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2017年10月29日 (日)

~主の日のしるし~ 亀有教会副牧師 毛利佐保 聖書箇所: ヨエル書2章28-32

◆聖書箇所: ヨエル書2章28-32

 

2:28

その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

2:29

その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

2:30

わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。

2:31

【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

2:32

しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。【主】が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、【主】が呼ばれる者がいる。

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鈴木先生は新約聖書から連続講解説教をされているので、私は今回も旧約からお話させていただきます。

前回、前々回のメッセージは、「ルツ記」と「ホセア書」一書全体を取り上げる、「一書説教」でした。

今回も一書説教で、「ヨエル書」全体を取り上げます。

 

「ヨエル書」は全体で3章しかありませので、旧約聖書の「預言書」の中では、「小預言書」と分類されている短い書物です。

 

前回お話した「ホセア書」は小預言書の中でも、14章というボリュームがある預言書でした。

そしてホセアという預言者がどのような人物であったかということについても詳しく書かれていました。

 

しかし、「ヨエル書」はヨエル自身のことについては何も書かれておらず、冒頭の言葉、「ベトエルの子ヨエル」ということしか解りません。

 

「ヨエル」という名前は、「ヤハウェは神」という意味です。

旧約聖書のヘブル語で「hwhy (ヤハウェ)」と書かれている聖四文字は、唯一神を表します。

「ヤハウェは神である」と宣言しているような名前を持つ「ヨエル」です。

いったいどんな人物だったのでしょうか。

 

「ヨエル書」は少し恐ろしい感じの終末預言について書かれています。

ただ淡々と「いなごの襲来」と、「主の日」について預言するヨエルからは、ルツやホセアのような、情熱的で、どこかほっこりするような印象の人物像はどうも浮かびません。

これは私の勝手なイメージですが、脇目もふらず研究に没頭する学者のような人だったのかもしれません。

 

ただヨエル書は、先ほど読んでいただいた箇所が、使徒の働き2章16節-21節でペテロが引用しているほど、イスラエルの人々にとっては大切な預言書でした。

本日の説教題の「主の日のしるし」とはいったい何のことをさしているのでしょうか。

現代の私たちの世界と照らし合わせて「ヨエル書」をじっくりと見ていきましょう。

◆①ヨエルの時代、すべての国民への警告

 

1章では、「いなごの大襲来」を通して、すべての国民に警告を発しています。

先ほども触れましたが、ヨエル書というと、「いなごの来襲」と、「主の日」というキーワードが印象的です。

「いなご」を意味する言葉は旧約聖書には10種類ほど出てきます。

ヨエル書にはその中の4種類ほどが出てきます。1章4節をご覧ください。

 

そこには、「かみつくいなご」「いなご」「ばった」「食い荒らすいなご」と4種類出てきます。

 

中近東などで十数年に一度「いなご」や「ばった」の大群が襲ってくるそうですが、それらは農作物をすべて食い尽くすほどの害虫です。

 

最近では2~3年前にロシア南部の地域を襲った「いなご」の大群のニュースが話題になっていました。80万ヘクタール(東京ドーム約17個分)の土地の農作物が荒らされ、ロシア当局は非常事態宣言を出しました。

 

原因は地球温暖化の影響ということらしいですが、その「いなご」の大きさは8センチ、大きいもので12センチもあったということです。

 

日本では「いなごの佃煮」などで食用とされる小さな「いなご」のイメージですが、12センチもある大きな「いなご」が何百万匹も襲ってきて、農作物を食い尽くすのですから、本当に恐ろしいです。

 

ヨエル書1章の「いなご」について、昆虫の「いなご」ではなく、他国からの侵略軍の比喩だと考える人もいますし、黙示録に書かれている「いなご」から、終末的な解釈をする人もいますが、ここではヨエルの時代に、文字通り「いなごの大来襲」があったと考えてよいと思います。

 

こんな話をすると、「いなご」の話ばかり印象に残ってしまいそうですね。

 

とにかく、ヨエル書1章では、このような「いなご」の来襲によって、人々は悲嘆のどん底に陥ったことが記されています。そして1章15-16節には、

 

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<ヨエル1:15-16>

ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。

私たちの目の前で食物が断たれたではないか。

私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。

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と書かれています。「いなご」の来襲は、すべての国民への警告でした。

私たちの目の前で食物が断たれ、私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせました。

ヨエルはここで「いなご」と「主の日」を関連付けています。

 

ヨエルは1章~3章すべてに、「主の日」について言及しています。

 

※「主の日」とは、「神が人間の歴史に絶大な主権と力をもって介入される時」のことです。

 

おそらく、1章と2章のはじめの「主の日」は、ヨエルの時代に起こったことか、近い将来の出来事であり、本日の聖書箇所である、2章後半の「主の日」は、終末の時、イエス様の再臨の時を表していると考えられます。

 

1章と2章のはじめでは、さらに激しい「いなごの大来襲」による破壊がおこり、火が荒野の牧草地を焼きつくし、水の流れが枯れ、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、太陽も月も暗くなり、星もその光を失います。

 

ヨエルは、ヨエルの時代に実際に起こった「いなごの大来襲」を体験して、これが神の怒りによるものであることを知りました。

 

そして、もっと恐ろしい破壊的なさばきが行われる「主の日」が近づいているということを警告し、シオン(エルサレム)の人々に、シオンで角笛を吹き鳴らし、断食をし、民を集め、悔い改めの集会の召集をするようにと呼びかけました。

 

そして、南ユダの人々の悔い改めに主が応えてくださることを預言しました。

次に2章後半です。

 

◆②人は主の日のしるしを無意識に感じとっている。

 

2章前半までは、ヨエルの時代に起こった出来事について預言されていましたが、後半からは、終末、イエス様が再び来られる再臨の時の出来事を預言しています。

 

いよいよ私たちに深く関係してくる預言です。

まず、本日の聖書箇所、2:28-29節。

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2:28

その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

2:29

その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

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これは、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下った時に成就したのか、あるいはペンテコステで部分的に成就し、終末まで継続していくのかは諸説あります。

 

しかし、肝心なのは、旧約時代は神の霊は特別な人、モーセや預言者などの神の人にだけ注がれていましたが、ペテロの時代からは、性別、年齢、身分や国に関係なく、すべての人に神の霊が注がれているということです。

 

これがどんなに素晴らしいことかを、私たちは再認識する必要があると思います。

私たちには聖霊なる神様が注がれているのです。大いに歓迎して受け取りましょう。

 

そしてヨエルは2章30-31節で、再臨の時が近づいたときの「主のしるし」としてこのようなことが起こると言っています。

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2:30

わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。

2:31

【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

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天と地に現れる不思議なしるし、「血と火と煙の柱」とは何でしょうか。

戦争などの人為的なものから来るものなのでしょうか。それとも自然災害などによるものなのでしょうか。

「太陽はやみとなり、月は血に変わる」とは、天変地異が起こるということなのでしょうか。

 

最近、天変地異も多いですが、人為的な破壊もたくさん見られます。

主の大いなる恐るべき日が近づいているのでしょうか。

 

車いすの物理学者として有名な、イギリスのホーキング博士は、「人類の未来はあと1000年で終焉を迎える」と未来予測をしていましたが、今年に入ってこの予測を全面的に見直し、その結果、「人類に残された時間はせいぜい100年しかない」と、一気に900年も縮めて修正しました。

 

ホーキング博士は、なぜそのように予測したのでしょうか。

ホーキング博士の発言を要約すると、「核戦争を招きかねない危険な世界の政治情勢、地球温暖化の問題。そして人工知能など科学の進歩は、労働者を必要とせず、社会的には失業者が増えて破壊を招く。労働者、中産階級、政治家の隔たりは避けられず、地球にとって最も危険な時期が来た。」と語っています。

 

みなさんはこの未来予測、「地球はあと100年」について、どう考えますか。

100年というと、私の孫の時代です。短すぎます。

しかしおそらく、この問題に関して楽観的に観る人は少ないと思います。

みんな心のどこかで、今の世界の状況について、「いつ何が起こっても不思議ではない」と感じているのではないでしょうか。

 

