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2017年10月13日 (金)

偽善者になるな マタイ23:13-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.15

 みなさんは、テレビや映画で好きな俳優はおられるでしょうか?「偽善者」は、もともとは、俳優がある役を演ずることから来ています。簡単に言うと、偽善者とは、信仰深いようなふりをしているということです。イエスさまは「わざわいだ」と律法学者やパリサイ人たちを糾弾しています。私も世の中からみると「宗教家」になりますので、耳が痛い箇所であります。でも、牧師は「教役者」と呼ばれますので、「役者」にならないように気を付けたいと思います。

1.間違った熱心 

 偽善者は、外見は熱心なので信仰深く見えます。新興宗教をしていられるほとんどの人は熱心です。人々は彼らの熱心さゆえに信じてしまうかもしれません。律法学者やパリサイ人たちは何故わざわいなのでしょうか?13節には「人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません」と書いてあります。つまり、人々が救われないように熱心に妨害しているということです。最初、バプテスマのヨハネが荒野で福音を語りました。そのとき、ヨハネは彼らに向かって「まむしのすえたち、…悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と警告しました。彼らは反対に、「ヨハネは悪霊につかれている」と悪く言いました。次にイエス様が福音を語りました。すると彼らは「イエスは食いしん坊の大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と批判しました。イエス様は「取税人や遊女たちの方が、あなたがたより先に神の国に入って入るのです」(マタイ2131と告げました。彼らは自分たちが拒絶しただけではなく、他の人が信じるのを妨げました。まるでそれは、天の御国の入口を塞いでいるようなものでした。福音書を見るとそのことが良くわかります。大勢の人たちがイエス様の教えを聞きに集まって来ました。そのとき、イエス様の周りに律法学者やパリサイ人たちが座りました。イエス様を睨みながら、あら捜しをしました。そして、色んな難問をふっかけ、イエス様を陥れようとしました。もし、私が礼拝メッセージ中、前の席の人から「そんなのウソだ。神なんかいない」と言われたらへこみますね。亀有教会の人たちは「アーメン。アーメン」と熱心に聞いておられます。演技をしていないことを信じます。

 14節には「やもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしている」と書いてあります。彼らは、弱くて頼る人もいないやもめに対して、長い祈りをしてあげました。いくらかでも、お布施をいただきたかったからです。「食いつぶし」というのは、「食い物にする」という意味です。新興宗教の人たちは病気の人や身寄りのない人たちの世話を良くします。一見親切そうに見えますが、票を獲得するためであったりします。私もある人のため癒しの祈りをしようとしました。すると「キリスト教も祈るのですか?」と言われました。おそらく「人の弱みに付け込んでいる」と警戒したのでしょう。今は、お年寄りの人に親切にすると、かえって怪しまれます。預金や財産目当てだと思われるからです。浦和に便利屋さんをしている牧師がおられます。ふすま貼りやクロス貼ります。いただいた代金はすべて教会に回して、自分は定まった給与を教会からいただいているそうです。ご用向きで行くと「え?牧師さんなの」とおどろかれるそうです。休憩の合間に、人生相談を受けるので伝道にもなるということです。イエス様は偽善の律法学者、パリサイ人に「おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます」と言われました。「罰を受ける」というのは「永遠の断罪を受ける」ということです。それだけ、弱い人たちを食い物にするというのは罪が重いということです。なぜなら、父なる神さまがそういう人たちを最も心配しているからです。イザヤ書58章に、神が好む断食について記されています。それは「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」(イザヤ587と書いてあります。初代教会では、教会あげてやもめたちの世話をしていました。しかし、配給のことで問題が起りました。そのとき、どうでも良い人たちが世話をしたのではありません。教会は、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を選んで、その仕事に当たらせました(使徒63)。それらは、とても重要であったということです。

