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2017年10月20日 (金)

内側をきよめよ マタイ23:23-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.22

 きょうの箇所はあまり読みたくないところです。私は宗教をやっているとは思っていませんが、宗教が陥りやすいポイントを教えてくれます。逆を言いますと、「宗教的にならないように、こうしなさい」と教えてくれてくれる箇所だと思います。きょうは3つのポイントで、偽善者にならないための教訓をいただきたいと思います。 

1.細則よりも精神を

 マタイ2323-24 「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。」律法学者、パリサイ人は規則を作るのが大好きでした。律法自体は悪くありません、むしろ良いものです。しかし、彼らは律法を解釈して適用するときに、細かい規則を作りました。大切なのは、律法の精神を捉え、聖霊に導かれて生きれば良いのです。それを「こういう場合はどうする」「あのような場合はどうする」と決めるので、律法の精神からずれてしまうのです。今日も学校や会社でたくさんの「細則」がありますが、人間の自由と尊厳を奪っているように思います。当教会でも「亀有教会理念」の中に「細則」を設けています。しかし、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ514を一番最初に記しています。もし隣人を自分自身のように愛したなら、罪を犯すことがなくなるからです。世の中に数えきれないほどの「きまり」があるのに、教会に来てまで「きまり」を作ったならどうなるでしょう?パウロは「律法は私たちの肉を刺激して、罪を犯させようとする」と言いました。「するな」と言われればしたくなるし、「せよ」と言われれば、したくなくなるのです。規則を作って、寝ている子を起こす必要はありません。

 ところが、偽善の律法学者、パリサイ人は、10分の1のささげものを細かいものまで決めました。自分たちも「はっか、いのんど、クミンなどの十分の一」を納めていました。これらすべては香料のための種子とか葉っぱでした。そういう収穫物まで、10分の1を適用していたのです。でも、彼らはもっと重要なことを無視していました。イエス様は、「律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と言われました。「はるかに重要」とは、原文では、「より重いもの」と書かれています。なぜなら、「はっか、いのんど、クミン」は軽い種子か葉っぱだったからです。彼らは「10分の1」はささげていたかもしれません。でも、もっと重要な正義とあわれみと誠実を、おろそかにしていました。つまり、生活の中でそういうものが見られなかったということです。規則一辺倒で、律法の精神がなかったということです。宗教に、正義とあわれみと誠実が重要だなんてだれが思うでしょうか?仏教では「あわれみ(慈悲)」というのは言うかもしれません。しかし、そこに正義とか誠実が同居できるかということです。聖書の神さまは、あわれみだけではなく、正義と誠実を要求されます。なぜなら、神さまご自身が、義であり、あわれみであり、誠実(good faith)なるお方だからです。極端に言いますと、細かい律法を守るよりも、正義とあわれみと誠実を求めて生きれば良いということです。それをコンプライアンス遵守とか言うので、いやになるのです。あるテレビ番組で公務員を辞めた人が、田舎で野菜作りをしていました。彼は「ここではコンプライアンスもないし、体重も減って健康になりました」と言っていました。コンプライアンスと体重は関係ないと思いますが、かなりのストレスになると思います。人間は見張られて生きるよりも、自由と尊重の中で生きたら、正しいことをしたくなるのです。だから、イエス様は細かい規則を作って人を縛るのではなく、正義とあわれみと誠実を重んじるように言われたのです。