また、天変地異についても、自然災害や異常気象も日増しに増えて来ていることを考えると、「あと100年」というのはあり得ることではないでしょうか。

 

こんな危険な状態なのに、私たちはあまり深く考えないようにして生きています。なぜでしょうか。

それは、「人はいつかは必ず死ぬ」という事実と同じくらい、「主の日がいつかは必ず来る」ということを無意識に知っているからです。知っているからこそ打ち消そうとするのです。

 

私たち人間は神に似せて造られたがゆえに、生まれつき不思議な力を秘めていると私は考えています。

それは、平和な日常の中でも無意識に終末を感じ取っているという、預言的な力のことです。

 

ですから、ヨエル書に記されている「主のしるし」についても、「ああ、書かれていることは、いつかそのうち起こるだろうな。」と心のどこかで感じ取っているのです。

 

それはイエス・キリストを救い主だと信じている人も、信じていない人も同じです。

 

そこで、私たちが決断することは、ヨエル書の次の聖句、

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2:32

しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。【主】が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、【主】が呼ばれる者がいる。

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この「主の名を呼ぶ者」、主に立ち返り、「御名を呼び求める者」になるか、ならないかという決断です。

「主の名を呼ぶ者」には、絶対的に永遠に変わらない希望と平安と祝福を、神様は用意してくださっているとヨエル書は語っているのです。

 

それなのになぜ、人は真の神様から目を背けようとするのでしょうか。

それは、人の心はシンプルには造られていないからです。

 

◆③福音はシンプル。しかし人の心はシンプルではない。

 

福音を伝えること自体は、実にシンプルです。

「イエス・キリストは救い主です。悔い改めて信じてイエス・キリストは救い主だと告白しましょう。」

しかし、人の心はそんなに単純ではないので受け入れられません。

 

なぜなら人の心は、喜びと悲しみだとか、希望と絶望などは表裏一体に造られているからです。

 

解りやすく言えば、私たちは、「このような平和な幸せはずっと続くわけではないだろう」という、恐れとか諦めてしまう心と同時に、「こんな争いや不幸はずっと続くわけではない」と、前向きに考える心をあわせ持っているということです。

 

ヘンリー・ナウエンは有名なカトリックの司祭ですが、著書の中で人の心についてこのように語っています。

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●ヘンリJ.M.ナウエン 『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey

 

「悲しみと踊りが互いに触れ合うところ」 328

泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時があり」(コヘレト3:4)。悲しむことと踊ることを完全に分けることは出来ません。

一つが、必ずしも、もう一方に続くわけではありません。実際には二つの時が一つの時となるかもしれません。

一方が終わりもう一方が始まるはっきりとした時点が示されることなく、悲しみが喜びに変わり、喜びが悲しみに変わるかもしれないのです。

 

しばしば、悲しみのための空間が踊りによって作り出される一方で、その踊りの振り付けは悲しみによって生み出されてゆきます。私たちは親友を失って涙にくれながら、味わったことのない喜びを見出したりします。

 

また成功を祝う喜びの談笑のただ中にあって、深い悲しみに気づくことがあります。悲しむことと踊ること、悲嘆と笑い、悲しみと喜び。これらは、悲しい顔のピエロと嬉しそうな顔のピエロが一人であるように一つのものです。

 

こういう顔のピエロが、時に私たちを泣かせまた笑わせるのです。私たちの人生の美しさは、悲しみと踊りが互いに触れ合っているところで見えるものとなることを信じましょう。

 

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このようにヘンリー・ナウエンは、悲しむこと、踊ること、悲嘆と笑い、悲しみと喜びをひとつのものとして捉えています。悲しみと喜びは別々のものではなく、完全に分けることはできないのではないかというのです。

 

私もそう思います。

人は笑い転げていても、実は心の中は悲しみで一杯の時がありますし、反対に悲しみの涙にくれていても、心には希望と喜びが溢れていたりもします。そのような心の深みは、神様が人間にのみ与えてくださったものです。

 

人の心はシンプルではありません。だからこそ人はユニークな存在だと言えます。

ヘンリー・ナウエンはそれを「人生の美しさ」と言います。

 

私たちの心は「主の日」が来るのを恐れながらも待ち望む、最後の審判の時が来ないでほしいと思いつつ、早く来てほしいと願っています。

一見矛盾していますが、これが人間です。「人生の美しさ」なのかどうかは、わかりませんが・・・。

 

主に立ち返り、「御名を呼び求める者」になるか、ならないか、信仰を持つか持たないかという決断についても複雑な心の動きがあります。

 

私たちが、大切な人にイエス様の福音を伝える時も悲しみと喜びの両方があります。

聖霊の注ぎを受けて、思い切って福音を伝える。けんもほろろに突き放され玉砕する。泣きそう。悲しい・・。

でも、真実をきちんと伝えたんだという喜びと、いつか受け入れてくれるのではないかという期待もあります。

 

反対に、相手が福音を受け入れてくれた時は本当に素直に嬉しい。「やった!ハレルヤ主に感謝します!」

と喜ぶと同時に、「もっと早くに伝えればよかった。もっとたくさんの人に伝えることができたならいいのに。」と思います。ついに伝えられないままで、亡くなってしまった人のことなど考えると、悲しくなってくるのです。

 

福音を伝えられた側の人も同じです。「もう二度とキリストについて語ってくれるな。放っといてくれ!」と言いながらも、神の圧倒的臨在や、真理、希望について、実はものすごく感じていたりもします。

 

福音はシンプルですが、人の心は単純ではないのです。

だからこそ、あえて単純に聖書のことばを受け取り、素直に、愚直に伝えたいと思いませんか?

 

ヨエル3章では、「主の名を呼ばない者」、つまり異教徒へのさばきが語られます。

そして、主の名を呼ぶ者には祝福が記されています。

 

ヨエル書を読んで私たちが改めて知ることができるのは、「主の日」は必ずやって来るということです。

そして、主なる神様は「主の名を呼ぶ者」をみな救ってくださるということです。

主はイスラエル民族だけではなく、すべての民を招いてくださっているということです。

そのことを、心を込めて伝えればよいのです。

 

先ほど、「主の日」とは、「神が人間の歴史に絶大な主権と力をもって介入される時」のことだと言いましたが私たちは、もっとイエス・キリストの出現を人類の歴史全体の出来事として捉える必要があると思うのです。

 

主なる神様は、ひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださり、十字架の贖いと復活の勝利により、信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。

 

イエス様の出現は、神が人間の歴史に絶大な主権と力をもって介入された、「主の日」「その日」とも表現できる出来事です。

そしてこの恵みは、世のすべての人々へ与えられている希望です。

 

主はすべての人々を招いてくださっているのです。

「キリスト教は、遠い外国の宗教でしょ?」と思っている人たちに、「いいえ。イエス様の恵みはあなたのものです。」と伝える必要があります。

 

主は「恐れるな」と言ってくださっています。

私たちは、不穏な動きが世界で起こるたびに、「これは主の日のしるしではないか」、「主の日が近いのではないか」と感じて、焦りながら、なすすべもなく過ごすのではなく・・・

 

すべての国民が主の御名を褒めたたえる時が来るように願い求め、「主の名を呼ぶ者はみな救われる」という主からのメッセージ、そしてイエス・キリストの福音を広く宣べ伝えていくために、私は今、何をすべきなのかということについて、神に祈り求めていきましょう。

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2017年10月20日 (金)

内側をきよめよ マタイ23:23-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.22

 きょうの箇所はあまり読みたくないところです。私は宗教をやっているとは思っていませんが、宗教が陥りやすいポイントを教えてくれます。逆を言いますと、「宗教的にならないように、こうしなさい」と教えてくれてくれる箇所だと思います。きょうは3つのポイントで、偽善者にならないための教訓をいただきたいと思います。 