 15節には、彼らは改宗者を得るためにとても熱心でありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。」「改宗者」というのは、ユダヤ教に改宗するという意味です。彼らの先祖は、バビロン捕囚のため国外に散らされました。そのとき、方々に会堂を建てて信仰を守っていました。イエス様の頃は、小アジヤやギリシャにも会堂があり、あちこちにユダヤ教徒がいました。それだけ伝道熱心であったということです。でも、その熱心は間違った熱心でありました。パウロがまだサウロであったとき、キリスト者を撲滅するために、とても熱心でした。しかし、復活の主に出会ったとき、キリストご自身を迫害していることであると悟りました。回心したパウロは、キリストを熱心に宣べ伝える人になりました。そして、今度はユダヤ教徒から命を狙われるようになりました。やがてパウロは小アジヤ、ギリシャ、ローマまで福音を伝えに行きました。しかし、強烈に迫害したのはユダヤ教徒たちでした。イエス様は彼らの弟子訓練を「自分より倍も悪いゲヘナの子にする」とおっしゃっています。最近はイスラムの過激派のことが報道されます。しかし、どうやって自爆テロにするのか不思議であります。若者たちに、間違った熱心を植え付けています。

 日本人は「まじめさ」とか、「熱心さ」をとても重んじる国です。しかし、その対象が真実で永続的なものであるかがより重要ではないでしょうか。なぜなら、悪魔だってまじめです。まじめに人々を誘惑し、悪い事をしているからです。また、「熱心さ」でもあぶない熱心があります。アイドルを自分だけのものにしたくて、何でもします。自己中心的な愛であり、相手のことを考えていません。若者たちが野外コンサートでずーっと立って、踊っているのをテレビで見るときがあります。あのエネルギーはどこから来るのだろうと不思議に思います。もっと、正しい使い道があるのではと「おじさん」は心配するのであります。パウロが律法主義のユダヤ教徒にこう述べています。ガラテヤ417「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」パウロの時も、一人の改宗者を得るために熱心であったということです。彼らの熱心は肉による熱心であり、聖霊から来たものではありまさせん。本当の熱心は神さまから来るものです。正しい福音理解と聖霊による恵みこそが、真の熱心であると信じます。パウロは「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ1211と言われました。異端の人たちは私たちよりも熱心なところがあります。それは一人でも多く改宗者を得るためです。私たちは教会や教団のためではなく、純粋な救霊愛を持ちたいと思います。肉の熱心さもある程度のところまでは行きます。しかし、私たちは聖霊による熱心さ、みことばに基づいた熱心さを持ちたいと思います。

2.間違った誓い方

 聖書の中に「誓い」が時々、出てきます。約束でもっと重要なものが「誓い」と言っても良いかもしれません。当時のユダヤ人、特に宗教家たちはいろんな誓いをしていたようです。でも、誓ったことは必ず守らなければなりません。律法学者やパリサイ人はどのような誓いをしていたのでしょうか?イエス様が彼らの誓い方を具体的に取り上げています。第一は神殿に関するものです。マタイ2316,17「『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。」これはどういう意味でしょう?彼らは神殿をさして誓ったものは、果たす必要がないと言っているのです。しかし、「神殿の黄金をさして誓ったなら、その誓いを果たさなければならない」と言いました。イエス様は黄金を聖いものにするのは神殿であり、神殿の方が大切なんだと言いました。つまり、神殿をさして誓ったなら、その誓いも果たさなければならないということです。さらにイエス様は21節で「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです」とおっしゃいました。神殿の背後には神さまがおられるのであり、それは神さまに誓っているのと同じだということです。つまり、律法学者やパリサイ人は何とか言い逃れができるように、へりくつを考えたのです。

 第二は祭壇に関するものです。マタイ23:18-19「 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。彼らは祭壇をさして誓ったものは、果たす必要がないと言っているのです。しかし、「祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない」と言いました。イエス様は供え物を聖いものにするのは祭壇であり、祭壇方が大切なんだと言いました。そして、20節で、「祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。」と言われました。私たちの頭ではちょっと理解できません。ユダヤ人は神の名を使うことを非常に恐れていました。こういうみことばが聖書にあります。レビ記1912「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」つまり、彼らは主の名によって誓うことはしませんでした。その代り、神殿とか祭壇に取り換えました。はたまた、黄金とか供え物をさして誓ったりしました。何をさして誓うかが問題とされました。しかし、イエス様は何に対してであっても、誓いは誓いなんだと言われました。