 23節にの最後に「十分の一もおろそかにしてはいけません」と書かれています。しかし、これは聖書に書かれていません。正しくは「他のものもおろそかにしてはいけません」です。おそらく、新改訳聖書を作った人が、教会に「10分の1献金」を勧めるために書いたのでしょう。でも、「10分の1献金」は聖書的なことは間違いありません。しかし、彼らがしたように、これを律法化して教会員に強要するなら、逆効果になります。ある教会は、「10分の1献金は教会を支えるための大切な資源となりますのでお捧げください」と勧めています。そして、洗礼を受けるとき、教会員の義務として、誓約をさせられます。しかし、献金は教会を支えるために捧げるではありません。それだったら、どこかの団体と変わりありません。献金は会費や活動費ではありません。これは神さまに捧げるものです。神さまがすべてのものを与えて下さっているので、そのことを感謝してささげるのです。神さまご自身は富んでいますので、ご自分は必要でありません。神さまは、私たちがささげた献金を宣教や教会活動のために戻してくださるのです。さらには、捧げた分の30倍、60倍、100倍にして、兄弟姉妹に報いてくださるのです。喜んで捧げる人には、神さまは喜んで報いてくださいます。どうぞ、教会に献金をささげると思わないでください。献金は、神さまご自身に捧げるものであり、神さまご自身が捧げた一人ひとりに報いてくださるのです。もし、「10分の1献金」を律法にするなら、どうなるでしょう?「私は10分の1をささげているから立派なクリスチャンなんだ」と自分を誇るでしょう。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょう?「あなたは律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と言われるでしょう。正義とあわれみと誠実は量ることができません。献金のように、数字に出ないのでわかりません。でも、私たちが正義とあわれみと誠実を追い求めていくとき、神さまは喜んでくださいます。なぜなら、神さまは規則を守っているかよりも、私たちの生活自体に興味があるからです。律法の細則よりも重要なのは、律法の精神です。正義とあわれみと誠実は父なる神さまのもとからやってきます。正義とあわれみと誠実に富んでおられる神さまをあがめましょう。その結果として私たちは神さまの祝福を受け、恵みによって細かい律法も守ることができます。

2.外側よりも内側を

マタイ2325-26「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」「杯や皿の外側はきよめる」とはどういう意味でしょう?彼らは儀式に用いる杯や皿の外側を磨いてきよめました。確かに、レビ記には、聖別された器を流れる水で洗うシーンがあります。イエス様がおっしゃりたいのは、外なる人のことではなく、内なる人のことであります。外なる人というのは私たちの外側です。容姿や着ているもの、言葉使いや態度です。人は外側を見ます。お化粧に長い時間をかけるのはそのためです。サプリメントやエステサロンでスタイルをキープします。外側が良く見えると、なんとなく内側も良さそうに見えるのが人間であります。私たちの目は外側で90%ぐらい判断してしまうところがあります。つまり、見てくれで決めてしまうところがあります。でも、その人と会話すると、内なる人がばーっと出てきます。その人がどういう人なのか分かるのに30分かからないでしょう。教会にセールスの方がやって来ます。ことば使いが上品であっても、「怪しいな?」と思うときがあります。でも、私は騙されやすい方なので、大きなことは言えません。私たちは内なる人にどれくらいウェートを置いているでしょうか?それは教養だけのことではありません。ガラテヤ人の手紙には「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊が結ぶ人格的な実が上げられています。創造力、知恵、勤勉さ、安定感、高潔さも内なる人の魅力です。

偽善とは「演技をする」「仮面をかぶる」というところから来ています。律法学者、パリサイ人たちは外側をきよく見せるにはプロだったのでしょう。お祈り、作法、断食、施し、聖書研究、何をしてもすばらしくて「聖人」に見えたのではないでしょうか?でも、イエス様は彼らの内側を見ることができました。Ⅰサムエル167「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書かれています。彼らの動機や願い、隠れた所での行いを見ることができました。イエス様は、「その中は、強奪と放縦でいっぱいです」と言われました。強奪というのは、「引ったくる」「奪い取る」という、泥棒みたいなことです。放縦は、「不節制」「自制力のない」という意味です。なんと、「外側はきよくて正しく見えても、内側は強奪と放縦でいっぱいだった」ということです。「欲しくてたまらない。隙あらば、いただいちゃおう」「飲んで、食べて、楽しみたい」というのが本音でした。仮面の下から、ギラギラした目が見え、口元からよだれが垂れていたのです。まるで、中世の貴族たちが催した仮面舞踏会のようです。宗教もそのように、なってしまう傾向があるということです。「統一教会」というのが今も名前を変えてあるようです。彼らは人の相談を良く受けます。しかし、その人の家族構成や財産を調べています。その自身に価値がなければ、実家の土地財産に手を伸ばします。教団のために、30年くらい働かせて、年取ったらポイです。世の中にいろんな占いやカウンセラーやいますが、新興宗教と結びついているものがたくさんあります。外側はきよくて正しく見えても、内側は強奪と放縦でいっぱいです。