1.細則よりも精神を

 マタイ2323-24 「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。」律法学者、パリサイ人は規則を作るのが大好きでした。律法自体は悪くありません、むしろ良いものです。しかし、彼らは律法を解釈して適用するときに、細かい規則を作りました。大切なのは、律法の精神を捉え、聖霊に導かれて生きれば良いのです。それを「こういう場合はどうする」「あのような場合はどうする」と決めるので、律法の精神からずれてしまうのです。今日も学校や会社でたくさんの「細則」がありますが、人間の自由と尊厳を奪っているように思います。当教会でも「亀有教会理念」の中に「細則」を設けています。しかし、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ514を一番最初に記しています。もし隣人を自分自身のように愛したなら、罪を犯すことがなくなるからです。世の中に数えきれないほどの「きまり」があるのに、教会に来てまで「きまり」を作ったならどうなるでしょう?パウロは「律法は私たちの肉を刺激して、罪を犯させようとする」と言いました。「するな」と言われればしたくなるし、「せよ」と言われれば、したくなくなるのです。規則を作って、寝ている子を起こす必要はありません。

 ところが、偽善の律法学者、パリサイ人は、10分の1のささげものを細かいものまで決めました。自分たちも「はっか、いのんど、クミンなどの十分の一」を納めていました。これらすべては香料のための種子とか葉っぱでした。そういう収穫物まで、10分の1を適用していたのです。でも、彼らはもっと重要なことを無視していました。イエス様は、「律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と言われました。「はるかに重要」とは、原文では、「より重いもの」と書かれています。なぜなら、「はっか、いのんど、クミン」は軽い種子か葉っぱだったからです。彼らは「10分の1」はささげていたかもしれません。でも、もっと重要な正義とあわれみと誠実を、おろそかにしていました。つまり、生活の中でそういうものが見られなかったということです。規則一辺倒で、律法の精神がなかったということです。宗教に、正義とあわれみと誠実が重要だなんてだれが思うでしょうか?仏教では「あわれみ(慈悲)」というのは言うかもしれません。しかし、そこに正義とか誠実が同居できるかということです。聖書の神さまは、あわれみだけではなく、正義と誠実を要求されます。なぜなら、神さまご自身が、義であり、あわれみであり、誠実(good faith)なるお方だからです。極端に言いますと、細かい律法を守るよりも、正義とあわれみと誠実を求めて生きれば良いということです。それをコンプライアンス遵守とか言うので、いやになるのです。あるテレビ番組で公務員を辞めた人が、田舎で野菜作りをしていました。彼は「ここではコンプライアンスもないし、体重も減って健康になりました」と言っていました。コンプライアンスと体重は関係ないと思いますが、かなりのストレスになると思います。人間は見張られて生きるよりも、自由と尊重の中で生きたら、正しいことをしたくなるのです。だから、イエス様は細かい規則を作って人を縛るのではなく、正義とあわれみと誠実を重んじるように言われたのです。

 23節にの最後に「十分の一もおろそかにしてはいけません」と書かれています。しかし、これは聖書に書かれていません。正しくは「他のものもおろそかにしてはいけません」です。おそらく、新改訳聖書を作った人が、教会に「10分の1献金」を勧めるために書いたのでしょう。でも、「10分の1献金」は聖書的なことは間違いありません。しかし、彼らがしたように、これを律法化して教会員に強要するなら、逆効果になります。ある教会は、「10分の1献金は教会を支えるための大切な資源となりますのでお捧げください」と勧めています。そして、洗礼を受けるとき、教会員の義務として、誓約をさせられます。しかし、献金は教会を支えるために捧げるではありません。それだったら、どこかの団体と変わりありません。献金は会費や活動費ではありません。これは神さまに捧げるものです。神さまがすべてのものを与えて下さっているので、そのことを感謝してささげるのです。神さまご自身は富んでいますので、ご自分は必要でありません。神さまは、私たちがささげた献金を宣教や教会活動のために戻してくださるのです。さらには、捧げた分の30倍、60倍、100倍にして、兄弟姉妹に報いてくださるのです。喜んで捧げる人には、神さまは喜んで報いてくださいます。どうぞ、教会に献金をささげると思わないでください。献金は、神さまご自身に捧げるものであり、神さまご自身が捧げた一人ひとりに報いてくださるのです。もし、「10分の1献金」を律法にするなら、どうなるでしょう?「私は10分の1をささげているから立派なクリスチャンなんだ」と自分を誇るでしょう。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょう?「あなたは律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と言われるでしょう。正義とあわれみと誠実は量ることができません。献金のように、数字に出ないのでわかりません。でも、私たちが正義とあわれみと誠実を追い求めていくとき、神さまは喜んでくださいます。なぜなら、神さまは規則を守っているかよりも、私たちの生活自体に興味があるからです。律法の細則よりも重要なのは、律法の精神です。正義とあわれみと誠実は父なる神さまのもとからやってきます。正義とあわれみと誠実に富んでおられる神さまをあがめましょう。その結果として私たちは神さまの祝福を受け、恵みによって細かい律法も守ることができます。

2.外側よりも内側を

マタイ2325-26「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」「杯や皿の外側はきよめる」とはどういう意味でしょう?彼らは儀式に用いる杯や皿の外側を磨いてきよめました。確かに、レビ記には、聖別された器を流れる水で洗うシーンがあります。イエス様がおっしゃりたいのは、外なる人のことではなく、内なる人のことであります。外なる人というのは私たちの外側です。容姿や着ているもの、言葉使いや態度です。人は外側を見ます。お化粧に長い時間をかけるのはそのためです。サプリメントやエステサロンでスタイルをキープします。外側が良く見えると、なんとなく内側も良さそうに見えるのが人間であります。私たちの目は外側で90%ぐらい判断してしまうところがあります。つまり、見てくれで決めてしまうところがあります。でも、その人と会話すると、内なる人がばーっと出てきます。その人がどういう人なのか分かるのに30分かからないでしょう。教会にセールスの方がやって来ます。ことば使いが上品であっても、「怪しいな?」と思うときがあります。でも、私は騙されやすい方なので、大きなことは言えません。私たちは内なる人にどれくらいウェートを置いているでしょうか?それは教養だけのことではありません。ガラテヤ人の手紙には「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊が結ぶ人格的な実が上げられています。創造力、知恵、勤勉さ、安定感、高潔さも内なる人の魅力です。

偽善とは「演技をする」「仮面をかぶる」というところから来ています。律法学者、パリサイ人たちは外側をきよく見せるにはプロだったのでしょう。お祈り、作法、断食、施し、聖書研究、何をしてもすばらしくて「聖人」に見えたのではないでしょうか?でも、イエス様は彼らの内側を見ることができました。Ⅰサムエル167「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書かれています。彼らの動機や願い、隠れた所での行いを見ることができました。イエス様は、「その中は、強奪と放縦でいっぱいです」と言われました。強奪というのは、「引ったくる」「奪い取る」という、泥棒みたいなことです。放縦は、「不節制」「自制力のない」という意味です。なんと、「外側はきよくて正しく見えても、内側は強奪と放縦でいっぱいだった」ということです。「欲しくてたまらない。隙あらば、いただいちゃおう」「飲んで、食べて、楽しみたい」というのが本音でした。仮面の下から、ギラギラした目が見え、口元からよだれが垂れていたのです。まるで、中世の貴族たちが催した仮面舞踏会のようです。宗教もそのように、なってしまう傾向があるということです。「統一教会」というのが今も名前を変えてあるようです。彼らは人の相談を良く受けます。しかし、その人の家族構成や財産を調べています。その自身に価値がなければ、実家の土地財産に手を伸ばします。教団のために、30年くらい働かせて、年取ったらポイです。世の中にいろんな占いやカウンセラーやいますが、新興宗教と結びついているものがたくさんあります。外側はきよくて正しく見えても、内側は強奪と放縦でいっぱいです。