 第三は天を指して誓う誓いです。22節「天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」このことは、マタイ5章にも書かれています。「すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。」(マタイ534,35)と言われました。彼らは神以外のもので誓ったなら、果たさなくても良いと言い逃れを考えたのです。でも、天には神の御座があるので、神さまに誓っていることなのです。

イエス様は、すべての誓いが神にかかわっており、実行する責任があると教えました。しかし、もっと言うと、できそうもないことは誓わない方が良いということです。マタイ5章でイエス様はこうもおっしゃっています。マタイ537「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」それ以上のこととは、何かを指して誓うということです。「はい、…します」と言ったことをそのまま実行すれば、誓う必要はありません。「いいえ、…しません」と言ったことをまま守れば、誓う必要はありません。不誠実な人ほどよく誓います。「いのちをかけて誓います」「名誉にかけて誓います」「神かけて誓います」。まるでシェークスピアかヘミングウェイであります。つまり、演技をしているように思えます。演じている自分に酔っているのかもしれません。私は「きっと〇〇します」「絶対○○します」みたいなことは言わないように気を付けています。なぜなら、そうできなかった場合、信用を失うからです。でも、自分が言ったことばを実行しようとは務めています。詩篇にすばらしいみことばがあります。詩篇154「損になっても、立てた誓いは変えない。」とあります。私が23歳の頃、小さな貿易会社で働いていました。先輩の部長はクリスチャンで私を導いてくれた人です。あの頃は、インドやバングラディッシュ、アフガニスタンに中古衣料を輸出していました。ワイシャツや毛布が大変重宝され、梱包して横浜や神戸から送りました。最初は向こうのバイヤーと契約を交わします。その後、L.Cが送られてきたら出荷します。たとえば1キロ1ドルでワイシャツを取引きしたとします。ところが別のお客さんが1キロ1ドル30セントで買うと申し込んできました。ところが社長が口を挟み、前のお客さんには「もうない」と言え、新しいお客さんに売れというのです。先輩は最初、社長に従いました。でも、お客さんが長続きしません。なぜなら、信用を失っているからです。最後に先輩は「クリスチャンとして約束を破ることができません」と言いました。社長は「これが商売なんだ」と、かんかんに怒りました。社長が言うことを聞いてくれないので、先輩と私は会社を辞めることにしました。今、思えば、「せっかくあこがれの英語事務の仕事ができたのにもったいない」。でも、クリスチャンになってもっと大切なものがあると気付いたんですね。そのとき、先輩が教えてくれたみことばが詩篇154でした。「損になっても、立てた誓いは変えない。」のみことばで、あの時のことを思い出します。

 私は結婚式の司式のときも「誓いますか?」とは言いません。「約束しますか?」と少し柔らかめにします。でも、どうして「努力しますか?」ではダメなんでしょう。「努力します」の方が人間的で良いと思います。なぜなら、日本ではカップルの30%が離婚しているからです。教会で洗礼を受けた人も半分近くは、やがて教会に来なくなります。果たして、誓いや約束は重要なのでしょうか?聖書を見ると、神さまが私たちに向かって、誓いや約束を良くしていることがわかります。神さまはご自分の名前によって誓います。なぜなら、他に誓うべき対象がないからです。神さまがなされた誓いや約束は必ずなると信じます。でも、私たちはなぜ、誓ったり約束をするのでしょう?それは自分を制限するためです。自分はそれを必ず果たすんだという心構えができます。そうすると横道にそれたり、誘惑に負けることなく、ひたすら努力することができます。でも、人間は不完全なので、遂行、履行、遵守ということができないことがあります。ことばで誓う時はとても気持ちが良いです。でも、それを実行して行くには、地味でたゆまない努力が必要です。「言うは易し、行なうは難し」であります。箴言133「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」とあります。私も信仰によって大きなことを宣言することが多々あります。神さまから来たものでなければ、自分で自分を苦しめてしまいます。そういう意味で、信仰の宣言はもろ刃の剣かもしれません。神さまはご自分の誓いや約束を守るお方です。私たちも神のかたちに似せて造られたので、そういうところがあるのかもしれません。でも、主の恵みによって「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言うことを努めたいと思います。できるだけ言い逃れをせず、真実な道を歩みたいと思います。

