおったり、遊興や好色にふけっていてはいけません。主の再臨は今晩かもしれないし、30年後かもしれません。でも、はっきり言っておきますが、100年ということはありません。なぜなら、世の終わりに関する多くのことが既に成就されているからです。主はまもなく来られます。でも、私たちは締りのある歩み方を続けたいと思います。もしこれを私たちの信仰にたとえるならどうでしょう?短期と長期の遠近両用のメガネが必要です。一方は、キリストはまもなく来られるという再臨信仰です。もう一方は、キリストの来臨は少々遅れるらしいので、この地に御国が来るように働きかけるということです。主が再び来られることを待ち望みつつ生活したいと思います。

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