では、「私たちキリスト教会は大丈夫か?」というと、そうでもありません。もちろん、律法学者、パリサイ人、新興宗教の人たちとはレベル的には違うでしょう。でも、外側よりも内側に気を配る必要があるということです。昔は、それがあまりにも強調され過ぎていました。お化粧しない、服装も粗末で、贅沢は敵だという考えがありました。矛盾しているようですが、ある程度は、外側に気を配る必要はあると思います。私も生協に買い物に行きますが、「ああー、この人髪を染めたら、若く見えるのになー」と思うことがあります。「私自身が頭ボサボサで行ってるのに、人のこと言えないなー」と思いますが。話は戻りますが、教会が陥りやすい罪は、偽善です。外側を霊的に見せるということです。アメリカの教会のように、Sunday clothingに身を固め、しゃなりしゃなりと座席に着きます。教会の礼拝も伝統的でとても整然としています。手を上げて歌ったり、通路から出て、踊ったりはしません。途中で「アーメン」みたいな合図地も打ちません。礼拝が終わっても、大口を空けて笑ったりはしません。「感謝します」と軽く挨拶して、家に帰ります。そして、教会でかぶっていた仮面を脱ぎます。「ああー、やれやれ。ワーシップの歌、長かった―。鈴木牧師の話、つまらなかったー。」とか言います。横になって煎餅をかじって、録画していた韓国ドラマを見ます。平日はこの世の人と全く変わりありません。日曜日の朝になると、教会用の仮面をつけて行きます。「感謝します。恵まれました」と挨拶して、帰ってきます。そして、仮面を脱いで「ああー、やれやれ。鈴木牧師の話、ちょっとはマシだった」と言います。

 申し上げますが、礼拝は鈴木牧師の話を聞きに行くのではありません。当教会で自慢できることがあるとするなら、偽善者がほとんどいないということです。いや、全くいないということです。ハレルヤ!アーメン。なぜでしょう?牧師がありのままで生きているからです。少しは牧師らしくしてもらいたいのですが、みんな諦めています。最近、日本の教会では「霊性」ということがとても強調されています。おそらく、カトリックのヘンリ・ナーウェンの影響かと思われます。霊的な生活をとても強調して、日本人に好まれています。でも、あまりにも内省が多いように思います。内省とは自分に罪がないか、傷ついたところがないか見つめることです。しかし、バランス的には後ろ向きな感じがします。私は前からディボーションを強調しています。でも、自分も見つめること以上に、私をご覧になっておられるイエス様を見ます。イエス様から見た自分は、結構、慰められ、希望が与えられます。エリヤハウスも福音派に根付いて来て大変結構だと思います。でも、お互いの傷とか罪にポイントが行って、どうしても後ろ向きです。過去の根をほじくりすぎるところがあります。エリヤハウスはサンフォード師の預言者学校から生まれたものです。そして、預言とはその人の罪をあばくのではなく、泥の中に埋まっている宝を発見するものです。私は、本当の霊性はイエスさまを仰ぐことであり、主の臨在と共に生きることだと思います。旧約時代は杯や皿の外側に油を塗って聖別しました。今日的には、外側に聖霊の油注ぎを受ける必要があります。聖霊によって内側をきよめていただき、同時に、外側に聖霊の油注ぎanointing を受けましょう。

3.かたちよりも命を

マタイ2327-28「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」当時のお墓は、石灰で白くしていました。なぜなら、そこに触れると汚れるからです。イエス様は彼らを「白く塗った墓のようなものです」と言われました。考えるのもぞっとしますが、外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。マタイ23章は「ああ、わざわいだ」と偽善者たちを糾弾している箇所です。「白く塗った墓」のたとえは、23章の頂点と言えるかも知れません。それほど、表現が強烈だからです。バプテスマのヨハネもきつかったですが、イエス様も結構きついですね。これはどういうたとえかと言うと、彼らの生活が外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだということです。英語の聖書は、「外側は本当に美しく見える」と書いてあります。彼らは見せかけと虚偽のプロでした。この世にたくさんの詐欺師がいますが、彼らは宗教的な詐欺師でした。でも、それが何のメリットがあるのでしょう?人々から「先生」とか「父よ」と呼ばれるのがそんなに嬉しいのでしょうか?あるいは、宗教的な権威が与えられ、人々の上に立つことがそんなに名誉なことなのでしょうか?私も大教会の牧師になって、「先生」と呼ばれたら気持ちが良いかもしれません。60人くらいの会衆では、「ちょっと」という感じがします。つまり、自分に本質的なものがないなら、虚栄心を張りたくなるのかもしれません。虚栄心、自分を大きく見せたい。これは、人間の欲望であり、宗教はそれを満たすことができるのかもしれません。

でも、問題は中身です。外側は本当に美しく見えるかもしれません。では、内側はどうなのでしょうか?死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。考えるだけでもぞっとしますが、これこそが宗教が到達するところです。白く塗られた墓の下には、死があるということです。旧約聖書に、当時のイスラエルに対することばがあります。エレミヤ213「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」「湧き水である泉」とは、生ける真の神です。泉はたえず流れるので、いつも新鮮です。一方、水ためはどうでしょうか?流れないので、腐って虫が湧きます。当時、イスラエルは、まことの神ヤーウェから離れ、バアルの神さまを礼拝しました。バアルは偶像礼拝であり、人間的な宗教です。しかし、命がないので、罪と腐敗が生じてきます。人は真の神を捨てるとき、中立になるのではなく、直ちにまがいものの神を求め始めます。日本人がその典型です。日本人は「私は神なんか信じない」と言う人がたくさんいます。しかし、困ったときなどは、偶像の神さまに願います。いろんなジンクスを恐れて生きています。私たちキリスト教会はどうでしょうか?もちろん、イスラエルのような偶像礼拝はしません。しかし、命であられる真の神さまと交わっているかどうかです。教会でもイースターやクリスマスの年間行事、礼拝プログラム、毎月の役員会、年度総会、悪いわけではありません。しかし、聖霊様が介入する余地がないとするなら、人間的な宗教になってしまいます。もちろん、神さまは秩序の神さまですから、何か変わったことをすべきだということではありません。重要なのは、神さまの恵みはたえず流れているということです。人間の行事や時間の枠に留めることはできません。ある時、ランディ・クラーク師がトロント空港の近くの教会に招かれました。すると聖霊が降ってきて、40日間ぶっ続けで集会を持ったそうです。多くの癒しや奇跡が起こったので、そのニュースを聞いた人たちが国を超えて集まってきました。そこから、トロント・ブレッシングというリバイバルの流れが起こりました。でも、人々がそこで笑い出し、動物の声で鳴く人たちも現れました。本部のヴィンヤード教会は、「あそこは危ない」とヴィンヤードの群れから追い出したそうです。なぜなら、自分たちの理解の枠を超えていたからです。リバイバルは神さまの働きですが、カオス(混沌)も一緒に現れます。だからと言って、聖霊の流れを止めてはいけないと思います。

私たちはかたちよりも命を求めるべきです。外側の美しさ、見栄えも良いかもしれません。ヨーロッパに行くと、荘厳なカセードラル(寺院)がいっぱいあります。しかし、そこには命がなく、観光地になっています。なんと、イスラムの人たちが教会堂を購入しています。建物や伝統があっても、いのちがありません。聖霊様がそこにいないということです。聖霊様がいない教会はないと言うかもしれません。しかし、聖書には「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサ519)とあります。そうです。キリスト教会と言いながらも、聖霊が眠っておられる教会はたくさんあると思います。彼らは「奇跡とか預言は困ります。もうないのですから」と神さまを枠の中に入れています。彼らの神学や伝統が聖霊の自由な働きを締め出しているのです。まさしくそれは、こわれた水ためです。私は、日本の教団はそういう危機にあると思います。近年は、教団教派に縛られない教会が成長しています。なぜなら、聖霊の働きをいち早くキャッチして、その波に乗れるからです。ある人が言いました。「私たち人間は波を起こすことができません。波を起こすのは神の霊です。リバイバルとは、神さまが起こしてくれた波に乗ることです」と言いました。私たちはサーフィンの人たちから学ぶ必要があります。彼らは地味にパトリングをしながら波を待っています。波が来たなら、パッと乗ります。そして、できるだけ長くその波に乗ります。でも、その波は消えます。そうすると、彼らは次の波に乗り替えます。波は次から次とやってきます。重要なのは、その波をとらえて乗り続けることです。そして、その波が過ぎ去ったら、次の新しい波に乗り替えることです。ある人たちは昔のリバイバル、昔の成功に固執して、同じようなことを求めています。でも、神さまは全く、新しいことをするかもしれません。私たちの内側には、キリストのいのち、復活のいのちがあります。死に打ち勝つのは復活のいのちです。ヨハネ738 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」聖霊の川が私たちの中から、この世に向かって流れて出ていきますように。