3.目の見えぬ者たち

 16節には「目の見えぬ手引きども」17節には「目の見えぬ者たち」19「目の見えぬ者たち」2426節にもあります。なぜ、イエス様は律法学者やパリサイ人にそのようにおっしゃったのでしょうか?イエス様が「目が見える」というとき、ものの見方や考え方を言います。簡単に言うと、目が見えるというのは、物事の真実が分かるということです。英語でI seeは見えるだけではなく、understand「わかる」という意味もあります。では、なぜ律法学者やパリサイ人たちは見えなかったのでしょうか?その一つは、彼らは神さまではなく、人から良く見られたいという虚栄心がありました。内側はどうでもよくて、外側を信仰深く、霊的に見せようとしました。そのため、心が頑なになり、真実を見ようとする力がなくなったのです。彼らはこれまで何度もイエス様の教えを聞きました。また、何度もイエス様のメシヤとしてのしるしを見て来ました。なのに、嫉妬やプライドが邪魔して、イエス様を救い主として受け入れなかったのです。そのため、霊の目がふさがれ、ますます見えなくなったのです。それは、1つの呪いと言えます。本当に不思議です。彼らはいわば、聖書の専門家でした。聖書を研究し、聖書を良く覚えていました。聖書を知的には理解できたかもしれませんが、イエス様を認めなかったので、あるところでストップしてしまいました。聖書を理解するための鍵は、みことばご自身であるイエス・キリストが必要です。イエス・キリストを信じると霊の目が開かれ、聖書が分かります。聖書が分かるだけではなく、それを実行できる力も与えられます。ところが、肝心のイエス様を信じなかったので、真実も力もなく、外面だけを飾って生きる偽善者になるしかなかったのです。イエス様は種まきの譬えで、最後にこう言われました。マタイ1311-12「イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」パウロは、エペソ人への手紙1章で、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになるように」「あなたがたが知ることができますように」と祈っています。

 私たちは神さまの奥義を知りたいと思います。もっと、真実が分かるようになりたいと思います。そのことに対して旧約聖書に2つのみことばがあります。申命記2929「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」もう1つは、箴言252「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」2つのみことばに、共通していることは、神さまは何かを隠しておられるということです。それは神さまのものであり、神さまの栄光です。アダムとエバは「知識の木」から実を取って食べたので、ふたりの目が開かれました。理性的な目は開かれたかもしれませんが、霊的な目が塞がれてしまったということです。それ以来、私たちは何でも頭で理解するようになり、頭で理解できないものは存在しないもののように遠ざけてきました。でも、神さまは多くのものを隠しておられます。人は一生懸命、法則や真理を発見してきましたが、まだ多くのものが隠されています。私たちが知らないことはたくさんあります。隠されていることは神さまのものであり、隠すのは神の栄光です。でも、神さまは父なる神さまであり、王子や王女に見つけてもらいたいのです。父なる神さまは隠すのが目的ではなく、私たちのために見つけ出してもらいたいと願っているのです。律法学者やパリサイ人のような虚栄心ではその目が曇ってしまうでしょう。イエス様とパウロに共通しているのは、神の霊による理解です。頭の理解をこえた、聖霊がくださる理解力が必要です。そのためには、まず神さまと純粋で正直な関係が必要です。なぜなら、父なる神さまは親しい交わりの中で、ご自身の隠されたことを教えてくださるからです。父なる神さまはわが子に、隠されたことを教えてあげたいのです。いや、見つけ出してもらいたいのです。そして、共に喜びたいのです。うわべを飾る偽善者ではなく、子どものように素直で純真な心が必要です。イエス様のことばです。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(マタイ1125

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