では、「私たちキリスト教会は大丈夫か?」というと、そうでもありません。もちろん、律法学者、パリサイ人、新興宗教の人たちとはレベル的には違うでしょう。でも、外側よりも内側に気を配る必要があるということです。昔は、それがあまりにも強調され過ぎていました。お化粧しない、服装も粗末で、贅沢は敵だという考えがありました。矛盾しているようですが、ある程度は、外側に気を配る必要はあると思います。私も生協に買い物に行きますが、「ああー、この人髪を染めたら、若く見えるのになー」と思うことがあります。「私自身が頭ボサボサで行ってるのに、人のこと言えないなー」と思いますが。話は戻りますが、教会が陥りやすい罪は、偽善です。外側を霊的に見せるということです。アメリカの教会のように、Sunday clothingに身を固め、しゃなりしゃなりと座席に着きます。教会の礼拝も伝統的でとても整然としています。手を上げて歌ったり、通路から出て、踊ったりはしません。途中で「アーメン」みたいな合図地も打ちません。礼拝が終わっても、大口を空けて笑ったりはしません。「感謝します」と軽く挨拶して、家に帰ります。そして、教会でかぶっていた仮面を脱ぎます。「ああー、やれやれ。ワーシップの歌、長かった―。鈴木牧師の話、つまらなかったー。」とか言います。横になって煎餅をかじって、録画していた韓国ドラマを見ます。平日はこの世の人と全く変わりありません。日曜日の朝になると、教会用の仮面をつけて行きます。「感謝します。恵まれました」と挨拶して、帰ってきます。そして、仮面を脱いで「ああー、やれやれ。鈴木牧師の話、ちょっとはマシだった」と言います。

 申し上げますが、礼拝は鈴木牧師の話を聞きに行くのではありません。当教会で自慢できることがあるとするなら、偽善者がほとんどいないということです。いや、全くいないということです。ハレルヤ!アーメン。なぜでしょう?牧師がありのままで生きているからです。少しは牧師らしくしてもらいたいのですが、みんな諦めています。最近、日本の教会では「霊性」ということがとても強調されています。おそらく、カトリックのヘンリ・ナーウェンの影響かと思われます。霊的な生活をとても強調して、日本人に好まれています。でも、あまりにも内省が多いように思います。内省とは自分に罪がないか、傷ついたところがないか見つめることです。しかし、バランス的には後ろ向きな感じがします。私は前からディボーションを強調しています。でも、自分も見つめること以上に、私をご覧になっておられるイエス様を見ます。イエス様から見た自分は、結構、慰められ、希望が与えられます。エリヤハウスも福音派に根付いて来て大変結構だと思います。でも、お互いの傷とか罪にポイントが行って、どうしても後ろ向きです。過去の根をほじくりすぎるところがあります。エリヤハウスはサンフォード師の預言者学校から生まれたものです。そして、預言とはその人の罪をあばくのではなく、泥の中に埋まっている宝を発見するものです。私は、本当の霊性はイエスさまを仰ぐことであり、主の臨在と共に生きることだと思います。旧約時代は杯や皿の外側に油を塗って聖別しました。今日的には、外側に聖霊の油注ぎを受ける必要があります。聖霊によって内側をきよめていただき、同時に、外側に聖霊の油注ぎanointing を受けましょう。

3.かたちよりも命を

マタイ2327-28「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」当時のお墓は、石灰で白くしていました。なぜなら、そこに触れると汚れるからです。イエス様は彼らを「白く塗った墓のようなものです」と言われました。考えるのもぞっとしますが、外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。マタイ23章は「ああ、わざわいだ」と偽善者たちを糾弾している箇所です。「白く塗った墓」のたとえは、23章の頂点と言えるかも知れません。それほど、表現が強烈だからです。バプテスマのヨハネもきつかったですが、イエス様も結構きついですね。これはどういうたとえかと言うと、彼らの生活が外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだということです。英語の聖書は、「外側は本当に美しく見える」と書いてあります。彼らは見せかけと虚偽のプロでした。この世にたくさんの詐欺師がいますが、彼らは宗教的な詐欺師でした。でも、それが何のメリットがあるのでしょう?人々から「先生」とか「父よ」と呼ばれるのがそんなに嬉しいのでしょうか?あるいは、宗教的な権威が与えられ、人々の上に立つことがそんなに名誉なことなのでしょうか?私も大教会の牧師になって、「先生」と呼ばれたら気持ちが良いかもしれません。60人くらいの会衆では、「ちょっと」という感じがします。つまり、自分に本質的なものがないなら、虚栄心を張りたくなるのかもしれません。虚栄心、自分を大きく見せたい。これは、人間の欲望であり、宗教はそれを満たすことができるのかもしれません。