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2017年10月13日 (金)

偽善者になるな マタイ23:13-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.15

 みなさんは、テレビや映画で好きな俳優はおられるでしょうか?「偽善者」は、もともとは、俳優がある役を演ずることから来ています。簡単に言うと、偽善者とは、信仰深いようなふりをしているということです。イエスさまは「わざわいだ」と律法学者やパリサイ人たちを糾弾しています。私も世の中からみると「宗教家」になりますので、耳が痛い箇所であります。でも、牧師は「教役者」と呼ばれますので、「役者」にならないように気を付けたいと思います。

1.間違った熱心 

 偽善者は、外見は熱心なので信仰深く見えます。新興宗教をしていられるほとんどの人は熱心です。人々は彼らの熱心さゆえに信じてしまうかもしれません。律法学者やパリサイ人たちは何故わざわいなのでしょうか?13節には「人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません」と書いてあります。つまり、人々が救われないように熱心に妨害しているということです。最初、バプテスマのヨハネが荒野で福音を語りました。そのとき、ヨハネは彼らに向かって「まむしのすえたち、…悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と警告しました。彼らは反対に、「ヨハネは悪霊につかれている」と悪く言いました。次にイエス様が福音を語りました。すると彼らは「イエスは食いしん坊の大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と批判しました。イエス様は「取税人や遊女たちの方が、あなたがたより先に神の国に入って入るのです」(マタイ2131と告げました。彼らは自分たちが拒絶しただけではなく、他の人が信じるのを妨げました。まるでそれは、天の御国の入口を塞いでいるようなものでした。福音書を見るとそのことが良くわかります。大勢の人たちがイエス様の教えを聞きに集まって来ました。そのとき、イエス様の周りに律法学者やパリサイ人たちが座りました。イエス様を睨みながら、あら捜しをしました。そして、色んな難問をふっかけ、イエス様を陥れようとしました。もし、私が礼拝メッセージ中、前の席の人から「そんなのウソだ。神なんかいない」と言われたらへこみますね。亀有教会の人たちは「アーメン。アーメン」と熱心に聞いておられます。演技をしていないことを信じます。

 14節には「やもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしている」と書いてあります。彼らは、弱くて頼る人もいないやもめに対して、長い祈りをしてあげました。いくらかでも、お布施をいただきたかったからです。「食いつぶし」というのは、「食い物にする」という意味です。新興宗教の人たちは病気の人や身寄りのない人たちの世話を良くします。一見親切そうに見えますが、票を獲得するためであったりします。私もある人のため癒しの祈りをしようとしました。すると「キリスト教も祈るのですか?」と言われました。おそらく「人の弱みに付け込んでいる」と警戒したのでしょう。今は、お年寄りの人に親切にすると、かえって怪しまれます。預金や財産目当てだと思われるからです。浦和に便利屋さんをしている牧師がおられます。ふすま貼りやクロス貼ります。いただいた代金はすべて教会に回して、自分は定まった給与を教会からいただいているそうです。ご用向きで行くと「え?牧師さんなの」とおどろかれるそうです。休憩の合間に、人生相談を受けるので伝道にもなるということです。イエス様は偽善の律法学者、パリサイ人に「おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます」と言われました。「罰を受ける」というのは「永遠の断罪を受ける」ということです。それだけ、弱い人たちを食い物にするというのは罪が重いということです。なぜなら、父なる神さまがそういう人たちを最も心配しているからです。イザヤ書58章に、神が好む断食について記されています。それは「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」(イザヤ587と書いてあります。初代教会では、教会あげてやもめたちの世話をしていました。しかし、配給のことで問題が起りました。そのとき、どうでも良い人たちが世話をしたのではありません。教会は、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を選んで、その仕事に当たらせました(使徒63)。それらは、とても重要であったということです。

 15節には、彼らは改宗者を得るためにとても熱心でありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。」「改宗者」というのは、ユダヤ教に改宗するという意味です。彼らの先祖は、バビロン捕囚のため国外に散らされました。そのとき、方々に会堂を建てて信仰を守っていました。イエス様の頃は、小アジヤやギリシャにも会堂があり、あちこちにユダヤ教徒がいました。それだけ伝道熱心であったということです。でも、その熱心は間違った熱心でありました。パウロがまだサウロであったとき、キリスト者を撲滅するために、とても熱心でした。しかし、復活の主に出会ったとき、キリストご自身を迫害していることであると悟りました。回心したパウロは、キリストを熱心に宣べ伝える人になりました。そして、今度はユダヤ教徒から命を狙われるようになりました。やがてパウロは小アジヤ、ギリシャ、ローマまで福音を伝えに行きました。しかし、強烈に迫害したのはユダヤ教徒たちでした。イエス様は彼らの弟子訓練を「自分より倍も悪いゲヘナの子にする」とおっしゃっています。最近はイスラムの過激派のことが報道されます。しかし、どうやって自爆テロにするのか不思議であります。若者たちに、間違った熱心を植え付けています。

 日本人は「まじめさ」とか、「熱心さ」をとても重んじる国です。しかし、その対象が真実で永続的なものであるかがより重要ではないでしょうか。なぜなら、悪魔だってまじめです。まじめに人々を誘惑し、悪い事をしているからです。また、「熱心さ」でもあぶない熱心があります。アイドルを自分だけのものにしたくて、何でもします。自己中心的な愛であり、相手のことを考えていません。若者たちが野外コンサートでずーっと立って、踊っているのをテレビで見るときがあります。あのエネルギーはどこから来るのだろうと不思議に思います。もっと、正しい使い道があるのではと「おじさん」は心配するのであります。パウロが律法主義のユダヤ教徒にこう述べています。ガラテヤ417「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」パウロの時も、一人の改宗者を得るために熱心であったということです。彼らの熱心は肉による熱心であり、聖霊から来たものではありまさせん。本当の熱心は神さまから来るものです。正しい福音理解と聖霊による恵みこそが、真の熱心であると信じます。パウロは「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ1211と言われました。異端の人たちは私たちよりも熱心なところがあります。それは一人でも多く改宗者を得るためです。私たちは教会や教団のためではなく、純粋な救霊愛を持ちたいと思います。肉の熱心さもある程度のところまでは行きます。しかし、私たちは聖霊による熱心さ、みことばに基づいた熱心さを持ちたいと思います。

2.間違った誓い方

 聖書の中に「誓い」が時々、出てきます。約束でもっと重要なものが「誓い」と言っても良いかもしれません。当時のユダヤ人、特に宗教家たちはいろんな誓いをしていたようです。でも、誓ったことは必ず守らなければなりません。律法学者やパリサイ人はどのような誓いをしていたのでしょうか?イエス様が彼らの誓い方を具体的に取り上げています。第一は神殿に関するものです。マタイ2316,17「『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。」これはどういう意味でしょう?彼らは神殿をさして誓ったものは、果たす必要がないと言っているのです。しかし、「神殿の黄金をさして誓ったなら、その誓いを果たさなければならない」と言いました。イエス様は黄金を聖いものにするのは神殿であり、神殿の方が大切なんだと言いました。つまり、神殿をさして誓ったなら、その誓いも果たさなければならないということです。さらにイエス様は21節で「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです」とおっしゃいました。神殿の背後には神さまがおられるのであり、それは神さまに誓っているのと同じだということです。つまり、律法学者やパリサイ人は何とか言い逃れができるように、へりくつを考えたのです。

 第二は祭壇に関するものです。マタイ23:18-19「 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。彼らは祭壇をさして誓ったものは、果たす必要がないと言っているのです。しかし、「祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない」と言いました。イエス様は供え物を聖いものにするのは祭壇であり、祭壇方が大切なんだと言いました。そして、20節で、「祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。」と言われました。私たちの頭ではちょっと理解できません。ユダヤ人は神の名を使うことを非常に恐れていました。こういうみことばが聖書にあります。レビ記1912「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」つまり、彼らは主の名によって誓うことはしませんでした。その代り、神殿とか祭壇に取り換えました。はたまた、黄金とか供え物をさして誓ったりしました。何をさして誓うかが問題とされました。しかし、イエス様は何に対してであっても、誓いは誓いなんだと言われました。

 第三は天を指して誓う誓いです。22節「天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」このことは、マタイ5章にも書かれています。「すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。」(マタイ534,35)と言われました。彼らは神以外のもので誓ったなら、果たさなくても良いと言い逃れを考えたのです。でも、天には神の御座があるので、神さまに誓っていることなのです。

イエス様は、すべての誓いが神にかかわっており、実行する責任があると教えました。しかし、もっと言うと、できそうもないことは誓わない方が良いということです。マタイ5章でイエス様はこうもおっしゃっています。マタイ537「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」それ以上のこととは、何かを指して誓うということです。「はい、…します」と言ったことをそのまま実行すれば、誓う必要はありません。「いいえ、…しません」と言ったことをまま守れば、誓う必要はありません。不誠実な人ほどよく誓います。「いのちをかけて誓います」「名誉にかけて誓います」「神かけて誓います」。まるでシェークスピアかヘミングウェイであります。つまり、演技をしているように思えます。演じている自分に酔っているのかもしれません。私は「きっと〇〇します」「絶対○○します」みたいなことは言わないように気を付けています。なぜなら、そうできなかった場合、信用を失うからです。でも、自分が言ったことばを実行しようとは務めています。詩篇にすばらしいみことばがあります。詩篇154「損になっても、立てた誓いは変えない。」とあります。私が23歳の頃、小さな貿易会社で働いていました。先輩の部長はクリスチャンで私を導いてくれた人です。あの頃は、インドやバングラディッシュ、アフガニスタンに中古衣料を輸出していました。ワイシャツや毛布が大変重宝され、梱包して横浜や神戸から送りました。最初は向こうのバイヤーと契約を交わします。その後、L.Cが送られてきたら出荷します。たとえば1キロ1ドルでワイシャツを取引きしたとします。ところが別のお客さんが1キロ1ドル30セントで買うと申し込んできました。ところが社長が口を挟み、前のお客さんには「もうない」と言え、新しいお客さんに売れというのです。先輩は最初、社長に従いました。でも、お客さんが長続きしません。なぜなら、信用を失っているからです。最後に先輩は「クリスチャンとして約束を破ることができません」と言いました。社長は「これが商売なんだ」と、かんかんに怒りました。社長が言うことを聞いてくれないので、先輩と私は会社を辞めることにしました。今、思えば、「せっかくあこがれの英語事務の仕事ができたのにもったいない」。でも、クリスチャンになってもっと大切なものがあると気付いたんですね。そのとき、先輩が教えてくれたみことばが詩篇154でした。「損になっても、立てた誓いは変えない。」のみことばで、あの時のことを思い出します。

 私は結婚式の司式のときも「誓いますか?」とは言いません。「約束しますか?」と少し柔らかめにします。でも、どうして「努力しますか?」ではダメなんでしょう。「努力します」の方が人間的で良いと思います。なぜなら、日本ではカップルの30%が離婚しているからです。教会で洗礼を受けた人も半分近くは、やがて教会に来なくなります。果たして、誓いや約束は重要なのでしょうか?聖書を見ると、神さまが私たちに向かって、誓いや約束を良くしていることがわかります。神さまはご自分の名前によって誓います。なぜなら、他に誓うべき対象がないからです。神さまがなされた誓いや約束は必ずなると信じます。でも、私たちはなぜ、誓ったり約束をするのでしょう?それは自分を制限するためです。自分はそれを必ず果たすんだという心構えができます。そうすると横道にそれたり、誘惑に負けることなく、ひたすら努力することができます。でも、人間は不完全なので、遂行、履行、遵守ということができないことがあります。ことばで誓う時はとても気持ちが良いです。でも、それを実行して行くには、地味でたゆまない努力が必要です。「言うは易し、行なうは難し」であります。箴言133「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」とあります。私も信仰によって大きなことを宣言することが多々あります。神さまから来たものでなければ、自分で自分を苦しめてしまいます。そういう意味で、信仰の宣言はもろ刃の剣かもしれません。神さまはご自分の誓いや約束を守るお方です。私たちも神のかたちに似せて造られたので、そういうところがあるのかもしれません。でも、主の恵みによって「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言うことを努めたいと思います。できるだけ言い逃れをせず、真実な道を歩みたいと思います。

3.目の見えぬ者たち

 16節には「目の見えぬ手引きども」17節には「目の見えぬ者たち」19「目の見えぬ者たち」2426節にもあります。なぜ、イエス様は律法学者やパリサイ人にそのようにおっしゃったのでしょうか?イエス様が「目が見える」というとき、ものの見方や考え方を言います。簡単に言うと、目が見えるというのは、物事の真実が分かるということです。英語でI seeは見えるだけではなく、understand「わかる」という意味もあります。では、なぜ律法学者やパリサイ人たちは見えなかったのでしょうか?その一つは、彼らは神さまではなく、人から良く見られたいという虚栄心がありました。内側はどうでもよくて、外側を信仰深く、霊的に見せようとしました。そのため、心が頑なになり、真実を見ようとする力がなくなったのです。彼らはこれまで何度もイエス様の教えを聞きました。また、何度もイエス様のメシヤとしてのしるしを見て来ました。なのに、嫉妬やプライドが邪魔して、イエス様を救い主として受け入れなかったのです。そのため、霊の目がふさがれ、ますます見えなくなったのです。それは、1つの呪いと言えます。本当に不思議です。彼らはいわば、聖書の専門家でした。聖書を研究し、聖書を良く覚えていました。聖書を知的には理解できたかもしれませんが、イエス様を認めなかったので、あるところでストップしてしまいました。聖書を理解するための鍵は、みことばご自身であるイエス・キリストが必要です。イエス・キリストを信じると霊の目が開かれ、聖書が分かります。聖書が分かるだけではなく、それを実行できる力も与えられます。ところが、肝心のイエス様を信じなかったので、真実も力もなく、外面だけを飾って生きる偽善者になるしかなかったのです。イエス様は種まきの譬えで、最後にこう言われました。マタイ1311-12「イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」パウロは、エペソ人への手紙1章で、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになるように」「あなたがたが知ることができますように」と祈っています。

 私たちは神さまの奥義を知りたいと思います。もっと、真実が分かるようになりたいと思います。そのことに対して旧約聖書に2つのみことばがあります。申命記2929「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」もう1つは、箴言252「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」2つのみことばに、共通していることは、神さまは何かを隠しておられるということです。それは神さまのものであり、神さまの栄光です。アダムとエバは「知識の木」から実を取って食べたので、ふたりの目が開かれました。理性的な目は開かれたかもしれませんが、霊的な目が塞がれてしまったということです。それ以来、私たちは何でも頭で理解するようになり、頭で理解できないものは存在しないもののように遠ざけてきました。でも、神さまは多くのものを隠しておられます。人は一生懸命、法則や真理を発見してきましたが、まだ多くのものが隠されています。私たちが知らないことはたくさんあります。隠されていることは神さまのものであり、隠すのは神の栄光です。でも、神さまは父なる神さまであり、王子や王女に見つけてもらいたいのです。父なる神さまは隠すのが目的ではなく、私たちのために見つけ出してもらいたいと願っているのです。律法学者やパリサイ人のような虚栄心ではその目が曇ってしまうでしょう。イエス様とパウロに共通しているのは、神の霊による理解です。頭の理解をこえた、聖霊がくださる理解力が必要です。そのためには、まず神さまと純粋で正直な関係が必要です。なぜなら、父なる神さまは親しい交わりの中で、ご自身の隠されたことを教えてくださるからです。父なる神さまはわが子に、隠されたことを教えてあげたいのです。いや、見つけ出してもらいたいのです。そして、共に喜びたいのです。うわべを飾る偽善者ではなく、子どものように素直で純真な心が必要です。イエス様のことばです。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(マタイ1125

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2017年10月 6日 (金)

最も偉大な者 マタイ23:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.8

 イエス様はユダヤ教の指導者たちのことを、群衆と弟子たちに向けて語っておられます。現代の私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?強いて言うならば、教会の指導者に対する警告でありましょう。「先生と呼ばれてはならない」とも書いてありますので、ここから説教するには気が重いです。私は別に「先生」と呼ばれたくもありません。私たちは、マタイによる福音書から順番に学んでいますので、飛ばすわけにはいきません。きっとすばらしい恵みが隠されていることを信じます。 