でも、問題は中身です。外側は本当に美しく見えるかもしれません。では、内側はどうなのでしょうか?死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。考えるだけでもぞっとしますが、これこそが宗教が到達するところです。白く塗られた墓の下には、死があるということです。旧約聖書に、当時のイスラエルに対することばがあります。エレミヤ213「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」「湧き水である泉」とは、生ける真の神です。泉はたえず流れるので、いつも新鮮です。一方、水ためはどうでしょうか?流れないので、腐って虫が湧きます。当時、イスラエルは、まことの神ヤーウェから離れ、バアルの神さまを礼拝しました。バアルは偶像礼拝であり、人間的な宗教です。しかし、命がないので、罪と腐敗が生じてきます。人は真の神を捨てるとき、中立になるのではなく、直ちにまがいものの神を求め始めます。日本人がその典型です。日本人は「私は神なんか信じない」と言う人がたくさんいます。しかし、困ったときなどは、偶像の神さまに願います。いろんなジンクスを恐れて生きています。私たちキリスト教会はどうでしょうか?もちろん、イスラエルのような偶像礼拝はしません。しかし、命であられる真の神さまと交わっているかどうかです。教会でもイースターやクリスマスの年間行事、礼拝プログラム、毎月の役員会、年度総会、悪いわけではありません。しかし、聖霊様が介入する余地がないとするなら、人間的な宗教になってしまいます。もちろん、神さまは秩序の神さまですから、何か変わったことをすべきだということではありません。重要なのは、神さまの恵みはたえず流れているということです。人間の行事や時間の枠に留めることはできません。ある時、ランディ・クラーク師がトロント空港の近くの教会に招かれました。すると聖霊が降ってきて、40日間ぶっ続けで集会を持ったそうです。多くの癒しや奇跡が起こったので、そのニュースを聞いた人たちが国を超えて集まってきました。そこから、トロント・ブレッシングというリバイバルの流れが起こりました。でも、人々がそこで笑い出し、動物の声で鳴く人たちも現れました。本部のヴィンヤード教会は、「あそこは危ない」とヴィンヤードの群れから追い出したそうです。なぜなら、自分たちの理解の枠を超えていたからです。リバイバルは神さまの働きですが、カオス(混沌)も一緒に現れます。だからと言って、聖霊の流れを止めてはいけないと思います。

私たちはかたちよりも命を求めるべきです。外側の美しさ、見栄えも良いかもしれません。ヨーロッパに行くと、荘厳なカセードラル(寺院)がいっぱいあります。しかし、そこには命がなく、観光地になっています。なんと、イスラムの人たちが教会堂を購入しています。建物や伝統があっても、いのちがありません。聖霊様がそこにいないということです。聖霊様がいない教会はないと言うかもしれません。しかし、聖書には「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサ519)とあります。そうです。キリスト教会と言いながらも、聖霊が眠っておられる教会はたくさんあると思います。彼らは「奇跡とか預言は困ります。もうないのですから」と神さまを枠の中に入れています。彼らの神学や伝統が聖霊の自由な働きを締め出しているのです。まさしくそれは、こわれた水ためです。私は、日本の教団はそういう危機にあると思います。近年は、教団教派に縛られない教会が成長しています。なぜなら、聖霊の働きをいち早くキャッチして、その波に乗れるからです。ある人が言いました。「私たち人間は波を起こすことができません。波を起こすのは神の霊です。リバイバルとは、神さまが起こしてくれた波に乗ることです」と言いました。私たちはサーフィンの人たちから学ぶ必要があります。彼らは地味にパトリングをしながら波を待っています。波が来たなら、パッと乗ります。そして、できるだけ長くその波に乗ります。でも、その波は消えます。そうすると、彼らは次の波に乗り替えます。波は次から次とやってきます。重要なのは、その波をとらえて乗り続けることです。そして、その波が過ぎ去ったら、次の新しい波に乗り替えることです。ある人たちは昔のリバイバル、昔の成功に固執して、同じようなことを求めています。でも、神さまは全く、新しいことをするかもしれません。私たちの内側には、キリストのいのち、復活のいのちがあります。死に打ち勝つのは復活のいのちです。ヨハネ738 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」聖霊の川が私たちの中から、この世に向かって流れて出ていきますように。

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