1.彼らのふるまい

 イエス様は「彼らは言うことは言うが、実行しない」と言われました。彼らとは律法学者、パリサイ人たちのことでした。バビロン捕囚から帰った民は、ユダヤ人と呼ばれ、礼拝のスタイルが変わりました。これまでの神殿礼拝よりも、会堂(シナゴーグ)で律法を朗読し、その教えを守ることが中心になりました。やがて、律法を教える人たちが重んじられるようになりました。イエス様の頃は、律法学者やパリサイ人たちが、モーセの律法を解説して教えていました。そればかりか、モーセの律法にないような言い伝えや細則までも強要するようになりました。「重い荷をくくって、人の肩に載せる」とはそのことを意味しています。イエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人を休ませてあげます」(マタイ1128と言われましたが、それは言い伝えや細則からの解放について語っておられるのです。イエス様は「彼らの言うことは、守り行ないなさい」と言われました。モーセの律法であるならば守らなければなりません。でも、「彼らの行いをまねてはいけません」と言われました。なぜなら、彼らは言うことは言うが、実行しないからです。つまり、言っていることとやっていることが一致していなかったということです。本来、律法は守るために与えられたものではなく、人間の罪を示し、救い主に出会う養育係りでした。彼らは律法をこと細かく、教えることはできました。しかし、律法を守る力がありませんでした。生身の人間は、聖霊の助けなくして、律法を守ることは不可能です。かえって、苦しくなり、偽善者たちを生み出すことになります。自分が教えていることを自分が実行できないというのは、命を持っていないということの証拠であります。

 彼らは真実を隠すために、表面を飾りました。自分たちが、いかに信仰深いか人に見せようとしました。「経札の幅を広くする」とは、律法の入った小箱を大きくするということです。申命記6章に「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい」と書かれています。彼らは目立つように、大き目の小箱を額や左腕に結びつけていました。現代で言うなら、大きな十字架を首からぶらさげるようなものです。また「衣のふさを長くする」とは、自分が神さまのことをいつも忘れないというしるしであります。旧約聖書で大祭司は、衣のふさに「ざくろ」のような鈴をつけていました。現代で言うなら、祭服とかガウンであります。ローマ・カトリックやロシア正教の祭服はとてもきらびやかです。それだけではありません。人々から重んじられ、敬意を受けることを大変好みました。だから、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きでした。ここで言われている「先生」とはrabbiラビです。ラビは「ユダヤ教指導者として知識と訓練があり、その職を任された者」でありました。復活の朝、マグダラのマリヤはイエス様を当時のことばで、「ラボニ」と呼んでいます。そういう意味でイエス様もラビのひとりでした。ラビは「尊敬すべき先生」という意味であります。しかし、だんだんと称号、タイトルのようになっていきました。現代の教会でも、按手礼を受けた牧師をreverend と呼びます。Reverendは、聖職者に対する尊称です。ある牧師たちは、Rev.〇〇と名刺に書いています。私も人から重んじられたら、悪い気はしないですね。でも、神さまの栄光を盗む一歩手前まで行くことになります。

 イエス様はヨハネ5章でこのように述べておられます。ヨハネ544「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」イエス様は「人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めなさい」と言われました。ところが、当時の宗教家たちの関心は人でした。「人にみせるため」、「人から先生と呼ばれ」、「人から重んじられる」ことでした。神さまではなくて、人だったのです。旧約聖書には2人の典型的な人物がいます。一人はイスラエルの最初の王様、サウル王です。彼はアマレク人とその家畜を聖絶しなさいと主から命令を受けていました。ところが、牛と羊を取っておきました。サムエルからその罪を責められ、その罪を認めました。しかし、「私の民の長老とイスラエルの前で私の面目を立ててください」とサムエルに頼みました。サウル王は主がどう見るかではなく、人がどう見るか考えていました。一方、二代目のダビデ王はどうでしょうか?彼は大きな罪を犯しました。しかし、「私は主の御前で罪を犯しました」と告白しました。ダビデは主の前に正直に生きた王様です。だから、神さまからとても愛され、王様の模範になりました。先日、イエス様をお乗せしたロバの子についてお話ししました。人々は「ダビデの子にホサナ。祝福あれ」と歓迎しました。ロバの子は、「あれ?私に向かって言っているのかな?」と勘違いして有頂天になるかもしれません。本当は私ではなく、自分がお乗せしているイエス様がすばらしいのです。三浦綾子さんが『ちいろば先生物語』という本を書きました。書評がすばらしかったのでご紹介します。虚飾のない、血のかよった人間味溢れる「ちいろば先生」こと榎本保郎牧師の姿を描く、伝記小説。貧しい家庭に育ち、家の手伝いをしながらも、中学に合格し、積極的な活動をしていた榎本保郎。しかし満州から復員してから、虚無に陥り、生きる目的を失ってしまう。苦労して同志社大学神学部の聴講生になったものの、自殺騒動を起こしてしまうのだ。徐々に落ち着きを取り戻し、神学部にも復学し、神への献身を決意するのだが。自らをイエスの乗り物、小さいロバに擬し、生涯を伝道に捧げた榎本保郎牧師の壮絶な生と死を綴った伝記小説。…私も神さまの前に正直に生きる信仰者でありたいと思います。人がどう見るかではありません。神さまがどうご覧になっているかです。ダビデやパウロのように、主を愛し、主から愛される者になりたいと思います。

2.彼らの敬称

 マタイ23:8-10「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」このところには、彼らが好んで用いた敬称が出てきます。敬称というよりも、タイトルと言った方が良いかもしれません。先生と言うのは、さきほど申しましたがラビです。ラビは「尊敬すべき先生」という意味があります。律法の教師、また人生の教師です。ユダヤでは父親が子どもを教えましたが、ある年齢に達すると、ラビに子どもを託しました。どのラビから学ぶかによって、人生が変わります。ちなみに使徒パウロはガマリエルから学びました。また、「父」という呼び名もありました。預言者エリシャは、エリヤに向かって「わが父。わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」(Ⅱ列王記212と叫びました。つまり、肉親の意味で、あるいは霊的な意味でも用いられたようです。また、師というのは、ギリシャ語で案内者とか教師という意味です。英語の聖書にはmasterあるいはdoctorと書かれています。どちらにしても、そう呼ばれたら悪い気はしないですね。先生、父、師というのは、敬称ということでは問題ないと思うのですが、どうでしょうか?イエス様はなぜ、極端なことをおっしゃるのでしょうか?

 教会でも牧師は「先生」と呼ばれます。しかし、このところでは「先生と呼ばれてはいけない」とイエス様が命じておられます。ですから、ブラザレン系の教会では先生と呼ばず、〇〇兄弟と呼びます。ウォッチマンはウォッチマン兄弟と呼ばれていました。町田のある牧師が著名な伝道者を「〇〇さん」と呼んでいました。私は「それはできないなー」と思いました。自分が言われる分には良いけど、年上の牧師や伝道者を「〇〇さん」は無理です。なぜでしょう?キリスト教会は堕落したのでしょうか?1つはローマ・カトリックの「聖職者」という考えから来たものです。彼らは「神父」、父なる神の代理者みたいに呼んでいます。もう1つは儒教から来たもので、目上の人や何かを教えてくれる人を「先生」と呼びます。お花の先生、ピアノの先生、そろばんの先生がいます。また、議員に対しても「先生」と呼びます。大川牧師から「教会では牧師に対して、先生と呼んでも良いけど、大学教授や代議士には「〇〇兄弟」と呼ぶべきだ」と聞いたことがあります。教会で「先生!」と呼んだら、4人が「はい」と言ったら、混乱を招くでしょう。でも、きょう来られている兄弟姉妹の中も、学校の先生、保育園の先生、歌の先生、そば打ちの先生がいらっしゃるのではないでしょうか?そういう意味で、日本ではちょっとした敬称になっているということです。私は「鈴木先生」と呼ばれると、「え?だれのこと?」と未だに、なじめません。なぜなら、学校でものすごく、傷を受けて来たからです。でも、私が本来の「先生」という名称を正しい意味で回復させるのも良いかもしれません。

 新聖書注解にはこのように書かれていました。このように人からの栄誉を求めるパリサイ主義に対して、イエスは弟子たちに、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたは地上のだれかをわれらの父と呼んではいけません。また、師と呼ばれてはいけません」と言われる。その理由は、「あなたがたはみな兄弟だから」である。教会の中で、牧師は「先生」と呼ばれる。しかし、牧師も一般の信徒も、同じ父なる神から生まれ、同じ教師のキリストに導かれている兄弟姉妹である、という事実を忘れてはならない。…とありました。アーメンです。人からの栄誉を求めたいという動機が問題なのです。私は敬称というよりも、機能というように理解しています。エペソ4章に教会における5人の職務が記されています。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。この人たちは偉いのではなく、キリスト様からこのような職務を果たしなさいと召されているのです。教会員の中には、「牧師も一人の人間だから」と見下げる意味で言う方がたまにおられます。権威に対して何か、歯向かいたい気持ちは分かります。でも、Ⅰテサロニケ513「その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」とあります。イエス様は「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます」(マタイ1041と言われました。つまり、私が講壇からこのように話していますが、大きく分けて2種類あると思います。「普通のおじさんのお話で、自分でも実行できないことを講壇から話しているんだ」と思っている人。あるいは「いや、講壇からのメッセージは神さまから来ているんだ。講壇から降りたら普通のおじさんだけど…」と思っている人です。「牧師を牧師だというので受け入れる者は、牧師の受ける報いを受けます」アーメン。

 私たちはどんなすばらしい指導者であっても、偶像化してはいけません。キリスト教会でも牧師を教祖みたいに高めたりします。でも、それは行き過ぎです。だから、イエス様は「あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです」と念を押すように言われたのです。牧師の最大の務めは、人を自分に向けさせるのではなく、父なる神、そしてイエス・キリストに向けさせることだと思います。だれでも、人から頼られるとうれしいものです。ある牧師は信徒の世話を良くします。そして、自分に相談しないで、勝手なことをすると怒る牧師もいるようです。自分に依存させて、満足するというのは問題です。やはり、ひとり一人聖書を読んで、神さまから聞くべきです。牧師の助言も良いですが、イエス様の導きに頼るべきでありますそれと関連したすばらしい聖書箇所をご紹介いたします。箴言31-6「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

3.最も偉大な者

 マタイ2311-12「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」文脈から解釈すると、パリサイ人や律法学者たちは、自分を高くする者たちでした。彼らは宴会の上座や会堂の上席が大好きでした。また、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが大好きでした。英語の聖書には、「あいさつされる」は、with honor「尊ばれる」となっています。この世では名誉職というのがありますが、彼らは宗教的な名誉職についていたので、人々から尊ばれることが大好きだったのです。確かに神さまに仕えていると、そういう扱いを受けがちです。本来、神さまだけが尊ばれるべきなのですが、分け前をいただいてしまうのです。だから、イエス様は「先生、父、師と呼ばれてはいけない。先生はただひとり、父はただひとり、師はただひとりだ」と注意されたのです。どうしても、敬称がつけられると、その人自身がそういう人物になってしまうのです。私たちは正しいプライド、自尊心は持つべきであります。でも、神さまに仕えるときは、それらの敬称は借り物であり、自分自身のものではないということを忘れてはいけません。牧師職も引退するときがあります。だれも、信徒がいないなら牧師ではありません。牧師も確かに名誉でありますが、クリスチャンはもっと基本的ですばらしいものです。「自分は罪赦され、神の子となった。」これほどすばらしいものはありません。

 このみことばは、教職者だけではなく、すべての人たちに適用することが可能です。もう一度お読みいたします。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」アーメン。たとえば、家庭でだれが一番偉いのでしょうか?父であり、母でしょうか?確かに、聖書では「あなたの父と母を敬え」と書いてあります。でも、そこに赤ん坊がいたならば、父と母はその赤ちゃんに仕えます。食べ物、睡眠、健康、安全を赤ん坊に与えるために、父と母が仕えているのです。この世では多くの人を仕えさせている人が一番偉い人のように思われています。しかし、聖書では仕える人が一番偉大なんだということです。英語の聖書ではservantとなっています。少し前に、サーバント・リーダーシップということをお話ししたことがあります。イエス様が私たちの贖いのために、ご自分の命を与えることによって仕えてくださいました。その結果、父なる神さまはイエス様を引き上げ、主の主、王の王にしてくださいました。ですから、この世においても人に仕えるような仕事であっても卑屈になってはいけないということです。この世では自分に部下が何人いるかによって、自分の偉大さを決めるところがあります。しかし、本当はその逆で、自分は何人の人に仕えているかが重要なのです。また、この世では、いつか上になるために、とりあえず我慢して仕える人になるという考えがあります。それも間違いであって、結果的に高められたら良いのです。高められることを前提に、仕えるというのは間違っています。ひょっとしたらこの地上では仕えっぱなしで、御国に行ってからやっと高められるかもしれません。この地上ではなく、あちらの方で報われることもあるでしょう。ですから、結果は神さまにゆだねて、今のポジションを忠実に果たすということが重要だと信じます。

 ダビデは自分が羊飼いであることを忘れませんでした。だから、詩篇23篇には羊飼いのことと、司令官として戦っていたときのことが両方記されています。しかし、ダビデが戦いにでかけなくても、なんとかやっていけるようになりました。その時、彼は罪を犯してしまいました。自分が一介の羊飼いから一国の王様に引き上げられたことを忘れていたのです。そのため、どん底まで落とされたのです。でも、その先、ダビデはへりくだりました。そして、また引き上げられ、イスラエルの模範的な王様になりました。ここに注目すべきことは「自分を高くする者は低くされ」「自分を低くする者は高くされ」と書いてあることです。自分の意思や気持ちで自分を高くしたり、低くするということです。一方、「その人を高くしたり、低くするのはだれか?」ということです。文章には主語がありません。人々かもしれないし、神さまかもしれません。もし、人々がそうするんだと考えるなら、パリサイ人や律法学者のように偽善的になるでしょう。つまり、人からの報いを期待してやっているからです。もし、心底、神さまがそうしてくださるんだと考えるならどうでしょう?マタイ6章では「隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます」と書かれています。そうです、高めてくださるのは父なる神さまであります。ということはどんな仕事でも、どんな奉仕でも、人ではなく父なる神さまの御目のもとでやれば良いということです。私は小学生のころはとても目立ちたがり屋でした。何でも分かったふりをして手をあげました。それは人から認めてもらいたかったからです。なぜかというと8人兄弟の7番目で全く無視されていたからです。父母は長男や長女はほめましたが、下の方の兄弟は粕のような存在でした。だから、その反動として、学校ではそうなったんだと思います。でも、今、クリスチャンになり、父なる神さまが隠れた所で見ておられると知って、ほっとしました。パフォーマンス指向から解放されました。でも、今、牧師になって講壇に立ち、パフォーマンスをするときもあります。しかし、それは何とか父なる神さまのすばらしさを語りたいからです。報いを得るためにがんばっているのではなく、こんな私を支持しておられる父なる神さまを誇りたいのです。

 きょうは人々から栄誉を得るために表面を飾っていたパリサイ人、律法学者のことを学びました。彼らの振る舞い、彼らの敬称は人からの報いを得るためでした。神さまの名を借りて、自分を高めていたわけです。私たちはそうではなく、イエス様の贖いを受けているので、神さまを誇りたくなるのです。たとえ自分が低くされ、仕えるようなことをしていても感謝なのです。なぜなら、その前に、イエス様が私たちのために低くされ、仕えてくださったからです。イエス様は結果的に神さまから高められました。私たちは高められることを目的にしてはいけません。むしろ、自分を低くする方に意識を向けたいと思います。高められるのはその結果であるからです。ひょっとしたら高められないで、低いままかもしれません。それでも良いのです。なぜなら、そういうところにこそ、低くなられたイエス様が最も近くにおられるからです。

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